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2015
07.31

8月の守本尊は大日如来様です

201507310001.jpg
〈『ゆかりびとの会』の方々などが草刈り奉仕を行ってくださいました。感謝感謝です。〉

 8月は、立秋と処暑(ショショ)の葉月(ハヅキ…8月8日より9月7日まで)です。
 8月は未(ヒツジ)の月なので、守本尊大日如来(ダイニチニョライ)様です。

 大日如来(胎藏界…タイゾウカイ)様は『種々解智力(シュジュゲチリキ)』という、人の欲するものや楽しみとするものを知る力をもって、お救いくださるみ仏です。
 人は望みを持ってこそ生きられ、「幸せ」とは善き望みのかなうことです。
 天にあって全体を観る金剛界の大日如来様に対して、地にある胎藏界の大日如来様は、一人一人のそれをよく見極め、力をお与えくださいます。

「われら衆生(シュジョウ)が自らの○心の実相(ジッソウ)知るならば○この世のすべての存在が○共に一つの生命を○生きていること悟られて○宇宙の生命(イノチ)を自らの○生命(イノチ)としてぞ生きること○そこにこの世の一切が○大日如来の現象と○捉える曼陀羅(マンダラ)精神の○教えの根本(モト)を見出さん。」


(私たちが自分自身の心の奧にある霊性に気づくならば、この世にある生きとし生けるものすべてが、いのちの世界という大きな一つの世界の一員として生きていることが悟られる。
 そして、自分一身にまつわるいのちだけでなく、宇宙的に広がる無限のいのちの世界にこそ〈自分のいのちの本当のありよう〉を見出そう。
 そうして生きてこそ、ありとあらゆるものを網羅して欠かさないマンダラに象徴される大日如来の世界を説く教えが根本的に体得できよう)

 人を愛したり、憎んだり、笑ったり、起こったり、喜んだり、悲しんだりして揺れ動く心は、表面の心です。
 その奧には意識されにくい潜在意識があり、深層意識があり、さらに奧には霊性が必ず輝いています。
 ここが感得できれば、いのちに伴う霊性はネコにもイヌにもアジサイにもセミにも通じていることがわかり、〈自分のいのち〉は一気に〈意識されている枠〉を超えます。
 その時、いのちの世界はそのまま、心の世界でもあり、個々の〈表れ〉である一切のものたちが霊性のレベルで耀き出します。
 それがそのまま、マンダラの世界であり、大日如来の世界です。
 お釈迦様が人のいのちとウサギのいのちの入れ替わりを説かれたのは、ここに気づくためです。
 過日も伝授を行いましたが、阿字観(アジカン)という瞑想法を実践するのもまた、いのちと心の広大な世界に触れ、一体化すなわち即身成仏(ソクシンジョウブツ)を体験するためです。

 また、大日如来様は、未(ヒツジ)年、申(サル)年生まれの善男善女を一生お守りくださる守本尊様でもあり、身体においては、主として両手をお守りくださいます。
 ご供養し、ご守護いただき、猛暑の一ヶ月を無事安全に過ごしましょう。

21080819 012

 写真は、永代供養を行ってご加護を受けるため、当山の講堂へ納められた大日如来様です。
 総丈は約35㎝あり、日本で唯一、護摩を焚いてできた灰が体内へ納められています。(奉納受付中)〉

 8月の守本尊様をご供養しお守りいただきたい時、願いを成就させたいと念じる時、辛い時、悲しい時、淋しい時、あるいは感謝したい時は、合掌して真言(真実世界の言葉)をお唱えしましょう。
 たとえ一日一回でも、信じて行なえば、ご本尊様へ必ず思いが届きます。
 回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。

「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」

今月の真言をお聞きになるにはこちらをクリックしてください。音声が流れます


※お聞き頂くには 音楽再生ソフト が必要です。お持ちでない方は、
 こちらから無料でWindows Media Player がダウンロードできます。





 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA





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2015
07.31

思想家わたなべ拓(ヒロシ)師のこと

20140301002
沖縄の洞窟で掘り出した弾丸〉

 当山では昨年の12月13日、平成26年最後の寺子屋『法楽舘』にて、わたなべ拓(ヒロシ)師のご講話をいただきました。
 師は、ホームページの冒頭に柳田國男の文章を掲げています、

国家は現在生活している国民だけで構成されるものとは言えない。
 亡くなった我々の祖先もいまなお国民なのだ。
 だから、祖先の希望も考慮に入れなければならない。
 また、国家は永遠のものなのだから、将来生まれてくるであろう我々の子孫も国民である。
 ゆえに子孫の利益も保護してやらなければならない。」
わたなべ拓現代語訳)『農業政策学』明治35(1902)年、柳田國男


 今ここに肉体がある自分の思うがままにやろうとするのではなく、過去から未来への通過点に立つ私たちへいのちと心をバトンタッチしてくださった祖霊の思いを忖度しながら、子々孫々のため、この時代に生を承けた自分がなすべきことを行うという思想です。
 祖霊、国家、国土への感謝、報恩が土台にあればこそ、個人も国家社会も、まっとうな方向を目指せるというのです。

 師は、林子平(ハヤシシヘイ)、横尾東作(ヨコオトウサク)、岩崎卓爾(イワサキタクジ)の三人について、感涙を落としつつ熱弁をふるわれました。
 先人のいのちを懸けた工夫と精進があったればこそ、今の日本国があり、日本文化があり、私たちの暮らしというスタイルが保持、形成されています。
 師は指摘します。

「歴史の積み重ねがあって今があります。
 私達の郷土が輩出した偉人が、当時どの様な思いで生きてこられたのか。
 今を生きる私達に何を託したかったのか。
 史実に基づいてそれらを理解し、偉人の遺志を正しく受け取る努力をしたいと思っています。」


 そして、「どの様な思いで生きてこられたのか」だけでなく、「どの様な思いで亡くなられたのか」をもまた真摯に探求し、沖縄県やパラオ諸島において戦没者の慰霊・遺骨収容活動をボランティアの形で9年間も続けてきました。
 小生もまた、昨年の2月20日から21日にかけて、師の導きのもと、沖縄へでかけ、慰霊の修法とご遺骨の収容を行いました。
 カンテラにヘルメットという出で立ちの師を先頭に、すぐ崩れ落ちてもおかしくない洞窟を奧へ奧へと進みました。
 人々が日常生活を送っている場所の間近にあるあの洞窟はもう、入られないかも知れません。
 それ以来、当山では、持ち帰った一発の弾丸を前に、不戦の誓いと祈りを続けています。

 祖霊から受け継いだ日本国を確かな形で子孫へ引き継ぐため、インテリジェンス(情報、諜報)のプロとして文字どおりすべてをかけている思想家であり活動家である師のご活躍を祈っています。




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2015
07.30

宗教の毒を直視する ―ダライ・ラマ法王の警告(3)―

201507300001.jpg

 ダライ・ラマ法王は、著書『ダライ・ラマ法王、フクシマで語る』においてモラルの重要性と宗教の毒を説く。

モラルを守る、すなわち正しい倫理観に基づいた生き方をするということは、計り知れない大きな力を私たち人類にもたらしてくれます。」

「愛と慈悲の心を高めていくことによって、私たちは自分の健康をもきちんと維持していくことができますし、一個人の心の平和、家庭のなかの平和、社会の平和、そしてひいては世界平和へと、少しづつ段階を踏んで、それを高めていくことができるわけなのです。」


 私たちは中学生か高校生の頃、儒教の基本的な教えとして「修身斉家治国平天下(シュウシンセイカチコクヘイテンカ)」を学んでいる。
 自分自身の生き方をきちんとすれば、家庭も波立たず、やがては社会の平安という大きな目標を達成することも可能になるという順番を教えている。
 人間一人一人がしっかりしないかぎり、人倫が守られるまっとうな社会にはならない。
 殺し、奪い、騙すモラルの薄い社会を恐ろしいと感じる情操が乾ききったならば、この世に救いはなくなる。
 霊性の警告がもたらす身震いにすなおでありたい。
 他者の愚かしい行為を見聞きした時、相手を軽蔑し社会を憤るだけでなく、〈自分自身にある黒い可能性〉を見逃さぬようにしたい。

「ここで私は来世の話をしているわけでも、神様の話をしているわけでも、仏陀について、天国について述べているわけでもありません。
 単に自分ひとりの、個人の心の平和を高めるために、そして家庭や社会や宗教における平和の心を高めるというその目的のために、私は申し上げているわけです。
 そのために教育が非常に大きな鍵となると思っています。」


 来世や仏陀について思考し、瞑想を続けている聖者が、そうした宗教的レベルを横へ置き、一人間として、お互い、実生活上を共によくする考え方を探求しようと呼びかけておられる。

「『宗教を通してではなく、一般的な世俗のレベルで倫理観を促進させていく、高めていく努力をすべきである。そのようなアプローチをすることで、私たちの心のなかに人としての正しい生き方を探る態度を高めていこう』
 こういう考えを私はもっていて、たくさんの方々とそれを分かち合いたいという気持ちでいます。」


 宗教がベースであり、宗教心がないと倫理は崩れるという考え方もあろうが、少なくともインドの歴史は、必ずしもそうではない人間の現実を示している。
 インドの伝統の一つは「一般的な世俗のレベルで倫理観を高める」ことである。
 インドでは古代から哲学的論争を行い、激しい批判の応酬もあったが、真剣に考え、議論し、主張する人はその真剣さから「聖人」とみなされ、見解を同じくする人からだけでなく、そうでない人からも「尊敬を受けてきた」のだ。

「その人のもっている見解と、その見解をもっているその人とをはっきり区別して考える、その上で、その人のもっている見解が間違ったものならば批判することはかまわないけれど、『その見解をもっている人に対する尊敬の気持ちを忘れてはならない』ということが、世俗のレベルにおける倫理観ではないかと思います。
 すなわち、この『世俗のレベルにおける倫理観』をもつということは、すべての宗教に対して尊敬の気持ちをもつということを意味しています。
 そのなかには宗教を信じていない人たちも含まれています。
『この宗教が良い、あの宗教は悪い』という区別をするのではなく、すべての宗教を等しく尊敬する気持ちをもつことこそ、大切な考え方であると思うわけです。」


 ここで、人を救済するはずの宗教が人を争わせ、邪慳にし、倫理に背く行動をとらせる理由が明らかになった。
 特定の神や経典が良くて、他のものは悪いという区別、そして、その先に待つ蔑視や差別こそが、宗教の持つ最大の毒である。
 宗教的信念が世俗のレベルすなわち、普通の社会生活に不要な、あるいはあってはならない波風を立てているのだ。
 その毒は、人と人とを遠ざけ、対立させ、殺し合いすらもたらし、倫理の崩壊を招いている。

「私たち人間のもっている価値感を高めていく方法としては、世俗のレベルを土台とすること、すなわち、『すべての宗派も越え、信心をもっているかどうかも越えて、ひとりの人間として、正しい生き方をするべきである』という認識を広めていくことこそ、今、現実的に必要とされていることだと思います」


 法王は、「ご自身の宗教をもつということと、世俗の倫理観を高めるべく尽力をされたことの間に一切の矛盾は」なかった例として、マハトマ・ガンディーとインドの初代大統領ラージェーンドラ・プラサードを挙げる。

 マハトマ・ガンディーは「インド独立の父」と呼ばれ、誕生日である10月2日は国連によって「国際非暴力デー」と定められている。
 昭和17年7月、日本軍がミッドウェー海戦で大敗北をこうむった直後、こうした文書を発表した。

「私は、あなたがた日本人に悪意を持っているわけではありません。
 あなたがた日本人はアジア人のアジアという崇高な希望を持っていました。
 しかし、今では、それも帝国主義の野望にすぎません。
 そして、その野望を実現できずにアジアを解体する張本人となってしまうかも知れません。
 世界の列強と肩を並べたいというのが、あなたがた日本人の野望でした。
 しかし、中国を侵略したり、ドイツやイタリアと同盟を結ぶことによって実現するものではないはずです。
 あなたがたは、いかなる訴えにも耳を傾けようとはなさらない。
 ただ、剣にのみ耳を貸す民族と聞いています。
 それが大きな誤解でありますように。
 あなたがたの友 ガンディーより。」

 昭和22年、インドはイギリスから独立したが、イスラム教徒の多いパキスタンがインドから分離・独立し、その翌年、ガンディーは自分が信ずるヒンズー教の狂信的信者によって暗殺された。
 3発の弾丸が撃ち込まれた時、ガンディーは、イスラム教の作法により自らの額に手を当てて相手を赦し、「おお、神よ」とつぶやいた。

 法王は世界中の宗教者、信者たちへメッセージを発した。
 世界を倫理の崩壊から救うため、自分の宗教という枠を超え、すべての人々と共に、一人の人間として正しい生き方をすべきである。
 今、世界でもっとも重要なメッセージの一つではなかろうか。 




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2015
07.29

今、宗教よりも大事なものは? ―ダライ・ラマ法王の警告―

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 ダライ・ラマ法王は、『ダライ・ラマ法王、フクシマで語る』において、端的に述べられた。

「私たちがかかえている、人間が作りだした多くの問題は、私たちの心のなかに倫理観が足りていないところから起こっています。」


 年金が欲しくて親の死を隠しておく、ムシャクシャするから見ず知らずの人々を車ではねる、人種が気に入らないから学校で発砲する、女性たちを奴隷のように売買する、権力や財力を持つ人たちが庶民の苦しみから目を背け特権的な生活を謳歌する。
 世界中で起こっているこうした問題は明らかに、倫理観の欠如がもたらしたものだ。 

「今までの近代教育は、物質的な面における向上だけを考えたものではなかったかと思うのです。
 すなわち、私たちの内なる世界である『心のなかの良き資質を高める』という観点からの教育が不十分であった。
 このために人が作り出した問題が次から次へと生じてきているのではないかという気がします。」


 モノ金、あるいは権力を手に入れる方法をいくら教えられても、まっとうに生きるイメージを心に育てていなければ、手にするあらゆるものは他人や社会を害する可能性を高める。
 作った料理で人々を喜ばせる嬉しさや感謝の心から包丁を磨けば、包丁は立派に本来の役割を果たすが、怒りや怨みや損得計算などに駆られて包丁を研げばどうなるか。

「私たちが高めていくべき精神的なレベルにおける良き資質というものは、主に人に対する、あるいはすべての命のあるものに対する、優しさ思いやりを高めるというところにあります。」

「自分以外の命あるものの痛みを十分にわかること、そしてそのような状況にある人たちに対して思いやりを持つこと。
 これこそ、今私たちに必要なことではないかと考えています。」


 他者への優しさ思いやりを持つことが必要なのは明らかだ。
 ほとんどの問題はこれらの欠如から起こる。
 ならば、必要な倫理観とはこのことに他ならない。

「ある種の人々、おもに西洋社会の方々が多いのですが、倫理観宗教に基づいて高められるべきである、という考え方をもっている人たちがいます。
 しかし一方では、宗教に基づく必要はなく、普通の人たちが一般的な世俗的なレベルにおいて、倫理観を高めることができる、という考え方をしている人たちもおり、私はこちらに属しています。
 すなわち、正しい倫理観を個人がもち、それを守り、それに基づいて人としての正しい行いをして生きていく。
 それは、私たち人間が精神的レベルを高めることによって成し遂げられるのです。」


 神の存在を認めるかどうか、といった宗教的見解を突き詰めなくても、私たちは持つべき倫理観を持ち、まっとうに生きていくことができるはずである。
 なぜなら、誰もが苦を望んでいないことを認識し、他者の苦しみを知り、見捨てておけず、何かを行うのは、神のあるなしとは別次元の、今、ここで誰もが実践できる生き方だからである。

「このことは、『心の動機』を正しく設定することにつながっています。
 心の動機が正しければ、それによってなされる外面的な行い、すなわち身体のレベルにおける行い、そして言葉のレベルにおける行いを正しく方向づけていくことができるのです。
 このようにして私たちは、他のすべての人たちに役に立つ存在となることができるのです。
 たとえ他の人たちを助けたり、役に立ったりすることができなくても、少なくとも、他の人たちに迷惑をかけない、害を与えないということを守っていく。
 こういうことこそ、倫理を守って正しく生きるということの意味だと、私は考えています。」


 心の動機とは、前述の〈包丁を研ぐ〉目的を意味する。
 あらゆる身口意のはたらきは一体、何のために用いられるべきか?
 誰かのためになる、誰かに害を与えない。
 たったこれだけができれば、私たちは「人間が作りだした多くの問題」を解消の方向へと導ける。

「この世界にはさまざまな宗教が存在しています。
 しかし、おもな宗教がまったく同じように、愛と慈悲の心、許し、忍耐、自分のもっているもので満足する心、そして自己規制をして正しく生きる、という共通の教えを説いています。
 しかし、現実にはその宗教がどれほど行きわたった、普及したポピュラーなものであっても、宗教に基づいた倫理観を説くかぎり、その倫理観の教えは、その宗教を信じる人たちの間では広まっても、全人類に共通するものにはなりません。
 なぜなら世界には一切の宗教を信じない人もたくさんいるからです。
 が、今私たちは、倫理観の欠如という危機に面しています。
 この危機を乗り越えていくためには、全世界的なレベルで、あらゆる人に共通するものの考え方に基づいて倫理観を高めていかなければなりません。
 宗教というものに基づいてこの倫理観を高めようという努力をするかぎり、全世界的な対策とはなりえないのです。」


 宗教者である法王が、宗教の弊害を述べておられる。
 たとえば、神の存在を認めるかどうか、といった出発点に立たなくても、私たちは倫理観を手にすることができるし、むしろそうした宗教的選択は、普遍的な倫理観を育てる邪魔になる可能性がある。
 たとえば、当山へ〈布教〉にくる方々がおられる。
 にこやかに玄関から入り、神の救済を説こうとする。
 明らかにそこである宗教的生活をしている人の心へ突然、土足で入りこみ、異物を放り込もうとしている自分の行為のちぐはぐさ、そして相手にとっての迷惑さ加減が認識されていない。
 こうして〈平和〉の中ですら害となり得る宗教は、〈戦争〉でいかなる害をもたらしたとしても、決して不思議ではない。
 国家そのものが地上から抹消されそうになっている状況と悪戦苦闘する法王は、いかなる宗教も(きっとイデオロギーをも含むのだろう)決して「全世界的なレベル」での救済になり得ないことを痛感しておられるに違いない。
 だからこそ、布教の必要性ではなく、まず「あらゆる人に共通するものの考え方に基づいて倫理感を高めていかなければなりません」と説く。
 倫理観の欠如が世界を危機に陥れている以上、やらねばならないことは明らかである。
 では、どうすれば「全人類に共通する」倫理観が獲得できるか?




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「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
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https://www.youtube.com/watch?v=qp8h46u4Ja8





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2015
07.28

幸せな死とは(その3) ―愛すること=幸せに生き、死ぬこと―

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 外科医中山祐次郎氏著『幸せのために一刻も早くあなたにお伝えしたいこと』を読んでいます。
 
 氏は最終章で、驚くべきことを言い出します。

「あなたはなない。
 なぜなら、自分がぬときは、それを自覚することはできないし、体験もできないのです。
 思い出せないし、メモも取れないし、SNSにもアップできないし、誰にも伝えられない。
 だってあなたはんでいるのですから。
 そうだとしたら、『幸せ』というのは、いったい誰にとっての幸せなのでしょうか。
 私はその答えを『あなたにとって幸せなのではなく、あなたの大切な人にとっての幸せ』ななのだ、と考えています。
 私たちは、大切な人のために、大切な人をより大切にし慈しむために、『幸せに死』んでいかなければならないのです。」

「私は、幸せに死ぬためには、幸せに生きることが必須だ、と考えています。
 前にもお話ししたように、『人は生きたように死んでいく』からです。」
 
「人を真剣にした分だけ、その人は最期のときにされます。
 幸せに生きた人は、幸せに死んでいくのです。」


 私たちは死〈について〉考えることが容易でも、死〈を〉考えるには居住まいをたださねばなりません。
 なぜなら、体験が不可能なだけではなく、体験に近いところまで想像することも難しいからです。
 私たちは死というものを、見えず、聞こえず、話せず、動けず、意識がなくなり、呼吸と脈拍が止まって冷たくなると想像しますが、それらは、ほとんど、誰かの死に立ち会ったり、誰かの死について見聞きしたり、誰かが書いた本で読んだりした範囲からの類推でしかなく、自分が実際に痛み、苦しみ、意識が遠のく状態になりながらそれを考え、判断したことを生の中で生かせはしません。
 そこのところを、医師は「あなたは死なない。」と端的に述べました。

 そして、死の現場にたずさわってきた一人の人間として行った証言「人は生きたように死んでいく」にはあまりにも重いものがあります。
 しかし、仏教的に考えればそれは当然なのです。
 なぜなら因果応報は動かせぬ原理であり、いかなる思惑も、とり繕いも、自分で自分の生が保てなくなれば通用しないからです。

 一生を過ごした人が人生の最後に否応なく明らかにするのは、「人を真剣にした」かどうかであるという指摘は重要です。
 お金があれば生きる環境を調えられるし、権力があれば周囲へ意志を通せるし、才能があれば他人様へ頭を下げなくても自力で生きられます。
 でも、人をするかどうかは、何かのあるなしと無関係です。
 それは私たちへ等しく備わっている霊性の発露であり、手にしているものや身に具わっているものや社会的立場などとは次元の違う真実だからです。

 Aさんは言われました。
「私は動ける限りゴミを拾い、掃除し、言える限りありがとうを言い、できる限り夫の世話をし、倒れたら救急車を呼んでもらわず自然に逝きたいと願っています。」
 このAさんこそ、人を真剣にしている人ではないでしょうか。

 Bさんは言われました。
「妻は、自分のお骨を私のそばに置き、私が死んだら二人一緒に法楽寺の樹木葬『法楽陵』へ入れて欲しいと希望していました。」
 ご夫婦の真剣なが証されました。

 一方、何不自由なく生活し、成人した子供もいるCさんは、夫が遠方へ単身赴任したままになっているので、お寺へ通うのが面倒になり、お墓を整理しようと思い立ちました。
 そして、頼んだ石屋さんにたしなめられました。
 肝心のお骨を人知れずゴミに出そうとしていたことが発覚したからです。
 開いた口が塞がらない、と言うより、とうとうここまで来たか、というのが偽らざる実感です。
 子供の頃から、あまり人の道を学ぶ機会がなく、処世の術だけを追い、競争させられる文化によって咲いた毒花を観る思いです。

 いま、政府は大学から「なぜ生きる?」と問う文化系の予算を減らし、「どうやって生きる」かを手にする理科系の予算を増やそうとしています。
 一人一人が考え、疑問や問題意識を持ち、研究する機会を減らす代わりに、国家が定めた道徳教育を早くから施そうとするやり方は、納得できません。
 村上春樹氏は『村上さんのところ』に書いています。

「人文系ってあまり直接的な役に立たない学問だけど、直接的な役に立たない学問って、世の中にとってけっこう大事なんですよね。
 派手な結果は出さないけど、じわじわと社会を下支えしてくれるから。
 小説も同じです。
 小説がなくたって、社会は直接的には困りません、
 でも小説というものがなくなると、社会はだんだん潤いのない歪んだものになっていきます(いくはずです)。」


 倫理を基礎にした有形無形の歯止めが薄れてゆく中で、より鋭利な刃物をどんどん社会へ供給するような状況がはらむ危機はいつ、誰によって自覚されるのでしょうか。

 私たちが「人を真剣に愛し」、「幸せに生き」、「幸せに死んでいく」ためにはどうすればよいか、よく考えたいものです。




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「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
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https://www.youtube.com/watch?v=rWEjdVZChl0





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2015
07.27

ある老人クラブでの法話 ―日本語の経典、戒名料、進化論―

201507270001.jpg

 ある老人クラブの会合で、拙い法話を行いました。
 猛暑の中、おおぜいの方々が地域の集会所へ足をたこばれ、一時間はあっと言う間に過ぎました。

三力のこと

 仏教の宗派に共通の教えとして生き方の指針となるものがたくさんあります。
 その一つが三力(サンリキ)です。

1 努力による功徳の力
2 み仏のご加護の力
3 周囲の縁の力

 まず第一に、自分自身の努力なくしては何ごとも始まりません。
 しかし、自力の過信は高慢心を生じ、思わぬ墓穴を掘りかねません。
 第二に、霊性を存在の核としている私たちは、心を澄ませば仏神も御霊もお見守りくださっていることを感じ、支えていただけます。
 しかし、依頼心が強すぎたり、特定の仏神や経典などへのめり込み排他的になったりすれば、人生の視野を狭め、道理という大切な尺度を失いかねません。
 第三に、誰一人として、あるいは虫一匹も、生きられる環境なくしては存在し得ず、陽光も水も空気も、稲や野菜や魚も、水道も電気も電波も、家族やお隣さんや警察や会社の人々も、私たちの生をつないでくださっています。
 しかし、そうした〈おかげ〉を当たり前としか考えず、感謝を忘れ、自分も誰かの役に立とうという報恩の姿勢を失えば、いつしか〈おかげ〉を自分からどんどん遠ざけてしまい、いざという時や死を迎える時、情けない状態になりかねません。
 自分と三力の関係をときおり、考えてみたいものです。

五種供養のこと

 いつものように、お線香やお花と、それらを捧げる意義とを線で結んでいただくクイズに挑戦していただきました。
 多くの方々にとって身近な供養なのに、いざ、〈何のために?〉となってみれば、意外に難しいようでした。
 お線香を点しての精進やお水を捧げての布施などは、大乗仏教の根っことなる供養であり修行です。
 それなのに、いかに形骸化しているか、いかに語られていないかをまざまざと感じさせられ、行者としての責任を痛感しました。
 念のため、再々掲しておきます。
 どうぞ、左右を結んでみてください。

 線香 ・   ・禅定(ゼンジョウ…心身が深く安定した状態)
 水   ・   ・智慧(我欲を離れた知恵)
 花   ・   ・精進(やりぬく姿勢)
 灯明 ・   ・忍辱(ニンニク…耐えて怒らず乱れない心)
 飯食 ・   ・布施(フセ…見返りを求めない施し)

輪廻転生(リンネテンショウ)のこと

 最近、力を入れてお話ししている生きものたちの生まれ変わりについて、体験談をふまえた話題提供を行いました。
 自分のいのち、ネコのいのち、ブッポウソウのいのち、アジサイのいのち、こうした〈いのちそのもの〉と〈いのちに添う心〉を感得できないと、本当にいのちを大切にすることはなかなか難しいかも知れません。
 肉体にこだわり、肉体が消えれば無になると考えるのも、魂にこだわり、時空を超えた実体が生まれ変わると考えるのも、無理と弊害があります。
 お釈迦様が説かれた「中道」のは、こうしたいずれの極論にも依らず、いのちと心の真実を観よという意味です。

 さて、最後にお受けしたご質問は、いずれも仏教の核心に迫る鋭いものでした。
 
○キリスト教の聖書などのように、仏教経典もわかりやすい日本語にならないか?
 
 当山の状況についてお話ししました。
 まず、ご本尊様へ捧げる修法における経典は法統の要であり、伝授されたとおりに読誦してこそ非日常的な聖なる世界が開けること。
 特にご加持(カジ)の際、欠かせない真言などは、受者が〈聞いて考えるのではなく、聴いて感じる〉といった時間を過ごす中で大きなはたらきをすること。
 次に、ご参列の方々に聴いていただく、あるいは一緒に読誦する経典としては、積極的に読み下し文を採用し、お喜びいただいていること。
 特に水子供養やペット供養にご来山される方々から感謝されていること。

○高額な戒名料のリストを提示するなど、本来の意義から遊離したやり方は何とかならないか?

 当山とはまったくかけ離れた世界のお話ですが、こうした現況については、同じく仏教寺院を預かる者として深くお詫び申しあげました。
 その上で、「戒名料や離檀料に関する人生相談は絶えませんが、寺院が時代の変化に早く目ざめ、適切な対応を行うよう、菩提寺へ疑問点の解消を求めるなど、皆さんの積極的なご発言をお願いしています」と申しあげました。

○進化論や生命の起源をたどる科学的成果と、仏教思想との矛盾をどう考えればよいか?

 さまざまな宗教宗派を訪ね歩いた方からのご質問でした。
 おおよそ、こうお答えしました。
「仏教は科学と対立せず、科学的成果を否定もしません。
 それぞれ受け持つ分野が異なっており、一部は重なってもいます。
 科学は目に見える形で現象世界を分析し理解します。
 一方、仏教は現象世界が〈見えているようにはない〉次元を観て、現象世界を縁として生ずる苦に対応しようとします。
 たとえば、生命の誕生について科学が現在どこまで探求しているかという事実はもちろん、尊びますが、歴史が示すように、それはあくまでも現在のレベルにおける分析と判断の結果であり、行者が阿字(アジ)を前に瞑想する時は、人知を超えた無限としか言いようのない過去から今につながるいのちと心の世界をそのままに感得しています。
 小生は、科学者や医者といった方々との対話を欠かさず、深く尊敬しています。
 気づくのは多くの方々が一種の〈限界〉を感じつつ、誠実に限界へ挑戦しておられことです。
 また、科学的視点から仏教を観て、修法を振り返ることは忘れないようにしています。
 科学と正統な仏教は決して対立しません。
 だからこそ、ダライ・ラマ法王は、〈公開の場で〉科学者との対話を続けておられます。」

 上記のメモには、当日、お話しできなかったあたりまで書きました。
 講話が終わってからもご質問が相次ぎ、たくさん教えていただいた有意義な時間でした。




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 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2015
07.26

神殺しの日本人とお盆の意義 ―梅原猛氏の警告に思う―

201507260001.jpg

 来月はお盆を迎えます。
 一年で最も盛んに行われる仏教行事ですが、〈長期休暇〉にばかり気を取られず、ご先祖様からいのちを受け継いで今の生を生きる私たちは、本来の意義を思い起こし、この時期に人としてなすべきことを考え、実践しようではありませんか。

○日本の神殺し

 哲学者梅原猛氏は指摘しました。

「近代日本において神殺しは二度にわたって行われた。」
「廃仏毀釈(ハイブツキシャク)が一度目の神殺しであった。」


 明治に入ってすぐに行われた国家による仏教排斥運動は、現代の私たちが「けしからん!」と叫ぶIS(イスラミック・ステート)の仏教遺跡破壊などとは比べものにならぬほど過激で、徹底した蛮行でした。
 テロは、ISのメンバー一人一人に確固たる宗教的信念があっての異教へ対する破戒行為ですが、日本で起こった官憲や住民による仏教寺院の破壊は、それぞれが先祖から受け継いだ聖なるものへ無理やり刃を向けさせられるという悲惨で恐ろしいものでした。
 ご本尊様や寺院や過去帳は破壊され、焼かれ、還俗(ゲンゾク)させられた僧侶は生きようとして兵士になる者も多かったとされています。
 国家を強くするために心を一つにするよう求められた国民は、現人神(アラヒトガミ)に祭り上げられた天皇と現人神のご先祖様である天照大神(アマテラスオオミカミ)などの神々のみを奉じました。
 み仏だけでなく、自然信仰とあいまった多様な神々もまた、排斥されました。
 嵐のようなできごとを記した資料の多くは敗戦後に抹消されて一種のタブーとなり、廃仏毀釈と国家神道に関する広汎な検証や研究はいまだに不徹底です。
 日本人の持つ一面をきちんと知り、人の心を縛るという恐ろしい国家的蛮行を二度と繰り返さないために、決して〈無かった〉ことにはできない歴史的できごとです。

 梅原猛氏は第二の神殺しも指摘します。

「敗戦によって新しい神道も否定された。
 現人神そのものが、実は自分は神ではなく人間であると宣言されたことによって、この神も死んだ。」
「日本は西洋よりもっと徹底的に神仏の殺害を行ったことになる。」


 そして続けます。

「この神仏の殺害の報いは今徐々に表れているが、以後百年、二百年経つと決定的になるであろう。
 道徳を失っているのは動機なき殺人を行う青少年のみではない。
 政治家も官僚も学者も芸術家も宗教心をさらさらもたず、道徳すらほとんど失いかけているのである。
 政治家や官僚が恥ずべき犯罪を行い、学者、芸術家も日々荒廃していく世の動きに何らの批判も行わず、唯々諾々とその時代の流れに身を任せているのは道徳の崩壊と言わねばなるまい。」
「私は、小泉八雲が口をきわめて礼賛した日本人の精神の美しさを取り戻すには、第一の神の殺害以前の日本人の道徳を取り戻さねばならないと思う。」


○江戸時代の寺子屋に日本人の精神を思う

 当山は氏の指摘を待つまでもなく、江戸時代までの寺子屋で広く用いられた『実語教童子教』を毎月、読み続けています。

「山高きが故に貴(タット)からず。
 樹(キ)有るを以(モッ)て貴しとす。
 人肥えたるが故に貴からず。智有るを以て貴しとす。
 富は是(コレ)一生の財(タカラ)。
 身滅すれば即ち共に滅す。
 智は是万代(バンダイ)の財。
 命(イノチ)終われば即ち随って行く。」


 人の徳は、地位や財産や体格では測られません。
 この世でどう生きたかという〈まっとうさ〉こそが大切であり、あの世へ持って行けるものは、善き業(ゴウ)という徳の香りだけです。
 もちろん、悪しき業は腐臭となり、地獄や餓鬼や畜生の世界へ導くことでしょう。
 この文章は『実語教』の冒頭にあり、江戸時代までは、小さな児童から市井の大人に至るまで、人倫の基礎を身につけていました。

聖徳太子日本人の精神を思う

 一方、聖徳太子の十七条憲法は為政者の鏡となり、第一条の「和をもって貴しとなす」を目ざし、決定的な対立を招かぬよう穏和な話し合いを行う文化が守られてきました。
 梅原猛氏の言う「日本人の精神の美しさ」は、大和の国にとって「和」を抜きにしては語られません。
 幾度も書いているとおり、特に、最後の第十七条は権力者への普遍的戒めとなっています。
 小さなことなら独断でやむを得ない場合もあるが、大きな問題ほど、過ちを避けるため正々堂々、公正な論議を尽くさねばならないと締めくくっているのです。

「それ事(コト)は独(ヒト)り断(サダ)むべからず。必ず衆とともによろしく論(アゲツラ)うべし。
 少事はこれ軽(カロ)し。
 必ずしも衆とすべからず。
 ただ大事を論(アゲツラ)うに逮(オヨ)びては、もしは失(アヤマチ)あらんことを疑う。
 故に、衆とともに相弁(アイワキマ)うるときは、辞(コトバ)すなわち理(コトワリ)を得ん。」


 ここで最大のポイントは「間違っているかも知れないと疑う」というくだりです。
 聖徳太子は日本史上まれにみる大天才であり聖者でもありますが、本人は「自分はもとより凡夫である」と述べておられます。
 そして、自らの考えに過ちがあり得ることを熟知した上で訴えました。
「どうか皆さん、いかに正しそうな、あるいは妥当そうな思想や主張や施策であっても、私たち凡夫のやることですから、過ちがあり得るという前提で、衆知を集め公正な議論を行い、人々のため、過たないよう万全を尽くしてください」

 ちなみに、かつての自民党は各派閥の論客を集めた総務会においてこの伝統を守り、全員の納得を得て衆議一決するまで徹底的な議論を行いましたが、小泉内閣時代に多数決を採用し、以後、麗しい伝統は失われ、政界全体から〈多数派の慎重さや謙虚さ〉が消え去ったように思われます。
 グループを白か黒か、多数か少数か、勝者か敗者かと単純に二分し、多数派から「改革」と称する目新しい政策が一方的かつ、次々と登場する危うい政治となった背景には、勝った負けたを面白おかしく眺める有権者とマスコミの姿勢が大きくかかわっていることを忘れるわけにはゆきません。

お盆の意義を考える

 上記のとおり、梅原猛氏の指摘に従い、私生活を行う個人としての人倫と、権力を用いる社会人としての人倫を考えました。
 ようやく、お盆に入ります。
 お盆は、二度の「神殺し」にも消滅させられなかった「日本人の精神の美しさ」が表れる大切な宗教行事です。

 日本人は自分のいのちを決して〈自分だけのもの〉とは考えず、ご先祖様から受け継ぎ、子々孫々へ受け継ぐ〈預かりもの〉と受け止める感覚を大切にしてきました。
 だから「おかげさま」なのです。
 目に見えない「御陰」とは仏神であり、御霊です。
 同時に、目に見えない天地万物や社会から受ける恩恵もまた私たちがいのちをつないで生きるためには欠かせず、こうして、時間的・空間的に無限の功徳へ感謝する言葉としての「おかげさま」は私たちの倫理を支えています。
 ご先祖様や先亡の家族を菩提寺や家でお迎えし、あるいは、お世話になった方々や忘れられない方々のお墓へお詣りするお盆は、日々の暮らしや仕事に追われている私たちがともすれば忘れかけている人間として欠かせない「おかげさま」の心を思い出し、自分の具体的な行動をもってそれをはっきりと御霊へお伝えするかけがえのない機会です。
 以下、長澤弘隆師編著『真言宗檀信徒のよろこび』を元に、お盆を過ごす心構えについて述べてみます。

一 報恩の精神

 ご先祖様のいない人は一人もいません。
 もしも遙かなご先祖様のお一人でも欠けていたなら、私たちはこの世に生を承けていなかったはずです。
 いのちをつないでくださったご先祖様は何とありがたいことでしょうか。
 自然ですなおな感謝の心を形に表しましょう。

二 ご先祖様に対する願い

 ご先祖様は決して無になってはおられません。
 影が形に従うように、いつも私たちをお見守りくださっています。
 その証拠に私たちは、大病に罹ったり、戦場へでかけたりするギリギリの場面で合掌するではありませんか。
 その対象が亡き母であれ、あるいはお大師様であれ、あるいは観音様であれ、すべて「御陰」と言うしかない方々です。
 普段は忘れていても、私たちは無意識のうちにそうした存在を知っており、感じてもいます。
 だから、ご先祖様にご安心いただき、ご加護いただくよう、自然ですなおな願いを持ちましょう。

三 自分を見つめ直す

 本堂や精霊棚や墓地でご先祖様の御霊と時間空間を同じくし、「御陰」を実感することによって、普段は気づかない、あるいは忘れている自分のルーツや家族、親族とのつながりを自覚します。それは、自分が何者であるかを見つめ直す機会でもあります。

 こうしたことをふまえ、同著は指摘します。

「日本中が仕事を休み身体を休めて本当の人間性に戻る日、それがお盆です。
 だからこそ人々はこぞってふるさとを目指し、なつかしいわが家へ帰るのです。」


 大切な時期を有意義に過ごしましょう。




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「おん あらはしゃのう」
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2015
07.25

チベットでの焼身自殺 ―青年の死を無駄死ににさせぬためには―

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〈これがチベットと中国の現実である〉

 7月9日、チベット僧侶ソナム・トプギャル(27才)が焼身自殺をはかり、翌日病院で死亡した。
 平成21年からこれまでの間にチベット人の抗議自殺は142件にのぼる。
 場所は中国青海省玉樹チベット族自治州。
 ここでは5年前、マグニチュード6.9の青海地震が発生し、死者2698名、行方不明者270名、負傷者1万2千名以上の大惨事となった。

 いかに覚悟の上とは言え、彼は火に包まれても転げ廻らず、暴れず、倒れたまま祈っているようにすら見える。
 また、周囲の人々も誰一人、火を消そうとせず、ただ、見届けようとしているかのようだ。
 自他の救済を祈る僧侶が自らのいのちを断つしか人々を救う方法がないとは……。
 元来、チベットの動物だったジャイアントパンダを各国との友好親善の道具として用い、弾圧と略奪を繰り返しつつ日本で〈爆買い〉に興ずる中国人とは……。
 
 難民支援NGO"Dream for Children"公式ブログは報じた。

トプギャルの家族はトプギャルの遺体を引き取るために病院に出向いたが、中国当局は遺体の引き渡しを拒否し、家族を拘束したという。
 トプギャル焼身自殺後、中国当局はただちに現地の取り締まりを強化し、通信を遮断している。
 その後、車のガソリンを買うには、政府からの許可が必要となっている。」

 
 約2年前、ダライ・ラマ法王は、日本の支援者たちを前に焼身自殺への感想を求められ、こう答えられた。

「このように自らの命を犠牲にして何かに抗議するという行いは、今までも行われていたわけです。
 例えば中国の中におきましても、ある中国の仏教のお寺の僧侶の方が自らの命を投げうって、人びとのために抗議をしたことがありますし、ベトナムの中でもそういったことは起こっています。
 そして私たちの国チベットでも全く同じです。

 このように自分にとってもっとも大切なものである命を投げ出して、他の人たちを救うために、世の中にそういったことの不条理を問いかけようと、こういう行いというものは本当に尊ぶべき、本当に美しい行いだと思います。
 そういった行いというのは、究極的には他の者たちに暴力を使わないで自らを痛めるということによって、世にその不合理性を問うという行為であるわけですから本当に素晴らしい行為ではないかと思います。

 これに関しましては、もちろん本当に非常に心が痛む悲しい出来事であるわけです。
 私はひとりの仏教の僧侶でありますので、そういう意味においても本当に焼身自殺者が出るということに関しては本当に心を痛めているわけなんです。
 これは政治的な状況によって、どうしようもなく起きてしまっていることであり、私自身は約2年前に完璧に政治的な分野における最高指導者としての位置を引退しておりますので、そのような状況であります」


 法王は三つの内容を説かれた。
 一つは、他者を傷つける暴力によるのではなく、自らのいのちをかけて社会の不条理を正そうとする行為は菩薩(ボサツ)の利他行であるということ。
 もう一つは、いのちを尊ぶ宗教者が自分で自分のいのちをなくすという究極的方法しかないと決断し、死んで行くのは耐え難いほど悲しいということ。
 そしてもう一つは、チベット人の力ではどうにもならないところまで追いつめられた状況について、政治的分野での最高指導者を降りた自分は、政治的判断や行動を控えるということ。

 なお、自殺そのものに関するダライ・ラマ法王の見解については、拙書「生と死そして愛とカルマ ダライ・ラマ『死の謎を説く』に学ぶ」をご覧いただきたい。
(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-4642.html)

 ここでは、以下、自殺に関するお言葉の一部のみを断片的に転記しておきたい。

「人がこのような決断を下す理由は、唯一つの事柄によるわけではない。」

「死への恐れ、恐怖は依然としてある。
 にもかかわらず、それと対立し矛盾する心の衝動が生じ、それが恐れを凌駕(リョウガ)する瞬間が、人が自ら命を断つときなのだろう。」

「自殺においては、己(オノレ)自身を殺すという動機は存在する。
 また、その行為は現実に遂行(すいこう)されている。
 だが、あなた自身が死ななければ自殺が完成しない以上、あなた自身が己(オノレ)を殺すという行為を完遂させることは不可能だ。
 真の意味で自殺は成立しないということになる。」

「自殺はなべて悪であるとは言い切れない。
 ある特定の、ひじょうに限定された状況において、自殺は許される行為となりうることを言っておかねばならない。」

「他者に悪しきカルマをもたらすことを避けるためには、こうした自殺は許される。」

「よく肝に銘じておくべきだ。
 仏教徒にとっても、自殺は悪しきことである。
 極力、自殺は避けねばならない。
 ここで私が述べたことは、あるきわめて限定された極限状態の中で、例外的に自殺も否定されない場合があるということである。
 いかなる場合も、自殺を絶対的に罪だとするキリスト教との違いを覚えておけばそれでいい。」


 あしかけ6年、ようやく映画『ダライ・ラマ14世』が完成し、全国各地での上映会が始まった。

「本作では、今まで誰も見たことのないダライ・ラマ14世に出会うことになる。
 カメラは関係者以外には入ることのできない場所へと分け入っていく。
 そこに映し出されるのは、眼鏡をはずし、お茶をのみながらくつろぐ普段の姿。
 書物に目を通し、今も日々の課題を学ぶひとりの僧侶としての姿である。

 また、チベット亡命政府のあるインドのダラムサラと、いまもチベットの伝統と風習が受け継がれるラダックへの取材を敢行。
 その映像からは、脈々と受け継がれるチベット仏教の教えと、その源流であるダライ・ラマの存在、そして亡命後にダライ・ラマ14世が人々と作り上げてきたものが浮き彫りになってくる。
 作品中、法王は私たち日本人に、エールというべき期待を込めたメッセージを送っている。
 戦後70年の今、そのメッセージをひとりでも多くの人に受け取ってほしい。」


 ネットで映画の情報について検索すると、明らかに消されたものがある。
 恐ろしい状況になった。 
 宮城県での一日も早い上映会開催が望まれる。
 何としても、青年の死を無駄死ににしたくない。




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2015
07.24

君こそは光と朝だ ―チェーザレ・パヴェーゼ―

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〈パヴェーゼを魅了したコンスタンス・ダウリング〉

 イタリアの詩人チェーザレ・パヴェーゼは、1931年、23才のおりに詩『祖先』を書いた。

「この世界に呆然としているぼくに、ある年齢が訪れて
 虚空に拳を振りあげたまま、ぼくは独り泣き濡れていた。

 仲間を見つけるたびに、ぼくは自分を見つけてきた。

 土を見つけるたびに、ぼくは仲間を見つけてきた、

 ぼくらはあの丘から丘を流離うために生まれてきた、
 女は連れずに、両手を後ろに組んだまま」


 父親を早く亡くし、文学に深い関心を持つ青年は、〈自分〉の頼りなさを知った。
 丘に消え、丘に憩う祖先に自分のいのちが連なっていると感じて、ようやく立つことができた。
 しかし、祖先たちも、自分も等しく孤独である。
 最も関心のある女性に近づけず、実を結ばない果樹のように、観念だけが肥大し、さまよう。
 まるで彼の未来を予言しているかのようである。

 詩や小説を書き、高い評価を受ける作家となったが、女性を求めつつ「女は連れずに」歩くしかない苦しみに堪えかね、42才で自殺する。
 彼のもとを去った女優へ宛てた手紙が絶筆となった。

「君こそは光と朝だ
 死が来て、君の瞳を奪うだろう」


 現代の心理学は「思い出の興起(レミニセンス・バンプ)」という現象を見つけている。
 その説によれば、自分の人生を振り返った時、記憶としてよみがえる圧倒的力を持っているのが15才から25才までの時期に生じたできごとであるという。
 喜び、哀しみ、苦しみ、恐怖、驚愕、あるいは発見といった強烈な感情を伴った人生初の体験は、いつまでも記憶から去らない。
 私たちがなぜ、その後、似たような体験をしながらも〈目新しさ〉に彩られたできごとを忘れられないのかはまだ、よくわかってはいない。
 ただ、パヴェーゼは鋭く指摘している。

「我々はその日を覚えているのではない。
 瞬間を覚えているのだ」


 これはちょうど、恋に落ちる瞬間そのものではないか。

 彼はいかなる瞬間に、「丘」で「仲間」と出会ったのだろう。
 彼はいかなる瞬間に、どこで「君の瞳」と出会ったのだろう。

 確かに、私たちをとらえて放さない瞬間はある。
 私たちの情緒は、こうした瞬間たちを蓄えた宝石箱から密やかにたち上る香気のようなものではなかろうか。
 



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2015
07.23

幸せな死とは?(その2) ―人を幸せにする医学―

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〈40年前の結婚式〉

 外科医中山祐次郎氏著『幸せのために一刻も早くあなたにお伝えしたいこと』を読んでいます。

 医師は、「誰もいないはずの部屋のナースコールが鳴った」「誰も入院していない個室で、窓が閉めてあるのにカーテンがずっと揺れていました」「お見舞いに一緒に来た赤ん坊が、何もないところを見てきゃっきゃっと笑っていたり、小さい子どもが誰もいないところを指さして『あれ誰?』なんて言う」などと、意外な事実を述べます。

「医療者であればみな、実は万物を超越した存在を感じていると思います。
 合理的な説明のつかない現象を目の当たりにしている我々は、その見えない『ある力』の存在を否定できないのです。
 だから私は、想定外のことも想定します。
 というより、想定外のことなど何もないと考えています。
 本当に、何が起きても不思議ではないこの世の中、『事実は小説より奇』です。
『何が起きても不思議ではない』と心底思うことができたなら、不測の事態にも動揺が少なくてすみますよね。」


 そして、「医師には、結構ゲンを担ぐ人」がおり、中山医師は執刀の際、「必ず赤いパンツをはくように」しているそうです。

 ある患者さんが亡くなり霊安室を訪れた時のことをこう書きました。

「地下の霊安室の前の廊下は朝からひんやりとして、物音ひとつしない。
 霊安室に近づくにつれ、私は感じる。
 人がぬということ。
 んだ人がいるということ。
 その事実がまわりの空気を冷やしている。」


 また、意外な事実が述べられます。

「以前こんな面白いアンケートを見ました。
ぬより辛い状態は存在するか』という質問に、一般の人は三割くらいしか『存在する』と答えなかったのに対し、医師はほぼ100パーセントが『存在する』と答えたのです。
 めちゃくちゃ痛かったり、息苦しくて暴れ回ったり、不安と哀しみで地獄を味わったり、医師は患者さんのそういった辛い状態を実際に見ているので、こういうアンケート結果になったのでしょう。
いのちを延ばす』ことを至上目標にしている医師たちは、患者さんにも『一時間でも一分でも長く生きることがいいことなのだ』と言って、治療にあたります。
 でも自分たちは『いのちを終えた方がまだマシ』という状態があることに同意している。
 なんとも皮肉なアンケート結果ですね。」


 そして、医師はひとりひとり「口に出すことすらはばかられる『葛藤』」を抱いていると告白します。
 人工呼吸器、点滴、輸血などをどうするか、生に直結する判断の場面から、医師は逃れられません。

医学の至上目標は『いのちを延ばす』ことだと言いながら、医師はしばしば、神様が下すような判断を迫られることがあるのです。」


 医師はさらに先へ行きます。

「一度精神科のお医者さんの講演を聞いたときに、質問したことがあります。
『自はいつも病的なものなのですか。
 死にたいと思う気持は、病気なのですか。
《正常な》自死なんてものは存在しないのですか』と。
 答えは、『きわめて難しいが、精神医学では自死を病気として扱う』とのことでした。
 医学の目的が『いのちを延ばす』ことであれば、自死はひとつの病気として治療の対象になるでしょう。
 でも本当でしょうか?
 死ぬより辛い状態があるということを、いのちを終えるよりほかに解決策がないような苦痛がこの世に存在していることを、医師たちは知っているのに。
 医学の語彙は、自死というもの全体を語るには十分ではない気もしています。」


 私たちも知っています。
 苦痛のみの生から脱するために、自らチューブなどを外して欲しいと頼む、あるいは外してしまう患者さんがいることを。
 家族への負担を打ち切るために、点滴などを外して欲しいと頼む患者さんがいることを。
 あるいは、死期を悟り、残りの人生を治療以外のものに使いたいと願い、治療を受けない病人がいることを。
 小生は、命日を予言し、その日に向けて淡々と法務をこなしたお大師様もそのお一人であると固く信じています。
 
 さて、医師はとうとうたどり着きます。

「そしてさんざん悩んだあげく、今私はこう考えます。
 医学の目的とは、『いのちを延ばす』ことではなく、『人を幸せにする』ことであると。」

幸せのかたちは人それぞれです。」


 だから、長生きしたい人にはその手助けをし、苦しく痛い治療を避けたい人には無治療という選択肢もあると示し、臓器を提供したい人にはそうした手続きをし、痛み止めを求める人にはたくさん使い、家で最期の時を迎えたい人にはその準備をし、医師へ任せたい人には道を決めてあげます。

「人を幸せにする。
 そのために医者はいるし、医学はあると思うのです。
 ひょっとしたら、『幸せにする』なんて、傲慢でおこがましいかもしれません。
 でも、私は『幸せになるお手伝いをする』なんて他人行儀名ことは言いたくありません。
 そこには『患者さんを幸せにする』という覚悟と、責任を持っていたいのです。」


 ここにある決意は、小生の旗「(人々の)この世の幸せとあの世の安心のために」と何ら変わりありません。
 小生は、役に立たせていただきたいという偽らざる願いを持っていますが、医師は「覚悟と、責任」まで踏み込んでおられます。

 かつてお送りしたAさんは、バブル崩壊後に100億単位の借金を抱えて危機に瀕した企業を守り抜き、傍からはいかなる神力を持っているのかと訝られるほどでした。
 いよいよという頃、震える手を合わせながらAさんは言われました。
「住職さん、私はろくでもないことをさんざんやってきました。
 もう、おすがりできるのはお大師様と住職さんしかありません。
 どうか、極楽へ送ってください。」
 あの時の手の震えと温もりは年月が経ってもまだ、鮮明です。
 低い声で小さく「はい」としか応えられませんでしたが、ベッドにかがみ込みつつ背筋を伸ばす小生の心にも〝必ず〟という石のように動かせない思いが生じました。
 覚悟責任だったのかも知れません。

 ようやく白みかけてきた窓外の世界はヒグラシの声に満ち、湿り気を帯びた空気はひんやりしています。
 すでに暦は6月の夏至において隠遁(イントン…陰の世界へ入ること)しており、立秋まであと半月です。
 ひょっこり出てきた40年ほど前に撮った写真(友人の結婚式)を目の端に入れながらこの稿を書き終えました。
 今日も引導を渡さねばなりません。
 南無大師遍照金剛。
 



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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
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2015
07.22

幸せな死とは?(その1) ―外科医中山祐次郎氏の提言―

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 私たちは往々にしてこう思います。

「なぜ自分がこんな病気になったのか?」

 37才の外科医中山祐次郎氏は著書『幸せのために一刻も早くあなたにお伝えしたいこと』で答えます。

「現代の医学では『たまたま』以上の説明はできないのです。」

「いのちの現場にいる医師は知っています。
 ほとんどの人は突然、なんの前触れもなく余命を宣告されます。
 それが何歳になるのか、どんな病気なのか、誰にもわかりません。
 私だって、自分がどんなことになるのか見当もつかないのです。」

「病院で医者をやっていると、『一度も病院にかかったことがないのが自慢だったのに、なんで突然がんになるんだ』とか、『毎年検診で異常なしと言われていたのになぜ、気づいたらがんになっていたんだ』と、おおしゃる患者さんが大勢いらっしゃいます。
 患者さんがそのように思ってしまうのにはカラクリがあります。
 そういう方は三十代、四十代、五十代を、なずに健康に生きてこられました。
 それまでの多数のいのちの落とし穴を、たまたま上手にすり抜けてここまでいらしたから、そのお歳まで生き残れたとも言えます。
 だからこそ『突然に』がんがやってきたと思ってしまうのです。
 健康自慢で医者にかかったことのない人が、ある日突然治らない病気を宣告される。
 それが現実に起きていることです。」

「この人生の締め切りは、『必ずやってくるくせに、誰にも詳しくわからないし、予測が不可能』なのです!」


 医師は、自分の本音を確かめておくよう勧め、問題を出します。

「もし一年後に歩けなくなるとしたら、この一年でどこに行きますか?」
「もし一年後に目が見えなくなるとしたら、何を見ますか?」
「もし一年後に口からものを食べられなくなるとしたら、何を食べておきたいですか?」
「もし一年後に話せなくなるとしたら、誰と何を語りたいですか?」
「もし一年後に耳が聴こえなくなるとしたら、何を聴いておきたいですか?」


 せつない質問ですが、誰しもが自分の望みを知り、できることとできないことを整理し、できることに取りかかっておく必要があります。
 突然、〈その時〉がやってきても、くよくよせず、粛々と旅立ちの準備をするために。
 最も信頼できる人と今日、逢っておけば、それは一つの達成です。
 大好きな山で雨音を聴くのがたとえ小さなできごとであっても、達成しておけば、〈その時〉の衝撃は必ずいくばくか和らぐことでしょう。

 厳しい現実をそのまま伝えねばならず、その一方で、「失意のまま」病院に来なくなった患者さんや、「驚きのあまり『西洋医学は間違っている』と言って怪しげなサプリメントを出す店に通い、手の施しようがなくなってからまた外来に」やってくる患者さんを見ている医師は「いつも疑問に思って」います。

「はたして患者さんはこの現実に向き合えるのか。
 自分が不治の病にかかり、余命が宣告されることに耐えられるのか」


 アメリカ人のような強い愛国心や宗教心などを持たず、訴訟社会にも慣れていない日本人が、「見よう見まねでアメリカ式個人主義を『直』輸入」してしまった日本人の現状に強い危惧を抱いています。

「信じる神を持ち、来世を信じてを笑顔で受け入れる人はごくまれです。
 愛する人を守るためと若くしてんでいった特攻隊員のように、集うべき靖国の桜を持ちません。
 主義もなく、宗教もなく、血縁関係も希薄なのです。
 その意味では歴史上かつてないほど、『孤独』であると言えます。」


 そして「精神的支柱を持たぬ」人が独りで「精神的なショック、いや全人的なショックを簡単に医師から与えられる」ようになった現場で立ちすくんでいます。
 だから「新興宗教」や「生き方のマニュアル」などに引きずられるよりも、こうしてはどうかと勧めます。

を想い、自分の本音に耳をそばだて、自分にとって本当に大切な人と一緒にいることは、あなたという家を、ささやかながら頑丈にします。
 大嵐の衝撃を和らげてくれるのです。」


 最近また、〈家族を厭う〉、あるいは〈独りを勧める〉、あるいは〈独りであの世を目ざす〉本が売れているそうです。
 人生相談を受け、を前にした方や、家族をお送りする方々と日々接している現場の宗教者としては、そうした方々の言い分はさておき、ほとんどが各種の意味で〈恵まれた〉人々だから言えるのだろうと感じざるを得ません。
 病気に罹り、旅立つ市井の方々は、家族に助けられて生き、家族の視線を感じつつ安心して旅立ちます。
 家族の縁が薄い方も、「おかげさま」「おたがいさま」と暮らしつつ、信頼と感謝に包まれて旅立ちます。

 医師は述懐します。

「緩和ケアと言う学問にこんな言葉があります。
『人は生きたように死んでいく』
 このフレーズは、『人の最期のときは、その人の人生そのものを凝縮している』というような意味でしょうか。
 一生涯をかけて誰も愛してこなかった人、誰にも本気で尽くしてこなかった人。
 そういう人は、残念ながら誰からも付き添われず、病院のベッドでひっそりと淋しい最期を迎えます。」

「私たち医師や看護師は、薬剤を使って痛みを取り、いろいろな手段で『ソフト・ランディング』を目指します。
 でも、最期を迎える人に寄り添い、手を握り、涙を流して『ありがとう』という人の代わりはできません。
 だから、日頃からご家族や友人など、大切な人との関係を育んでいただきたいと思うのです。」


 もちろん、医師は、お見舞いしてくれる人が多ければ幸せだといった単純なお話をしておれるはずはありませんが、最後に小生の体験を述べておきます。
 Aさんはごく普通のサラリーマン生活をやり遂げました。
 定年になり、ご夫婦でのんびりしようとしていた矢先、末期ガンと宣告されました。
「これも運命だ」
 平然と一言で受け止め、淡々と最期を迎えました。
 枕経が終わり、お戒名をご本尊様へ祈るために、どういう方だったか、ご家族へお訊ねしました。
 ほんの数日前、一緒にある寺院をお詣りしたという奥様の一言。
「とにかく優しい人でした」
 沈黙が流れ、小生はどうにか声を絞り出しました。
「お幸せでしたね」
 目を伏せ、涙をこらえる奥様の前から退去する小生もまた、涙をこらえるのに精いっぱいでした。
 故人のおられる小さな和室を包む沈黙の深々とした情感は忘れられません。
 



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2015
07.21

【現代の偉人伝】第209話 ―イラク派兵の実態を明らかにした医師福間詳氏―

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 7月17日付の朝日新聞は、平成15年から平成17年までの間にイラク派遣された自衛隊員の精神的ケアに従事した医師福間詳氏に対するインタビューを掲載した。
 すでに国会において、派兵された陸上自衛隊員のうち21人が在職中に刺殺したことが報告されている。

派遣された約5480人は、精神的に健全であると確認したうえで選ばれた精鋭たちです。
 そのうち21人が自殺したというのは、かなり高い数字ですね」


 21人は〈在職中〉の自殺者のみの数字であることに注意せねばならない。
 退職するしかなくなり、その後、自殺した隊員が相当数あったことは容易に想像できるが、そうした調査発表は行われていない。
 事実、医師は述べている。

自殺は氷山の一角で、イラク派遣の影響はもっと深刻なのではないかと私は考えています」

「当時、勤務していた自衛隊中央病院に、帰国後、調子を崩した隊員が何人も診察を受けにきました。
 不眠のほか、イライラや集中できない、フラッシュバックなど症状はさまざまでした。
 イラクでは体力的に充実し、精神的にも張り詰めているためエネルギッシュに動いていたものの、帰国して普通のテンションに戻った時、ギャップの大きさから精神の均衡を崩してしまったのです。
 自殺に至らなくても、自殺未遂をしたり精神を病んだりした隊員は少なくないと思います」


 ストレスの緩和をはかったが、「全体の3割が『ハイリスク』(過緊張状態)という部隊」もあった。
 2年ほどの間に13回、迫撃砲弾などが撃ち込まれた生活環境は想像を絶する。

「宿営地は一辺750メートルの正方形で、周囲を壕(ごう)と有刺鉄線に囲まれていました。
 正門につながる道路にはコンクリートの防護壁が並び、周辺では地雷や不発弾も見つかっています。
 日差しが強く、テントの中に入ると明暗差から周囲が見えなくなるほど。
 夏は気温60度、パソコンが突然シャットダウンしたり、水道をひねると熱湯が出たり。
 生活環境が過酷なうえ、攻撃を受ける可能性もあり、緊張度は高かったですね」


 着弾後、警備についていた隊員へ聞き取り調査をした。

「警備についていた隊員から聞き取りをしました。
『発射したと思われる場所はすぐ近くに見えた。恐怖心を覚えた』『そこに誰かいるようだと言われ、緊張と恐怖を覚えた』。
 暗くなると恐怖がぶり返すと訴える隊員は、急性ストレス障害と診断しました」
「夜間に望櫓(ボウロ…監視用のやぐら)に立つのは、おもに警備中隊以外の隊員です。
 銃の取り扱いに慣れていない彼らが恐怖から発砲したり、逆にテロに襲われたりした場合、多くの隊員が連鎖的にパニックに陥る可能性はあったと思います」


 アメリカでは帰還兵の心的障害が大きな問題になっている。

「アメリカで社会問題になっているイラク帰還兵の心的外傷後ストレス障害(PTSD)はコンバット(戦闘)ストレスとも呼ばれ、目の前で敵を殺したり、味方が殺されたりしたときに起きます。
 惨事を経験したショックによる『高強度ストレス』です。
 一方、自衛隊員が直面したのはおもに人間関係や仕事の単調さなどによる『低強度ストレス』で、質的に全く違います。
 極論すれば、日常のストレスと変わらないものでした」


 日常的ストレスの延長にあったとは意外な指摘だが、過去の派兵地の中でイラクは「最も戦場に近い」と言われながらも、あくまでも「非戦闘地域」であるとされていたことを考えてみれば、当然なのかも知れない。

「たとえば、上官が意見を聞いてくれないなど、人間関係のこじれ。
 あるいは、警備担当なら『仕事の成果が形に残らない』、給食担当は『仕事が単調で達成感が得られにくい』といった訴えがありました。
 宿営地設営に追われた初期には、休みが取れないこともストレスでした。
 自分を否定的にとらえ、『逃げ出してしまいたい』『銃で自分を撃とうと考えた』と打ち明ける隊員もいました」

「多忙な、あるいは単調な任務、職務の変更、環境の激変、対人関係といったストレスが凝縮されていました。
 一部の緊迫した場面をのぞけば、情報不足、裁量権のなさ、不適切な評価といった要因からストレスをためこんでいたのです」


 医師はなだらかなストレス解消をはかり、隊員を帰国前にクウェートのホテルに泊め、買い物などによる「クールダウン」をさせた。
 それでも、帰国後に不調を訴える隊員が相次いだ。

「あの状況下でストレスをためこむのは自然なことです。
 ただ、過緊張が長く続くと、正常な脳はダメージを受けやすい。
 だからといって急に休ませてはいけない。
 いわゆる『荷下ろし』によって気が抜けると、ストレスは悪化するのです。
 帰国後、1カ月の休暇を与えた部隊もありました。
 でも、ゴロゴロダラダラは逆効果。
 休養ではなく、リポート作成などリハビリが必要なのです」


 定期的なストレステストなど、できる限りのフォローを行ったが「サマワでの任務の影響は想像を超えるもので」あり、自殺は防げなかった。
 以下の事実は、隊員が決して外部へ語れず、一人で抱え込んで苦しむ状況を明らかにしている。

「原隊に戻ると、通常任務を続けていた隊員との間に齟齬(ソゴ)が生まれたり、1日2万4千円の危険手当へのやっかみなどからいじめられたり。
 サマワでの経験を生かすどころか、それが足かせになって追い込まれるケースもあったと聞きます。
 私はイラク派遣が終了した5カ月後に退官したため正確にはわかりませんが、未解明なことが多すぎます」


 そして、通常任務で留守を守った隊員の側にも、なかなか解消できない心の歪みが少なからず生じてしまう。
〝あいつだけが大金をつかんだ〟
〝人員が減ったために残った俺たちがどれだけ苦労していたかは誰も気づいてくれないが、あいつらだけは英雄扱いだ〟

 現在、自衛隊は、精神的な病気に罹った隊員の職場をさまざまな形で守ってはいるが、実態を公表することはない。
 安全保障体制を変え、海外派兵して米軍と一体になる前にやるべきことが指摘された。

「現在、自殺との因果関係を元に『公務災害』と認定されれば、約1億円の補償金が遺族に支払われます。
 今後、対象者が増える可能性があり、公金が使われるだけに、判定委員会といった組織を設け、統一した基準に沿って判断するシステムをつくることが重要ではないでしょうか」


 海外派兵における戦傷や戦死のリスクは今までより増すことはないといった国会の議論と正反対の提言が現場から発せられた。
 後手に回り、隊員やその家族を二重三重に苦しめることがあってはならない。

 そして、海外派遣とストレスの問題について、今までほとんど語られていない重要な指摘がなされる。

「なぜその任務につく必要があるのか。
 隊員たちが誇りをもって活動できるかは、国民のコンセンサスにも左右されます。
 ただ死者がでれば、世論は一変するでしょう。
 そうなれば、ベトナム帰還兵が社会から疎外されて精神を病んだのと似た事態が起きないとも限りません。
 社会の理解が不可欠です。
 アメリカでは、アフガニスタンとイラクから帰還した後の自殺者が戦死者を上回っています」


 隊員自身はもちろん、家族や周囲の人々も、そして世論も納得できる海外派遣であるかどうかが隊員を守る決め手となる。
 アメリカにおける帰還兵の自殺者数が戦死者数を上回っているという事実には戦慄すら覚える。
 そして、死者が出た場合、日本の世論はどう動くのか?
 想像するだに恐ろしい。
 もしも、イスラム教への嫌悪や恐怖や不安といった感情が醸成されれば、もう、〈大和の国〉日本にはなかなか戻れないかも知れない。
 決して〈最初の死者〉を出さぬよう、〈日本の敵〉を自ら新たにつくらぬよう、心したい。

 医師は最後まで患者を思いやる。

「最近は、幹部向けの課程に惨事ストレスセミナーなども採り入れているようですが、より重要なのは帰国後のケアです。
 隊員の精神状態は一様でないため、個別に時間を追って対応する必要がある。
 しかも任務が過酷になるほど重要性は増します。
 派遣前にはみっちりと訓練を積みますが、任務を終えた後のフォローアップには改善の余地がありそうです。
 イラク派遣隊員のメンタルへの影響を分析して、教訓を次に生かしてほしいものです」


 はたして、イラクで過酷な任務に励んだ隊員たちの心的状態はきちんと分析され、そのデータは今後に生かされるのか?
 注視したい。




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2015
07.20

冷たい世界から復活した保母さん ―東日本大震災被災の記(第170回)―

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 当山の投稿が、7月19日付の河北新報「挽歌の宛先」シリーズに採り上げられた。

「◎冷たいものに浸され沈んだ心 明るさ取り戻す/宮城県大和町・僧侶 遠藤龍地さん(69)

 震災後にお骨を預かり、葬儀を行い、供養を途切れさせることなく続けてきた者として忘れられぬ出来事は山ほどある。
 その中の一つで、被災地で頑張る40代の保母さんから人生相談を申し込まれたことがあった。

 津波でご家族が行方不明となったが、保育所で預かる子どもたちのため、自分の心が崩れてしまわないため、張り詰めた糸のような毎日を送っていた。
 最近、夕刻になると幾人かの子どもに不安な表情が浮かぶという。
 保母さん自身も冷たいものに心を浸されるようになり、その時は抗し難くただ沈んでしまうほかなく、『どうしたらいいのでしょうか』と真剣に尋ねてきた。

 家族が冷たい海にのみ込まれたという意識から離れられない女性には、水に浸されるイメージに乗って何かが届いていたのだろう。
 保育所でぼうっとする子どもたちにはただ、思いのありったけを込めたスキンシップで接すればよい。

 御霊(みたま)と通じ合う宗教的感応の世界は魂がふるえるような出来事に満ちている。
 ご加持を受けた女性は法話に耳を傾け、合掌しながら伝授された真言を一緒に唱え、暗唱できるようになった。
 明るい声でお礼を言い、薄暗い玄関からさんさんたる陽光の世界へと踏み出した女性はまるで船出をする人のようだった。」


 投稿を掲載していただき、二重の意味で感慨深いものがある。

 一つは、未曾有の災厄に際して僧侶はいったい何をしていたのか?という批判が少なからずあったからである。
 宗教者はもっと現場でボランティア的にはたらいて当たり前ではないかという議論も聞こえていた。
 もちろん、批判は甘んじて受けるが、きっと、個々の寺院ではそれなりの苦闘を強いられていたのではなかったと思う。
 たとえば当山に突然、外国から慰問に来た僧侶たちを泊めてはくれないか、あるいは団体の人たちに場所を提供できないかなどなどのご相談があった。
 しかし、当山は本堂を建てたものの住職の住居も風呂もなく、体調の勝れない妻共々、本堂で寝起きしており、協力する余裕はなかった。
 そして、何よりも、人生相談やご祈祷やご供養などで当山へ救いを求める方々に対する日々の対応があり、複数の僧侶がいればいざ知らず、一人しかいない僧侶である住職が海岸へボランティア活動に出かけることは不可能だった。
 予約の合間をぬって、かつて托鉢で歩いた海岸へ向かい、密かに修法を行うしかなかった。

 もう一つは、宗教者たちの〈一致した協力〉を求める声があったからである。
 しかし、宗教宗派を超えた行為としては、互いを認め合ったり、共通した徳や価値を確認するといった姿勢やふるまいなどでは可能だが、プロとしての修法を求められる現場での宗教活動においては不可能である。
 当然ながら、小生が一旦合掌するならば、それはそのままお大師様の説かれた即身成仏(ソクシンジョウブツ)につながる身口意(シンクイ)の動きへ入ることであり、他の宗教宗派の作法と共通することはあり得ない。
 そして、修法にすべてをかけている身としては、形式的に〈宗教宗派を離れた方法〉で過ごすプロならざる時間を持つ余裕はなく、プロがプロである方法を離れた形で真に役立つ場面も必要性も考えられない。
 もしも熟練した大工が、自分の会得したコツと異なるやり方でカンナをかけてくれと頼まれたなら、きちんと削ることができないと断ることだろう。
 
 人それぞれの事情や精進がある。
 プロは会得したもので役立ってこそ、プロである。
 あの保母さんの後ろ姿に再び合掌する思いである。




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2015
07.19

インドの心中未遂と宗教の役割

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〈7月19日付の河北新報「心を寄せ合う 分かち合う」に掲載されました〉

 7月18日付の産経新聞は「タージマハル心中未遂」を報じた。 

「インド北部アグラにある世界遺産、タージマハルで、宗教の違いから家族に結婚を反対された若いカップルが、心中を図った。
 インドでは、宗教カーストが異なることを理由に、男女が結婚を反対されることが多い。事件の舞台が、17世紀の皇帝が愛妃のために建設した巨大な墓だっただけに、2人の悲恋が注目を集めている。

 現地警察当局者によると、ヒンズー教徒の男性とイスラム教徒の女性が15日、タージマハルの建物近くで、のどを刃物で切って自殺を図った。
 血を流して倒れているところを警備員らに発見されて病院に運ばれたが、命に別条はないという。
 刑法は自殺を違法としているが、警察はこれ以上捜査しない方針だ。
 インドでは、こうした男女が、駆け落ちをすることも少なくない。
 反対を押し切って結婚したために、親族の怒りを買い、殺害される“名誉殺人”がしばしば起きている。
 男性の親は病院に駆けつけたが、女性の親は17日朝になっても姿を見せていない。

 タージマハルは、ムガール帝国第5代皇帝シャー・ジャハーン(在位1628~58)が死去した愛妃のために建設した巨大な墓。(ニューデリー 岩田智雄)」


 勃興めざましく、数学や物理学や電子工学などの分野では世界で一目置かれるようになったインドには、西欧や日本とはかなり異なる文化がある。
 その最たるものはカーストである。
 もちろん、現在のカーストは身分や職業を定めるものではなく、宗教や慣習などを同じくするコミュニティーといった程度ではあるが、それでも結婚に関しては決定的な意味を持つ場合が多い。
 インドにおける婚活の広告は、まず、自分と求める相手のカーストを明示するところから始まる。
 カーストがもたらす悲恋物語の映画はヒットし、許されぬ恋を断罪する名誉殺人は絶えない。
 しかも、ターゲットとされた人物には懸賞金がかけられ、身内の葬儀などで姿を現した際に殺されるといったケースさえ珍しくない。

 この事件を起こした二人はせっかくいのちをとりとめても、今後、いかなる生活が待っているのだろうか?
 女性の親が姿を見せないという状況も、日本人には到底、理解できないが、現実である。

 こうした情報に接すると、そもそも宗教の役割は何であるか、考えさせられてしまう。
 自分の体験からすれば、一言で言うなら〈解放をもたらすもの〉である。
 もちろん、それはいわゆる思考停止を意味するのではないし、ここから先は神に委ねよと強制されるものでもない。
 般若心経は説く。

「心に罣礙(ケイゲ)無し。罣礙(ケイゲ)無きが故に、恐怖(クフ)有ること無し。一切の顚倒夢想(テンドウムソウ)を遠離(オンリ)して、涅槃(ネハン)を究竟(クキョウ)したまえり。」


(心は何ものにも覆われない。覆われていないがゆえに、塞がれる恐怖もない。無いものを有ると考えて執着する誤ったものの観方を超越し、解放され切った境地を完成させる)

 そして、身についた修法により、解放された境地を求める方々と共有するのが行者たる僧侶の務めである。
 東日本大震災後、心身に傷を負ったたくさんの方々が当山を訪れた。
 ある時、自分自身、大きな傷手をこうむりながらも不安の空気に包まれた保育所で懸命の努力を続ける保母さんから救いを求められた。
 人生相談とご加持(カジ)を行った。
 見違えるように元気を取り戻した保母さんは、船出をする人のような感じで当山を後にされた。
 もちろん、彼女の宗教的信念について一言も問わず、彼女が伝授された真言を今でも唱えているかどうかも知らない。

 仏教寺院は決して葬儀のみを行っているのではなく、開かれた公器として、善男善女の〈この世の幸せとあの世の安心〉を求める思いに応えることを使命としている。
 現世的束縛から解放する宗教が、本当に万人を救い得るものであって欲しいと祈るのみである。




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2015
07.18

『寺院消滅』を読む(その2)

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〈個別型永代供養樹木葬『法楽陵』の第一期分は申込み終了となり、周囲へ芝生を貼り始めました。第二期20基のお申し込みを受け付けています〉

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〈招霊木(オガタマノキ)も元気です〉

 鵜飼秀徳著寺院消滅』を読み続ける。

 108頁から、作家玄侑宗久氏が問いに答える「宗教は『時代遅れ』でもいい」が掲載されている。

 今から半世紀ほど前、アメリカにおいて、宗教者が純粋に布施や奉仕に徹した宗教活動を行うためには、宗教行為以外の収入があった方がよいという運動があり、氏も若い頃は「そうした考え方に共鳴していた」が「今ではそれは違う」と思っていると言う。

「宗教者自身が生活のすべてを懸けなければ、仏教教団はどんどん弱ってしまう気がします。」


 当然である。
 一時、二足のわらじを履いていた体験者として断言できる。
 最大の理由は、生活が保証されている環境にあれば、ほとんどの人は、生きて行けるかどうかわからない地点まで、自分を追いつめないからである。
 それは難行苦行の話ではなく、行動原理を純粋な宗教的要請のみに置くかどうかという、行者自身へ突きつけられる問題であり、片足が娑婆的収入につながっていれば、いよいよの段階で必ず、甘くなる。
 甘さはプロとしての未成熟をもたらし、宗教者として生きてゆくだけの布施には決して恵まれない。
 身を棄ててこそ浮かぶ瀬もある。
 お釈迦様もお大師様も、ここのところを仏神へお任せしたからこそ、一流の宗教者となった。
 二足のわらじを脱ぎ、托鉢で生きるようになってようやく、〈お任せする〉恐ろしさもありがたさも知った。
 この恐怖と感謝こそ、行者を真のプロへと導くものではなかろうか。

「おらが寺の和尚さんに『送ってもらいたい』と檀家さんに思っていただけるか。
 そこが寺の生命線です。」


 当山は「脱『檀家』宣言」を行い、布施檀家の真の意味を世に問い続けている。
 その結果、法務を理解して仏縁を求める方々や、一歩、進んで自主的サポーターとなってくださる方々による尊いお布施によって、皆さんが必要とする宗教行為を継続させていただいている。
 その中で最も強い要請こそ「送ってもらいたい」そのものである。
 
 ご紹介を受けてご来山されたAさんが言われる。

「散骨にしてもらおうと思いましたが、息子から問われました。
『お母さんはそれで気が済むかも知れないけど、俺たちが手を合わせようとした時、海へでかけたとしも一体、どこを向いてどうすればいいんだ。
 お母さんから死後のことを言い出されてから、俺たちも具体的に考え始めた。
 お母さんが死んだら、俺たちは必ず、おりおりに感謝して手を合わせたいと思うはずだ。
 その時、ちゃんとわかるようにしておいてくれないと困る。
 そして、そうなる前に、お母さんが本当に安心してあの世へ行けるよう、信頼できるプロの話をちゃんと聞いておいてくれないと困る。
 もちろん、その内容は、実際に手をかける俺たちに教えておいてよ。
 お母さんに俺たちが言いたいことはあと二つ。
 万が一にも当てにしたり争いになったりするのは嫌だから、財産は一切残さないでくれ。
 そして、それぞれ生きていくのに精一杯なんだから、借金も絶対、残さないでくれよ。』
 ご住職とお話をして決心しました。
 どうぞ、私を送ってください。」

 そして、戒名の意義を理解して生前戒名を求め、共同墓『法楽の礎』の契約をされた。
 Aさんはまだ50才台で元気溌剌、どう考えても小生の方が先に逝く。
 だから、Aさんのご信頼は、当山の姿勢についていただいたものに他ならない。
 お応えできる寺院として残すよう、先述の〈恐怖〉と〈感謝〉を知っている行者に後を託したいと願っている。




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2015
07.17

国会は〈説明〉を行う場なのか? ―聖徳太子と明治天皇―

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 7月15日、安全保障関連法案に関し、安倍総理が衆院特別委員会で「まだ国民の理解が進んでいる状況ではない」と答弁して間もなく、与党だけの採決が行われた。
 国権の最高責任者から発せられた言葉と、国権の最高機関が重みを持たなくなった象徴的できごとである。
 次いで、16日の衆議院本会議において自民、公明などの賛成多数で可決された。
 国会内外では、自民党議員も含め、「説明が足りない」の大合唱である。
 しかし、考えてみれば、説明責任が大きく問題にされること自体、国会が形骸化している証左ではないか。
 そもそも国会は、政府が提出する法案の趣旨説明と採決だけが行われればよいのだろうか?

 日本国憲法第四十一条は定めている。

「国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である。」


 それは、国会が他の機関の関与を受けず国の立法権を独占することを内容としている。
 なぜならば、国会の議決には主権者たる国民の意志がもっとも確実に反映されると期待されているからである。
 選良たる議員の選び方や資質といった問題はさておき、国会は何を行うことによって責務をまっとうできるのだろう。
 それは何をさておいても公開された公正な論議に尽きるのではなかろうか?

 今からおよそ千四百年前、聖徳太子が定めた『十七条憲法』の第一条はこう始まる。

「和を以(モ)って貴しとなし、忤(サカラ)うこと無きを宗(ムネ)とせよ」


 親和に満ち、対立や争いのない国を目ざそうという。
 第一条はこう結ばれる。

「上(カミ)和(ヤワラ)ぎ下(シモ)睦(ムツ)びて、事を論(アゲツラ)うに諧(カナ)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん」


 理想の国づくりは、地位の上下に関わりなく協調と親睦を旨とした議論が正々堂々と行われ、誰もが納得できる道理に即した結論を得ることによって可能となる。
 最後の第十七条である。

「それ事(コト)は独(ヒト)り断(サダ)むべからず。必ず衆とともによろしく論(アゲツラ)うべし。
 少事はこれ軽(カロ)し。
 必ずしも衆とすべからず。
 ただ大事を論うに逮(オヨ)びては、もしは失(アヤマチ)あらんことを疑う。
 故に、衆とともに相弁(アイワキマ)うるときは、辞(コトバ)すなわち理(コトワリ)を得ん。」


 独断専行せず、広く衆知を集めて議論を行い、些細なことならばいざ知らず、特に天下国家の大事に関しては、行く道を過たぬよう細心の注意をはらわねばならない。
 だから、お互いに相手の言葉をよく聴き、誠意ある論議を尽くし、道理に背かぬ合意を形成できるよう努力せねばならない。

 また、明治天皇の「五箇条の御誓文」の第一番目である。

「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」


 第二番目である。

「上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ」


 昭和21年、敗戦後の日本が日本国憲法草案を論議する衆議院本会議において、首相吉田茂は、こう述べた。

「日本の憲法は御承知のごとく五箇条の御誓文から出発したものと云ってもよいのでありますが、いわゆる五箇条の御誓文なるものは、日本の歴史・日本の国情をただ文字に表しただけの話でありまして、御誓文の精神、それが日本国の国体であります。
 日本国そのものであったのであります。
 この御誓文を見ましても、日本国は民主主義であり、デモクラシーそのものであり、あえて君権政治とか、あるいは圧制政治の国体でなかったことは明瞭であります。」


 このように、私たちは、道理をもとに論議し、納得を求め、最後は親和をもって手を携え、一致協力してことに当たろうとする文化を育ててきた。
 この文化こそが、大和の国日本らしい平和の礎と言えるのではなかろうか。
 国会は、政府の作った法案が無謬であるとの前提に立った一方的説明で済ませる場ではない。
 一定の説明時間が過ぎたなら何でも可決できるわけでもない。
 全国会議員がそれぞれ国民の代表であるという意識に立った誠意ある論議を重ね、機が熟して訪れる〝その時〟に国民の納得を得て議決するのが理想ではなかろうか。
 以上の理由から、世論の方向を知っていながらそれと明らかに反する内容である法案の採決を急ぎ、採決後も説明して行けばよいとする姿勢には大きな疑問を持つ。
 また、国民も、国会へ政府の〈説明〉ではなく、争点と結論への道のりを明確にする〈論議〉を求めるべきではなかろうか?
 国会の形骸化はまことに恐ろしい。




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2015
07.16

『寺院消滅』を読む(その1)

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 東日本大震災の前あたりから、「~はいらない」といったタイプの仏教批判書が相次いで出版され、震災後はさすがに下火になったものの、またもや、似たような状況になっている。
 苦や死と格闘する現場からあまりに遊離した、ほとんど言いたい放題といった感のあるベストセラーも珍しくない。
 そんな中で、現場で汗を流す僧侶の本音を丹念に訊き集め、寺院の状況を分析した本がようやく世に問われた。
 鵜飼秀徳著『寺院消滅』である。
 昭和49年生まれの氏は、京都の寺院に生まれ、僧籍を持っているが、現在は「日経ビジネス」の記者を務めている。

 平成26年の彼岸前、旧知の僧侶から氏のもとへメッセージが届いた。

「ここ松本では山間部で過疎化が進んでおり、寺を維持できなくなっています。
 東京などの大都市への人口の流出と地方の疲弊の流れの中に、寺院の存続問題があります。
 経済記者の視点で地方の寺を取材してみてはどうでしょう。」


 氏はただちに腰を上げ、「北海道から鹿児島、離島にまで」及ぶ取材を行った。
 それは「知られざる仏教史をたどる旅でもあった」という。
 氏は「はじめに」に書いた。 

「昨今、家族葬や散骨、永代供養などにみられるように、寺との関わりが希薄になっている。
 田舎から都会への改葬(墓の引っ越し)も増えている。
『失われる宗教』の背景には、法を説くことを忘れた僧侶への厳しい批判や寺院不要論があることは十分承知している。
 しかし、『寺が消えることは、自分につながる〝過去〟を失うことでもある』ことを、わずかでも感じとっていただければ幸いだ。
 人は未来に希望を託さずには生きられないが、『過去』を振り返ることも時には必要だと思うからだ。」


 離島の現実である。

「一人、二人と島人がこの地を去っていく。
 それは若者だけではなかった。
 島には病院や充実した高齢者施設がなく、子供が親を都会に呼び寄せるのだ。
 若年層から老年層まで、すべての世代が、島を去っていく。」


 氏は「葬儀相場のウソ」に書く。

「東京の布施の値段があたかも全国の寺のスタンダードであるかのように語られ、『お坊さんは裕福だ』『坊主丸もうけ』との誤解を生んでいる感は否めない。」


 当山は、一切〈相場〉について語らず、示唆もしない。
 それは、お布施の本義からして自発的なものでなければならず、差し出す当人の価値観と財布の事情によるべきであると考えているからである。
 お布施を差し出す場面では、その方の人間性と生活事情が赤裸々に顕れる。
 仏神へ祈らずにいられない時、人の死を前にした時、一切の飾りは消え、裸の自分そのものになる。
 商取引に用いる〈値段〉や〈損得〉とは別の次元に立つ。
 だから、お布施に値段をつけた瞬間、ご祈祷もご葬儀もご供養も、聖なる修法は宗教行為でなくなり、取り引きではない人生の真実が失われる。(墓地の永代使用など、形があり、平等性が必要なものは別である)

 また、改葬をこう見る。

「核家族に集約される都市部と、高齢化が進む地方の郷里という二項対立の中で、改葬が今後、全国的に急増することは間違いない。
 人と街とが分断されていく時代の象徴、それが改葬なのかもしれない。」


 まったく同感である。
 当山は田舎町にあるが、それでも改葬で新たにご縁を結ばれる方が引きも切らない。
 当山の願いは、改葬が仏法との縁切りにならないよう、仏法で守られる墓地との仏縁に納得と安心を得ていただくことである。
 樹木葬であれ共同墓であれ自然墓であれ、あるいは一般墓であれ、相手様の宗教宗派は一切、問わないが、住職と対話し、結界を張った聖地に仏縁を求めることに、非宗教的空間とは異なる清浄さや潤いや安心を感じ、それがその方の生き方に何らかの意義をもたらすよう、日々、祈っている。




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2015
07.15

理想の国、憲法の尊厳 ―後藤田正晴の遺言―

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〈雨上がりにさしかけた陽光〉

 今から10年前、自民党代議士にして元副総理後藤田正晴の談話が岩波ブックレットNO.667として出版されている。
 以下の問題が「今」でなく、イラク自衛隊が派兵された時期に言われていたことを、私たちはどう受け止めればよいのだろうか?
 政府の方針に反対の人も賛成の人も、よく考えてみる必要があるのではなかろうか。

 理想の国家像を棄てるなと説く。

「何か無理な解釈を押し通して、それを合法化しようというような動きを感じる。
 それは、国会の衆参両院の(憲法調査会の)最終報告書もそうだし、四月に出た自由民主党の小委員会での要綱などにも共通するのですが、あれを見ますと、どうやら、日本の武力行使を海外に出てやれるようにしようとしているように見えるし、あるいは、国際協調という名の下に、専守防衛の武装部隊を簡単に海外にだせるようにしようとしているのではないか。
 反対意見もずいぶん並んでいますけれども、全体として、この国を軍事傾斜の方向にもっていくことが『ふつうの国』なんだという考え方が強くなっている。
 どうも、『理想の国』というのを忘れているのではないかな。」


 憲法の尊厳を守れと説く。

「私はここまでくると、いま日本政府がやっておることは憲法の尊厳性、あるいは信頼性を失わせてしまうものではないかと思うんです。
 ならばここは一ぺん見直すことも必要で、しかし、見直しに当たっては、現憲法がどれほど六〇年間有効に、日本の復興から繁栄、安定、成熟をもたらしたか、評価しなければいけない。
 六〇年の間に、ともかく日本は武力部隊よって外国人を殺した経験がない。
 それからまた、外国の武力によって殺されたという経験もない。
 これは戦後六〇年間、先進国の中では、日本しかないんですよ。
 そういう意味で、この憲法の大きな役割を今後とも残す必要があると私は思う。」


 泉下の客となった賢者の思いを忖度したい。




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2015
07.15

ペットのお盆供養に思う ―お互いに〈延長〉となり合う生きもの同士―

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ペットのお塔婆と人間のお塔婆

 今年はペットお盆供養を申し込む方が増えています。
 当山でご葬儀を行ったネコイヌはもちろん、今まで供養してこなかった方々も、「同じ家族だから」と、申込みやご相談にご来山されます。

 思えば、私たちがペットを目にしてホッとするのは、生きものとしてのエネルギーがはたらいている様子に、自分の〈延長〉を感じるからではないでしょうか。
 自分のいのちが減ったり、濁ったり、歪みかけたりしてきた不安や焦燥をいっとき忘れ、無意識の裡にペットからいのちを分けいただき、再び、励むことができるのです。

 普段〈自分の〉いのち、と思っているのに、ネコと視線が合って心が溜息をつく時は、そうした分別(フンベツ)が消えています。
 あるのはただ、生きている者同士が交わす無言の信頼感だけです。

 自分とネコとは違う個体なのに、この信頼感のやりとりだけで、あたかも給油機のノズルが車の給油口へ差し込まれたようにいのちの力が満ちてくるのは、不思議です。
 もちろん、いのちをくれたらしいネコが弱るはずもなく、〈彼女〉もますます生き生きしてフニャーンと鳴いたりします。

 生きものは食物連鎖によって他のいのちを奪いつつ自分のいのちを生き存(ナガラ)えますが、それは、何も、食べ物となってくれる生きものの存在があれば安心というだけではなさそうです。
 少なくとも私たち人間は、自分のいのちさえあれば安心なのではなく、〈延長〉の世界を感得してこそ本当の安心を得られるのではないでしょうか。

 小生は娑婆で商売をしていた当時、訳あって、世間から隠れて生活しているヤクザのマンションを訪ねたことがあります。
 完全に目張りしたワンルームは薄暗く、彼が寝起きするベッドと、こけしのようにヌッと立っている不気味な観音像らしきものがあるだけでした。
 彼が殺人者であるかどうかは知りませんが、死の世界に住む人ではないかと思えました。
 あの時の荒涼とした空虚観は、いかなる〈延長〉も気配すらないといういのちの不在を示していたのかも知れません。

 当山では、ペットのご葬儀やご供養において、亡きイヌネコの御霊へ「あなたは家族、あなたは友、~~」と呼びかけます。
 家族も友も、あるいはご縁となる人もネコも、私たちに欠かせない〈延長〉として輝いています。
 下重暁子著『家族という病』が何十万部売れようと、それはそれ、自分も誰かにとってのかけがえがない〈延長〉として、しっかり生き抜こうと思っています。




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2015
07.14

わらんべの神々うたう水の声 ―ある戒名と俳句のこと―

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 ある日、Aさんが逝った時、祈ったご本尊様は、澄んだ水、澄んだ空気に包まれた深い森を示された。
 ご遺族は、野菜作りなどに励む市井の人だと言われたが、その懐にただならぬ心のおさまりを持っておられたのだろうと感じた。
 また、行く手に灯りを見出す不安のない歩みも戒名へ顕れた。
 お通夜で遺影を眺め、眼中にこの光が明らかに宿っているのを認めて、自然に手が合わさった。

 通夜振る舞いの席で、Aさんのご子息から言われた。

「ご住職は枕経の後で、何か故人にふさわしい文字、戒名に入れてもらいたいと思う文字はありますか、と訊ねられましたよね?
 あの時、私の脳裏に一文字が浮かびました。
 でも、口にするのが畏れ多いような気がして、遠慮しました。
 さっき、それが道号(ドウゴウ)へ入っているのを見て、とても驚き、涙が出そうになりました。
 本当にありがたくてなりません」

 遠方で暮らすご子息はご臨終に間に合わなかった。
 しかし、枕経では、逝く人が言いたいことを通じさせ、送る人が聴きたいことを心で聴く秘法が結ばれる。
 この一文字こそがまさにそれだったのではなかろうか。
 ご本尊様は、祈る行者へ真実をありありとお示しくださった。

 ところで、石牟礼道子氏は71才で詠んだ。

「わらんべの神々うたう水の声」

 
 この一句はすぐにAさんを思い出させた。
 泉から流れ出た小川がサラサラと立てている水音を神のごとき幼子たちの歌声と聴いた石牟礼道子氏は、Aさんの心中のような澄浄で深閑とした森におられたのかも知れない。
 水俣病で苦しむ人々と永く行動を共にしてきた氏は、いつ、どこでこの場所へ行かれたのか。
 泣きなが原なのか。
 もしかするとそこは、現実の苦海がもたらした心中の浄土だったのか……。

 そうすると、Aさんの「深い森」も、揺るぎない浄土だったのかも知れない。

 ところで、この句を含む句集『泣きなが原』には石牟礼道子氏の言葉も掲載されている。
 水俣病の公式確認から半世紀を迎える現在について言われる。

「むごい死に方でした。
 戦争ではありませんが、これは虐殺です。」

「これは、『文明の発展』ではなく『文明の罪』です。
 これまで人間が長年欠かけてつくりあげてきた文明は、結局、金儲けのための文明でしかないようです。」


 東日本大震災が発生した日は、氏の誕生日でもあった。
 要介護度4の氏はテレビで原発事故を知り、こう思った。

「『また棄てるのか』と思いました。
 この国は塵芥のように人間を棄てる、
 役に立たなくなった人たちもまだ役に立つ人たちも、棄てることを最初から勘定に入れている。」


 ただし、希望は棄てておられない。

「人間にも草にも花が咲く。
 徒花(アダバナ)もありますけど、小さな雑草の花でもいいんです。
 花が咲く。
 花を咲かせて、自然に返って、次の世代に花の香りを残して。
 そうやって、繋いでいく。
 魂があることを、そういうことのために人間はいつの世からか自覚したんです。」


 水俣で死んで行く人たちの中には、企業も国も責めず自分がこの苦を全部あの世へ持って行くと言い遺す方もおられる。
 あまりにも哀しい花ではないか。
 しかし、苦海を生ききり、来世へすら逃げない魂が咲かせた花は不滅の光芒を放っている。

 そうした聖者とも言うべき方々の魂にも、「深い森」があったのだろうか。




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「おん あらはしゃのう」
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2015
07.13

真智の開発をめざして(その19) ─欣ちゃんと勝義心(ショウギシン)─

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 五智如来のお智慧の内容を、私たちにわかりやすく説かれたのが「優しさ・厳しさ・正しさ・優雅さ・尊さ」という教えです。
 私たちの心にある仏心がきちんとはたらけば、み仏の光が発し、妄知(モウチ…おかげさまと心の底から思えない惑った心)も邪知(ジャチ…万事を我がためとするよこしまな心)も消え失せます。
 さて、今回は「尊さ」について考えてみましょう。

4 勝義心(ショウギシン)を持つ

 私たちが本来、持っている尊い心の一面に勝義心(ショウギシン)があります。
 より、勝れたものを求めてやまない無限の向上心です。
 向上心を失った時、〈努力〉は単なる繰り返しや人生の消費に過ぎなくなります。
 向上心があってこそ、努力は精進(ショウジン)として輝きます。

 7月11日、朝日新聞はコメディアン萩本欽一氏のインタビュー記事「遠回りしようよ」を掲載しました。

 氏は、若者にこう言いたい。

「とにかくみんな、前へ前へと進みたがることも気になるね。
 モデルになる誰かを見つけて、すぐにマネしようとする。
 でもね、人生はそんなに簡単に前には進まないよ。
 偉人の伝記を読めばわかるでしょ。
 最初は失敗だらけなんだから。
 だから僕はいつも言うの。
 まず一歩下がって、世界を広く見ろ。
 もっと遠回りしろ、人と違う冒険を始めろって」


 手っ取り早い成功を求め、いわゆるノウハウやマニュアルを血眼で探し廻るのは危うい。
 そうしたものを提供して商売する人々を儲けさせるだけになりかねない。
 自分だけがうまく前へ進むことができる何かを与えてくれる人などいない。
 まず、世間をよく眺め、自分が、自分の考えと意志で思い切ってやってみた結果、身に応える失敗をして自分の甘さに気づくこと。
 ノウハウ探しよりも、そうした体験こそが結果的に成功へ導くと言う。

「人生は出会いだって、よく言うけど、ちょっと違うね。
 出会いっていうのは、人にただ会うことじゃないんだ。
 苦労をして、マイナスの経験をいくつも積んで初めて、会うべき人に出会える。
 なぜ自分がダメだったのか、生きていくうえで何が足りなかったのか。
 本当の出会いなら、その答えが見えてくるもんだよ」


 苦労の中から本当の問いが生まれる。
 そして、呻吟しているうちに、自分で答を見つけるきっかけとなるような出会いが生まれる。
 当山が、勢に関する人生相談で、「厄年を怖れず、気に応じた智慧をはたらかせてまっとうに生きていれば、かけがえのない出会いがあり、チャンスが来たりもします」とお話しするのには、こうした理も関係している。

「8割はだね。
 そいつは正面からは来ない。
 思ってもみないところからやってくるから、なかなかつかまえられないのよ。
 後ろから肩をトントンやる奴がいて、うるせえなこの野郎って、振り向いたら何だ、ここにいたのか、というのがなんだよ。
 坂上二郎さんとの出会いがそうだった」


 成功するには才能よりもだと言う。
 ただし、「正面からは来ない」をうまくつかめるかどうかは、本人次第である。
 テレビで大失敗した氏へ電話をかけてきた故坂上二郎氏は、それまで「ライバル」で「苦手」な人だったが、一瞬でゴールデンコンビが誕生した。
 苦しんでいたからこそ、すなおに運をつかめたのではなかろうか。

「遠回りすれば、人間いろいろ考える。
 いろんな出来事にぶつかる。もちろん、いいことばかりとは限らないよ。
 でも、とてつもなくいいものにぶつかることが、あるんだよ。
 その出会いにこそ物語が生まれる。
 それが大事なのよ。そういう物語に、人は心を動かされるんだから」


 うまくやろう、近道をしよう、と鵜の目鷹の目になっていれば、「いろいろ考え」たりはせず、一喜一憂の繰り返しになりかねない。
 遠回りでも、自分で考え、苦しみつつ、自分の足で歩んでいるからこそ、自分の足で歩いている人との出会いがあり、物語が紡ぎ始められる。
 その物語に人生の真実を認めた時、「人は心を動かされる」。

「もちろん。生まれ変わってもコメディアンだよ。
 ただ、またダメなコメディアンから出発したいね。
 ダメな若い奴が上を目指してもがく姿に、支えてやろうって気持ちが生まれたんだと思うから」


 74才となった第一人者が「またダメなコメディアンから出発したい」と語ったことは衝撃的だった。
 そして、この世でやり残した修行の続きを来世でやろうと考えていた小生は、再考を余儀なくさせられた。
 修行へと向かわせる発心(ホッシン)の重要性が突きつけられた思いである。

 すっかり、「遠回り」しましたが、萩本欽一氏の話には、無限の向上心についての重要な示唆があります。
 向上とは単純な直線道路を行くようなものではないことが、深々と示されているのではないでしょうか。
 庶民と涙も喜びも共有しつつ、現場で汗を流し続けてきた人の生きざまにこそ「尊さ」は輝いています。
 萩本欽一様、ありがとうございました。合掌




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2015
07.12

輪廻転生のイメージについて ―寺子屋が終わりました―

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〈ミケ子と小生は、同じいのちを分けいただき、同じ故郷を持つ同じ生きもの同士〉

201507120002.jpg
〈キキョウと小生は、同じいのちを分けいただき、同じ故郷を持つ同じ生きもの同士〉

 出張寺子屋法楽館』を無事、終えました。
 法話の中でなかなかご理解いただけなかったかと感じたのは、人間がネコにもタンポポにも生まれ変わるというあたりだったようです。
 事実、「人がネコになるという途方もないお話ではなく、もっとわかりやすいことを教えてください」というご意見もありました。
 しかし、寺院でご縁に応じた法を結ぶという日常的法務を離れてでかけるには、理由があり、その重要な一つが、お釈迦様やお大師様が説かれた輪廻転生(リンネテンショウ)に気づいていただきたいという願いである以上、多少、皆さんのお耳に入りにくかったのは、やむを得ないと言うしかありません。
 何しろ明治以来、仏教者すら避けて通って来た問題なのです。
 また、DNAを頼りに人類史をたどる経緯を考えるならば、それは宗教者の出る幕ではありません。
 科学的知見は知見として、それとは異なる宗教的視点や観点からいのちの生まれ変わり死に変わりをとらえ、宗教ならではの意義を見出すのが宗教の役割であろうと考えています。

 自分という〈人間〉が、死んだ後、目の前にいるクロという〈ネコ〉と同様の生物になる、あるいは、野辺に咲くドクダミという〈雑草〉と同様の植物になる、とイメージしようとすれば当然、思考や感覚は「否」へと傾斜します。
 そのイメージは、日常的体験や生活上の知識などと相容れず、あまりにもずれているからです。
 しかし、そもそも、科学も、宗教も、芸術も、日常的な世界だけではあきたらない、あるいは問いの答が見つからない、あるいは問題が解決できない、あるいは苦しみが解消されず、〈解〉を求めるところに生まれ、深まります。
 そして、納得や創造や解放がもたらされ、誰かがつかんだその成果は、私たちへ向上や啓発や救済をもたらします。

 たとえば私たちは、〝背中が痛いなあ、何か重いものを持ったからかなあ〟と思っているうちに、想像もしなかった心臓疾患を指摘されて驚いたりします。
 私たちは、ダリの絵画『記憶の固執』を眺め、最初は〝時計がひん曲がっているなんて、わけがわからん〟と思っても妙に惹かれ、そのうちに、プリントを額に入れて飾るようになったりします。
 私たちは、般若心経を読み、〝無ばかり出てきて、何が何だかわからないなあ〟と思いながらも写経したり、読誦したりと馴染んでいるうちに、行者から「たくさん出てくる無という文字に気を取られず、色即是空、空即是色をつかみましょう」と言われ、ハッとし、そのうちに〝そうか、自分も、憎たらしいあいつも、最愛の彼女も、仮そめの身体に頼っているだけの儚い同類なんだ……〟と気づいて視界がまったく変わったりします。

 このように、宗教いのちは実に、日常的体験や生活上の知識を超えた世界に気づくところにあります。
 日常生活をしながら ある種、聖なる世界でも生きている自分を見出し、生きとし生けるものも、山川草木も、街や村も、耀きを持って立ち上がってくる体験をするところにあります。
 よく、「末期の眼」と言うとおり、私たちは自分の死期を悟ると、周囲の世界が生き生きと美しくいのちの耀きに満ちた世界として愛おしく見えてきます。
 実際に死が迫っていなくても、宗教的体験や、ある種の目覚めは、それと同じく、普段生きている喜怒哀楽の世界とは異なる光景を私たちの目と心へもたらします。

 最近、葬儀堂『法楽庵』の通路で草むしりをしました。
 コンクリートの割れ目から小さく伸びていた草を根こそぎ引っ張り出し、暑く灼けた砂利の上に置いた時、〝ああ、彼は今、炎熱地獄にいる〟と思いました。
 心で合掌しました。
 そして、太平洋戦争の末期、空襲に遭ったAさんの体験談を思い出しました。
「屋根でザザッと音がして雨かなと思ったら、油でした。
 そして爆弾が破裂し、家はあっという間に燃え上がりました」
 Aさんは家族を焼死させました。
 炎熱地獄を見たのです。

 私の手にかかった雑草のいのちも、Aさんのご家族も、炎熱でこの世から失われたことに変わりはありません。
 雑草も、人間も、等しく〈雑草〉あるいは〈人間〉としての身体を形成するモノである衣から離れ、広大な〈いのちそのもの〉の世界へ還って行きました。
 必ず訪れる小生の死も、愛猫クロの死も、〈いのちそのもの〉の世界というある種の故郷へ還って行くという点では、何ら、変わりありません。
 それは、川の水が大海へ注ぎ込むのに似ています。
 海水の一滴となれば、やがていつの日か、パッと飛び散る波の一片となって独自の形をとり、輝く時がくるかも知れません。
 その時の形が、人間であるかネコであるか雑草であるかは誰にもわかりません。
 ただ、何者であろうとそれなりに、いのちを分け持った者であり、それなりに輝く可能性を持ち、開いた心眼には耀きがありありと映ることでしょう。
 これがお釈迦様の説かれた輪廻転生のイメージであり、人もネコも雑草も等しく仏性(ブッショウ)を持っているというお諭しの示すところではないでしょうか。

 科学の眼はDNAを研究します。
 宗教の眼はいのちの世界を観ます。
 そして芸術の眼は表現をもたらすことでしょう。

 これからも、お釈迦様とお大師様が説かれた輪廻転生と正面から向き合って行きます。
 ご縁の方々と共に考え、祈りたいと願っています。




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2015
07.11

空(クウ)と人間 ―龍樹菩薩(リュウジュボサツ)の教え―

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〈本堂でご葬儀を行い、ペット墓『一心』へ納骨される方が増えています〉

 私たちはよく、知・情・意(チジョウイ)と言います。
 知性と感情と意志によって生きているのが人間です。
 理屈を並べるだけの人でなく、気持に流されるだけの人でもなく、やりたい放題の人でもなく、知性と感情と意志がまっとうに、バランスよくはたらく人でありたいものです。

 私たちは何を知り、何を知られないか?(知性の問題)
 私たちは何を望み、何を望まないか?(感情の問題)
 私たちは何をなすべきであり、何をなすべきでないか?(意志の問題)

 哲学者カントは、およそ250年も前に、こうして私たちの理性を整理し、道しるべを示しました。
 ものごとを考え、判断し、行動する時、こうして根本から問えば、悔いのない人生を送れることでしょう。
 日本の若者は高校生のころ、カントについて学びます。
 ありがたいことです。

 ところが、カントからおよそ1500年も昔に、お釈迦様の教えに導かれた龍樹菩薩(リュウジュボサツ…ナーガールジュナ)が人間そのものを分析したことはほとんど習いません。
 思想家北尾克三郎氏はその人間論をこうまとめました。

人間は、生存欲の世界と識別(イメージによる分別とその概念化)がつくり出す意味の世界との二面の世界に住む。」(以下、『密教メッセージ NO20』より)


 私たちは無条件に〈生きたい〉生きものとして生まれており、同時に、見聞きしたり触れたりする周囲の世界をすべて識別し、意味づけをしています。

「生存欲の世界は実在するが、人間がつくり出す識別世界には実体がない。」


 ここから仏教が分かりづらくなり始めますが、大切なところです。
 たとえば、うまいラーメンを食べて満足する自分はまぎれもなく実在している一方で、憎たらしいライバルは、顔を思い出してイライラする自分の観念にしかいません。
 もう死んでいるかも知れないし、悪党だったはずなのに、途方もない人助けをして感謝されているかも知れません。
 私たちが認識している世界は、自分の身体を抓れば痛いのと同じように実在しているわけではありません。

「そのように固定した実体をもたない世界は(クウ)である。」


 猫のクロは、今、現在、目の前に可愛い姿を現していても、生きるための諸条件が調っているから生きているだけであり、一瞬後に死んでしまっても何ら不思議ではありません。
 そして、実は、自分自身もまた、同じなのです。
 ただし、本当にそうした次元を観るためには、普段の思考を超えた精神の深まりが必要であり、瞑想などが求められます。
 なにしろ、を説く『般若心経』は、観音様が修行中にようやくつかんだ世界です。
 そこには我欲(ガヨク)などの邪魔者はいないので、を観れば必ず、深いお慈悲がはたらきます。
 それを『観音経』は「慈眼視衆生(ジゲンジシュジョウ)」すなわち、慈悲の眼で生きとし生けるものをご覧になると説きました。
 と観る眼があるかどうかは、その眼に慈悲が宿っているかどうかによって推しはかられます。
 自分だけの楽を求める人や、他人へ知らん顔をする人は何を語ろうが、決してを観てはいません。
 

「そのなる世界に生起する人間の苦悩もまた空である。」


 前記のとおり、本当に空の眼が持てれば、苦悩もまた、空となります。
 観音様は同悲同苦(ドウヒドウク)の菩薩(ボサツ)であり、私たちの悲しみも苦しみも〈同じく〉悲しみ、苦しんでくださいます。
 しかし、それらを空とわかっておられるので、苦悩に負けず、方便(ホウベン)すなわち克服するための方法を私たちへお与えくださいます。
 だから、至心に祈れば、観音様は見捨てられません。

「そのような識別世界が起こす空なる欲望と、実在する生存欲との間に人間がいる。」


 私たちが見聞きして起こす欲望の正体は空ですが、生きたい自分がいることは確かです。
 お釈迦様が説かれた因果の理法を深く考察した龍樹菩薩(リュウジュボサツ…ナーガールジュナ)は、このように空を説き、人間を分析しました。




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2015
07.11

東北初の賃貸墓を始めました

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 お墓を建てることに関し、〈後の心配〉から躊躇(チュウチョ)する方々が増えました。
 そこで、レンタルの時代にふさわしい賃貸墓を造りました。
 東北初となります。
 ご関心のある方は、「まつしまメモリーランド泉店」の山口店長までお問い合わせください。
 なお、当山の墓苑『法楽の苑』にはモデル墓がありますので、いつでも自由にご覧ください。
 パンフレットもあります。

まつしまメモリーランド泉店
 宮城県仙台市泉区明石南3-1-1
 TEL.022-371-1411
 FAX.022-371-1485

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2015
07.10

戦後70年の祈りと自省 ―敗戦の受容、真の再出発―

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不戦日本を祈る『不戦堂』〉

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〈核心を衝く『永続敗戦論』〉

 Aさんは伯父である太郎さん(仮称)を戦争で亡くした。
 太郎さんは馬の生産にたずさわり、軍馬や農耕馬などを東北六県で供給していた。
 若くして満州事変にかり出され、帰って間もなく東南アジアへ出征した。
 そして通風を患ったにもかかわらず、商売の最中、令状を受けてフィリピンの飛行場建設に参加し、全滅した部隊と命運を共にした。
 また、同じく叔父である次郎さん(仮称)も戦争で亡くした。
 次郎さんは台湾近くで民間の船に乗っていたところ、米軍に沈められ、いのちを落とした。
 それを知った許嫁は深く悲しみ、霊前で結婚式を挙げた。
 お二人の戦死は、いずれも敗戦間近の昭和20年だった。

 戦後70年となるこの夏、Aさんは、お二人の菩提を弔うため、ある霊峰を目ざすという。
 頂上から御霊へ呼びかける言葉があれば教えて欲しいと人生相談を申し込まれた。

 太郎さんの御霊へ祈った。
 飛来した敵機と一対一になった太郎さんは、背中を見せずに正面から軽機銃で戦い、見事に散華された。
 一瞬の死。
 大本営からは全滅と発表されたが相当数、逃亡者もいた中で、歴戦の勇者らしい最期だった。
 Aさんの発すべき言葉は決した。
「私も決して退がりません。
 分を尽くします。
 どうぞ、ご安心ください」

 次郎さんの御霊へ祈った。
 潜水艦から放たれた魚雷。
 あっという間に沈没する船。
 海へ投げ出される人々。
 次郎さんは、もんぺ姿の母娘へ自分がつかまっていた大きな浮遊物を譲り、荒波の立つ海中へ消えた。
 Aさんの発すべき言葉は決した。
「私も必ず誰かのためになります。
 我がものに執着しません。
 どうぞ、ご安心ください」

 滂沱(ボウダ)たる涙が流れた。
 小生は決して霊能者や超能力者などではないただの凡人、一行者である。
 それでも、見ず知らずの御霊は通じて来られた。
 もしかすると、これまで8月15日を決して「終戦」とは言わず、必ず「敗戦」と言い、書いてきたことをお認めくださったのかも知れない。

 いかなる理由付けをしようとも、日本が他国を侵略し、敗れ、若干の交渉があったとは言え、国家を全滅させぬため、戦勝国の言うがままにひれ伏したのが8月15日である。
 いのちを奪い合う戦争で、奪われなかったいのちが集まり、国家・国土を存続させ、昭和27年4月28日、平和条約の発効をもって主権を回復し現在に至った。
 敗戦後の光景とは、戦争の暴風から取り戻された静寂の中で、生き残った者の目に映るこの世でもっとも無惨な景色である。
 それを観た者は、自分が二度と目にすることがないよう、子々孫々が同じ光景を眺める日が来ないよう、光景を忘れず、イメージを失わずに祈り、汗を流す。
 このことを脇へ置いて〈平和〉を口にするのは軽薄であり、欺瞞でもあると思えてならない。

 7月7日、「対米自立・対米対等な真の独立国家」を目ざす『一水会』の創始者であり顧問を務める鈴木邦男氏は、朝日新聞のインタビューにこう答えている。

「自分に誇るべきものがないから、日本に生まれたことだけを誇りにする。
 だから『日本は正義の戦争をした』『日本のおかげで東南アジアの国々が独立した』と平気で言う。
 負け戦を勝ったように言えば、自分は国家と一体となり、強くなった錯覚を持つ

「しかし、そんな歴史教育で『東南アジアは日本のおかげで独立した』なんて思い上がった子どもになったら大変だ。
 確かにインドネシアでは『日本のおかげで独立した』と言う人もいた。
 でも『ありがたい言葉だけど、あなたたちの力で独立したのです。私たちは迷惑をかけてすみません』と言うのが日本人として当然の謙虚さだろう


 政治学者白井聡氏は『永続敗戦論』に書いた。

敗戦を否認しているがゆえに、際限のない対米従属を続けなければならず、深い対米従属を続けている限り、敗戦を否認し続けることができる。
 かかる状況を私は『永続敗戦』と呼ぶ。」


 一口に「戦後70年」と言っても、とらえ方は人それぞれである。
 どこに真実があるか、人としての〈まこと〉があるか。
 我が身を振り返り、周囲を静かに眺めてみたい。

(冒頭の文章は、Aさんのプライバシーにかかわらぬよう細心の注意をはらって書きました)




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2015
07.09

7月11日に開催する第六十五回寺子屋『法楽館』について

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 法話と座談の寺子屋に関するご質問が相次いでおり、内容を少々、書いておきます。

1 私たちは今、〈東日本大震災後〉を生きている者としてどう生きればよいか?

 ある歴史家は、東日本大震災が持つ意味を10年かけて考えねばならないと言いました。
 人や家や仕事や生活を失った方々にとっては、10年かけようと〈ことは終わらない〉に違いありません。
 
 地震や台風や津波などに襲われる日本は、災害に遭う可能性という点では世界で最も危険な国に分類されます。
 そこで生きてきた私たちは、いつしか、災害はあって当然と受け止めるようになり、人がつくった世界は自然の前ではどうにもならないという死生観を紡いできました。
 京大教授大石久和氏は、『国土が日本人の謎を解く』においてそこを明確に説きました。

「大災害を経ることで、この国では過去は現在や未来につながらない。
 努力の結果であったり、思い出深いものであったりする過去は、流れ去り崩れ去って現在に至らない。
 時間は災害とともに流れ去ってしまうのである。」

「現在のパリの市民は、1851年にはすでに存在していた、あふれるほどの建物の隣で暮らしていることを自覚しているのである。
 パリの街区割や多くの町並みは、この頃に活躍したナポレオン三世によるパリ改造の姿をほとんどそのままとどめているのである。」

「(災害が少ない西欧では)変わらないからこそ、変わらないことを大切にする文化が育ったわけであり、変わりもしないのに変わらないことを嘆く文化が育つはずがない。
 したがって彼らには景観をきわめて大切にするという文化が育ったのである。
 変わらないから変わらないことを大切にする西欧の文化とは逆に、わが国では変わってしまうから変わることを喜ぶ文化が育ったのである。」

「私たちの死は、普段は恵みをもたらしてくれる自然の気まぐれで死んでいったのだから、恨む相手がいないし、復讐のしようがない死である。
 これは、無理やりもたらされた死への怒りをぶつける対象がないという、本当に悲劇的な死の受容である。
 この受け入れるしかないという厳しい死の受け止め方が私たちに、東日本大震災の際でも阪神淡路大震災の際にも、世界中の人々が驚愕するような、冷静な死の受け止め方と見えるような態度をもたらしたのである。」


 そして、氏は、日本人は「災害死史観」を持ち、想像も破壊もすべて人間が世界の主人公であり、モノも歴史も積み重なって行くという生活環境に暮らす西欧の人々は「紛争死史観」を持っていると分類しました。
 確かに私たちには、〈流れゆく〉という生活感覚があり、「水に流す」ことを美徳として自然に納得する感性があります。
 鴨長明の「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」は誰の心にもすんなりと入り、忘れられません。

 その一方で、流される存在でありながら儚く屹立しようとするものへの共感もまた独特の美意識をつくっています。
 新撰組、忠臣蔵、あるいは西郷隆盛、白虎隊などは毎年、必ずメディアに採り上げられます。
 小生は学生の頃に愛唱した三上卓の『青年日本の歌』や、堀内孝雄の『愛しき日々』を忘れられません。

「功名何ぞ夢の跡
 消えざるものはただ誠
 人生意気に感じては
 成否を誰かあげつらう 」

「風の流れの激しさに 告げる想いも揺れ惑う
 かたくなまでのひとすじの道 愚か者だと笑いますか
 もう少し時がゆるやかであったなら」

 こうした私たちにとって、東日本大震災のおりに、いのちをかけて人としてのまことをまっとうされた方々の行動、思い、願いは、今なお、記憶に新鮮です。
 復興もままならぬ中でオリンピックだ、カジノだと勢い立つ世相にあって、せめて東北に住む私たちは、逝った方々や瓦礫を踏みつつ奮闘した方々の耀きを心のどこかに留め置き、消えぬ灯として行く手を照らしたいと願ってやみません。

2 仏教の根本である因果応報(インガオウホウ)と輪廻転生(リンネテンショウ)という考え方を見直そう。
 
 仏教はお釈迦様の説く「因果応報」で哲学的にスタートし、「輪廻転生」で倫理的にスタートしました。
 お釈迦様の説話集などには、この二つに関するエピソードがあふれています。
 しかし、私たちの生き方をふり返ってみると、あまりにもそこから遠ざかっているように思えてなりません。
 仏教は、こだわらず気楽に生きるといった人生訓や、ヨーガ的な心のケアや、訪れて心が癒される観光地といった範囲でようやく生き残ろうとしているやにも見えます。

 ダライ・ラマ法王は、その仏教のいのちとも言うべき根幹について、明確に説かれました。
 因果応報と輪廻転生の原理は死と死後にどうはたらくのか?
 たとえば、心中した二人はあの世で一緒になれるのか?
 たとえば、悪人でも死に際に人を救えば救われるのか?

「たとえば、ある人物が殺人という行為の結果としてのカルマを有している。
 それは、そこに厳然としてある。
 ところが、その人物には人の生命を救ったという行為からくるカルマも同時にあったとする。
 この場合、互いに相矛盾する、相容れない二つのカルマが両立する。
 しかも、ふたつは共にひじょうに強力にして重要なカルマである。」

「さあ、どちらがより重要であると、どのようにして決定できるか。
 どうすれば、どちらのカルマがより支配的なカルマであると認定しえるのか。
 一方はたいへんネガティブであり、他方はひじょうにポジティブである。
 しかも、二つは等しく重いカルマだと言わねばならない。
 人の命にかかわる行為によって生じたカルマなのだから。」


 因果応報と輪廻転生を知った私たちはどう生きればよいのか?
 ダライ・ラマ法王の著書をテキストに、考えてみましょう。

○日時:7月11日(土)午後1時より3時まで
○場所:地下鉄泉中央駅前『イズミティ21』和室(イス席もあります)
○ご志納金:1000円 中学生以下500円(お菓子、飲物付)




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2015
07.08

仏教と絶対者 ―言霊・縁起の法など―

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〈個別型永代供養樹木葬『法楽陵』に招魂木(オガタマノキ)が植えられました。3メートルの霊木はやがて30メートルにもなることでしょう〉

 仏教は「絶対者」や「創造主」の存在を仮定しない。
 ものごとの判断基準をそうした誰かに委ねない。
 あくまでも〈道理〉をもって考え、〈納得〉を求め尽くすのが仏道という道である。
 だから、仏教と科学は争わず、ダライ・ラマ法王と脳科学や宇宙物理学などの科学者たちとが公開対話を行い、互いに重要な示唆を得る場面も生ずる。
 仏教は、つきつめたところで何かを「信じるか信じないか?」と踏み絵を迫らない。
 人間を「信じる者」と「信じない者」に二分しない。

 では、仏教徒は何を信じるか?
 まず、道理が共有されることを信じる。
 だから、お釈迦様も、お大師様も対話を重視した。
 話し合うのは、「自分の言葉が相手へ通じている」と信じていればこそである。
 相手の話を聴くのは、「聴けばわかる」と信じていればこそである。
 両者が言葉によってやりとりができる不思議さから、私たちは古来、言霊(コトダマ)を考え、言霊学という分野さえある。

 万葉集にある「言霊(コトダマ)の幸(サキワ)ふ国」こそ、日本であり、幸せを求める私たちは祈り、つまり「斎(イ)告(ノ)り」を欠かさなかった。
 この「斎」とは神聖さであり、神聖なものである。
 そして「告」は思いの投げかけであり、呼びかけである。
 社会学者加藤英俊氏は語る。
「一般にメディアとはテレビやラジオ、新聞などですが、もう少し言うと、人と人をつなぐものすべてです。
 原点はカミ・ホトケと人をむすぶもの。
 聖と俗をむすぶものが、俗と俗をむすぶようになったのです」
 ちなみにチベット仏教には「問答」という激しい対論の修行があり、テストもある。
 み仏の世界へより近づくため、み仏や経典の言葉について、互いに言葉をもって確認し合い、深め合う。 
 日本の仏教界も見習うべきではなかろうか。

 だから、仏教は思考の行き止まりを認めず、八万四千もの法門があり、仏教は日々、深められ、高められ続けて変化をやめない。
 いのちと心と、この世界の連鎖、連続は無始無終であり、どこかで、〈この先〉を遮る絶対者が求められることはない。

 お釈迦様が説かれた峻厳な「縁起の法」はそうした存在を認めない。
「これが有るから、これが有る。
 これが生じるから、これが生じる。」
 すべては条件によって生じる。
 縁によって起こっている。
 だから、「縁滅の法」もある。
「これが無ければ、これが無い。
 これが消滅すれば、これが消滅する。」
 すべては条件によって消滅する。
 縁によって滅している。
 
 どこにも絶対者の居場所はない。

 その7~8百年後、龍樹菩薩(リュウジュボサツ)は、「(クウ)」を説いた。

「あらゆる存在には固定した実体がないから(クウ)である。」

 を体得したければ、『般若心経』を読誦し、行者に学べばよい。

 その6~7百年後、お大師様は、ありのままで仏性を生きる「即身成仏(ソクシンジョウブツ)」を説いた。

「浅はかな知ではなく、根本的な智に依っていのちを燃やし、ありのままに生きよ。」

 即身成仏を体得したければ、『理趣経(リシュキョウ)』(特に百文字でつづられた「百字の偈」)を読誦し、行者に学べばよい。

 私たちは絶対者創造主も仮定することなく、心次第で互いの仏性を認め合える。
 相手が猫や花や樹であろうとも……。
 そして、互いを尊び、互いのためになれば、この世は極楽になる。
 こうして現代の仏教は、相互礼拝、相互供養を目ざしている。




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2015
07.07

ああ、ギリシャ ―文化の源を想う―

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 ギリシャが困っている。
 不景気で4人に1人が失業しているにもかかわらず、福祉関係の予算も削って財政危機を脱しなければならないという。
 先月末には国が不払いを起こした。
 いわば一回目の不渡りを出したようなものである。
 世論は、EUの意志に従って緊縮財政へ進むか、それに逆らいつつEUからさらなる援助を引き出すか、真っ二つに分かれ、7月5日、国民投票によって国の行方は後者と決した。
 当てにしていた年金を銀行から引き出せない人や、材料が仕入れられず立ち往生している工場主などの表情は、テレビで見るも気の毒でならない。

 ギリシャと聞けば、故岡潔博士が『昭和への遺書』に書いた一節が思い出される。

ギリシャに源を発し、イタリーからフランスに流れ入り、ラインの岸であふれて全欧州を濡らした文化をラテン文化という。」


 ギリシャとインドにはその昔、深い叡智が花開いた。
 今から2000年以上も昔、私たちがこの世について、人生について、いのちについて、心について、宇宙について、そしてあの世について持つ根本的疑問のすべては、ほぼ思索され、議論され、深められ始めていた。
 日本の子供たちは高校生の頃、必ず習う。
 三度も戦場へ向かい、希代の悪妻クサンチッペと暮らし、「汝自身を知れ」と諭し、「悪法も法なり」と毒杯をあおいだソクラテスについて。
 いかなる問題についても必ず反対側からの見方があると指摘し、自分の価値判断基準にだけ頼ることの危険性を説き、「人間は万物の尺度である」と喝破したプロタゴラスについて。
 師ソクラテスを死へ追いやったアテネに幻滅して各地を彷徨い歩き、帰国後、アカデメイアという900年も存続する学園を開いた魂と数学の語り手プラトンについて。
 アカデメイアに学び、人間の持つ社会性に着目し、「人間は本性上、ポリス的動物である」と説いたアリストテレスについて。
 政治、天文、気象、土木、建築、航海、ありとあらゆる分野の大天才で、アリストテレスが「哲学の創始者」としたターレスについて。
 生きている間は死んでいないし、死ねば生きてはおらず、死は魂を形成している原子がバラバラになってしまうことに過ぎないとし、死の恐怖から解放されたエピクロスについて。

 私たちの思考には必ず、彼らの思索の断片が含まれているはずだ。
 ラテン文化について、岡潔博士はこうしたエピソードも遺した。

「或(ア)る曇り日の朝、私はソルボンヌへ急いでいた。
 数学上の或(ア)る発見をしたから見て貰おうと思っているのである。
 数学教授のフレッシェ教授の部屋をノックする。
 この人を選んだのは非情に親切な人だからである。
 書いて行った数枚の紙を見ると教授は一寸待って下さいと言って私を待たせて置いて出て行った。
 暫(シバラ)くするとダンジョア教授と連れ立って帰って来た。
 私は机の前に座って待っていたのだが、ダンジョア教授はツカツカと私の横に来て、コントランジェというフランスの理学雑誌を半分綴じ合わせた厚い本を机の上に乗せて、或る頁を黙って指さす。
 見るとダンジョア教授自身の論文である。
 数行読むと私は耳までまっかになって、その本の上に顔を伏せた。
 勿論(モチロン)私の発見は間違っているのである。
 顔を上げて見ると、二人で何かひそひそ話し合っていたが、フレッシェ教授が私の所に来て、私の肩をやさしく叩いて、ダンジョア教授はこの方面の権威ですから、と言った。
 そしてうなづき合って黙って二人でどこかへ行ってしまった。
 扉は開けたままである。

 街へ出てみると、何時の間にか雨が降ったと見えて水溜まりが光っていた。
 私は水溜まりばかりを見て歩いて汽車に乗った。
 そうして落ちつくと私には初めてラテン文化の高い香りがわかって来た。
 私はこのとき初めて文化の高さがわかって来た。」


 学生時代にこの一文を読んだ時、学問とはこうして深められるものかと強烈な憧れを持ち、ラテン文化の底知れなさを想った。
 その発祥の地が危うくなっている。
 国民投票の結果を受けたチプラス首相は「ギリシャ歴史的なページを開いた」と叫んだ。
 世界へ広がった文化の源であるギリシャは今後、いかなる歴史を紡ぐのか。
 分裂と昏迷へ向かい、ロシアや中国の影響力が高まり、世界の緊張が増さぬよう祈る思いである。

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〈家族葬・一日葬・法事・会食でのご利用が増えている葬儀堂『法楽庵』〉




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2015
07.06

戦死は些事か ―戦争日記の示すもの―

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〈『自然墓』を訪れる方は絶えません〉

 当山の『不戦堂』建立計画に賛同して訪れたご婦人へお話し申し上げた。

 昭和18年11月24日、ハワイの南西約4000キロに位置するタラワ島及びマキン島において、日本軍守備隊は米軍と白兵戦を行い全滅した。
 その数5383人。
 捕虜となった者146人。
 それらには朝鮮人129人も含まれる。
 以上をふまえ、日本軍の中枢は、恐ろしい本音を記している。

「〝タラワ〟〝マキン〟占領さる。
 全般の戦争指導上問題とするに足らざる些事(サジ)なるも、敵の宣伝価値大なり。」(『機密戦争日記』11月26日)


 米軍は、小さな島へ機銃・小銃弾210万59発、砲弾5万4617発、手榴弾1万2460発、ロケット弾348発、吊光弾(チョウコウダン…光で照らす弾)3870発を浴びせた。
 圧倒的不利な状況で、日本軍は最後まで勇戦奮闘した。
 しかもここに至るまでの約1年間、ガダルカナル島、パプア・ニューギニア島において、守備隊の全滅・撤収が相次いでいた。
 奪われた島を奪い返す、一大飛行機基地を建設し反転攻勢を行うという、彼我の兵力を考えればあり得ない作戦のため、日本軍は膨大な兵を死なせた。
 ちなみに、ガダルカナル島へ投入された3万3600人のうち1万9200人が戦死、その中で餓死(栄養失調・下痢など)したのは約1万人とされている。

 全滅が連鎖したあげく、マキン島では守備隊798人のうち陸戦隊は284人のみしかおらず、それ以外は基地要員、設営隊員などだった。
 彼らは雨と降りそそぐ弾丸を浴びつつ693人が戦死傷するまで戦い、米軍に862名の戦死傷者をもたらした。
(以上は、荘子邦雄著『人間戦争 一学徒兵の思想史』を参照しました)

 この結果に対し、陸軍参謀本部の受け止め方は冷徹だった。
 彼らは「些事」つまり取るに足らないこと、としたのである。 
 大日本帝国の栄光、八紘一宇の大理想の前では、兵が幾人死のうともただ〈譽れある死〉であり、兵士一人一人の悲惨や家族の悲嘆は作戦上、問題にされなかった。
 私たちは事実に学びたい。
 理念の膨張がいかに危険であるか、人間そのものを見ようとしない権力者の姿勢がいかに恐ろしいか。

 石牟礼道子氏は、水俣の犠牲者達へ鎮魂の句を送った。

「祈るべき天とおもえど天の病む」


 もはや、人間界に水俣病への救いはないと悟った患者や家族たちは最後に、人間界を超えたものへ救いを求め、祈ろうとする。
 しかし、私たちの頭上を普く覆う政治・経済の権力構造は、思いがそこまで到達することを許さない。
 病み、狂った無慈悲な〈天〉を突き抜けられない煩悶、青空を見られぬ絶望が詠まれている。

 石牟礼道子氏はかつて『苦界浄土』へ死に逝く者の思いを書いた。

「地(ツチ)の低きところを這う虫に逢えるなり
 この虫の死にざまに添わんとするときようやくにして
 われもまたにんげんのいちいんなりしや」


 自分と同じく、死に逝く者としてのいのちを生きる小さな虫の生と死に寄り添う思いの起こる時、ようやくにして人は人となる。
 死ぬ者として生きる生きとし生けるものたちの哀しみと健気さを知り、哀しみと健気さを共有してこその人間である。

 人間そのものの心と視点に立ち、いかに戦争を避けるか、よくよく考えたい。

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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





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2015
07.05

印・花・写真 ―『慈悲の花』との出会い―

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氏家国浩著『慈悲の花』より「私は、蒼天を仰ぐ慈悲の花になりたい」〉

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 お釈迦様が入滅されてから500年以上もの間、お釈迦様は、徳と教えが偲ばれる伝説的聖者だったらしい。
 慕い、救われようと願う人々はお骨のそばへ詣で、目となっている仏塔を礼拝した。
 そうして祈り、教えを実践する人々の思いと心は受け継がれ、紀元一世紀頃、聖者たちの脳へお姿が映るようになった。

 影現(ヨウゲン)という言葉がある。
 影のように現れることである。
 お大師様が亡き師恵果(ケイカ)阿闍梨(アジャリ)のために祈っていた夜、現れた師は、生まれ変わってお前の弟子になると告げられたという。
 
 今から80年以上前、三田光一氏は400人の観衆を前にして12枚の写真乾板のうち、7枚目へお大師様の上半身を念写した。
 東大の助教授だった福来友吉助博士は、超能力について生涯かけて研究した。
 影現したとされるお大師様の写真を目にすると、自然に合掌してしまう。

 さて、お釈迦様が瞑想に入っておられるお姿は禅定(ゼンジョウイン)を結んで顕れた。
 成道(ジョウドウ…悟りの完成)を邪魔する魔ものたちを追い払うお姿は、地神(チジン…大地の神々)を呼び起こす触地(ソクチイン)を結んで顕れた。
 教えを説くお姿は、説法(セッポウイン)を結んで顕れた。
 こうして悟ったお釈迦様の世界は、語られたであろうお言葉が経典となり、象徴としては相(インソウ…の形)となった。

 ところで、私たちは怒りが込み上げ、耐えきれなくなってきた時、どうなるだろう。
 手がダラリとなったままではいられず、握った拳が震え出す。
 私たちは誰かを説得しようとする時、知らぬ間に口や目だけでなく手も動員され、身ぶり手ぶりが生じるのではないか。

 手は心に連動しており、お釈迦様へ近づこうとする聖者たちは、唱える言葉と共に、結ぶ印へ心の錬磨を託した。
 瞑想の印を結んではお釈迦様の悟りを目ざし、炎の印を結んでは不動明王を目ざし、蓮華の印を結んでは観音菩薩を目ざすようになった。
 こうして身体では印を結び、言葉では経文や真言を唱え、心では観想するという修行の形が整って今日へと伝えられている。

 修行をしていると、人間以外の生きものにも〈印〉に類する形とはたらきのあることに気づく。
 ネコが手で食べ物をねだり、あるいはパンチを繰り出すのも、花が風に揺れつつ語りかけてくるのも、意味と意義のある形であり姿である。
 私たちは、森羅万象が現れている形と、発している音や声によって世界に意味を感じる。

 写真は、転変万化する現象世界の一瞬をとどめ、世界に現れた印を示す。
 私たちは、そこに、流れゆくものたちに囲まれつつ見失っている大切なものを観たりする。
 印として影現した真実に魂を掴まれるのだ。

 修法にでかけた田舎町のラーメン点で氏家国浩著『慈悲の花』と出会い、こんなことを考えた。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。

https://www.youtube.com/watch?v=qp8h46u4Ja8





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