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2015
10.31

あるコーヒー店の41年 ―ホシヤマ珈琲店と記録『やり尽くす。』に思う―

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 仙台市の名門ホシヤマ珈琲店の本社は仙台市青葉区一番町にある。
 ビルの階段を登ると、上質でゆったりした時間の流れるコーヒーショップが待っている。
 どこか故郷のイメージに似た懐かしさに包まれながら、席へ案内された。
 キリマンジャロを注文し、同時に、前社長星山慈良氏の著書『やり尽くす。』を受け取りにきましたと告げる。
 そつのない対応をするのはすべて男性店員だ。

 ほどなく、コーヒーと本がやってきて、白い紙へ受領のサインを求められた。
 限定出版の本は無料贈呈だが、漫画家荒木飛呂彦氏のイラストが好意で掲載されている関係上、売りに出さないことを約束させられた。
 コーヒーを一口いただき、申し分のない香りと味を確認してから透明のビニール袋に包まれた本をおしいただき、数ページ読んだ。
 まもなく、静けさと温かさがほどよい店を後にした。

 星山慈良氏の母親星山マサ氏が昭和49年に始めたコーヒーショップ「ニューエレガンス」は建物の老朽化に伴い。平成27年10月12日、41年に及ぶ役割を終えている。
 星山慈良氏は平成26年7月、筋萎縮性側索硬化症(ALS)を発症し、「できうるうちにこれまでの事柄を中心に書き留めることにした。」のである。
 54才9ヶ月を迎えた氏は突然、「晴天の霹靂」のように病名を告知された。
「そこから、自分の世界が一変した。
 しばらくの間は現実性がなかった。」
 ALSをテーマにしたテレビ番組に「最後は目も見えなくなり完全に閉じ込められる」とテロップが流れた時は「絶句」した。
「この病気の本質が見えたような気がした。」
 かねて、「喫茶業(喫茶店)とは、珈琲の提供販売と、場(空間)の提供の二つの業態が組み合わさっているもの」と考えてきた氏は、公私の整理を始めた。
 親子二代、心血を注いできたコーヒー店の歴史を記すことは、その一環である。

 氏は書く。
「これからどんなに時代が進み世の中がデジタル化されても人と人が出会い、直接語り合う場所は不可欠である。
 恐らく、街の本質的役割はその場をどれだけ時代の感覚にあわせて提供できるかにあると思う。
 その場(空間)をしっかり演出していきたい。」
 これまで、外国でも店舗を展開する一方、「ニューエレガンス」が存続の危機に立たされるたび、なくなると「困る人がいる」し、「他のお店では代わりができないと言っていただける」ので、頑張ってきた。
 いつも「お店の最も大切な価値、存在理由」を考え、「世の中で必要とされる会社、店であること」を目ざしてやってきた。

 氏は、晴天の霹靂から約1年かけて本書を完成させた。
「私自身、生に対する未練も執着も今はまだない。
 ただ、この病気は人としての機能の100の内99を失う。
 1残された事を酷と思うか、ありがたいと思うか。
 この事だけは、会社の為、家族の為ではなく自分自身が〝生きたい〟と思ったときだけ付けると決めている。
 いずれにせよ、生がある限り精一杯生きる。
 私自身に価値のある存在理由を求めて。」

 会社を後進へ譲った氏は今、どうしておられるかわからない。
 氏はこれまで店の存在理由を突き詰める一方、〈社会や家族のための自分〉の存在理由も同時に追い求めて来られたことだろう。
 そして最後はご自身そのものの問題となった。
 小生も現在、〈ご縁の方々のための自分〉に没頭しているつもりではあるが、最後は自分の問題になるのだろうか。

 かつて娑婆にいた頃、幾度か「ニューエレガンス」のお世話になった。
 焼き鳥屋やバーなど小さな店が肩を寄せ合って並ぶその界隈はすっかり変わった。
 何もかもが移り行く無常の中で、氏は最後に「可能性を見つめて、そして、やり尽くす。」と覚悟を述べられた。
 本を閉じ、目も閉じると、かつてあった「ニューエレガンス」と、最近訪ねた「ホシヤマ珈琲本店」の光景が代わる代わる瞼に浮かんだ。
 あの41年間はもはや、幻でしかない。
 ――小生の41年も……。
 しかし、あの店は確かに生きている。
 ホシヤマイズム「お客様にしあわせを感じていただくために、最善を尽くす」が活き活きと息づいている。
 やり尽くしてきた人の意志が生きている。
 ホシヤマ珈琲店に、永遠なれと祈りたい。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
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「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2015
10.31

11月の運勢 ―嫉妬の問題―

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 11月の運勢における留意点は、ものごとがうまくいったからといって、調子に乗り、嫉妬されぬことです。
 また、他人に嫉妬せぬことです。
 この時期、運勢的に危険性が高いのは嫉妬のやりとりによる思わぬ悪縁の発生です。
 嫉妬は最も克服困難な感情とされており、嫉妬は常に他人との比較において発生します。
 かつて、フランスの哲学者フランシス・ベーコンはこう指摘しました。

「比較のないところに嫉妬はない」


 だから、自分と他人をあれこれと比較さえしなければ無意味で心を穢す嫉妬は起こらないはずなのに、よりによって自分が〈下位に立つ〉分野で比較を始めないではいられないのが、私たちの宿命めいた成り行きです。

 さて、作家村木春樹氏は「自分のことがあまり好きじゃない」とこぼす読者へこう言いました。

「ほかのことについてどう考えるかという姿勢や考え方の中に『あなた』はいます。
 その関係性が大事なのであって、あなたが誰かというのは、じっさいにはそれほど大事なことではありません。
 そう考えていくと、少しらくになれるんじゃないかな。」


 この回答は二重の問題を含んでいます。
 一つは、〈自分〉というものは固定された実体がなく、他者との関係性の中で喜んだり怒ったりしているうちに、ようやく〈自分〉がどういう存在であるかが明らかになってくるということ。
 もう一つは、タマネギの皮がどんどん剥かれると最後は空っぽになってしまうように、究極的〈自分〉はどこにも見つけられないということです。
 とは言え、まぎれもなく〈自分〉が居る以上、まったく他人と無関係なままで生きることはできません。
 では、他人を意識しながらなお、比較しないで過ごすにはどうしたらよいか?

 自分を第一にする気持を離れて、他人を誉めればよいだけのことです。
 他人の長所を見出し、すなおに〝大したものだなあ〟と心から思っている時、嫉妬はどこにもありません。
 自意識が消え、〈相手より下の自分〉は意識されないからです。
 嫉妬が生じる前に、〈自分〉がいなくなっているからです。
 こうなれば、自分が勝っているという比較から起こる高慢心も起こりようがありません。
 ちなみに小生は、さまざまな状況下で、できるだけ頭を低くするつもりで礼をします。
 これは、自分を無にして相手を貴ぶ訓練になっています。
 皆様もぜひ、相手を問わず心から貴ぶ自分なりのやり方を見つけてください。

 どうぞ皆様、紅葉が心の窓に飛び込んでくるこの時期を、無事安全に過ごされますよう。




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2015
10.31

11月の行事予定 ―護摩・寺子屋・人生粗相談・写経・お焚きあげ―

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 平成27年11月の行事予定です。
 当山の法務時間は午前9時~午後5時(お通夜などを除く)ですので、その時間帯にご連絡、ご来山ください。
 なお、本堂にてのお詣りは自由ですが、人生相談やご供養などは完全予約制です。
 必ず事前に日時のお約束(022-346-2106)をお願いします。
 また、葬儀堂『法楽庵』の受け付けは24時間可能です。022(739)8541へご連絡ください。

[第一例祭 2015/11/1(日)午前10:00~

 護摩法を行います。
 お経の多くが読み下し文なので、内容がとても感じやすく、理解しやすくなっています。
 日々の行いを振り返り、懺悔し、み仏と万物と万霊をご供養して願いをかけましょう。
 その月の守本尊様をお讃えする「讃歎経(サンタンキョウ)」は、リズムが良くとても読みやすく、何度も口にしているうちに、だんだんと、ありがたみがわかってきます。
 般若心経もしっかり唱えましょう。
 自由参加です。
 み仏の智慧が輝く護摩の火に身を近づけ、悪しきものは焼き祓い、善き願いへ大きなご加護を受けてください。
 (願い事を書く護摩木供養は1体300円です)

・場  所 大師山法楽
・送迎申込 開始30分前に地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡ください。
(毎月第一日曜日午前10時から開催します)

書道・写経教室] 2015/11/1(日)午後2:00~午後3:30

 髙橋香温先生は津波で被災されても書道一筋でがんばっておられます。
 先生の熱意と誠意を感じられる貴重な時間です。
 イス席もありますので、お気軽にご参加ください。

・場  所  大師山法楽
・指  導  高橋香温(温子)先生
・ご志納金 1000円(未成年者500円)
・送迎申込 開始30分前に地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡ください。
(毎月第一日曜日午後2時から開催します)

[マイベストプロ宮城「秋の生活相談会」―あの世への安心とこの世での幸せを―]
 2015/11月5日(木)午後3:00~3::50

 河北新報でおなじみの「マイベストプロ宮城」様が企画する恒例の相談会を開催します。
 今回は、「しぐるるや死なないでいる」という種田山頭火の俳句を切り口にして、生と死について考えましょう。
 生と死を共に観る意識があれば、生きていることの意義も、死に行く心構えも、つかめるかも知れません。
 講演後、個別相談の時間もあります。

・講  師 遠藤龍地
・場  所 河北新報社一階ホール(仙台市青葉区五橋1-2-28)
・入  場 無料(申込み順で20名様限り 022-715-9350)

[第六十九回寺子屋法楽館』 ―送られること 送ること―]
 2015/11月14日(土)午後2:00~3::30

 車座の雰囲気で共に、み仏の教えなどを学び、対話を重ねています。
 日々、ご葬儀、ご供養、埋骨、人生相談を行っていると、ご自身の送られ方やご家族の送り方、あるいは埋骨や供養を考える皆さんの思いが胸に迫ってきます。
 一方、ご葬儀の本義からはずれた不確かな情報や慣習などによってとまどっておられるケースも散見されます。
 日々、現場にある者として葬送の〈幹と枝〉についてお話しし、質疑応答も行います。

・講  師 遠藤龍地
・場  所 日立システムズホール仙台(旧・旭ヶ丘青年文化センター)和室(イス席もあります)
・ご志納金 1000円(飲物・お菓子付)
(毎月第二土曜日午後2時から開催します)

[第二例祭 2015/11/21(土)

 護摩法を行います。
 お経の多くが読み下し文なので、内容がとても感じやすく、理解しやすくなっています。
 日々の行いを振り返り、懺悔し、み仏と万物と万霊をご供養して願いをかけましょう。
 その月の守本尊様をお讃えする「讃歎経(サンタンキョウ)」は、リズムが良くとても読みやすく、何度も口にしているうちに、だんだんと、ありがたみがわかってきます。
 般若心経もしっかり唱えましょう。
 自由参加です。
 み仏の智慧が輝く護摩の火に身を近づけ、悪しきものは焼き祓い、善き願いへ大きなご加護を受けてください。
 (願い事を書く護摩木供養は1体300円です)

・場  所 大師山法楽
・送迎申込 開始30分前に地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡ください。
(毎月第三土曜日午後2時から開催します)

お焚きあげ 2015/10/31(土)午前10:00~11:00

 本堂のお不動様の前で「供養会」を行い、不動堂の後で「お焚きあげ」もいたします。
 人形や仏壇や写真など、燃えるものも、燃えないものも大丈夫です。
 一緒にお不動様のお経を読み、真言を唱えましょう。
お焚きあげをご希望の方は、必ず電話などで日時を連絡の上、お品をご持参、あるいはお送りください。
 当日とは限らず、受け付けは毎日、行っています。
(毎月最終土曜日午前10時から開催します)

[機関誌『法楽』の作製] 2015/10/28(月)午前9:00~午後1:00

 講堂にて、機関誌『法楽』を作り、機関紙『ゆかりびと』と共に発送しますので、ご協力をお願いします。
 『実語教・童子教』も共に学びましょう。
 おかげさまにて、月刊誌『法楽』は第310号、月刊紙『ゆかりびと』は第173号となりました。

・場  所 法楽寺講堂
(毎月最終月曜日午前9時から開催します)

[隠形流(オンギョウリュウ)居合道場]

 仏法に生きる身体と心をつくるために行います。 
 九字を切り、守本尊様のご加護をいただく密教独自の剣法です。
 高齢者の方々や女性が多く、厳しいながらも和気藹々(ワキアイアイ)と稽古しています。
 入門ご希望の方は、事前に連絡の上、まず、見学してください。

・日  時 毎週金曜日 午後7:00~9:00
・場  所 日立システムズホール仙台(旭ヶ丘青年文化センター)

◎清掃奉仕

 毎週金曜日、ご縁の方々が最も多くおでかけになられる土曜・日曜の前日に、境内地などの清掃や草取りなどを行います。
 皆さんのご都合に合わせて、何時でも自由にでかけられ、大きな徳積みをされてはいかがでしょうか。
 その日ごとに作業のポイントを貼り出しますので、ご覧の上、どうぞご参加ください。
 どなたでも参加できます。

・日  時 毎週金曜日午前9時~午後5時
・場  所 法楽寺境内地など




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2015
10.30

生と死は一つで全体 ―『チベットの生と死の書』を読む(3)―

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〈お釈迦様の修行像〉

 ソギャル・リンポチェ師の著書『チベット生と死の書』は、生と死を考える人へ重要な示唆を与えるであろう一冊である。
 伝統仏教の最先端を示し、かつ、最奧をもかいま見せる高貴な魂の結晶である。
 師は「仏法をより近づきやすいものに、現代的、実践的なものにするために著した」とされているが、700ページ近い力作で、なかなか読み通せないかも知れない。
 以下、全体の概要というよりは、いくつかのポイントを挙げておきたい。

「わたしたちは今ここで、生の意味の探求を始めることができるのである。
 全身全霊を込めて、周到に、しかも心の安らぎをもって、あらゆる瞬間を死と永遠のための変化と準備の機会にすることができるのである。」

仏教のとらえかたでは、生と死はひとつで全体なるものとされる
 そこでは死は生の新たなる章のはじまりにすぎない。
 死は生の意味の全貌を映し出す鏡なのだ。」


 チベット仏教ではバルドという〈中間状態〉を重視する。
 

バルドという言葉は通常、死と再生のあいだの中間状態を指してもちいられる。
 だが実際は、バルド生と死を通じてつねに絶え間なく起こっているのである。
 そしてそれは解脱の可能性が、覚醒の可能性が、一段と高まる瞬間の連続なのである。」

バルドが特に解脱のための絶好の機会であるというのは、その瞬間が他の瞬間よりもより強い力を、より高い可能性を持っているからである。」

バルドとは、ちょうど断崖絶壁のふちに足を踏み出す瞬間に似ている。」

「なかでも最大にして最高の可能性に満ちた瞬間が、死の瞬間なのである。


 チベット仏教の観点では、私たちの存在状況は4つの現実(リアリティ)に分けられる。

1 生…………………生きているこの世
2 死に行くことと死…あの世へ渡る途中
3 死後………………あの世
4 再生………………生まれ変わった来世

 そして、それぞれの状況下でいかなる変化が起こっているかは、以下の4つである。

1 この世では、喜怒哀楽を繰り返している。
2 死のプロセスは苦しい。
3 あの世はみ仏の世界であり、光に満ちている。
4 因縁と因果応報によって、それなりの生まれをする。

 チベットの聖人にして詩人のミラレパは唄った。

「わたしの宗教は生きること、そして死ぬこと、悔いることなく」


 人生を悔いなく生き、死ぬ時も悔いがないとしたら、これ以上の人生は望みようもない。
 もちろん、失敗のない人生はないので、その都度、悔いは発生するだろうが、要はそうしたイメージを引きずらないということに尽きる。
 死ぬ時も同様に、事実として、まだ中途でやり残したことはあっても、自分はやれるだけやったと思えれば、悔いに苛まれはしない。

「〈無常〉の内に秘められた意味を、〈無常〉の向こう側に横たわる意味を、まっすぐに掘り下げてゆくと、古い深きチベットの教えの真髄〈心の本質〉にゆきつく。
 心の本質はわたしたちのもっとも内なる本質といっていい。
 そしてそれこそが、わたしたちが探し求める真理なのである。
 みずからの心の本質を知ることが、生と死を理解する鍵なのだ。
 なぜなら、死の瞬間に通常の心と妄念が消え去り、そのあとに、広々とした空のような心の本質が姿を現すからである。
 心の本質とは、生と死のすべての背景をなすもの。
 天空のように広がり、宇宙全体を抱き込み包み込むものなのである。


 心は肉体と共に在るが、決して脳内に閉じ込められたものではない。
 肉体を縁とし、自分という意識をもたらしてはいるが、それは心の活動におけるごく一部分、あるいは一面でしかない。
 死によって肉体から離れる時、その真実が明らかになる。 

「死とともに心のある部分は消えてゆく。
 が、心のその部分しか知らないとしたら、死のときにあってわたしたちは、そのさき何がどのように続いてゆくのかまったくわからないままに、新たな展開を見せる〈心の本質〉のより深い現実について何の知識も持たないままに、ただ立ち尽くすことになる。」


 臨死体験者の多くは花畑を観る。
 しかし、真っ赤に燃える鳥居を観る人も、雲海を観る人もいる。
 もしも死後、この世で観ていた世界が消えて行き、ボンヤリした視界しかなくなれば、自分がどこにいるのかわからなくなれば、いかに不安なことだろう。
 この世にいながら確かな〈心の本質〉をつかんでいれば、行く先を故郷と感じられるのではなかろうか。
 そして、み仏の子である私たちは、み仏の世界への確かな歩みを始められることだろう。




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「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2015
10.29

お骨預かりの真実 ―見送る人と見送られる人―

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 仙南の町からAさんが訪ねて来られた。
 かねてご依頼のあったとおり、亡き御尊父様のお戒名を用意し、ご遺骨を預かった。
 場所は、講堂に隣接する位牌堂『法楽殿』である。
 親を送ったAさんは仕事の関係上、関東へ移り住まねばならず、お墓を建てる意志はあるものの当分、先延ばしになったのだ。
 たった一人の参列者ながら、Aさんはご供養の法要を望まれ、正面のお大師様から伸びている五色の糸を両手にはさんで座った。

 修法後、合掌して、薄紫色をしたあまり大きくない骨箱の前に立った。
 焦点はほぼ箱と合っているのに可視空間がぐっと広がり、焦点深度も深くなった。
 数秒間、不思議な空間を眺め、いつもと同じく深々と頭を下げた。
 戻った視線の先はもう、いつもの空間だった。

 100年以上も前、アメリカの哲学者にして心理学者ウィリアム・ジェームズは、いろいろな次元の宇宙があるという多元宇宙論を唱えた。
 また、この宇宙と次元は同じだが同時並行的に存在する平行宇宙も想定されている。
 もしかすると、さっき感得したのは、御尊父様が移って行かれた、ある種の平行宇宙だったのかも知れない。

 Aさんには何も言わぬまま、送り出した。
 Aさんは、お盆とお正月くらいしか帰郷できないだろうと言う。
 そのおりには必ずお参りに来られると約束された。
 関東地方は駐車料金が今の10倍にもなってしまうので、自慢の愛車は潔く処分し、自転車などの交通手段で頑張る覚悟だ。
「すっかり生きにくい世の中になりましたが、頑張って必ずお墓を建てます!
 それまで、父をどうぞよろしくお願いします。
 私も向こうで、南無大師遍照金剛(ナムダイシヘンジョウコンゴウ)を日々、唱えています」
 Aさんの目には、まっとうに生きる人のひたむきな光が湛えられていた。

 Aさんを見送り、講堂へ戻った。
 骨箱の周囲はほんのりと明るかった。
 きっと、頼もしい息子の旅立ちを喜んでおられるのだろう。

(プライバシーを守るため、事実は変更しています)




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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
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2015
10.29

来世と責任 ―『チベットの生と死の書』を読む(2)―

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 ソギャル・リンポチェ師の著書『チベットの生と死の書』は、生と死を考える人へ重要な示唆を与えるであろう一冊である。
 伝統仏教の最先端を示し、かつ、最奧をもかいま見せる高貴な魂の結晶である。
 師は「仏法をより近づきやすいものに、現代的、実践的なものにするために著した」とされているが、700ページ近い力作で、なかなか読み通せないかも知れない。
 以下、全体の概要というよりは、いくつかのポイントを挙げておきたい。

「私の知っている仏教の師の何人かは、教えを乞うて訪ねてくる者にただひとつ簡単な質問をする。
『あなたは来世を信じますか?』。
 これは興味深いことだ。
 哲学的命題として信じるかと聞いているのではない。
 心の奥深くでそう感じているかと聞いているのだ。
 この師たちは、人が来世を信じるようになるとその人生観全体が変わり、人間としての確かな責任感と道徳観をそなえるようになることを知っているのだ。
 この師たちが危惧するのは、のちの生を強く信じることのない者たちが、みずからの行為のもたらす結果について深く考えることのないままに、目先の利益にとらわれた社会をつくってゆくことだ。
 これこそが、わたしたちが今生きている世界をこのように野蛮な、真の慈悲というもののほとんど存在しない世界にしてしまった、その大きな原因なのではないだろうか。」


 小生は自分の体験上も、これが真実であると思う。l
 本当に自分は来世があると感じているかどうか?
 これが仏教者となって以来、これまでで最大の問題だった。
 決して「哲学的命題」ではなく、自分の前世が誰だったかという興味などの話でもなく、心といのちの世界が自分の死後も続き、そこに自分がまた、生きものとして生じると感じられるかどうかという〈存在の実感〉についての確信が問題なのだ。
 考え、祈り、瞑想した結果、お釈迦様の言われたとおり、お大師様の書き遺されたとおり、自分は輪廻転生の途中にあると実感するに至った。
 そうなってみると、観えていなかった世界がやや、わかるようになった。
 自分も含め、わたしたちはいかに「目先の利益」にとらわれつつ、この世を慌ただしく生きていることか。
 付け焼き刃よろしく目先を変えた急ごしらえの〈政策〉が次々と掲げられ、何もかも〈改革〉しない限り私たちは幸せな生活ができないかのごとく脅される。
 実に、師が説かれるとおり「野蛮な、真の慈悲というもののほとんど存在しない世界」になっている。
 この世が〈通過点〉であると気づきさえすればきっと、今よりは優雅で思いやりにあふれ、後の世へ対する責任の果たせる国家社会、そして文明になって行くだろうに……。

 こうした気づきのために、家族生活、そして先祖供養の果たす役割は極めて大きい。
 家族生活を通じて、いのちと心のバトンタッチが実感され、自分も〈受け渡す役割〉を負ったランナーの一人であると実感される。
 こうした〈つながりの感覚〉は、私たちの精神を荒廃へ向かわせない大きな力となる。
 先祖供養を通じて、自分へ結晶している膨大な過去の人びとの生き死にが想像される。
 まぎれもなく、ご先祖様のなにがしかが自分へ流れ込み、自分を形づくっている真実に感謝の念が起これば、自分もまた、自分の死後の世界を構成する人びとへ何を残すべきか、いかなる社会であって欲しいかを真剣に考えるようになる。
 まぎれもなく「責任感と道徳観」が生じるのだ。
 そうしてみると、家族の崩壊と先祖供養の忘却は、人間を孤立させ、報恩を忘れさせ、「責任感と道徳観」を急速に薄れさせる要因となっているように思える。

「死にゆく人には愛と心遣いが欠かせない。
 しかし同時に、それ以上のより深いものが必要とされるのである。
 死にゆく人は、死ぬことの意味を、ひいては生きることの真の意味を、見出す必要があるのだ。
 それなくして、どうして根源的な安心を得ることができるだろう。

 そしてさらに、死にゆく人びとの助けとなるためには、精神的な助力の可能性を考えなければならないのである。
 なぜなら、精神的な知識をもって初めて、わたしたちは真に死と直面し、死を理解することができるようになるのだから。」


「死への絶望も陶酔も、ともに逃避だ。
 死は陰惨なものでも胸躍らせるようなものでもない。
 単なる生の事実のひとこまにすぎないのだ。」

「わたしはよく偉大なる仏教の師パドマサンバヴァの言葉を思い出す。
時間がたっぷりあると思っている者たちは、死のときになってようやく準備を始める。
 そして後悔の念にうちひしがれる。
 それではあまりに遅すぎるのではないか?
』。
 ほとんどの人びとが何の準備もなく死んでゆく。
 ちょうど何の準備もなく生きてきたように。
 現代社会を評してこれ以上に恐ろしい話があるだろうか。」


 自分は何のために生きているのだろう?
 どうして自分はこういう状況で死ななければならないのか?
 今まで生きてきた人生は何だったのだろう?
 私たちは〈自分の死〉をリアルに想像する時、こうした疑問と不安に襲われる。
 人生の根本問題を先延ばしにしているうちに、もう、〈その時〉がやって来ている。
 これでは「あまりに遅すぎ」て間に合わない。
 後悔先に立たずとなる。
 そうして私たちは死んで行く。
 確かに、「これ以上に恐ろしい話」はなさそうである。
 だから、問うべき問いは今、問うしかない。
 年令にかかわらず。
 死はいつやってくるかわからないのだ。

 ちなみに、京都で『風の旅人』を発行している佐伯剛氏はこう述べている。
「現代人は、自分という存在こそ重要な事実であり、その基準に合わせて行動することが多く、そのため、個の死は、個の終わりになります。
 かつては、後世の時代の人達から見られた時に、恥ずかしくないように今を生きることを当然とみなす感覚を持っていました。
 現代人に比べてスケールの大きな時間の中を生きていて、個人の死は、個人の終わりではなかったのでしょう。」

 問いつつ生きれば、もう、漫然と生きる生ではない。




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2015
10.28

Q&A(その12)子供が友だちと争っても謝らない時は?

201510260001.jpg
〈「因縁解脱をしたいので」と、お焚きあげに持ち込まれた方の許可を得て撮影しました。こうした紙幣を造っていた時代もあったのです〉

 ある時、寺子屋で、相手をケガさせたのに謝らない子供へどう話せばよいか、というご質問がありました。
 こんなふうにお答えしました。

「最初にB君が君の本を奪い、君がその本をとりかえそうとした時、B君が転んでケガをしたんだね。
 そして先生は、両方が相手に謝ることによって、仲直りをさせようとした。
 でも、君は、B君が先に本を取ったのだから、ケガをした原因はB君にあるので、君は謝る必要はないと思っている。
 そうだね?

 こうした場合、もちろん、争いが起こった原因がどこにあるのかを確かめて、また同じような争いを起こさないよう勉強することはとても大切です。
 そういう意味からは、まず、B君がむちゃなことをしたためにこういう結果になったのだから、B君がやったようなことは、誰でもやらないように気をつけなければなりません。
 もちろん、君もね。
 だから先生は、ケガをしたB君にも謝らせた。

 さて、問題はそれだけでは終わらないよ。
 いきさつはどうであっても、実際にB君はケガをした。
 自分で自分を傷つけたのではないのだから、B君のケガは、争った君に無関係ではない。
 こうした場合に考えなければならないのは、B君がケガをしたという事実に対する〈結果責任〉です。
 もちろん、法律の問題ではありません。
 ケガをしたり、何かを失ったりした人が出た場合、その人を〈思いやり〉、〈見捨てない〉ことが大切なんだ。
 そうでないと社会は成り立たない。
 なぜなら、必ず失敗をしてしまう人間は、助け合わないと生きて行けないからです。

 さて、立場をかえてみよう。
 成り行きしだいでは、君がケガをしていたかも知れない。
 もちろん、君が最初に争いをしかけてしまうこともあるだろう。
 そうした場合、もしもB君が、包帯を巻き手をつっている君に対して知らん顔をしているなら、君はきっと「なんてひどいやつだ!」と怒るだろう。
 絶交するかも知れない。

 しかし、もしもB君が、自分がわざとやったのでもないのに、「A君、ごめんね、大丈夫かい?」と心配してくれたならどうだろう。
 君もこう言えるかも知れない。
「ああ、大丈夫さ。
 元々、僕が悪かったんだから、もういいよ。
 また、遊ぼうね」
 これは、君が、ケガをする結果に関係したB君を許し、B君もまた、争いをしかけた君を許すことを意味しているんだ。

 つまり、B君がどういう〈態度〉をとるかによって、君の心はちがってくる。
 絶好をするのと、また、遊べるのとでは、天と地ほども、君の生きる環境がちがってくる。
 わかるね?

 さて今の状態に戻って考えてみよう。
 君は、ケガをしたB君が今後、君との関係をどうするか、君とB君との関係がどうなるか、そのカギをにぎっているんだ。
 ぼくは悪くない、と言って謝らないのか?
 それとも、B君がケガをしたという事実に〈関係した人〉として、出た結果に対する責任を感じ、「ごめんね」と謝り、「早くなおるといいね」と思いやるか?
 君の態度一つで、B君にとっての生活環境も、君にとっての生活環境も、学校に行く時の気分も決まる。
 さあ、どうしようね。

 私たちは誰でも、失敗をしてしまう人間同士なんだ。
 だから、そうしようとしたわけでもないのに、痛みや苦しみや悲しみや怒りが生じてしまう。
 問題はただ一つ、そうした時にどういう態度をとる人間になるかだ。
 結果責任を感じて謝り、あるいは相手を許し、いっしょになって痛みや苦しみや悲しみや怒りを消して行くか?
 それとも、どっちが正しいかだけを考え、自分が正しいなら相手がどうなってもかまわず、自分が正しくない時だけ謝る、こうした人間になるか?

 そもそも、人間は、自分が一番かわいいので、どうしても〈自分が正しい〉と考えがちだ。
 だから、〈正しさ〉を主張する人ばかりになったら、みんなぶつかり合い、絶好し合い、孤立し、人間社会が成り立たなくなる。
 君が結果責任を感じ、ケガで困っているB君を思いやり、争いをしかけてきたことを許すのは、君が君の住む社会をほんの少し、よくするための大切な態度なんだ。
 よく考えてみようね。」




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2015
10.27

よく生きることとよく死ぬこと ―『チベットの生と死の書』を読む(1)―

201510270001.jpg

 ソギャル・リンポチェ師の著書『チベットの生と死の書』は、生と死を考える人へ重要な示唆を与えるであろう一冊である。
 師は「仏法をより近づきやすいものに、現代的、実践的なものにするために著した」とされているが、700ページ近い力作で、なかなか読み通せないかも知れない。
 以下、全体の概要というよりは、いくつかのポイントを挙げておきたい。

 ダライ・ラマ法王は、序文にこう書かれた。

「当然ながらほとんどの人は穏やかな死を迎えることを望んでいる。
 だが暴力にみちた人生をすごした者、怒り、貪り、恐怖などの情念に絶えず心をかきたてられている者にとって、穏やかな死など望むべくもないこともまた明らかである。
 だからよき死を迎えることを望むなら、よく生きるすべを学んでおく必要がある
 安らかな死を望むならば、自らの心に、生き方のなかに安らぎを培っておかなければならない。」

「死と死のプロセスはチベット仏教と現代科学の間に出会いをもたらす。」


 まず、「日本の読者へのメッセージ」である。

「死は敗北でも悲劇でもない、変容のためのもっとも素晴らしい機会なのだということを理解してくれますように。
 そしてまた本書ができるだけ多くの日本人に、霊感と喜びと先進的な実践――それが可能であることをわたしは知っています――をもたらしてくれますように。」


 お釈迦様は試行錯誤の果てに、輪廻転生(リンネテンショウ)の様子をつぶさに眺め、それが因果応報の原理によるものであると悟られた。
 私たちの生はこの世限りのものではないという真実を観るのが仏教の出発点である。
 だから師は、この世の締め括りとなり、新たな世界への旅立ちとなる死は、よりよき生へのステップとなり得るという意味で「素晴らしい機会」と述べた。
 時々刻々と変化してやまない私たちのありようは前世から現世へと、そして来世へとつながって行く。
 いかなる「変容」を遂げるかは、私たち自身にかかっている。

第一部 生きるということ 
第一章 死という鏡


 師は7才の時に、導師が死に行く人の息を吹き返させ、意識をよき世界へと転移させるポワの修法を目にした。

「師がはじめの『アー』を唱えると、ラマ・ツェテンがそれに和する声がはっきりと聞こえた。
 二度目、彼の声は遠くなり、三度目には声は返ってこなかった。
 こうしてラマ・ツェテンは逝った。」

「ラマ・ツェテンの死は、ひとつの精神の勝利の表れだった。」


 当山でも「アー」と唱える阿息観(アソクカン)を行う。
 一息ごとに阿字(アジ)で表す大日如来の世界へ溶け込む訓練を実践していれば、死が訪れる時に慌てる必要はない。
 死に神などの幻にオタオタすることもない。
 それを師は「精神の勝利」とした。

 チベットではこう言われている。

「人はしばしば死に対して軽率になるという間違いを犯す。
『ああ、そう、死は誰にでも起こる。大したことじゃない。自然なことだ。私は大丈夫』と答える。
 これはすばらしい理論だ。
 ただしその人が死に直面した途端に役に立たなくなるが。」


 一方ではこんなタイプの人もいる。

「死はすべてをうまく運んでくれる、何も心配することはない、なぜだか理由はわからないが……。」


 しかし、しばしば死の現場に立ち会う医師の実感はこうである。
「いざという時になって、その人の心の底が顕わになる。」
 そうに違いないと思う。
 私たちは「晩節を穢す」という言葉を知っている。
 これでは情けない。

「世界中のすべての偉大な宗教的伝統(もちろんキリスト教もそうだ)が死は終わりではないと断言してきた。
 それらすべての伝統が何らかの形で来世を展望し、その来世の展望が現世に聖なる意味を吹き込んできたのだ。
 だが、こういった教えにもかかわらず、現代社会は総じて精神的砂漠となり果てている。
 たいていのひとがこの生こそがすべてだと思い込んでいる。
 死後の生に対する真の信頼すべき信仰を持つこともなく、ほとんどの人が究極の意味を奪われた生を生きている。」

死を否定することがもたらす破壊的な影響は個人にとどまらない。
 それはこの惑星全体を蝕んでいる。

 この生が唯一のものと信じて、現代人は何ら長期的展望を立ててこなかった。
 そうなると、即座に得られる結果だけを求めて地球からの収奪が起こる
 押しとどめるものは何もない。」

「現代産業社会はひとつの狂信的宗教である。
 われわれは破壊し汚染している。
 この惑星のあらゆる生態系を台無しにしている。
 子供たちには返済不能な借用証書に、われわれはサインをしようとしているのだ
 ……まるでこの惑星の最後の世代であるかのように振る舞っている。
 心に、精神に、ヴィジョンに、根本的な変化が起きないかぎり、地球は火星のようになってしまうだろう。
 黒く焼け焦げ、死ぬだろう
。」


 私たちは〈畏れ〉を忘れた。
 それは人間を超えた大いなるものを感得する宗教的感覚を失いつつあるということである。
 自分の〈今〉を楽しもうとし、〈今〉に終止符が打たれる死を怖れている。
 我執による楽しみこそがやがて苦をもたらす根本原因であり、真に怖れるべきは、その苦が永続することなのに……。
 この勘違いによって私たちは、核発電から生じる〈核のゴミ〉を地球上に積み続けている。
 自分で処置のしようがない恐ろしいゴミの処理を、可愛い子供や孫へ押しつけたまま、今を楽しもうとしている。
 また、地球の砂漠化や温暖化も勘違いの結果である。
 私たちは、種を絶滅させ、肺呼吸する生きものたちが棲息する陸地をどんどん失い、風雨を凶暴化させつつ、今を楽しもうとしている。
 こうした恥知らずな文明が永続するはずはない。
 師の予言は厳しい。
 地球は確かに「黒く焼け焦げ、死ぬ」しかないのだろう。
 徐々にか、それとも核兵器による戦争、あるいは核発電所の爆発によってたちまちにか……。




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2015
10.26

原発がどんなものか知ってほしい(その7) ―ある技術者の遺言―

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〈『法楽農園』は今年の作業を終えました〉

 ここで紹介する『原発がどんなものか知ってほしい』は、原発の建設、検査、配管工事の分野で現場監督を20年以上勤めた技術者平井憲夫氏が書いた〈現場からの報告〉である。
 今回の文章には、風評被害を引き起こしかねない内容や、強い誹謗の表現も含まれているが、資料として読むため、原文のまま掲載した。
 本文の妥当性については、ネット上にも様々な知見があり、ご検討いただきたい。
 なお、平井憲夫氏は平成9年1月に58才で逝去されており、福島原発事故はその14年後に起こっている。

 今回は最終回となる。
 最後に、氏は最も書きにくいと思われることを綴った。
 それは、被曝者、及び被曝者かも知れないと想像される方々へ対する差別意識である。
 そして、自分が被曝者ではなかろうかという不安である。
 こうした文章は、読み手も極めて、読みにくい。
 むろん、氏への批判もさまざまな方面から起こったことだろう。
 氏は当然、批判を覚悟して書いた。
 死に行く者の使命として……。
 読むしかない。
 そして考えるべきことを考え、核問題という文明史上おそらくは最大の試練に対して、自分の良心に恥ずかしくない態度をとるのが、書き遺した氏への供養というものだろう。

(19) 住民の被曝と恐ろしい差別

 日本の原発は今までは放射能を一切出していませんと、何十年もウソをついてきた。
 でもそういうウソがつけなくなったのです。

 原発にある高い排気塔からは、放射能が出ています。
 出ているんではなくて、出しているんですが、二四時間放射能を出していますから、その周辺に住んでいる人たちは、一日中、放射能をあびて被曝しているのです。

 ある女性から手紙が来ました。
 二三歳です。
 便箋に涙の跡がにじんでいました。
「東京で就職して恋愛し、結婚が決まって、結納も交わしました。
 ところが突然相手から婚約を解消されてしまったのです。
 相手の人は、君には何にも悪い所はない、自分も一緒になりたいと思っている。
 でも、親たちから、あなたが福井県の敦賀で十数年間育っている。
 原発の周辺では白血病の子どもが生まれる確率が高いという。
 白血病の孫の顔はふびんで見たくない。
 だから結婚するのはやめてくれ、といわれたからと。
 私が何か悪いことしましたか」
と書いてありました。
 この娘さんに何の罪がありますか。
 こういう話が方々で起きています。

 この話は原発現地の話ではない、東京で起きた話なんですよ、
 東京で。
 皆さんは、原発で働いていた男性と自分の娘とか、この女性のように、原発の近くで育った娘さんと自分の息子とかの結婚を心から喜べますか。
 若い人も、そういう人と恋愛するかも知れないですから、まったく人ごとではないんです。
 こういう差別の話は、言えば差別になる。
 でも言わなければ分からないことなんです。
 原発に反対している人も、原発は事故や故障が怖いだけではない、こういうことが起きるから原発はいやなんだと言って欲しいと思います。
 原発は事故だけではなしに、人の心まで壊しているのですから。



(20) 私、子ども生んでも大丈夫ですか。たとえ電気がなくなってもいいから、私は原発はいやだ。

 最後に、私自身が大変ショックを受けた話ですが、北海道の泊原発の隣の共和町で、教職員組合主催の講演をしていた時のお話をします。
 どこへ行っても、必ずこのお話はしています。
 あとの話は全部忘れてくださっても結構ですが、この話だけはぜひ覚えておいてください。

 その講演会は夜の集まりでしたが、父母と教職員が半々くらいで、およそ三百人くらいの人が来ていました。
 その中には中学生や高校生もいました。
 原発は今の大人の問題ではない、私たち子どもの問題だからと聞きに来ていたのです。

 話が一通り終わったので、私が質問はありませんかというと、中学二年の女の子が泣きながら手を挙げて、こういうことを言いました。 
「今夜この会場に集まっている大人たちは、大ウソつきのええかっこしばっかりだ。
 私はその顔を見に来たんだ。
 どんな顔をして来ているのかと。
 今の大人たち、特にここにいる大人たちは農薬問題、ゴルフ場問題、原発問題、何かと言えば子どもたちのためにと言って、運動するふりばかりしている。
 私は泊原発のすぐ近くの共和町に住んで、二四時間被曝している。
 原子力発電所の周辺、イギリスのセラフィールドで白血病の子どもが生まれる確率が高いというのは、本を読んで知っている。
 私も女の子です。
 年頃になったら結婚もするでしょう。
 私、子ども生んでも大丈夫なんですか?」
と、泣きながら三百人の大人たちに聞いているのです。
 でも、誰も答えてあげられない。

「原発がそんなに大変なものなら、今頃でなくて、なぜ最初に造るときに一生懸命反対してくれなかったのか。
 まして、ここに来ている大人たちは、二号機も造らせたじゃないのか。
 たとえ電気がなくなってもいいから、私は原発はいやだ」
と。
 ちょうど、泊原発の二号機が試運転に入った時だったんです。

「何で、今になってこういう集会しているのか分からない。
 私が大人で子どもがいたら、命懸けで体を張ってでも原発を止めている」
と言う。

「二基目が出来て、今までの倍私は放射能を浴びている。
 でも私は北海道から逃げない」
って、泣きながら訴えました。

 私が「そういう悩みをお母さんや先生に話したことがあるの」と聞きましたら、
「この会場には先生やお母さんも来ている、でも、話したことはない」
と言います。
「女の子同志ではいつもその話をしている。
 結婚もできない、子どもも産めない」
って。

 担任の先生たちも、今の生徒たちがそういう悩みを抱えていることを少しも知らなかったそうです。

 これは決して、原子力防災の八キロとか十キロの問題ではない、五十キロ、一〇〇キロ圏でそういうことがいっぱい起きているのです。
 そういう悩みを今の中学生、高校生が持っていることを絶えず知っていてほしいのです。



(21) 原発がある限り、安心できない

 みなさんには、ここまでのことから、原発がどんなものか分かってもらえたと思います。

 チェルノブイリで原発の大事故が起きて、原発は怖いなーと思った人も多かったと思います。
 でも、「原発が止まったら、電気が無くなって困る」と、特に都会の人は原発から遠いですから、少々怖くても仕方がないと、そう考えている人は多いんじゃないでしょうか。

 でも、それは国や電力会社が「原発は核の平和利用です」「日本の原発は絶対に事故を起こしません。安全だから安心しなさい」「日本には資源がないから、原発は絶対に必要なんですよ」と、大金をかけて宣伝をしている結果なんです。
 もんじゅの事故のように、本当のことはずーっと隠しています。

 原発は確かに電気を作っています。
 しかし、私が二〇年間働いて、この目で見たり、この体で経験したことは、原発は働く人を絶対に被曝させなければ動かないものだということです。
 それに、原発を造るときから、地域の人達は賛成だ、反対だと割れて、心をズタズタにされる。
 出来たら出来たで、被曝させられ、何の罪もないのに差別されて苦しんでいるんです。

 みなさんは、原発が事故を起こしたら怖いのは知っている。
 だったら、事故さえ起こさなければいいのか。
 平和利用なのかと。
 そうじゃないでしょう。
 私のような話、働く人が被曝して死んでいったり、地域の人が苦しんでいる限り、原発は平和利用なんかではないんです。
 それに、安全なことと安心だということは違うんです。
 原発がある限り安心できないのですから。


 それから、今は電気を作っているように見えても、何万年も管理しなければならない核のゴミに、膨大な電気や石油がいるのです。
 それは、今作っている以上のエネルギーになることは間違いないんですよ。
 それに、その核のゴミや閉鎖した原発を管理するのは、私たちの子孫なのです。

 そんな原発が、どうして平和利用だなんて言えますか。

 だから、私は何度も言いますが、原発は絶対に核の平和利用ではありません。

 だから、私はお願いしたい。
 朝、必ず自分のお子さんの顔やお孫さんの顔をしっかりと見てほしいと。
 果たしてこのまま日本だけが原子力発電所をどんどん造って大丈夫なのかどうか、事故だけでなく、地震で壊れる心配もあって、このままでは本当に取り返しのつかないことが起きてしまうと。
 これをどうしても知って欲しいのです。


 ですから、私はこれ以上原発を増やしてはいけない、原発の増設は絶対に反対だという信念でやっています。
 そして稼働している原発も、着実に止めなければならないと思っていあす。

 原発がある限り、世界に本当の平和はこないのですから。


 作家村上春樹氏の有名な文章を思い出した。

 僕に言わせていただければ、あれは本来は「原子力発電所」ではなく「核発電所」です。
 nuclear=核、atomic power=原子力です。
 ですからnuclear plantは当然「核発電所」と呼ばれるべきなのです。

 そういう名称の微妙な言い換えからして、危険性を国民の目からなんとかそらせようという国の意図が、最初から見えているようです。
「核」というのはおっかない感じがするから、「原子力」にしておけ。
 その方が平和利用っぽいだろう、みたいな。
 そして過疎の(比較的貧しい)地域に電力会社が巨額の金を注ぎ込み、国家が政治力を行使し、その狭い地域だけの合意をもとに核発電所を一方的につくってしまった(本当はもっと広い範囲での住民合意が必要なはずなのに)。
 そしてその結果、今回の福島のような、国家の基幹を揺るがすような大災害が起こってしまったのです。
 これから「原子力発電所」ではなく、「核発電所」と呼びませんか? 
 その方が、それに反対する人々の主張もより明確になると思うのですが。
 それが僕からのささやかな提案です。


 まったく同感である。
 私たちは今世紀初頭、あのおぞましい狂牛病についていかなる対処をしたか?
 表現が不適切であるなどの理由によって、たちまち、「Bovine Spongiform Encephalopathy(牛海綿状脳症)」の略である「BSE」としか呼ばなくなった。
 ローマ字3つを目にしても、ほとんどの人びとは〈あの狂牛病〉と気づかないか、もしくは、自分の頭でワンクッションおいてからようやく〈あのことだ〉と思い当たる。
 そのために、人間の都合で草食動物へ肉食をさせ、しかも、牛の生態としてはあり得ない共食いまでさせたというおぞましさへの震え、人間の根源的な罪の感覚は、私たちの感覚から急速に薄れていった。
 それはとりもなおさず、生きものたちを過酷な環境に置いている現実に対して鋭敏な感覚がはたらくことを疎外する結果となったはずだ。
 いったい誰が、何のために、ああした言い換えを普及させたのか?
 私たちが狂牛病から学ぶべきもっとも肝腎なところが、うやむやにされた。
 私たちは、私たちの所行の〈おぞましさ〉にもっとしっかり向き合うべきだったと思えてならない。
 私たちの根源的過ちにしっかり震えねば、私たちは同様の過ちに気づかず、おぞましい行為をなす存在であり続けるだろう。
 
 遺伝子や、万能細胞や、臓器移植や、治療薬など、いのちそのものに関わる科学的展開がスピードを増すと思われる今世紀が狂牛病から始まったことを肝に銘じておけば、人類に〈ある種の歯止め〉となったはずななのに……。

 原発の正体はまぎれもなく「核発電」である。
 それは、「核兵器」と共に、〈人類の分に過ぎた道具〉ではなかろうか。
 何としても廃絶せねばならないと思う。




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2015
10.25

託されたレコード盤 ―お焚きあげと人生―

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 いつの日か喫茶店を開こうと夢見ていた方のご家族から「ぜひ、聴いてやってください」とレコードをお納めいただき、小生もまた、いつの日か、と願っていた。
 それから数年が経過した最近、古いレコードプレイヤーが入手でき、ようやく〈その日〉がやってきた。
 ところがフォノイコライザーの電源コードがなく、差し込み口が特殊なので、家電量販店でもDIYの店でも手に入れようがなく、上京したおりに秋葉原で探すしかないかと思案していたところ、意外な成り行きとなった。
 コードのないイコライザーを目にとめていたAさんがたまたまゲーム関係の店へ行ったところ、中古品コーナーでぴったりのコードを発見したのである。
 深夜、Aさんはやってきた。
 日々、何かに驚いてはいるが、プラグが差し込み口にピッタリと嵌った時は、時間が止まったような気分になった。
〝――人生では何でも起こり得る〟

 さて、Aさんも一緒に聴いたのはまず、J・Rモンテローズの『ストレート・アヘッド』である。
 文章を綴るようなモンテローズのブロウ、美しい線グラフを描くようなトミー・フラナガンのピアノ。
 Aさんは、「とても古いレコードだとは思えません」と言う。
 何か重い感じがしてレコードを止め、イコライザーと針圧調整の錘(オモリ)をよくチェックしてみたら、確かに針圧がかかり過ぎていた。
 次は、藤圭子の『新宿の女』である。

 たちまち、半世紀近い昔に引き戻された。
「私が男に なれたなら
 私は女を 捨てないわ♪」
「あなたの夢みて 目が濡れた
 夜更けのさみしい カウンター♪」
 あの頃は、男も女も真剣だった。
 決して遊びではない。
 かと言って、必ずしも人生設計上の実(ジツ)は求めない。
 あとから振り返って見れば、ゲームだったと言うしかないような気もするが、ある種の〈まこと〉が宿る時間であったことは確かである。
 しかし今は、女子高生がさまざまな形で性をお金にし、若者が「コスパ(費用対効果)のあやしい恋愛に時間などかけてはいられません」と断言する時代になった。

 藤圭子は唄い上げる。
「まことつくせば いつの日か
 わかってくれると 信じてた♪」
 絞り出すような、押すような声を聴くと参ってしまう。
 それにしても、このレコードを持っていた方は、どんな思いでこれを買ったのか?
 そして、その志を知っていたがゆえに処分しかねていた方は、どんな思いで当山へ送られたのか?
 当方からは一切、詮索しない方針なので、聴きながらうっすらと忖度の心をはたらかせるしなかい。

 お焚きあげを依頼されるお品には、持ち主や、持ち主だった方の人生が宿っている。
 謹んで祈り、不動明王の火に託す。
 まれに、こうしたご依頼もあると、見知らぬ方との人生模様の共有を感じたりもする。
 南無転迷開悟(テンメイカイゴ)不動明王。




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2015
10.24

死の悲しみから立ち直る道(その2) ―喪失の苦痛と向き合う―

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 今回は、悲しみから立ち上がる方法の第二番目、喪失の苦痛と向き合うことです。

2 悲しみがもたらす苦痛を知り、そのはじめから終わりまでを体験すること。

 親しい人、身近な人のは、たとえようのない精神的苦痛をもたらし、多くの方が、何とかしてその現実から逃れたいと願います。
 しかし、寝ても覚めても、仕事をしていても故人のことが不意に頭へ浮かび、たまらない気持になったりします。
 ある方は仕事が上の空になります。
 ある方は酒に浸ります。
 ある方は旅に出ます。
 ある方は引っ越します。
 ある方は後を追いたくさえなります。
 何をしても逃れられないのですが、何かをせずにはいられず、苦しみます。

 お釈迦様は一人娘を亡くして半狂乱になっているキーサゴータミーへ、芥子の種をもらってきたなら救われると約束しました。
 ただし、条件があります。
 者を出したことのない家からもらわねばなりません。
 ご先祖様のいない人は誰一人いないので、村中を歩いても、ついに種はもらえませんでした。
 彼女は、この過程を通じてと向き合い、自分だけでなく誰しもが親しい人のを体験しているという事実に気づきました。
 無常の鬼はすべての人びとへ訪れていたのです。
 うちひしがれて戻って来た彼女へ、お釈迦様は諭されました。

「この宇宙にはたったひとつけっして変わることのない法則があります。
 それは、すべてのものは変わるということ、すべては無常だということです。
 子供の死があなたの目を開かせてくれたのです」


 彼女はやがて、アラカンさんになりました。
 
 こうして「人は必ず死ぬ」という単純な事実を〈本当に知った〉人びとは、執着心という苦しみの元を手放すことができます。
 そして手放した後には、必ず、優しい心がはたらきだします。
 臨死体験者もそうです。
 あるいは重篤な病気になって気づいた方もおられます。

 医師フレダ・ネイラーは書きました。

「わたしはこういう事態にならなければしなかったような体験をしている。
 それについては癌に感謝しなければならない。
 わたしは謙虚になった。
 死ぬべき存在としての自分を甘んじて受け入れるようになった。
 自分の内なる強さを知った。
 これにはつねづねわたし自身が驚かされている。
 他にも自分自身に関する多くのことを知った。
 それは、わたしがここにきて立ち止まり、振り返り、再び歩きはじめることを余儀なくされた結果に他ならない」


 死を前にしたお祖母ちゃんは笑顔になり、こう言って孫の頭を撫でてくれたそうです。

「私は世界中で一番幸せな病人だよ」


 お別れの言葉が継げた真実です。

 東日本大震災で娘さんを亡くされたAさんは、四国遍路を始めました。
 一回目は無我夢中、おりおりに娘さんとの思い出が瞼に浮かび、泣き泣き歩きました。
 路傍の小さなお地蔵様が愛おしく、哀しく、とても身近に感じられました。
 二回目は歩き方を覚えましたが、やはり、とても泣けました。
 ただし、それが、我が子を失ったせいなのか、それともご加護のありがたさによるものなのか、よくわからない瞬間もありました。
 三回目は、どの札所でもただただ、ありがたく、涙が感謝の涙であることを確信しました。
 お仏壇でお線香を上げる時も、意識がお位牌へ向かうだけでなく、真ん中におられるご本尊様のありがたさを実感できるようになったそうです。

 夫を亡くし、七回忌の法要で、ようやく喪失感から抜け出るまでに回復されたBさんの例もあります。
 たった一人で行われた法要後の法話で申しあげました。
「七回忌は阿閦如来(アシュクニョライ)様のお導きの時期に当たります。
 この如来様がおられるのは、瑠璃(ルリ)の光に満ちた東方浄土です。
 小生はいつも、こう感じながら拝んでいます。
 三回忌で、日が沈む方位の西方浄土におられる阿弥陀如来様のもとでゆっくり休み、七回忌の頃には、東から昇る太陽のような転生(テンショウ)の動きが始まっているのでしょう。
 故人は素晴らしい方だったし、こうして追善供養という尊い廻向(エコウ)も重ねて来られたのですから、きっと、よい世界へ生まれ変わられることでしょうね」
 あの時、Bさんの目には涙が浮かび、その涙には、いつもと違う光も宿っていました。
 数日後、「立ち直れました。しっかり生きます」という手紙が届きました。

 当山では、ご葬儀の後で行う短い法話において、しばしば、こう申しあげます。
「故人は今、自分の死をもって、皆さんへ大切なことを知らせておられます。
 皆さんは立ち止まり、日常の忙しさから離れたひとときを持っています。
 そして死と、無常と、向き合っています。
 普段、忘れている無常の真実に気づいておられます。
 そしてもう一つの真実について知ることができました。
 お線香を点すのは精進を誓い、精進する姿を故人へ見せて安心してもらうためであり、花を飾るのは忍耐を誓い、忍耐強く生きる姿を故人へ見せて安心してもらうためであり、故人は、供養という尊い文化にあらためて気づかせ、私たちへ人生修行の機会をつくってくださったのです」

 親しい人や可愛いペットなどの死と向き合うのは、かけがえのない何ごとかの入り口です。
 すべては時々刻々、変化して止みません。
 悲しみも辛さも、永久に続くわけではありません。
 無常の真実が観えてくれば、そうした感情をおこさせる〈無常の忘却〉はなくなります。
 そして、無常が肌身に沁みてわかれば、キーサゴータミーのように、悟りを開けるかも知れません。
 フレダ・ネイラーさんのように、謙虚になり、自分の強さを知るかも知れません。
 Aさんのように、み仏のご加護を実感できるかも知れません。
 Bさんのように、しっかり生きられるかも知れません。
 始まる〈何ごとか〉は、きっと、救いの道に違いありません。
 真言やお経は、その強力な伴走者になり得ることでしょう。
 



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
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 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2015
10.23

映画『先生と迷い猫』について ―生活相談会と寺子屋のお知らせ―

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 職員さんたちから、たまにはゆっくりしてくださいと諭され、映画『先生と迷い猫』を観た。
 妻を亡くした校長先生は、原書を読みながら悠々の独り暮らしをしている。
 しかし、困ったことが一つある。
 三毛猫がいつの間にか仏壇の前に座っていて、それを見るたびに、猫好きだった妻の死が思い出されてしまうのだ。
 ある日、元来、猫に無関心で妻の猫好きを理解していなかった先生は、妻が作っていたくぐり戸も、猫が手で開ける窓も塞ぎ、外でニャアニャアと鳴きやまない猫をシャットアウトした。
 それ以来、「ミイ」「ソラ」「タマ子」、いろいろな名前でご近所さんから呼ばれ、可愛がられていた三毛猫は町から姿を消した。

 猫がいなくなって途惑う人びとの姿に、ようやく猫と人びととのつながりがかけがえのないものであると知った先生はハッとする。
 ――自分にとってもあの猫は、かけがえのない何かなのだ。
 それから、人びとと共にポスターをあちこちへ貼り出し、猫の集会所を見回るなど懸命の猫探しを始めるが、見つからない。

 くたびれ果てて家に帰った先生の前に、猫を抱いて微笑む亡き妻の幻が現れる。
 先生は不思議な光の中でうなだれる。

 一連の過程で、いつも肩を怒らし、反っくり返るような姿勢でいた先生は、工員から勝手な姿勢を叱られるという体験をする。
 ポスターを貼らせてもらえるよう、頼み込むという体験をする。
 夜に出歩いていた少年を送り届けた孤児院の修道女のおじぎに、より深くお辞儀するという体験をする。
 小さな町では、校長先生だった人はいつまでも「校長先生」で通り、誰しもが一目置いているような態度をとるが、〈尊敬〉はすでに、ほとんど過去のものとなっている。
 先生だけは〈尊敬されている自分〉のイメージにしがみついたままでいたが、叱られ、頼み、感謝する中で、徐々にそれが薄れる。
 周囲の人びとと心を通わせ合う楽しさや、やりがいや、生き甲斐を見つける。
 理容室の女主人に言われる。
「先生、変わりましたねえ」

 また、先生は、猫探しによって精も根も尽き果てた状況で、妻が猫に寄せていた思いを知る。
 いのちあるものが〈居る〉ことは、自分といういのちある者にとって、決して見過ごしにはできない〈何ごとか〉なのだ。
 そこに気づいた人と気づかない人とでは、心持ちがまったく違う。

 先生は、うろつく少年へ諭す。
「生きている者は必ず死ぬんだよ」
 しかし、自分はいつまでも妻の死を納得できないでいた。
 亡き妻へしがみついていた。
 仏壇の前に現れる猫がしゃくに障ったのは、「死んだ妻を思い出させる」からではなく、妻の死を受け入れ、咀嚼(ソシャク)することができないでいる自分の中途半端な気持に気づかされるのが本当の理由だった。
 いなくなった猫を本気で探す過程は、死んだ妻を求めてやまない本当の心へ深く深く入り込む本気な過程でもあったのだ。
 こうして先生は、不在の猫に導かれ、妻の不在と心ゆくまで向き合った。

 先生は三つの真実を知った。
 一匹の野良猫も生きものであり、同じ生きものである人間たちと共に、かけがえのない生きもののいのちを生きていること。
 死んだ人は、その人の死をそのまま受け入れることによって、死んだ人としてかけがえのない蘇りを果たすこと。
 また、そうしてようやく、執着心という自分でつくるフィルターから離れ、死んだ人の気持や人生をありのままに理解できること。

 小生も、遅ればせながら知った。
 イッセー尾形は〈存在〉によって千変万化を語れる希有の役者さんである。
 この『先生と迷い猫』は映画史に残る傑作ではなかろうか。




 さて、来る11月5日(木)、午後3時より、『マイベストプロ宮城』様主催の「秋の生活相談会」を行います。
 後から気づくよりも、早く気づいた方がより豊かに生きられるかも知れないこうした視点などについて、皆さんと共に考え、質疑応答も行います。
 どうぞ、お気軽にお出かけください。
 要領は以下のとおりです。
・日 時:11月5日(木)午後3時~3時50分
・場 所;河北新報社一階ホール(仙台市青葉区五橋1―2―28)
・参加費:無料
・定 員:20名(申込順で締め切られます)
・申込み:022(715)9350
※閉会後、個別にご相談を受ける時間とスペースもあります。

 なお、当日会場へ入りきれなかった方々は、14日(土」の寺子屋「法楽館」へおでかけください。
 そちらでも、皆さんと共にいろいろ考えましょう。
 要領は以下のとおりです。
・日 時:11月14日(土)午後2時~3時30分
・場 所:日立システムズホール仙台(旧・旭ヶ丘青年文化センター)和室(イス席もあります)
・参加費:1000円 中学生以下500円(お菓子、飲物付)

 皆様のご多幸を祈っています。合掌




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 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2015
10.22

皇后陛下のお言葉に思う

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〈並ばれた両陛下は、失われつつあるものを懐かしく思い出させる〉

 10月20日、皇后陛下は81才の誕生日を迎えられ、宮内記者会の質問へ文書で回答された。
 ご誠意とお慈悲にあふれるお言葉であり、日本人として誇るべき文章であると思う。

 当山では、故人のお人柄などをよくお聴かせいただいてからご本尊様へ祈り、降りた文字によるお戒名をお伝えしているが、母親について、実に多くの方々が似たイメージを持っておられることにしばしば、驚く。
 それはこういうものである。
「優しく、忍耐強く、育ててくれました。
 花が好きでした」
 すると、いつも、親不孝の最中に送ってしまった母親を思い出し、心が雨模様になる。
 特に〈男の子〉は、こう答えてくださる。

 皇后陛下慈母観音そのものになっておられた。
 以下、全文である。
     

【質問】
 この1年、自然災害などさまざまな出来事がありました。
 戦後70年にあたり、皇后さまは天皇陛下とともにパラオをはじめ国内外で慰霊の旅を重ねられました。
 また、玉音放送の原盤なども公開されたほか、若い皇族方も戦争の歴史に触れられました。
 1年を振り返って感じられたことをお聞かせください。
 8月には心臓の精密検査を受けられましたが、その後のご体調はいかがですか。

【皇后様】
 この1年も、火山の噴火や大雨による洪水、土地の崩落、竜巻など、日本各地を襲う災害の報に接することが多く、悲しいことでした。 
 ごく最近も、豪雨のため関東や東北の各所で川が溢れ、とりわけ茨城県常総市では堤防が決壊して2人が亡くなり、家を流された大勢の人々が今も避難生活を続けています。
 先日、陛下の御訪問に同伴して同市を訪問いたしましたが、水流により大きく土地をえぐられた川沿いの地区の状況に驚くと共に、道々目にした土砂で埋まった田畑、とりわけ実りの後に水漬(みづ)いた稲の姿は傷ましく、農家の人々の落胆はいかばかりかと察しています。

 東日本でも、大震災以来すでに四年余の歳月が経ちますが、未だに避難生活を続ける人が19万人を超え、避難指示が解かれ、徐々に地区に戻った人々にも、さまざまな生活上の不安があろうかと案じられます。
 また、海沿いの被災地では、今も2千名を超える行方不明者の捜索が続けられており、長期にわたりこの仕事に従事される警察や海上保安庁の人たち、また原発の事故現場で、今も日々激しく働く人々の健康の守られることを祈らずにはいられません。

 先の戦争終結から70年を経、この1年は改めて当時を振り返る節目の年でもありました。
 終戦を迎えたのが国民学校の5年の時であり、私の戦争に関する知識はあくまで子どもの折の途切れ途切れの不十分なものでした。
 こうした節目の年は、改めて過去を学び、当時の日本や世界への理解を深める大切な機会と考えられ、そうした思いの中で、この1年を過ごしてまいりました。

 平和な今の時代を生きる人々が、戦時に思いを致すことは決して容易なことではないと思いますが、今年は私の周辺でも、次世代、またその次の世代の人々が、各種の催しや展示場を訪れ、真剣に戦争や平和につき考えようと努めていることを心強く思っています。
 先頃、孫の愛子と2人で話しておりました折、夏の宿題で戦争に関する新聞記事を集めた時、原爆の被害を受けた広島で、戦争末期に人手不足のため市電の運転をまかされていた女子学生たちが、爆弾投下4日目にして、自分たちの手で電車を動かしていたという記事のことが話題になり、ああ愛子もあの記事を記憶していたのだと、胸を打たれました。
 若い人たちが過去の戦争の悲惨さを知ることは大切ですが、私は愛子が、悲しみの現場に、小さくとも人々の心を希望に向ける何らかの動きがあったという記事に心を留めたことを、嬉しく思いました。

 今年、陛下が長らく願っていらした南太平洋のパラオ御訪問が実現し、日本の委任統治下で1万余の将兵が散華したペリリュー島で、御一緒に日米の戦死者の霊に祈りを捧げることが出来たことは、忘れられない思い出です。
 かつてサイパン島のスーサイド・クリフに立った時、3羽の白いアジサシがすぐ目の前の海上をゆっくりと渡る姿に息を呑んだことでしたが、この度も海上保安庁の船、「あきつしま」からヘリコプターでペリリュー島に向かう途中、眼下に、その時と同じ美しい鳥の姿を認め、亡くなった方々のみたま御霊(みたま)に接するようで胸が一杯になりました。

 戦争で、災害で、志半ばで去られた人々を思い、残された多くの人々の深い悲しみに触れ、この世に悲しみを負って生きている人がどれ程多く、その人たちにとり、死者は別れた後も長く共に生きる人々であることを、改めて深く考えさせられた1年でした。

 世界の出来事としては、アフリカや中東など、各地で起こる内戦やテロ、それによる難民の増大と他国への移動、米国とキューバの国交回復、長期にわたったTPP交渉などが記憶に残っています。
 また、日本や外地で会合を重ね、学ぶことの多かったドイツのヴァイツゼッカー元大統領やシンガポールのリー・クァンユー元首相、40年以上にわたり、姉のようにして付き合って下さったベルギーのファビオラ元王妃とのお別れがありました。

 この回答を記しているさなか最中(さなか)、日本のお二人の研究者、大村智さんと梶田隆章さんのノーベル賞受賞という明るい、嬉しいニュースに接しました。
 受賞を心から喜ぶと共に、お二人が、それぞれの研究分野の先達であり、同賞の受賞こそなかったとはいえ、かつてそれに匹敵する研究をしておられた北里柴三郎博士や、つい7年前に亡くなられた戸塚洋二さんの業績を深い敬意をもって語られることで、これらの方々の上にも私どもの思いを導いて下さったことを有難く思いました。
 また、大村さんや同時受賞のアイルランドのウィリアム・キャンベル博士と共に、同じこの分野で、国の各地に伝わる漢方薬の文献をくまなく調べ、遂にマラリヤに効果のある薬草の調合法を見出した中国の屠呦呦(とゆうゆう)さんの受賞も素晴らしいことでした。

 スポーツの分野でも、テニスや車いすテニスの選手が立派な成果を上げ、また、ラグビーワールドカップにおける日本代表チームの輝かしい戦いぶりは、日本のみでなく世界の注目を集めました。
 4年後の日本で開かれる大会に、楽しく夢を馳せています。

 身内での変化は、秋篠宮家の佳子が成年を迎え、公的な活動を始めたこと、眞子が約1年の留学を終え、元気に戻ってきたことです。
 佳子はこの1年、受験、成年皇族としての公務、新しい大学生活、と、さまざまな新しい経験を積み、また時に両親に代わって悠仁の面倒をみるなど、数々の役目を一生懸命に果たして来ました。
 眞子が帰って来てホッとしていることと思います。
 また、この12月には三笠宮様が100歳におなりで、お祝い申し上げる日を楽しみにしております。

 戦後70年となる今年は、昭和天皇の終戦の詔勅の録音盤や、終戦が決められた御前会議の場となった吹上防空壕の映像が公開されるなど、改めて当時の昭和天皇の御心(みこころ)を思い上げることの多い1年でした。
 どんなにかご苦労の多くいらしたであろう昭和天皇をお偲び申し上げ、その御意志を体(たい)し、人々の安寧を願い続けておられる陛下のお側で、陛下の御健康をお見守りしつつ、これからの務めを果たしていければと願っています。

 体調につき尋ねて下さり有難うございました。
 今のところ、これまでと変わりなく過ごしています。


 皇后陛下は平成16年、70才の誕生日に際し、ハンセン病患者のためにはたらいていた津田塾大学教授神谷美子氏との出会いをふまえ、こう述べらておられる。

「みずからが深い悲しみ苦しみを経験し、むしろそれゆえに、弱く、悲しむ人びとのかたわらに終生寄りそった何人かの人びとを知る機会をもったことは、私がその後の人生を生きる上の指針のひとつになったと思います」

 こうしたお言葉が私たちの胸に強く何かを訴えかけるのは、心の底ではそうあるべきと知っていながら、つい、自分の喜びや楽しみにばかりかまけて、「弱く、悲しむ人びと」を忘れ、無視しながら面白おかしく生きている疚(ヤマ)しさゆえではなかろうか。

 昭和62年、当時皇太子だった天皇陛下は、父親である昭和天皇の病臥にともない名代として沖縄を訪れ、南部戦跡の平和記念堂でお言葉を代読された。
「先の大戦で戦場となった沖縄が、島々の姿をも変える甚大な被害を被り、一般住民を含むあまたの尊い犠牲者を出したことに加え、戦後も長らく多大の苦労を余儀なくされてきたことを思う時、深い悲しみと痛みを覚えます」
 念願としていた沖縄訪問ができなかった昭和天皇の無念を体したお姿は県民の心を動かし、当時の知事西銘順治氏は談話を発表した。
「お言葉に接し、感動胸に迫るものがあります。
 これで、ようやく沖縄の戦後は終わりを告げたと思う」

 皇后陛下のお言葉はいつも、昭和天皇のお心、平成天皇のお心がふまえられている。
「どんなにかご苦労の多くいらしたであろう昭和天皇をお偲び申し上げ、その御意志を体(たい)し、人々の安寧を願い続けておられる陛下のお側で」
 そして、ご自身のことについてはさりげない。
「今のところ、これまでと変わりなく過ごしています。」
 ご自身の心中は歌に託される。

「初夏の 光の中に苗木植(ウ)うる この子供らに 戦(イクサ)あらすな」 (平成7年の植樹祭にて)

 文章を読むとは、見た文字を用いて自分の頭の中に文章を紡ぎ出すということだが、涙なしには文章にならないお言葉である。
 私たちの悲しみ苦しみを我がこととして受け止め、私たちの生きて行こうという意志を感じとり、夫や父の胸中を忘れず、こうしたお心一つで日々を過ごす生身の人間が日本におられることは奇跡に近い。
 深く胸に刻んでおきたい。




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2015
10.21

いつ、誰が、どうやって国の土台を変えたのか

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〈共に芋煮を楽しむ忘れがたいひとときも平和であればこそ〉

 今、マンションの土台に対する信頼が揺らぎ、大問題となっている。
 この国の土台はどうか?

 宮城県では県議会議員選挙が行われている。
 某候補者の個人演説会へもぐり込んで聴き耳を立てた。
 彼はこう言った。
議員の仕事の第一は、知事が県民の願いをきちんと受け止めて政治をやっているかどうかチェックすること。
 第二は、県民から預かった予算を正しく執行しているかどうかチェックすること。
 第三は、必要と思われる政策を提言すること。
 その中には地域住民の方々の願いも込められます。

 これに尽きます」
 そのとおりだと思った。
 なぜなら、多くの県民は議員に対してこう願い、一票を投じるに相違ないからである。

 困るのは、知事などの行政府が県民の願いを無視し、選挙公約にはっきり掲げもしなかった政治を勝手に行うことである。
 困るのは、議会で通った予算案の趣旨を生かしたお金の使われ方がなされないことである。
 困るのは、県民の願いが政治に反映されないことである。

 さて、9月29日、新聞各紙は、憲法9条解釈変更という重大事に関し、内閣法制局がどのような検討を行ったか、その内容を公文書として残していないという驚くべき事態を報じた。
 以下は河北新報の記事である。

 内閣法制局が、昨年7月1日に閣議決定した集団的自衛権行使を可能とする憲法9条解釈変更をめぐり、内部検討の経緯を示した議事録などの資料を公文書として残していないことが28日、分かった。
 法制局関係者が明らかにした。
 歴代政権が禁じてきた集団的自衛権行使がどのような検討を経て認められたかを歴史的に検証することが困難となり、憲法と、法令や閣議決定の整合性を審査する法制局の姿勢が問われそうだ。

 関係者によると、閣議決定に関連する公文書として保存しているのは
1 安倍晋三首相の私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会(安保法制懇)」の資料
2 自民、公明両党による与党協議会の資料
3 閣議決定の原案
―の3種類。

 憲法解釈変更をめぐり、閣議決定前日の昨年6月30日に国家安全保障局が原案を法制局に送り、法制局は翌7月1日に「意見はない」と回答した。
 横畠裕介内閣法制局長官は閣議決定後の同年7月15日の参院予算委員会で、2013年2月に安保法制墾が再開して以降、「部内でも9条に関する過去の国会答弁や質問趣意書、答弁書などの政府見解を精査していた」と説明していた。

 菅義偉官房長官は28日の記者会見で「公文書管理法に基づき、適性に文書を保有している」と述べた。
 政府高官は「重要な文書で当然、保管している」と語り、保存を義務付けた公文書管理法の対象とならない内部文書の形で記録が残されているとみられる。
 公文書として残せば、情報公開制度によって十分な検討がなされたか疑念を持たれると法制局が懸念した可能性がある。


 以上の記事を読み「――いよいよ、始まっている」と実感した。
 報道によれば、首相と親しい小松一郎氏の死去を受けて任命された横畠氏は、与党協議会座長の高村正彦自民党副総裁と座長代理の北側一雄公明党副代表らと非公式協議を重ねており、本来、〈憲法の番人〉的役割を果たしてきた法制局は、実質的に内閣の方針の形式的追認機関になっていたと想像される。
 西川伸一明治大教授(政治学)は指摘した。

「戦後の安保政策の転換点となる重要な検討事項なのに、なぜ記録を残さなかったのか。
 常識では考えられないことだ」


 国家の土台がどのようにしてつくり変えられたか、法的根拠を示す経緯が隠されるとは、まことに恐ろしい状況である。
 それがまかり通るならば、この先、政府は何でもやれることになる。
 冒頭の候補者の言を借りれば、「国会議員の仕事の第一は、総理大臣が国民の願いをきちんと受け止めて政治をやっているかどうかチェックすること」となろうが、恒例となっていた秋の臨時国会は召集されないらしい。

 この国はいったい、どこへ行こうとしているのか?
 私たちはどこへ行かされようとしているのか?
 ある自衛隊員はポツリと本音を漏らした。
「私たちは、命令一つでいのちを捨てさせられるんです。
 イラク戦争からやっと帰ってきた仲間が狂っていたのも、辞めたのも、自殺したのも私たちは皆、知っています。
 私たちの仲間が誰か死ぬまで、私たちは放置されるんでしょうか」




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「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
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2015
10.20

コーヒ店永遠に在り秋の雨 ―ああ、喫茶店―

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〈『森栖(モリス)』さんにて〉

 昭和53年、俳人永田耕衣は詠んだ。

「コーヒ店永遠に在り秋の雨


 コーヒーの香りが漂う喫茶店は、一種独特な懐かしさを覚えさせる。
 ただし、来客の回転率を計算された現代風の店ではない。
 むしろ、客が〝これで成り立っているのだろうか?〟と心配になるような、〈費用対効果〉を忘れさせる空間でなければならない。
 昭和53年あたりにはまだ、日本のあちこちにそうした店があった。
 ドアを開けた瞬間に、違った時間の流れを感じさせる空間が待っていてくれたものだ。

 作者は神戸市須磨の喫茶店へ通っていたらしいが、この句は湿った情緒をベースにしてはいるものの、一筋縄でおさまらない。
 普通に読めば、行きつけになっている喫茶店のお決まりの席に着き、静かな音楽と雨音へ身を委ねているうちに時が経つのを忘れている、ということになるだろう。
 しかし、それでは済まない。
 とにかく「永遠に在り」が強過ぎるのだ。

 喫茶店で雨音を聴くというよりも、雨音の中で〈永遠なる喫茶店〉を想っているという風情が感じられる。
 そうなると話はまったく違う。
 作者の想念に住む〈永遠なる喫茶店〉的感覚が、秋の雨に誘われて意識へ浮かぶ……。

 小生が上京し、昼食を摂る、あるいは疲れた足を休めたい時に街を見回し、探すのはそうした喫茶店だが、出会う確率は低い。
 もう、間尺に合わない時間を潰す暇人はいないのだろう。
 店主も客も。
 
 78才の作者がこの句を詠んでからもう、40年近くなる。
 今は「恋愛はコスパ=コストパフォーマンスが悪い」と考え、成就するかしないかわからぬ恋愛などに無関心な若者が増えている時代である。
 もしも作者に上記のような想いがあったのなら、その〈永遠なる喫茶店〉はさらに遠くなったと言うしかない。
 そして、団塊の世代が死に絶えた頃にはもう、嫋々(ジョウジョウ)たる情緒の句としか読まれなくなることだろう。
 無論、残っていればの話だが……。

◎追補
 大崎市岩出山の『森栖(モリス)』さん(宮城県大崎市岩出山細峯50-100)はそうした数少ない喫茶店の一つである。
 ただし、週末は満席が多い。
 店主いわく「平日のティータイムや休日の16:00以降は比較的まだ余裕がございます」とのこと。
 定休日や臨時休業日なども確認の上、おでかけになられれば、〈永遠なる喫茶店〉を感じられるかも知れない。




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「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=rWEjdVZChl0





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2015
10.19

安心な死へと導くポワとは何か? ―「チベットの生と死の書」に学ぶ(その1)―

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〈絶好の秋晴れとなった日、講堂を埋め尽くした善男善女が、境内地で作った芋煮を堪能しました〉

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〈手作りのおにぎりなどもふるまわれ、誰もが浮き世の憂さを忘れたひとときでした〉

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〈地球の資源を守ろうという呼びかけもありました〉

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〈『法楽米』などが当たる抽選会もあり、盛り上がりました〉

 チベット密教の聖者ソギャル・リンポチェは若い頃、師ギャムヤン・キェンツェに導かれ、テント数30ほどの小さな集団で、巡礼の旅を行った。
 そのおり、60才を超えた老修行者ラマ・ツェテンが急病に罹った。
 死がさし迫り、看護していた弟子は、ギャムヤン・キェンツェを連れてこようとした。
 しかし、ラマ・ツェテンはこう言って止めた。
「彼をわずらわせるんじゃない。
 その必要はない。
 師とともにあって、距離などというものがあるか」
 そして微笑み、「しばし、空を見つめ、息を引き取った」。
 やがてギャムヤン・キェンツェが到着し、死者の「顔を見つめ、瞳をのぞきこみ、くすくすと笑いはじめ」、「そこにいるんじゃない!」と呼びかけた。
「その行を行っていると微妙な障害が起こってくることがある。
 さあ、わたしが導いてあげよう」
 呼ばれたラマ・ツェテンは「息を吹き返し」、それを目の当たりにしたソギャル・リンポチェは「呆然と立ちつくした」という。

「師はラマ・ツェテンのかたわらに腰をおろし、彼を〈ポワ〉へと導いた。
 ポワとは死の直前にある意識を転移させる行のことである。
 この行にはさまざまな方法があるが、そのとき師がもちいたのは『アー』という音を三度唱えながら、師とともに意識の高みに昇りつめてゆく方法だった。
 師がはじめの『アー』を唱えると、ラマ・ツェテンがそれに和する声がはっきりと聞こえた。
 二度目、彼の声は遠くなり、三度目には声は返ってこなかった。
 こうしてラマ・ツェテンは逝った」


 ソギャル・リンポチェはこの体験を振り返り、「精神の勝利」と考えている。
 小生も一度、忘れがたい体験をした。
 親の臨終に間に合わなかったお子さんが駆けつけたばかりの枕経において、〈通じる法〉を結んだ瞬間、死者がフーッと長い息をつき、その場に安堵の空気が広がったのだ。
 以来、小生はますますその修法に意識を集中している。
 引導を渡す葬儀では、もちろん、死者の気配をつかんでから法力を動かす。
 また、「アー」と唱える阿息観(アソクカン)は、阿字(アジ)に象徴される根本仏大日如来の世界へ融け入る修行であり、当山でも行われている。
 正統なポワの伝統はしっかりと受け継がれている。
 死に行く生きものたちの中で人間のみに許された「精神の勝利」は確かである。

 ソギャル・リンポチェは長じてデリー大学とケンブリッジ大学で比較宗教学を学び、ダライ・ラマ法王からこう評される「チベットの生と死の書」を著した。

「いかにして人生の真の意味を理解し、死を受容するか、死にゆく者や死者に救いの手をさしのべるか、に焦点をあわせた、まことに時宜を得た書物である」


 あまりにも大きく深い示唆に富んだ本書を、おりおりに読み進めて行きたい。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
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「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2015
10.18

原発がどんなものか知ってほしい(その6) ―ある技術者の遺言―

201510180001.jpg
〈NHK様よりお借りして加工しました〉

 ここで紹介する『原発がどんなものか知ってほしい』は、原発の建設、検査、配管工事の分野で現場監督を20年以上勤めた技術者平井憲夫氏が書いた〈現場からの報告〉である。
 今回の文章には、風評被害を引き起こしかねない内容や、強い誹謗の表現も含まれているが、資料として読むため、原文のまま掲載した。
 本文の妥当性については、ネット上に様々な知見があり、ご検討いただきたい。
 なお、平井憲夫氏は平成9年1月に58才で逝去されており、福島原発の事故は約14年後に起こっている。

(16) 廃炉も解体も出来ない原発

「一九六六年に、日本で初めてイギリスから輸入した十六万キロワットの営業用原子炉が茨城県の東海村で稼動しました。
 その後はアメリカから輸入した原発で、途中で自前で造るようになりましたが、今では、この狭い日本に一三五万キロワットというような巨大な原発を含めて五一の原発が運転されています。

 具体的な廃炉・解体や廃棄物のことなど考えないままに動かし始めた原発ですが、厚い鉄でできた原子炉も大量の放射能をあびるとボロボロになるんです。
 だから、最初、耐用年数は十年だと言っていて、十年で廃炉、解体する予定でいました。
 しかし、一九八一年に十年たった東京電力の福島原発の一号機で、当初考えていたような廃炉・解体が全然出来ないことが分かりました。
 このことは国会でも原子炉は核反応に耐えられないと、問題になりました。

 この時、私も加わってこの原子炉の廃炉、解体についてどうするか、毎日のように、ああでもない、こうでもないと検討をしたのですが、放射能だらけの原発を無理やりに廃炉、解体しようとしても、造るときの何倍ものお金がかかることや、どうしても大量の被曝が避けられないことなど、どうしようもないことが分かったのです。
 原子炉のすぐ下の方では、決められた線量を守ろうとすると、たった十数秒くらいしかいられないんですから。

 机の上では、何でもできますが、実際には人の手でやらなければならないのですから、とんでもない被曝を伴うわけです。
 ですから、放射能がゼロにならないと、何にもできないのです。
 放射能がある限り廃炉、解体は不可能なのです。
 人間にできなければロボットでという人もいます。
 でも、研究はしていますが、ロボットが放射能で狂ってしまって使えないのです。」


 10月17日、各メディアは、米軍の無人機が殺害した人物のうち9割は別人だったという事実を報道した。
 アメリカのインターネットメディア「インターセプト」が情報機関から入手した機密報告書を公開したのだ。
 平成23年から2年までの間に、米軍がアフガニスタン、イエメン、ソマリアで行った無人機攻撃の詳細によれば、死者がテロリストでないと判明しても、軍の内部では敵として報告されていたという。

 私たちはとんでもない勘違いをしている。
 機械に頼れば何でもきるわけではなく、何でもしてよいわけでもない。
 人間の分をわきまえ、踏みとどまらなければ、この先も、取り返しのつかない過ちを続けるのではなかろうか?
 原発事故によって避難せざるを得なくなった方々13万人の生活を奪ったことも、無人機でテロとは無関係の人々を殺したことも、取り返しのつかない過ちであることを、私たちは本当に肝に銘じているだろうか?

「結局、福島の原発では、廃炉にすることができないというので、原発を売り込んだアメリカのメーカーが自分の国から作業者を送り込み、日本では到底考えられない程の大量の被曝をさせて、原子炉の修理をしたのです。
 今でもその原発は動いています。 (この文章は福島原発の事故よりも前に書かれました)

 最初に耐用年数が十年といわれていた原発が、もう三〇年近く動いています。
 そんな原発が十一もある。
 くたびれてヨタヨタになっても動かし続けていて、私は心配でたまりません。


 また、神奈川県の川崎にある武蔵工大の原子炉はたった一〇〇キロワットの研究炉ですが、これも放射能漏れを起こして止まっています。
 机上の計算では、修理に二〇億円、廃炉にするには六〇億円もかかるそうですが、大学の年間予算に相当するお金をかけても廃炉にはできないのです。
 まず停止して放射能がなくなるまで管理するしかないのです。

 それが一〇〇万キロワットというような大きな原発ですと、本当にどうしようもありません。」


 私たちは、原発がスタートした頃に「耐用年数10年」と危惧されていたことをもう、忘れている。
 いつの間にか、それが何倍にも伸ばされた情報しか流れていない。
 福島の原発事故で、作業する人々の安全とされる被曝量が、みるみる引き上げられたことも、私たちは目の当たりにしている。
 私たちは、福島の原発事故によって、安全であるという〈ことにしておく〉やり方が通用しないと突きつけられた。
 田中俊一原子力規制委員会委員長は、幾度もこうした発言を行っている。

「安全審査ではなくて、基準の適合性を審査したということです。
 ですから、これも再三お答えしていますけれども、基準の適合性は見ていますけれども、安全だということは私は申し上げません。
 これが科学者の良心というものだろう。
 実態を正確に把握し、判断しているプロの矜恃からすれば「世界一安全である」などとは口が裂けても言えないのだろう。
 上記のとおり、基準などは、都合によってどうにでも変えられる。
 都合とは言い換えれば、何を第一にするかということでもある。
 国民一人一人の生活を脅かさない、奪わないことが第一なのか、経済界やアメリカの意向が第一なのか、私たちはそこをよく見ておかねばならない。
 そもそも「安全」とは、人間の生が安らかに全うされる状態ではなかったか?
 原発が安全であるとは、原発にかかわる人々の生が皆、安らかに全うされねばならない。
 車が安全に作られ、安全に運転されれば、運転者も搭乗者も通行人も、その生が安らかに全うされるように。
 科学者が安全を決して言わず、政治家が安全を叫ぶ状況は恐ろしい。

(17) 「閉鎖」して、監視・管理

「なぜ、原発は廃炉や解体ができないのでしょうか。
 それは、原発は水と蒸気で運転されているものなので、運転を止めてそのままに放置しておくと、すぐサビが来てボロボロになって、穴が開いて放射能が漏れてくるからです。
 原発は核燃料を入れて一回でも運転すると、放射能だらけになって、止めたままにしておくことも、廃炉、解体することもできないものになってしまうのです。

 先進各国で、閉鎖した原発は数多くあります。
 廃炉、解体ができないので、みんな『閉鎖』なんです。
 閉鎖とは発電を止めて、核燃料を取り出しておくことですが、ここからが大変です。

 放射能まみれになってしまった原発は、発電している時と同じように、水を入れて動かし続けなければなりません。
 水の圧力で配管が薄くなったり、部品の具合が悪くなったりしますから、定検もしてそういう所の補修をし、放射能が外に漏れださないようにしなければなりません。
 放射能が無くなるまで、発電しているときと同じように監視し、管理をし続けなければならないのです。
 

 今、運転中が五一、建設中が三、全部で五四の原発が日本列島を取り巻いています。
 これ以上運転を続けると、余りにも危険な原発もいくつかあります。
 この他に大学や会社の研究用の原子炉もありますから、日本には今、小さいのは一〇〇キロワット、大きいのは一三五万キロワット、大小合わせて七六もの原子炉があることになります。

 しかし、日本の電力会社が、電気を作らない、金儲けにならない閉鎖した原発を本気で監視し続けるか大変疑問です。
 それなのに、さらに、新規立地や増設を行おうとしています。
 その中には、東海地震のことで心配な浜岡に五機目の増設をしようとしていたり、福島ではサッカー場と引換えにした増設もあります。 新設では新潟の巻町や三重の芦浜、山口の上関、石川の珠洲、青森の大間や東通などいくつもあります。
 それで、二〇一〇年には七〇~八〇基にしようと。
 実際、言葉は悪いですが、この国は狂っているとしか思えません。

 これから先、必ずやってくる原発の閉鎖、これは本当に大変深刻な問題です。
 近い将来、閉鎖された原発が日本国中いたるところに出現する。
 これは不安というより、不気味です。

 ゾーとするのは、私だけでしょうか。」



(18) どうしようもない放射性廃棄物

「それから、原発を運転すると必ず出る核のゴミ、毎日、出ています。
 低レベル放射性廃棄物、名前は低レベルですが、中にはこのドラム缶の側に五時間もいたら、致死量の被曝をするようなものもあります。
 そんなものが全国の原発で約八〇万本以上溜まっています。

 日本が原発を始めてから一九六九年までは、どこの原発でも核のゴミはドラム缶に詰めて、近くの海に捨てていました。
 その頃はそれが当たり前だったのです。
 私が茨城県の東海原発にいた時、業者はドラム缶をトラックで運んでから、船に乗せて、千葉の沖に捨てに行っていました。

 しかし、私が原発はちょっとおかしいぞと思ったのは、このことからでした。海に捨てたドラム缶は一年も経つと腐ってしまうのに、中の放射性のゴミはどうなるのだろうか、魚はどうなるのだろうかと思ったのがはじめでした。

 現在は原発のゴミは、青森の六ケ所村へ持って行っています。
 全部で三百万本のドラム缶をこれから三百年間管理すると言っていますが、一体、三百年ももつドラム缶があるのか、廃棄物業者が三百年間も続くのかどうか。

 どうなりますか。

 もう一つの高レベル廃棄物、これは使用済み核燃料を再処理してプルトニウムを取り出した後に残った放射性廃棄物です。
 日本はイギリスとフランスの会社に再処理を頼んでいます。
 去年(一九九五年)フランスから、二八本の高レベル廃棄物として返ってきました。
 これはどろどろの高レベル廃棄物をガラスと一緒に固めて、金属容器に入れたものです。
 この容器の側に二分間いると死んでしまうほどの放射線を出すそうですが、これを一時的に青森県の六ケ所村に置いて、三〇年から五〇年間くらい冷やし続け、その後、どこか他の場所に持って行って、地中深く埋める予定だといっていますが、予定地は全く決まっていません。
 余所の国でも計画だけはあっても、実際にこの高レベル廃棄物を処分した国はありません。
 みんな困っています。

 原発自体についても、国は止めてから五年か十年間、密閉管理してから、粉々にくだいてドラム缶に入れて、原発の敷地内に埋めるなどとのんきなことを言っていますが、それでも一基で数万トンくらいの放射能まみれの廃材が出るんですよ。
 生活のゴミでさえ、捨てる所がないのに、一体どうしようというんでしょうか。

 とにかく日本中が核のゴミだらけになる事は目に見えています。
 早くなんとかしないといけないんじゃないでしょうか。
 それには一日も早く、原発を止めるしかなんですよ。

 私が五年程前に、北海道で話をしていた時、『放射能のゴミを五〇年、三百年監視続ける』と言ったら、中学生の女の子が、手を挙げて、『お聞きしていいですか。今、廃棄物を五〇年、三百年監視するといいましたが、今の大人がするんですか? そうじゃないでしょう。次の私たちの世代、また、その次の世代がするんじゃないんですか。だけど、私たちはいやだ』と叫ぶように言いました。
 この子に返事の出来る大人はいますか。」


 私たちは目前の利便性や金儲けを追い求め、ここまで来てしまった。
 手に負えないモンスターをつくってしまった。
 気づいた以上、今、生きている私たちの手で処置するのが倫理的態度というものではないか?
 最近は天候が荒くなり、原発事故で汚染されたゴミの集積場に降った雨により、放射能が流れ出しているのではないかという不安が高まっている。
 3月20日号の「フライデー」は、東京のあちこちで除染基準を上回る放射線量を計測した結果を載せた。
 それによると、東京ドームの「廃棄物集積場近くにある落ち葉などの堆積物を積み上げた場所」では毎時1.34マイクロシーベルト、除染基準の6倍に近くに上った。
 日本のあちこちに積み上げてある汚染ゴミは、地主たちからの借用機関が過ぎても放置されている。
 原子力行政にたずさわっている責任者たちは、自分の〈在任期間中〉にいったい、いかにして始末をつけようとしているのだろう?
 少なくとも、自分の〈目の黒いうちに〉というのが、公僕の道義的責任というものではなかろうか?

 当山は、平成21年10月25日、ブログ『現代の偉人伝』に「第86話 ─不作為への挑戦・千代田区役所職員加藤哲夫さん─」を書いた。
 千代田区役所職員加藤哲夫氏は、周囲の無視や妨害に負けず、たった一人でコツコツと区内の駐車場を調査し続け、アスベストによる危険性を突きとめ、区民を公害から救った。
 国がようやく動いたのは氏の定年退職後である。
 氏は言う。
「命の問題。今動かないで、30年後に肺がん患者を出したら区民に申し訳がたたない」
 公僕の方々は、この言葉を灯火とすべきではなかろうか。

「それに、五〇年とか三百年とかいうと、それだけ経てばいいんだというふうに聞こえますが、そうじゃありません。
 原発が動いている限り、終わりのない永遠の五〇年であり、三百年だということです。」


 社会の中枢にいる人々は、問題を先送りしたまま、安心して死んで行けるのだろうか?
 子供や孫に恥ずかしくないのだろうか?
 この問いは、選挙民たる私たち一人一人の胸に届くべき問いでもある。

 最後に、カルデラ噴火に触れておきたい。
 日本では過去に幾度もカルデラ噴火と呼ばれる巨大な噴火が起こっている。
 9月15日、NHKテレビは「日本でカルデラ噴火(破局噴火)の恐怖」を放映した。
 それによると、もしも九州で起こったならば、火山灰は北海道東部にまで達するとされている。
 大阪や東京に数十センチの火山灰が降り積もる状況下で、全国の原発はどうやって安全を確保するのだろう?
 事故が発生した原発から、地域住民はいかなる方法でどこへ避難するのだろう?
 いったい、誰が、どうやって事故へ対処するのだろう?
 日本が壊滅するだけでなく、途方もない数の原爆投下が行われたような日本から世界へ拡散する放射能は、人類の生存を許さないかも知れないではないか。
 過去に、いくども巨大噴火が発生し、それによって文明の絶滅が起こったことは歴史的事実である。
 さて、私たちは今、何をなすべきだろうか?




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「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2015
10.17

イエティに学ぶ ―『ヒマラヤの民話を訪ねて』より―

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イエティ(雪男)の故郷〉

 10月6日に書いた茂市久美子著『ヒマラヤ民話を訪ねて』における「前世での行い」を読んだ方々から、他の話も知りたいというご連絡があり、今回はイエティ(雪男)についてご紹介したい。

タルガ村のイエティ

 そもそも昔、イエティは人間のまねをして暮らしていた。

「昔、タルガ村の山には、たくさんのイエティが住んでいました。
 イエティたちは、昼の間、山の岩陰からじっと村人のすることを見て、夜になると村に降りて来て、その日見たことをまねしました。」


 村人たちが昼にジャガイモや大根を掘れば、夜、そのとおりにするので、困った村人たちは一計を案じた。
 戦争によって、殺し合いをさせようとしたのである。
 まず、酒やごちそうを用意して酒宴を行う。
 そのうちにケンカが始まる。
 やがて刀などの武器まで持ちだして戦う。

「大勢の者がばたばたとたおれ、最後に、
『死んだやつは川にもってって捨ててしまえ』
と、一人が叫ぶと、喧嘩に勝った者たちは、倒れている者をみんな川に運んで言って、放り込んでしまいました。」


 もちろん、酒は水で、刀は急ごしらえの模造刀、すべて芝居だが、遠くの山に隠れて眺めているイエティたちは気づかない。
 そして、徐々に効く毒が入った酒と食べものと本ものの刀が用意され、夜が訪れた。
 村人たちの思惑どおりにことが運び、負けた者も勝った者も亡び、村に平安が訪れた。
 しかし全滅はしていなかったのである。

「たった一匹だけ生き残ったイエティがありました。
 それはおなかに子どもを宿していたため村に降りて来なかったイエティでした。
 このイエティは恐ろしいありさまを見て、人間のすることをまねするとどういう目に会うかを知り、山の奧深く身を隠してしまいました。
 今、時々姿を見せるイエティは、この時に生き残ったものの子孫です。」


 この話には考えさせられた。
 村人たちの芝居は、単なる芝居ではない。
 堅く握手をするかと思えば、たやすく戦争を始める。
 私たちは、生き残ったイエティが〈知ってやめにした〉程度のことを、〈知ってなお、続けている〉のではなかろうか?
 自分が勝者になるだろうという身勝手な前提で争いを起こし、争いの敗者へ無慈悲で、同じ過ちを繰り返す。

 冬に向かう時期になると毎年、必ずイエティが話題に上る。
 いるか、いないか、存在の証拠はこれだ、というお定まりのバラエティ番組的パターンに目を奪われるだけでなく、哀しくも賢い母と子に思いをいたしたいものである。




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2015
10.16

Q&A(その12):親不孝が悔やまれる時にはどうしたらよいか? ―正命の救い―

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〈映画『唐獅子牡丹』の高倉健と池部良〉

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〈お釈迦様が悟りを開かれた菩提樹の周辺〉

 若気の至りで愚連隊だったAさんが、ようやく自立するのを待っていたかのように、女手一つで育て上げた母親が病気で急逝しました。
 Aさんは茫然自失、何も手につかず、当山を訪れました。

「身体と心の芯が折れました。
 何もできません。
 ああすればよかった、こうすればよかった。
 なぜ、ああしてやれなかったんだろう、なぜ、あんなことをしたんだろう?
 毎日、悔いてばかりいます。
 酒ばかり飲んでいます。
 もう、わけがわかりません」

 お話ししました。

孝行のしたい時分に親はなし、子養わんと欲すれども親待たず、などと言われているとおり、私たちは大人になると、育ててもらったことなどすっかり忘れてしまいがちです。
 そのうち、不意に親は倒れます。
 子供は悔いる。
 ある意味、仕方のないパターンであると言えます。
 親不孝と言っても、親元を離れ、自立していれば、いつも、お父さんありがとう、お母さんありがとう、と思わずに暮らすのは当然です。
 若いうちは、仕事も遊びも恋愛も、自分の目の前のことに一生懸命やるので精いっぱい。
 何かのおりに、〝ああ、親に育ててもらったおかげだ〟と感謝したり、親の誕生祝いを贈ったりするのがせいぜい。
 しかし、いつか必ず、親が倒れたと知って愕然とする。
 その時、一気に、孝行が足りなかったと気づく。
 これが自然な状態です。
 気づいたなら、自分にできる限りのことをするしかありません。
 もちろん、これで充分という基準はどこにもなく、誠意ある多くの子供たちは〝これしかしてやれない〟あるいは送ってから〝何もしてやれなかった〟と悔いるものです。
 もちろん、やれるだけやったから悔いはない、と自他共に思える方も確かにおられ、頭が下がる経験は少なからずありますが……。

 ドイツ人の意識調査によると、ものごころがついてから19才までは、友人が一番の関心事です。
 それから40才までは伴侶、恋人。
 50才までは仕事。
 70才までは健康、誰かのために役立つこと。
 その後は霊性や自然。
 
 人生がこのように推移して行く中で、親が元気に過ごしていてくれる場合は、自分の健康や利他の行いへ意識がシフトする頃に親の健康や暮らし方に問題が生じたりして、具体的な親孝行をしながら最期まで見届けるといった流れになりますが、人生はそう、順番どおりには進みません。
 失恋で落ち込んでいるところへ不意の連絡が入ったり、仕事に追いまくられているまっ最中に親元へ駆けつけねばならなかったりします。
 多くの方々が親不孝悔いながら生きる日々を体験するのです。
 かつて、高倉健は映画の主題曲『唐獅子牡丹』で唄いました。
『積もり重ねた不幸の数を、何と詫びようかおふくろに』
 小生は、半世紀も前に聴いた歌声がいまでも耳から去りません。
 ややもすればロクでもない時期を過ごさねばならない男性たちは、この歌や映画に〝おふくろ、ごめん〟と心で泣いたものです。
 
 さて、親不孝が当然、みたいなお話ばかりしましたが、決して親不孝を推奨しているのではありません。
 そろそろ、どうしたらよいか、へ移りましょう。

 作家の村上春樹さんは、誹謗や中傷にどう対処しているかと尋ねられて、こう答えています。
『規則正しく生活し、規則正しく仕事をしていると、たいていのものごとはやり過ごすことができます』
 この『やり過ごす』がポイントです。
 自分が親不孝だった、親孝行が足りなかった、と悔いているのは自分です。
 だから、もちろん、自分の問題なのですが、そうした思いは、自分の意志でつくったものではありません。
 自分の心に生じたものです。
 言い換えれば、自分に〈やって来た〉のです。
 それは、村上春樹さんの心へ誹謗や中傷が飛び込んで来たのと、本質的には同じです。
 Aさんにとっては親御さんの死によって自分の心に生じた悔いですが、村上春樹さんにとっては情報としてもたらされた攻撃です。

 そこでAさんは今、悔いに押し潰されそうになっておられます。
 一方、村上春樹さんはどうか?
 淡々と仕事を中心にした生活を続け、情報をやり過ごしています。
 Aさんは、それができないからこうして来ているんです、とおっしゃりたいでしょう?
 でも、きっとできるはずです。
 たとえば、朝、定刻に起きる、決まった手順で歯を磨く、慣れた手つきで顔を洗う、腹具合に応じてトイレへ行く。
 これらは皆、『規則正しい生活』の一部です。
 どうぞ、そのことを意識しながら、明日、起きて、歯を磨き、〝規則正しく歯を磨いている〟と気づいてください。
 同じように、顔を洗い、トイレへ行き、そう気づきながら朝食を摂れば、Aさんを落ち込ませているものはきっと、はたらきを弱めていることでしょう。
 お釈迦様も、私たちが迷わず、過たずに生きる方法の一つとして、規則正しくなすべきことをなす正命(ショウミョウ)を説かれています。
 これは誰にでも可能なのです。
 どうぞ、試してみてください。
 おおげさな話をした割には大した結論でなくてすみません。
 ご加護を祈っています」




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





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2015
10.15

死の悲しみから立ち直る道(その1) ―喪失の現実を受け容れる―

2015092900032.jpg
〈十三仏様に守られた共同墓『法楽の礎』〉

 アメリカの医師で心理学者のJ・ウィリアム・ウォーデン氏は、の悲しみから立ち直るための課題を4つ挙げました。

1 喪失を現実のこととして受け容れること。

2 の悲しみがもたらす苦痛を知り、そのはじめから終わりまでを体験すること。

3 失われたものが失われたままになっている周囲の世界に適応すること。

4 心のなかに失われたものの居場所をつくり、思い出を携えていくことを学び、生き続けること。

 を前にした方やご家族からの人生相談を受け、数多くの方々へ引導(インドウ)を渡し、送った方々と接してきた体験を通して、この問題を考えてみましょう。
 今回は第一番目、喪失した現実の容認です。

1 喪失を現実のこととして受け入れること。

 送った方はどうなるか?
 その振幅には実に大きなものがあります。
 片方の極はこうです。
「どうしても信じられません」
 そして、もう一つはこうです。
「ようやく救われたと喜んでいます」
 後者については、故人がを前にした不安や悲しみや苦しみから解放され、さぞやホッとしているだろうという面が第一。
 そして中には、看取った方々の仲には苦痛から解放されたという安堵感をありのままに語る方もおられ、両面での安心がもらたされればもう、涙混じりの笑顔すら見られます。

 問題は前者です。
 現実を見れば頭ではを確認できているのに、感情がついてきません。
 この場合は、周囲が何を言おうとなかなか感情が転換せず、遺影を前にして〝もう、んだのだ〟と受け容れようとしても、その現実感がないのです。

 妻を突然、亡くしたAさんは1ヶ月経ってもまだ、「女房が朝飯作ってくれるのを待っているんです」と言っていました。
 ボーッとテレビを観ているうちにお腹がすいてどうにもならなくなり、その辺にあるものを食べます。
 掃除も洗濯もできず、見かねた娘さんがたまに手伝いに来ています。
 無意識のうちに死を頭から拒否し、その意識のはたらきが現実全体を覆い、薄膜のかかったような日々を送っていたのでしょう。
 当山では、まず、供養の経典と自作のCDをお渡しし、毎日、お線香を点す時にお経も捧げるように提案しました。
 Aさんが読むかどうかは次の段階で、お任せしました。
 また、奥さんの守本尊様の真言をお伝えし、あの世でも守っていただけるよう祈ることも提案しました。
 運転に気をつけてくださいよ、と、たびたび申しあげもしました。
 四十九日、百か日、一周忌と法要のために本堂へ足を運び、奥さんとご自身の守本尊様の真言を覚え、ようやく、「娘に、あんまり来なくたって大丈夫だと言いました」というところまで回復されました。
 途中、こんな段階もありました。
「いっそのこと、自分もあっちへ行けばいいと思うんです。
 妻のそばに……」
 こんなふうにお応えしました。
「そうですねえ。
 それもいいかも知れませんが、そうなりますかねえ。
 いくら仲がよくても、それぞれが一人の人間として別々な人生を歩んでいる以上、この世で積んだ善い業(ゴウ)も、悪い業(ゴウ)も違うので、同じところへ行ける確率は低いはずですよ。
 お釈迦様がそうおっしゃっているし、因果応報は確かなので、私も自分の因縁に応じたところへ行くのだろうと思っています。
 ダライ・ラマ法王は、心中する二人の行き先について詳しく述べておられますが、それを読んでも、一緒に亡くなってすら、あの世で一緒に暮らせるとはとても思えません。
 ちなみに私などは、妻からたまに、あんたと暮らすのはもう懲(コ)り懲(ゴ)りだと言われ、自分を振り返って見ると、そうだよなと深く納得できるので、あの世で妻を解放してやれば、さぞやせいせいするだろうと思い、拝みながら生活しています」
 お墓参りのたびに立ち寄っておられたAさんは、三回忌を迎える前に、すっかり新たな日常生活に溶け込まれました。

 次回は喪失と向き合うお話です。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IvMea3W6ZP0





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2015
10.14

滅罪と供養に欠かせない光明真言とは?

201510140003.jpg
光明真言を100万遍、唱えた供養塔〉

 滅罪救済を願い、引導を渡し、故人の追善供養を行う際に欠かせないのが光明真言です。
 大日如来の世界から救済の光が放たれるよう祈るものであり、阿弥陀如来の心中と感応するとも説かれています。

1 光明真言を聴くことによる功徳
 過去の罪障が消滅する。

2 光明真言加持(カジ…法力を宿すこと)された土砂へ触れることによる功徳
 故人の罪障が消滅する。
 地獄界や餓鬼界などから救われる。
 極楽浄土へ導かれ、悟りを開くまで浄土から堕ちない。
 過去世から積んだ宿業(スクゴウ)を浄め、病魔を降服(ゴウブク)させ、過去の悪業(ゴウ)に起因する病気を治す。

「おん あぼきゃ べいろしゃのう まか ぼだら まに はんどま じんばら はらばりたや うん」


 この真言は、マンダラの中央に位置する五仏が救済の光明を放つよう祈願しています。

201510140002.jpg
〈四方と中央の五仏〉

・おん:帰依(キエ)する
 すべてを擲(ナゲウ)って救いを求める。
 真理と智慧と慈悲を兼ね備える。
 供養する。

・あぼきゃ:空しくない、ありがたい(→不空成就如来)
 悟りを得て、利他に励み、真実がある。
 
・べいろしゃのう:遍照尊(→大日如来
 時空を貫く光のように不滅の説法と救済を続ける。

・まかぼだら:偉大な印(→阿閦如来)
 五色光で照らし、生きとし生けるものは、そのままで、み仏の世界にあると認める。

・まに:宝珠(→宝生如来)
 如意宝珠の功徳によって現世でも来世でも苦を離れ、この上ない安楽を得る。

・はんどま:蓮華(→阿弥陀如来)
 清浄な蓮華が泥に染まらぬように、罪障が離れ、仏心の蓮華が開く。

・じんばら:光明
 智慧の光明によって衆生(シュジョウ)から無明(ムミョウ…智慧の明かりがないこと)の闇を祓い、浄土へ導く。

・はらばりたや:浄土に変える
 迷いを転じて悟りを開き、凡夫のままで、み仏の子である真姿になる。

・うん:成就する
 この身このままで、み仏と成る。

 この真言はあらゆる仏神に通じるので、寺院でも神社でも心中で、あるいは口に唱え、誠心をお伝えできます。
 また、死者を送る際にも欠かせません。
 だから、もしも真言を何か一つ、覚えたい場合は光明真言が断然、お勧めです。
 ちなみに、小生は、検査のために入院した時の体験が忘れられません。
 予想もできなかったトラブルが続き、若い医師はどうもうまくことがはこべていない様子で、とうとう年配の医師が呼ばれました。
 時間がどんどん経過し、心配な状況であるという判断はあっても、心中で静かに流れている光明真言のおかげで、感情的な不安はまったく生じませんでした。
〝あれ?
 こうして死ねれば問題はないぞ……〟
 思わぬ発見もあったのです。

 以上で、罪障消滅に関する一連の文章を終わります。




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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y





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2015
10.13

阿弥陀如来はどうお救いくださるか? ―ダラニの功徳―

201510130001

 滅罪や追善供養などの法要で『理趣経(リシュキョウ)』と共に、よく用いられるのが「阿弥陀如来根本陀羅尼(ダラニ)」です。

 真言宗の寺院でご本尊様として祀られているみ仏は、多い順に、以下のとおりです。

1 大日如来
2 不動明王
3 観音菩薩
4 阿弥陀如来
5 地蔵菩薩

 このように、西方浄土の教主である阿弥陀如来は、大乗仏教の主尊としてあちこちで祀られています。
 法蔵比丘(ホウゾウビク)という行者が気の遠くなるような長期間、修行を続け、願いが成就した結果として仏陀(ブッダ)となり、極楽浄土を定めたとされ、マンダラでも西の方位に描かれます。
 浄土宗や浄土真宗などでは統一したご本尊様になっています。
 2~3世紀頃には発生した信仰で、人気のあるみ仏の例に漏れず、いくつかの呼び名を持っています。
 無限の光を持つがゆえに「無量光如来」、無限の寿命を持つがゆえに「無量寿(ムリョウジュ)如来」、あるいは無限の安寧をもたらすがゆえに「甘露王(カンロオウ)如来」とも称します。
 真言宗においては、「大日如来はすなわち弥陀、極楽の教主なり」「毘盧(ビル…ビルシャナ如来=大日如来)、弥陀は同体の異名なり」などと説かれ、救い主としてのはたらきに期待されています。

 このダラニは「アミリタ」という言葉を10返、繰り返すので「十甘露呪(カンロシュ)」という異名もあります。
 インドの言葉であるアミリタは「ア…無」プラス「ミリタ…死ぬ」であり、不死をもたらす霊尊は、この上ない安心を与えるので、甘露のみ仏とされました。
 ちなみに、阿弥陀の場合は「ア…無」プラス「ミダ…計られる」であり、計り知れないほどの功徳があるとされ、大日如来にも等しいとされたのです。

 さて、「三宝に帰依(キエ)します」から始まるこのダラニは、最後にとても重要な文言で終わります。
 一つは「キャラマ」、これは業(ゴウ)であり、行為が持つ影響力です。
 悪しき業は必ずいつか、悪しき結果をもたらします。
 他人を傷つけた人はその報いを自分で引き受けねばなりません。
 もう一つは「キレイシャ」、これは煩悩(ボンノウ)であり、私たちを迷わせ、苦しめる根本原因です。
 阿弥陀如来はこれらを滅してくださるのです。
 それは、今現在、抱えている過去の悪業が悪しき未来をもたらさないことであり、悪業を積む原因がなくなれば、これから先も安心であることを意味します。

 また、このダラニは、太陽や雷鳴など、宇宙の動きに呼応するみ仏のお姿を述べており、私たちが一方的におすがりするだけでなく、宇宙にも比すべきみ仏の徳とおはたらきを讃える讃歌のようなすばらしい呼びかけになっています。
 不空(フクウ)が記した「無量寿儀軌(ムリョウジュギキ)」はその功徳を以下のように説きます。

1 十善戒に反した十悪行の罪を滅する。
2 教団から追放される四重禁戒に反した罪を滅する。

  ・殺人戒…殺したり、殺させたりする
  ・盗戒…与えられていないものを自分のものとする
  ・婬戒…性交渉を持つ
  ・大妄語戒…悟りを開いてもいないのに悟ったと言う
3 はてしない無間(ムケン)地獄に堕ちる五無間戒に反した罪を滅する。
  ・母を殺す
  ・父を殺す
  ・聖者(アラカン)を殺す
  ・仏身を傷つけ出血させる
  ・教団の和合を乱し分裂させる

 もし、一万遍唱えれば、悟りを求める心と、深く静まった安心の境地が揺るがぬものとなります。
 そしてこうなります。
「この身このままで、満月のような菩提心(ボダイシン)が皎々と心中に照り渡る。
 臨終の時には、阿弥陀如来がたくさんの仏菩薩と共に行者のそばへ来て、心身を安楽にさせ、やがては極楽浄土で菩薩の位に昇る。」
 Aさんが最期に「住職さん、こんな私ですがどうか極楽へお導きください」と握った手に力をこめられたおりの感触は忘れられません。

 もし、皆さんがご葬儀のおりに、何度も何度も「アミリタ」という言葉が出てくるやや長いダラニを耳にされた際は、阿弥陀如来根本陀羅尼である確率が高いと思われます。
 私たちは、それと意識しなくても、とっさに嘘をついたり、つまらぬことでカッカしたり、戒めを守り、誰かを傷つけているものです。
 せっかく尊い陀羅尼を耳にする機会を得たなら、真剣に聴くのは大切な姿勢であり、少なからぬ功徳を得られることでしょう。
 あの世の御霊と共に、この世にいる私たちも阿弥陀如来のご加護にあずかりましょう。




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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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2015
10.12

聴き、写経し、読誦し、考えればどうなるか? ―経典による救い―

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〈名取ジャズフェスにおける「ビバップス」 トロンボーン:ジェイジェイ荒〉

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〈ベース:チェンバース佐藤〉

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〈ギター:ベンソン田沼〉

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〈ピアノ:クラーク神谷〉

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〈ドラム:エルヴィン田村〉

 よく、「経典は何が書いてあるのかよくわかりません」というお話を聴きます。
 特に密教関係の経典は悟りの世界がそのままに記述されているので、普段の心身のままでは、なかなか内容を把握できないかも知れません。
 でも、経典を言葉として理解することだけが、み仏の世界へ近づく方法ではありません。

1 理趣経(リシュキョウ)に説かれた功徳

 理趣経には、そのことが明確に説かれています。

A 聴く人の功徳

・諸々の障碍(ショウゲ)を除く

 私たちはよいことを行おうとしても、さまざまな妨害に遭ってなかなか成就へ向かえない場合があります。
 修行の際は「魔が入る」などと言ったりもします。
 しかし、経典をよく耳にしていれば、そうしたものたちが遠ざかるきっかけになることでしょう。
 それは、落書きがきれいに消されている地域には与太者が近づきにくくなることを見ても想像がつきます。
 煩悩(ボンノウ)の穢れを放置しておくのは、落書きがし放題になっている地域の危うさと似ているかも知れません。

・重い罪過(ザイカ)を除く

 濁った池でも、清水を流し込めば、だんだんに透明度を増します。
 悪しき行為による悪業(アクゴウ)の影響力も、善き行為による善業(ゼンゴウ)が増えることにより、相対的に小さくなって、罪過による苦しみに襲われる可能性が消えてゆきます。
 お釈迦様は繰り返し説かれました。
「善いことを行って、悪しき行為の悪影響から離れよ」 


B 読誦し、学び、考える人の功徳

・揺るがぬ安寧が得られる

 経典に親しみ、一句、一行でも心に刻んでいれば、何かのおりにそれが迷いや、落ち込みなどから守り、救います。
 小生も、前掲のお釈迦様の言葉に出会ったからこそ、積み重ねた悪業を怖れず、この道を歩んで来られました。
 この道へ入れなければどうなっていたか、新聞を読むとゾッとさせられることがしばしばです。

・如来の境地へ近づく
 
 仏道修行の最終目的は、この身このままで、自分が本来み仏の子であることに気づき、そのとおりに生きる即身成仏(ソクシンジョウブツ)です。
 経典の存在意義は畢竟、そこにあります。
 
2 お大師様が説かれた供養の功徳 

 お大師様も、追善供養のために、よ『理趣経を用いられました。
 こんな文章が残されています。

「謹んで、亡きご母堂様のために、理趣経写経してお納めし、そこに説かれているところを講演し、曼荼羅(マンダラ)を掛け、できるかぎりのご供物を奉献いたします」

 原文は以下のとおりです。

「謹みて先妣(ピ)のために大三摩耶(ダイサンマヤ)理趣経を写し奉り、ならびに文義を講演し、かねて大曼荼羅を陳列して、随力(ズイリキ)の珍供(チング)を奉献(ブコン)す」

 また、こうも説かれました。

「今日の供養会における施主の方々は、理趣経が何であるかをよく理解し、亡くなられたご母堂様のために、理趣経と尊勝陀羅尼(ソンショウダラニ)などを写経しお納めいたします。
 また、いつも説法の場を設けてきました」

 原文は以下のとおりです。

「今日の施主等よくこの理趣を察し、帰真(キシン…仏界へ帰ること))の先妣のために理趣般若経・尊勝陀羅尼等を書写し奉る。
 かねて法莚を設けて仏経を講供す」

 とにかく、経典に接し、聴き、読むことです。
 実践がなければ何も始まりません。




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「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
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https://www.youtube.com/watch?v=EOk4OlhTq_M





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2015
10.11

熱かったビバップスの「リカード・ボサノヴァ」 ―名取ジャズフェスの名演―

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名取ジャズフェスにおける「ビバップス」  テナーサックス:ゴードン鈴木〉

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〈トランペット:ビクトリー今野〉

 10月11日早朝、朝の仕事を済ませ、8時15分開始の『名取ジャズフェス』へでかけ、『ビバップス』の演奏を聴いてトンボ返りした。
 途中の車内では、ビクトル・ハラのCD『平和に生きる権利』を流した。
 彼は昭和7年(1932)、チリの南部にある農民の家で生まれた。
「百姓の家の生まれですから、民衆のために、工場や鉱山の労働者をも含め、わたしの国の働く人々のために歌うのがわたしは大好きです。」(自叙伝より)
「わたしはギターを持った労働者、民衆の歌い手です。」
 彼は弾圧され搾取されている民衆のために唄い、昭和48年、クーデター勃発の際に虐殺され、40年の生涯を閉じた。
 こんな歌たちに包まれながら、ゆりあげ港朝市へ入った。

 小雨模様にもかかわらず、朝市は大賑わい。
 ソバやさんには行列ができ、活きのよい海産物を買ってバーベキューを楽しむ家族もいる。
 フーフー吹きながら天ぷらソバを流し込み、一番奥の会場に着くと、もう満席状態。
 正面に構えるカメラスタンドのすぐ横にもぐり込み、熟練の漢(オトコ)たちが繰り出すジャズの熱風に浸った。
 彼らは皆、娑婆の職業を持ったプロの仕事人である。
 合間にやる音楽にも表情にも当然、そうした人生の香りや影が表れている。

 いつものように始まった。
 相変わらず、モダンジャズの本道を愚直に進んでいる様子が好ましい。
 特に「リカード・ボサノヴァ」はほとんど神がかっていた。
 なぜか、末期の水ならぬ、〈最期のリカード・ボサノヴァ〉という思いがこみ上げ、これが聴き納めと思われ、涙が流れそうになった。
 まるで、この世とあの世の境が消えるかのようだった。
 最近は、人生相談の方々もあの世へ送る方々も皆、一段と我が身に近く、どん詰まり状態も、あるいはすぐそこにある死も、ほとんど自分のことに思えながらの法務であるせいか?
 それとも、この地で逝った方々の御霊が、弾ける饗宴の懐かしさに憑いて来られたのか?
 もしくは、途中で聴いたビクトル・ハラが、燃えるいのちの熱さに共鳴してよみがえったのか?
 演奏の最高潮にあっては、確かにこの世を超えさせつつあった。
 思えば、ハンク・モブレーが不朽の名作『ディッピン』を吹き込んだのは今からちょうど半世紀前、1965年だった。
 そのレコードは収録曲「リカード・ボサノヴァ」で大ヒットした。
 今日のビバップスは、魂とプレイの熱さにおいて、彼らに勝るとも劣らない一曲を紡いだ。
 サックスは押しまくった。
 トランペットは切り裂いた。
 トロンボーンは柔らかく、かつ、強かった。
 ピアノは歌った。
 ギターは躍った。
 ベースは大地のように支えた。
 ドラムは鼓舞した。 

 帰山しての法務を終え、夜、ハンク・モブレーのテナーサックス、リー・モーガンのトランペットを聴いた。
 さすがに彼らは隙がなく、決まっている。
 しかし、それでもなお、轟くサックス、突き破って舞うトランペットが消えた静寂の中で、ビバップスの演奏を思い出し、また、涙を覚えた。
 確かに、あれはもう二度と聴くことのできない演奏だったのだろう……。

 ビバップス万歳!
 今日、爆発した思いとエネルギーは必ずや、ゆりあげ港朝市の発展に大きな後押しとなったに違いない。




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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
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https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA





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2015
10.11

名取市閖上の被災と教訓 ―東日本大震災被災の記(第172回)―

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 10月10日の寺子屋『法楽館』において、ゆりあげ港朝市協同組合の理事長櫻井広行氏の講話をお聴きした。
 メモを残しておきたい。

○地震発生から津波の閖上到達まで1時間8分あったので、きちんとした防災訓練と情報管理ができていれば、住民5000人中750人が亡くなるようなことはなかったはずである。
 人災的な側面が大きかったことは大いに反省したい。
 たとえば、避難所としてふさわしくないとされていたにもかかわらず、以前の避難所だったからと二階建ての公民館にたくさんの人々が避難し、だんだん津波の大きさがわかってきてから三階建ての中学校や小学校へ逃げようとしたが、この途中でやられてしまった。
 あの時、氏は車で10メートルの津波が来ていることを知り、公民館にいる人たちへ「10メートルの津波が来るぞ!」と数度、叫んだが、さっぱり聴き耳を立ててくれなかった。
 とうとう最後には「車のラジオを聴け!」と二度、叫んで避難した。
 氏は助かったが、呼びかけに反応しなかった多くの人々は逃げ遅れた。

 ○津波にやられると、ご遺体は手足がなくなるという峻厳な事実を、自分や家族に当てはめて想像し、自分たちで実のある防災に努めたい。

○車で亡くなれた方が最も多い。
 その原因の一つに、以前、大被害のあった三陸沖地震のおりにはこれほどの車社会でなく、車で逃げられた経験に基づく防災意識だったことが挙げられよう。
 車社会には車社会ならではの現実的避難訓練がなされていなければならない。
 
○多賀城など、大きい建物が多い場所は、どの方向から津波が来るかわからない。
 とにかく「山へ逃げろ」である。

○南三陸では公民館前の人たちが最も亡くなっている。
 せっかく裏山があってもお年寄りは登れない。
 現実的避難計画が必要である。

○亘理では、松林などで津波が見えず、聞こえず、避難のスピードがゆっくりになった。
 見えなくても、聞こえなくても、できるだけ速やかに逃げねばならない。

防災訓練は「歩け歩け」のイメージでは本当の訓練にならない。
 行政はどうしても、予算を設け、訓練をしたという実績があれば、やったことになる。
 また、防災マニュアルを配れば、指導や告知をしたことになる。
 それでは実際に住民のいのちを救えない。
 いのちを〈行政へ丸投げ〉することなく、危機感の伴う生きた防災訓練を住民がつくり、行政へはたらきかけねばならない。
 その後の地震や台風や高波や氾濫や崖崩れなどの被害状況を見ていると、16000人という死者を出した大災害がちっとも教訓となっていないことを痛感する。

○「自分は高い所にいるから防災訓練は関係ない関係ない」と思わず、関心を持って欲しい。
 自分も家族も、将来どこに住むかわからず、海辺になるかも知れない。
 海辺へでかけていた時など、いつ、どこで遭うかわからないのが災害である。
 防災意識は、どこに住む人にとっても〈我がこと〉である。
 誰が、いつ、どこで遭うかわからない災害について、ぜひ家族などで話し合っておいて欲しい。

○閖上小学校では、帰宅途中の子供たちも皆、校長の決断で学校へ集め、保護者が押し寄せても子供を返さなかった。
 保護者の来ない子供もいたので子供は皆、三階の教室に集め、保護者たちは廊下で待機していた。
 保護者たちの猛抗議で、いったんは、〈点呼のため〉と称して一階の体育館へ下ろそうとしたが、外を見ていた人が津波の到来に気付き、一斉に三階へ避難させ、助かった。
 全員が降りていた後で津波が来ていたらどうなったかわからない。

○志津川の戸倉小学校では、以前、関東方面から赴任してきた校長が「避難は屋上へ」と主張し、地元の先生は「より高い処への避難を可能にするために裏山へ」と主張したが、議論の末、裏山と決まってたので、そのとおりに逃げて無事だった。
 学校はすっかり水没した。
 また、隣の幼稚園も、「小学校へ逃げる」という指導を振り切って、小学校と同じく裏山へ逃げ、助かった。
 縦割り行政による弊害を克服した例である。

防災訓練の旗振り役に、40代の主婦などを起用して、メールを主体とした連絡網を構築したい。
 回覧板はほとんど読まれていないのではないか。
 メールのできない人へは一軒づつ訪ねて印刷物を置けばよい。

○閖上の被災者は、一軒あたり380万円を支給され、死者が出た家庭はプラス800万円である。
 もらうのが当たり前という感覚になってはいないか?
 それでいながら、ボランティアの人たちへお茶もださなかったりする場合がある。
 もう「我々は乞食ではない」と言うべき段階ではないか。
 役に立ちたいと被災地へ人は、モノ金を持ってくるだけではなく、自己主張するのでなく、まず、現地の人の話を聴いて欲しい。
 何に困っているのかをよく聴けば、子供たちと遊んだり、お年寄りの話を聴いたりすることの大切さがわかるだろう。
 ボランティア精神にあふれた人が〈差し出すもの〉と、被災者が本当に〈必要としているもの〉とがあまりにも違っていないか、よく考えて欲しい。

○ゆりあげ港朝市の利用客は、地元の人が2割、他の地域から来る人が8割だった。
 協同組合の組合員50人のうち、店主が亡くなったケースが4人、家族を失ったのが12人、家や工場がやられたのが15人だった。
 しかし、30人が今後も続けたいと願い、イオンの駐車場を借り、たくさんの協力者があって再スタートした。
 避難所で暮らし、避難所には食べものが集まっているが、周囲の地域の人々が食べものに困っておられることに気づき、借りたトラックで集めた食べものを配ったりもした。
 大事なお客様や地域の方々が喜び、買い物客にも、住民にも握手攻めに遭った。
 嬉しくて皆、泣いた。

○カナダからの援助で会館が建つなど、どんどん、応援をいただいた私たちは後を向けない、尻込みできない、笑われたくない。
 だから、商売をきちんとやり、困っている人々を何とかしたい。
 今は9割以上が、他所から来てくださり、全体として被災以前の2倍の規模になった。
 私たちは皆さんのおかげで再スタートできた。
 それぞれが人生をやり直せた。
 私たちは「ありがたい」「ありがとう」を自分の身体で実感できた。


○もう「復興」はいい、自立で進まねばならない。
 復興予算が尽き、ガタンとこないよう、準備せねばならない。

○巨大な堤防を造ったり、大規模な土盛りをして、津波を防御するよりも、逃げる、避ける、通り過ぎて行ってもらう知恵をはたらかせた方がよいと多くの被災者は思っているはずなのに、そうした住民の感覚とはかけ離れた予算の使われ方が目に余る。
 堤防の外側にまで家が建ち、被災した現実をしっかり見つめねばならない。

○めったに来ない津波だからこそ、事実、実態をしっかり伝えねばならない。
 本当に役立つ防災教育・防災訓練が決して欠かせない。

○国からの援助はありがたいが、この先に望むのは、自立し、国の借金を子々孫々へなるべく負担させないよう努力したい、安全・安心の仕組みを作っておきたいということである。

これまで、安全の確保を行政に丸投げしてきたことを強く反省し、地域住民が自主的に防災の方法を考え、自分たちは自分たちで守るという意識で災害に備えねばならない。

○あの日、3時20分に女川が巨大な津波に襲われている報道に接してなお、閖上には「まだ、来ないだろう」「そんなに高いのは来ないだろう」と危機感の薄い住民もたくさんいたという現実を重く見ておきたい。

 櫻井広行氏は、助かり、救われた者として、災害の現実と防災意識の大切さを広く訴え続けたいと願っておられる。
 もはや、氏は願いそのものになっておられる。
 一人でも多くの方々に氏の声を聴いていただきたい。




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2015
10.10

不殺生の心がけ ―与楽、抜苦、ほどを知る―

2015101000012.jpg
不殺生の心を育むもの〉

 不殺生戒には三つのレベルがあるとされています。
 そもそも、仏教では、上品(ジョウボン…上級者)、中品(チュウボン…中級者)、下品(ゲボン…初心者)といった形で説く場合がたくさんあります。
 
 さて三つはどうなっているでしょうか?

1 上品

 とにかく、思いやる心で生きることです。
 それには感謝が出発点になります。
 ありがたいと思う心によって、自分も、誰かがありがたいと思うような行動ができるようになります。
 感謝は清浄な鏡のようなものであり、思いやりは、その鏡が発する光のようなものであると言えるかも知れません。
 そこで、人の子に生まれたならばまず、生み、育ててくれた父母の恩を思い、忘れずに生きましょう。
 また、先生や先輩や上司など、人生の各場面でお導きくださる方々の恩も忘れてはなりません。
 ありがたいと思う心で眺めれば、ネコもカラスも皆、安楽に生きたいと願い、殺されることを怖れ、親は子を養っていることに気づきます。
 慈しみがあるのです。
 だから、生きとし生けるものを悩まさず、傷つけず、殺さず、守り育てないではいられません。

 こうして感謝に導かれれば、誰かのためにならないではいられなくなります。

2 中品

 苦しむ者や死に行く者の悲しみやうたれ、哀れと思わないではいられません。
 また、殺される生きものの声を聞き、姿を見ては、哀れを催します。
 自分の子供を育ててようやく、自分の骨身を削って育ててくれた父母のありがたみが身に沁みます。
 子供や部下を育てる中で、大自然や天地万物が垂れる恵みのありがたさに気づきます。
 私たちは哀れで愛おしい存在です。

 こうした感応する心を大切にし、あらゆるものの本質的な哀れさを知れば、苦を除かずにはいられなくなります。

3 下品

 魚を獲る仕事に就いている人は、むやみに獣を殺さぬようにしましょう。
 獣を捕る人は、水に住む魚などをむやみに殺さぬようにしましょう。
 鳥を捕る人は、虫などをむやみに殺さぬようにしましょう。
 釣りをする人は、網での一網打尽を避けましょう。
 むやみと銃や火器などで生きものを殺さぬようにしましょう。
 山を焼かず、池を涸らさぬようにしましょう。
 昼に生きものを殺さねばならないならば夜はやめ、夜に生きものを殺さねばならないならば昼はやめましょう。

 生きものたちのいのちをいただかねば生きられない私たちは、せめて〈一分の〉を心がけ、恩に報いるようにしましょう。

 これが不殺生戒における三つのレベルです。




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2015
10.09

一湾の潮(ウシオ)しづもるきりぎりす ―山口誓子―

20151009015.jpg
〈暴風の翌朝〉

 昭和24年、山口誓子(セイシ)が48才で詠んだ一句である。

「一湾の(ウシオ)しづもるきりぎりす」

 山口誓子は戦後まもなく、伊勢湾に臨んでいた。

「伊勢湾は,中央に最深処のあるスリバチ型の海である。
 が充ち満ちたとき,伊勢湾は静かで,深さを測り難い感じがする。
 陸地のくさむらに,きりぎりすが啼いているが,そのこえは湾全体ののしずもりに対して伴奏の役を勤めている。
 否,そのきりぎりすのこえが逆に湾全体のを,しずまりかえしているのである。
 一湾にしずもるは巨きな水量であるが,きりぎりすのこえは,かそかなこえである。
 このかすかなものと,この巨きなものとが結びついて,人のこころを和(ヤワ)らかならしめるのである。」

 満の湾内は途方もなく巨大な水量を湛え、ゆったりと鎮まっている。
 圧倒された俳人の足元で一匹のキリギリスが鳴いている。
 声は小さいが湾も天地も覆う。
 鎮まった伊勢湾の潮は、微かな声によってさらに静まり返り、目と耳がつかんだ宇宙的調和は、心をどこまでも和らげる。

 山口誓子は、昭和17年、戦争下で詠んだ。

蟋蟀コオロギ)が深き地中を覗き込む」

 地にいるコオロギが、足の下にある地表の更に下へと意識を向けている。
 見えようのない暗黒を観ようとしている。
 いかに国家が事実を隠し、威勢のよい情報を流そうが、醒めた人の感性まで麻痺させられはしない。
 もう、目線を上げて探す未来はどこにもなく、心の視線は、まだ顕れていない地獄へ向かうのみである。

 その1年前、肺を病んで療養中の一句である。

「露更けし星座ぎっしり死すべからず」

「露の夜更けの星座は一粒一粒磨いたように美しく、それを見てゐると、早く死んでしまつてはならないと思った。」

 この生きる意志がコオロギに乗り移ったのではないか。
 病気と戦争を通り過ぎた生を生きているがゆえに、伊勢湾のしずまりは深々と身に沁みたのだろう。

 昭和63年、87才になったおりの作品である。

廃線路どこまで続く曼珠沙華(マンジュシャゲ)」

 廃線となった線路沿いに曼珠沙華の帯がずうっと続いている。
 秋風はもう冷たさを含んでいる。
 曼珠沙華すなわち彼岸花は、その毒性から死人花(シビトバナ)や地獄花(ジゴクバナ)とも呼ばれるが、多くの人々はお彼岸に咲く「天上の花」として朱色を目に刻む。
 山口誓子は、お迎えの道として眺めていたのだろうか。

 この四句は、醒めた人の勁さを示している。
 観る力、抒情を文字化する力は揺るがない。
 仰ぎ観る思いがやまない。




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2015
10.08

不殺生の人はどうなるか? ―お釈迦様の約束―

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 不殺生戒を念じ、無益な殺生ができない生き方になれば、10の功徳が得られると『大集経(ダイジッキョウ)』に説かれています。

1 どのような生まれをしようと、畏れがない。

 自分の心が慈悲心にあふれていれば、それが周囲の人々に感化を及ぼし、害意を起こさせず、畏れのない平安な日々が送られる。
 しかし、お釈迦様すら二度しか戦争を止められず、故郷の釈迦族は滅ぼされた。
 個々人の善行をたやすく踏みにじる戦争という巨大な悪行はどうしても止めねばならない。

2 どのような生まれをしようと、慈悲心が輝くようになる。


 生きとし生けるものに対して無益な殺生をしないと決心すれば、心中にある仏心が生き生きとはたらき続ける。
 殺生は、貪りか怒りによって愚かな考えが生まれるところに行われる。
 殺すことができず、不殺生戒そのものになって生きれば、貪り、怒り、愚かさが消え、心の核である仏心が遮るものなくはたらく。

3 悪しき習い性を脱する。

 私たちは鉄に錆が生じるのと同じく、悪業(アクゴウ)を積まずにはいられない因縁を背負っているが、戒めに従う清浄な生き方がそうした習い性を削ぎ落とす。
 歯磨きや顔洗いなど生活に習慣的行動があるのと同じく、心にも又、生まれと生活によってさまざまな習慣的はたらきが伴う。
 イジメなどもそうした「パターンの悪しき表れであり、殺せない生き方になれば、無慈悲な考えと行動も消えている。

4 悩みや憂いを離れ、善き決断を行える。

 因果応報の理法により、他のいのちをないがしろにする悪行(アクギョウ)が悩みや憂いをもたらし、善き決断を妨害するが、戒めに従う清浄な生き方は心の黒雲を除き、仏光の中ではっきりとなすべき決断をして善行(ゼンギョウ)に進むことができる。
 悩みや憂いは決して〈外から自分へ襲いかかる〉のではなく、自分の心に生まれ、善心のはたらきを妨げる。
 殺生という最悪の悪行を離れればそれを原因とする悩みや憂いは起こらず、善心は善行を存分に実践させる。

5 寿命をまっとうできる。

 心と環境は互いに影響し合うので、他のいのちを尊ぶならば、自分も生まれ持ったいのち分を尽くして生きられる。
 医師の話を聴くと、感謝し、笑顔を絶やさない人々の中には、科学的判断による確率からすれば考えられないほどの長寿をまっとうする例がいくらもあるという。
 他を慈しまないではいられない心にはきっと、計り知れないほどのエネルギーが隠されているのだろう。

6 神霊のご加護を得る。

 いのちの世界に宿る神霊は、いのちを尊ぶ者を喜び擁護する。
 花に興味のない人は、町並みを眺めても花屋さんが目に入らないかも知れない。
 人であれ、花であれ、山であれ、いのちに不思議さを感じ、精霊や神霊など異次元を感じとれる人はきっと、感得した何ものかから、非日常的なエネルギーをもらえるのだろう。

7 寝ても醒めても安穏で、悪夢に悩まされない。

 戒めに従う清浄な生き方は、周囲から守り育てる徳を集め、護られるので、いつも安心である。
 殺人犯が悪夢にうなされて自白したり、発狂したり、あるいは自殺してしまうといった例は数限りない。
 他者のいのちに手をかけない人には、そういった心配のあろうはずがない。

8 怨みや復讐を受けない。

 殺さず、害さない行いは、周囲に怨みや復讐心を起こさせない。
 日本では5世紀あたりから明治の初めまで仇討ちが社会に認められ、理由の如何を問わず、人を殺せば報いとして殺される可能性が現実的にあった。
 菊地寛著『恩讐の彼方に』は、敵対する同士の心の交流で制度的復讐としての殺人を超越した名作である。

9 地獄界や餓鬼界や畜生界に転生しない。

 慈悲心にあふれている人は、この世でも、あの世でも、殺生と無慈悲の風が吹き荒れる地獄界や餓鬼界や畜生界と縁にならない。
 出口の見えない地獄や、貪りたいの貪れない餓鬼や、咬み合う畜生にならないためには、その最も強力な原因である殺生とまず無縁にならねばならない。
 殺せず慈しむ人は決して、地獄の住人にならない。

10 死後、人間界か天界へ転生する。

 殺し害する心がなければ心身が優しい姿であり、頭に堅い角はなく、口に尖った牙はなく、手に鋭い爪もなく、慈悲心を持った者として生まれ変わる。
 人間界には争いがあり、天界の神々にも他の世界へ行かねばならぬ寿命はあるが、他を傷つける姿をしてはいない。
 あとは、心にも、口にも、手にも武器を持たぬことである。 

 どうでしょう。
 お釈迦様がありとあらゆる仏菩薩を集めてこう説かれたのです。
 共に、不殺生を念じませんか?




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2015
10.07

立ち止まっても感謝すれば歩み出せる ―生きる目的をどこに求めるか―

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〈「毒箭を抜かずして 空しく来処を問い 道を聞いて動かずんば 千里いずくんか見ん」髙橋高温先生書〉
(毒の箭(ヤ)で射られているのにそれを抜かず どこから誰が射たのかなどとうんぬんし せっかく仏道を聴いても実践しなければ 千里先の目的地へは決して到達できない)

 人生相談に来られる方々はどなたも、立ち止まってから、普段とは違う場所へと足を向けます。
 立ち止まる時は、立ち止まらせられている、とも考えられます。
 それは、〈普段どおり〉にやれない状況にぶつかっているからです。

 原因はいろいろあります。
 うまく行かない人間関係、テストの失敗、失恋病気など、何ごともなく過ごしていた日常生活に亀裂が入り、不安に苛まれる時、私たちは立ち止まります。
 未来はどうもよく見えない……。
 そしてようやく自分の足元を見ます。
 ――しばらくぶりに。
 あるいは、初めて。

 そして、「どうすればいいのだろう?」と迷った末に、根本的な問いを発します。
「私は何のために生きているのだろう?」
 答えが出なくて愕然とします。
 さまざまな情報に答を求めますが、得られません。
 家族や友人が答を持っているとも思えず、途方に暮れます。

 こうした皆さんの事情は、ある程度、お察しできます。
 小生も、受験の失敗で人生の目的を見失い(「目的」と手段を取り違えていたのですが、当時は気づきませんでした)、答のない問いを抱きつつ商売をやり、失敗しました。
 中年になってから出家し、また、〈探す旅〉を始めました。
 そして古希(コキ)になってつくづく、私たちは誰でも、〈誰かの何かの役に立っている〉と実感します。
 赤ん坊は100パーセント、家族などの手を借りなければ生きられませんが、その状態でもなお、生きて輝いている小さないのちとして、手をかける人々の希望や勇気などをかき立てます。
 年老いて誰かの介護がなくては生きられなくなったご老人も、「ありがとう」という心と言葉と笑顔によって、誰かの役に立てます。
 青い鳥のように、どこかで待っているのではなく、生きていることそのものに〈生きる目的〉は付随しています。

 かと言って、生きてればいいのか、と無頓着に好き勝手をしてよいとは思えません。
 一人前に社会生活をする大人ならば、生活の仕方、ふるまい方が〈その人〉を表し、その人と社会の関係を決めて行くからです。
 普段、私たちの人生は〈どう生きて行くか〉だと思っていますが、実態は〈どう生かされているか〉だからです。

 どう生かされるかを決める最も根本的なものは、感謝する心のあるなしではないでしょうか。
 感謝の心がある人は、「ありがとう」の言葉一つで、いつでも誰かの役に立てます。
 感謝する→笑顔が返ってくる→心が温かくなる。
 ここに生きる目的は達成されています。
 支え合っているからです。
 支え合わなければ生きられない私たちは、支え合いさえすればもう、存在する目的を探す必要はないではありませんか。

 生きる目的を見失って人生相談に来られる方々の多くが、自分が知らぬ間に誰かの役に立っていることを忘れておられます。
 あるいは役に立てることを忘れているか、気づかないでおられます。

 自分の中にいくら探しても究極的な目的は見つかりません。
 それは誰一人として、自分だけで生きてはいないからです。
 地位も名誉も財産もすべて手段でしかありません。
 それは、病気になったり、年老いたり、失脚したり、騙し取られたりした時、ようやく明らかになります。

 自分探しなどをして、自分に目を向けているだけでなく、むしろ自分を支えてくださっているあらゆるものへ目を向けてみましょう。
 人はもちろん、ネコも、花も、青空や空気さえも支えてくださっています。
 その真実に気づき、「ありがとう」と心でつぶやく時、もう、自分探しも、人生の目的探しも、意識から消えていることでしょう。

 この感謝を保つためには、気づくこと、言葉に出すこと、そして、ネコならなでてやり、花なら水をやり、青空や空気なら環境から汚れを取り除く意識で行動することです。
 そうすれば、立ち止まったあなたはもう、歩み出しているはずです。




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2015
10.07

煩悩が救済力に転換する ―五秘密尊の深意―

2015100600022.jpg
〈真ん中が金剛薩埵、左から欲、触、愛、慢の妃〉

 煩悩(ボンノウ)のエネルギーが自他を救う清浄な力へと転換する様子は『理趣経(リシュキョウ)』の最後に説かれる。

 17段(章)になっている『理趣経』の最終段では「五秘密尊」が説かれている。
 男性尊である金剛薩埵(コンゴウサッタ)へ、「欲」「触」「愛」「慢」の女尊が寄り添う。
 その図は、四苦八苦に苦しみ惑う〈現実世界〉が、そのままに、安楽に満ちた〈悟りの世界〉であることを示している。
 問題はただ一つ、心の転換を起こし、真実世界を感得できるかどうかである。

 さて、女尊は以下のとおり。
・金剛欲明妃…愛欲の矢と射る。
       異性を欲するように、自らが苦を脱し、同時に他者をも救おうと欲する。
       危険な状態に気づかず、なかなか理解しない相手をも必ず救う。
・金剛触明妃…手を差し伸べる。
       異性に触れて相手を確認するように、悟りを体得し、他者を救う。
       迷い、苦しみ、傷ついた相手を抱きしめるように安心させる。
・金剛愛明妃…貪欲な怪魚マカラを付けた幡を持つ。
       異性を愛するように、他者への慈愛を募らせ、愛おしむ。
       相手の状態にかかわらず、苦や穢れを一緒に引き受け必ず癒す。
・金剛慢明妃…両手を堅固な拳に握る。
       異性との愛に満ち足りていのちの炎を燃やすように、いっそう、慈悲を深める。
       存在そのものが不退転の救済力となって力強く歩む。

 こうして「欲」「触」「愛」「慢」の女尊は、男女の性愛といった最も激しくはたらく欲の力をも、自分の悟りと他者の救済のために用いる勇猛心へと転換する。
 転換した先の姿が金剛薩埵であり、女尊たちはそこへ融け入る幻である。

 そして、金剛薩埵は、『理趣経』の「百字偈(ゲ)」に説かれるとおり、衆生を救済する。

・悟りを開いても自分の安楽を求めず、生死流転の世界にとどまり、衆生を救済し続ける。
・相手に応じてはたらく智慧と最善の手段によってあらゆる存在を浄める。
・時には欲をも適切に用いて、漏れなく救い浄める。
・蓮華のようにみ仏の色に染まっているので、欲を用いても欲に染まらず衆生を救う。
 この場合の蓮華はパドマすなわち赤蓮華であり、本来、赤色をしている金剛薩埵は他の色に染まらず、ミイラ取りがミイラになることはない。
・浄らかな大欲(タイヨク…他を利してやまない意欲)と大楽(タイラク…何ものにも揺るがぬ安寧))をもって、自在の力を発揮し、衆生のためにはたらく。

 金剛薩埵は、生きとし生けるものと共に生きる。
 時にはそれぞれが持つあらゆる欲をも適切にはたらかせ、ただ一つの目的である苦からの救済に向かう。
 きれいごとを言いながら導くのではなく、どろどろした煩悩の力すら生かすのである。




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