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2015
09.30

【現代の偉人伝】第212話 ―御嶽山の噴火から生還した女性―

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 どうしても忘れられない一文があり、切り抜きをひっくり返して書いている。

「山にゴミを残してはいけないと、テントやダウンジャケットはザックにしまった。」(平成27年9月27日付産経新聞『御嶽山噴火 風化に危機感、語る決意』より)


 ちょうど1年前の平成26年9月27日、長野、岐阜両県にまたがる御嶽山が噴火し、死亡者58名、行方不明者5名という大惨事になった。
 噴火の翌日に撮影され、9月29日付産経新聞に写真が掲載された女性による言葉である。
 周囲にいた人々が死に絶えて行く中で生き残った女性は、「生き残れたのは噴石が当たる、当たらないの運、どこに当たったのかの運もあると思う。でも、少しだけ準備していったことも大きい」と考え、一年経った今、匿名で口を開いた。
 以下、記事の抜粋である。

「何かがはじけるような『ポン』という感じだったと記憶している。
 音がした方向を見ると、黒煙がモクモクと上がっていた。

 午前11時52分。御嶽山噴火。だが現実と受け止められなかった。
『まさか、この山とは思わず、どこか他の山かなという感じで…』。
 においや揺れといった確たる変化もなかったため、直後は周囲の登山客と同様に噴煙を写真に収めていた。

 現実を突きつけられたのは10秒ほど後。気付くと周囲は真っ暗に。
『逃げる時間はなかった』。
 近くに身を隠せるような岩も見えたが『その場で立ち尽くすというか、動けなかった』。
 噴煙は、もう目前に迫っていた。
 女性は迫り来る噴煙に背を向けるしかなかった。
 (噴煙は熱く)サウナに入ったような感じで『焼け死ぬのか、溶けるのかな』と思った」


 体験したことのない状況に陥った時、私たちは現実感を失う瞬間があるのだろうか。
 死が迫っているのに、眺めたり、写真を撮ったりしようとする。
 東日本大震災のおりにも、津波が逆流してくる川を近くから眺めたり、家々の裏側まで津波が来ていてもゆっくり歩いている人々などがいた。
 危険が非日常的なレベルに達してしまうと、とっさの行動がとれなくなるのだろう。

「噴石が襲ってきたのは噴火から1分もしない頃だった。
 山梨県富士山科学研究所の試算では、火口から噴石が出た速度(初速)は時速360~540キロ。
 地面に衝突した際の速度は最低でも108キロだったという。
 女性にもそんな噴石が容赦なく襲い、ザックで隠れていない後頭部や腰を直撃した。
『折れたかなと思うほど、これまで受けたことのない衝撃』。
 実際に腰の軟骨は折れていた。

 噴石の勢いが少し弱まったとき、近くで一緒にしゃがんでいた男性が声を掛けてきた。
『起き上がれないから起こしてくれ』。
 男性の体を支えてあげたが、すぐにばったり前に倒れた。
 どうすることもできず、男性の口に付いた灰を拭ってあげるしかなかった。

 その直後、噴石が再度襲ってきた。
 最初より激しく降り注いだ噴石は次々と体に直撃、最後に身体が地面に沈むくらいの衝撃を左腕に受けた。
『痛い、熱い、しびれ。味わったことのない感覚だった』。

 噴石の勢いが弱まり、体を起こした。
 周囲で動ける登山客は3、4人。
 口を拭った男性は亡くなっていた。
 自身はおなかに重たいものを感じた。
 噴石の直撃でちぎれた自分の左腕だった。
 体に少しだけくっついた状態で傷口から血が滴り落ちている。
『止血お願いします』。
 必死に叫んだ。

 男性が手拭いで止血を試みたが、傷口に驚いたのか結びが緩く、別の男性がきつく結び直してくれた。
 腕をなくしたことは残念だが、命を落とすことはなかった。
『とりあえずここまで乗り切れたから、生きよう』。
 そう思った。」


 天災の凄まじさ、逃れようのなさが表れている。

「無事だった登山客に下山しようと言われたが、貧血がひどく、腰にも違和感があった。
『歩けない』。
 その場に残る決断をした。

 100メートルほど離れた場所に、身を隠せそうな石造りの台座を見つけた。
 左腕を抱き、何度も気を失いながら、足とお尻を使い、尺取り虫のように進んだ。

 途中にうずくまる登山客の男性がいた。
『一緒に行きませんか』。
 声を掛けると、男性は時間をかけて台座近くまで来た。

 長い時間を費やして移動し、台座を背にした頃には日が沈みかけていた。
 台座周辺には別の男性が1人いて、携帯電話で通話していた。
 相手は家族だろうか。
『今噴火にあって、ちょっと無理かもしれないけど、俺は絶対に帰るから』。
 そう告げていた。」


 私たちは〈誰かと一緒にいる〉ことで、ある種の勇気をもらえる場合がある。
 おおげさに言うと、それは生きる力につながっているのかも知れない。
 ごく普通の日常生活においても、近くにネコやイヌが一匹、いるのといないのとでは、空間の温かさがまったく違う。
 昔、出張してきていた人と一杯やった時のことである。
 彼は突然、しっぽが長く敏捷(ビンショウ)な三毛猫の話を始めた。
 毎日、夫婦して面倒を見ているのに、どこかよそよそしく、お気に入りの場所は飼い主の膝ではなく箪笥の上らしい。
 それでも、彼は数日の出張中にも猫を思い出している。
 とうとう感極まったような声を上げた。
「ああ、猫に会いてえ」
 孤独な仕事に就き、繊細に、綿密に周囲を観察している彼だからこそ、名前ではなく「猫」と言ったのだろう。
 あの時、いのちあるものと〈共に在る〉ことの重さをあらためて実感させられた。
 ましてや、噴石と火山灰に埋もれた極限状態でそばに人がいることは彼女にとってどれだけの掬いだったか……。

「夜になるにつれ風が強くなり、標高3千メートルの過酷な環境が女性たちを襲った。
 女性は日が暮れる前、台座の前を歩いて通り過ぎようとした男性に頼み、ザックの中からダウンジャケットと簡易テントを出してもらい、防寒対策として体に巻きつけていた。

 ふと携帯電話をみると、一緒に登っていた友人から何度も着信があった形跡があった。
 友人は無事だったんだ。
 少しだけほっとして折り返し電話をかけた。

 周りが暗くなる中、ただ寒さに耐えた。
 長野地方気象台によると、標高1千メートル付近にある御嶽山麓の開田高原で噴火翌朝の最低気温は6・6度。
 女性が一夜を過ごした標高3千メートル付近は氷点下だったことが想像される。
 過酷な環境に耐えられたのは、携帯電話から聞こえた友人の励ましの声だった。
私がここで死んだら友人はきっと自責の念にかられる。だから生き抜こう』。
 勇気を振り絞った。

 救助されたのは噴火から丸1日が経過した28日午後0時半。
 台座の周囲にいた2人の男性は息を引き取っていた。
 山にゴミを残してはいけないと、テントやダウンジャケットはザックにしまった。


 ここで重大な内容が二つ、語られている。
 一つは、一緒に登りながら別々に非難するはめになった友人が助かっており、自分がもし死ねば、友人の心に拭い去れない自責の念をもたらすだろうと冷静に考え、生き抜こうと決心したことである。
 もう一つは、周囲に人々の死を観ており、歩けないほどの重傷を負っていながら、「山にゴミを残してはいけない」と「テントやダウンジャケット」をしまったことである。
 北野武は近著『新しい道徳』で喝破している。

「本来、電車の席は、全部が優先席だ。
 前に年寄りが来たら、子供は有無をいわずに立つ。
 そこに理由なんて必要ない。
 ところが、今の道徳では、年寄りに席を譲るのは、『気持ちいいから』なんだそうだ。
 席を譲るのは、気持ちがいいという対価を受け取るためなのか。
 だとしたら、席を譲って気持良くないなら、席なんて譲らなくていいという理屈になる。
 年寄りに席を譲るのは、人としてのマナーの問題だ。
 美意識の問題といってもいい。

 マナーにいちいち小理屈をつけて、気持ちいいから譲りなさいなんていうのは、大人の欺瞞以外の何ものでもない。」


 この女性は、日本人のマナー、美意識を世界中に知らしめたと言えないだろうか。

「心身ともに負った大きな傷。
 それでも経験を語ろうと決意したのは、連日のように自然災害の脅威が伝えられる中、御嶽山の噴火が忘れ去られるのではないかと危機感を抱いたからだ。

 生死を分けたのは何だったのだろうか。
御嶽山は初心者でも気軽に登ることができるだけに、十分な準備をしている方は少なかった。生き残れたのは運もあるが最低限の準備をしていったからだ』と言う。

 女性は登山の際、日帰りでも簡易テントは必ず携行し、3千メートル級の山にはダウンジャケットも持っていった。
 夜になるまで生存していながら周囲で亡くなった登山客は、ダウンジャケットや簡易テントは持っていなかったようだった。
 生死を分けたのは『その差』と思っている。

 4月に職場復帰し、山登りも再開したが、火山へは二度と登るつもりはない。
 御嶽山噴火から1年。
『もし山へ行かれる方は、リスクを考え準備をしてほしい』。
 最後にそう訴えた。」


 女性は「自分の体験を誰かのために役立てたい」という一心で語ってくれた。
 これなら、たけしの言う〈道徳〉に合致しているだろう。
 現代の偉人伝にふさわしい。

 ところで、10月10日に開催する当山の寺子屋『法楽館』でも、津波から生き残った方が「自分の体験を誰かのために役立てたい」という一心で語る講話を聴く。
 講師のは、ゆりあげ港朝市協同組合理事長の櫻井広行氏である。

人は『まさか自分が・まさかそんなことは起こらないだろう』と思ってしまう生き物です。

100回の避難が無駄足でも、101回目のために真っ先に避難してください。
 そして、安全が確認されるまでは決して戻らないでください。
 あなたの大切な人が、あなたを助けようとして災害に巻き込まれることがないように。


 ぜひ、多くの方々にお聴きいただきたい。
 



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
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「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2015
09.29

メダカ掬いとジジィ川柳 ―東日本大震災被災の記(第172回)―

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〈やはり、というか、ついに出た『ジジィ川柳』。「みやぎシルバーネット」さん、本当にご苦労様です〉

 小学生のAさんは東日本大震災のおり、津波に呑まれた。
 辛うじて水面上へ伸ばした腕の先を見つけた先生に引き上げられ、九死に一生を得た。
 自分を引きずり込んだ暗黒が恐ろしく、暗がりを避けずにはいられないようになった。

 そんなAさんが当山にやってきて、職員Bさんと一緒に池のメダカや川エビを掬(スク)った。
 水辺もまったく怖がらない。
 Aさんのお母さんはつぶやくように言われた。
「Aは、お祖父ちゃんっ子でした。
 いつも海や山や川へ連れて行ってもらい、魚釣りや虫取りなどをやっていたんです。
 だから、水に対するトラウマのようなものは割合、早く脱しました。
 今はもうすっかり以前のように、自然の中へ飛び込んで行って遊んでいます。」

 当山へは震災後、仮設住宅暮らしの方が夕刻になると決まって幽鬼のような行列に遭うなど、さまざまなトラウマ症状に悩む方々が訪れている。
 人生相談、ご祈祷、ご加持などで対応しているが、容易ではないケースが少なくない。
 それだけにAさんの回復ぶりは強く印象に残った。
 お祖父さんと以前、過ごした時間の印象が、襲ってきた恐怖感を克服させたと言えそうだからだ。
 死の一歩手前まで引き寄せた死魔も、祖父と孫の楽しく嬉しい思い出に退散させられた。

 こんなことを考えているところへ、シルバーネットさん発行の『ジジィ川柳』が届いた。

「孫娘 いるのでこの世 未練あり」
「腹ばいに なって孫との いい話」
「遠くでも ジジィはマゴを 見てござる」
「孫就職 あとは己の 汗で咲け」
「良い土に なって子孫を 育みたい」


 皆、本音そのものだ。
 こうしたまごころが何らかのよい影響力となって残ると思えれば、未練なく成仏できるのではないか。
 Aさんが波から救われ、トラウマから救われた一件は、小生のような年配者を強く勇気づける。
 日焼けしたAさんの頭を撫でて、「しっかりやろう」と言ったら元気な「はいっ!」が返って来た。
 実に嬉しかった。
 ――もう、成仏しているかのように。




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2015
09.28

「カインド・オブ・ブルー」と現代の強迫観念

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 マイルス・デイヴィスの名盤「カインド・オブ・ブルー」は、ピアニストのビル・エヴァンスによれば「レコーディングのわずか数時間前に」コンセプトが決められた。
 そして、マイルス・デイヴィスは、「グループが何を演奏するかを示唆した草案と共にスタジオ入りした」という。
 だから、「グループのメンバー達は、レコーディング以前にこれらの曲を演奏したことがない」。
 ビル・エヴァンスは、こともなげに「新しい曲でインプロヴィゼーション(即興)を行うことを要求されるのはジャズ・ミュージシャンにとって珍しいことではない」と言うが、その結果が示すレベルの高さには圧倒されるのみだ。
 参加したドラマー、ジミー・コブは言った。

「天国で作られたアルバムだ」


 アルバムは「So what」で始まる。
 この言葉はマイルス・デイヴィスの口癖だった。
 日本語に訳すと「それがどうしたというのか」、「そんなことかまわないではないか」となる。
 ただ事ではない。
 居直り、突き放し、冷淡、傲慢、無責任、虚無主義など、よからぬイメージが次々に湧き出る。
 実際この〈帝王〉は、一筋縄ではゆかぬつき合いづらい人物だったらしいが、作品にはそうした突っかかりが皆無だ。
 淡々と、あまりにも淡々と完璧に構築された世界へ誘う。
 その完璧さと即興との乖離は、理解しようがない。
 私たちの日常は、あれもこれも何とか思うどおりにしたいと頑張る瞬間の連続だが、いくらやっても多くの場合、何ごとであれ、完璧にはなされない。
 しかし、この作品は聴き手の心から完璧という観念そのものを導き出す。
 完璧とは何であるかを証明しているとすら思える。
 どういうことなのか……。

 さて、「So what」の気分はニヒリズムへ通じている。
 思想家佐伯啓思氏は「虚無のさなかにあって」(『風の旅人・49号』)の中で、たかだかここ半世紀の間に広がった「経済成長」という強迫観念について書いた。
 約200年前まで、「きわめて長い間、人々は、成長とか増加とか発展とか拡張といった観念とは無縁に過ごしてきた」。
 そこでは、「自然と社会と人々の間に生みだされる調和と、そのうちにおこる循環の構造を当然のものとしてきた。」のであって、「時間は直線的に前へ前へと突き進むものではなく、ゆったりと循環するもの」だった。
 ところが今はどうだろう。
 個人も社会も国家も、まるで鼻先へニンジンをぶらさげられた馬のように、「指数的成長」を競って止まず、先頭を争いながら突き進み、有限な資源を奪い合い、有限な地表の線引きに角突き合わせ、勝者には一生使い切れないほどの富をもたらす一方で、敗者からは落ちついた人生を営む基盤が失われた。
 こうした富と人口の爆発には何らかの意味があったのか?

「人と自然が、人と宇宙が、人の生と死が切りはなされ、その結果、人は、自らの存在の意義を、自らの力で証明するほかなくなった。
 いわば丸裸で真空のなかに投げ出され、しかも、自分で自分のよって立つ支えを作りださなければならなくなった。
 しかし、そんなものはもとよりあるはずもなければできすはずもない。」


 平成26年12月、危険ドラッグを吸って女性に切りつけ逮捕された田中勝彦容疑者(32歳)は、自分にマスコミのカメラが向けられていることに気づくと狂喜して「しぇしぇしぇのしぇー」などと騒いだ。
 テレビのニュースで目にした信じられぬシーンは忘れられない。
 〝――とうとう、ここまで来たか〟
 この〈時代〉が心底、恐ろしく、震え上がる思いだった。
 彼のピースサインは、歴史の泥に呑み込まれる人々の愚かしくも哀しい一瞬の狂い咲き、空しい喘ぎだったに違いない。 

 佐伯啓思氏は言う。

「先の見えない『虚無』の霧の向こうにあるものは、透明の『無』である。」
「この一切の意味を剥奪された『始まり』が、その後のすべてをうみだしたのである。
 そして、その始まりの根元には『無』がある。」


 振り返って見れば、現状を眺めれば、そしてこの先を想像してみれば、200年前に始まった富と人口の増加という〈始まり〉に、調和と循環という安心の土台を破壊してよい何らかの意義も、意味も、目的も見出せない。
 そのことを佐伯啓思氏は「無」と言った。
 私たちは無に始まった何ものかの奔騰に翻弄され、強迫観念となった「成長神話」にしがみつき、無へ向かって走る。

カインド・オブ・ブルー」が録音されたのは昭和34年(1959年)、経済成長が強迫観念となり始めた時代だった。
 天才マイルス・デイヴィスは、繁栄が約束された戦勝国に暮らしながら、すでに〈祭〉の裏側で繰る虚無に気づいていたのではなかろうか?
 そして、それを完璧に描き出してしまった……。
 レコードとCDは、これまで1000万枚以上も売れたらしい。
 マイルス・デイヴィスも、ビル・エヴァンスも、ジョン・コルトレーンも、キャノンボール・アダレイも、ウィントン・ケリーも、ポール・チェンバースも逝き、ドラマージミー・コブだけが80才を過ぎてからも演奏を続けている。
 この「憂鬱な気分」の青い炎は、今も世界中で燃えている。
 日常生活に満ちる強迫観念から確実に救う魔力を持った不思議なブルーである。




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2015
09.27

わらび座の「風の又三郎」

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 耳よりニュースです。
 秋田県の「わらび座」が宮澤賢治の名作「風の又三郎」を出張講演します。

「人々を翻弄する圧倒的な風を表す太鼓と棒術などを駆使した踊り。
『「どっどど どどうど』という又三郎を象徴するフレーズが、歌とも呪文ともつかぬ風の息づかいのように人々の 願いを飲み込んでいく。
 主人公・一郎は言葉にならない思いを抱えていた。
 未だ知らぬ自然の脅威、自分はどう生きるのか?
 大風が吹き荒れた朝、高田三郎という転校生が現れる。
 風、それは未だ知らぬ新たな世界。
 異質なものとの出会いに揺れる一郎。
 種山ヶ原の雄大な自然を舞台に、三郎と一郎の出会いは二人の生き方を揺さぶっていく。
 民族芸能、ストンプ、和楽器・洋楽器の生演奏、そして歌。
 様々なパフォーマンスが出会い、新たな賢治の世界が 広がる。」


 脚本を書いた髙橋亜子さんからのメッセージです。

「宮沢賢治は私が人生で最初に好きになった作家です。
 父の故郷が岩手県で身近に感じたためかもしれません。
 東京育ちの私とは作品内で描かれる訛りも自然環境もまるで違うのに、なぜか根っこで繋がっていることを確信できる不思議な感覚がありました。
 中でも『風の又三郎』は小学生から現在まで何度となく読み返し、そのたびに感じ方が変わるのを自分の変化として気づかされてきた合わせ鏡のような作品。
 たった数日間の異質な少年との交わりを通し、大自然を、命を、この世界を、限りない愛しさを込めて描いたこの物語は、言葉より今回のように音楽で表現することこそ相応しいのかもしれません。
 作品に込められた賢治の底知れぬ想いに、少しでも深く寄り添える作品にしたいと思います。」


 文化庁の活性化事業につき、あの「風の又三郎」が通常料金の半額で観られます。
 場所は黒川郡大和町の「まほろばホール」です。
 どうぞお揃いでおでかけください。




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「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。

https://www.youtube.com/watch?v=qp8h46u4Ja8





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2015
09.27

10月の行事予定

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〈今年もがんばって天日干しを行った『法楽農園』〉

 平成27年10月の行事予定です。
 当山の法務時間は午前9時~午後5時(お通夜などを除く)ですので、その時間帯にご連絡、ご来山ください。
 なお、本堂にてのお詣りは自由ですが、人生相談やご供養などは完全予約制です。
 必ず事前に日時のお約束(022-346-2106)をお願いします。
 また、葬儀堂『法楽庵』の受け付けは24時間可能です。022(739)8541へご連絡ください。

[第一例祭] 2015/10/4(日)午前10:00~

 護摩法を行います。
 お経の多くが読み下し文なので、内容がとても感じやすく、理解しやすくなっています。
 み仏と万物と万霊をご供養し、願いをかけましょう。
 その月の守本尊様をお讃えする「讃歎経(サンタンキョウ)」は、リズムが良くとても読みやすく、何度も口にしているうちに、だんだんと、ありがたみがわかってきます。
 般若心経もしっかり唱えましょう。
 自由参加です。
 み仏の智慧が輝く護摩の火に身を近づけ、悪しきものは焼き祓い、善き願いへ大きなご加護を受けてください。
 (願い事を書く護摩木供養は1体300円です)

・場  所 大師山法楽
・送迎申込 開始30分前に地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡ください。
(毎月第一日曜日午前10時から開催します)

[書道・写経教室] 2015/10/4(日)午後2:00~午後3:30

 髙橋香温先生は津波で被災されても書道一筋でがんばっておられます。
 先生の熱意と誠意を感じられる貴重な時間です。
 イス席もありますので、お気軽にご参加ください。

・場  所  大師山法楽
・指  導  高橋香温(温子)先生
・ご志納金 1000円(未成年者500円)
・送迎申込 開始30分前に地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡ください。
(毎月第一日曜日午後2時から開催します)

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〈津波の爪痕は閖上(ユリアゲ)にもくっきりと残ったままです〉

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〈ゆりあげ港朝市の皆さんは頑張っています〉

[第六十八回寺子屋法楽館』 いざという時にそなえていますか? ―壊滅からの復活―]
 2015/10月10日(土)午後2:00~3::30

 車座の雰囲気で共にみ仏の教えなどを学び、対話をしています。
 閖上港で朝市の振興に取り組んできた櫻井広行様は、大津波によって甚大な被害を受けた人々のために立ち上がり、驚異的な活躍でいち早く市場を復活させました。
 過酷な体験をふまえ、いつ起こるかわからない災害への備えや、発生時の心構えや対応などについて広く語りかける活動を続けています。
 ナマの訴えに耳を傾け、無事安全に過ごしましょう。

 ゆりあげ港朝市へ行ってきました。
 皆さんの心意気がビンビン伝わってきます。
「『忘れない、けれど立ち止まらない!』と志だけで突っ走ってきた日々でした。
 津波で流された元の場所にこだわったのには理由があります。
 最大の理由は『その場所でしかできないから』というにべもないものです。
 もともとが小さな商店の集まりで、港内に新たな用地を取得するだけの費用を捻出することができません。
 それどころか建て直すのにも、大きな覚悟と借金が必要です。
 そんな理由は、カナダの森林組合からの建物の寄附と、助成金によりだいぶ解決されました。
 もう一つの理由は心の問題です。
 私たちが考えたのは『被害者がめげない姿を見せること』でした。
 たとえ愚直であろうと、前に進む姿を見せたかったのです。
 『家族のためになんとしても稼ぐのだ!』という姿を見せ、彼らが屈することなく育つことを願いました。
 次に被災者の方々にも、何もかも失っている人がいるということを知って欲しいということでした。
 私たちは特別な力や縁故に頼ることもできなかったが、それでもめげないことで、様々な方々が想いを寄せてくださいました。
 現地再建に踏み切るまでは正直なところ大変でした。
 そしてこれからも楽ではないことを覚悟し、最初の一歩を踏み出しました。」

・講  師 名取市ゆりあげ港朝市協同組合理事長櫻井広行
・場  所 当山講堂
・ご志納金 1000円(飲物・お菓子付)
・送迎申込 開始30分前に地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡ください。
(毎月第二土曜日午後2時から開催します)

[第二例祭] 2015/10/17(土)

 護摩法を行います。
 お経の多くが読み下し文なので、内容がとても感じやすく、理解しやすくなっています。
 み仏と万物と万霊をご供養し、願いをかけましょう。
 その月の守本尊様をお讃えする「讃歎経(サンタンキョウ)」は、リズムが良くとても読みやすく、何度も口にしているうちに、だんだんと、ありがたみがわかってきます。
 般若心経もしっかり唱えましょう。
 自由参加です。
 み仏の智慧が輝く護摩の火に身を近づけ、悪しきものは焼き祓い、善き願いへ大きなご加護を受けてください。
 (願い事を書く護摩木供養は1体300円です)

・場  所 大師山法楽
・送迎申込 開始30分前に地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡ください。
(毎月第三土曜日午後2時から開催します)

芋煮会] 2015/10/18(日)午前10:00~

 今年も、無農薬・無肥料の『法楽米』などがもれなく当たるお楽しみ抽選会や、いろいろな余興などを用意してお待ちしています。
 どうぞお気軽に、お揃いでおでかけください。

・場  所 大師山法楽寺講堂
・ご志納金 1000円 小学生以下無料
・参  加 当山にご縁の方や関係者どなた様も自由に参加できます。
・送迎申込 開始30分前に地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡ください。

[お焚きあげ] 2015/10/31(土)午前10:00~11:00

 本堂のお不動様の前で「供養会」を行い、不動堂の後で「お焚きあげ」もいたします。
 人形や仏壇や写真など、燃えるものも、燃えないものも大丈夫です。
 一緒にお不動様のお経を読み、真言を唱えましょう。
※お焚きあげをご希望の方は、必ず電話などで日時を連絡の上、お品をご持参、あるいはお送りください。
 当日とは限らず、受け付けは毎日、行っています。
(毎月最終土曜日午前10時から開催します)

[機関誌『法楽』の作製] 2015/10/26(月)午前9:00~午後1:00

 講堂にて、機関誌『法楽』を作り、機関紙『ゆかりびと』と共に発送しますので、ご協力をお願いします。
 『実語教・童子教』も共に学びましょう。
 おかげさまにて、『法楽』は第308号、『ゆかりびと』は第171号となりました。

・場  所 法楽寺講堂
(毎月最終月曜日午前9時から開催します)

[隠形流(オンギョウリュウ)居合道場]

 仏法に生きる身体と心をつくるために行います。 
 九字を切り、守本尊様のご加護をいただく密教独自の剣法です。
 高齢者の方々や女性が多く、厳しいながらも和気藹々(ワキアイアイ)と稽古しています。
 入門ご希望の方は、事前に連絡の上、まず、見学してください。

・日  時 毎週金曜日 午後7:00~9:00
・場  所 日立システムズホール仙台(旭ヶ丘青年文化センター)

◎清掃奉仕

 毎週金曜日、ご縁の方々が最も多くおでかけになられる土曜・日曜の前日に、境内地などの清掃や草取りなどを行います。
 皆さんのご都合に合わせて、何時でも自由にでかけられ、大きな徳積みをされてはいかがでしょうか。
 その日ごとに作業のポイントを貼り出しますので、ご覧の上、どうぞご参加ください。
 どなたでも参加できます。

・日  時 毎週金曜日午前9時~午後5時
・場  所 法楽寺境内地など




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。

https://www.youtube.com/watch?v=qp8h46u4Ja8





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2015
09.26

ご葬儀は誰のために行うのか? ―送り方送られ方を考える―

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〈雨続きでも花が絶えない『自然墓』〉

 ご葬儀は、仏神のお導きによって死者が無事、あの世へ旅立つことを第一の目的とする。
 それは、生まれてから死ぬまで、親を初めとし、ありとあらゆる〈おかげ〉なくして過ごせないのと同じである。
 この世を〈おかげさま〉、〈お互いさま〉と生きる私たちが、死んだ途端に自力だけで安心世界へ逝けようはずはない。
 だから有史以来、目に見えぬものの力によって、目に見えぬ世界へ死者を確実に送ることごとが文化の根底を成してきた。
 送り方、送られ方にこそ、その時代、その場所で暮らした人々の文化の色合いが濃く映し出されている。

 また、ご葬儀は、〈おかげさま〉と感謝する人々へその思いを届ける人生最後のチャンスである。
 死に行く人にとっても、送る人にとっても。
 生まれるとは、社会との関わりが始まることであり、死ぬとは、社会との直接的な生きた関わりが消えることである。
 人は社会的動物であり、いかなる社会で、いかに社会と関わるかが人生であるとも言えよう。

 流行の家族葬を一概に否定するものではないが、こうした肝腎のところが蔑(ナイガシ)ろにされつつあるように思えてならない。
 一個人の死を、一個人に起こるできごととして考え、一個人のできごととして送るだけならば、それは、生きて在る人々がそれぞれの人生を一個人のできごととして過ごす態度に結びついては行かないだろうか?
 現代に顕著な個人主義の悪しき面はますます増長するのではなかろうか?
 こんにちわ、さようなら、この挨拶をきちんと行うところから私たちのまっとうな生活が創られるのではなかったか?
 ならば、膨大な〈おかげさま〉への最後の「さようなら」もそれなりに行われてこそ、まっとうな人生のまっとうな締め括りになるのではなかろうか?

 9月25日付の産経新聞に専門誌『SOGI』の碑文谷創編集長の所感が掲載された。

「死者と身近な関係者は血縁者とは限らない。
 死者と深く関わった人を『家族でない』と排除するのは、死者中心の弔いという観点からは大きく離れている。
 流行や経済的な理由だけで家族葬を選択すべきではないだろう」


 死に行く人としても、生きてこの世に残る人々にとっても、見過ごせない指摘であるように思えてならない。

 今朝も、路傍にご逝去とお別れを表示する掲示板が立っていた。
 小生が大和町宮床に居着いて間もなく掲げた「寺子屋建立」の傍に共鳴し、賛同し、ご指導もご助力もくださったAさんが逝かれた。
 機関紙「ゆかりびと」と機関誌「法楽」はずっとお送りしてきたものの、久しくお会いしていない大恩人の寛(ユル)やかな口調と落ちついた声が思い出され、溜息が出た。
 Aさんと小生には細(ササ)やかな接点しかなかった。
 しかし、Aさんはまぎれもなく〈師〉である。
 これまでも、これからも……。
 師のご冥福を心から祈りたい。
 そして、師のお導きに恥ずかしくない日々を送りたい。




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2015
09.26

輪廻転生の根拠 ―見える世界と見えない世界―

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〈彼岸供養会を終え、仏神と祖霊へ共に感謝し、お互いが生きてあることを共に喜び合いました〉

 ダライ・ラマ法王は、著書『ダライ・ラマ〈心〉の修行』のQ&Aにおいて輪廻転生(リンネテンショウ)の根拠を尋ねられ、答えておられる。

「『命あるものはみな生まれ変わる』ということについては、確かな証拠があるわけではありませんので、各個人によってものの考え方の違いがあると思います。
 しかし『前世や来世など存在しない』と思って悪い行いを平気で積み重ねていて、もし本当に来世が存在していたならば、それらの悪い行いから生じてくる苦しみは、自分自身が背負っていかなければならないことになります。
 その逆に、たとえ来世がなかったとしても、来世における良い結果を生むような良い行いをしていれば、自分には何の危険も生じてはきません。」


 法王はまず、因果応報の原理によれば必ずいつかは善業(ゼンゴウ)に対する善果、悪業(アクゴウ)に対する悪果が生じる以上、もしも来世があった場合、悪業を積んでいる人は恐ろしいことになると警告する。
 その一方で、善業を積んでいる人は、来世があろうとなかろうと何の心配もない。
 輪廻転生と並んで仏教の根幹となっている因果応報は、しっかり理解されていることが望ましい。
 法王が最初にこのことを説かれたのは、常に具体的救済をこそ目指してこられたからだろう。
 

「さらに、釈尊が説かれているように、この世に存在する現象には、実際に自分の目で見て確かめられる現象、表立ってあらわれてこない潜在している現象、さらに深いレベルで潜在している現象、という三つのカテゴリーがあるのです。
 実際に私たちの目に見える現象は、誰の目にも見えるものですから、その現象が存在することを誰もが認めることができます。
 しかし、他の二つの表立ってあらわれてこない現象については、実際には私たちの目には見えないわけですから、確かにこれらが存在するという証拠を見せることはできません。
 それらの現象の存在は、各自の推定に基づいて判断しなければならないのです。」


 私たちは「意識」と言い、「自分」と言うが、それらは普通、眠っていない状態つまり、普通に言う目覚めている状態での意識であり、その意識に支えられた自分である。
 しかし、眠っている時に夢を見れば、そこでも意識がはたらいており、そうしているのは自分だ。
 さらに、眠っていて夢を見ていない場合、決して意識も自分も無くなってしまったわけではなく、はたらきに気づかないだけである。

 また、普通、自分と意識しているのは表面の自分であり、その意識の下には、それと気づかぬうちに自分を動かしてしまう無意識の自分(育ちや生活の経験が積み重なったもいの)がいるし、さらにその下には生まれもった頑固な自分(過去の因縁が積み重なったもの)がいる。
 これだけではない。
 仏教の行者は、もっと奧に仏性として無限の世界につらなる意識を感得している。

 仏教の唯識(ユイシキガク)思想の後を追うように西洋心理学も深められ、潜在意識、深窓意識などという言葉は広く知られている。
 そうした幾重にもなっている意識という鏡に映し出される現象としてのこの世もまた、決して〈見える範囲〉にとどまるものではない。

前世や来世があるかどうかについては、実際に自分の前世のことを覚えている人がこの世界には何人もいるのです。
 そしてその人たちが、自分の前世はこのようなものであった、と述べている前世での出来事が、実際にあった事実に一致することが確かめられています。
 このような事実は、私たちの意識の流れが、はじまりなき遠い昔からずっと続いてきたものであることのひとつの証明になると思いますし、そのような人たちがいること自体が、前世の存在を示していると思います。」


 カナダでナンバーワンと称される州立トロント大学医学部の精神科主任教授を務めるジョエル・L・ホイットン博士は、昭和61年(1986年)、13年間にわたる心理療法の体験を『輪廻転生 ―驚くべき現代の神話―』にまとめた。

輪廻転生が真実だという証拠については、そのほとんどが(物的証拠ではなく)状況証拠ではありますが、きわめて有力なものがそろっている現在、理屈のうえで輪廻を認めるのに特に問題はないと思われます。」

「生や死とはいったい何なのか、ひとりびとりがなぜこんなにまちまちに生まれついているのか、という不思議を考えていくと、その行き着く先は、現代の物質中心の考えのうえに成り立つ科学では答えられない問題になってきています。」

「アメリカでは大人の三分の二が死後の世界を信じています。
 1982のギャラップ社の世論調査では、アメリカ人の23パーセントが輪廻を信じていると発表されています。」

「人間のおかれた状況を理解する一助となると信じて、私は永年にわたって集めてきたデータの公開に踏み切ったのです。」

「広範囲にわたる調査研究を行いさえすれば、あの世の秘密がさらに詳しくわかるだろうし、それを人間の進歩に役立てることもできよう。
 本書は、生と死のはざまを探検した最初の記録である。」


 人の肉体は死ねば骨になり土になり、さらに細かく分解されるだろうが、意識や自分は違う。
 自分は〈何者か〉としてどこからかやってきて、変化した〈何者か〉としてどこかへ行く。
 決して無にはなりようがない。
 その真実に立った倫理こそ、人を人たらしめ、人を荒廃させない。
 分析心理学を創始したカール・グスタフ・ユングは指摘した。

「合理主義と独断主義は現代の病である。
 これらはすべて答えを知っているかのごとく自負している。
 しかし、多くのことがまだこれから発見されることだろう。
 現代の我々の狭い視野から、それらは不可能として除外されてきた。
 我々の時間や空間の概念は、大体確実であるというにすぎない……。」

 実に、あらゆる分野で、割り切り過ぎる合理主義と権威や権力を振りかざす独断主義がまかりとおっている。
 学問であれ、宗教であれ、何であれ、謙虚さこそが真実の探求に最も必要なのではなかろうか。




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2015
09.25

【現代の偉人伝】第211話 ―国連人権理事会で演説した沖縄県知事翁長雄志氏―

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〈隠形流(オンギョウリュウ)居合の道場で2名の方が段位試験に合格しました〉

 9月22日、沖縄県知事翁長雄志(オナガ タケシ)氏はスイス・ジュネーブでの国連人権理事会において、米軍普天間飛行場(同県宜野湾市)の名護市辺野古への移設に関する演説を約2分間、行った。
 以下、ハフィントンポストによる日本語訳の全文である。

「ありがとうございます、議長。
 私は、日本の沖縄県の知事、翁長雄志です。
 私は世界中の皆さんに、辺野古への関心を持っていただきたいと思います。
 そこでは、沖縄の人々の自己決定権が、ないがしろにされています。

 第2次大戦のあと、アメリカ軍は私たちの土地を力によって接収し、そして、沖縄にアメリカ軍基地を作りました。
 私たちが自ら望んで、土地を提供したことは一切ありません。

 沖縄は、日本の国土の0.6%の面積しかありません。
 しかしながら、在日アメリカ軍専用施設の73.8%が、沖縄に存在しています。

 70年間で、アメリカ軍基地に関連する多くの事件・事故、環境問題が沖縄では起こってきました。
 私たちは自己決定権や人権を、ないがしろにされています。

 自国民の自由、平等、人権、民主主義すら守れない国が、どうして世界の国々とそれらの価値観を、共有することなどできるでしょうか。

 今、日本政府は、美しい海を埋め立てて、辺野古に新しい基地を建設しようと強行しています。
 彼らは、昨年沖縄で行われた選挙で示された民意を、無視しているのです。
 私は、あらゆる手段、合法的な手段を使って、新しい基地の建設を止める覚悟です。

 今日はこのようなスピーチの機会が頂けたことを感謝します。ありがとうございました。」


 同ソーシャルニュースは以下のコメントも付けている。

「翁長知事の国連演説は、国連人権理事会の場で発言機会を持つNGO「市民外交センター」が、持ち時間を提供して実現。
 国連での演説の意義について、同NGOの上村英明代表は琉球新報に、『沖縄の基地問題は安全保障、平和の問題ではなく、人権問題だということを国際社会にアピールする機会となる』と説明した。」


「なお、この日の国連人権理事会では、翁長知事の演説のあと、日本政府が答弁する機会もあった。
 日本政府側は翁長知事に反論。
『日本政府は、沖縄の基地負担軽減に最大限取り組んでいる。
 普天間基地の辺野古への移設は、アメリカ軍の抑止力の維持と、危険性の除去を実現する、唯一の解決策だ。
 日本政府は、おととし、仲井真前知事から埋め立ての承認を得て、関係法令に基づき移設を進めている。
 沖縄県には、引き続き説明をしながら理解を得ていきたい』と述べた。」


 知事は帰国後の24日、記者会見において、印象的な言葉を発した。

「私たちは小さい島だが、27年間の米軍施政権下で、人権を蹂躙されながら、戦ってきた強さがある」

「あんな美しいサンゴの海を埋め立てることは許されない」

「日本の安全保障のためなら、十和田湖や松島湾、琵琶湖を埋め立てるのか。
 自分たちのところでできない人たちが、沖縄の美しい海を埋め立てるということ自体、日本の民主主義がおかしなものになっているのではないか」

「私たちからすると、1952年に日本の独立と引き換えに、政府は沖縄を切り離した。
 そういったことも踏まえて、どうあるべきかを考えていかないといけない」

「沖縄が平和の緩衝地帯として生きていくことに意味を持っているからこそ、基地にも反対している。
 むしろ沖縄が日本の品格を高めることができると思っている」

「民主主義の価値観を世界に広げるための日米安保体制というが、小さな沖縄を翻弄(ホンロウ)して構わないという国が、世界の国にこれを訴える資格があるのか」


 知事の極めて異例な行動に批判も多々、あることだろう。
 しかし、焦点を明らかにして行われた選挙でも世論調査でもまったく変わらぬ地域住民の意志を勘案せず実施される政策が住民を踏みにじっていることは事実である。
 そして、アメリカへの基地提供という敗戦国日本の姿を見直さず、むしろ固定化する方向で進んで来た70年間のひずみが問題の根にあることは、多くの国民が気づいている。
 それでもなお、「日本はこのまま、事実上アメリカの属国としてやって行くのか?」と問うなど、アメリカの意向を怖れる政権中枢の人々にとっては恐ろし過ぎて、できはしない。
 思想家内田樹氏が指摘するように、「『米国の国益増大に資する人』しか、国内の重要な政策決定に与(アズカ)ることができないという仕組み」(9月18日付の河北新報)が出来上がっているのだ。
 また、沖縄県以外の地域に住んでいる人々は誰も、米軍基地を引き受けたくない。
 こうした二つの理由から、米軍基地を何とかして欲しいという沖縄の願いは無視されてきた。
 安保法制の採決が急がれたのも、沖縄問題をきっかけに〈属国日本〉そのものについての論議が巻き起こることを怖れたからに相違ない。

 今や、敗戦国日本の実態は国際的に明々白々となった。
 知事は「日本の品格」と指摘した。
 知事の指摘を待つまでもなく、日本の安全保障は日本国民全体で考えるべきものであり、政府も本土も、これ以上、知らん顔を決め込むことは恥と言うべきではなかろうか?
 



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2015
09.24

心はそっちにある? ―ディオニュソス神をめぐって―

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〈今年も『法楽農園』の稲刈りが始まります。今日、明日で稲刈りを終え、26日、27日の両日、はせ掛けの台を作りますので、ご協力をお願いします〉

 最近、を実体視し、自分のそちら側に置いて地好く操(ク)るような、もの言いや、文章が目につく。
 たとえば「をそそぐ」などはどういう状態なのだろう?
 が自分のなら、は誰がどこからどうやって持って来て、どういう方法で注ぐのだろうか。
 文章を書いたり読んだりして気持良くなるのは結構だが……。

 はどこにあるとも言えないが、自分が居る以上は、自分と共に在ると考えるしかないだろう。
 また、誰かの思いが通じてくるならば、誰かの心も、誰かの存在を縁として在るに違いない。
 この世とあの世の別なく。

 心は絶え間なく起こってくる。
 時には思いやりとして、時には憎しみとして、時には怒りとして。
 縁の風が凪いでいる時は穏やかで、強風にあっては激しく波立つ。

 かつて、アテネの独裁者ペイシストラトスは紀元前534年、先住民族のディオニュソス神信仰を利用して独裁政治の基盤を固めようと、「大ディオニュソス」を行った。
 いきものたちのいのちを司る神のは、先住民族も侵略民族も都市生活者も農村生活者も悦び、ワイン産業も陶器産業も飲食店も潤し、皆が為政者を讃えるだろうと期待された。
 松明行列から前夜が始まり、翌朝はファルスと呼ばれる男根の行列、雄牛たちの供儀、合唱コンクール、そしてワインで洗った雄牛の生肉を喰いながらの夜を徹した乱痴気騒ぎ。
 その後、三日間、ディオニュソス劇場で悲劇のコンクールが行われた。
 ギリシャの歴史と共にいのちの饗宴は続いたが、200年、300年と経つうちに形骸化し、滾(タギ)り立つ原始的で素朴なエネルギーは失われていった。
 哲学者ヘラクレイトスはすでにこう言っていた。
 為政者によって創られたの真姿を見抜いていたのだ。

「彼らは、ディオニュソスを奉じて狂喜乱舞し、礼を行っているのだが、ディオニュソスはハデス(あの世の神)と同じなのだ」


 そして、母なる大地母神アルテミスを祀る神殿で子供たちとサイコロ遊びに興じつつ人生の幕を閉じた。

 神とを利用しようとする人間の意図など、紙切れのように儚(ハカナ)い。
 私たちの心には、ディオニュソスアルテミスもいる。
 ハデスすら、影絵のように見ている。
 もちろん、アポロンに通じる理性も調和も具わっている。
 何に近づくか、遠ざかるか、あるいは何に成るか、成らないか。
 心は一本の糸であり、それを成す一瞬一瞬は、生まれ持った過去の因縁としての資質と、今の意志と生き方とによって紡(ツム)がれる。

 糸は、自分も為政者も、弄(モテアソ)べない。
 結果として紡がれるものであることを忘れないようにしたい。
 自分の生き方がどうなっているかをこそ、厳しく見つめたい。
 自分の心を考えるならば……。




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「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=WCO8x2q3oeM





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2015
09.23

京都がま口に想う ―生きる意味を問い直し、生きている経験を取り戻す生活舞台へ―

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 一休みしようと、薄いコーヒーを淹れてNHKテレビをつけたら、京都がま口についての再放送が流れていた。
 布のさまざまな味わい、留め金具のしまり具合や形や音、全体の大きさや形、私たちが〈佳い〉と感じるポイントは山ほどある。
 不思議なことに、どこで佳いと感じるか、そのポイントは一点だけ、しかも人それぞれである。

 最近手に入れたLUXMAN(40年前の製品)のチューナーを受信する作業に似ていると思った。
 高性能で機械が自動的に受信してくれるタイプではないので、自分でそのポイントを見つけなければ佳い音が聴かれない。
 目ではSメーターとTメーターを見ながら、耳は雑音の具合などを聴きとり、右に左にゆっくりとダイヤルを動かす。
 そして、〈決まった〉時に得られる爽快感に似たものは、一日に流れる24時間のうち、別な瞬間に求めることはほとんどできない。

 京都がま口の販売店では、買い手へ渡す時に必ず、留め金具の調整を行うという。
 売り手は、使い手がこれで佳い(私たちは普通こうした控えめな表現を用いるが、実は「これが一番佳い!」なのだ)と納得した状態で渡す。
 ここで、売り手は単なるモノの商人ではなく、買い手に接する最後の作り手として創造者の役割も果たしている。
 それによって、買い手におけるがま口は、単なる買ったモノ以上の存在になる。
 得たのはモノだけではない。

 ある染物屋は、明治時代に描かれた着物の図案集を参考にして日々、新しいデザインを模索している。
 5000以上もの図案はすべて手描きされており、今では誰も描けず、作れないだろうと言う。
 その一部を選んでパソコンへ写し取り、不要な部分を消すなどの考案を重ね、決まった柄の染め物を作り、がま口の布地にする。
 家具職人増野繁治師の言葉を思い出した。
「無から自分が創り出す新しい技法などはありません。
 ただただ、先人に憧れ、学ぶのみです。」
 この染物屋も、図案集の制作者もきっと、そうなのだろう。
 職人は常に、膨大な時を経て洗練に洗練されてきた文化のすべてを背負って滔々(トウトウ)たる流れの最先端に立つ人なのだろう。
 輪廻転生(リンネテンショウ)と因果応報の〈果て〉として〈今の生〉がある以上、当然だ。
 蓄積された情報に一滴、何らかのセンスが加えられて創造が成った時、私たちはその新鮮さに目を瞠(ミハ)らされる。

 最後に、一人で足踏みミシンを操りながらオーダーメイドのがま口を作っている職人とのやりとりが流れた。
 リポーター中越典子さんは、世界中から集められたという布地から表と裏と二種類を選ぶ。
 次の手順には驚いた。
 柄のどの部分を用いるかが決まったら、職人は目の前でそこをジョキジョキと切り取る。
 いったんハサミを入れたら最後、布は元に戻らない。
 裏地に選ばれたのは公園で遊ぶ女の子が描かれたアメリカ製の反物。
 一反を成していた部分が切り取られればもう、反物は一反ではなくなり、切り取られた部分は新しいがま口の一部となる。
 反物は死に、がま口が生まれる。
 死と再生を目の当たりにしたような気がした。
 買い手は、出来上がるまでの一部始終を眺めている。
 ここでも発注者が手にしたのは明らかに、モノだけではない。

 文化のいのちと価値について考えさせられた。

 東北大学名誉教授でものつくり生命文明機構理事の石田秀輝氏は「自然との折り合いがつくる、あたらしいものつくりと暮らし方のか・た・ち」(『風の旅人』第49号)にこう書いている。

「人類史を概観すると、物質的なものから精神的なものへの移管が繰り返されていることがわかる。」

「近代社会では、地下資源・エネルギーによる大量生産システムが、ICT(情報通信技術)などを通して世界均一的に展開し、現在、すでに物質的には飽和状態にある。
 まさに、次の精神的な文化価値への移行期ではないかと思う。」


 そして、氏はライフスタイルの変化に注目している。

「若者は車より自転車のほうがカッコいいと思い、フリーマーケットで物々交換することに抵抗がなくなり、家庭菜園で手間暇かけてつくった野菜に笑顔があふれ、週末は自然と触れ合うことを楽しみ、下手糞でも身の回りのものを自分で修理して長く使いたいと思うようになった。」


 氏は、利便性をとことん追求した「完全介護型のライフスタイル」でもなく、自力だけに頼る「自立型のライフスタイル」でもない、「生きる意味を問い直し、生きている経験を取り戻す生活舞台」が目指されると説いた。
 そこでは「ちょっとした不便さや不自由さを、自らの知恵やスキルで埋めることにより、愛着や充実感、達成感を生み出すことが可能になる。」と言う。

 この「生活舞台」では文化が生きている。
 文化とは、引き継がれ、工夫され続け、私たちの日々に潤いと豊かさを与えてくれるものではなかろうか?
 言葉を換えれば、繊細で深い心の琴線が奏でるメロディーの総体こそ文化と呼ばれるものではなかろうか?
 今日は彼岸供養会。
 文化に恵まれた一日が始まる。
 ありがたい。




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





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2015
09.22

お釈迦様は樹神だった? ―樹木葬の聖樹について―

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〈ネット上からお借りしたブッダガヤの仏塔。仏舎利を高く高く祀ることが目的で、屋根や土台のように見える部分はすべて装飾的なものです〉

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〈ネット上からお借りした五輪の塔の図面。心柱と相輪の頂上にある如意宝珠の形を見れば、全体が聖樹であるとイメージされます〉

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〈『法楽陵』の聖樹招霊木(オガタマノキ)です〉

 菩提樹の下で悟りを開かれたお釈迦様はその当時「聖樹神(ヤクシャ)」と呼ばれていました。
 身体を痛めつける苦行から離れ、「悟りを開くまではここを立たない」と思い定め、ゆったりと瞑想に入ったお釈迦様はきっと、周囲の人々の眼には菩提樹と一体になった神様のように見えたのでしょう。
 そして、お釈迦様のお骨が祀られた仏塔(ストゥーパ)は、聖者である仏陀そのものにも、聖樹にも見立てられ、深い信仰の対象になりました。

 インドの仏塔は頂上に傘蓋(サンガイ)と傘竿(サンカン)があります。
 いわば傘なのですが、それはまさに樹木のイメージです。
 やがて、五重の塔などとして洗練された仏塔は頂上に相輪(ソウリン)と呼ばれる突起を備えます。
 それは仏舎利を納める宝珠がてっぺんにあり、これもまた樹木を想起させる形になっています。

 このように、樹木と仏教のかかわりは深く、聖なる樹木の根元に眠ることは、お釈迦様と一体になることにつながっています。
 高さ25メートルから30メートルにもなる招霊木(オガタマノキ)によって守られる当山の樹木葬法楽陵』は、お釈迦様の悟りの世界に憩う永代供養のお墓です。
 今はまだ、4メートルにも満たない招霊木ですが、やがて大木になったら見事でしょう。




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2015
09.21

二階は無事なれば帰雁の見えにけり(友岡子郷)

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〈「」の元です〉

201509210002.jpg
女神

 平成7年117日、阪神淡路大震災が起こった。
 当時61才だった友岡子郷は、自宅の二階から地上の事態との群れを眺めていた。

二階は無事なれば帰(キガン)の見えにけり」


 高層マンションに住むことが普通になった現代の人々はあまり感じないかも知れないが、二階というのは一種、独特の空間だった。
 立っても座っても横になっても、地上の一階に暮らしているのと何ら変わりはないのだが、視点が違う。
 足元は何ら不安がないのに、視点だけが空中にある。
 それは地上全体を俯瞰し、空に近づいている。
 物理的には地上にいるのとそれほどの違いはないはずだが、心理的には明らかに地上から遠く、空は手を伸ばしたくなるあたりに感じられる。

 小生は子供の頃、倉庫の二階に小さな勉強部屋を造ってもらって以来、東京のあちこちでアパート暮らしをする時も、必ず二階建ての二階を選んだ。
 今でも夢の中で、あの勉強部屋にいたり、当時、まだ田畑や林が残っていた国立の小さなアパートにいたりする。
 だから、この句が二階にいたからこそ詠めた事情はよくわかる。

 ここで言う「無事」は、ただ、地震で崩れなかった、あるいは火の手が廻らなかったというだけではない。
 自分がいつも世界を観る不動の〈眼〉は、周囲の崩壊に関わりなく確保されていることを意味する。
 その眼が、時節という天地の巡りに合わせ、地上のできごとに何らの影響も受けず淡々と北へ向かうの群れをとらえたのだ。
 は動き、子郷は動かないが、両者共に久の世界に住む〈〉なる存在だ。

 孟子は、「産(コウサン)無くして心(コウシン)無し」と説いた。
 人々は、住む家や継続できる職業を持たないと、往々にして道義心を失いかねないという戒めである。
 安定した生活を保障するモノのあるなしによって、私たちの心持ちも安定したり、不安にかられたりしがちであることは否めない。
 しかし、この句にまつわる「」は、そのあたりとかなり意を異にする。

 そもそも「恒」の字は、中に住む恒娥(コウガ)と呼ばれる女神の姿に発している。
 何があってもは照り、満の日を迎えると、女神はそこに居る。
 恒久なのだ。
 行くも、見送る子郷も、不動である。

 そんな子郷は二階を降りた。
 そして詠んだ。

「倒・裂・破・崩・礫の街寒雀


 崩壊した世界でなお、寒雀はさえずっている。
 いつもの冬と変わらずに。
 大寒に四国八十八霊場を巡ったおりに出会った寒雀」を思い出した。
 何十年ぶりという大雪に見舞われた四国では、どこの霊場も閑散としていた。
 小生を待っていたかのように雪かきされた参道の脇で、雪を被った笹竹と赤い実の見える植物があるあたりに雀の軍団がいた。
 チチチッ、チチチッという鳴き声とバサバサッという羽音、そして振り落とされる雪。
 閉ざされる人間世界とお構いなしの活躍ぶりに力をもらったような気がしたものだ。
 一方、同じ〈鳥〉に出会っても、ドイツ戦没学生リヒャルト・シュミーダーにとってはこうなる。

「青いフランスの服が灰色のドイツ服と地上に入りまじり、死者は場所によっては非常に高く積み上がっていたので、それを砲兵に対する掩蔽(エンペイ…土堤)にすることが出来る位でした。
 騒音の中で、命令が耳から耳へとどなり伝えられました。
 戦いの騒音と負傷者の呻き声の間に短い休止が生じると、高い青空に鳥が嬉々と歌い囀(サエズ)っているのが聞こえました。
 故郷の春の鳥の歌!
 あゝ、心臓をむしり取ってしまいたいような気持です。」

 不動の視点と心を持ちたい。
 そして、それが限りなく不可能へ近づく戦争を避けたい。




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2015
09.21

帰って来たインコ

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〈さる事務所で餌をもらう「トラ」。名を呼んだら、食事中にもかかわらず、こちらを向いてくれた〉

 数年前のできごとである。
 Aさんのお宅から家出したインコが2週間ぶりに帰宅した。
 ほとんど諦めていた家族一同、狂喜して迎え入れたが、可愛がる前にびっくりする羽目になった。
 何と、以前とは〈別人〉のように、ガツガツと餌を食らい尽くす。
 その荒々しさに一同、押し黙ってしまった。
 特段、籠の中を嫌がる様子もなく、ガツガツする以外は、以前の鳥そのものだという。

 お聴きして、疑問が次々に湧いてくる。
 ひもじかったのはわかるが、戻って来られるくらいならなぜ、もっと早く帰巣しなかったのだろう?
 もしかして、最初のうちは自由を満喫し、やがて、現実の厳しさを知ったのだろうか?
 それなら2週間は、自由と安心を天秤にかけた時間だったのだろうか?
 そもそも、彼は自由を求めて窓から飛び立ったのだろうか?
 それとも、ただ、そこに隙間があったから、プイッと出てみただけなのだろうか?
 
 Aさんは、インコが死んだ後、ペットを飼わなくなった。
 理由は口にされない。
 なぜか、お訊ねしない方がよいという気がして、そのままにした。




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2015
09.20

少年の夢と卍 ―週刊新潮の表紙に想う─

201509190005.jpg

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 ある方から連絡があった。
週刊新潮の表紙に、住職が言っているイメージどおりのイラストが載っていますよ!」
 購入して、つくづく眺めた。
 画家成瀬政博氏の「表紙のはなし」にはこう書いてある。



 風船を持った少年のうしろ姿は
 に憧れる人生のようです
 ひとり一人のは 形を変えたり
 消えてしまったりするけれど
 人類の変わらぬのいちばんは
 戦争のない世界です
 それは 果しなく見つづけた
 もし 日本の総理大臣が 国連で
『今から私たちは 憲法九条を
 実現する努力をいたします』と
 宣言したらどうでしょう
 ああ 風船持つ少年のうしろ姿よ」


 朧な太陽へ向かって立つ少年の〈赤〉は、への情熱、燃えるいのち、そして果てしない戦火でもあろう。
 小生は、愛染明王(アイゼンミョウオウ)のまとう〈赤〉を直感した。
 愛染明王は、大日如来が生きとし生けるものを敬愛し、お慈悲で導く思いと力を私たちへ示すために明王となって現れた憤怒尊である。
 経典は、私たちにこびりついて離れない愛欲に染まったエネルギーをそのまま、自他を救う力へ転換させてくださると説く。
 私たちは、他人を押しのけても自分が欲しいものを得ようとする一方で、時には、自分の身を捨てても誰かを救わずにいられない。
 気ままに生きれば我利我利亡者(ガリガリモウジャ)となって悪業(アクゴウ)を積む私たちは、智慧と思いやりを持てば、ただちに、〈み仏の子〉たる本来の姿で生きられる。
 そのことを煩悩即菩提((ボンノウソクボダイ)と言う。
 この少年は、我欲で生きるのだろうか?
 それとも思いやりで生きるのだろうか?

 風船の〈青〉は安心や平和の象徴である。
 世界中の信号は、「進んでも大丈夫」という安全を青色へ託している。
 何かのトラウマなどを抱えていなければ、多くの人々は、空や海や湖の〈青〉を厭わないだろう。
 それは、心を静め、清め、深め、広がらせる。
 だから、真っ赤な少年は風船を手放せない。
 少年の手は風船をつかみ、飛んで行かぬよう制御してように見えるが、実は、風船に制御されてこそ少年の〈赤〉は、我欲でなく思いやりとして燃える。
 その〈青〉が心へ染み込まぬ限り、決して、風船を手放してはならないのだ。

 足元の小さなネコは、見る者を観ている。
 問いかけてもいる。
「お前はどうなのだ?」

 少年は立ったままだが、両手はダラリとしてはいない。
 力を込めた姿勢である。
 どう観ても、お釈迦様がお生まれになった時にその尊さを表した「誕生仏」そのものだ。
 日々、摩耶夫人(マヤブニン…お釈迦様の生母)と誕生仏の前で不戦日本を祈っている者にはすぐ、わかる。
 これは誓う姿でもあろう。
 彼は遙かなお天道様へ誓っている。
 それは何か?
「夢は捨てない」

 全体の構図を眺めると、いつも九字を切り、卍の印を結んでいる小生には、卍に見える。
 少年の右腕と風船に対応する左腕の形、そして、左上の太陽と右下のネコは、明らかに卍を成している。
 卍とは何か?
 太陽が天空を永久に回転する動きを象徴する卍は、繁栄・幸福・瑞祥(「密教大辞典」)の兆しとしての吉相である。
 小生は、一日として、祈りの中で卍を用いぬ日はない。
 何しろ、卍は招福法の決め手なのだ。

 少年の「夢」こそ、世界平和の決め手ではないか。
 今日も不戦日本を祈ろう。


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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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2015
09.19

しぐるるや死なないでゐる (種田山頭火)

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〈名取市閖上中学校の今の姿です。時計が止まっています〉

 種田山頭火が句集『鉢の子』に納めた一句である。

「しぐるるや死なないでゐる」


 神経衰弱から酒に溺れていた山頭火は出家して観音堂へ入ったが、やがて托鉢を始めた。
 43才だった。

「大正十四年二月、いよいよ出家得度して、肥後の片田舎なる味取観音堂守となつたが、それはまことに山林独住の、しづかといへばしづかな、さびしいと思へばさびしい生活であつた。」


 時雨(シグレ)の寒さは身体の皮からジワジワとどこまでも沁み入ってくる。
 自分の足に自分のいのちを託している身としては、「寒い」と口にしてみたところで、どうにもならない。
 どこかで雨宿りをしている時、その寒さを感じることで自分の存在が確認できる。
 今、死なないでいる自分、それは宇宙そのものだ。
 たとえ淋しさに背中を押されようと、俳句を詠むことは喜びである。

「うたふもののよろこびは力いつぱいに自分の真実をうたふことである。
 この意味に於て、私は恥ぢることなしにそのよろこびをよろこびたいと思ふ。」


 やがて、立ち居振る舞いが、世界そのものとなった。

「あるけば草の実すわれば草の実

 あるけばかつこういそげばかつこう」


「そのどちらかを捨つべきであらうが、私としてはいづれにも捨てがたいものがある。
 昨年東北地方を旅して、郭公が多いのに驚きつつ心ゆくまでその声を聴いた。
 信濃路では、生れて始めてその姿さへ観たのであつた。」


 草の実もカッコウも自分である。

 一転して、息づいている心が表に出てくる。

「やつぱり一人がよろしい雑草

 やつぱり一人はさみしい枯草」


「自己陶酔の感傷味を私自身もあきたらなく感じるけれど、個人句集では許されないでもあるまいと考へて敢て採録した。
 かうした私の心境は解つてもらへると信じてゐる。」(昭和丁丑の夏、其中庵にて 山頭火


 この「わかってもらえると信じている」は、淋しさの極みにいる者の叫びではなかろうか。

 雑草にはいのちの饗宴がある。
 競い合う生の中でたとえ孤独でも、生の実感は嬉しい。
 しかし、枯草にはいのちがない。
 自分がその一員として枯草たちに含まれていても、存在の充実感はない。
 孤独の味わいは、生の陽光にあってこそ生まれる。

 やがて戦争の足音が高くなり、句集『銃後』を編む。

「天われを殺さずして詩を作らしむ
 われ生きて詩を作らむ
 われみづからのまことなる詩を」


 空気に死臭が漂う時代、戦争に役立たない人間は天命と感じつつ、詠んだ。

「ひつそりとして八ツ手花咲く ―戦死者の家―」


 晩秋に咲く八ツ手の白い花は、夕暮れにも鮮やかだ。

「いさましくもかなしくも白い函(ハコ) ―遺骨を迎へて―」


 戦士は死んでなお、勇ましいのか……。

「足は手は支那に残してふたたび日本に ―戦傷兵士―」


 戦争は、人間の手足が激痛を伴いつつ同体からもぎ取られる状態である。

「木の芽や草の芽やこれからである ―日支事変―」


 山頭火の「これから」には、いかなる思いがあったのか、わからない。
 ただし、木の芽、草の芽に「や」という感嘆詞が用いられていることをそのまま受け止めるならば、戦争への讃歎が感じとられる。

「所詮は自分を知ることである。私は私の愚を守らう。」(昭和十五年二月、御幸山麓一草庵にて 山頭火


 この年の10月、自由律俳句の孤高を示した山頭火は58才の生涯を閉じた。




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2015
09.19

原発がどんなものか知ってほしい(その5) ―ある技術者の遺言―

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 ここで紹介する『原発がどんなものか知ってほしい』は、原発の建設、検査、配管工事の分野で現場監督を20年以上勤めた技術者平井憲夫氏が書いた〈現場からの報告〉である。
 今回の文章には、風評被害を引き起こしかねない内容や、強い誹謗の表現も含まれているが、資料として読むため、原文のまま掲載した。
 本文の妥当性については、ネット上に様々な知見があり、ご検討いただきたい。
 なお、平井憲夫氏は平成9年1月に58才で逝去されており、福島原発事故は約14年後に起こっている。

13 もんじゅの大事故

 去年(一九九五年)の十二月八日に、福井県の敦賀にある動燃(動力炉・核燃料開発事業団)のもんじゅでナトリウム漏れの大事故を起こしました。
 もんじゅ事故はこれが初めてではなく、それまでにも度々事故を起こしていて、私は建設中に六回も呼ばれて行きました。
 というのは、所長とか監督とか職人とか、元の部下だった人たちがもんじゅの担当もしているので、何か困ったことがあると私を呼ぶんですね。
 もう会社を辞めていましたが、原発だけは事故が起きたら取り返しがつきませんから、放っては置けないので行くのです。

 ある時、電話がかかって、「配管がどうしても合わないから来てくれ」という。
 行って見ますと、特別に作った配管も既製品の配管もすべて図面どおり、寸法通りになっている。
 でも、合わない。
 どうして合わないのか、いろいろ考えましたが、なかなか分からなかった。
 一晩考えてようやく分かりました。
 もんじゅは、日立、東芝、三菱、富士電機などの寄せ集めのメーカーで造ったもので、それぞれの会社の設計基準が違っていたのです。

 図面を引くときに、私が居た日立は〇・五mm切り捨て、東芝と三菱は〇・五mm切上げ、日本原研は〇・五mm切下げなんです。
 たった〇・五mmですが、百カ所も集まると大変な違いになるのです。
 だから、数字も線も合っているのに合わなかったのですね。

 これではダメだということで、みんな作り直させました。
 何しろ国の威信がかかっていますから、お金は掛けるんです。

 どうしてそういうことになるかというと、それぞれのノウ・ハウ、企業秘密ということがあって、全体で話し合いをして、この〇・五mmについて、切り上げるか、切り下げるか、どちらかに統一しようというような話し合いをしていなかったのです。
 今回のもんじゅの事故の原因となった温度センサーにしても、メーカー同士での話し合いもされていなかったんではないでしょうか。

 どんなプラントの配管にも、あのような温度計がついていますが、私はあんなに長いのは見たことがありません。
 おそらく施工した時に危ないと分かっていた人がいたはずなんですね。
 でも、よその会社のことだからほっとけばいい、自分の会社の責任ではないと。

 動燃自体が電力会社からの出向で出来た寄せ集めですが、メーカーも寄せ集めなんです。
 これでは事故は起こるべくして起こる、事故が起きないほうが不思議なんで、起こって当たり前なんです。

 しかし、こんな重大事故でも、国は「事故」と言いません。
 美浜原発の大事故の時と同じように「事象があった」と言っていました。
 私は事故の後、直ぐに福井県の議会から呼ばれて行きました。
 あそこには十五基も原発がありますが、誘致したのは自民党の議員さんなんですね。
 だから、私はそういう人に何時も、「事故が起きたらあなた方のせいだよ、反対していた人には責任はないよ」と言ってきました。
 この度、その議員さんたちに呼ばれたのです。
「今回は腹を据えて動燃とケンカする、どうしたらよいか教えてほしい」と相談を受けたのです。

 それで、私がまず最初に言ったことは、「これは事故なんです、事故。事象というような言葉に誤魔化されちゃあだめだよ」と言いました。
 県議会で動燃が「今回の事象は……」と説明を始めたら、「事故だろ! 事故!」と議員が叫んでいたのが、テレビで写っていましたが、あれも、黙っていたら、軽い「事象」ということにされていたんです。
 地元の人たちだけではなく、私たちも、向こうの言う「事象」というような軽い言葉に誤魔化されてはいけないんです。

 普通の人にとって、「事故」というのと「事象」というのとでは、とらえ方がまったく違います。
 この国が事故を事象などと言い換えるような姑息なことをしているので、日本人には原発の事故の危機感がほとんどないのです。


 これまで、どれだけの〈事故〉が発表されたことだろう。
 女川原発の事故が発表されるたびに「又か」と思い、あまりに〈人間的〉過ぎるできごとの続発を訝り、呆れつつ、〝本当にこれだけだろうか?〟と疑問に思ってきたが、ようやく状況の理解ができた。
 仕事の緻密さでは世界のトップにランクされるであろう日本人が行ってこれだけの事故が起こるならば、海の向こうに林立する中国の原発がどれだけ危険か、計り知れない。
 私たちは、中国の軍備にばかり警戒の目を向けているが、続々と造られつつある中国の原発群こそ、日本の喉元に突きつけられている匕首であるという現実を忘れてはならない。
 一旦、事故が起これば、偏西風に乗った放射能は日本を全滅させかねない。
 そして、特別機や米軍機ででも日本を脱出するような〈要人〉以外、破滅から逃れられる人はいないのである。
 国の安全を本気になって根本から考えるならば、まず、やるべきことは明らかでなかろうか。

14 日本のプルトニウムがフランスの核兵器に?

 もんじゅに使われているプルトニウムは、日本がフランスに再処理を依頼して抽出したものです。
 再処理というのは、原発で燃やしてしまったウラン燃料の中に出来たプルトニウムを取り出すことですが、プルトニウムはそういうふうに人工的にしか作れないものです。

 そのプルトニウムがもんじゅには約一・四トンも使われています。
 長崎の原爆は約八キロだったそうですが、一体、もんじゅのプルトニウムでどのくらいの原爆ができますか。
 それに、どんなに微量でも肺ガンを起こす猛毒物質です。
 半減期が二万四千年もあるので、永久に放射能を出し続けます。
 だから、その名前がプルートー、地獄の王という名前からつけられたように、プルトニウムはこの世で一番危険なものといわれるわけですよ。

 しかし、日本のプルトニウムが去年(一九九五年)南太平洋でフランスが行った核実験に使われた可能性が大きいことを知っている人は、余りいません。
 フランスの再処理工場では、プルトニウムを作るのに核兵器用も原発用も区別がないのです。
 だから、日本のプルトニウムが、この時の核実験に使われてしまったことはほとんど間違いありません。

 日本がこの核実験に反対をきっちり言えなかったのには、そういう理由があるからです。
 もし、日本政府が本気でフランスの核実験を止めさせたかったら、簡単だったのです。
 つまり、再処理の契約を止めればよかったんです。
 でも、それをしなかった。

 日本とフランスの貿易額で二番目に多いのは、この再処理のお金なんですよ。
 国民はそんなことも知らないで、いくら「核実験に反対、反対」といっても仕方がないんじゃないでしょうか。
 それに、唯一の被爆国といいながら、日本のプルトニウムがタヒチの人々を被爆させ、きれいな海を放射能で汚してしまったに違いありません。

 世界中が諦めたのに、日本だけはまだこんなもので電気を作ろうとしているんです。
 普通の原発で、ウランとプルトニウムを混ぜた燃料(MOX燃料)を燃やす、いわゆるプルサーマルをやろうとしています。
 しかし、これは非常に危険です。
 分かりやすくいうと、石油ストーブでガソリンを燃やすようなことなんです。
 原発の元々の設計がプルトニウムを燃すようになっていません。
 プルトニウムは核分裂の力がウランとはケタ違いに大きいんです。
 だから原爆の材料にしているわけですから。

 いくら資源がない国だからといっても、あまりに酷すぎるんじゃないでしょうか。
 早く原発を止めて、プルトニウムを使うなんてことも止めなければ、あちこちで被曝者が増えていくばかりです。


 何かにつけ、「非核三原則の日本だから、大丈夫です」と言うが、日米の密約で核兵器が日本へ持ち込まれていることはもはや、衆知の事実である。
 それにもかかわらず国会では、海外派兵され、米軍と一体化する自衛隊が「核兵器の輸送に関与しないか?」という質問に、「非核三原則を堅持するのであり得ない」などという答弁がまかり通っている。
 人類の敵である核兵器を廃絶させる役割を担っていたはずの日本は、資格を失いつつある。
 国民がそれとは気づかぬうちに。

15 日本には途中でやめる勇気がない

 世界では原発の時代は終わりです。
 原発の先進国のアメリカでは、二月(一九九六年)に二〇一五年までに原発を半分にすると発表しました。
 それに、プルトニウムの研究も大統領命令で止めています。
 あんなに怖い物、研究さえ止めました。

 もんじゅのようにプルトニウムを使う原発、高速増殖炉も、アメリカはもちろんイギリスもドイツも止めました。
 ドイツは出来上がったのを止めて、リゾートパークにしてしまいました。
 世界の国がプルトニウムで発電するのは不可能だと分かって止めたんです。
 日本政府も今度のもんじゅの事故で「失敗した」と思っているでしょう。
 でも、まだ止めない。
 これからもやると言っています。

 どうして日本が止めないかというと、日本にはいったん決めたことを途中で止める勇気がないからで、この国が途中で止める勇気がないというのは非常に怖いです。
 みなさんもそんな例は山ほどご存じでしょう。

 とにかく日本の原子力政策はいい加減なのです。
 日本は原発を始める時から、後のことは何にも考えていなかった。
 その内に何とかなるだろうと。
 そんないい加減なことでやってきたんです。
 そうやって何十年もたった。
 でも、廃棄物一つのことさえ、どうにもできないんです。

 もう一つ、大変なことは、いままでは大学に原子力工学科があって、それなりに学生がいましたが、今は若い人たちが原子力から離れてしまい、東大をはじめほとんどの大学からなくなってしまいました。
 机の上で研究する大学生さえいなくなったのです。

 また、日立と東芝にある原子力部門の人も三分の一に減って、コ・ジェネレーション(電気とお湯を同時に作る効率のよい発電設備)のガス・タービンの方へ行きました。 
 メーカーでさえ、原子力はもう終わりだと思っているのです。

 原子力局長をやっていた島村武久さんという人が退官して、『原子力談義』という本で、
「日本政府がやっているのは、ただのつじつま合わせに過ぎない、電気が足りないのでも何でもない。あまりに無計画にウランとかプルトニウムを持ちすぎてしまったことが原因です。はっきりノーといわないから持たされてしまったのです。そして日本はそれらで核兵器を作るんじゃないかと世界の国々から見られる、その疑惑を否定するために核の平和利用、つまり、原発をもっともっと造ろうということになるのです」
と書いていますが、これもこの国の姿なんです。


 思想家内田樹氏は9月18日付の河北新報へ書いた。

「日本が米国の従属国であることは否定しようのない歴史的事実である。
 敗戦国が生き延びるためにはそれ以外の選択肢がなかったのだから仕方がない。
 戦後70年間、先人たちは『対米従属』を通じての『対米自立』の道を必死で模索してきた。」

「沖縄返還後、わが指導者たちは『対米従属』の作法にのみ熟達して、それが『対米自立』という国家目的の迂回(ウカイ)にすぎないことを忘れてしまった。」

「ある時期から、『米国の国益増大に資するとみなされた人』しか、国内の重要な政策決定に与(アズカ)ることができないという仕組みが出来上がった。」

 その結果がまぎれもなく現在の政治状況であり、沖縄の苦難であり、原発稼働である。




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2015
09.18

やり返す準備のみが平和をもたらすのか? ―今こそ正気を保ちたい―

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〈北朝鮮の子供たち。『隣人。 ―38度線の北―』よりお借りして切り抜き、加工しました〉

 凄まじい雨が降り、寝床に横たわる身体全体が水をかぶったように冷たく、日本の未来への想念が黒雲となって心中に生まれ、流れ、文字どおり眠れぬ一夜となった。
 2時過ぎに眠ることを諦めて仕事にとりかかり、あまりの寒さに今秋初めて靴下を履いたが、屋根を突き刺す雨音と、窓外に広がる虫の声と、電気ポットが沸く音の中で、冷え切った胸は温まらない。
 日々、不戦日本を祈り、子供たちの心を蝕みつつある争いへの傾斜を憂いている者として今、痛切に願うのは、国民一人一人が自ら敵をつくらず、敵を固定せぬことである。
 ますます醸成されるであろう不安、嫌悪、憎しみ、怒り、侮蔑などに流されぬ正気を保つことである。

 そもそも、集団的自衛権という考え方は、「個別国家の戦争は違法」という国連の理念に反し、アメリカが自分の都合でいつでも〈自分が正義と主張できる戦争〉を始めるために、昭和20年、戦火の余韻が濃い混乱の中で国連憲章へもぐりこませた概念だった。
 まるで自明の理として誰も反論し得ないかのような雰囲気で語られている理念が、わずか70年前に〈戦勝国〉アメリカの都合で編みだされ、その正体は〈戦争の正当化〉であり、以後、アメリカが世界中で〈自由に〉戦争を繰り返して来たことを直視して慄然としない人がいようか。
 明らかにこの権利は、決して「戦争を避けるためのもの」ではなく、抑止という皮を被った「正しい戦争を始めるためのもの」だった。
 矢部宏治氏は、著書『戦争をしない国』においてその証拠を挙げている。
 条項の作者J・F・ダレスは憲章成立の翌月、アメリカ議会で、誇らしげに証言している。

軍事行動を国連安保理を通じて行うか、独自の軍事同盟にもとづいて行うかの決定は、そのときどきの国益に応じてアメリカが自由に選択することができます


 事実、アメリカはアメリカの国益に照らし、世界中で戦争を繰り返して来た。

 私たちは、集団的自衛権を、このようにイメージさせられている。
「友だちが誰かにやられたら、同じ仲間なのだから一緒になって相手にやり返すのは当然だ」
 本当に当然だろうか?
 立ち止まり、落ちついて考えてみると、気づくことだろう。
「これはせいぜい、子供のケンカのレベルではないか?」
 大人なら、友だちが何らかの形でケンカになった場合の対応はたくさん、考えられる。
 慰めるのはもちろんだが、まず、客観的な立場から事実を正確に見つめ、成り行きを分析し、争いの問題点と出ている結果の処置について検討することだろう。
 具体的にどう行動するかはその先にある問題だ。
 ――やられた友だちにある争いを起こす根本的な原因について共に考え、それを取り除くことも含めて。

 しかし、国家間という大人の世界でありながら、やられたら一緒になってやり返すのが正義であるという、まるで西部劇もどきのパターンが単純に正当化されつつある。
 私たちはすでに、イラク戦争を通じてこうした姿勢の危険性をはっきりと教えられているにもかかわらず。
 平成24年、外務省は、イラク戦争に関する日本政府の検証結果を公表したが、概要版はA4用紙4枚分しかなかった。
 報告書全文は「各国との信頼関係を損なう」という理由から公表されていない。
 各国で戦争の正当性が厳しく問われ、当のアメリカですら500ページにも及ぶ大量破壊兵器不在の検証結果が公表されているのに、世界中で日本だけが事実にフタをし、事実をふまえない派兵の責任も一切、追求されなかった。
 イラク戦争の不当性を主張した川口創弁護士は当時、こう語っている。

「検証の名に値しない。
 こんなものを『検証』と称して公表すること自体、国際社会の恥」

「この時期に出したのは、アリバイ的にイラク戦争の〝検証〟を終え、集団的自衛権の行使に向かうためではないか」


 そのとおりになった。

 この先、「そのときどきの国益に応じてアメリカが自由に選択」して始める戦争の相手方は〈自動的に〉日本の敵となる。
 武器をつくり、武器を売り、弾薬や兵士を運ぶ日本は、自衛隊員が弾を発射しようがしまいが、相手にとって敵である。

 何と恐ろしいことだろう。
 何度も読んで見ると、日本が集団的自衛権を使って外国へ出兵する際の前提になる3つの条件は、〈国民への言い訳〉として準備されているものでしかないことがわかる。
 そんな言い訳で出兵すれば平和がもたらされることなど、現実にはあり得ない。
 事実として、相手にとっての日本は、アメリカの軍事行動に参加する〈敵〉でしかない。
 それは、あらゆる場面で憎しみを向けられ、国の内外を問わずあらゆる場面で人もモノも攻撃の可能性にさらされることを意味する。
 私たちは、アメリカが常に勝者であるという幻想に取り憑かれているのではなかろうか?
 ベトナムでもイラクでも膨大な人々を殺し、決して消えない怨みを受け、膨大な帰還兵と家族の不幸を生み出したアメリカは決して勝利者などでなく、この先、アメリカにまつわる戦争へ参加する日本に、より明るい未来があるとは到底、考えられないのに。

 これでもなお、国民には〈やるべきこと〉も〈やれること〉もある。
 それは、いかなる国の人々をも敵視しない正気を保つことである。
 東北大学大学院教授黒田卓先生は、当山の寺子屋講座「イスラームについて考える ―理解と共生にむけて―」において説かれた。 

「多様な宗教の人々が、互いに地球上で仲良く暮らすために、善悪・好悪・価値判断を離れて、お互いを知ることが大切です。」

「生身の人間と話せば、何教の人も皆、普通です。
 私たちは本当に、同じことを願っていると思いました。
 文化・社会・政治体制が違っても、人間が生きる原点は、自分と家族の幸せを願うところにあります。
 誰もが、まっとうな仕事に就き、家庭を営み、自分なりの安心な暮らしをして行きたいと、当たり前のことを望んでいます。」


 写真家初沢亜利氏は写真集『隣人。 ―38度線の北―』で述べている。

「仮想敵として継続して要請されてきた『イメージとしての北朝鮮』。
 もはやそこには人々の当たり前の生活すら存在しないかのように、極悪非道の国家像が今や全日本人の頭の中にこびりついてしまった。」

「もはや誰も止めることのできない『愚かな歴史の繰り返し』へと突き進むことになるのだろうか。」

「4度の訪朝を経て、かの国には多くの善良な人々がいることを知った。
 勇気をもって『対話』へと動き出す時期が必ず訪れると信じることが、この写真集を作る原動力となった。
『対話』をするにも『交渉』するにもまずは冷静に相手を知ることから。
 この写真集の唯一のメッセージとして、多くの読者に届くことを私は願っている。」


 今こそ、正気を保とう。
 これだけは誰のせいにもできない。
 自分自身の自省と意志の問題だ。
 そして、これこそが「愚かな歴史の繰り返し」へ対する最後の歯止めとなることだろう。





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2015
09.17

9月の聖語 ―宇宙に満ちる自覚―

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〈名取市閖上(ユリアゲ)の現実です〉

 9月の聖語です。
 お大師様は説かれました。

「我性(ガショウ)の自覚は空(クウ)に満ち、海渧(カイテイ)の化身(ケシン)は世(ヨ)を救う」


 我性(ガショウ)の自覚とは、自分の本体がみ仏であると自覚することです。
 海渧(カイテイ)とは、海に満ちる潮から生じる無限の滴(シズク)たちです。
 化身(ケシン)は、ありとあらゆるものに姿を変えつつ生きとし生けるものを救うみ仏です。

 全体の意味はこうなります。

「自分の本体がみ仏であると自覚する時、その力は宇宙に充ち満ちる。
 大海の水がつくる無数の滴たちのような仏菩薩(ブツボサツ)は私たちをいつもお救いくださっている」

 私たちが仏道修行をする目的の一つは、見聞きするものや思い考えることによって揺れ動き、迷いや不安に染められる心をどうにかしたいからです。
 たとえば、卯年生まれの方が自分の一代守本尊様の真言を一心に唱えるとどうなるか?
 お大師様がここで説かれたように、いつしか、自分の中にみ仏の性(ショウ)すなわち仏性(ブッショウ)があることに気づくはずです。
 花を愛(メ)でるのも仏性、ネコの撫でるのも仏性、乗り物の席を譲るのも仏性、笑顔で「ありがとうございました」を言い相手の心を和(ナゴ)ますのも仏性です。
 そして、それは自分にあるだけでなく、花にもネコにも人々にもあることに気づきます。
 仏性の現れとしてどこにでもおられるありがたいみ仏の方々、それがここで説かれる化身(ケシン)です。

 経典を読誦(ドクジュ)するのも、写経を行うのも、阿字観などの瞑想をするのも、そして誰かへ優しい言葉をかけ、手を差し伸べるのも皆、仏性がさせる行為であり、行っている姿そのものがみ仏の化身です。
 こうして、この身このままで即身成仏(ソクシンジョウブツ)する時、仏道修行はそのままに日常生活の一部であり、日常生活はすべて仏道修行になります。
 私たちのいのちと心は、慈悲という力を放ち、それはこの世に行き渡ることでしょう。




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2015
09.16

悪魔祓いについて ―村上春樹氏の場合、行者の場合―

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 作家村上春樹氏は、最新刊『職業としての小説家』において、心理療法家河合隼夫の駄洒落を紹介している。
 故人となった河合隼夫は、かつて、会議に遅刻した小渕総理が「アイム・ソーリー、アイム・ソーリー」と謝りながら入って来たという話をした。

「河合先生の駄洒落というのは、言ってはなんですが、このように実にくだらないのが特徴でした。
 いわゆる『悪い意味でのおやじギャグ』です。
 しかし僕は思うんですが、それはそもそもできるだけくだらないものでなくてはならなかったんです。
 そうでなくては意味がなかった。
 それは河合先生にとっては、いわば『悪魔祓い』のようなものだったのではないかと僕は考えています。」


 駄洒落のたぐいにはほとんど心が動かず、たまに、綾小路きみまろに感心する程度の小生は「悪魔祓い」の言葉に驚いた。

「河合先生は臨床家としてクライアントと向かい合うことで、多くの場合、魂の暗い奥底まで、その人と一緒に降りていきます。
 それは往々にして危険を伴う作業になります。
 ひょっとしたら帰りの道筋がわからなくなり、そのまま暗い場所に沈みっぱなしになってしまうこともあるかもしれません。
 そういう力業の作業を日々、お仕事として続けておられます。
 そのような場所で糸くずのようにべったり絡みついてくる負の気配、悪の気配を振り払うためには、できるだけくだらないナンセンスな駄洒落を口にしないわけにはいかなかった。
 僕は先生のゆるい駄洒落を耳にするたびに、そういう感触を持ちました。
 あるいは少し好意的にすぎるかもしれませんが。」


 確かに、人生相談では、相手が階段を降りて行く過程に歩調を合わせる。
 そこで語られる言葉に耳を貸し、語られない言葉に心の耳をそばだてる。
 足先から徐々に冷たい水の中へ入って行くような状態になったりもするが、溺れたことはない。
 相手が目の前で溺れたこともない。
 すさまじい色情が火山のように爆発したり、顔の奧から別人が現れ声も切り替わってしまう映画もどきの現場に立ち会ったりはしたが、相手も自分も崩れなかったのは、ご本尊様のご守護に違いない。
 また、枕経の修法中に、暗黒の世界へ入りこみそうになる場合がある。
 瞑目した瞼の裏側から漆黒の沈黙が広がり、頭頂から地界へ溶け込んで行く感覚が生じる。
 祈りによってそこから必ず〈生還〉できているのも、ご本尊様のご守護に違いない。

「ちなみ僕の場合の『悪魔祓い』は走ることです。
 かれこれ30年ほど走り続けているんですが、毎日外に出て走ることで、僕は小説を書くことで絡みついてくる『負の気配』をふるい落としているような気がします。
 ゆるい駄洒落よりは、まわりの人を脱力させないぶん害が少ないんじゃないかとひそかに思っていますが。」


 村上春樹氏の言う「負の気配」は理解できるような気がする。
 知人の医師や作家を見ていても、そういうことだろうと想像できる。
 陽光の届かないところで時間をねじりながら過ごすことは、自然な生の営みではない。
 駄洒落、ランニング、あるいは飲酒や音楽鑑賞など、何らかの〈悪魔祓い〉は欠かせないのだろう。
 しかし、護身法を結んでからしか人生相談もご加持もご祈祷もご供養も行わない行者の場合は少々、事情が異なっている。
 確かに、法務を終えた後、心身の深い落ち込みに襲われる場合もあるが、それを引きずったことはない。
 お大師様と同行二人(ドウギョウニニン)になれば、結ばれた法は行者と相手と両方を必ず守っており、そうした実感が回復力の支えになっているのだろう。
 行者に悪魔払いは不要だが、護身法をきちんと結べなくなったら、ご縁の方々のためにも、修法はやめねばならないと覚悟している。

 それにしても、私たちは程度の差こそあれ、何らかの形で「負の気配」をまとい、何らかの形で「悪魔祓い」をしているのではないでしょうか。
 モーツァルトのミサ曲「アヴェ・ヴェルム・コルプス」や、ソニー・クリスの「アイル・キャッチ・ザ・サン」は、その一助になるかも知れません。

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2015
09.15

イスラームについて考える(その2) ―理解と共生にむけて―

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 9月12日、第67回の寺子屋『法楽館』において、午後2時より、日立システムズホール仙台にて、東北大学大学院国際文化研究科黒田卓先生より、講話をお聴きしました。
 先生は、「イスラーム圏、とくに中東との30年にわたる向き合い」をベースに、とてもわかりやすくお話くださいました。
 以下、先生が作られたレジメに添って、復習しておきます。

○コーランはムハンマドの死後から20年経ってまとめられた

 ムハンマドが病死した後、あっと言う間に世界へ広まったため、急いでまとめられました。
 仏教経典がお釈迦様の入滅後500年経ってからまとめられたのとは大違いです。
 全114章は、「機械的に長い章から短い章へと配列される」ため、「ほぼ実際の啓示年代と逆順に」並んでいます。
 年代的に後からのメディナにおける啓示は、数万人もに膨れ上がった聴衆へ説かれたので、とても長く、律法的な文言になっています。
 年代的に早いメッカの啓示は、内面的な思考パターンとなっており、シーア派などはそこに奥義があると考えています。
 16億人と言われるムスリムの90パーセントは「イスラム法重視型(顕教)」でありスンニ派を形成しています。
 10パーセントほどが、「神秘主義的な内面重視型(密教)」のシーア派を形成しています。
 やがて両方からイスラム神秘主義が生まれ、修練によって神との合一を目ざすようになります。
 自我や欲望を消して行き、自分の中に神を顕現させるといったやり方は、東南アジアなどへ広がる要因となり、地域の宗教と絡み合って発展しました。

イスラームの教理

 とにかく、神を信じることです。
 アッラーはザ・ゴッドですが、固有名詞ではなく、普通名詞になっています。
 神の方から降りてくるのが「コーラン」です。
 神が本質の一部を見せたもの、とも言えます。
 時間は来世へと直線的に進み、輪廻(リンネ)はしません。
 やがて死んだ時の姿で復活した肉体が魂と結合し、神に裁かれ、天国か地獄へ行きます。
 スンニ派は六信という信仰箇条を持っています。

「1 神(アッラー
 2 天使
 3 啓典
 4 預言者
 5 来世
 6 予定」


 神の特徴は二つあります。

「1 唯一性
 2 絶対的超越神であると童同時に人格神である」


○何を行うか

 ムスリムにとって、宗教的行為とは儀礼にとどまらず、日常生活のすべてに宗教的な意味があると考えています。

「人間の行為は、神の意志に基づくことを前提としつつ、どんなことを行うか、どんな人生を送るかは個人の自由意思や選択による←生前の行い、善悪が審判の判断基準になる。」

「行為は典型的な宗教儀礼的なもの[ムスリムの義務的行為]と、日常的な倫理や法に係る規範的な行為に分かれる。」


 儀礼的なものとしては、5つの行(五行、五柱)があります。

「1 信仰告白、
 2 礼拝(一日5回、メッカの方向に向かう)
 3 喜捨
 4 断食(ラマダーン月1月、日中のみ)
 5 巡礼(ズル・ヒッジャ月8日~10日、メッカで挙行されるのが大巡礼、現在期間中2百万人を超える)」


 入信はとても簡単で、二人の証人の前で「アッラー以外に崇拝すべき対象はない。ムハンマドアッラーの使徒なり」という意味の信仰告白をするだけです。
 ムスリムは喜捨を尊びますが、それは、財貨は神からの贈りものであって溜め込んではならないと考えているからです。
 断食は厳格でなく、日の出前と夕方には食べられます。
 断食では水も飲めないので、夏は汗をかかぬよう、割合、じっとして過ごします。

○現代のイスラームを考える:背景を探る

 テロによる非人道的行為については、ムスリムの99パーセントが反対しますが、自分たちのアイデンティティに戻ろうという面はあります。
 昭和42年(1967)に起こった第三次中東戦争において(日本ではトイレットペーパーの買いだめなどが発生しました)、中東諸国が束になって戦ったものの、たった3日間でイスラエルに敗れたことはムスリムたちにとって衝撃でした。
 当時のアラブ諸国は世俗主義の政権だったので、〈神を捨てた自分たちに問題があったと〉自省したことが、やがてイランイスラーム革命へ結びつきました。
 イスラームへ帰ろうという思潮が生まれ、政治的・経済的に自立した自分たちに不足していたのは文化であると自覚するイスラーム主義が興ったのです。
 トルコでは1920年代に宗教と政治を分けましたが、それも見直し、イスラームへ帰るようになりました。
 イスラームを過激に解釈する人々も現れました。
 一方、誰もがコーランを読み、ブログなどで信仰を発信するようになったので、ウラマーと呼ばれる僧侶の権威がなくなりました。
 また、マレーシアやインドネシアでは、説教師に人気が集まったりしています。

○まとめにかえて

 先生は最後に、何よりも、ありのままのイスラームを理解することが大切であると説かれました。

「紋切り型のイスラーム観ではなく、共生可能で変化するイスラームの理解」


○質疑応答

・ミャンマーの仏教徒はなぜ寛大でなく、イスラム教徒を迫害するのですか?

「ロヒンギャなどの少数民族へ対する差別や迫害という面が強いのではないでしょうか」

・シーア派とスンニ派の男女は結婚できますか?

「問題ありません。
 対立は宗教や民族の宿命ではなく、対立には他の利害などが複雑に絡み合っています。
 また、対立を焚きつける人々や国もあります」

・ISはアメリカと一体化しつつある日本を敵と見なしているようですが、交渉は可能ですか

「ISに対して、私たちが普通用いる理屈は通りません。
 今後どうするか、よく考える必要があります」

・宗教が生活のすべてを支配しているならば、近代的な法治国家の中で、ムスリムと私たちが共生することは不可能ではないでしょうか?

「コーランは膨大なものではなく、現実を見れば、人間がやることのほとんどは慣習や法律で決まっています。
 要は、法律をどう上手に強制して行くかということになりそうです」

・一日に何回も祈ったりすることは、イスラーム国家やムスリムへ経済的マイナスをもたらしているのではありませんか?

「悪影響はあまりないでしょう。
 日中の祈りで問題なのは3時だけであり、日本の会社における3時の休憩などを考えてみましょう。
 また、信仰の実践方法は、私たちと同じく、人それぞれなのです」

・イスラームにはコーランのみで憲法や法律がないのですか?

「ほとんどのイスラーム国家において、イスラーム法が本当に生きているのは民法の一部だけです。
 ほとんどの国で西欧起源の法体系が採り入れられています。
 人々の日常生活を動かしているのは、主として慣習法プラス宗教法です。
 そもそも、イランイスラーム革命も、法に基づく社会にしたいという願いで起こされました。
 人権・平等・民主主義なども採り入れられています。
 トルコとイランには憲法も議会もあります」

・日本ではベールを被っていないムスリムもいますか?

「女性信者はムスリマと言います。
 なぜ被るかと訊けば、強い信仰心からというよりも、異国に来た同胞がいることを意識しているという面が強いかも知れません。
 また、自分のアイデンティティをしっかり保つために、異国であればこそよけいに被りたくなるという面もあるでしょう。
 いずれにしても、被るか被らないかは、人それぞれの気持や考えや事情によって違うのです」

・シーア派は、ムハンマドの孫が代々つながっていると考えているようですが?

「そうです。
 イランでは90パーセントがシーア派で、カリスマ的人間を尊敬する伝統があります」




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2015
09.14

空蝉のすでに生死にかかはらず (大串 章)

 72才の俳人大串章氏は詠んだ。

空蝉(ウツセミ)のすでに生死にかかはらず」


 空蝉とはセミの抜け殻である。
 セミはもう飛び立ち、そこにはいない。
 しかし、抜け殻は、羽化する前のセミが確かにそこにいたことを示している。
 ――いのちの宿っていない目の前の抜け殻は死んでいると言えるのか?

 この世にいる現人(ウツシオミ)が訛ってウツシミ、あるいはウツソミとも言われ、ついに空蝉の言葉が同じ意味を持つようにもなった。
 生きている人間、そして、さらには、この世をも抜け殻と同じ言葉で表現するのは一見、おかしいが、冒頭の句を読むと、その意味がわかる。

 動かぬ抜け殻も(クウ)、動く人間もまた、(クウ)なのだ。
 そこにはモノがあり、ここにはいのちがある。
 しかし、いずれも、仮そめに在るという意味では(クウ)であることに変わりはない。
 氏はそこのところを「生死にかかわらない」と読んだのではないか。

 同じ頃、こうも詠んでいる。

秋風や廃船になほ胸の張り」

 浜辺へうち捨てられた廃船が秋風に吹かれてじっとしている。
 しかし、よく観ると、生き生きと波間を駆け抜けていた頃の流麗な膨らみがまだ、残っている。
 まるで誇りを失っていないかのようだ。
 氏は朽ちて行くものがまとう気配をつかんだ。

 猛暑が去ったら秋雨が続き、豪雨は天災にまでなった。
 天災の下で、人の営みは何と儚いことか。
 空蝉はもう見られず、秋風が主役となった。
 さて、空蝉の世にある空蝉の身を今日一日、どう生きるか……。




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「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
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2015
09.13

イスラームについて考える(その1) ―理解と共生にむけて―

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 9月12日、第67回の寺子屋『法楽館』において、午後2時より、日立システムズホール仙台にて、東北大学大学院国際文化研究科黒田卓先生より、講話をお聴きしました。
 先生は、「イスラーム圏、とくに中東との30年にわたる向き合い」をベースに、とてもわかりやすくお話くださいました。
 以下、先生が作られたレジメに添って、復習しておきます。

 先生の基本的な立場です。

「多様な宗教の人々が、互いに地球上で仲良く暮らすために、善悪・好悪・価値判断を離れて、お互いを知ることが大切です」
 先生が今の研究を始められたのは昭和54年(1979)のイラン・イスラーム革命がきっかけでした。
 宗教で革命が起こったことに驚かれたそうです。
 そして、中東に足を運び、つくづく実感されました。

「生身の人間と話せば、何教の人も皆、普通です。
 私たちは本当に、同じことを願っていると思いました。
 文化・社会・政治体制が違っても、人間が生きる原点は、自分と家族の幸せを願うところにあります。
 誰もが、まっとうな仕事に就き、家庭を営み、自分なりの安心な暮らしをして行きたいと、当たり前のことを望んでいます」

 こうした先生の体験と実感はきっと、その後の研究を支える信念となったのではないでしょうか。
 世間的なことごとを離れた学問の世界におられる先生が、〈人々の生活〉について話される時の屈託ない笑顔は、そうした人間への親近を物語っていると感じられました。

 先生は、テヘランから東へ850キロメートルに位置するイラン第二の都市、マシュハドで過ごされました。
 シーア派の聖人が祀られている聖廟都市ですが、ショッピングモールに一人でいたら、女性たちに呼ばれ、質問攻めに遭いました。
 もちろん、先生もいろいろ質問しましたが、私たちが最も気になるベールについて訊いたところ、ある程度強制されてかぶっている人が大半でした。
 日本に来ているムスリマ(イスラームの女性信者)たちは、人それぞれの事情や考え方でかぶったり、かぶらなかったりしているそうです。
 ただし、彼女たちが〈外国〉で暮らす際には、自分のアイデンテティをしっかりさせておくためにかぶるといった意識が強くなるようです。

 先生はイラン西部からトルコ東部などへ広がるクルディスタンでも過ごされました。
 クルド人がたくさん住み、草原が多く、自然を喜ぶ人々はよくピクニックを楽しみます。
 そして、イスラームでは禁止されているはずのビールなども普通に飲まれており、トルコから各種の物資がどんどん入って、あまり堅苦しくない生活をしています。

イスラムの呼び方

 戦前や戦後すぐまでは回教、あるいは回回教(フイフイ教)と呼ばれていたが、70年代後半からイスラム教、あるいはイスラムとなりました。
 回紇人(カイコウジン)と呼ばれたウィグル人が信じた宗教なので回教とされたらしいが、今の中国ではイスラムと称されています。
 
 そもそも、イスラムという呼び方には私たちが「イスラム教」と言う際の「教」が意味として含まれているので、「イスラム」という言葉だけで、特定の宗教を指し示していることになります。

 現在、研究の世界や岩波などでは、アラビア語の呼称に従ってイスラームとしています。
 また、イスラームという言葉は、神への絶対帰依、絶対服従など信仰の態度そのものをも示しています。

マホメットとは

 マホメットは英語的呼び方であり、ムハンマドが本来の呼び方です。
 ムハンマドは、まだ戸籍や出生記録のなかった時代にメッカで生まれ、西暦610年に神の啓示を受けた(召命)ので、開祖とされます。
 メッカはイスラム教徒以外は足を踏み入れられない聖地であり、観光は受け入れていません。

○イスラームとは

 いわゆるアダムとイブのアダムは、はイスラームでは許され、アダムは最初の預言者であり、最初のムスリムとされます。

「神が始めも終わりもない永遠の実在という前提を考えれば、教えとしてのイスラームも永遠の宗教。
 少なくとも人類創造とともに始まり、とくに一神教を最初に唱えたアブラハムに原点があると考える。」


 唯一の神を崇め、アブラハムからスタートしているという点では、ユダヤ教、キリスト教、イスラームは兄弟のようなものであると言えます。

コーランとは

 正確にはアル・クルアーンと言います。

「『コーラン』はムスリムたちにとって、神が直接預言者ムハンマドに語りかけた言葉をそのまま採録したもの。
 預言者の言動は、別のものとして受け止められている。」

「イスラームでは、従って聖典としては『コーラン』が唯一無二。」


 仏教やキリスト教ではたくさんの経典があります。
 先生は縦10センチもない小さくて分厚い経典を示されました。
 一般のムスリムがいわば御守のような感覚で持ち歩くそうです。
 外国人向けのお土産物の売り場にも並んでいます。
 文化財的な古いものから、革製で大きく豪華なものなど、『コーラン』はさまざまで、大切にされています。
 クルアーンはそもそも「朗読する」という意味を持っています。

「『コーラン』は上述の位置づけゆえに、声を上げて朗読すべきもの(=コーランの原義)。
 しかも翻訳ではなく、アラビア語でリズムと抑揚をつけて『朗詠』する。」





 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
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「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=rWEjdVZChl0





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2015
09.12

Q&A(その10)ご本尊様って何でしょうか?

◎御礼
 今回の豪雨に関してたくさんの方々からご連絡をいただきました。
 おかげさまにて、当山に被害はありませんでした。
 『法楽農園』のササニシキも大難を免れました。
 被災された方々へ思いをいたしつつ、謹んでご報告とお礼を申しあげます。
 まことにありがとうございました。合掌




201509120001.jpg
〈関東方面からご本尊様へ捧げられたお菓子〉

 お仏壇についてご質問されるAさんへ申しあげました。

「お仏壇は、お位牌を安置する箱ではありません。
 ご本尊様のお力によって、お位牌をより所とする御霊が守られ、手を合わせる私たちが守られる〈ミニ寺院〉なのです」

 すると、若く利発なAさんはすかさず、第二の質問を行いました。

「そう言えば、ご本尊様っていろいろありますよね。
 ご本尊様っていったい、何なのでしょうか?」

 お答えしました。

「どこのお寺でも、本堂の真ん中に必ず、お不動様やお地蔵様などがご本尊様としてお祀りされています・
 そして、お仏壇の中にも必ず、お釈迦様や阿弥陀様などがおられます。
 そうしたご本尊様は、私たちの敬虔な気持やおすがりする必死な思いを受け止めて、異次元へとお導きくださる方であり、私たちから謙虚で清らかな心を引き出してくださる方でもあります。
 私たちは、立体の仏像や掛け軸に書かれた尊像を前にして合掌しますが、祈りを込める段階では瞑目して真言やお経を唱えたり、願いごとを念じたりします。
 目を大きく見開き、お姿についてあれこれと考えながら念じる人はおられません。
 それは、無意識のうちにご本尊様を自分の心中へ写し込み、そのイメージに対して意識を集中させている状態です。

 さて、こうしたことを考えてみると、ご本尊様はまず、ある特定の〈お姿〉を持った者として存在し、視覚のある私たちへ聖なる世界をお示しくださっていると言えます。 お姿の根拠になっているのはもちろん経典です。
 だから、目の見えない方でも、経文によってお姿を想像できます。
 そして、私たちの静まり、清まった心はだんだんに、ご本尊様の聖なる世界へ入って行きます。
 やがて、ご本尊様の姿形は消えるか、あるいは無限大の大きさに広がって、姿を失うことでしょう。
 祈りに没頭する時、ご本尊様は私たちのいのちであり、心であり、〈そこにおられるご本尊様〉と〈ここにいる自分〉との区別はなくなります。
 これを明確な手順として行えば、ご本尊様と一体化する瞑想の修行になるのです。

 私たちは古来、雄大な山も、澄浄な泉も、皎々たる満月も、聖なる世界へお導きくださるご本尊様として尊んできました。
 ご本尊様はいつでも清らかな心へ顕れてくださるのです。
 ご本尊様へ手を合わせる時、私たちは自分の心におられるご本尊様にお会いしているとも言えます。
 尊いものを感じる私たちの心をこそ、お互いに尊び合い、いずれのご本尊様へもすなおな気持で合掌したいものです」




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「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2015
09.11

ああ、自衛隊員の方々! ―トルストイと災害―

20150911000222.jpg

20150911000123.jpg
〈ネット上からお借りして加工しました〉

 明治37年、日露戦争の勃発を受け、77才のトルストイは、ロンドン・タイムス紙へ『悔い改めよ』という一文を発表した。
 石川啄木は、それについてこう記している。

「当時の論客の意見としては、平民新聞の記者が笑ったように、どれも皆『非戦論はロシアには好都合だろうが、日本にとってはよくない』という論調だった。
 そして、いわゆる愛国者の一人が『トルストイ爺さんは日本とロシアを同じように見ている。不幸にして、日本の実情が爺さんの住んでいるところへ伝えられていないために、爺さんが日本を非難する言葉を発するに至ったことは、まことに悲しい』と言った時、記者はこのように一矢を報いた。
 いわく『そうではないよ。爺さんが日本の実情をもっとよく知っていたならば、日本を攻撃する筆致はさらに鋭くなっていただろうに』」

 以下、啄木の書いた原文である。

「當時の日本論客の意見は、平民新聞記者の笑つた如く、何れも皆『非戰論は露西亞には適切だが、日本には宜しくない。』といふ事に歸着したのである。
 さうして彼等愛國家の中の一人が、『翁は我が日本を見て露國と同一となす。不幸にして我が國情の充分に彼の地に傳へられざりし爲、翁をして非難の言を放たしめたるは吾人の悲しむ所なり。』と言つた時、同じ記者の酬いた一矢はかうであつた。
 曰く、「否、翁にして日本の國情を知悉せば、更に日本攻撃の筆鋒鋭利を加へしことならん。」

 
 トルストイはこんなふうに書いたのだ。

「祈祷、説教、激励、行列、画、新聞などに気違いにされた、大砲の餌食たる、数万の人間は、一様な服装、一様な殺人道具を携え、両親や妻子をおいて、心に苦痛を感じながら、しかも徒(イタズラ)な勇気を以て、戦場に出掛け、死の危険を冒して、自分が知りもせねば、自分に何の害もしない人を殺す、最も恐ろしい仕事をやるのである。」

「私は神の命じ給う事以外には身を処し得ない。
 なぜかなれば、私は人として、直接にも又間接にも処置にても、援助にても、又鼓舞を以てしても、戦争に干与することはできない。
 私には出来ない、欲しない、又そうはなれない、という外はない。」


 災害に苦しむ私たちを救ってくださる自衛隊員たちの神々(コウゴウ)しい姿に手を合わせればこそ、彼らを戦地へ送りたくないという願いは強くなるばかりである。




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2015
09.11

当山附近の川も氾濫 ―生きとし生けるものたちの無事を祈る―

201509110001.jpg

 昨日の朝一番に、亡くなった大型犬のご葬儀を申し込まれたが、時間の繰り合わせがつかず、ご要望にお応えできなかった。
 今朝、午前3時に起きてみると、当地は豪雨に見舞われ、附近の吉田川氾濫し、防災無線が非難を呼びかけている地区もある。
 真っ暗なので、吉田川に通じる宮床川の堤防沿いにある当山の法楽農園がどうなっているか、見にも行けない。

 ヤフーニュースは、昨日、茨城県常総市で自衛隊のヘリコプターに救われ、石下総合運動公園に到着した年配女性の様子を放映していた。
 自衛隊員に支えられ、柴犬らしいイヌと一緒に降り立った人は、知人2人から「よかったね」と涙で迎えられたが、その祝福はイヌにも向けられていた。
 女性の言葉である。
 
「2階に上がってたんですけど、下が崩れたので屋根に上がってイヌも連れて上がりました。
 ほんとはイヌは置いてくればよかっのたかも知れないですけど、自衛隊の方にお願いしますと言って連れてきました。
 子供のイヌなので置いてこられなかったので。
 本当にほっとしました。
 ありがとうございました。」

 言葉にある「子供」には子犬という意味だけでなく、子供同様のイヌという意味も含まれているのではないか。
 これまでに、ペット霊園「やすらぎ」さんや当山で、イヌやネコやウサギやフェレットなどのご葬儀、あるいはご供養をされた方々のお顔が思い出され、心から「よかったね」と思えた。

 明るくなってみないと、宮床かいわいの被害がどれだけかはわからない。
 これだけの豪雨では、人的被害、家屋や車などの被害、稲や作物の被害がいったいどれほどになるか想像もつかない。
 暗闇の中で、イヌやネコなど、人間の周辺で生活してきた生きものたちのいのちも、どんどん失われつつあるのだろうか。
 それにしても、秋の虫たちが、屋根を打つ雨音に負けぬほど懸命に鳴いているのは不思議だ。
 彼らはいったい、どこで生き、羽を振るわせているのだろう。
 これから皆さんの無事を祈り、生きとし生けるものの無事を祈る。
 もちろん、「不戦日本」も――。




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2015
09.10

スマホと電車の無関心 ―私たちの心が写し出された二つのできごと―

201509100001.jpg
〈東日本大震災の犠牲者を慰霊するため陸前高田市に建てられて観音堂〉

 7月にアメリカ、8月にイギリスで起こった無情なできごとをネットでみつけ、驚いた。

○19歳男性が燃えさかる車から女性を救出――その時周囲の人々は(週刊『女性自身』より)

 スマートフォンは今や我々の生活に欠かせないものとなったが、食事中に話題が途切れるとすぐスマートフォンに手を伸ばしたり、レストランで供された料理を無断で撮影したりと、失礼なユーザーの姿がしばしば話題となる。
 使う側の良識が問われる昨今だが、「失礼なだけならまだマシ」と思わせられるような事件が米オレゴン州で起こった。

 18日、ガソリンスタンドで女性を乗せた一台の車が炎上。弟と買い物に行く途中で偶然近くを通りかかった19歳のフィリップ・ビターさんは脇目も振らず、彼女を救出するために駆け寄った。
「頭の中は真っ白でした。
 彼女が目に入って、とにかく事態が悪化する前に助け出さないと、と。
 彼女に『今からあなたを引っ張り出します。
 窓ガラスを割りますから、離れていて下さい』と呼びかけました」
 ビターさんの勇敢な行動で女性は一命を取り留め、その後到着した救急隊員によって病院に運ばれて事なきを得た。
 車の火を消し止めた消防隊員は、ビターさんの行動はまさに「英雄的だ」と賞賛する。

 日常風景の中に突如現れた黒煙を上げて燃えさかる車──ビターさんはこれよりもさらに驚いたことがあったと19 Action Newsの取材で語っている。
 車の周囲に集まった野次馬が女性を助けるでもなく、スマートフォンで動画を撮影していたというのだ。
「6人くらいの人が突っ立って、ビデオを撮っていました。
『ああ、誰か彼女を助けないとねえ』なんて言いながら、ですよ」
 前述の消防隊員は、ビターさんがあのタイミングで助け出さなければ、女性に命はなかっただろうと話す。
 もし、彼が通りかからなければ、車に閉じ込められた女性はビデオに収められながら見殺しにされていたのだ。
 緊急事態を目撃した場合は、カメラを起動する前に自分にできることがないかどうかを考えるべきだろう。


 これはアメリカのできごとだが、もはやスマートフォンは人間が使う道具と言うより、人間を支配しているモノと言った方が正しいのではなかろうか?
 7月6日、デジタルアーツは、未成年の携帯電話スマートフォンの利用実態調査結果を発表した。
 驚くべきことに、女子高校生が携帯電話を利用する1日平均の時間は5.5時間、男子高校生は3.8時間である。
 絶えず〈やって来るもの〉に反応し、〈誰かへ〉発信しないではいられない。
 こうした状況では、本を読み、音楽を聴き、自然と接し、魅力を感じる相手と会ってじっくり対話するなどの行動によって〈内なる自分〉が動き、深まる機会を失っているのではないか。
 表面的に反応する心だけが激しく動き、ネットでつながる人々の言葉に神経を尖らせながら、忙しくその日暮らしをしているのではないか。
 感情的になり、衝動的になり、短絡的になりがちではないか。
 感情に訴えるもの、ワクワクさせるもの、断定的に表現するものにたやすく惹かれてしまいがちではないか。
 理性は鍛えられているか?
 情操は深められているか?
 そうして人間性が高まって行くための時間は1日24時間のどこにあるか?
 上記のできごとは、恐ろしい状況を暗示しているのではなかろうか。

 ちなみに、モノに支配されないための方法は簡単である。
 モノから離れる時間を持てばよい。
 騒がしく波立つ表面の心が静まり、何らかの形で霊性が活性化することだろう。
 霊性が輝く時、〈霊性の共有者としての他者〉がこれまでとはちがった次元でたち現れることだろう。

電車を奪われた妊婦が怒りの声「みんな見ないふりをしていた」(『女性自身』)

「騎士道精神は死んでしまったのか」──英国では今そんな声が噴出している。
 妊娠後期の妊婦が、指定券を購入していたにもかかわらず、列車内で立ちっぱなしでいることを余儀なくされたからだ。

 マリー・クレア・ドーランさん(29)は先月26日夕方、バーミンガム・ニューストリート駅からマンチェスター・ピカデリー駅へ向かう列車に乗り込んだ。
 妊娠34週目の大きなお腹を抱えていたため、彼女は事前に指定を購入していたという。
 しかし、彼女の押さえていたには、既に男性が座っていた。
「その時、私はもう疲れていて、足も痛かったんです。
 だから正直に、そのは私が予約していることを伝えました。
 電子予約システムが壊れていたので、チケットも見せたんです。
 でも、彼はそれを一瞥すると、私の顔を見て笑い、背を向けました」
 この男性の行動は当然ながら言語道断だが、ドーランさんは周囲の人の無関心を嘆く。
「誰も、何もしてくれませんでした。
 介入して助け船を出してくれる人も、私にを譲ってくれる人もいなかったんです。
 みんな一様に目を背けて、見ないふりをしていました」

 結局、ドーランさんは30分以上、立ったまま列車に乗り続けた。
 お腹は重たく、背中や足にひどい痛みを覚えていたが、席を譲ってくれるよう頼んで笑われるのはもうまっぴらだった。
 その後、やっと乗務員が検札に訪れると、男はドーランさんの席から立ち上がってその場を去ったという。
 ドーランさんは、こう主張する。
「妊娠している女性を先に乗車させてあげたり、席を譲ったりすることは暗黙のマナーだと思います。
 それこそが礼儀です。
 でも、あの車内にいた人たちは私を邪魔にならないところに押しやって、座席を取った男性は私の顔を見て笑ったんです。
 よっぽと、私が素敵だったんでしょうね。
 これが今の移動の仕方なんでしょうか」
 どこの国でも、妊婦や子連れ、ベビーカーは論議の的となりがちだが、この件は購入した指定席を奪われたということで男性を擁護する意見はほとんど見受けられない。


 男の無法を直接、咎めないまでも席を譲る人がいなかったとは信じがたい。
 ドーランさんは「暗黙のマナー」であり「礼儀」と言うが、小生は、良心の督励(トクレイ)と言いたい。
 本当は〈そうしないではいられない〉はずではないか?
 普通の人間なら、大きなお腹を抱えた妊婦がつり革につかまって立っている光景に、涼しい顔で耐えられないのではなかろうか?
 もしも寝たふりを決め込むなら、心のどこかが異様にうねって落ちつかないのではなかろうか?
 もっとも、こうしたできごとが世界から関心を集める記事になること自体、いまだ〈普通のできごと〉になってはいないという証ではあろう。
 それは救いと言えるのだろうか。




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2015
09.09

生まれ変わりたくない方 ―苦はどこから?―

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(今の陸前高田市。広田湾から溢れた津波は、このあたりまで来た。田んぼが早々に復活し、皆、稲が塩に強くて驚いたという〉

 当山はおりおりに、こうした願文を唱える。

「いまだ苦しみを離れざる者には、願わくは苦しみを離れしめ、
 いまだ楽しみを得ざる者には、願わくは楽しみを得せしめ、
 いまだ菩提心(ボダイシン…悟りを求める心)を起こさざる者には、願わくは菩提心を起こさしめ、
 いまだ悪を断じ善を修せざる者には、願わくは悪を断じ善を修せしめ、
 いまだ成仏せざる者には、願わくは成仏せしめん」


 ある修法の終了後、ご参列のAさんから、「ちょっといいでしょうか」と声をかけられた。
 Aさんのお母さんは、重篤な病気に苦しみ、死後のことをあれこれと考え、口にしてもおられたという。

「今度生まれ変わるなら、虫は嫌だな、鳥も嫌だな。
 花ならいいかな、でも嫌だな。
 ネコもいいけど野良猫だったら大変だしな」

 やがて転生の希望を、こう結論づけた。

「やっぱり人間しかない。
 でも、こんなに苦しい思いはもう、二度としたくないから、生まれ変わらないよう願って死のう。
 再び、決して、この世へ来ませんように」

 Aさんは言う。

「ちょうど東日本大震災で入院していた病院がやられ、この先生に看取られて死ねれば、という唯一の支えだった先生がおられる病院にいられなくなりました。
 ガソリンがなかったりしてなかなか見舞いに行けず、本当にかわいそうな最期でした。
 近くの住民は身内や友だちが見舞いに来てくれるけど、自分はいつも一人ぼっちだと聴かされた時は、胸が潰れる思いでした。
 だから、亡くなった時は、安堵したような顔を見て、心から『よかったね、お母さん』と言ってあげました。
 苦しみや淋しさからやっと解放されたことを、一緒に喜んだのです。
 そんなふうにして母を送ったので、輪廻転生(リンネテンショウ)のお話を耳にすると、悲しみがぶり返してしまいます。
 さっき、ご住職様が、願わくは苦しみを離れしめ、と祈ってくださったので、悲しみと感謝が湧き上がってきました。
 母はもう、望みどおり戻って来ないのでしょうか?
 それもまた、かわいそうに思えるのですが……」

 死が救いになるという状況は確かにある。
 ここでAさんの口からこぼれた「よかったね」に対して、不謹慎だ、などと非難する資格のある人はいない。
 申しあげた。

「お釈迦様の時代、究極の救いは、輪廻転生からの脱出でした。
 いわゆる解脱(ゲダツ)です。
 人間どころか、楽園のような天界の神々に生まれ変わったとしても、寿命がくれば、餓鬼界や地獄界へ行かざるを得ません。
 楽しい生活をしただけに、行く先との落差はどれほど恐ろしく感じられるか想像もつきません。
 だから、輪廻転生の原因となる迷いを根元から抜き去ってしまいたかったのです。
 そうして、経巡る六道(ロクドウ)から離れた先が声聞界(ショウモンカイ…教えを聴いて悟った世界)、縁覚界(エンガクカイ…周囲の縁によって悟った世界)、菩薩界(ボサツカイ)であり、仏界です。
 お母様がそれほどきっぱりと生まれ変わらぬように願われたのならば、もしかすると声聞や縁覚といったアラカンさんになれる人として再来するかも知れませんね。
 アラカンさんは、この世にいながら、この世の苦から脱することのできた人々ですから……。
 私は、祈りつつ感得したことがあります。
 モノとしての肉体が死後、分解されて大自然へ還って行くのと同じく、心やいのちもまた死後、霧散して目に見えぬ広大な世界へ還って行くのだとしか思えません。
 ピュアに成り切れば、迷いによって生じているこの世との縁がなくなるので、仏界へ行ったままの存在すなわち如来(ニョライ)になるのでしょう。
 そうなれず、この世に生じた者たちは皆、迷いの彩りをまとっているという共通点があるのです。
 お母様が強く望まれた『苦を離れたい』という思いは、無意識の裡に『迷いを離れたい』だったのかも知れませんね」

 Aさんの涙に自分の涙腺も潤むのを覚えながら、北尾克三郎師の文章を思い出していた。

「釈尊が断食苦行を中止し、沐浴によってからだを清め、牛乳粥を摂(ト)り、体力を回復し、涼しい木陰に坐したのは、断食や苦行によっては生きていることの真実は得られない、真実の生は肉体と精神の安らぎからこそ得られ、そこに生存していることの意義があると気づいたのだ。(この気づきが、さとりの原点である)
 そうして深い瞑想に入り、実在している自分に目覚めた。(これがさとりの本質である)
 では、真実の存在に目覚めるには、自らは何をしなければならないのか。
 まずは、清浄に生きることである。
 清浄に生きるとはどういうことなのか、そのためには、生存していることのインスピレーションを得なければならない。
 生存のインスピレーションとは、生きとし生けるものはみな、無垢なる生存欲にしたがって生活し、自然界とのバランスを自ら計り、無心にその生活と環境を守っているということである。
 自然界のバランスが崩れると、生存はないのだ。
 自然界を清浄に保つこと、そこに生きているものの根本の努めがある。」(「菩提樹下の思想」密教メッセージNO.20より)


 このインスピレーションが微(カス)かにでも兆(キザ)す時、現実生活・現代文明との乖離が観えて恐ろしい。
 写真家初沢亜利氏は、東日本大震災の被災地を撮った写真集『True Feelings』で述べている。

生態系の内側で歴史上繰り返されたきた地震と津波の被害は、人類の過ちを意味するものではない。
 5カ月の間、宮城、岩手で私が意識的に向き合ったものは、人類の持つ強固な生命力と共に、精神的復興に欠かすことのできない忘却としたたかさであった。
 自然的治癒能力が人間を含め生態系の内側には存在しているのだ。
 しかし、原子核が融合して高エネルギーを生み出すという太陽圏に属する現象を、厚さ数キロの生態圏に持ち込み、ひとたび制御を失った時、地球内部での修復の糸口を見いだすことは不可能だ。」


 私たち人間は、あらゆる生きものたちが決して比肩できない最高度の知を手にしていながら、〈生存のインスピレーション〉からあまりにも遠く隔たった貪りと憎み合いと破壊行為とで苦しんでいる。
 人間以外の生きものたち皆が「無心にその生活と環境を守っている」というのに、人間だけが、まるで「生存はない」というところを目ざしているかのような営みを続けている。
 私たちの苦しみは、知の暴走によってもたらされているのではなかろうか。
 Aさんのお母さんは、肉体の苦しみの先に、もっと深い人間そのものの苦しみも観ておられたのではなかろうか。
 花やネコを愛しながら生まれ変わりを拒否しつつ逝かれたお母さんを偲び、考えさせられた。合掌

(当山は、プライバシーの保護には深く注意をはらっています。この文章も登場人物や表現に手を加えています)




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2015
09.08

第67回寺子屋『法楽館』のご案内 ―イスラームについて考える ~理解と共生にむけて~―

201509080001.jpg

 9月12日に開催する第57回寺子屋『法楽館』開催のお知らせです。
 今月は、東北大学大学院国際文化研究科教授黒田卓先生をお迎えして、「紋切り型のイスラーム観ではなく、共生可能で変化するイスラームの理解」に関するわかりやすい講話をお聴かせいただきます。
 以下、項目の一部です。

Ⅰ. イスラームとはなにか:基礎的なポイント

 ①呼び方はなにが一番いい?
 ②イスラームはいつ成立したのか?
 ③イスラームの根本聖典『コーラン』(正確には『アル・クルアーン』القرآن)の特徴は?
 ④イスラームの教理とはなにか?
 ⑤イスラームはなにを実践するのか?

Ⅱ. 現代のイスラームを考える:背景を探る

 ①現在のイスラーム政治運動や過激なテロ活動などについて
 ②イスラーム主義(イスラームをあえて政治化するイデオロギーと運動)などについて
 ③脱植民地以降の近代化などについて
 ④経済的格差の拡大などについて
 ⑤大衆教育の普及などについて

 教授は指摘されました。

「突出して極端な集団の過激な行為のみが過剰に日々報道され、また過激派集団の側もサイバー空間を巧みに自己宣伝のために利用します。
 それらへの素朴なリアクションとして、ムスリムたちを十把一絡げに、テロや暴力に走り、近代的な価値に逆行する、異質の敵対的集団と見立てる認識を生み出します。
 これはムスリムの側にも言えることです。
 つまり、西洋や日本を一まとめにして、物質主義の不道徳な異教徒、抑圧と不正の悪者と単色に塗りつぶす態度です。
 こうして、相手を相互に理解不能な諸特性にのみ閉じ込めて他者を貶める姿勢からは、反感と敵意の悪循環しか期待できそうにありません。」(東北大学広報誌「まなびの杜」2015夏号より) 

 私たちは、自分の生活圏を彩っている文化と異質な文化に触れることによって、多様で深い思考が可能になるばかりでなく、自分の文化を相対的に観て、井の中の蛙(カワズ)になったり、夜郎自大(ヤロウジダイ…ひとりよがりで高慢なこと)に陥ったりしなくなります。
 また、世界の潮流を知れば、世界的な規模で起こっている問題をきちんととらえられるようになります。
 また、異文化を知り異文化圏に住む人びとと接することによって、誤解や対立や不信や偏見などでなく、相互理解や親和が得られます。
 大いに学びましょう。

・日時:9月12日(土)午後2時より3時30分まで
・場所:日立システムズホール仙台(旧旭ヶ丘青年文化センター)研修室3
・費用:1000円、中学生以下500円(お茶・お菓子付)




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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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2015
09.07

苦しみや困難を乗り越える方法(その2) ―修行の方法は?―

2015090701.jpg
〈松久宗琳作摩耶夫人(マヤブニン)像〉

 前回、ダライ・ラマ法王の言葉を書いた。(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-4729.html)

「自分自身の心のありようが穏やかなものであり、現実を客観的につかんだ上での対応をすることができて、自分自身に自信を持っている方の場合には、たとえ困難な状況に直面しても、心がかき乱されることはなく、精神力で乗り越えていくことができるわけなのです。」

「困難な状況に出会ったときには、自分の中の精神力を奮い立たせ、自信を持つことによって、決して厭世的にならず、楽観的なものの見方をして、問題に立ち向かっていこう。」


 そして、私たちがそうした心になるための日常生活における方法について、サンプルも記した。
 しかし、理想はわかっても、人間関係の現場において自分の心は思い通りにはたらいてくれない、と悩む方も少なからずおられることだろう。
 どうすればよいか?
 今回は、心をつくるための方法について、具体的に考えてみよう。

 法王はまず、自分の慈悲心が本ものかどうか確かめる必要があると説く。

「私たちが他の人を助けようとしても、相手がそれをどう受け取るかは、その相手によって異なります。
 ありがたく思う人もあれば、迷惑に思う人もあるのです。
 それは『その人の勝手』ということになるのです。」


 私たちの人生には、恩を仇で返すというできごとがどうしても、起こる。
 自分勝手な損得勘定がそうさせる場合もあれば、複雑な義理などがからんでそうなる場面もあれば、心ならずもそうなってしまったというケースもある。
 いずれにしても、情けをかけた側からすれば裏切られたことになるが、こちらの善意にどう反応するかは相手の勝手なのだから、それによって怒ったり、恨んだりしてもしようがない。

「もし私たちが、その相手から感謝されたい、あるいは恩返しを受けたいという気持ちから慈悲の心を実践している場合、本物の慈悲の心だと言うことはできません。
 相手がどのように受け取ろうとも相手のためを思って、真摯な気持ちで相手を助けたいと話すときに、その慈悲の実践が本物の慈悲の行いになります。」


 小生は自分の人生を振り返り、恩を仇で返したできごとを思い出しては懺悔と自戒をしながらここまで来たつもりだったが、恩を仇で返されたできごとを思い出すと、いつも〝けしからん!〟という気持になっていたことに気づいた。
 特段、相手に対して感謝されたいと期待したり、恩返しを求めたりはしなかっただけに、相手の卑劣さや愚かさが許せなかった。
 これでは、「本物の慈悲の心」ではない。

「本物の慈悲の心というものは、たとえ自分の敵である存在に対してももたなければならない心です。
 私たちは自分の愛しい人に対してだけ、愛情を持つことができるのですが、そのような愛情は偏見に満ちた心となってしまいます。
 さらに、相手から何らかの見返りを期待しているような場合も、本物の慈悲の心になっていません。」


 ダライ・ラマ法王は、中国から亡命してきたチベット人がようやくインドのダラムサラにある亡命政府のもとへ到着すると、ねぎらいの説法をされる。
 そこでは必ず、子供たちへも「決して中国人を憎んだり恨んだりしてはならない」と諭す。
 たとえ故郷チベットで親を殺されていようが、〈恨みを晴らす〉などという一心で育ってはならないのだ。
 そこを乗り越えてこそ「本物の慈悲の心」がつくられてゆく。

「自分の心のなかで本物の慈悲の心が高まったことによって、自分自身が心の平和を得ることになるわけで、自分自身がその恩恵をまず第一に受けることができます。」


 確かにそうだ。
 相手が具体的に救われるという結果を待つまでもなく、相手へ心から情けをかけることができる本人がまず、救われているのだ。

 では、そうなるための方法は?

「私たちはその行為をなす人と、その人の行為をはっきりと分類しなければなりません。
 すなわち、自分に対して何らかの害をもたらす敵のような存在にも、その敵に対する慈悲の心を失ってはなりません。
 しかし、その敵が害をなす何らかの行いに対しては、何らかの対策法があるのであれば、できるだけ防がなければならないのです。
 敵のしてくる悪い行為は許さない、けれどその間違った行為をしている人に対しての慈悲の心を失ってはならないということです。」


 私たちは、孔子もキリストも説いた「罪を憎んで人を憎まず」という言葉を知っている。
 仏教も同じである。
 こう読んでから、あらためて自分を裏切った人々の顔を思い出してみると、AさんもBさんもCさんも哀れに思えてくる。
 そして、不思議にも、自分が本当に彼らに対して愛情をもって接していたかどうか、怪しくなってくる。
 むしろ、自分に何かが足りなかったから彼らがああした行動に走ったのかも知れないとすら思えてくる。
 あの頃、自分は知らなかった。
 ――仏教には具体的な瞑想法があるということを。

 怒りに心を占領されがちな行者には「慈心観(ジシンカン)」がある。
 三つのタイプを思い浮かべ、いずれの人々にも等しく苦しみがあると観じるのだ。
 親しい人や良い人にも、憎い人や悪い人にも、どちらでもない人にも……。

 確かに自分は恩を仇で返された被害者だ。
 恩を仇で返す行為は悪い。
 しかし、師や親も、AさんもBさんもCさんも、そして町を行き交う見知らぬ人々も等しく、ままならないという苦を抱え、死すべき宿命を負って生きていると想像する時、AさんやBさんやCさんだけが〈特別な人々〉とは思えなくなってくる。
 愛別離苦(アイベツリク…愛しい対象と別れる苦しみ)や怨憎会苦(オンゾウエク…怨み憎まないではいられない対象と巡り会う苦しみ)に涙しながら死への道を歩いている哀しい人々である。
 それは、自分も同じなのだ。
 そして、彼らが行った恩知らずな行為と、自分が行ってきた恩知らずな行為と、どこも違わない。
 彼らに対しては厳しく問い詰め、自分に対しては言い訳を付け加えてきたことにいかなる意義があるのか?
 恥ずべきではないのか?

 ちなみに、当山で行っている隠形流(オンギョウリュウ)居合にも「四無量心剣(シムリョウシンケン)」がある。
 こう念じて心の魔ものを切る。

1 慈無量心(ジムリョウシン)
 生きとし生けるものはすべて如来の輝きを秘め、身体にも言葉にも心にも不壊不変の尊さがある。
 身体も言葉も心もみ仏となる行に励み、自他共に、不変常住の大楽を得よう。

2 悲無量心剣(ヒムリョウシン)
 生きとし生けるものはすべて生まれ死す苦の海に沈み溺れ、己を知らず、勝手な分別によってさまざまな煩悩(ボンノウ)を起こす。
 身体も言葉も心もみ仏となる行に励み、自他共に、無限の功徳を得よう。

3 喜無量心(キムリョウシン)
 生きとし生けるものはすべて本来清浄であり、あたかも蓮華が汚泥に染められぬがごとく、本性清浄である。
 身体も言葉も心もみ仏となる行に励み、自他共に、自在なる智慧と福徳とを得ん。

4 捨無量心(シャムリョウシン)
 生きとし生けるものはすべて、己と儚(ハカナ)いものたちへの執着を離れる真実世界にあっては、平等である。
 心はもとより不生不滅であり、現象世界にあるものもすべて空(クウ)だからである。
 身体も言葉も心もみ仏となる行に励み、自他共に、姿形にかかわらず本来平等である理を覚ろう。 

 お釈迦様が説かれたとおり、「この世にあるものはすべて、ままならない苦を抱えている」という現象世界の現実がよく観えれば、「本物の慈悲の心」が起こるのではなかろうか。
 納得できる方法を実践しよう。




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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y





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2015
09.06

お彼岸とは何か ―供養と修行―

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「秋彼岸雲にも花をもたせやり」(中村堯子)

「秋彼岸黄泉(ヨミ)近からず遠からず」(野田ゆたか)

 お彼岸には、御霊を供養し、迷いを離れ、人間としてまっとうに生きられるよう祈ります。
 迷いの岸を此岸(シガン)といい、悟りの岸を彼岸と言います。
 此(コ)の岸とは、自己中心でぶつかり合い、傷つけ合う不安と怒りの世界です。
 彼(カ)の岸とは、互いに互いを思いやり、手を差し伸べ合う安心と喜びの世界です。
 渡って行くのは自己中心という深く暗い川です。

 渡る船には六本の櫂(カイ)がついており、バランスよく漕げなければ暴流に勝てません。
 その櫂を六波羅蜜(ロッパラミツ)と言います。
 波羅蜜(ハラミツ)は般若心経でおなじみの波羅蜜多(ハラミタ)であり、「完全であること」「最高であること」などを意味します。

 だから、六つの修行を行って最高の境地に達すれば、彼岸に行き着くことができます。
 自己に関する執着を克服し、他のためにならずにはいられない利他の思いが起こるのです。
 そうなられたのがお地蔵様や観音様や文殊様などの菩薩(ボサツ)ですが、実は、私たちも、心がけ次第で、いつでも菩薩になれるとされています。
 それが即身成仏(ソクシンジョウブツ)です。

 この六つは、もう、皆さん、すっかりおなじみの教えです。
1 布施(フセ)…施すこと。お水を捧げて布施の実践を誓いましょう。
2 持戒(ジカイ)… 戒めを守ること。塗香(ズコウ)を手に塗って持戒の実践を誓いましょう。
3 忍辱(ニンニク)…忍耐すること。お花を飾って忍辱の実践を誓いましょう。
4 精進(ショウジン)…努力をし続けること。お線香を点して精進の実践を誓いましょう。
5 禅定(ゼンジョウ)…心身を整え心を乱さないこと。飲食物を供えて禅定の実践を誓いましょう。
6 智慧(チエ)…自己中心を離れ、真理・真実を観ること。お灯明を点して智慧の実践を誓いましょう。
       ◇
 さて、なぜ、一年のうちで、春と秋の二日だけがお彼岸の中日とされるのでしょうか?
 それは、昼と夜の長さが同じであり、一日として最も整った〈完全な日〉であるとみなされたからです。
 完全な日に、完全な境地に憧れ、目ざして手を合わせ、御霊も、私たちも迷いを脱することができるよう祈る。
 これが年に二回のお彼岸供養会です。
       ◇
 密教においては、土砂加持(ドシャカジ)という秘法を重ねて行います。
 修法中、六波羅蜜が完成した境地に入った行者の加持力はハイパワーで、ご加持を受けた土砂は、この世とあの世とを問わず、六道(ロクドウ)という地獄道や餓鬼道など、迷いの世界から救い出す力を持つとされています。
       
 清浄な砂は大地の徳の象徴です。
 それは梵字の阿(ア)で表されます。
 アは永遠なるいのちの世界に連なり、密教の瞑想「阿息観(アソクカン)」は、「あー」という声と息と気配とで無限のいのちの世界を感得するものです。
 母なる大地の象徴であるアは大日如来の象徴でもあり、大地にある私たちは、心を澄ますことによって天地に満ちる大いなるいのちの世界を感得できます。
 それが瞑想「阿字観(アジカン)」です。
 行者がアすなわち大日如来の世界へ入り、ご加持を行った土砂は六道を清め、生者の病気を癒し、罪障を消し、良縁を結ぶとされています。
 また、死者の罪障を消し、善道への転生(テンショウ)をうながすとされています。
 9月23日には修法後、土砂加持法が結ばれた土砂をお分けいたします。
       ◇
 なお、昨年同様、本堂での供養会が終了した後、不戦堂で「一心祈願 不戦日本」を百八返お唱えします。
 どうぞ、ご一緒にご唱和ください。
 『戦争をしない日本』の永続を共に祈りましょう。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
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 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=EOk4OlhTq_M





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