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2015
06.30

公開Q&A(その9) ―因果応報だからすべては自分のせい?―

201506300019.jpg

 岩手県に在住するAさんからの人生相談です。

「どうして私の人生はこうなったんでしょうか?
 考えてみました。
 仕事を離れたのも、病気になったのも、誰のせいにもできず全部、自分のせいだということはわかりました。
 ああすればよかった、こうしたのが悪かったと、それも、よくよくわかりました。
 でも、せっかく因果応報が理解できても、今までの人生をやり直せないじゃありませんか。
 なぜ、という疑問は解けても、結局、自分を責めるしかありません。
 もう、袋小路です。
 困り果てました」

 まず、〈自分のせい〉という考え方に問題があるとしても、自分の外側にある事実を探求するだけでなく、自分自身に問題を見出すところまで突き詰めてお考えになられた成り行きを肯定しておかねばなりません。
 誰かのせいにする姿勢は結局、一生、不幸と不満と争いを背負う道だからです。
 こんなお話を申し上げました。

「そうですね。
 自分の人生がどうであるかについて、自分自身のありようが最も問われねばならないという点は、そのとおりでしょう。
 自分と社会や世界について苦しみ、考えぬいたお釈迦様も、自分自身が真理を観ていなかったことに気づかれました。
 そして、自分を含め、全てが因と縁で成り立っているこの世をありのままに観て、何かを不変の実在ととらえて愛憎さまざまに執着し苦しむ生き方を離れるよう説かれました。
 また、因は縁を伴い必ず結果をもたらす以上、よき結果としてのよき人生やよき人間関係などを求めるならば、自分自身がよき因をつくり、よき縁となる正しい道を歩めと説かれました。
 さて、この因果の法則は二つの面から考えねばなりません。

 一つは、精神世界と物質世界、言い換えれば、人間と自然という問題です。
 たとえば、嫁をいびっているつもりが、年をとるに従って、いつの間にか嫁にいびられるようになって辛い思いをするならば、これはほとんど精神世界、人間世界の因果応報です。
 しかし、どこも悪くなかったのに突然、大病を患ったり、天変地異の被害に遭ったりするのは、ほとんど物質世界、自然界の因果応報です。
 もちろん、二つが絡み合って実際の人生は展開されますが、後者の問題について自分自身を責めても仕方がありません。

 もう一つは、個人と社会、言い換えれば(ゴウ)と共業(グウゴウ)という問題です。
 たとえば、自分が古い食材を売りながら儲け、食中毒者が出て逮捕されれば個人的悪行(アクギョウ)のせいであり、個人的悪業(アクゴウ)が人生の暗転を招いたことになります。
 しかし、水銀汚染でやられた水俣の方々や、アスベストを吸い込んで胸をやられた方々の苦しみは、社会からもたらされたものであり、巨大な悪しき共業(グウゴウ)による被害者です。
 そうした企や社会を変えない限り、個人個人は悪影響に抗しきれません。

 このように因果関係をあらためて考えてみると、Aさんが仕事を離れた理由は、どこにあるでしょうか?
 病気になられた理由はどこにあるでしょうか?
 本当に全部〈自分のせい〉ですか?
 運命とは思われませんか?
 運命は、明るい面も暗い面も、自分だけで創る、創られるものではありません。
 たとえば、ご主人と結婚されたことを運命とは思われませんか?
 お子さんが授かったことを運命とは思われませんか?
 こうしてここに座っておられることを運命とは思われませんか?
 運命とは命を運ぶ流れであり、自分は運ばれている者です。
 もちろん、運命という河をどう泳ぐかは自分の泳ぎ方次第ですが、自分で河を造れると思うならば、それは思い上がりかも知れません。
 80才を超えたBさんがしみじみ言われました。
『80才になってようやく、生かされているということが強く実感できました。
 自分のはからいなど、たかが知れています。
 運命の中でここまで生きてきて、もうすぐ運命が閉じるという実感があります。
 ご本尊様の前に足を運び、写経をさせていただき、ようやく、ありがたいと心から思えるようになりました』

 因果応報を観るのは、運命を観ることでもあります。
 運命を観れば、自分の矮小さに気づきます。
 それは、自分の健気(ケナゲ)さ、哀(カナ)しくも愛(イト)しい哀れさに気づくことでもあります。
 朝、起きて顔を洗う自分を客観的に眺めてみてください。
 健気ではありませんか?
 ご主人を眺めてください。
 健気ではありませんか?
 遠くにいる娘さんを想像してみてください。
 健気ではありませんか?
 顔を洗えば食事をし、その日、一日を生きようとする小さな小さな一つの生命体……。
 そうして生きている人間誰もが、健気と言うしかないではありませんか。
 深い息をしながら想いを広げれば、生きとし生けるものすべてが健気です。

 こうして、ご自身の因果応報だけでなく、多面的な因果応報のからまりである運命を感得してください。
 健気で、愛しく、哀れな自分を責めることなどできましょうか。
 Aさんも私も、等しく、健気で、愛しく、哀れな存在です。
 生のある限り、共に笑い、共に泣きつつ生きようではありませんか」

(※プライバシーを充分、守られる文面になっています)




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2015
06.29

過去に学ぶ難しさ ―「これを教訓として」とは言うものの―

2015062900122.jpg

 私たちはよく「これを教訓として」と口にする。
 自分の体験や見聞きしたことをあらためて振り返り、事実を単に事実として終わらせず、そこに意味や意義を見出そうとする。
 そうして初めて、何かを「教」えられ、「訓(サト)」される。
 しかし、ことはそう簡単ではない。
 まず、煩悩(ボンノウ)が全面に出てくるからだ。

 好き、嫌い、無関心、楽しい、苦しい、どうでもよい。
 これが6つの煩悩である。

 たとえば、うっかり誰かの悪口を言った時、相手と通じている人に聴かれてしまい、表面をとり繕って成り立たせていた相手との関係が険悪になったとしよう。
 ここでは大きく分けて4つの選択肢がある。

 1 他人の悪口を言ってしまう自分の生き方を省みる。
 2 言いたい悪口は本音なので、これからも同じようにする。
 3 悪口に結びついた相手への評価をこの際、省みる。
 4 気分が悪いし、相手への悪い評価をますます募らせる。

 そして、具体的な行動としても4つが考えられる。

 A 自分の愚かさを心から詫び、相手との関係を修復し、深化させる。
 B こうなったのは元々、相手のせいだと考え、立ち聞きした人も含めてますます嫌いになる。
 C 相手をこの先も利用したいならば、謝るなどして何とかとり繕う。
 D 謝ってまで利用する必要がなければ、放置してしまうか、ますます悪口を言う。

 こう考えてみると、煩悩の恐ろしさがわかる。
 もしも、「あいつが嫌いだから」となれば、おのづから、2、4、B、Dとなることだろう。
 感情に流されている最中は気づかないだろうが、明らかに〈愚かな選択肢〉である。
 ちょっと落ち着けば、Cも選択肢へ入るかも知れない。

 ことほど左様に、過去を教訓とするには、自分の煩悩に流されないことが絶対の条件となる。

 昔、A君とB君はとても仲の良い間柄だった。
 ところがある時、皆で酒を飲んでいる最中、ふとした拍子にA君がB君へ面と向かって言う。
「俺、お前を嫌いなんだ」
 B君はその場を笑ってやり過ごしたが、その後、二人は二度と顔を合わせなくなった。
 B君は当初、〝あの野郎!〟と怒りが収まらなかった。
 しかし、このできごとをよく考えたらしい。
 そして気づく。
〝仲がよいふりをしていたが、本心では自分がA君を侮っていた。
 A君はそれをわかっていたにもかかわらず、つき合ってくれていたのだろう。
 済まなかった……。〟
 そのうち会って謝ろうとしていたが、A君が突然、死んでしまい、機会を逸した。
 B君は今でも、手を合わせては謝っているという。

 何かを教訓としたならば、ただちに実行したり、生き方を変えたりした方がよい。
 諸行(ショギョウ…現象世界のありとあらゆるもの)は無常である。
 『法句経(ホックキョウ)』の「無常品(ムジョウホン)」は説く。
 

「河の駛(スミヤカ)に流れて、往(ユ)いて返(カエ)らざるが如(ゴト)く、人命(ニンミョウ)も是(カク)の如(ゴト)く、逝(ユ)く者は還(カエ)らず。」


(川の水が絶え間なく流れ行き、二度と戻らないように、人のいのちもまた死へ向かって進みつつあり、死した者は二度と帰ってこない)
 

「是(コノ)日(ヒ)已(スデ)に過(ス)ぐれば、命(イノチ)則ち随って減(ゲン)ず、少水(ショウスイ)の魚(ウオ)の如(ゴト)し、斯(コ)れ何の楽みか有(ア)らん。」


(今日という一日が過ぎ行けば、それだけ寿命がすり減り、それはいつ干上がってもおかしくない小さな水たまりに小魚が住んでいるのと変わりなく、目前のわずかな楽しみなど、何と儚いものであろうか) 

 お釈迦様は、とうの昔に「今、やるしかない」と説かれた。
 本当に過去に学びたいならば、今、やるしかない。
 自分の煩悩を見すえつつ。




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2015
06.28

詩と歌の自動演奏 ―「秋の日のヴァイオリン」と「夕焼け小焼け」について―

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〈雨の中、『法楽農園』の草取りは続いています〉

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 言葉、詩、歌は不思議だ。
 魂から発せられたそれらは、発した当人の想像を絶する世界へと広がる。
 たとえば、落伍者を自認した小生はしばらく夢遊病者のようになり、ポール・ヴェルレーヌの『落葉(秋の歌)』から離れられなかった。
 満開の桜が人々の目線を上げさせる時も、カンカン照りの東京でバイクにまたがり酒の配達をしている最中も、学友と井上孚麿(タカマロ)教授の『憲法研究』について議論していても、あるいは高倉健扮する花田秀次郎に成り切って地下の映画館から朝の薄明かりへ出た時も、不意に、それはやってきた。
「秋の日の ヰ゛オロン(ヴァイオリン)の ためいきの ひたぶるに 身にしみて うら悲し。」
 さまざまな翻訳を読んでみたが、上田敏をしのぐものはないように思える。

「秋の日の
 ヰ゛オロンの
 ためいきの
 ひたぶるに
 身にしみて
 うら悲し。

 鐘のおとに
 胸ふたぎ
 色かへて
 涙ぐむ
 過ぎし日の
 おもひでや。

 げにわれは
 うらぶれて
 ここかしこ
 さだめなく
 とび散らふ
 落葉かな。」


 ただし、誰ともこの詩について語り合ったことはない。
 酒を酌み交わしてすら……。

 一方、夜になるとひんぱんに口をついて出る歌詞はひところ、周囲の人々と共有した。
 鶴田浩二の『赤と黒のブルース』である。
「夢をなくした奈落の底で、何をあえぐか影法師♪」
 奈落から離れた今、切なさはほとんど消え、ただ、懐かしさだけを伴って思い出される。

 最近、童謡『夕焼け小焼け』のエピソードを耳にして、調べてみた。
 大正12年(1923年)、教員のかたわら詩作を行っていた中村雨紅(ウコウ)の『夕焼け小焼け』は、草川信作曲で発表された。
 直後の関東大震災によって資料はほとんど消失したが、焼け残った13部の楽譜をもとに、雨紅夫人千代子の妹下田梅子(小学校教諭)が子供たちに唄って聴かせ、歌はたちまちに広まった。

「夕焼け 小焼けで 日が暮れて
 山のお寺の 鐘がなる
 おててつないで みなかえろう
 からすと いっしょに かえりましょ

 子供が かえった あとからは
 まるい大きな お月さま
 小鳥が夢を 見るころは
 空には きらきら 金の星」


 亡くなり、もう、家に帰れない無数の子供たち……。
 しかし、歌の中では手をつなぎ、仲良くみ仏の世界へ、心の故郷へと帰って行く。
 満月に迎えられた子供たちは、星々になり、夜空いっぱいにまたたいている。
 子供も、大人も、誰か彼かを失った当時の人々はいかなる思いでこの歌を唄ったのか?

 できごとはこれで終わらない。
 太平洋戦争が起こり、身体が弱かった中村雨紅の長男、喬(タカシ)は学徒動員に耐え終戦まで頑張ったが、翌昭和21年、23才の若さで他界した。
 その時、中村雨紅はようやく、大震災の後で『夕焼け小焼け』が人口に膾炙(カイシャ)した本当の理由を知ったという。
 自分が創った詩であり、歌でありながら、その世界をつかむために我が子を失わねばならなかったとは……。
 3年後、歌は小学校の教科書に推薦された。

 当山のある田舎町周辺では、いまだに、カラスが帰る夕刻、この曲を耳にする。
 そういえば、娑婆にいたころ、酒場で盛んに気炎を上げていた男たちはこのメロディーが流れると、急に里心がついたように酒と女たちから離れ、家路を急いだものだった。
 
 皆さんは朝起きた時、頭の芯でゆったりと何か、詩や歌が流れていませんか?
 それら人生の伴走者が動く朝は少々、ゆとりがあるのかも知れません。




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2015
06.27

生き仏に学ぶ ―『現代の偉人伝 第2巻 ―平成23・24・25年版―』の発行―

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 お大師様は説かれた。

「決して変化しない性質を持ったものはない。
 人もまた、悪者や愚者と定まった人はおらず、縁の次第によっては愚か者も悟りへの道を深く求め、教えに従えば凡人も賢者聖人の域へ近づけるであろう」

 原文の読み下し文である。

「物に定まれる性(ショウ)なし、人なんぞ常に悪からん。
 縁に遭うときは、すなわち庸愚(ヨウグ)も大道を庶(コ)い幾(ネガ)い、教に順ずるときは、すなわち凡夫も賢聖に斉(ヒト)しからんと思う」


 私たちには、ものごとを固定的に見て決めつけ、安心しようとする心理がある。
「Aさんは善い人だ」
「Bさんはバカだ」
「Cさんは私を好きだ」
「Dさんは私を嫌っている」
 決めつければ、あとは楽である。
 Aさんと会えば〈善い(はずの)人〉として相談し、約束ごとができる。
 Bさんと会えば〈バカな(はずの)人〉なので当てにせず、適当にしておけばよい。
 Cさんへは何でも話し、Dさんとはなるべく会わないようにする。

 こうして日常生活を過ごすが、時として、こんなはずではなかった!という実態が明らかになり、混乱し、窮地に陥ったりもする。
 ――善い人だとばかり思っていたのに、陰でとんでもないことをたくらんでいた。
 ――自分を認めてくれていたはずなのに、裏で悪口を言い、足を引っぱっていた。
 反対に、バカだとばかり思っていた人が人知れずボランティア活動に専心していたり、自分を嫌っているはずの人が困った時に真っ先に駆けつけてくれ、感激することなどもある。
 瞬間瞬間に変化し続ける自分の心の全体すらなかなかつかめない私たちは、他人の人間像全体など、簡単にわかるはずがない。
 そして、自分という意識は不動でも、心のありようは変化してやまず、誰かを好きになって成功を祈る一方、誰かを嫌いになり失敗を願う。

 こういう事実は何を教えているか?
「私たちは、〈今までの自分でない者〉になり得る」
 これではなかろうか?

 ならば、まず、「こうありたい」「こうでありたくない」と生き方のイメージを定めたい。
 ヒーローやヒロインの像を心に保ちたいし、反面教師も大切だ。
 本当の英雄たる人々は皆、生き仏であり、菩薩(ボサツ)である。
 これがお大師様の説かれた「縁に遭う」そして「教に順ずる」ことであり、「賢者聖人の域へ」少しでも近づく道ではなかろうか。

 今回、当ブログに連載している「現代の偉人伝」から、東日本大震災のあった平成23年、そして24年、25年の分をまとめて加筆修正し、一冊の本にまとめた。
 小生自身も偉人たちの生きざまを忘れぬようおりおりに繙(ヒモト)き、自分自身を戒め、活を入れると共に、偉人たちを話題にし続けたい。

 電話(022-346ー2106 AM9:00~PM5:00)やファクス(022-346-2107)、あるいはメール(ryuuchi@hourakuji.net)でお申し込みいただければお送りします。
(恐縮ながら、当山で印刷・製本しましたので500円の実費と、送料100円をお願いします)




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2015
06.26

なぜ、国会議員の信頼度は25パーセントしかないか? ―民度と選挙制度―

201506230001022.jpg
〈国の内外から〝プロ〟と認められた故後藤田正晴氏は何を語り遺したか〉

1 国会議員信頼度は25パーセント

 6月25日付の朝日新聞は「座標軸」において、国会議員への信頼度に関するデータに言及した。
 大阪商業大学JGSS研究センターが平成24年に行った調査結果である。

国会議員を『とても』あるいは『少しは』信頼している人は25%弱、他方、学者・研究者は約65%――。」

「ほかの社会制度の信頼度も調べていて、学者のほか自衛隊や裁判所、警察なども高い。
 70%を超える。
 あまり変動しない。
 海外での同種の調査でも似た傾向が見られる。
 国会や政党はしばしば信頼度が最も低い部類に入る。
 人々は自分が選んだ政治家より直接選んでいない専門家をもっと信頼しているようだ。
 党派性に染まっていない人たちの方が公正な判断や行動ができると思うからではないだろうか。」


2 最初からプロ国会議員はいない

 論説主幹大野博人氏は「党派性に染まっていない人たちの方が公正な判断や行動ができる」と指摘しておられるが、国会議員が信頼されない理由はもう一つあるのではないか。
 それは、大変失礼ながら、〈最初からプロである人は一人もいない〉ことである。
 専門家、つまりプロとして認められる人々は、必ず、並はずれた研鑽を重ね、専門分野における知見、技術などに圧倒的な力量を示し、社会がその力量を一定以上のレベルであると認定されねばならない。
 建築家、法律家、歴史家 作家、評論家、漫画家、武道家、登山家、料理家、宗教家、どれをとっても、「~家」と呼ばれる専門家は上記の条件に当てはまる。
 医師、教師、仏師、などもそうであり、弁護士、公認会計士、力士なども同様の条件を満たしてこそ、プロである。
 しかし、政治家だけは違う。

 もちろん、そうなるには理由がある。
 一般国民が一般国民から代表者を選ぶというシステムそのものが、最初から〈プロ〉というものを想定していない。
 だから、政治家に対する「25%」という信頼度は、選ばれる方だけでなく、選ぶ立場の人々自身への信頼度でもあるのだろう。

 こう考えると、私たちの社会が〈信頼に足る〉政治家によって運営されたいと望むならば、まず、私たち自身が政治へ関心を持ち、それぞれなりの立場でよく考え、意思表明の機会である選挙という大切な機会をしっかり生かさねばならない。
 もしも、〈選挙した自分〉を50%信頼できるようになれば、政治家への信頼度も50パーセントに上がるのではなかろうか。

3 小選挙区制では〈人物〉を選べない

 国会議員の信頼度を上げるために欠かせないもう一つの方法は、政党が同一選挙区で一人しか候補者を擁立しないという小選挙区制の撤廃である。
 私たちが国会議員を選ぶ際の大きなポイントは二つ、人格と識見である。
 ところが、政策を選ぶたてまえの小選挙区制では、政党の都合で選ばれたたった一人しか、政策を担えない。
 候補者の人となりをよく知っている地元有権者の中に、「ああいう人では困る」と考えている人が一定程度いても、政党の調査によって当選の確率が認められれば唯一の候補者となり、政策というカンバンだけで当選してしまう。
 同じ政策の実現にかける複数の候補者の中から選ぶシステムになっていればこそ、有権者は、その中の誰が、人格的にふさわしいか、識見的にふさわしいかの選択ができる。
 小選挙区制にあっては、選ばれる議員を最初から国会の議決における〈一票〉とのみ、見なすかのようであり、事実上、〈人間〉としては選ばれていないに等しい。
 こうした選挙制度では、政治が政治家と政党の都合によって進められかねず、広く人間のために行われるはずの政治から人間性が失われることになりかねない。

 ルールというものは恐ろしい。
 ルールが決まれば、結果が決まるに限りなく等しいからである。
 香港で激しい民主化の行動が起きているのは、次期行政長官選挙という圧倒的権力者を選ぶルールが、中国共産党の意志を必ず反映する結果を予測させるからである。
 日本の国会で選挙制度や一票の格差といった問題がなかなか根本的な解決へ向かわないのは、中国共産党同様、今現在、権力を握っている人々の思惑があるからだろう。
 実態をよく見すえたい。

 国会議員への信頼度調査は大きく報道され、私たちが自分自身を振り返り、自分たちで作った制度を振り返るきっかけになることが望ましいと思う。
(托鉢からこの道へ入った小生自身、未熟なままで袈裟衣を着け、み仏のお力へおすがりし、生かしていただきました。
 ご縁の方々へ対する罪滅ぼし、ご恩返しの意識は薄れません。
 本当のプロを目ざし、ますます精進するつもりです。
 やむにやまれず、忸怩たる思いを胸に拙文を書きました。合掌)




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2015
06.25

お葬式を行えば何が変わる? ―枕経や引導の現場から―

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〈個別型永代供養樹木葬法楽陵』の工事は着々と進んでいます〉

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〈土が漏れ出さないよう、自然石一つ一つの間へ割った石片を丁寧に挟み込んで行く庭師さん〉

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〈この時期の七ツ森は最高です〉

 友人の人生相談についてきたAさんから突然、ご質問があった。
「お葬式をすると、何が変わるんですか?
 俺たちは正直、お葬式は別にやらなくたっていいと思ってるんですが……。」

 正直なAさんにゆっくりお答えした。
「そうですね。
 私は輪廻転生(リンネテンショウ)によって何度も死んだ経験をしているはずですが、その記憶はこの世に生まれてくる時に上書きされるらしく、思い出せません。
 だから、自分自身の体験に基づいたお話はできません。
 でも、修法を行うと亡くなった方(カタ)に何らかの変化が起こるという経験はいろいろあります。

 たとえば、自死した少女の唇へ散杖(サンジョウ)で香水(コウズイ)を落とし、数珠をご遺体へ当ててご加持(カジ)を行ったところ、花のような得も言われぬ佳い香りが立ち昇り、参列していた方々の嗚咽が高まったことがあります。
 修法前、『娘は何を言いたかったのか』と悩んでいたお父さんは、『娘が言いたかったことはこれからだんだん、わかるような気がします』と涙を浮かべられました。

 また、遠くに住む息子さんが臨終の場に間に合わず、枕経に駆けつけられた時のできごとです。
 光明真言を唱え、ご加持を終えた瞬間、亡くなった方がフーッと一息、安心したような溜息を漏らされました。
 修法前、『苦労して私を育ててくれたおふくろはきっと、言いたいことがあったろうに、済まなかった……』と泣いていた息子さんは、『何を言いたかったか、わかるような気がします』と頭を下げられました。

 また、友人のご葬儀に参列した学友Bさんのお話です。
『ご住職が引導を渡された瞬間、遺影の上方にあいつの顔が浮かびました。ずいぶん、苦しみながら逝ったはずなのに、昔の笑顔そのままでした。』
 故人の魂を感得して引導を渡す導師としては、自分が相手と対面する経験は決してめずらしくありません。
 でも、ご参列の方がはっきりと感じとられたのは、ありがたいことだと思います。

 また、斎場で最後のお別れを行った時のできごとです。
 大問題を起こし、不慮の最期を迎えた方なので、参列者の間にどこかザワザワした雰囲気がありました。
 でも、心身を天地へお還しし、お不動様のお導きでこの世から解き放たれる法を結んだ瞬間、ざわめきは嘘のように静まりかえりました。
 故人との関係上、自分の気持にとらわれていた参列者の皆さんがようやく、み仏と御霊の〈尊厳の世界〉を感じとってくださったのだろうと思いました。
 み仏のお導きには、善人と悪人の区別はありません
 人はひとしく、故郷であるみ仏の世界へ帰って行くのです。

 こうしたことごとを体験しつつ祈り、修法している身としては、皆さんに申し上げたいことは一つしかありません。
 僧侶という〈現場〉にたずさわる者から直接、話を聴き、自分で真実をつかみ、人を、あるいはペットを送るという人生上の大事を軽々しくやり過ごさないでください。
 誰かの死を軽んじるのは、自分の人生を軽んじることにつながるのではないでしょうか。
 小生のこの思いは、人が死ぬ戦争の〈現場〉をよく想像することによって、何としても戦争を避けたいという信念を持っていただきたいという願いに通じています。

 こんなところです。
 答になっているでしょうか?」




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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA





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2015
06.24

因果応報と輪廻転生 ―『生と死そして愛とカルマ』の発行について―

20150623000101.jpg
〈オリンピア印刷株式会社様の製本です〉

 仏法の根幹は、この世のありとあらゆるものが直接的な原因である「因」と、間接的な原因である「縁」とによって仮そめに〈在る〉という空(クウ)の把握にある。
 きちんと空を観ることができれば、勝手な執着心がなくなり、根本的な苦も薄れてゆく。

 すべてが因縁による結果すなわち「果」として生じるならば、善き果を求める者は善き因縁をつくる努力をすればよい。
 悪しき因縁をつくる者は、必ず悪しき果を引き受けねばならない。
 シンプルだ。

 こうした因縁の糸は、私たちがこの世に生まれ落ちてから突然現れ、死ねば無になってしまうはずはない。
 お釈迦様は繰り返し、生まれ変わり死に変わりしている実態を観よと説かれた。
 輪廻転生(リンネテンショウ)である。
 お釈迦様の言葉である。

「二軒の家の間に立っている人が、その家人たちが一方の家から出てもう一方の家に入ったり出たりするのをありありと観察することができるように、私は生命の転生(テンショウ)を知る天眼通(テンゲンツウ)によって、衆生(シュジョウ)がカルマに牽かれて善い境遇や悪い境遇に転生することを、そして、それぞれの転生先で優劣美醜の差を得ることを知っています。
 ……比丘たちよ、このことを私は、他の沙門やバラモンたちから聞いて語っているのではありません。
 そうではなく、私が自分で知った、自分で見た、自分で体験した、そのことだけを私は語っているのです。」


 こうまではっきりおっしゃっているのに、頭で考えようとする私たちは苦しむ。
〝生まれ変わる主体は誰だろう?
 すべては空ならば、そうした永遠の存在はないはずなのに……。
 ましてや、人がウサギやヘビになることなど、あり得ない……〟
 明治以来の日本の学会も仏教界もこうだったのではないか?
 そして、輪廻転生を無視するか、否定してきたのではないか?

 だからお釈迦様は、悟られてから、これは誰も理解できまいと考え、そのまま法楽の境地に入っておられた。
 しかし、梵天(ボンテン)に強く請われ、説法の生活を始められた。
 お釈迦様は人々の苦や問いに応えて因果応報輪廻転生などを説き、多くの人々をお救いになられたが、経典を読むと、普通の人がどんどんアラカンのレベルまで理解を深める様子に驚く。
 救われるとは、〈真理に目覚め、善く生きるようになる〉ということである。
 
 凡夫が悟った理由は、ことの成り行きを眺めればわかる。
 それらの凡夫は皆、愛する人の死などに追いつめられているか、もしくは深い疑問や不安などで自分を追いつめているか、どちらかだった。
 絶望の淵に立ち、苦悩の極まりで呻く人々の心へ、お釈迦様の言葉は文字どおり魂を潤し心身のこわばりを解く甘露として沁み入ったものと思われる。
 だからこそ、凡夫でも、お釈迦様が「自分で知った、自分で見た、自分で体験した」ことの追体験に近づくことができた。
 因果応報輪廻転生が、ストンと腑に落ちたのである。

 さて、仏法の根幹について実践者の立場から説かれた貴重な本が、平成6年発行の『ダライ・ラマ「死の謎」を説く』である。
 第二章は「輪廻転生の法則 (来世、人は何に生まれ変わるのか)」であり、第三章は「カルマの法則 (どうすれば、煩悩から解放されるか)」である。
 当山は、当ブログでこの本についてメモを重ねてきたが、このたび、大幅に加筆修正し、『生と死そして愛とカルマ』の一冊(A5版219ページ)にまとめた。
 何も「絶望の淵に立ち、苦悩の極まりで呻く」方々だけでなくとも、関心がおありの方には繙いていただきたい。
 ダライ・ラマ法王のお慈悲と叡智に触れつつ、根本問題をお考えいただきたい。

 学者でも高僧でもない一介の行者の拙い感想と拙い文章が何かのお役に立てれば本望です。
 電話(022-346ー2106 AM9:00~PM5:00)やファクス(022-346-2107)、あるいはメール(ryuuchi@hourakuji.net)でお申し込みいただければお送りします。
(恐縮ながら、オリンピア印刷株式会社様の製本によるものは1000円、当山で印刷したものは500円の実費と、送料をお願いします)




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 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2015
06.23

戦争から帰還し、帰宅できなかった兵士

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〈一天、俄にかき曇りましたが噴火ではありません〉

 兵士としてベトナム戦争に従事していた息子戦場から帰国した。
 家で待つ父親へ電話をかける。
「お父さん、帰って来ました」
 父親は狂喜する。
「おお、よかった、すぐ、迎えに行くぞ」

「ありがとう、でも話があるんだけど……」
「どうした」

「お父さん、両足を失った友人がいるんだけど、ちょっと連れていっていいかな?」
「そうか、お気の毒なことをしたな、いいとも、連れておいで」
「お父さん、ありがとう」

 これで電話は切れない。
「お父さん、話があるんだけど……」
「まだ、何かあるのか、どうしたんだ?」
「お父さん、友人と一緒に住んでもいいかな?」

 父親はすぐに返答できず、両者の間で沈黙が続く。
 やがて、息子は言う。
「そうだよね、両足がない人と一緒じゃ大変だよね、無理をしなくていいよ」

 電話が終わり、父親は約束した場所へ急ぐ。
 ところが息子はいない。
 係の人へ消息を訊ねると、自殺したと告げられる。
 両足を失ったのは友人ではなく、息子だった。
 親孝行な息子は、だんだんと年老いて行く父親へ自分を養わせることに耐えられず、帰宅しなかった。

 これは、アメリカへ研修にでかけた先輩僧侶が、かつて、耳にした実話である。




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2015
06.23

深発地震が教えるもの ―「つつしむ」は67、「すすむ」は14―

201506230001
〈3枚の図は日経新聞様よりお借りして加工しました〉

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201506230003

 6月1日、日経新聞ニュースは「列島全域グラリ 『深発地震』のメカニズム」を報じた。
 一部を記録しておきたい。

 5月30日夜、小笠原諸島西方沖を震源とするマグニチュード(M)8.1の地震が発生した。
 震源に近い東京都小笠原村の母島に加え、遠く離れた神奈川県二宮町でも震度5強を観測。
 しかも北海道から沖縄まで、全国で震度1以上の揺れを記録する珍しい地震だった。
 震源の深さが682キロメートルと非常に深かったのが原因だ。
 このため正確な震度の予測も難しく、気象庁は緊急地震速報を出さなかった。
 今回のような『深発地震』、普通の地震とは起きる仕組みが異なるという。

■「深発地震」って?

『一般に深さ100キロメートルよりも深いところで発生する地震のことを指す。
 別のプレートの下に沈み込む海のプレートの内部で発生する。
 震源は700キロメートルの深さに達するものもあるという。』

『小笠原諸島付近では、太平洋プレートがフィリピン海プレートの下に約50度の角度で急激に沈み込んでいる。』

『この湾曲部では、ひずみがたまり続ける。
 耐えきれなくなると、巨大な亀裂が発生して地震が起きる。
 今回の地震はプレートの下部で発生したとみられ、震源が深かったと考えられる。』

■全国で揺れを観測

『5月30日、記者会見した気象庁の中村浩二地震情報企画官は広範囲の揺れの要因について、「沈み込んだ太平洋プレート内のかなり深いところが震源だったため、プレートに沿って地震波が遠くまで伝わった」と説明した。』

『今回の地震は震源が日本列島から遠かったため、被害が小さかった。
 地震波は固いプレートの内部を伝わるときは弱まりにくく、陸地の真下で起きた場合は被害が大きくなる。』

■高層ビル揺らした「長周期地震動」

 今回の地震では高層ビルのエレベーターが一時停止し、身動きがとれなくなるケースが相次いだ。
 高いビルで大きな揺れを感じた人も多いはず。
 震源から遠く離れた場所でも大きく揺れる「長周期地震動」が、関東を中心に観測された。

『気象庁によると、地震波はさまざまな揺れの「成分」を持っており、ガタガタという短い周期の揺れのほか、ゆっくりとした長い周期の揺れもある。
 これが長周期地震動で、地震の規模が大きくなるほど発生しやすい。
 短周期の揺れより衰えにくいため、遠くまで伝わるという特徴がある。』

『今回の地震では、長野県中部や神奈川県東部などで長周期地震動の「階級2」を観測。
 宮城県から大阪府にかけては「階級1」を観測した地域があった。』

『気象庁は階級2について「物につかまらないと歩くことが困難」、階級1は「ブラインドなどが大きく揺れる」などとしている。
 揺れの大きさによっては家具の転倒や移動のほか、エレベーターの停止の恐れもあるといい、日頃からの心構えも重要だ。』

 以上を読むと、いくつかの事実が確認される。
1 マグニチュード(M)8.1、震度5強まで達した地震に日本全国、津々浦々まで揺れ、揺れなかった場所はない。
2 深発地震は震度の予測も難しく、気象庁は緊急地震速報を出せなかった。
3 今回は震源が日本列島から遠かったので大過なく済んだが、近くで起きれば大きな被害が発生し得る。
4 震源から遠い場所でも大きく揺れる「長周期地震動」への備えが必要である。

 原発安全性を考える場合、〈活断層が近くにあるかどうか〉ということなどは、ほとんど決め手にならないことが明らかになった。
 全体が揺れる日本列島のどこにも安全が保証される場所はない。
 今回はたまたま、震源が遠いために被害が小さかっただけで、いつ、もっと近くで起こり、大規模な被害が生じたとしても、何の不思議もない。
 古来、先人たちは、天変地異に際して、身をんだ。
 この「」は、死者となり永遠の世界へ還って行った霊を丁重に扱い、巨大な霊力による災いが起こらぬよう、お鎮まりいただくという意味がある。
 また恭しむの「共」が示すとおり、両手で捧げものを奉ずるということも行った。
 そして、頭を垂れて畏(ツツ)しみもした。
 人間の思惑や、はからいや、浅知恵を超えた何ものかを感じ、素直にふるまいを制した。
 思えば、人類は、他の生類(ショウルイ)とはまったく次元の異なる非自然あるいは反自然的ふるまいをしつつ、ここまで生き延びてきたが、それが可能だったのは、おりおりに「つつしむ」という一呼吸を置きながら歩んできたからではなかったか?
 私たちは阪神淡路大震災、東日本大震災、そして火山の噴火や地震の頻発といった人間のコントロールが効かない事態を前にしてなお、忌(ツツシ)まず、斎(ツツシ)まず、謹(ツツシ)まず、謙(ツツシ)まず、厳(ツツシ)まず、都合に合わせてつくったモノサシを振りかざして安全を叫び、このまま突き進むなど、許され得ようか?

 白川静著『字統』には「つつしむ」と読む文字が67個、示されている。
 ちなみに「すすむ」は、進むなど14個しかない。
 子々孫々のため、私たちは何としてもみたい。
 大自然への畏敬の念を思い起こし、みたい。
 



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2015
06.22

仏滅は悪い日か? ―バナナと石の話―

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 一軒一軒と訪ね、托鉢(タクハツ)をしていると、「今日は仏滅で日が悪いから」と断られたことが幾度もあった。
 では、仏が滅すると書く仏滅とは何か?
 
 すべてを無常と観て空(クウ)を知る仏教においては、仏滅を悪い〈運命〉とは考えない。
 その日が悪い日になるのではなく、み仏すなわち、まっとうに生きる道を究め、お導きくださる存在をないがしろにせぬよう、気をつけたいという〈自分への注意〉が大切である。
 だから、仏滅にはいっそう仏心を失わぬようにし、よきことをどんどん行えば、よき日になる。

 仏滅に生まれたから禍々(マガマガ)しい運命を生きると怖れるのも、大安に亡くなれば極楽へ行けると楽観するのも、いかがなものか。
 友引には、よいことがつながるよう、を大切にする気持でいれば、そうした結果が出やすくなるし、悪しきことは連鎖せぬよう気をつけたい。
 何ごとであれ、長く伝えられたものには生かしようがある。
 むやみに怖れ縛られるのではなく、無視して平板に過ごすのでもなく、智慧をはたらかせて日々をあらたな気持で活き活きと生きたい。
 仏滅や大安などの六曜は、のんべんだらりと怠惰に生きず、日々にアクセントをつけるため、ご先祖様が智慧を絞ってお伝えくださったポイントと考えたい。

 当山では、古来、伝えられてきたものを「これは迷信」「あれは俗信」と、むやみに否定はせず、何ごとも〈生かしよう〉を考えている。
 だから、ご遺族のご希望があれば友引に当たるからお葬式を行わないわけではなく、厄年だから結婚式や開店を延期したら?と躊躇させもしない。
 すべての人が持っている仏性も、故人のお人柄も、むやみに周囲の人々をあの世へ引っぱることはないと信じて、ねんごろに弔う。
 注意しようという心理になっている時は、慎重な姿勢で新たな人生も事業も始めればよい。

 インドネシアのポソ族に伝わる神話である。

「はじめ人間は、神が縄に結んで天空からつりおろしてくれるバナナの実を食べて、いつまでも命をつないでいたが、あるときバナナの代わりに石が降ってきたので、食うことのできない石などに用はないと、神に向かって怒った。
 すると神は石を引っ込めてまたバナナをおろしてやったが、そのあとで『石を受け取っておけば、人間の寿命は石のように堅く永く続くはずであったのに、これを斥けてバナナの実を望んだために、人の命は、今後バナナの実のように短く朽ち果てるぞ』と告げた。
 それ以来、人間の寿命が短くなって、死が生ずるようになった。」(村松武雄著『日本神話の研究』)

 今日は何の日?
 変化、無常はこの世の常である。
 無視せず、とらわれず、頑なでなくゆったりした気持と智慧で日々、変化するを生かしたい。




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2015
06.21

本は無価値か?

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 最近、思うところがあり、何日もかけて蔵書の一部処分をはかった。
 ある巨大組織Aが送料無料で何でも買い取るサービスを始めたことにも背中を押された。
 ところが、買い取り価格の資料を確認して送ったところ、古びているなど現物評価が低いとされ、雀の涙ほどの価値しか認められず、大量に送り返されるという惨憺たる結果になった。
 しからばと老舗のB,Cへも書き込みなどの少ないたちを送ってみた。
 まことに丁寧なる対応ではあったが、やはり、ほとんど〈無価値〉であることを悟らされた。

 こうして、は、関心を持った人にとってしか価値がないというあたりまえの事実を再認識させられた。
 それは、関心のあるものしか買わない、関心を持たれるものしか売れないという流通上の事実とはちょっと異なる事情を意味する。
 たとえば目の前に200冊のがあるとする。
 これらのが〈在る〉とはいかなることを意味するか?
 それは、表紙が目に入るという事実だけで無意識の回路がはたらくきっかけを確保し、頭のニューロンがピピッと反応して手に取れば、一気に膨大なニューロンたちの饗宴が始まってくれるという〈心の蔵〉の存在、あるいは、〈心の蔵〉へ入る扉の確保といったところだろうか。
 だから、お大師様や南方熊楠などを目標にするならいざ知らず、凡人にとっては全文を読み、全部を覚えている必要はないし、無論、そうはできもしない。

 たとえば、桜井哲夫著『廃墟の残響 戦後漫画の現像』が目に入れば、片腕を失いながら生き延びた水木しげる氏の見た戦場の現実が想起され、『ダライ・ラマ 生き方の探求』が目に入れば、祖国が消滅させられそうになってなお、敵国や敵国の指導者を憎まず、あくまでも慈悲心と智慧をもって解決しようとする聖者の日々に憧れる。
 そして手に取れば、若き日の石森章太郎が空腹のあまり倒れた話に涙し、人情家寺田ヒロオが商業主義についてゆけず、「ゆるやかに存在を消していき、六十一際で亡くなった」様子に合掌する。
 あるいは、ダライ・ラマ法王の呼びかけに背筋が伸びる。
「怠惰な態度はなくす必要があり、真摯な努力をなすべきです。
『善き心』をもち『悪しき心』は捨てる、この二つはとても大切です。
『善き心』をもってください。」
 こうして、この二冊は、関心を持つ小生にとってのみ価値を持つ。
 は読者の人生と共にあり、共にしかない。
 こう書いているうちに、処分をやめる決心がついた。
 職員さんなどの邪魔にならないところへ移し、小生の頭がまともにはたらくうちは、背表紙を観ることにしよう。
 後のことは、後のこと……。

 皆さんご存じのとおり、ネットで検索し必要な情報として文章を読む作業と、の背表紙が視界に入る空間で時間を過ごすことは、まったく別ものです。
 本を大切にしましょう。




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2015
06.20

法話と座談の会 ―どう生きようか―

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〈藤原新也著『メメント・モリ』よりお借りして加工しました〉

 第六十五回寺子屋『法楽館』 では、法話と座談の会を行います。

 東日本大震災で立ち止まってから4年を過ぎた私たちはどう生きればよいのでしょうか?
 あの時、あれから、亡くなった方も、生きた方も、私たちへ確かな〈後光〉を見せました。
 事務室で衛星電話を取り外し、バトンタッチしたまま津波に呑み込まれた高田病院事務局長横沢茂氏、交番に残って避難を指揮した大船渡署交番所長高橋俊一氏、夫、長男、長女を失ったまま被災者を救い続けた仙石病院看護部長尾形妙子氏、開幕戦で「絶対に見せましょう、東北の底力を」と訴え、優勝を果たした東北楽天イーグルスのキャプテン嶋基宏選手、……。
 こうした方々の姿勢こそ、〈震災後〉のみならず、私たちがいかに生きるべきかを教えていると言えるのではないでしょうか?
 現代の偉人とも呼ぶべき方々に学び、考えてみませんか。

 また、大震災によって、私たちは〈いつでも死に得る者〉であるという事実に、あらためて気づかされました。
 ならば、いつ死んでもいいように今を生きる姿勢が必要ではないでしょうか?
 因果応報(インガオウホウ)、この世の生きざまは必ず何らかの結果をもたらし、その因縁の糸は時空を超えて、輪廻転生(リンネテンショウ)をもたらします。
 お釈迦様が説かれた生まれ変わり死に変わりは、深く探求され、仏教の根幹となっています。
 ダライ・ラマ法王法はそこを明確に説かれました。
 共に学び、考えてみませんか。 

○日時:7月11日(土)午後1時より3時まで
○場所:地下鉄泉中央駅前『イズミティ21』和室(イス席もあります)
○ご志納金:1000円 中学生以下500円(お菓子、飲物付)




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「おん あらはしゃのう」
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2015
06.19

大調和と生類の話 ―佐伯剛氏と石牟礼道子氏の対談に想う─

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 佐伯剛氏発行の『風の旅人』第48号に、氏と石牟礼道子氏の対談「生類の命と、大調和の世界」が載っている。

 佐伯剛氏は言う。

「2011年3月11日の大震災の後、日本の灯りは暗くなり、人びとの心は少し慎ましくなった。」


 私たちが生きている環境はあくまでも大自然の掌にあり、人間は脆弱な身体を持つ生きものの一種であることを再認識させられたからこそ、「慎ましく」なった。
 そして、日本の空気が変わった。

「しみじみと自分の人生と向き合う空気になっていた。」


 テレビに映し出される光景はあまりに圧倒的だったので、誰しもが〝ここは大丈夫〟と〈対岸の火事〉を決め込んでノウノウとしてはいられなかった。
 山に住めば崖崩れ、里に住めば洪水、街に住めばビルなどの倒壊、そして、狭い日本のどこにいようとも免れ得ない被曝が想像され、恐怖と不安を味わった。
 より大きな熊手を作ってモノ金を集め、世間でのし上がる意志などが哀れなほど小さなものでしかなく、今さらながらに、〈生きている自分〉の儚い確かさを愛おしんだ。

 被災地を訪れて茫漠たる泥地に立った小生は、人間の気配が消えただけでなく、あらゆる生きものの気配が消えた圧倒的静寂に立ちすくんだ。
 寄せては返す潮騒が耳に届いてはいるのだが、それはもはや、この世の音ではなかった。
 天地に満ちる陽光もまた、この世の光ではなかった。
 いのちの絶えた世界は、〈この世〉ではない。

 長くパーキンソン病を患い、90才を超えた石牟礼道子は「人間世界の現状を深く憂いつつ」、佐伯剛氏と語り合い、「生類(ショウルイ)」に言及した。
 佐伯剛氏。

白川静さんか、風の旅人の連載の最後に書いてくださいました。
風の旅人 第15号を見せながら)この部分です。
 天の命ずるところは、人にとってまったく所与的なものであり、絶対的なものである。
 そのことを無視して、恣意的な生活が可能であるとするのは、現代の人々の妄想に過ぎない。
 自然の秩序はあらゆる生物の世界に及んでおり、そこに大調和の世界がある。
 人間の思考は精彩を極めているが、それはこの大調和の世界から決して逸脱しうるものではない、という内容です。
 生類の都というのは、そういう大調和のなかで、人間がより良い世界への憧れを抱き、想像力豊かに、色々な物語を作り出しながら生きていくところなのでしょうね。」


 石牟礼道子氏。

「私は、人類という言葉は使いたくありません。
 人間も含めて全て生類で、私は生類たちには魂があると思っています。
 東京あたりの市民活動家の方と会うと、『石牟礼さんは、〝魂〟とよくおっしゃるけれど、眼に見えないものを信じるのか』って言われたことがありまして、びっくりしましてね。
 魂があるから、ご先祖を感じることができるでしょ。
 みんなご先祖を持っているわけですね。
 それは人間だけでなくて、草や木にも魂があって、いつでも先祖帰りをすることができる。
 それは、美に憧れるのと同じだと思います。
 美しいもの、より良いものに憧れる……、そう私は思っていまして。
 眼に見えないものをなぜ信じるのかと問われた時、答えにつまりまして、急には答えられなかったけれど、これは私に与えられたテーマだと思って、ずっと考えています。」


 大調和はそのまま大日如来の法界、マンダラの世界であり、生類はそのまま輪廻転生(リンネテンショウ)の世界ではなかろうか。
 お二人が言う「より良い」ものを求め、私たちは自然に真善美を目ざす。
 哲学も科学も宗教も芸術も、求めずにはいられない魂のはたらきから創造される。
 それらはすべて、生類のごくごく一部である人間の愛おしくも切ない生きざまが生む精華ではないか。
 ネコもアヤメも、生類は皆、それぞれに精華を示している。
 私たちも本ものの精華を求め、創りつつ生きたいものである。




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2015
06.18

観音様やお地蔵様がつなぐ死者と生者 ―東日本大震災被災の記(第168回)―

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 国際日本文化研究センター教授磯前順一氏は、仙台市若林区荒浜地区の観音像を訪れ、『死者のざわめき』に記した。

1 観音様の話

観音像がなぜいま被災地に求められているのか、それが少し分かりはじめた気がした。
 観音さまによって死者の声々が、現在を生きる生者へとつながるのだ。
 そして、生者もまた自分の気持ちが死者に届くと思い描くようになる。」


 なぜ、観音様によって「死者の声々が、現在を生きる生者へとつながる」のか?
 なぜ、観音様によって「生者もまた自分の気持ちが死者に届く」のか?

 それは、私たちに備わっている宗教意識の根底に〈依り代(ヨリシロ)〉という感覚があり、私たちは依り代を前にしてこそ、慰霊が可能になるからである。
 言い換えれば、私たちは、自分の気持の問題として死者を偲ぶだけでなく、何らかの形で死者を慰めたい、死者へ思いを伝えたい、死者と会いたいという強い気持を宗教行為へ託すのだ。
 いつでもどこでも、何もなくてもできる〈追悼〉は思い出を深める行為であり、宗教者によって法が結ばれた依り代をを介して死者と向き合う〈慰霊〉は宗教行為である。
 たとえば年配者のクラス会を、亡くなった仲間への黙祷から始めるのは飲み屋でも可能だが、家族を心配しつつ亡くなった夫の一周忌を行いたいならば、寺院へでかけなければならない。
 死者の思いを〈そのままにしてはおけない〉から行う慰霊は、思い出の問題ではない。
 安心して欲しい、成仏して欲しいという生者の願いを死者の世界へ届け、死者に安心世界へ融け入って欲しいから供養を行う。
 願いの持続によって一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌、三十三回忌を行い、死者はあの世で安心世界へ導かれ、生者はこの世で不安を安心へと変える。

 こうした意味において、観音様は一種の依り代である。
 そこに降り、居てくださる仏界の観音様へ手を合わせればこそ、仏界へ融け入りつつある死者とつながる。
 観音様の優しさが生者への慰めとなり、その実感が、死者を慰めてくださるに違いないという安心をもたらす。
 ご先祖様から受け継いだ尊い宗教意識がはたらき、この世もあの世も救われる。

2 お地蔵様の話

 磯前順一氏は岩手県大槌町へ贈られた51体のお地蔵様について記している。

「仮設団地では、最初は地面に直接置かれていたお地蔵さんがブロックの台座の上に置かれ、いつしか花瓶に花が供えられるようになる。
 引きこもりがちな人もお地蔵様の周りに集まるようになり、コミュニケーションの機会が増えていく。
 さらに興味深いのが、各仮設団地でよだれ掛けや帽子や首飾りなど、思い思いの形でお地蔵さんをお祀りするようになったことである。」


 そして、寄贈者である僧侶の言葉を伝える。

「実は、贈ったお地蔵様は、どれも同じ顔をした石像ですが、人が拝むとその顔が変わってきます。
 仏さまは人が拝むと表情が変わるのです。
 大槌町の五十一体のお地蔵様も、それぞれの場所でそれぞれの拝まれ方、祀り方をされていますから、その思いを受けて顔に変化があるはずです。
 お地蔵様の顔をじっと見ていると、それがどれくらい拝まれたかがわかる。
 逆に言うと、お地蔵様がどれくらいの人を救ったのか、わかるということです。」


 そのとおりである。
 かつて、東寺の宝物展へでかけ、古く小さな普賢延命菩薩の掛け軸を観て動けなくなったことを思い出す。
 込められた濃く、深く、重く、大きなたくさんの祈りが得も言われぬ気配として漂っており、柱の陰から合掌した。
 また最近では、おりおりにご祈祷を依頼してこられ、ついに大きな飛躍を遂げることになったAさんのお宅へ招かれた時の印象が忘れられない。
 ごく普通のサイドボードの上に並べられ、水の供えられた数体の御札が、まるで輝くように周囲を明るくしていた。
 日々、Aさんがいかに祈りを欠かさなかったか、その篤い思いにうたれつつ修法を行った。

3 追悼慰霊

 私たちは、大震災によって慰霊せずにはいられない思いになった。
 観音様やお地蔵様へ手を合わせないではいられない思いになった。
 ごく普通のご葬儀によって死者を送れないがゆえに、慰霊する気持が強まった。
 追悼では済まされない。
 追悼はおさまらない。
 無念や悲嘆や寂寥や恐怖を解き放ってさしあげないではいられないのだ。
 つまり、送ること、お慰めすること、すなわち、ご葬儀とご供養とは、単なる追悼ではない。

 あれから4年が経過した今、私たちはいかなる気持でご葬儀やご供養を行っているだろうか。
 もしも生者が思い出に浸る追悼で済ましているならば、真の慰霊を行わないでいられなかった体験は一体、何だったのか、ということになりはしないだろうか。
 観音様やお地蔵様へ手を合わせ、大震災という未曾有のできごとによって蘇った私たちの根源的宗教意識を大切にいつつ進みたい。




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2015
06.17

『死者のざわめき』に想う(その1) ―耐えかねる重み―

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 国際日本文化研究センター教授磯前順一氏は、東日本大震災発生から約4年間、被災地に通い、『死者のざわめき』を綴った。

 氏は仙台市若林区荒浜地区の観音像を訪れる。

「言葉にならない思いの重みに耐えかねたとき、人は神仏に救いを求めることになる。」


 言葉は思考を整理してくれる。
 しかし、整理できない「思い」を抱え続けていると、通常、用いている日常的思考の〈外側〉にまで、思いは滲み出ようとする。
 すがり、救いを求める。
 こうして宗教的感覚がはたらき出す。
 その最大のきっかけとなるのはである。
 誰かのであろうが、自分のであろうが、本当にを前にした時、日常的思考は役に立たなくなる。
 は日常生活の〈外側〉にある、あるいは、〈外側〉にまたがっているからである。

 そもそも、生きようがなくなって救いを求め、この道に入り、「思いの重みに耐えかねた」方々と膝を交える日々を過ごしている者の実感としては、ご葬儀から宗教色が薄れつつある現実を眺め、死が「耐えかねたとき」を迎えさせないことをいささか不気味に感じる。
 死がたやすく日常生活に呑み込まれるならば、生もまた、日常生活を超えた次元へチャレンジするダイナミズムを失うのではなかろうかと危惧する。
 こうした人生の〈平板化〉は何を意味しているのだろうか?

「思い出すことが困難な出来事だけれど、捨ててしまうことはできない。
 しかし、その闇をえぐり出して白日のもとにさらすこともできない。
 だからこそ、人間の代わりに、神仏にその思いや感情を預けて、祀りあげてもらおうと願うのだろう。
 そして荒浜観音の場合のように、その神仏のもとを人びとが訪れ、自分が担える範囲ですこしづつ、その記憶に触れていくのだ。」


 思い出したくない、しかし、圧倒的にそのことは〈在る〉。
 だから、自分だけでは思い出せないけれど、思い出しつつ昇華してゆかねば、苦しさは消えない。
 だから、負いきれない部分をきっと背負ってくださる観音様と一緒に昇華作用をする。
 こう、書きつつ、涙が滲んでくることを禁じ得ない。
 小生もまた、被災地の観音様やお地蔵様に頽れそうになる膝頭をお支えいただきつつ、祈ってきたからだ。
 いかに托鉢で歩き、生かしていただいた地域であれ、あくまで部外者であり、大した被災者でもない小生ごときですらこうである。
 被災された方々の「思い出すことが困難な出来事だけれど、捨ててしまうことはできない」お心の状態は、察するに余りあるとしか言いようがない。

 ご来山される方々のお察ししきれない思いを前にしつつ、今日も祈る。
 どうか、善男善女が担う荷を少しでも軽くしていただきますよう。 




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2015
06.16

悪事に慣れてはいないだろうか ―ネット時代の悪、罪と罰―

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 6月14日、27才の警察官が酒気帯び運転で事故を起こし、逮捕された。
 6月14日、47才の医師が、収賄の疑いで逮捕された。
 6月10日、24才の中学校教諭が痴漢の疑いで逮捕された。
 6月5日、29才の僧侶が昨年12月に女性を殺した疑いで逮捕された。
 6月5日、62才の弁護士が預かり金2500万円を着服した疑いで逮捕された。
 もはや私たちは、こうした報道、つまり誰でもどこでも行う事にほとんど〈慣れっこ〉になっているのではないか?

 日本年金機構が標的となった125万件もの個人情報流出事件に関して語られているのは、情報管理の甘さを指摘し対策を強化する必要性と、金子を騙し取られるなどの二次被害防止に尽きている。
 しかし、膨大な人びとの個人情報を盗んだ事そのものと、盗まれた管理者がどう責任をとるべきかという二点がほとんど問題にされていないのはどういうことか?
 そもそも、ネットを利用した各種の犯罪はもはや、単純な個人攻撃や小規模な詐欺などは別として、大規模になればなるほど、まるで起こって当然な〈事故〉であるかのごとき扱いしか受けず、犯罪者が行った〈〉そのものが私たちに強く認識されなくなりつつある。
 サイバー攻撃は無体な破壊行為であり明白な事なのに、国家すらも行うという事態、あるいは、攻撃法と防御法が公に論じられ競われもする時代にあっては、そのものが意識されにくい。
 本来、人間が行ってはならぬものであり、社会にあってはならぬものなのに、があまりに巨大なので、個人としてその正体を把握したり悪しき度合いを感得できにくい。

 罪と罰の関係がどうなっているのか、専門家でないのでよくわからないが、一人を殺してもなかなか死刑にならず、三人殺せば死刑になるなどの話を聞く。
 もしも殺人の悪が度合いとして1ならば、3つで〈悪度〉は3となり、死刑に値することになるのか?
 それならば、個人情報を盗む悪の度合いを仮に0・01とした場合、日本年金機構から情報を掠めとった〈悪度〉は12500となり、優に死刑となり得るのではないか?
 万分の1としても125、100万分の1としても無期懲役程度の重罰となろう。
 しかし、現実には、被害者個々人に悪事全体の影響力が感じられていないため、罪の大きさはなかなか認識されにくい。
 また、犯人が逮捕されても、現在の刑法によれば、他の悪事がからまなければきっと重罰は科せられないだろう。

 ネットの匿名性は、〈とりあえず〉隠れたままで、好き放題に他者を誹謗・中傷・攻撃することを容易にし、騙し、奪うことも容易にした。
 ばれないままで、好き放題ができるという安易性が礼儀や思いやりを容易に忘れさせ、他者が傷つくことへの想像力も実感も奪った。
 恥ずかしい、ばれるのが怖い、嘘を言えない、奪えない、こうした良心や良識や常識のリミッターが麻痺したまま、悪事が垂れ流し状態になっている。

 悪のわかりにくさは、戦争にも顕れている。
 かつてイラク戦争のおり、私たちは茶の間で「ピンポイント爆撃」の映像をごく普通に観ていた。
 食堂のテレビでも、あるいはデートしながらも……。
 いったいどれほどの人が、爆撃される建物や車列の現場で人体が引き裂かれ、殺され、傷を負っているか、その現実を想像し得たろう。
 また、あたかもゲームのように引き金を引く兵士のどれだけが、自分の手で人殺しを行っているという実感を持っていたろうか。
 今や兵器の開発は急速に進み、無人のヘリコプターや戦車はもちろんロボット兵士まで登場しており、相手を殺すという実感から限りなく遠ざかりつつ大量の殺人を行うことが可能になっている。
 しかし、どのような過程をたどろうが、戦争を行えば必ず人間の柔らかな皮膚が破られ、硬い骨が砕かれ、手足や首がもぎ取られ、たくさんの死者が出る。
 5月27日、国会で在職中に自殺した自衛隊員の数が報告された。
 イラクに派遣された隊員は29人、インド洋での給油活動では25人である。
 そもそも自衛隊員の自殺率は平均の約1・5倍であり、派遣者に至っては10倍近くなる。
 しかも、勤務できなくなり退職してから自殺した元自衛隊員の実態がどうなのかは明らかにされていない。
 以上は非戦闘地域でのデータであり、実際に撃ち合いをすれば隊員の心はどうなるか、とても想像しきれるものではない。
 戦争は、いかにスマートさを装っても、必ず人間の心身を壊し、滅ぼす。
 殺し、殺される戦争は人間が行い得る最悪の行為である。
 私たちがこの事実を想像、実感できにくくなっていることは本当に恐ろしい。

 ブラックバイト、ブラック企業、派遣労働の問題もしかりである。
 ネットで集められた学生やはたらく人びとも経営者や幹部と同じく血の通った人間同士であり、共に向上しつつ安定した人生を歩んで行こうという社会の倫理的基盤がなくなっている。
 労働者は、企業が利益を生むための道具として、便利に安く使われる対象でしかない。
 人間性を無視するという根源的な悪が誰にも意識されていない。
 不幸にも、はたらかされている当事者もまた、必ずしも悪の倫理的・法的実体に気づかないまま、今を生きるために相手の悪行に荷担させられ、共に社会のシステムを構築しつつある。
 社会全体がこうも無慈悲で、はたらく多くの人びとがさしたる声も上げない時代はいつ、あったろうか?
 蔓延し空気ともなりつつある悪を見過ごせば、この国は成り立たなくなるのではないか。

 悪を悪と感じ、認識し、避け、糾弾し、防ぐ感性も意識も薄れさせられかけている私たちの心、私たちの文明を直視したい。
 自分の目をこすり、瞬きし、しっかり観たい。
 悪がもたらす罪と罰をよく考えたい。
 私たちが悪に慣れつつあるのは、知らぬ間に人間と社会への信頼を失いつつあることに他ならない。
 このまま鈍磨し続ける先には何が待っているのか、よくよく想像してみたい。




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2015
06.15

死者を送るプロたち ―井上理津子著『葬送の仕事師たち』を読む―

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 葬儀社や斎場や石材店の方々、そして、なかなかお目にかかる機会のない納棺師の方々に対して、密かに敬意をはらってきた。
 亡き人を送るという一つの仕事をきちんとやり通すために欠かせない〈同志〉はいつも、謙虚で礼儀正しく、誠意にあふれておられる。
 その秘密の一端が井上理津子著『葬送の仕事師たち』によって明らかにされた。

 葬儀のプロを志す若者たちを描く第一章の1ページ目から、溜息が出た。

「チャイムが鳴り、教員が入室すると、『起立』『礼』。
 男子学生達は左右の手の指先まで真っすぐ伸ばし、女子学生たちは両手を前にそろえて重ね、いっせいに九十度近く深々と頭を下げる。
 着席した後は、背筋をぴんとまっすぐに伸ばした姿勢だ。
 後ろから見ていて、机に肘をつく者、足を組む者すら一人もいないことに気づいた。」


 さる専門学校における一年生の教室風景である。
 小生は毎月、上京して行者としての修行を欠かさないが、教室の風景は残念ながら違う。
 読み進むうちに納得できた。
 この養成学校の教員は言う。

「皆、目的意識がはっきりしていて、志が高く熱意があることに驚かされます。」
「学生のあの食いつきはなんだろう。
 若いのに葬儀屋を目ざしているってなんだろうと思わないこともないですよ。
 でも、ほんとに食いついてきてくれるから、応えようと授業を工夫する。
 必死です。」


 秘密は学生の動機に尽くされている。

「若くして身近に死を経験したことが、葬儀業界への動機付けになっている人がなんと多いことか。」


 学生たちは死の体験に突き動かされ、死者への思いを表現しないではいられず、送る人としてのプロを目ざしている。
 やるせなく、切実な心がマグマとなり、死と死者へ向き合う真剣さをもたらしているのだ。

 実習の場面である。

「学生たちが、一言ひと言ことを聞き逃さないぞとばかり丹念にメモを取る姿があった。
 般若心経を全員で唱えて(学生たちは暗誦できた)、実習が終わった。」


 学ぶ者の本気度はメモにかかっていると考えている小生は深く納得できた。
 耳から入った言葉のほとんどは急速に忘れられる。
 メモをとり、帰宅して整理しなければ、自分の血肉になどなりはしない。
 目で食いつき、耳で聞き逃さず、手でメモをとる。
 授業を受けるとはこういうことだと思う。

 重要なことがはっきりと教えられていた。

「このごろのお葬式は遺影が中心になっていますが、祭壇のご本尊様は掛け軸です。」


 掛け軸であれ立体造形であれ、ご本尊様がおられなければ死者は安心して旅立てない。
 生まれてからずっと、親や教師や先輩などの〈おかげ〉でこの世を生き抜いた人間が、亡くなった途端にたった一人であの世をきちんと歩めると考えられようか。
 おのれの未熟さ、無力さ、愚かさに気づいていれば、〈おかげさま〉という気持と共にしか生きられず、〈おかげ〉を感じつつ旅立つのが自然というものではなかろうか。

「お葬式は亡くなった方に参列者がお別れをする場と思われがちですが、亡くなった方を仏様の世界、つまりご本尊様の世界にお送りするように祈るのが仏教式のお葬式の本来の意味です。」


 仏教書以外ではほとんど見られない祈りの本質が説かれている。
 葬儀・告別式と二段階になっているのは、結婚式を行ってから披露宴をするのと同じだ。
 ご葬儀を行ってから告別式を行わなければ、仏神へ祈りお守りいただくという神聖な部分が消え、社会的な告知や近親者のセレモニーだけで終わってしまう。
 形式的なお別れだけで本当に、送られる方も送る方も安心できようか?
 生まれ、生きて死ぬ一人の人間にとって一生に一度の機会を、簡単に、手軽に済ませようとするのはいかがなものだろう。
 たとえ簡素であれ、本質をふまえてなすべきことをなした方が、故人のあの世の道行きも、送る人のその後の人生も、より安心なものになるのではなかろうか。
 送るのはいっとき、しかし、どう送り、送られたかは永遠に動かない事実として〈その後〉を左右するのである。
 熟慮すべき人生の一大事と言うべきではなかろうか。

 この学校の理事長は、戦中戦後を共に生きた兄の急逝によって気づき、一念発起した。

「人は死ぬと肉体がなくなる。
 しかし、遺族の心に、亡くなった人は生き続け、『強く生きてくれ』とエネルギーを発する。
 遺族はそのエネルギーに守られて生きていくんだ」


 当山は一山を開基して3年後、托鉢生活の中で母を送った。
 法務があり、死に目には会えなかった。
 その母が今でも母親として「エネルギー」を与えてくれていることはまぎれもない実感であり、疑いようがない。
 だからこそ、おかげがあればこそ、ここまで来られ、今がある。

 著者は「あとがき」で、ご葬儀が要るとか要らないとかの議論をする前に、大切なことが抜け落ちていはしないか?と問う。

「議論以前に、葬送の仕事をする人たちが、どのような思いで、どのような働きをしているのか。
 私たちは知らなすぎやしないか」


 それは、引導を渡す僧侶についても同じである。
 お戒名がご本尊様から降りる真実も、引導を渡す際は御霊を感得し、導師もそのまま向こうへ行ってしまいかねない真実も、「知らなすぎ」たまま、どんどん、ご葬儀は要らないものにされつつある。

 著者は空(カラ)の霊柩車に乗せられて「仰天した」。
 加速や減速に気づかず、いつブレーキをかけたかもわからず、「車内に水がほぼ満杯のコップを置いても、その水がこぼれないように」運転する心遣いに驚いた。
 運転手へ問う。
「乗った方、驚かれるでしょう?」
 運転手は答える。
「いえ、ご遺族はお気づきにならなくていいのです。
 自分の中での約束ごとですから」
 当山も、こうした同志に支えられ、導かれつつ、自分なりの〈約束ごと〉は一ミリも動かさず、やり抜きたい。

 井上理津子さん、本当にありがとうございました。
 ご縁のプロの方々、あらためて心より感謝申し上げます。合掌




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2015
06.14

映画『ホタル』の鑑賞会を終えて ―戦争による究極的耐え難さを想像しよう―

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特攻隊委員たちから「母」と慕われた鳥濱トメさん〉

20150613005 (2)
〈運命を受け容れた山岡と知子は漁で生きる〉

 映画『ホタル』の鑑賞会と懇談会を終えた。
 あまりにも重いテーマがいくつも提示されており、本格的なディスカッションをしたなら、何時間もかかるだろうと思われた。
 当日、話題にする余裕のなかったテーマの一つは「戦争体験の継承」である。

 特攻隊の生き残りである藤枝は、昭和天皇が崩御した年に歩き慣れた雪山へ入り、亡くなった。
 息子たちは持病の心臓病によるものであるとし、〈殉死〉ではないかという声を無視した。
 ところが、孫娘である真実は、焼き捨てられそうになった祖父の日記をもらい、隠された真実に気づく。
 真実から日記を見せられた同期の山岡は、遠く離れて暮らし、特産物のやりとりなどで信頼を確かめ合ってはいたものの、口が重い同士で、一緒に酒を飲み〈一緒に泣いてやれなかった〉ことを悔やむ。
 人間にできることは悲しむ人のために泣くことしかないのに、藤枝の悲しみは重々、知っていながらそれをしなかったために死なせたと自分を責める。
 飛び立った仲間は散り、自分は生き残ったということの耐え難さは、何十年経とうと変わらない。
 自分が仲間のもとへと旅立たない限り、耐え難さは消えないのだ。

 たくさんの特攻隊員を送り出した富屋食堂の女主人鳥濱トメが店を引退することになり、祝賀会が開かれた。
 淡々と別れのセレモニーをこなしていたトメは、亡き藤枝の代わりに出席した孫娘真実から花束を受け取った時、「あの子たちも皆あんたと同じように若かったんよ」と呟き、激情に襲われ、泣き崩れる。
「私たちはあの若い人たちを殺したんだ!」
 このセリフはそもそも台本になく、トメ役の奈良岡朋子がぜひにと頼み込んだものだという。
 送り出した者の耐え難さが迸った一瞬である。
 この耐え難さもまた、何十年と抱えられてきたものだった。

 死んで行く者は、耐え難い思いで死地へ赴く。
 映画では、飛び立った特攻隊員がそれまでの人生を思い出す場面がある。
 死を強いられた者の究極的苦しみは、観客にも耐え難い。

 最愛の相手を死地へ送る者も、一緒に死ねない耐え難さに悶え、苦しむ。

 生き残った者も、自分が生き残ったという事実に、死ぬまで耐え難さを感じ続ける。

 戦争は、殺し、殺されるという生きものとしての究極的修羅場を体験させるだけではない。
 戦争に関わる人間へ遍く耐え難さをもたらす。
 人間は自ら、戦争によって最悪の苦しみを生み出す。
 高倉健すら、幾度も涙を見せた。

 映画では、戦争体験者の子供の世代でなく、孫の世代が体験者の耐え難さに気づくという形になっている。
 継承者という観点から現在の日本を眺めてみると、実に象徴的ではないか。
 戦争体験の〈継承〉は、戦争に対する最強の抑止力ではないか。

 若い人たちとも心を通じ合い、戦争がもたらす耐え難さへの想像力を失わず、自国の人びとにも他国の人びとにも決してこの耐え難さを味わわせないよう、何としても不戦を祈り、不戦を貫きたい。




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https://www.youtube.com/watch?v=EOk4OlhTq_M





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2015
06.13

日本の〈現実〉を見せつけられた二日間 ―貧困殺人・企業膨張・人間と社会の崩壊―

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1 パート生活者の現実

 6月12日、千葉地裁は、一人娘を絞殺したパート従業員、松谷美花被告(44才)へ懲役7年を言い渡した。
 毎日新聞は伝えた。

「起訴状によると、松谷被告は2014年9月24日午前9時ごろ、県営住宅の自室で長女の可純(かすみ)さん(当時13歳)の首を鉢巻きで絞めて窒息死させたとされる。
 これまでの公判によると、02年に離婚した夫は数百万円の借金を抱えていた。
 被告はその返済や生活のために被告名義でも消費者金融から金を借り、06年から学校給食のパートをしながら返済を続けてきたが、月1万2800円の家賃を約2年間滞納し、事件当日までに立ち退きを迫られていた。
 強制退去当日に電動カッターを使って鍵を開けて立ち入った地裁の執行官らが、布団の上でうつぶせになった可純さんの遺体を発見した。
 松谷被告は公判で『本当は私が死ぬはずだった。可純に申し訳ない』などと話していた。」


 地裁の執行官が鍵を開けて部屋へ踏み込んだ時、被告は放心状態で座り込み、可純さんの頭をなでながら4日前に撮ったビデオを見ていた。
 そこには、体育祭で赤い鉢巻きをして走る娘の姿が映し出されていた。
「これは私の子。この鉢巻きで首を絞めちゃった。ビデオを見終わったら自分も死ぬ」と話した。
 自分の腹を切るため、台所のテーブルの上に一番切れる包丁を用意していた。
 パートの時給は850円、月給は4万~8万円。
 事件当時の預金残高は1963円。
 市に雇われていたので、パートの掛け持ちはできなかったという。

 当山へは、貧困、依存症、暴力、非行などの人生相談が絶えない。
 人も生活も、何かをきっかけにして少し下降を始めれば、蟻地獄へはまるように沈んで行くしかないシステムになってしまったのではないか。

2 格差の急拡大

 6月11日、産経ニュースは伝えた。

「投資信託協会は11日、一般投資家が購入できる公募投資信託の5月末時点の純資産総額が102兆4574億円となり、初めて100兆円を超えたと発表した。
 前月末に比べて3兆2938億円増加し、12カ月連続で過去最高を更新した。
 日経平均株価が約15年1カ月ぶりの高値を付けるなど大幅に上昇したことを背景に、株式市場での運用で資産が増えたほか、新規の投信購入も活発で資金流入が解約を大きく上回った。」


 6月11日、日経新聞ニュースは伝えた。

「東京海上ホールディングスが10日発表した米保険会社HCCインシュアランス・ホールディングスの買収額は約75億ドル(9400億円強)と日本企業の海外M&A(合併・買収)で歴代8位の規模になった。
 国内より高い成長を見込める海外市場の開拓に向け、ほかの大手損害保険や生命保険各社も海外買収を加速。案件も大型化してきた。」


 日本では膨大な富や利益が積み上げられているという。
 ほとんどの国民と無縁なところで……。

2 社会の崩壊

 6月12日、日刊時事ニュースは、消火器噴射の事件を報じた。

「11日深夜3時半頃、野田市次木のアパートで、住人の男性(25)が部屋で寝ていたところ、突然、室内に白い粉が吹き込んできた。
 県警によると、粉は消火剤で、玄関のドアの郵便受けに消火器のホースが差し込まれているのが発見された。
 通報した住民の男性によると『就寝中にバンという音がして見たら、消火剤がまかれていた』という。
 さらに現場から約80メートル離れたアパートでも同様の手口の事件があり、約70メートル離れた交番でも、敷地内や駐車していたパトカーに消火剤がまかれていたという。
 県警では、短時間に複数の場所で同様の被害が相次いでいることなどから、同一犯の可能性が高いとみて、器物破損容疑で捜査を開始した。」


 いたずらは普通、冒険心や身勝手な期待が罪悪感を少々、上回った時に起こる。
 しかし、この状況はもはや、罪悪感の不在と悪意の爆発を意味しているのではないか。
 社会は法律や警察によって存続しているというよりも、基盤の圧倒的部分は〈不文律〉に律せられたふるまいにある。
 すれ違う人から無意味に殴りかかられない、火事に備えて置かれた消火器や体調不良に備えて置かれたAEDは大事にされる、青信号では交差点を安全に渡れる、などなど。
 そうした前提が壊れるのは、飼い猫に攻撃されたり、車がドライバーの意志に反して走るようなもので、私たちは社会生活を送れなくなる。
 日本の人も社会も、とんでもないところへさしかかっているのではなかろうか?




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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA





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2015
06.13

法楽農園の草取りが終わりました

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〈皆さんへ感謝、感謝です〉

 6月6日、予定どおり、法楽田の草取りを行いました。
 好天に恵まれ、早朝からの作業は無事、終了しました。
 参加された方々へあらためて深くお礼申し上げます。
 ササニシキの収穫が楽しみです。
 とは言え、無農薬なので、もう一度、草取りが必要になりそうです。
 台風や虫たちにやられず、収穫できますよう。
 そして、皆さんと天地の恵みを堪能できますよう。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA





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2015
06.13

6月13日(土)の寺子屋では映画『ホタル』について語り合いましょう

 6月13日(土)、寺子屋にて映画ホタル』の鑑賞会と懇談会を行います。
 (http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-4589.html)
2015
06.12

日本の若者に期待する ―藤原新也の目─

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藤原新也著『メメント・モリ』〉

 写真家であり作家である藤原新也氏は、若者が起こす不可解な事件の背景について的確に指摘した。
 6月11日付の朝日新聞『ニッポンの若者よ』である。

「LINEなどSNSを使い、顔文字の架空の交流に慣れた彼らは、他者が不在。
 ネット空間からOFF(現実)世界に転換して身体接触すると、時にとんでもない暴発が起こる」


 ネット空間を通してしか他者と接触しないので、生身(ナマミ)の人間と向き合った時、どう接したらよいかわからず、パニック的行動をとってしまうというのである。
 これは、ネットを通じて自分の脳内に作られた虚像としか向き合えず、血の通う温かな身体を持ち、こちらの思惑とは関係なく考え、話す現実の人間というものを知り得ないことを意味する。
 つまり、人間そのものを知り得ない。
 ならば、自分をも知り得ないのではないか。
 他者の反応は自分から発している何ものかの反映であり、他者の喜びや怒りや感謝や不満などによって、私たちはようやく、自分が何者か、自分の言葉や行為がいかなる意味を持っているかに気づくからである。

 さまざまなやりとりの最後にインタビュアーが訊く。
「絶望的になりませんか」

 氏は答える。

「期待するね。
 たとえば海の魚は種類ごとの棚に棲(す)み分けるけど、ときどきストレスをためた変な魚が別の棚に泳ぎ込むと、一気にバリアーが崩れて魚種の違う大群になるんだ。
 そんな変な魚になって、世界をぱっとつなげていくのが僕ら表現者の役割。
 恐れず行き来すれば、異種のマグマに満ちたコミュニケーションが生まれる。
 そうなると怖い、と思うよ」


 当山の池を想った。
 深い部分へご寄進いただいた錦鯉を棲ませ、石を並べて区切った浅瀬には、これまたご寄進いただいた金魚やメダカを棲ませていた。
 ある時、金魚がいなくなった。
 ちょうど大きなサギのような渡り鳥が毎日来ていたので、皆、獲られてしまったのだろうと諦めていた。
 ところが、鯉に餌を与える時期になったら、金魚たちも水面に顔を出して餌をつつく。
 それを見つけてくださったのが、ご寄進した方だった。
 二人で歓声を上げ、手を取るように喜び合った。
 今は、想像もしなかった鯉と金魚の共生を眺められる。

 若者の行動に期待したい。
 ネットと企業管理によって忘れられ、虐げられている身体性を取り戻し、生身の人間同士が「マグマに満ちたコミュニケーション」を始めて欲しい。
 氏の言う「明るさや楽しさだけを強調し、人間の暗さや弱さや死を覆い隠す」商業主義や、「ぶつかり合いを避け当たらずさわらず済ませる」欺瞞や、「奴隷制度に近い雇用」形態などへの「怖い」ほどの挑戦が始まるよう、心から期待したい。




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2015
06.12

ゾンタクラブ主催の文楽について

 このたび「仙台Ⅰゾンタクラブ」主催の文楽(ブンラク)が演じられます。
 7月5日(日)午後1時開演、場所は東北大学百周年記念会館『川内萩ホール』です。

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 ゾンタという聞き慣れない言葉は、「アメリカのスー族の『誠実・信頼』」を意味します。
 パフレットには「事業経営者、管理職や専門職の女性達が、女性の平等の権利、政治的な均等、教育と健康の享受、女性と子どもに対する暴力の根絶などのために活動する国際的な奉仕団体」とあります。
 現在「仙台Ⅰゾンタクラブ」会長の神部眞理子氏は仙石病院(石巻市)で消化器内科・腫瘍内科を担当する医師です。
 津波で被災し、夫である神部廣一理事長と、九死に一生を得た母親と三人で病院に泊まり込み、懸命の救助活動を行いました。
 著書「フロンティア」「松籟(ショウライ) 狩野永徳伝」「玉の緒よ 式子内親王の生涯」は、多忙な現場を抱えながら書いたとは信じられないほど綿密に構築された傑作です。

 壺阪寺は西国有数の古刹で、三重塔は平成22年、平城遷都1300年を記念して再建以来初めての初層開扉内拝が行われました。
 そのおり、撮影厳禁の秘仏が写されネットに流れました。
 目にして驚いたのは、当山が本尊大日如来の正面に小さな弘法大師像をお祀りしている形とそっくりだったことです。
 今般、演じられる『壺坂観音霊験記』は、座頭の沢市と妻お里の夫婦愛を描いた物語です。
 どうぞふるっておでかけください。




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2015
06.11

音信不通だった親の供養について ―供養の本質―

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〈希望〉

 ある時、子供の頃から深い確執のあった父親を亡くしたAさんからご相談がありました。
「どこにいるかわからなかったのに、突然、亡くなったという知らせが来て、お骨を守ることになりました。
 供養すべきであるとは思いますが、そもそも、供養ということがよくわかりません。
 どう考えればよいのでしょうか?」

 お答えしました。
供養は、インドの言葉プージャ(敬意をもって懇ろにもてなすこと)です。
 漢訳の『供養』は供給資養を略しており、『供』は身体と言葉と心のはたらきすべてをかけて何かを捧げることです。
 また『養』は尊い相手に対してへりくだり、相手のためになるよう何かを捧げてお仕えすることです。
 つまり、み仏や先亡の御霊を敬い尊ぶまごころから何かをしないではいられなくなり、自分にできる限りの精一杯を尽くすのが供養です。

 お水は無条件で施す〈布施〉、塗香(ズコウ)という手に塗るお香は戒めを守る清らかな〈持戒〉、お花は雨風に耐える〈忍耐〉、お線香は淡々と自分を燃やし尽くす〈精進〉、飲食物は心身を調えて行う〈禅定〉、お灯明は自己中心でなくすべてを遍く照らす〈智慧〉、それぞれの実践をお誓いする心で捧げましょう。
 この六つの心をつくる修行は菩薩(ボサツ)になるための道であり、ご本尊様やご先祖様へのご供養は、自分自身が一歩一歩と菩薩に近づく道を歩む過程でもあります。
 それは、相手のためを思って実践する清らかな行いの功徳は、決して相手のためになるだけでなく、あたかも鏡が照らし合うように、自分をも人間として向上させることを意味します。
 人間であれ、ペットであれ、どなたでも先に逝った方は、自分の死をもって、私たちへご供養するという尊い機会をお与えくださったのです。
 どのように生きようと、最後の最後にはこの機会をつくるところに、生きとし生けるものの尊厳があります。

 また、経典によれば、み仏への供養は、自分が大きな福徳を得られるだけでなく、生きとし生けるものへ安楽を与えます。
 仏法への供養は、深い智慧を得られます。
 み仏と仏法を守る者への供養は、福徳を得る材料を増やします。
 こうした仏法僧への供養によって自他共に安心を得、悟りへ向かって進めます。
 
 お墓やお位牌の開眼供養、あるいは人形や御守などのお焚きあげ供養も同じく、私たちが自分中心の日常生活から離れ、生まれ持った仏心を輝かせる貴重でかけがえのない機会です。
 大切にしましょう。 
 過去にはいろいろあったお父様でしょうが、御霊となれば、ひとしくみ仏の世界へと溶け込んで行く尊いご先祖様です。
 どのようにしたらよいか、どうぞ、ご自身の胸に問い、悔いのない対応をしてください」

 Aさんはこう言って当山を後にされました。
「思えば、帰って来てくれたんですよね。
 私が父の〈帰る先〉になったのはどういうことか、お線香を点けたりしながらよく考えてみます。
 ありがとうございました」

(当山はご縁の方々のプラバシーを守りつつ、広く皆さんに仏法をお考えいただくため、人物を特定できないようあくまでもフィクションとして表現しています)




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「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
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2015
06.10

真智の開発をめざして(その18) ─他者の善行に同感、感心したならば─

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 五智如来のお智慧の内容を、私たちにわかりやすく説かれたのが「優しさ・厳しさ・正しさ・優雅さ・尊さ」という教えです。
 私たちの心にある仏心がきちんとはたらけば、み仏の光が発し、妄知(モウチ…おかげさまと心の底から思えない惑った心)も邪知(ジャチ…万事を我がためとするよこしまな心)も消え失せます。
 さて、今回は「優雅さ」について考えてみましょう。

3 善行に随順する

 私たちが互いに気持良く共生するためには、誰かの善き行いに〝ああ、いいな〟と同感や感心を持つだけでなく、同様の実践によって善き行いの輪を広げましょう。
 たとえば朝夕、小学生の通学時間帯に誰かが横断歩道で指導、保護を行っているのを見て〝ご苦労様〟と思ったならば、自分が同じ時間帯に同じ行動ができなくても、通学する子供たちへ自分なりに目を配り、気を配るようにしたいものです。
 こんなことは誰でもできそうなのに、実際はなかなかできません。
 なぜでしょうか?

 一つには、面倒だと思う気持です。
 その実体は、自分にとって何の得にもならないという判断です。
 自己中心的な我欲(ガヨク)のしわざです。
 このままでは、本当に善いことを行った時の深い達成感や喜びを感じられないままの哀しい人生で終わってしまいかねません。

 もう一つには、やっかみや反発する気持です。
 その実体は、自分がやっていないという引け目です。
 せっかく、良心が「あれは善い行いです」と教えてくれ、自分はそうだとわかっている、あるいはそうしたいのに、なぜか参加する気が起こらず、誉める気にもなれないというジレンマが起こっています。
 このままでは、良心が何度も何度も活動を妨げられているうちに錆び付き、光を失ってしまうかも知れません。

 良心善行によってしなやかに練られる優雅で穏和な心が育たなければ、自分がギスギスし、了見の狭い人生を送らねばならないだけでなく、周囲の人間関係もそうした縁が多くなってしまいます。
 せっかく生まれ持った智慧が充分にはたらいていない世界です。
 これでは残念です。

 故藤沢周平は直木賞受賞の4年後、自分が子供の頃に行ったイジメ体験を綴りました。
 朝鮮人のアイスクリーム売りと、女乞食「お玉」について書いた『村に来た人たち』です。
 50才になった一流作家が、どうしても心にしまったままにしてはおけない思いを披瀝したのです。
 彼は深夜、原稿を書いていて自分の行状を思い出し、「思わず涙ぐみそうに」なります。
 侮られ、虐げられつつ生きる人々の人生が「いまになって私にもうっすらと」見えてきたし、そうした人びとに「あのようなかかわり方をした自分も」見えてきました。
 そして、「人はなぜ、人をいじめたりするのだろう。そもそも人間とは何者なのだろう。」と筆を止めて考えこんでしまいます。

 彼は愚かだった自分、ようやく愚かさの実態がわかりかけてきた自分をそのまま見つめ、書きました。
 小生はこの文章を思い出すと、自分の愚かさに心臓の筋肉が次々と収縮してしまうような気持になります。
 傍若無人だった自分、自分の愚かなふるまいを受けた方々――。
 皆さんの思いはいかなるものだったのか……。
 申しわけない……。
 こうしたことを繰り返していると、苛めに関する人生相談を受けるたびに、子供と大人とを問わず〝あなたには何としても苛めに負けない人間になって欲しい、苛める人間になって欲しくない〟と心中で幾度も祈ります。

 藤沢周平が『村に来た人たち』を書いたのはまぎれもなく善行です。
 読んで心をうたれた私たちは、ぜひ、善行に随順したいものです。
 自分の愚かさ、愚かだった自分から逃げず、自分が愚かな行為を繰り返さないのはもちろん、苛められて苦しむ方々のそばにそっと立ちたいものです。
 同感や感心にとどまらず、一歩、踏み出そうではありませんか。




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2015
06.09

稲妻に道きく女はだしかな ―恐怖と悲しみと―

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〈当山で安産・子育て・不戦を祈る摩耶夫人様〉

 雨の降る暗い朝となった。
 一句を思い出した。

稲妻に道きく女はだしかな 泉鏡花


 稲妻は暗い空間を一気に切り裂き、天地が崩れるような轟音を伴う。
 何をしている人も一瞬、手を止める。
 どこへも逃げようがないのに、子供の頃は蚊帳へ逃げ込んだりした。
 現代の子供はどうするのだろう?

 子供の頃の小生は稲妻を観て、天地がつながるという感じを持ち、不思議だった。
 学校で雲と地表とが電気のやりとりをすると習い、とても納得できた。
 居合を始めてからは、妙なことを考えるようになった。
 雲から発生した稲妻の糸が、地表から迎える稲妻につながって強烈に光るさまは、刀を納める際に、鞘を少し引き出して鍔(ツバ)を受ける作法に似ていると思う。
 いわば〈迎える〉動きがあってスムーズにつながるのだ。

 さて、俳句である。
 稲妻の光る中で、道を訊く女がすでに異様である。
 普通は家や車の中などに避難しており、傘をさして外を歩くのはよほどの事情がある人だ。
 忙しい現代ならば約束の時間があり、何があっても急ぎ足で歩くかも知れないが、泉鏡花の時代は明治から大正である。
 雨の中を歩く女性はとてつもない危機、激しい狂気、あるいは異界の気配をまとっている。

 仏壇の前に座り「なんまんだぶ、なんまんだぶ」などと唱えていた人にしても、あるいは軒下で小さくなって隠れていた人にしても、こうした女性に道を訊ねられたなら、ビクッとするのではないか?
 雨宿りを申し込むのではなく、雨をものともせず、どこかを目ざしているとはあまりにも異常だ。
 エッと聴き耳を立て相手を見たら、はだしだった。
 もしも、息せき切っていれば、男に殺されかけたか、あるいは殺してきたか。
 もしも、ぼうっと現れたならば、亡霊か。
 いずれにしても、日常世界が突然、崩れかけた状況である。

 10才で親を亡くした泉鏡花は、11才を迎える年に摩耶夫人(マヤブニン…お釈迦様を産んでまもなく亡くなった生)像を観て激しい衝撃を受け、生涯、信仰し続けた。
 彼が描いた女性像は、この世ならぬ聖性や、禍々(マガマガ)しいほどの美しさや、神聖に近い狂気などを帯びている。
 幼くして親を失った喪失感と、なるものとしてたち顕れた摩耶夫人の神聖とが、彼独特の女性観をつくったのだろう。

 この一句は、鳴という破壊と喪失の予兆の中で、再来し得ないを限りない悲しみと共に感じとったのではなかろうか。
 恐ろしくはあるが、彼の身になってみると、去ると去られた子の悲しみも緊迫感を伴い、迫ってくる。 
 芸術の力は凄まじい。




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2015
06.08

人はなぜ、拝むのか? ―知性と勘を磨いておきましょう―

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 質問「なぜ、拝むのか?」にお応えした。
 追いつめられ、藁(ワラ)にも縋(スガ)る思いになる時、拝むという行為が現れる。
 たとえば突然、不治の病に罹っていると宣告され、いのちが惜しいというよりも、どうしてもやらねばならないことが頭に浮かんでくるならば、どうするだろうか?
 たとえば突然、乗っている飛行機にトラブルが発生し、近くの海に不時着せねばならないとアナウンスされたならば、どうするだろうか?
 自分の力では何ともならないが、何とかしないではいられない状況に直面し、〈不可〉を突きつけられた現実の前にありながら〈可能性〉を捨てきれない状況下で、神も仏もたち顕れる。
 歎きの極みで自死を選んだり、自暴自棄から自滅的行動へ走ったりもするだろう。
 しかし、そこへ行ってしまう前に、祈りが生じることも少なくない。
 こうして人は拝むようになる。

 もちろん、どんなに追いつめられようと自分以外のものに縋らないタイプの方もおられ、人さまざまである。
 また、追いつめられる体験の薄い方も当然、水へ入ったり落ちたりしたことがない人には水泳が何であるか実感的に掴めないのと同じく、縋り拝む行為を知り得ない。
 当山は常々「困った時の神頼みでもいいんですよ」と申し上げている。
 それは、縋るのが人として自然な行為であり、そこでは自己中心的でない世界が開きかけているからである。
 ただし、「困った時の神頼みだけでいいですよ」とは決して申し上げない。
 言うまでもなく、いつまでも自己中心から抜け出られず、〈困った時〉が次々と訪れる人生から脱皮できないからである。

 ただし、神頼みになれば、知性が試される。
 この二つがはたらかないと、つまらぬものや、利用しようと待ち構えている者や、陥れようとしている者につかまるかも知れない。
 この場合の知性とは知識の量ではなく、ものごとを客観的に見て、検証し、試し、納得するという手順を践む力である。
 また、とは、いわゆる霊感や山ではなく、良識や見識に裏打ちされた〈健全に生きる方向〉を見誤らない力である。
 二つの力を身につけ、神頼み的状況で沈没してしまわないためには、学問をやらねばならないのではなく、問題意識を持って自他を観察し、周囲に起こるできごとの本質や意味や意義を自分で考えつつ生きればよい。
 そうすれば、まっとうな拝む対象と縁になり、神頼みしかない状況が訪れた時、きっと、オタオタせず、落ち着いた合掌ができることだろう。
 



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「おん あらはしゃのう」
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2015
06.07

天災と思いやりと ―東日本大震災被災の記 第167回―

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 東日本大震災から1500日が過ぎてなお、ご遺骨を手放せない方々がおられる。
 人生相談に来られたAさんは呟く。

「主人は海が生きがい、というより、海そのもののような人でした。
 しかし、私は今でも自分から海を眺める気にはなれません。
 こうしてウグイスの声を聴くと、ずうっとここにいたいと思ってしまいます。
 毎日、夫のお骨に語りかけます。
 あなたはどこで眠りたいの?
 私はまだ、夢遊病者のようです」

 一緒に考えた。

「そもそも、東日本大震災とは何だったのでしょうね」

 あれは天災だった。
 世界中のあらゆるものは、因果応報の原理によって、生まれ、留まり、崩れ、消えて行く。
 人もネコも、家も山も。
 世界は単純でなく、二つの要素が絡み合っている。
 一つは、それ自身の力が動き、変化してやまない「自然」というモノの世界。
 もう一つは、無限の過去から無限の未来までつながる(ゴウ)という影響力の糸を紡いでやまない「生」の世界。
 天災は、あらゆるを無化しようとするかのように襲い来る凄まじい自然の牙である。
 噛まれたならばそれまで――、無常である。
 5月30日、異常震域というタイプの地震が発生し、日本全国が揺れた。
 北海道から九州まで、免れられる場所はなかった。
 6月5日、マレーシアのボルネオ島でマグニチュード6.0の地震が起き、日本人を含む17人の安否がわからない。
 マレーシアは、タイ、シンガポールと並んで地震の起きない国とされてきたが、地球の〈皺〉はすべて地殻変動の結果なので、そもそも地震とまったく関係のない場所はどこにもない。
 私たちはこうして時折、自然から峻厳な事実を突きつけられる。

 さて、の話である。
 免れ得ない自然現象が発生した時、私たちはそこでいかに行動し、そしてその後、いかに行動したか。
 ここでは生が主人公であり、が動く。
 あるいは逃げ切り、あるいは逃げ切れなかった。
 結果は生と死とに分かれたが、人間がつくるは複雑だ。
 いずれにしてもはっきりしているのは、私たちが〈助け合った〉ということである。
 宗教も信条も人種も超えた思いやりが主人公となり、私たちは支え合ってここまで来ている。

 平成23年6月、被災証明書があれば高速道路を無料で通行できることになった措置に伴い、種々の問題が発生したおり、岩手県住田町長多田欽一氏は、「被災証明書はやみくもに出さない」という方針を表明した。
「国が東北地方の高速道路無料化を制度化したのは、大きな被害を受けた人の復興支援という趣旨のはずです。
 津波ですべてを流された人と、半日停電しただけで物的被害もない人が、同じレベルで復興支援の恩恵を受けるのは、本当に正しいかと考えました」
 最初は不満もあったが、方針を丁寧に説明することによって理解が広まり、町民の多くは無料通行を遠慮した。

 平成24年12月、静岡県島田市の桜井勝郎町長は、岩手県山田町の瓦礫を試験焼却することにした。
 静岡県知事川勝平太氏の「ゴミ処理能力の1パーセントで震災瓦礫の受け入れをしよう」という呼びかけに応じたのだ。
「被災者の苦境を思えば、援助できる者が援助するのは当たり前。
 自治体のトップは余裕があるなら腹をくくって、がれきを受け入れるべきだ。
 最終処分場がないというのはいい訳。
 必要なのは気持だ。
 この際、首長の独断でがれきの処理をやるべきだ」
 風評被害の怖れなどから、当初は賛成するメールは2パーセントほどだったが、やがて、賛成が多くなり、事は動き出した。

 私たちは自然の力によって〈無常〉の現実を突きつけられた。
 しかし、危機に瀕した私たちは隠れていた霊性を発揮し、すばらしい善業(ゼンゴウ)を積みつつここまで来た。
 最近では、その二つとも、忘れかけてはいないだろうか?
 無常を忘れ、過剰な欲に走ってはいないか?
 霊性を忘れ、自己中心、地域エゴに走ってはいないか?
 大切なことを忘れず精進し、生者の側に残った者としての役割を果たしたい。

 Aさんは、被災した仲間と一緒に小さな活動をしておられる。
「そうですよね。
 相手は自然だから、どうしようもなかったんですよね……。
 寒い中を焚き火や炊き出しで過ごしたのは、思いやりがあったからなんですよね……。」
 ご主人のお骨の行方についても整理がついてきたような気がしますと言い、笑顔で帰られた。
 あれは何だったのか、私たちはどう行動しながらここまで来たのか。
 考え、忘れずに過ごしてゆきたい。




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2015
06.06

自殺した自衛隊の方々に想う ―争いを避けるものは?―

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 5月27日の衆議院平和安全法制特別委員会において、明らかになった在職中における自衛隊関係者の自殺は以下のとおりである。
・平成13年から19年にかけて、インド洋へ派遣された隊員:25人
・平成15年から21年にかけてイラクへ派遣された隊員:29人
 防衛省の真部朗人事教育局長は、派遣そのものが原因であるかどうか「個々の原因を特定するのは困難だ」としている。
 国家に殉じた方々へ心よりご冥福を祈りたい。

 ここには、自衛隊勤務が困難になり退職後に自殺した方の数は含まれていないし、うつ病や統合失調症などに罹った隊員についての報告もない。
 遠隔地への派遣かどうかにかかわらず自衛隊は、勤務が原因で心の病気になったと思われる隊員に対するケアを怠っていないが、この54人の周囲にどれだけ苦しむ方々がおられるかは想像に難くない。
 しかも、上記2例は、戦地そのものから離れていると見なされた地域へ派遣された隊員に関する調査である。
 現在議論されている平和安全法制においては、弾丸が飛び交ってはいないが、もしも、攻撃を受けたなら戦わず撤退するという地域への派兵である。
 当山に縁を結ばれている自衛隊関係者の方々を想い浮かべ、皆さんの心身にかかる負担を思うと、いたたまれない。

 もちろん、〈備え〉は欠かせない。
 しかし、戦争はいつの時代も決して一方的に起こりはしない。
 戦争も平和も関係性の中における一つの状態であり、あくまでも〈相手との関係〉がどうかという問題である。

 ある時、小学生A君がこうした状況に陥ったという。
 遊び仲間が三つのチームに分けられ、二つは数人のグループ、そしてA君は一人である。
 鬼ごっこであれ、何であれ、何をやるにしても無惨な状態である。
 イジメに憤った父親は悪童どもを懲らしめようとし、母親は心配して各方面への相談に取りかかろうとした。
 ところがA君は「こんなものさ。騒ぎたてないで、様子を見ててよ」と言い、悪童どもと着かず離れずでいるらしい。
 A君は直接の抗議も間接の指導も〈悪〉への効き目がなく、不用意な刺激は相手の愚かさを昂進させるだけであると見越しており、時が流れれば、やがて悪童どもは彼らの住む世界へ行き、自分は彼らと別の世界で生きられるので、学校という場で深刻な対立や暴力騒ぎなどに及ばないよう気をつけて過ごそうとしている。
 舌を巻いた。

 多くの大人は知っている。
 熱(イキ)り立ち、角張っている人はいざこざを起こしやすいし、穏和な人は周囲を和やかにする。
 争いを避けたいなら、まず、自分が穏和にならねばならない。
 穏和さこそが、争いを抑制する根本的な鍵である。
 まず、自分自身がどういう人間になるかというイメージ、姿勢、生き方を明確にしておきたい。
 人間なら信条、国家なら基軸、人間も国家も同じではないか。

 平成8年、台湾総統選挙で台湾独立志向の李登輝氏が優勢と報じられた際、中国軍は軍事演習を実施し、基隆沖海域にミサイルを撃ち込み、恫喝した。
 アメリカに対して「台湾問題にアメリカ軍が介入した場合には、中国はアメリカ西海岸に核兵器を撃ち込む。アメリカは台北よりもロサンゼルスの方を心配するはずだ。」とまで言い、アメリカは空母を展開した。
 そのおりに防衛駐在官宮崎泰樹氏は、反米・反日の拳を振り上げる中国人民軍要人たちの懐へ飛び込み、罵倒されつつも酒を酌み交わし、情報収集と宥和に努めた。
 一触即発の危機は去った。

 自らは備えつつ穏和に暮らし、熱(イキ)り立ち角張る相手から穏和さを引き出すことができれば、それこそがみ仏の説く方便(ホウベン…最高の手立て)ではなかろうか。




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





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2015
06.05

「そのうち」を待たず…… ―相田みつをと朝比奈宗源―

20150605017.jpg

 今から30年前、友人A氏は、相田みつをが書いた『雨の日には雨の中を、風の日には風の中を』の一節を自分へ言い聞かせていた。

そのうち お金がたまったら
 そのうち 家でも建てたら
 そのうち 子供から手が放れたら
 そのうち 仕事が落ちついたら
 そのうち 時間のゆとりができたら

 そのうち……
 そのうち……
 そのうち…… と、
 できない理由を
 くりかえしているうちに
 結局は何もやらなかった
 空しい人生の幕がおりて
 頭の上に 淋しい墓標が立つ

 そのうちそのうち
 日が暮れる
 今来たこの道
 かえれない」


 当時、A氏は、「今、やらねば」と奮い立っていた。
 最近、久方ぶりに会った氏は、もう、墓標をどうするかという現実に直面していたが、選んだ「この道」をぶれずに歩んでおられた。

 小生はその頃、娑婆で商売も悪さも盛んに行っていたが、なぜかこんなことを書いていた。
「近頃、生きているということは死んでいないことにすぎないという気がしている。
 自分より先に死んだ先祖・友人などは無くなってしまったのではなくて、永遠の存在の中に戻って行ったのだと思う。」
 そして、浅沼稲次郎を刺殺した山口乙矢、割腹自殺した三島由紀夫、飛行機が墜落したポトマック川で女性に2度も命綱を譲って死んだ銀行監査官アーランド・ウィリアムスなどに理想の生死を観ていた。
 かつて、鎌倉の円覚寺で座禅の手ほどきを受けた朝比奈宗源師の言葉が、どう生きたらよいかわからない者への灯火になってはいた。

仏心の中に生死はない。
 いつも生き通しである。
 人間はその仏心の中に生まれ、仏心の中に生き、また息を引きとるのだ。
 その一瞬一瞬が仏心の真只中(マッタダナカ)であると信じきれれば、生は生であって生でなく、死は死であって死ではない。」(朝比奈宗源著『仏心』より)


 問題は仏心がわからないことであり、ついに娑婆の破綻者に堕ち、即身成仏(ソクシンジョウブツ)を目ざす一密教僧となった。

 屈託無い笑顔を見せているA氏は今、一筋に歩んできた某組織のリーダーとして現役だ。
 A氏などと共に理想を目ざした仲間37人のうち、6人は鬼籍へ入った。
 もはや、「そのうち」はなく、問題は限りなく単純化されている。
 何ができるか、どう死ぬか。
 一息、一息、進みたいと思う。




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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IvMea3W6ZP0





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