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2015
11.30

霊性が観る真実世界 ─慈雲尊者の三宝─

20151124033.jpg
〈朝露を受けた生きもの〉

 慈雲尊者(ジウンソンジャ)は説かれた。

三宝(サンボウ)というは、法性(ホッショウ)の世の福縁に従いて現るる姿なり。
 法性が本来明了(ミョウリョウ)なるところより、仏宝が現る。
 法性が本来清浄なるところより、法宝が現る。
 法性が本来平等なるところより、僧宝が現る。
 三宝と説けども、ただこれ一法なり。」


 仏宝法宝僧宝三宝は、真実が福徳ある心に現れた姿である。
 真実には一点の曇りもなく、明らかである様子が、仏として感じられる。
 真実には微かな穢れもなく、清らかである様子が、教えとして感じられる。
 真実にはいかなる分け隔てもなく、平等である様子が、信じる者たちとして感じられる。
 仏法僧と説かれるが、その本体は一つの真実である。

 み仏は、その崇高さを感じとれる人にとっては、疑い得ない。
 真理が説かれている教えは、筋道に狂いがない。
 人もネコもアリも草も、それぞれが等しくこの世を成していることに気づき、敬虔な気持になる者たちにいかなる差別もない。

 問題は一つ、崇高さを感じとれるか、筋道を狂わせないか、お互いさま、おかげさま、と接し合えるか。
 要は、霊性がはたらくかどうかの問題である。

 お大師様は説かれた。

「澄鏡(チョウキョウ)なるときは則ち天祐(テンユウ)響きのごとくに応ず」


 心が鏡のように澄んでいる時は、仏神のご加護がよき心へ響くように降りてくる。
 心を澄ませ、霊性のはたらきを邪魔しないようにしたい。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y





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2015
11.29

Q&A(その16)確執のあった親をどう送ればよいか? ─人生を豊かにするもの─

2015112800052.jpg

 老いた親と容易ならぬ確執のあったAさんが、親の臨終間際を知り、人生相談に来られました。
「どのように送ったらよいか、わかりません」
 お応えしました。
「ただ、送るしかないでしょう。
 去る方は、生き続ける果てに、去って行きます。
 そのこと自体は純粋に個人的なものであり、誰もどうすることもできず、見送るしかありません。
 ただし、肉体としての死は、が遠ざかる〈過程〉として一定の時間、現れるだけで、何もかもが無に帰してしまうのではないことを、貴女もお気づきでしょう。
 問題は、貴女がいかなる気持でそれに立ち会い、〈その後〉を過ごすかにかかっています。
 小生は、いささか不謹慎であると知りながら、小説家西川美和氏作『ディア・ドクター』の言葉が忘れられません。

『親たちが自分たちを見つめて、人生を豊かにしたように、ぼくも親の絶えていくさまを、見つめて人生を肥やしていくんだ』


 不謹慎と言ったのは、誰かの死を自分の役に立てるという行為に、功利的で自己中心的な姿勢があるからです。
 しかし、〈その人の死〉は純粋に個人的なものであり、決して分かち合うことはできません。
 私たちは、そのことそのものに指一本、触れられません。
 斎場に行けば、泣いてお柩にとりすがろうと、冷静に炉の蓋が閉まる音を聞こうと、成り行きは同じなのです。

 でも、だからどうでもよい、と申しあげているのではありません。
 むしろ、おさんの死すらも、貴女とおさんの関係においては〈途中経過〉でしかないことをお考えいただきたいのです。
 おさんの肉体がこの世にある間、貴女にとってのおさんがおられたように、お母さんの肉体がお骨になり異界に住み家を変えても、貴女にとってのお母さんは貴女の心におられます。
 だから、今後、貴女がこれまでの心の苦しみを何とかしたいのなら、いささかも、死を頼りにしてはなりません。
 これは、他者の死を願うべきではないという道徳のお話ではなく、貴女が真に救われるための道筋を一緒に考えているのです。

 さっきの言葉を考えてみましょう。
 貴女のお母さんは、貴女の成長のため、真剣に努力してくださったはずです。
 貴女が今、ここでこうして生きておられるのが何よりの証拠です。
 もちろん、その努力は貴女のためだったはずですが、それだけではなく、貴女の存在がお母さんにとって生き甲斐でもあり、苦労の種でもあったことでしょう。
 育てる過程が、親であるお母さんをも、若い女性から分別ある女性へと成長させたのです。
 そこにある苦も楽もすべてひっくるめて、『人生を豊かにした』と言っているのです。
 貴女の存在は明らかに、お母さんの心の血肉になりました。
 しかもそれは同時に、お母さんの存在が貴女の血肉となってきたことも意味しています。
 この事実に嫌悪しようと、感謝しようと、まず、事実をまっすぐに、客観的に観なければなりません。
 そして、〝──そうだった……〟と真の意味で腑に落ちれば、死に行くという純粋に個人的なお母さんの事情が、貴女にとって何を意味するのか、これまでとは違った見解や感情が立ち顕れるかも知れません。
 こうして貴女にとって何か新しい地平が見えてきたならば、それが『人生を肥やしていく』という言葉の中身なのでしょう。

 数十年にわたるこれまでの関係性は簡単に変えられるものではないでしょうが、ここでしっかり振り返る価値はあります。
 お母さんはやがて、自分で自分の肉体を一ミリも意志のままに動かすことはできなくなります。
 そうなれば、血肉をもらった貴女がやるしかありません。
 何であろうと、人として──。
 そこで、〈してもらう〉他なくなったお母さんに手を差し伸べ、できる限りのことをしてあげる時、貴女は無償の思いやりを実践しておられます。
 しかも、確執のあった相手に対して。
 普通の人生にあれば、そうそう起こらないであろうこうした行為は、必ずや、貴女にとってかけがえのない何ごとかであるはずです。

 私たちは無限の〈おかげ〉で成長し、今を生きています。
 あの世へ行く時も、行ってからも同じです。
 私たちが〈おかげ〉によって存在している以上、私たちも誰かの何かの〈おかげ〉になっているはずです。
 しっかり、役割を果たそうではありませんか。」




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
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「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2015
11.29

無農薬・無肥料の『法楽米』

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 無農薬無肥料で作った『法楽農園』のササニシキ『法楽米』は、残りあと僅かです。
 ご志納金は5㎏1500円、10㎏で3000円が目安です。
 関心がおありの方はお問い合わせください。




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 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
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2015
11.28

12月の行事予定 ─護摩・写経・寺子屋・お焚きあげ─

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〈急に起こされて、やや、迷惑げな顔〉

 平成27年12月の行事予定です。

[第一例祭] 2015/12/6(日)午前10:00~11:00

 護摩法を行います。
 お経の多くが読み下し文なので、内容がとても感じやすく、理解しやすくなっています。
 み仏と万物と万霊をご供養し、願いをかけましょう。
 その月の守本尊様をお讃えする「讃歎経(サンタンキョウ)」は、リズムが良くとても読みやすく、何度も口にしているうちに、だんだんと有難味がわかってきます。
 太鼓と共に般若心経も唱えましょう。
 自由参加です。
 み仏の智慧が輝く護摩の火に身を近づけ、悪しきものは焼き祓い、善き願いへ大きなご加護を受けてください。
 (願い事を書く護摩木供養は1体300円です)
・場  所  大師山法楽寺
・送迎申込 開始30分前に地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡ください。

[書道・写経教室] 2015/12/6(日)午後2:00~午後3:30

 髙橋香温先生の熱意と誠意を感じられる貴重な時間です。
 書道の基本を学び、100文字の写経も行います。
 今年最後の書道教室になります。
 今月は、お正月にそなえたお稽古もしましょう。
 イス席もありますので、お気軽にご参加ください。
・場  所  大師山法楽寺
・指  導  高橋香温(温子)先生
・ご志納金 1000円(未成年者500円)
(毎月第一日曜日午後2時から開催します)
・送迎申込 開始30分前に地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡ください。

[第七十回寺子屋『法楽館』 ―原発から脱する道─]
 2015/12月12日(土)午後1:30~3:30

 車座の雰囲気で共に、み仏の教えなどを学び、対話をしています。
 記念すべき第七十回は、原発問題をとりあげます。
 あの日以来、故郷から切り離された福島県民、そしてその人生にかかわるご家族など膨大な方々があの日に続く日々を苦しみつつ生き、亡くなってもおられます。

 昭和30年、核兵器の脅威に世界中が気づき、哲学者バートランド・ラッセルと理論物理学者アルバート・アインシュタインが提唱者となり、湯川秀樹博士を含む11人の連名で世界へ呼びかけられたのが『ラッセル・アインシュタイン宣言』です。
 それは、このように始まります。

「人類が直面している悲劇的な情勢の中、科学者による会議を召集し、大量破壊兵器開発によってどれほどの危機に陥るのかを予測し、この草案の精神において決議を討議すべきであると私たちは感じている。
 私たちが今この機会に発言しているのは、特定の国民や大陸や信条の一員としてではなく、存続が危ぶまれている人類、いわば人という種の一員としてである。」


 それから60年経った今、「カタルーニャ国際賞」を受賞した小説家村上春樹氏が平成23年6月に行った血を吐くような歴史的発言が世界から注目されています。

「私たちは技術力を総動員し、叡智を結集し、社会資本をつぎ込み、原子力発電に変わる有効なエネルギー開発を国家レベルで追求するべきだったのです。
 それは、広島と長崎で亡くなった多くの犠牲者に対する私たちの教え子的責任の取り方となったはずです。
 それはまた我々日本人が世界に真に貢献できる大きな機会となったはずです。」


 村上春樹氏は、核が人間の手に負えない代物であることが明白であるにもかかわらず、あたかも事故はなかったかのごとく経済優先に走る社会へ重ねて警鐘を鳴らすべく、「原子力発電」という言い方を、実態に即した「核発電」に言い換えようと提言しました。
 当山も普段、この呼称を用いています。
 核兵器も核発電も、地上にあってはならないものであることを深く認識したいものです。

 しかし、烈しい警鐘の乱打はすでに忘れられかけています。
 女川原発問題に深い関心を持って行動して来られた鈴木宏一弁護士が真正面から真実と向き合うお話を、共に聴き、論議しましょう。
・講  師 弁護士鈴木宏一先生(平成13年度日本弁護士連合会副会長・仙台さくら法律事務所所属) 
・場  所 日立システムズホール仙台(旧旭ヶ丘仙台青年文化センター)和室(イス席もあります)
・参加費 1000円

[煤払い] 2015/12/19(土)午前10:00~11:30

 ご参加をお待ちしております。

[第二例祭] 2015/12/19(土)午後2:00~3:00

 護摩法を行います。
 お経の多くが読み下し文なので、内容がとても感じやすく、理解しやすくなっています。
 み仏と万物と万霊をご供養し、願いをかけましょう。
 その月の守本尊様をお讃えする「讃歎経(サンタンキョウ)」は、リズムが良くとても読みやすく、何度も口にしているうちに、だんだんと有難味がわかってきます。
 太鼓と共に般若心経も唱えましょう。
 自由参加です。
 み仏の智慧が輝く護摩の火に身を近づけ、悪しきものは焼き祓い、善き願いへ大きなご加護を受けてください。
 (願い事を書く護摩木供養は1体300円です)
・場  所 大師山法楽寺
・送迎申込 開始30分前に地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡ください。

お焚きあげ 2015/12/26(土)午前10:00~11:00

 お不動様のご縁日に、お不動様の前で「供養会」を行い、「お焚きあげ」を行います。
 人形や手紙や写真や時計、あるいは御守や御札や仏壇や神棚など、燃えるものも、燃えないものも大丈夫です。
 一緒にお不動様のお経を読み、真言を唱えましょう。
お焚きあげをご希望の方は、必ず電話などで日時を連絡の上、お品をご持参、あるいはお送りください。
 当日とは限らず、いつでも結構です。

[機関誌『法楽』の作製] 2015/12/28(月)午前9:00~

 講堂にて、機関誌『法楽』を作り、機関紙『ゆかりびと』と共に発送しますので、ご協力をお願いします。
『実語教・童子教』も共に学びましょう。
 おかげさまにて、『法楽』は第312号、『ゆかりびと』は第174号となります。
・場  所 法楽寺講堂
・日  時 毎月、最終月曜日に行っています。

[隠形流(オンギョウリュウ)居合道場]

 仏法に生きる身と心をつくるために行います。 
 九字を切り、守本尊様のご加護をいただく密教独自の剣法です。
 高齢者の方々や女性が多く、厳しいながらも和気藹々(ワキアイアイ)と稽古しています。
 入門ご希望の方は、事前に連絡の上、まず、見学してください。
・日  時 毎週金曜日 午後7:00~9:00
・場  所 仙台市旭ヶ丘青年文化センター

◎清掃奉仕の日

 毎週金曜日、ご縁の方々が最も多くおでかけになられる土曜・日曜の前日に、境内地などの清掃や草取りなどを行います。
 皆さんのご都合に合わせて、何時でも自由にでかけられ、大きな徳積みをされてはいかがでしょうか。
 その日ごとに作業のポイントを貼り出しますので、ご覧の上、どうぞご参加ください。
 どなたでも参加できます。
・日  時 毎週金曜日午前9時~午後5時
・場  所 法楽寺境内地など

◎映画『波伝谷(ハデンヤ)に生きる人々』

 当山で上映するわけではありませんが、ご縁があり、ご案内を行っております。

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〈公式サイトよりお借りしました〉

 東北沿岸部が地震と津波で破壊され尽くす以前の3年間、この土地に根差し、日常生活を送る人びとの真摯な営みが記録されていました。
・公開日:12月12日~25日 午前11時より
・場所:櫻井薬局セントラルホール(仙台市青葉区中央2ー5ー10 桜井薬局ビル3F ℡022-263-7868)
・入場料:前売─1300円、一般─1600円、大学・専門─1100円、60才以上─1100円、高校生以下─1000円
・公式サイト:http://hadenyaniikiru.wix.com/peacetree
《我妻和樹監督より》
 震災後、被災地を舞台にしたドキュメンタリー映画が数多く作られましたが、本作は、今「被災地」と呼ばれている場所にかつてどんな人の営みがあったのか、それを伝えることができる世界でも唯一無二の作品です。
 そこには震災という大きな出来事を含め、時代の波に翻弄されながらも懸命に生きる人びとの普遍的な生き様が描かれています。




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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
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2015
11.27

ご祈祷はどのように行われるか? ─不思議なことが起こる時─

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 11月26日、重度の糖尿病にかかっている今井駿くん(当時7才)にインシュリンを投与させず、手かざしなどの祈祷で治そうとして結果的に死へ至らしめた会社役員近藤弘治容疑者(60才)が逮捕された。
 当病平癒などの超能力を持つ龍神であると自称していたらしい。
 こうした事件があると、いわゆる〈科学的〉とみなされる事象しか信じない方々から祈祷は一段と見下げられ、侮られる。
 日々、ご祈祷を法務の一つとしている立場から、少々述べてみたい。

 小説家村上春樹氏は作品中に超現実的な場面を多々描くものの、「基本的に信じていない」と言う。

「まったくないとも信じていないけど、あるとも信じていない。
 そういうことについてあまり考えたりもしない」(以下の引用は『村上春樹河合隼雄に会いにいく』より)


 こんな氏は、ノモンハンの戦場跡へ行ったおり、慰霊の意識から迫撃砲弾の破片と銃弾をホテルへ持ち帰った。

「夜中にパッと目が覚めたら、部屋が大揺れに揺れているんです。
 僕は完全に目は覚めていたんですよ。
 もう歩けないぐらいに部屋中がガタガタガタガタ揺れていて、ぼくははじめ地震だと思ったのですね。
 それで真っ暗な中を這うようにして行って、ドアを開けて廊下に出たら、ピタッと静まるんです。
 何が起こったのかぜんぜんわからなかったですよ。」


 ご祈祷に出かけると、こうした思いもよらぬできごとに遭うのは珍しくない。
 自死や焼死された方の〈現場〉へ導かれたり、得も言われぬ力で祈祷や供養の修法を邪魔されたりなどは日常茶飯事である。
 ご来山された方へ直接、法をかけるご加持などにあっては、受者が自分で言おうとしてもいないことを言い始め、ようやくご自身の本心を解放して泣いたりされる。
 だから、ノモンハンの話には、〝そうだよね〟と思うしかない。

 氏はできごとを総括する。

「これはぼくは、一種の精神的な波長が合ったみたいなものだろうと思ったのです。
 それだけ自分が物語のなかでノモンハンということにコミットしているから起こったのだと思ったのですね。
 それは超常現象だとかいうふうに思ったわけではないですけれども、なにかそういう作用、つながりを感じたのです。」


 対話している臨床心理学者河合隼雄博士は述べた。

「そういうのをなんていう名前で呼ぶのか非常にむずかしいのですが、ぼくはそんなのありだと思っているのです。
 まさにあるというだけの話で、ただ、下手な説明はしない。
 下手な説明というのはニセ科学になるんですよ。
 ニセ科学というのは、たとえば、砲弾の破片がエネルギーを持っていたからとか、そういうふうに説明するでしょう。
 極端に言うと、治療者として人に会うときは、その人に会うときは、その人に会うときに雨が降っているか?
 偶然、風が吹いたか?
 とかいうようなことも全部考慮に入れます。
 要するに、ふつうの常識だけで考えて治る人はぼくのところへ来られないのですよ。
 だから、こちらもそういうすべてのことに心を開いていないとだめで、そういう中では、いま言われたことはやはり起こりますよ。」

 
 そして、〈全部考慮に入れる〉のは、勘をはたらかせることに通じて行く。
 たとえば電車の中で「ちょっと荷物をお願いします」という時に頼むのは「確かな人」と覚しき相手だが、一瞬にしてその判断ができ、しかもまちがっていないなら、判断の根拠はどこに求められるか?

「自分の人生経験というものをふまえて、そのときの状況でパッと全体的な判断を下すわけです」


 小生も、混み合う大衆食堂で席を確保しつつ料理を受け取りに席を立たねばならず、見知らぬ人へ荷物を託す場合、とっさの判断が必要になり、〈確かな人〉に頼めれば、結果がでないうちから安心できる。
 瞬時に「全体的な判断」をするしかないし、それはなぜか狂わない。

 村上春樹氏に戻るが、氏はノモンハンに「コミット」すなわち関わり合うことに没入していたからこそ、「つながり」が生じたのだろう。
 河合隼雄博士は、知人が亡くなった夢を見た時、それが「確か」だと思える場合と、そう思えない場合があり、夢の中と覚めてからとを問わず、そうした勘はよく当たると言う。
 要は、相手に対する意識が深まり、それが全存在をかけたレベルに達していれば、普通ではない現象が普通に起こり得るのではなかろうか?
 当山の修法においても、お大師様の説かれた即身成仏の修法に入り切れれば、普通でない現象が起こり得る。
 そもそも、「ふつうの常識だけで考えて治る人」は当山へ足を運ばれない。
 博士と同じく行者としての「全部」を総動員してようやく、ご本尊様へおすがりする資格があると考え、修法の修行を続けている。
 当山のご祈祷はこんなふうに行われている。




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2015
11.26

自死に表れた時代の空気 ─教師と僧侶の対話─

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〈ジャズスポット・エルヴィン(宮城県登米市迫町佐沼)様のサブスピーカー〉

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1 将来を属望されていた青年の死

 人格識見に申し分なく順風満帆だったはずの若者が配転先で自死に及び、周囲の方々は驚き、困惑したという。
 原因はパワハラではないかと推測されるものの、彼が追いつめられていたという感触を持っている人は誰もいない。
 あまりの脆さ、あっけなさに、本人をよく知っているAさんが、人生相談に来られた。
「これは、彼の個人的事情だけの問題とは思えません。
 何か現代の病のようなものがからんでいるのではないでしょうか?」
 二つ、気になっていることを申しあげた。

2 自分だけの関心事に絡め取られた容疑者

 一つは11月14日に容疑者の自首で発覚した東京都江戸川区における女子高生岩瀬加奈さん(17才)殺人事件である。
 アルバイトで生計を立てていた青木正裕容疑者(29才)は「生活が苦しくて自暴自棄になっていた。殺したのは興味半分」と供述している。
 絞殺に異常な関心を持っていた容疑者は、実行後、〈普通に〉2日間を過ごしていたという。
 自分が殺した相手の遺体を浴室に放置したまま日常生活を続けていた容疑者は、かねてもっとも関心を持っていた絞殺があっけなく実現し、いわば人生の目的が達成されたかのような放心状態に陥っていたのではなかろうか?
 人を殺す重大さ、それが自分や家族にもたらす苦渋、人生の行く末、もちろん、殺す相手の思い、破壊される人生、そしていのちの愛おしさ、何もかもが、〈自分の関心事〉に対する執着心によって、考慮の外へ追いやられていた。

 今は多くの国民にとって生きにくい時代になったが、敗戦後、半世紀を越える平和のもとで経済の発展に専心して生きた日本は、誰もが生きられる国にまでなった。
 生きるために鍬を取り、網をかけ、工場へ通うといった、生まれた環境における必然的な人生の推移から自由になり、一億総〈自分探し〉が行われてきた。
 立候補した政治家が「自分の人生勝負です!」などと絶叫しても、聴衆が了見の異様さに気づかず、乗せられる国になった。

 誰もが、いつでも、自由に、生き方を選べることは、人として生まれた以上、誰にでも具わった権利であり、そのように生きようとすることは本来、誰にも止められない──、とされた。
 しかし、希望も夢も頭の中でいかに広がろうと、自分の肉体、能力、生まれた環境など、自分を限定する条件の中でまず誠実に生きる先にしか実現し得ないという現実が、あたかも〈ないもの〉であるかのように忘れられ、すべてを選べ、実現できて当然という錯覚が広がった。
 その錯覚は、次々とモノを得させようとする消費社会が助長した。
 モノや金を得た者が自由の体現者として英雄視され、若者たちは、早くそこへ行ける自分なりの道を見つけようと浮き足立った。
 しかし、当然ながら、自分を限定する条件からは誰一人、逃れられない。
 生きつつ体現して行くことの困難さに直面した人びとは、〈自分の関心事〉という王城を築くようになった。
 王城はどんどん頑丈になり、果てしなく〈自分だけの関心事〉となり、王城を守ることがもはや、人生の目的となってしまっている。
 他者はその目的に合致した相手しか必要でなくなり、それに手をかけようとしたり、批判を向ける者は許せない。
 青木正裕容疑者のことは何も知らないが、彼の行動がこうした時代の特徴と無縁であるとは思えない。

3 矛盾や曖昧さを許さない社会

 二つ目は、心理療法家だった故河合隼雄京都大学名誉教授の言葉である。

「人間の思想とか、政治的立場とか、そういうものを論理的整合性だけで守ろうとするのはもう終わりだ、というのがぼくの考え方なのです。
 人間はすごく矛盾しているんだから、いかなる矛盾を自分が抱えているかということを基礎に据えてものを言っていく」


 ついこの間まで、矛盾を抱えた人間同士が主張をぶつけ合う時は、多くの場合、お互いに〈落としどころ〉を考えていたものだ。
 それが〈大人の流儀〉とみなされていた。
 人間や社会の多様性、多面性、矛盾などについて、いまだ体験を通した知に達していない若者たちが論理のみで対決する様子を、大人たちは「まだ若い」と揶揄(ヤユ)したものだ。
 しかし、ほんのわずかな期間に、人間の姿勢と社会の気配が一変した。
 清濁併せ飲むはずだった政治家すら、あらゆる場面を斬るか斬られるかの修羅場とするようになった。
 単純なフレーズで賛成か反対かを問い、勝った多数派は敗れた少数派を相手にしない。
 掲げた論理を絶対視し、「原理主義」と言えば聞こえがよくないので、「ピュア」「本もの」などを標榜する。
 矛盾を包み込みつつ共存をもたらす智慧と思いやりが剥落し、我流の正義同士が戦う殺伐とした光景があちこちで広がっている。

 生身の人間と一対一で向き合う教授には、そうした社会の空気が、〈矛盾した存在である個人〉の心にも白黒、正邪の踏み絵を迫る緊迫した雰囲気と息苦しさを与え、ついには精神を病むところまで来つつある状況がよく見えていたのだろう。
 ここにも、勝者が敗者を見向きもしない弱肉強食の資本主義社会における無慈悲さが色濃く表れている。
 矛盾と曖昧さによってようやく生をつなぐ一人一人も、そうした一人一人によって構成されている矛盾とあいまいさを孕んだ社会も、本来のありようが許されないとしたら、社会はギスギスし、個人の心は傷だらけになってしまう。
 そもそも、矛盾と曖昧さがあればこそあらゆるものが変化しつつ過ぎ行く諸行無常なのであり、物理学もまた、世界が曖昧に成り立っていることを突きとめているというのに……。

 教授の言葉が発せられたのは28年前である。
 とっくに「もう終わり」になったはずの「論理的整合性だけ」を求める各方面の姿勢はますます先鋭化し、私たちはいつの間にか、常に白か黒かと迫られ、誰しもがそうした踏み絵を迫る正義の剣を持った闘士となりかけているのではなかろうか。
 目先の成果を競う経営者や政治家の性急さはその典型と言えるのではなかろうか。
 私たちは本当にこうした社会を望んでいるのだろうか。
 教授の言葉をあらためてかみしめ、一歩、先へ進みたい。

4 子供たちの指導

 こんなことを申しあげたら、Aさんは静かに言われた。
「彼が何とか城の門、いや、せめて窓を開けてくれれば、死なずに済んだかも知れませんね。
 私たちは、自分の城だと思って執着しているものに絡め取られている自分の姿を観る余裕を持ちたいですね。
 今後は子供たちへ、自分の夢を探せ、だけでなく、仲間の夢も大切にしなさい、と指導しようと思います」
 青年はあの世で、このやりとりをどう聴いているのだろうか……。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
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「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。

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2015
11.25

生きるための時間と無常を観る時間 ―『チベットの生と死の書』を読む(7)―

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〈寒風の中で頑張っている木守柿。たった一人で、もう一週間が経ちました 〉

 ソギャル・リンポチェ師の著書『チベット生と死の書』は、生と死を考える人びとへ重要な示唆を与える一冊である。
 伝統仏教の最先端を示し、かつ、最奧をもかいま見せる高貴な魂の結晶である。
 師は「仏法をより近づきやすいものに、現代的、実践的なものにするために著した」とされているが、700ページ近い力作で、なかなか読み通せないかも知れない。
 以下、全体の概要というよりは、いくつかのポイントを挙げておきたい。

 一昔前は、「(人が死んでもいないのに)お墓の話をするなんて縁起でもない」と言われた。
 現在は、生前に建てる寿陵墓(ジュリョウボ)が主流となりつつある。
 そもそも、聖徳太子や秦の始皇帝など多くの指導者は寿陵を造ったが、生前に建墓を行うという感覚が庶民に及ぶまで膨大な年月がかかった。
 もっとも、皇帝の場合は権勢や権威を後世へ伝えるなどの目的があり、庶民は後の世代に負担をかけず、自分の気に入ったお墓を造っておくなどが主たる目的ではある。

1 生を生き、死に備える

 さて、輪廻転生と因果応報を説く仏教は、当然、生と死、両方を観る視点、観点を持っている。
 生きているのは死んでいないことであり、死んでいるのは生きていないことなのだ。
 だから、こう説かれる。

「わたしたちはときに自分を揺さぶり起こして、心底から自問してみる必要があるのだ。
『今晩死ぬとしたらどうだろう。そのあとどうなるのだろう』と。
 明日目を覚ますかどうかも、どこで目を覚ますかも、わたしたちにはわからないのだ。
 あなたは今息を吐いて、次の息を吸うことは二度とないかも知れない。
 死んでいるかもしれない。
 それくらい簡単なことなのだ。」


 普段の私たちは、死を〈ないこと〉にしているが、それは事実を直視していない。
 ここに書かれているとおり、私たちは、もしも次の瞬間に倒れたり交通事故に遭ったりすれば、3日後に病院のベッドで目を覚ますかも知れず、永遠に目を覚まさないかも知れない。
 それらは、予想もしなかった状況ではあっても、〈あって当然〉なのだ。
 だから「簡単なこと」としている。
 死が簡単にあり得るにもかかわらず、〈ないこと〉にしたまま、生のみを見て暮らすのは智慧に欠けると言えるのではなかろうか。

2 バランスをとる

 さて、チベットには有名な「鳩の教訓」がある。
 ある鳩は、一晩中大騒ぎをして寝床を調えていたが、そのまま朝を迎え、寝床は役に立たなかったという。
 元気な人は、死をリアルにイメージし死後に備えるなど、ほとんど誰もやらない。
 目の前のことごとにかまけているが、突然〈その時〉が来ると、何の準備もないままに、それまでやってきたことすべてに終止符が打たれ、何の準備もないままに、たった一人で次のステップへ進まねばならない。
 生へのウェイトがかかりすぎ、死へのウェイトが足りなすぎる。
 バランスがとれていないために、生に対する危険も死に対する危険も生じている。

「現代社会にあって、わたしたちは働いて生活の糧を得なければならない。
 だが、9時から5時の生活にからめとられてしまうべきではないのだ。
 それは生のより深い意味への洞察などとは無縁の生活だ。
 わたしたちの課題はバランスをとること、中庸の道を歩むことにある。」


 9時から5時に全力をかける姿勢について、日本人は胸を張れる。
 しかし、仏教の観点からすれば、真の意味で人生をまっとうするには、それだけで充分とは言えない。
 生きる糧を得る、家族を養う、社会的役割を果たす、いずれもすばらしい生の営みではあるが、それらには必ず「何のために?」という疑問がつきまとう。
 無我夢中でやっている時はそれを忘れていても、病気になったり、挫折したりして毎日のリズムに急ブレーキがかかったならば、必ず顔を出す。
 人生のステージを一段ステップアップする機会がようやく、やってきたのだ。
 気づかないでいたカーテンを開けてみるようなイメージでもある。
 昭和53年、評論家伊藤肇は『左遷の哲学』に、人間を成長させる大きなきっかけとして、闘病・浪人・投獄・左遷を挙げた。
「渇いたことのない人間には、水のありがたみはわからぬだろう。
 何事も当然だと思う心に感謝の念などあるわけがない。
 しかし、当然なことを当然でない、と考えるには、それ相応の苦難をつぶさに味わって、その考えを転倒しなければならない。」

 では生きる努力をする一方で問うべき問いを問い、「中庸の道」を生きるにはどうしたらよいか?
 

「非本質的な活動や興味に手を広げることをやめ、人生をより単純化することを学ぶことである。
 現代の生にほどよいバランスをもたらす鍵は単純さにあるのだ。
 これこそが仏教における行(律を守って修行すること)の真の意味である。
 チベット語で行に相当する言葉は〈ツル・ティム〉という。
 〈ツル〉は『ほどよい、ちょうどよい』ことを意味し、〈ティム〉は『規則』あるいは『道』を意味する。
 つまり行とは、ほどよくちょうどよいことを実践することなのである。
 角に複雑化した現代にあっては、それは生活を単純化することに他ならない。
 そこから心の安らぎがもたらされる。
 精神的なものを求める時間が、精神的な真理のみがもたらしうる知識を求める時間ができる。
 それが死を直視する助けとなるのである。」


 めを守るほどよい生活、精神的な真理を求める単純な生活とはどのようなものか?
 それは、自己中心的な我欲(ガヨク)が主役である9時から5時の生活に対して、それらを離れた時間を持つということではなかろうか。
 我欲を離れ、情操や教養を豊かにする時間を持つ。
 そうすると、その人なりに「精神的な真理のみがもたらしうる知識」が得られる。
 ダライ・ラマ法王の師であるディンゴ・キェンツェ・リンポチェは言った。

「深く見つめてみれば、恒久不変のものなど何もないことがわかる。
 何もだ。
 あなたの身のうぶ毛の一本も。
 しかもこれは理屈ではない。
 あなたがたが本当に知り、理解し、その目で見ることのできるものなのだ。」


 お釈迦様である。

「われわれのこの存在は、秋の雲のようにはかない
 生命の誕生と死を見ることは、舞の動きを見るようなもの
 一生は、空を走る稲妻のように、急峻な山をほとばしる奔流のように
 駆け抜けてゆく」


 ここが観えてくる。
 しかし、すぐに、誰にでもというわけには行かない。
 以下の説明は実に的確だ。

「わたしたちの頭のなかでは、変化はつねに喪失と苦悩に等しいのだ。
 変化がやって来ると、わたしたちは可能なかぎり自分を麻痺させようとする。
 恒久不変は安全をもたらすが、無常はそうではないと、頑固に、疑いもせず決めつけている。
 だが実際は、無常とは、初めて会ったときは気難しげで、落ちつかない気分にさせられても、深くつきあうようになると思いがけず親しみやすく気安いという、そんな人のようなものなのだ。」


 私たちは変化を怖れる。
 根本的に〈しがみつきたい〉からだ。
 自分の身体、財産、恋人、仕事、趣味、何でもしがみつきたい。
 だから無常を排除したい心理がはたらく。
 しかし、真理である以上、排除しきれないし、よく馴染めば「親しみやすく気安い」人のようになる。

無常を知ることが、逆説的だが、わたしたちが頼りにできる唯一のもの、唯一不変の財産なのである。
 このことをよく考えてもらいたい。
 無常は空(ソラ)のようなもの、大地のようなものだ。
 身の回りのあらゆるものが変化し崩れ去っていっても、空と大地はつづいてゆく。
 たとえばあなたが自己崩壊しそうな精神の危機にあるとする。
 ……人生全体がばらばらになってしまいそうだ。
 ……夫が、妻が、何の前触れもなくあなたから去っていってしまった。
 だが大地はそこにある。
 空はそこにある。
 もちろん大地も時には震えることがある。
 何事も当たり前とは思えないのだということをわたしたちに思い出させるために……。」


 無常は空のように、大地のように、自然に、そこにある。
 人も、ネコも、花も、山も教えてくれる。

「ブッダすら死んだのだ。
 彼の死はひとつの教えだった。
 未熟な者、怠惰な者、独りよがりな者に衝撃を与えるための教え。
 万物は無常であり、死は避けられない生の現実であるという真理にわたしたちを目覚めさせるための教え。
 死が近づいてきたとき、ブッダは言った。
『あらゆる足跡のなかで
 象の足跡が最大であるように
 あらゆる重要な瞑想のなかで
 死が最大の瞑想である』」


 物理学者ゲーリー・ズーカフの見解が紹介されている。

「原子内の素粒子同士の相互作用において、もとの粒子が消滅し、新しい粒子が生まれる。
 素粒子の世界は生成と消滅のダンスの世界、質量からエネルギーへの転化と、エネルギーから質量への転化というダンスの世界なのである。
 さまざまな素粒子が束の間のきらめきとして現れては消えてゆき、終わりのない、永遠に新しい世界をつねに創造しているのである。」


 そして「無常」の章は締めくくられる。
 ソギャル・リンポチェ師はよくこうした質問を受けるという。

「こういったことは皆わかりきったことです。
 十分承知しています。
 何か新しいことを話してください」
 師は答える。
「あなたは本当に無常を理解し、実感していますか?
 それをすべての思考・呼吸・行動に取り込んでいますか?
 あなたの人生が変容するほどに。
 次のような質問をあなた自身にしてみてください。
 自分は死につつあるのだということを、他の誰もが、何もかもが、死につつあるのだということをつねに思い出しているか?
 そうであれば、すべての存在に対してつねにあわれみの気持をもって接しているか?
 そして、死と無常に対する理解が痛切で切迫しているあまり、あらゆる時間を悟りを求めることに捧げているか?
 これらの質問に『イエス』と答えることができるのなら、あなたは本当に無常を理解しているといえるでしょう。」


 私たちは、気分として感じただけであっても、無常を知ったつもりになる。
 もちろん、すぐに忘れる。
 また、気づいた無常を〈そこに〉あるいは〈そちら側に〉置きたくなる。
 そうした自己欺瞞のままではならないと説く。
 自己中心的で日常的な努力をするのと同じように、自己中心を離れた世界においても繰り返し、努力したい。
 無常を忘れた時間ばかりでなく、無常を「思考・呼吸・行動に取り込む」時間も持ち、「中庸の道」を歩みたい。




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2015
11.24

崖氷柱(ツララ)刀林地獄(トウリンジゴク)逆(サカ)しまに ─絶望と湧き出づる情感─

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〈ジャズスポット・エルヴィン(宮城県登米市迫町佐沼)様のメインスピーカーは不思議な形状をしている〉

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 明治39年、宝生流能楽師の家に生まれ、5才の時から修行に励んだ松本たかしは、14才で肺尖カタルを患った。
 18才で神経衰弱に罹り、かねて師事していた高浜虚子の門下で俳句の道へ進む。

「崖氷柱刀林地獄逆しまに」


 崖から氷柱が垂れ下がっている。
 どう見てもその鋭さは刀の切っ先だ。
 作者は、病者の目線から逆さに眺めた。
 視点が低いのである。
 すると、氷柱は上から下がっているのではなく、天へ向かって突き立っているではないか。
 林立する刃の群れは、愛欲に狂って落下した者を待つ刀林地獄そのものだ。

 この地獄には刃の葉で覆われた大樹があり、てっぺんで美女が待つ。
 その呼び声に誘われて登ると無数の葉が落ちてきて男を切り刻むが、痛みよりも愛欲が強く、男はてっぺんへ辿り着く。
 しかし、その瞬間、美女は消え、地上で再び呼んでいる。
 痛みの絶頂にいながら、男は樹から降りようとするが、今度は葉という葉が下から男を切り刻み、我を忘れて登り降りする男の苦は永遠に続く。
 こうした者たちの呻きに満ちた刀の林は想像を絶する。
 しかし、作者は瞬時に観た。
 彼自身にこの地獄があったかどうかはわからないが、少なくとも、出口のない地獄は骨の髄まで体験していたことだろう。

枯菊と言い捨てんには情あり」


 菊は咲きつつ枯れ、枯れつつ立っている。
 枯れてなお、いのちの余韻をまとう。
 美が残っている。
 枯れてしまったからと見過ごさせず、言い捨てさせないものがある。
 作者はそれを「情」と詠んだ。
 いのちの勢いに満ちた菊はすばらしいが、死の影に取り込まれ尽くす寸前の菊に、耐え難い愛しさを感じる場合もある。
 死ぬ宿命を生ききる健気さ、去りつつなお、残る生の気配は胸を打つ。

 15才で背骨を傷め、「死ぬに死ねない、生きるに生きられない」まま43年を過ごした写真家倉茂義隆氏は、写真集『43年の夢』によせてこう書かれた。

「『もののあはれ』は『宿命を生かされている生命に対しての愛しい思い』なしには決して存在しない」

「人は絶望に接した時、逆説的にこれまでのとるに足らない日常の総体が重みを増し、烈しい後悔の念とともににわかに光り輝きだし、強烈な世界に対しての狂おしいまでの愛おしさを呼び覚ます感情が惹起される。
 たとえそれが幻想だとしても。
 そのような意識に現れた世界を、苦悩と絶望によって諦観するに及んで見えてくる世界が『もののあはれ』であり、それゆえに苦悩あるいは絶望の体験なくしては実感しがたい感覚で、深く体験したそこに、人間の精神の陰影が現れてくるのではないか。」


 絶望は〈この世を去る〉感覚が伴う精神状態である。
 生と死の境が曖昧になる。
 眼は開いているが半眼であり、もう、死の世界が網膜に映る寸前である。
 松本たかしも、倉茂義隆氏も、そこを体験したのだろう。
 自ら生と死の間(アワイ)に立ったればこそ、松本たかしは「情」をもよおし、倉茂義隆氏は「もののあはれ」をつかまれたのではなかろうか。
 実に、枯菊、残菊は、日本人が持つ深い情感である「もののあはれ」に直結している。

「ふと羨(ウラヤマ)し日記買ひ去る少年よ」


 本屋で日記帳を買い、早く真っ白なページに思いを書きたくて走り去る少年を見た。
 作者にとって懐かしい少年の日は、絶望と苦悩に彩られていた。
 それでも確かに、走り去る少年と同じく少年の心を持っていた。
 走る少年の健康な様子によって、自分の病弱ぶりをあらためて思い出すが、そこにあったのは、あの日の絶望や苦悩ではなく、泣きたくなるほど切ない懐かしさと、過ぎ去った年月への愛おしさではなかろうか。

「崖氷柱刀林地獄逆しまに」

枯菊と言い捨てんには情あり」

「ふと羨し日記買ひ去る少年よ」

 読んでみた松本たかしの句は、眼にした光景の日常的な平凡さと、一気に動く情感の深さとの落差が凄まじい。
 代々江戸幕府に所属した能楽師の家系に生まれ、はからずも弟がその分野で人間国宝にまでなった血筋が関係しているのかも知れない。
 最後にもう一句、この時期の作品を挙げておきたい。

「夢に舞ふ能美しや冬籠(フユゴモリ)」






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2015
11.23

Q&A(その15) ─相続問題などで悶着になった時は?―

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〈ジャズスポット・エルヴィン(宮城県登米市迫町佐沼)様のサブスピーカー用アンプ〉

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〈メインスピーカー用のアンプ群は奧の部屋に納められています〉

 理不尽なことを言われたり、されたりして、どうにも腹の虫がおさまらない時は、まず〈観る人〉になることをお勧めしています。
 たとえば、親の面倒をみることと、遺産相続することなどの絡まりで悶着が起きる場合、時間とお金だけの問題ではなく、家族の歴史が生んだ心理的問題が伏線として動かしがたく潜んでいるケースが少なくありません。
 そこをうまく処理しないと、いくら表面的に妥当な落としどころを探っても、対立や不満は解けません。
 相続人それぞれが子供時代にどう育てられたか、どのように親のすねをかじってきたか、兄弟同士の心理的交流はどうだったか、数十年に及ぶ親と子の心理的関係はどうだったか、さらには、親の生き方や商売と子供の関係はどうだったかなど、無数のファクターが裏にあって一つの主張が形成されます。
 親の生前であろうと、死後であろうと。
 ここで抜き差しならない状態となった時は、相手の主張そのものよりも、相手がそのように主張せなばならない背景をよく考えてみることが大切です。
 心理的〈現場〉から一歩、退がり、第三者的に相手を眺めるのです。
 特に、劣等感、引け目、怨み、弱み、それらを背景とした高慢心、頑なさなどの原因となっているものを冷静に考えてみましょう。

 そうして思考を深めている時は、感情の波が静まっています。
 その作業は、相手だけでなく、自分の人生をも、あらためて智慧の光で照らし出し、結果的にどこか謙虚で、敬虔で、すなおな気持になるものです。
 まず、こうした落ちついた気持ちになって問題に対処しましょう。
 もしもなかなか冷静になれない時には、守本尊様の真言を唱えたり、『般若心経』を読誦したり、あるいは『理趣経(リシュキョウ)百字の偈』を写経したりといった行為が救いとなることでしょう。
 
 よく眺めているうちに、相手がどう〈困っているか〉がわかります。
 理不尽な主張をする人は、たとえ態度がどうあろうと、金銭的にどうであろうと、必ず精神的に困っています。
 そこが見えた時、痛めつけられ、傷つけられたと感じている側としては、まず、相手に対して軽蔑や、卑下や、侮りや、怒りなどの心が起きるでしょう。
 当然です。
 でも、澄んだ心の鏡に映し出された相手の心を眺めていると、やがて、哀れみが湧いてくるかも知れません。
 そうなれば、具体的な解決に一歩、進んだことになります。
 こちらの条件を譲る下地ができたからです。

 このように、〈観る〉という作業はとても大きな恩恵をもたらします。
 まとめてみます。

 第一に、感情的にならず、事実が正確に把握できる。
 第二に、後で後悔するようなバカな結論へ至らずに済む。
 第三に、自分自身をも振り返る貴重な機会になる。
 第四に、客観的視点を持つ人生修行になる。
 第五に、相手から来たものに対しての反応という形ではなく、自分自身の心眼で相手との関係を確認できる。
 第六に、相手を否定する気持だけでなく、相手を包むような気持も湧いてくる。
 第七に、自分の気持が変わることによって、具体的な解決へ向かう新たな局面が生まれる。

 どうでしょうか。
 頭に血が上り、〝──どうしてくれよう……〟とカッカしている状態と比べてみましょう。
 打ちのめされ、〝──なんて酷い目に遭うんだろう……〟と打ちのめされている状態と比べてみましょう。
 感情に負けて、できなそうな時は友人や先輩など、本当に親身になってくれる心と、客観的に観る智慧を持った誰かと一緒に考えてみるのも一法です。
 どうぞ、感情に負けず、よい道を見つけられますよう。
 



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「おん あらはしゃのう」
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2015
11.22

蕨野行・生類の都 ─寺院へ求められているもの─

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〈ジャズスポット・エルヴィン(宮城県登米市迫町佐沼)様のサブスピーカー周辺〉

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〈サブスピーカーは自作の管球アンプで輝きある音楽を奏でます〉

 11月21日、「ゆかりびとの会」の役員会を行いました。
 来月は煤払いなので、実質的に今年最後の会議です。

1 役員会と蕨野行

 「住職の話」のコーナーで、皆さんが一番、心配しておられると覚(オボ)しき後継者への引き継ぎなどについて、状況報告を行ったところ、数名の方々から、口々にたしなめられました。
 皆さんが求めているのは、早く引き継いでもらうのではなく、この山里で、一日でも長く住職と一緒にご本尊様のご加護で過ごす時間を持ちたいことなのだから、無理を重ねないで、皆さんと一緒に年をとって行けるよう自重・自愛して欲しいとのご要望です。
 眼の覚める思いでした。
 そして、皆さんと共に寺子屋で観た映画『蕨野行(ワラビノコウ)』がよみがえり、お話を続けました。

「映画『蕨野行』を思い出します。
 土台は村田喜代子さんの小説ですが、還暦になると自主的に村外れの丘から山へ入り、定期的に里へ下りてきて、手伝いができるうちはその対価で生き、動けなくなったなら、そのまま蕨野で死ぬというものでしたね。
 生産活動を行わない掟ではあるものの、里と同じような男女それぞれの生活があり、人間が他の生きものたちと同じように節理に身を任せる成り行きは、ある意味、理想的にも思えました。
 現実的には、人生観は人さまざまだし、皆さんそれぞれの生活で役割も異なっているでしょうから、今の時代に適用はできませんが……」

 シーンとして、いきなり湿っぽくなりましたが、人間として心から信頼できる同士で、お迎えが来るまで〈共に過ごしたい〉という皆さんのお気持は、深く深く心へ沁み入りました。
 後継ぎへ任せたなら、また、どこかで、托鉢の生活に入るなどのイメージを持っていたことが自分勝手であり、無責任でもあると気づき、恥ずかしく思えました。
 結局、会議は思いがけない方向へ動き、住職と役員以外の方々も含めた皆さんとがフリーで談話できる時間を設けよう、そのために、一ヶ月のスケジュールを見直そう、という結論に達しました。
 新しい年を迎えようとする時期に、こうした気づきを与えていただき、まことにありがたいと言うしかありません。

2 石牟礼道子氏の「生類の都

 さて、どうすればよいか?
 皆さんの顔を思い出しながら眠りに就こうとした時、石牟礼道子氏の「生類(ショウルイ)の都」という言葉がよみがえりました。
 88才になる氏は、水俣病が発症した地に、人間だけでなく、キツネやタヌキ、ススキや萩や彼岸花なども共に生きる「生類の都」を創ろうとしておられます。

「今の日本は、東京に都がありますが、そこは、生類の都ではありませんから、生類の都を復帰させることが、私の願いです。
 他者のことを思いやる心が結ばれていて。」

「私は、人間という言葉は使いたくありません。
 人間も含めて全て生類で、私は、生類たちには魂があると思っています。」

「魂があるから、ご先祖を感じることができるでしょ。
 みんなご先祖を持っているわけですね。
 それは人間だけでなくて、草や木にも魂があって、いつでも先祖帰りをすることができる。
 それは、美に憧れるのと同じだと思います。
 美しいもの、よりよいものに憧れる……、そう私は思っていまして。」(『風の旅人 第48号』より)


 映画『蕨野行』は人間の物語ですが、里から離れ、野にある人間が蕨と同じ生類として自然の中で生き、自然へ還る物語でもあります。
 あの蕨野は「生類の都」ではなかったか……。
 役員会の皆さんの思いにもまた、こうしたイメージがあったのではないか?
 それは、雑木林を切り拓き、ユンボを操縦して境内地を整備し始めた時の小生の願い「ここに元々棲んでいた生きものたちがなるべく戻って来れるような場にして、追い出した生きものたちへの罪滅ぼしをしたい」に通じています。

3 来年へ

 役員の皆さんから、来年へ向けての貴重なご示唆をいただきました。
 この境内地、『法楽農園』、『みやぎ四国八十八か所巡り道場』を小さな「生類の都」として整備して行きたいと、あらためて思います。
 そして、ここで、足を運び、あるいは心を向ける方々の心といのちが解放され、よみがえり、瑞々しさを取り戻していただければ、それは、心の平安と社会の平和に小さな貢献となるのではないか。
 足元を照らしつつ、皆さんの願いと共に進みたいと願っています。




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





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2015
11.21

平和への道は思いやりと包容力 ─アントワーヌ・レリス氏、シャルリー・エブド─

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 パリ在住の仏人映画ジャーナリスト、アントワーヌ・レリス氏は、11月13日のパリ同時多発テロで妻を失った。
 しかし、テロリストたちへ対し、フェイスブックで以下のメッセージを発している。

「金曜の夜、君たちは素晴らしい人の命を奪った。
 私の最愛の人であり、息子の母親だった。
 でも君たちを憎むつもりはない。
 君たちが誰かも知らないし、知りたくもない。
 君たちは死んだ魂だ。
 君たちは、神の名において無差別な殺戮をした。
 もし神が自らの姿に似せて我々人間をつくったのだとしたら、妻の体に撃ち込まれた銃弾の一つ一つは神の心の傷となっているだろう。

 だから、決して君たちに憎しみという贈り物はあげない。
 君たちの望み通りに怒りで応じることは、君たちと同じ無知に屈することになる。
 君たちは、私が恐れ、隣人を疑いの目で見つめ、安全のために自由を犠牲にすることを望んだ。
 だが君たちの負けだ。
 プレーヤーはまだここにいる。

 今朝、ついに妻と再会した。
 何日も待ち続けた末に。彼女は金曜の夜に出かけた時のまま、そして私が恋に落ちた12年以上前と同じように美しかった。
 もちろん悲しみに打ちのめされている。
 君たちの小さな勝利を認めよう。
 でもそれはごくわずかな時間だけだ。
 妻はいつも私たちとともにあり、再び巡り合うだろう。
 君たちが決してたどり着けない自由な魂たちの天国で。

 私と息子は2人になった。
 でも世界中の軍隊よりも強い。
 そして君たちのために割く時間はこれ以上ない。
 昼寝から目覚めたメルビルのところに行かなければいけない。
 彼は生後17カ月で、いつものようにおやつを食べ、私たちはいつものように遊ぶ。
 そして幼い彼の人生が幸せで自由であり続けることが君たちを辱めるだろう。
 彼の憎しみを勝ち取ることもないのだから。」


 自立した魂が輝いている。
 憎悪はどこからでもなく、自分の心から発するという真実に立ち、それを断固、拒否している。
 憎悪の地獄に堕ちない毅然とした霊性が息づいている。
 
 お釈迦様は、自分も説法の旅へ出たいと願い出た弟子へ、無視されたり、殴られたりといった迫害を受けた場合にどう対処するかを訊ね、いかなる場合も怒ったり、憎んだり、争ったりしない覚悟のほどを確認した上で、許可したとされている。
 忍辱(ニンニク)という不動心を保つ修行こそがあらゆる修行の〈尊〉であると説かれた。

 仕掛けられた側が動じなければ、仕掛けた側の思惑は無化され、仕掛けは無為に終わる。
 ガンジーの非暴力・不服従運動はその典型である。
 ガンジーも、アントワーヌ・レリス氏も、洋の東西を問わぬ宗教が持つ強さ、芯を教えた。

 一方、フランスの風刺週刊誌シャルリー・エブドは、18日号で、テロを批判する風刺画を掲載した。
 現地には評価する声も批判もあるが、一定の評価はしたい。
 幸いにも、ムハンマドやアッラーが登場していないからだ。
 1月7日のシャルリー・エブド襲撃事件に何かを学んだのではなかろうか。
 自由という錦の御旗を絶対視して、いつでも、どこでも、いかようにも掲げるのが正義であるという頑なさがいくらかでも緩和されたのなら、社会の平安に一歩、前進したはずだ。

 争いや戦争を起こさせないのは正義の力ではない。
 すべての戦争は、正義を標榜する。
 平和と安寧をもたらすのは、個人的にも、社会的にも、国家的にも、政治的にも、宗教的にも、傲慢さと頑なさを離れた思いやりであり、包容力である。
 フランスは悲劇の体験をしたが、アントワーヌ・レリス氏も、シャルリー・エブドも、私たちへ大切なことを教えている。
 私たちが本当に平和を望むなら、多様な宗教、思想、文化、社会システムを尊重し合う〈共存〉〈共生〉しか方法はない。
 そのために最も必要不可欠なのは、霊性に発し自立心に裏打ちされた思いやりであり、包容力だと思う。




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2015
11.20

自分で自分の戒名を考える話 ─戒名が降りる時─

201511200001.jpg
〈浜の叫び〉

 これまで、生前戒名を自分で考える方々とのご縁がいくつか、あった。
 皆さん、おずおずと言われる。
「私は自分で考えているんですが、いいでしょうか?」
 あるいは、ご遺族から訊かれる。
「実は自分で戒名をつけていたんですが、お葬式をしていただけるでしょうか?」

 戒名戒律と共に授かる名前である。
 戒律そのものになる新たな存在が、清浄なみ仏の世界から授かる名前である。
 この世で授かれば、僧名となり、あるいは生前戒名となる。
 多くは、あの世の住人となる旅立ちに際して、旅人を特定する戒名となる。

 そうした戒名は、ご本尊様から授かるしかない。
 だから当山では、ご本尊様と一体になる法を結び、降りた戒名をお伝えしている。
 住職が〈考えついた〉ものではない。

 ならば、皆さんが〈考えた〉戒名は無効か?
 もちろん、どなたも、ご本尊様と一体になる法を結んでなどはおられない。
 しかし、当山とご縁になられた方々はどなたも、真剣そのものである。
 
 そもそも、私たちはすべて、み仏の子である。
 その本性が隠れ、自己中心で生きている日々にあって、み仏の子そのものに成り切る瞬間は誰にでも、無数にある。
 ──小さな子供がアリを避けて歩く時。
 ──少年がお祖母ちゃんの荷物を持つ時。
 ──ドライバーが進路を譲る時。
 ──腰の痛みに耐えながら、自分に信頼しきっている入所者を介護士がお風呂へ入れる時。
 何も劇的場面とは限らない。

 さて、自分の戒名を考えている時はどうか?
 やはり、み仏の子になっておられるのではないか?
 死後を想い、いろいろあった人生を振り返るご自身の魂の奥底に、ようやく、しかし確かに、仏性を観ておられないはずはない。
 やがて、み仏の世界から文字が授かる。
 その瞬間、み仏と一体になっていないと誰が言えようか。

 お大師様は説かれた。

「遠くして遠からざるはすなわち我が心なり。
 絶えて絶えざるはこれ吾が性(ショウ)なり」


(どこにあるかわからず、つかみようもないけれど、確かにここにあるのが自分の心というものである。
 凡夫である自分とは隔絶し、絶縁しているように思えるけれど、実は自分の本性として必ずそなわっているのが仏性である)

 修法中の導師がみ仏の世界に入っているのと、自分の死後にそなえるため、懸命に心の底へ降りて仏性の光を見出している方とは、何ら変わりはない。
 だから、当山では、ご自身で考えられた戒名を否定しない。
 同じ〈仏の心〉から生じた名前だからだ。
 こうした理由で、当山のご本尊様から戒名を授かった方も、ご自身で戒名を決められた方も、等しく、全身全霊で引導を渡している。
 もちろん、ご自身の信念から戒名を求めない方も。
 み仏のご加護に救い漏れはない。




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2015
11.19

お経のわかりにくさと読み下し文の話 ─村上春樹の翻訳論について─

2015111900012.jpg
〈寺子屋『法楽館』にて〉

 「法会に参加しても、お経がさっぱりわかりません」という声にお応えして、当山では、例祭や年忌供養などの際に、皆さんが祈りの内容をイメージしやすいよう、読み下し文などを用いています。
 一方、胆となる法を結ぶあたりでは、インドの言葉である真言をそのまま用います。
 二種類を用いるのは、文学作品のオリジナルと翻訳の関係に似ています。

 作家村上春樹氏はオリジナルと翻訳について明快に述べています。

「オリジナル・テキストのアップデートは不要です。
 それは時代性を含んで成立しているものですから。
 言葉が古くなっても、表現が古くなっても、事情がかわっても、人の考え方が変わっても、それは不変のオリジナルとして、永遠の定点として存在します
 それが芸術というものです。」(『村上さんのところ』)


 経典も同じです。
 真言は「永遠の定点」であり、中国で翻訳された漢文の経典は、日本人にとって〈準定点〉と言えるのではないでしょうか。
 だからこそ、お大師様は海を越えて唐の国へ渡り、サンスクリット語の原文を読みこなした上で、漢文に訳された経典と修法のお次第を持ち帰りました。
 たとえば般若心経について知りたいならば、お大師様が説かれた『般若心経秘鍵(ヒケン)』に関する書物か、宮坂宥洪師の『般若心経の新世界』が、原文をベースにして掘り下げた研究としてお勧めです。

「しかし翻訳は時代とともに更新されていく必要があります。
 なぜなら翻訳は芸術ではないからです。
 それは技術であり、芸術を運ぶためのヴィークル=乗り物です

 乗り物はより効率的で、よりわかりやすく、より時代の要請に添ったものでなくてはなりません。
 たとえば古い言葉は更新されなくてはなりませんし、表現はより理解しやすいものに変更されなくてはなりません。
 それから、以前にはわかりにくかった様々な情報が、今ではわかるようになったということもあります。」


 氏は、フィッツジェラルドが書いた小説の翻訳として用いられた「フランス大旅行団」という言葉を例示します。
 目の前を通り過ぎて行く旅行団がイメージできなかった氏は原文にあたり、「ツール・ド・フランス」つまり自転車レースのことであると突きとめました。

「この翻訳がなされた当時の日本では、ツール・ド・フランスが何かを知る人はあまりいなかったのでしょう。」

「優れたオリジナル作品は古びませが、翻訳は古びます。
 どんな翻訳だって、多かれ少なかれ古びます。
 僕の翻訳だっていつか古びます。
 翻訳は原理的に更新されることが必要なのです」


 当山は現在のところ、残念ながらサンスクリット語を学んで経文の原文にあたる力がなく、漢文を原文扱いしながら活動しています。
 しかし、修法中にご本尊様と一体になるべきところではオリジナルである真言を用いています。
 また、オリジナルから「よりわかりやすく、より時代の要請に添った」ものへ翻訳する力はなくとも、漢文を「より理解しやすい」読み下し文にして皆さんと共に理解を深めようと努めています。
 次の世代では、「永遠の定点」をよりしっかりと用い、同時に、説かれた真理・真実を誰もがより理解できるよう、新しい翻訳のような作業がなされることを期待しています。
 ご縁の方々と共に、オリジナル・テキストも、翻訳テキストも有効に用いた宗教活動を行い、安心と救済の場であり続けて欲しいと願ってやみません。




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2015
11.18

フランスのテロ事件に思う ─真理の扱いについて─

 宗教が人間を駆り立て、科学がより有効に人殺しを行わせ、血が流されている。
 宗教も科学も、それによって人間がよりよく生きられると信じられてここまで来たのではなかったろうか?
 立ち止まってみたい。

1 ダライ・ラマ法王へ真理を説いた10才の子供

 平成16年、ダライ・ラマ法王は、インドのバンガロールにあるチベット難民キャンプの小学校を訪れた。
 10才くらいの子供たちが、模型などを展示して太陽や月の動き方について学んでおり、法王を見かけた一人の女の子が、堂々と説明した。
「私たちチベット人は、日食が起こる時、月が太陽を食べているのだ、と信じていましたが、それは本当ではありません。
 日食とはこうして起こるものなのです」(「ダライ・ラマの『中論』講義」より)
 法王は「本当に可愛らしく思いました」と述べている。

「ある事象が、本当にそうなのかどうかわからないことがありますね。
 そのような場合、何年か前に多くの人たちが同じことを実際に見て、数年後に再びそれが多くの人たちによって観察され、確かにそうだと確認されたなら、多くの人たちの体験と認識によって確認されたことを、事実として受け入れなければなりません」


 仏教の古い世界観は、夜の闇を〈須弥山(シュミセン)という巨大な山の影〉であると説く。
 しかし、科学は夜がどうやって発生するかを解明している。

「仏教のテキストに書かれていることでも、事実に基づいて否定されたなら、それを信じることはできません」


 お釈迦様は、聴いたことが信じられるかどうかは自分でよく考えてみなさい、と学び方を注意した。
 チベット仏教も明快に説く。

「論理と矛盾する見解を受け入れるなら
 将来正しい認識を持つ人にはなれない」


 仏教が他の世界宗教と大きく異なる点の一つはここにある。
 誰の言葉であれ(たとえ神の言葉とされていても)、客観的な視点で〈ものの道理〉に照らし、真偽を確認してから受け入れたい。
 そうして道標となる真理は、それを生きる万人の生へ真実という価値を与える。

2 科学の用い方

 ちなみに、理論物理学者の佐藤文隆京都大学名誉教授はこう言っている。

「時代にもまれ、惨劇や過ちを背負いつつ、それでも懸命に進んでいくのです。
 科学も科学者も」

「科学者という人種は、原爆のような悪魔の知への挑戦であっても、嬉々として熱中してそれを達成する。
 このときに作用したのと同じ能力と情熱が科学のフロントを拡大させている。
 両者に差はなく、どちらにも転化するのです」

「だから、科学はシビリアンコントロールすべきなのです。
 科学者が自由にやればいいというものではない」

「科学の営みには理念や倫理が必要です。
 しかし、科学者が理念の体現者ではない」

「われわれ人間の行為の是非をチェックしてくれる監督者は、われわれのほかには存在していないのだよ。
 われわれ自身で、けなげに、この事態にこたえていかなければならないのだと思う」(「科学にすがるな!」より)


 科学にも、宗教と同じような危険性がある。
 鵜呑みにされた宗教的真理が人を傷つけ殺す場合があるのに似て、裸の真理は諸刃の剣である。

3 小さな結論

 人間を導く宗教は、いつの時代も、説かれた真理が主体的に吟味されつつ信じられねばならない。
 科学者によって発見された真理は、用い方の正当性が常に吟味されねばならない。
 そうすれば宗教も科学も、それに依って人を殺すことなく、普遍的人倫から逸脱せずに発展するのではなかろうか。
 いかに〈今〉、目先の目的の達成を願おうと、選択する手段を選ぶ際に、心の隅に置いておきたい。
 




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2015
11.17

Q&A(その14) ─死んだ人はいなくなるか?―

 お子さんから、こういう質問を受けた時にどう答えればよいか?

「人は死ねばいなくなるのに、なぜ、拝むの?」

 まず、死んだ人が無になりはしないことを伝えたい。
 この世に残り、故人を忘れる人がの通路を失った時、故人は無にされる。
 ご縁の方々からお聴かせいただいた話をお伝えした。

 郷里から遠く離れて暮らすAさんは、子供の頃、仲がよかった兄とほとんど会えぬまま年をとり、突然の死にも立ち会えなかった。
 葬儀を終えて事務所に戻ったAさんは、夜半、仕事をしていたら、締め切った事務所に一陣の風が吹いた。
 どこか、からかうような気配があり、心で呟いた。
 〝兄貴、あまりからかうなよ〟
 申しあげた。
「そのうちにまた、別な風が吹くかも知れませんね。
 小生の場合は、亡くなった仲間が額に入った顔写真のような感じで浮かび、おいおい、びっくりさせるなよ、と声をかけてしまったりします」

 母親と二人で暮らしていたBさんは、母親の葬儀を終えて、久々に自宅でゆっくり夜を迎えた。
 二階で寝ていたら、階下で足音がする。
 泥棒かと思って恐る恐る下りてみたら、台所のガスコンロが空の鍋を熱していた。
 目頭が熱くなった。
 〝母ちゃん、ありがとう〟
 申しあげた。
「本当にありがたいですね。
 合掌し、仏性(ブッショウ)という心の音叉をきれいに磨いていれば、また、あらがたいシグナルが届くのではないでしょうか」

 本が好きな父親を送ったCさんは、書斎をしばらく、そのままにしておいてやった。
 満月が昇り始めた夕刻、書斎に誰かが入って行く気配がしたので、居間のソファーから立ち上がった。
 座卓に添えられた座布団の真ん中に、人が座ったばかりのようなくぼみがあった。
 Cさんは言う。
「父が遺した本を少しづつ読んでみようと思います。
 親不孝だった自分にできるせめてもの供養です」
 申しあげた。
読書は別世界に連れて行ってくれます。
 Cさんは、お父さんが観たり憧れたりした世界もかいま見ることができるでしょう。
 すばらしい贈りものをもらいましたね」

 合掌したり、真言を唱えたり、お経を読んだり、写経したりしての通路を浄め、心の音叉を磨いておけば、はいつまでも通じ合うと教えておきたい。
 そして、親や家族が体験したり、見聞きしたりした真実のできごとを話して聞かせれば、きっとお子さんの感受性は反応してくれることだろう。
 モノを見る目と網膜の反応で動く心だけでなく、心の眼をも育てていただきたいと切に願う。 




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2015
11.16

フランスのテロとジェロニモの叡智

 フランスで大規模なテロが起こった。
 各国の指導者たちは同じ言葉を叫びつつ、拳を振り上げる。
 テレビを観ると、ISはアメーバや地衣類のように乾いた大地へこびりつき、滅亡の危機に耐えているかのようだ。
 確かに彼らの価値観は、西洋文明の価値観とかなり異なっている。
 彼らの行動様式は、多くの国々から受け入れられない。
 しかし、彼らは厳然として、居る。
 爆弾が雨あられと落とされ、仲間を失えば失うほど、生き残った者たちの〈死の前にやらねばならぬこと〉への使命感は高まるだろう。

 私たち日本人はどう対処すればよいのだろうか?
 世界を相手にしている究極のマイノリティとも言えそうな彼らを観ていると、作家赤坂真理氏が書いた、折口信夫に関する文章を思い出す。

「物語はマイノリティにこそ必要なものではないか、と私は思います。
 マイノリティというのは、表現されることによってしか現れない存在です。
 強者の物語や歴史記述からは消されるか否定的に書かれてしまいます。
 そしてフィクションの機能と作用を通すことで、個人的な物語が普遍的なものへと変容することがあります。
 そこに、弱い者が最も世界を変える力を持つというような、逆転した可能性が現れることさえ、あると思います。」(「『モノ』とこいあうちからがある」より)


 思えば、日本も、アジアも、アメリカも、今ある世界はことごとく、征服者の末裔によって営まれている。
 膨大な国家や民族や宗教などが存在を奪われただけでなく、「強者の物語や歴史記述から」消されてきた。
 消して生き残った側にとっての事実はただ一つ、勝者であるということのみである。
 客観的な視点に立てば、勝者へ〈正義〉を付与するいわれはまったく、ない。
 それは、敗者を〈不正義〉と決めつけるのが勝者の傲慢に過ぎないのと同じである。

 ちなみに、アメリカ合衆国が、イギリスからやってきた人々による原住民に対する収奪で成立したのは天下衆知の事実である。
 滅ぼされたアメリカインディアンのジェロニモはアパッチ族のシャーマン、戦士として対白人抵抗戦を戦い、怖れられ、捕らえられ、見せ物となって死んだ。
 文化人類学者今福龍太氏が書いた『ジェロニモの遺言』の一部である。

「わしたちの言葉で『戦争』のことをなんというかご存じかな?
 わしたちは『戦争』を『心の糸のもつれを知らない』という。
 反対に『平和』は『心の糸のもつれを知る』という。
 もつれた糸をほどくのが平和ではないのだ。
 糸のもつれをよく知り、そのもつれた糸をあらたな糸として生きることが、平和を呼びだす。
 糸とは、そもそもたった一本のものではなく、初めから縒(ヨ)られている。
 だからこそ、縺(モツ)れ絡(カラ)まった糸を、また新しく縒りあわせて、あらたな一本の糸とすることができるのだ。
 生きるための糸は縒りつづけなければならない。

 だがいま、人間は、もつれた糸を無理矢理解きほぐそうと躍起になってはいまいか?
 こんがらかってほどけなくなった糸を、あきらめて断ち切ってはいまいか?
 そんなとき、糸玉は涙あふれる眼だ。
 結び目は、その眼から滴る涙の雫だ。
 ほつれた糸くずは血管から噴き出す血潮だ。
 世界という織物は傷ついている。

 心の糸のもつれを知ること。
 心の地殻の揺れを感じとること。
 心の水の枯渇にたえず注意深くあること。 
 『戦争』によって『排他的な平和』を確立しようとするすべての国家的・大陸的野心は、もつれた糸を新たにより直す世直しによって、真の平和に取って代わられねばならない。」(『風の旅人 第50号』より)


 ここにある叡智は、マイノリティであるがゆえの「世界を変える力」と言えないか?

 世界中の強国は、自分流に糸のもつれを解き、都合良く縒り変えようとする。
 そのためには、勝手に断ち切ることも厭わない。
 言い訳は〈正義〉である。
 どんな言葉で言い繕おうと、求めるのは「排他的な平和」である。
 だから、用いる手段は戦争になる。
 ISと連合軍に共通しているのはただ一つ、〈排他〉である。

 ジェロニモの魂は今福龍太氏に感応して来た。
 私たちが真に自分の足で立てるかどうか、叡智に学びたい。




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2015
11.15

お正月には仏様と神様をお迎えしよう ─感謝し謙虚になる大切な機会について─

201511150001.jpg

 今から約700年前、吉田兼好は『徒然草』へ書きました。意訳です。

大晦日(オオミソカ)の夜更けから松明(タイマツ)などを灯し、夜半過ぎまで騒がしく、忙しく人々は走り回っているが、明け方になって静まりかえると、過ぎ行く一年に惜別の思いが起こり、心細くもなる。
 新年を迎える時期に訪れてくるご先祖様や新精霊をお祀りする大晦日は、門松を立てるなどの準備を行ったものだが、そうした慣習としてのお正月は都で廃れ、東国で今なお行われていることにしみじみと情趣を感じる。
 そうこうしているうちに迎える新年の景色は大晦日と違うわけではないが、どことなく新鮮な気持になるものだ。」

 原文では、お正月の準備が「亡き人のくる夜とて魂(タマ)祭るるわざ」とされています。
 新しい年を共に祝おうと、あの世の方々も降りて来られるので、お迎えするために御霊の飯を用意し、門松を立て、この世の人もあの世の人も、うち揃って年神様・正月様のご加護にあずかろうとしました。
 節の食べものを準備するのは神々に対する心づくしのお供えであり、家中を掃き清めると共に心の罪科も浄め、注連縄(シメナワ)を張って結界をつくり、神様へ捧げた食べものを一緒に食べる相饗(アイニエ)によって神と人との一体化を願うのが、年夜にお節料理をいただく本来の意味でした。
 お正月の料理をたくさん作っておくのは、女性陣が楽をして過ごすためというよりは、日常生活の騒音でお迎えした御霊と神々を患わせないための心遣いなのです。
 さて、仏教徒にとって見逃せないのが、お盆での御霊祀りに対応する形でお正月にも御霊祀りが行われていたことです。
 吉田兼好の時代にはすでに御霊への供養が廃れ始めており、都という大都会では、人々が過ぎ行く一年の決着をつけようと、慌ただしく行き交うばかりであると嘆いています。
 原文を読むとその趣がわかります。

「夜いたう暗きに、松どもともして、夜半(ヨナカ)すぐるまで、人の門(カド)叩き走りありきて、何事にかあらむ、ことごとしくのゝしりて、足を空にまどふ」
        ◇
 日本人はそもそも、あの世の方々も、この世の人々もうち揃って新年を迎え、神々へ安寧を祈りました。お盆にはあの世の方々をご供養した上で、続く秋祭には神々と豊饒を祝いました。
 私たちは、新たな一年を迎える時期と、いのちをつなぐ稲の刈り入れの時期と年に二回、御霊祀りを行い、共にこの世の永続と繁栄を願ってきたのです。
 そこで自然に起こる敬虔な気持は感謝や謙虚さをもたらし、伝統的な叡智が煩悩の暴走をコントロールしたのではないでしょうか。
        ◇
 ところで、東日本大震災で大きな難を逃れた地域の方々が、古人の言い伝えに従った生活を行い、言い伝えどおりの退避行動をとっていたという例がいくつもあります。
 消えない叡智が未曾有の大災害から人々を救ったのです。
 しかし、そうした叡智を忘れた私たちの煩悩の暴走は今や、文明的な暴走になっていると思われてなりません。
 思想家佐伯啓思氏は極めてわかりやすく示しました。

「エネルギーを節約して楽をし、快楽や愉楽を大きくしたい、という。そのために自動車を動かし、高速鉄道を作り出した。
 ところが、ここに大きな矛盾があって、労力を省き、楽をし、快適に暮らしたい、というその欲望がまた、これまで以上の労力を要求するのである。
 もっと早く移動したい、もっと楽に移動したい、という欲望が自己増殖しだす。
 そして、もっと高速の車を、より高速の鉄道を、より早い飛行機を作り出すために、われわれはこれまで以上のエネルギーを投下しなければならない。
 これが『現代』という時代の宿命である。
『流行』を追うことは、常に新奇なものへ目をむけることであり、それは既存のものを打ち捨てることである。
 昨日の自分を自己否定して、明日の自分はより幸福だと期待することである。
 そして、そのために、昨日より、いっそうのエネルギーを費やす。
 明日の幸福のために。
 しかし、『明日』はエンドレスに続くのだ。」(『風の旅人 第50号』掲載「加速化社会が失うもの」より)


 私たちがとり憑かれている一種の〈改革病〉は、氏の言う「時代の宿命」そのものではないでしょうか?
 いったん誰かによって改革の旗が掲げられると、その真偽を問う間もなく我先にと走り出す光景は、異様としか言いようがありません。
 最初から賛成と反対は白黒に分けられ、「昨日の自分を自己否定して、明日の自分はより幸福だと期待する」賛成派は正義の使者を気取って容赦なく、その結果、白と黒は尖鋭に対立し、斬り合うしかなく、膨大な血が流されます。
 ここでの主役は傲慢さであり、決定的に欠けているのは謙虚さです。
 今の日本で最大の問題は、決して社会の構造などではなく、社会を動かそうとする人々の傲慢さであると思えてなりません。
 おちついて考えてみましょう。
 先人たちが叡智をふりしぼり営々として作り上げてきた日本の仕組みがまったく間違ったものであり、一部の人間が神のごとき智慧でそれを否定し、〈改革〉すれば、私たちの暮らしが一気によくなるなどということがあり得ましょうか?
 私たちが最も望んでいることは、私たちの誰もが安心して人間らしい暮らしを続けられる世の中になることではないでしょうか?
 そのために社会を動かす立場にある人々へ第一に求められるのは、改革と称して独り善がりな思いつきの旗を掲げる傲慢さを離れ、私たちの声に耳を傾け、多くの人々が切実に求める具体的で身近な〈改善〉を着実に実行する謙虚さと粘り強さではないでしょうか?
 目に見えぬものにせきたてられ、昨日までの自分を否定させられ、明日のために競争させられつつ過ごしますが、実は、そうして夢のように過ぎ行く〈今日〉にしか、いのちの真実は求めようがありません。
        ◇
 お正月は一年という一括りの時間を振り返り、自分の歩み、家族の歩み、そして社会の歩みを客観的な視点から眺めてみる貴重な時期です。
 そこにはいかなる変化があったでしょうか?
 それは、私たちが心から求めていたものだったでしょうか?
 求めていたとおりにならず、求めていなかった結果が出たのはなぜだったのか?そこをこそ、直視しましょう。

 お正月を目前にし、神様を祭って前向きになるだけでなく、ご先祖様を祀ってご供養する行為がセットになっていることを思い出しましょう。
 それを行う時、私たちの心に敬虔な気持が生じます。
 ご先祖様に感謝して神様の前で謙虚な気持になることの現代的な意義も考えてみましょう。
 ご先祖様がない人は一人もいません。
 この師走からお正月、慌ただしい中にもご先祖様を想う心の余裕を持ち、よき年末年始となるよう願ってやみません。




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2015
11.14

御札の大きさとご利益について ―Q&A(その13)―

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〈初冬の自然墓〉

 今回は、御札についてのご質問にお答えします。

1 御札の大きさとご祈祷の中身

 たまに訊ねられます。
御札の大きさで、ご祈祷の中身はどう違うんですか?」
 端的にお答えします。
「違いません」
 ほとんどの方はここで「えっ!」と絶句します。
 そして、たくさんお布施をしても、ご利益が同じでは頑張って差し出す意味がないと考えるかも知れません。

 さらにはっきりと質問を続ける方も稀に、おられます。
「すると、お布施の金額によって違うのは御札の大きさだけですか?」
 ここまで来てようやく、肝腎なところへ進みます。
「そうですね。
 貴方の手元にやってくるモノの違いはそれだけです。
 しかし、目に見えない世界では大きなできごとが起こっています。
 ご誠心からお布施を差し出せば、仏神の世界へ徳積みが行われています。
 言い方を変えれば、〈惜しむ煩悩にうち克って仏神のためになる〉という徳を発揮することによって、自分の心のレベルを一段、上げているのです」

2 煩悩に気づく

 煩悩とぶつかる難しさは、貧窮時代の小生にとっても難問だったので、よくわかります。
 お詣りにでかけ、お賽銭箱へ投ずるお布施を10円玉でなく100円玉にする、100円玉でなく500円玉にする、500円玉でなく1000円札にする、……。
 その行為は、実生活に及ぼす影響もさることながら、必ず動く〝惜しい〟という気持をはっきり認識し、退治するという決して小さくない人生修行の問題です。
 一歩、退がって自分の姿を眺めてみれば、〝どうか、体調がよくなりますように〟と必死の思いでご本尊様の前に立っていながら、〝100円玉は惜しいから10円玉にしておこう〟と考えるなら、どこかずれていると気づくはずです。
 しかし現実に〈ずれ〉の感覚が起こるのは一瞬であり、気づかなかったり、無視したりしがちです。
 この時点での対応は、誰にも知られない自分の人生に対する誠意の問題でしかありませんが、そこでの誠実と不誠実は他ならぬ自分が知っています。
 誠実であれば必ず心が清々しくなり、不誠実であれば必ず心が濁ります。

3 神様が見ている

 古人が「神様が見ているよ」と子供たちへ教えたのは、嘘をついてはいけないという表面的な態度を指導しただけではありません。
 本質は、畏れの感覚が身につけば、自分の良心に恥じない誠実さと勇気を持って生きられるようになるところにあります。
 神社仏閣へでかけ、そこに〈おわす〉何ものかを感じるならば、それは、五感六根のはたらきによって、自分自身の心に〈在る〉何ものかが反応しているのです。
 それは良心であり、仏性であり、霊性でしょう。
 これらのはたらきへ素直になる時、私たちの心は浄められています。
 かけがえのない浄めの機会を生かすかどうかは、その方その方の問題です。
 お賽銭箱に入れる10円玉と100円玉には90円の違いですが、この90円は、心の修行の観点からすれば、お金に換算できないほどの違いをもたらします。

4 願いと誠意

 こんなことを書くと、二つの疑問が起こるかも知れません。
 一つは、〝お寺はお布施がたくさん欲しいからこう言っているのではないか?〟
 そうではありません。
 小生自身が、こうした〈浄め〉無しでは生きて行けず、今でも修行を続け、そして確かな救いを実感しており、〈皆さんと共に〉の一心で赤裸々に書いているのです。
 もう一つは〝お金持ちはたくさんお布施をして徳積みも大きくできるけど、貧乏ならできないのか、それでは、仏神の世界もお金次第なのか?〟
 そうではありません。
 肝腎なのは、必死の思いでよき願いを持つ時、同時に、自分の仏性に恥じない誠実な行為もできるかどうかという一点にあります。
 あらゆる宗教がよき願いを持つことを尊ぶのは、それが人間の本性にある光を発揮させる機会だからです。
 仏教も同じであり、「欲を無くせ」ではなく、「まっとうな欲を正しく生かそう」が本分です。
 仙人のような〈我、関せず〉といった人間や、幽霊のような〈力の抜けた〉人になろうとしてはいません。
 お釈迦様もお大師様も、不動心と共に桁外れのエネルギーを発揮しておられたように思えます。

 だから当山では、3000円のご祈祷を申し込まれても、10000円のご祈祷を申し込まれても、お渡しする御札の大きさなどが違うだけで、ご祈祷の中身が違ったりはしません。
 ご葬儀も同じです。
 皆さんなりの誠意をわけへだてなくご本尊様へ届けるのみです。

5 「長者の万灯」と「貧者の一灯」

 最後に、よく知られている「貧者の一灯」に触れておきます。
 高野山には無数の灯篭が奉納されていますが、その中に「長者の万灯」と「貧者の一灯」があります。
 長者は白川上皇、貧者は自分の黒髪を切ってお金に換え高野山の伽藍復興のために一灯を報じたおてるという女性です。
 いかなる立場や境遇にあろうと、大切なのはただ一つ、誠意です。
 仏性に誠実な誠意こそが不滅の灯火の本体です。

 今日も皆さんの尊い誠意を受け、法務を行います。

 以上が、御札は決して「買う」対象ではなく、誠意に対する証(アカシ)としてご本尊様から授かる魂の入った聖なる拠り所である理由です。
 皆さんの開運を祈っています。 




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
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2015
11.13

【現代の偉人伝】第214話 ─荒ぶる魂を鎮める写真家倉茂義隆氏─

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〈『43年の夢』よりお借りして加工した「花火の夜の佐野夫妻〉

 お釈迦様は説かれた。

「戦場において百万人に勝つよりも、唯だ一つの自己に克つ者こそ最上の勝利者である」(『法句経(ホックキョウ)』)


 写真倉茂義隆氏は、10月1日発行の『風の旅人 第50号』に掲載された『43年の夢』に書いた。

意識が我々を支える。
 しかしやがて死が訪れる。
 その時、波立たぬ静かな魂でその死を受け入れることが出来るだろうか?
 何故そのようなことを気にするのか。
 それは他でもない、そのためにこそ今を生きているのだから。」


 ここで言う「そのため」とは、「波立たぬ静かな魂で」死を受け入れることであろう。

 若い日に健康を害した氏は43年間、写真を撮り貯めた。
 そして述懐する。

「私は、今、これらの写真が、私の魂を鎮めてくれていることを感じている。」


 氏は、魂が容易ならざる力で暴れ回ることをよくよく知り尽くし、「鎮めてくれている」と実感しておられるのだろう。
 死を迎える時、その鎮まりこそが安寧に満ちた静けさをもたらすことだろう。
 私たちはそれぞれ、荒ぶる魂を抱いて生きているが、氏のように鎮める方法を創り出しているだろうか?

 こんなことを考えながら眠りの床に就いていたが、灯りのついた隣室から、煤けたようなひとかたまりの影が音もなく侵入してきた。
 いつの間にか手に持っていた(と思える)短いスピーカーコードを振り回して退散させようとする。
 しかし、金縛りに遭ってどうにもならない。
 お大師様の法で縛りがほどけ、ゆるゆると上体を起こした。
 百才に近いAさんを思い出した。

 Aさんは若い頃から嚥下(エンゲ)に不安があり、今は診断上、まったく異常なしという状態でありながら、飲食物を口にすることが恐ろしくてならないという。
 丹念に誠心誠意こめて作られた温かい豆腐すら、味が気に入らず、呑み込む自信がないので遠ざける。
 Aさんはもう、点滴で生きるしかないのか?
 はたして本人がそう望んでおられるのか?
 見開かれ窪んだ目と、食いしばられた口元は、飢餓感とそれを満たさせまいとする喉の細さという二重の恐怖を顕わにしていた。
 ──それだけだった。
 心中でAさんの守本尊様へ祈った。

 深く深呼吸をし、あらためて倉茂義隆氏の文章を読み、写真を見直す。
 背骨の損傷を抱えて生きて来た氏の魂へ、それらが鎮まりをもたらしていることの重みに圧倒される。
 また、問いが発せられる。
 自分は、自分の荒御霊(アラミタマ)の鎮静法を手にしているだろうか?
 偉人は深い問いをもたらす人である。




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2015
11.12

葬送にかんする8つの疑問と、よき心の取り戻し方について

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 11月14日に行う寺子屋では、皆さんからの人生相談で最も多い〈送り方〉〈送られ方〉に関するお話と、〈よき心を取り戻す瞑想〉の体験会を行います。

○送り方・送られ方の話

「当然ながらほとんどの人は穏やかな死を迎えることを望んでいる。
 だが暴力にみちた人生をすごした者、怒り、貪り、恐怖などの情念に絶えず心をかきたてられている者にとって、穏やかな死など望むべくもないこともまた明らかである。
 だからよき死を迎えることを望むなら、よく生きるすべを学んでおく必要がある。
 安らかな死を望むならば、自らの心に、生き方のなかに安らぎを培っておかなければならない」(ダライ・ラマ法王)

1 人が死を迎えるのはいかなることか?
2 死は何をもたらすか?
3 ご葬儀とは何か?
4 ご葬儀では何が行われるか?
5 お戒名とは何か?
6 ご供養は何のために行うか?
7 おに埋骨する意義は何か?
8 きちんと人を送ることが文化の根底を支えてきたのはなぜか?

○誰でもが持っている霊性を輝かせる方法

「自分の身口意のはたらきがすべて、生きとし生けるものの恵みとなりますよう。
 幸せをもたらすすべとなりますよう」

1 あらゆる宗教に共通しているのは〈思いやり〉
2 自分にもある〈思いやり〉を思い出すには?

 車座になって法話と対話を行います。
 どうぞ、お気軽におでかけください。
・ 講  師:住職遠藤龍地
・ 日  時:11月14日(土)午後2時より3時30分まで
・ 会  場:日立システムズホール仙台(仙台市青葉区旭ヶ丘3丁目 27-5 電話:022-276-2110)
       和室ですが、イス席もありますのでご安心ください。
・ ご志納金:1000円 中学生以下500円(お菓子、飲物付)




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2015
11.11

映画『波伝谷(ハデンヤ)に生きる人びと』の劇場公開

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〈映画の公式サイトはここにあります。http://hadenyaniikiru.wix.com/peacetree〉

 東日本大震災で被災した宮城県本吉郡南三陸町にある波伝谷(ハデンヤ)という漁村で3年間、人々の日常生活を撮り続けていた映画監督我妻和樹氏は現地で天災を体験した。
 そして、はからずも、失われ尽くした人間の営みを世に問うこととなった。
 そのドキュメンタリー映画『波伝谷(ハデンヤ)に生きる人びと』がついに仙台で公開される。

・日 時:12月12日~12月25日 1日1回11時より
・場 所:桜井薬局セントラルホール(仙台市青葉区中央2−5−10 桜井薬局ビル 3F)

 監督は言う。

「いわゆる『震災映画』として捉えられがちな本作ですが、実際に描かれているものは現代社会を根本から支える地方の生活者の瑞 々しい姿であり、東北沿岸部、ひいては日本の農山漁村、コミュニティ全般に共通する普遍的なものです。
 それは同時に今『被災地』と呼ばれている場所にかつてどんな人の営みがあったのかを生き生きと、雄弁に伝えることのできる世界で唯一の作品でもあります。
 作品は、昨年夏に『震災3年を機に、沿岸部全体でかつての故郷のあり方、人の生き方を見つめ直し、被災地の未来について考えたい』との思いから、宮城県沿岸部縦断上映会(計11会場+前後の関連企画)を開催し、国内最大の自主製作映画の祭典である『PFFアワード2014』にて『日本映画ペンクラブ賞』を受賞しました。」


  監督の願いである。

「この映画をより多くの観客に届けることによって、日本全国どの地域・組織にも共通するコミュニティの普遍的な姿に触れ、自分たちの足元を支えている世界や身近な人とのつながりについて見つめ直すきっかけを作ると同時に、震災によってその暮らしが土台から壊された現実を知ることで、失われたものの大きさと、自分たちが日々生きている何気ない日常の価値を捉え直すきっかけを作れればと考えております。」


 托鉢から修行を始めた小生にとっては、沿岸部も山里の村々も托鉢上の故郷であり、母のようなものだ。
 一軒一軒と訪ね歩き、皆様に生かされながら、生活ぶりや希望や怒りや不安を教えていただき、一行者の土台がつくられた。
 皆様なくして当山の今はない。
 そうした地域と皆様の生活もいのちも破壊されたできごとは、一行者にとって終生、抱えきらねばならぬ何ごとかであると覚悟している。
 かつて確かに〈在った〉人間の営みを記録したこの映画は、被災された方々ばかりでなく、そうでない方々にもきっと、大切にすべきものを示しているに違いない。
 一人でも多くの方々が映画館へ足を運ばれるよう、祈ってやまない。

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〈中央の大日如来が、津波の来た方角である東へと後ろ向きになったあの日の奇跡的な光景を幾度となく思い出す〉




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「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=WCO8x2q3oeM





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2015
11.10

私たちは本当に考えるべきことを考えているだろうか? ―『チベットの生と死の書』を読む(6)―

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〈トンネルの向こうへ〉

 ソギャル・リンポチェ師の著書『チベット生と死の書』は、生と死を考える人びとへ重要な示唆を与える一冊である。
 伝統仏教の最先端を示し、かつ、最奧をもかいま見せる高貴な魂の結晶である。
 師は「仏法をより近づきやすいものに、現代的、実践的なものにするために著した」とされているが、700ページ近い力作で、なかなか読み通せないかも知れない。
 以下、全体の概要というよりは、いくつかのポイントを挙げておきたい。

人生はあまりに忙しく、やっとものを考える時間ができるのは死のときだ。
 私たちはより多くのもの、より多くのこと、より多くの楽しみで身をかため、〈無常〉へのひそかな恐怖をまぎらす。
 だが、気がついたときにはそういったものの奴隷になっているのだ。
 時間と労力はただひたすらそれを維持することに費やされる。
 やがて、それらを後生大事に守り続けてゆくことが人生の唯一の目的となる。
 変化が起きると応急処置で対応する。
 うわべだけの間に合わせだ。
 こうして人生は流れてゆく。
 重病や災難にゆり起こされて、惰眠を破られるまでは。」


 私たちの多くは、社会内(家庭も含め)のポジションに応じた役割を果たすのに懸命だ。
 もちろん、それはそれでまっとうな生き方だが、ふと、〝私は何のために、与えれたノルマを達成せねばならないのだろう?〟と疑問に思えたりする。
 想定外の厄難が起こり、これまでどおりの前進ができなくなった時、〝私の人生って何だったのだろう?〟と空しくなったりする。
 何かの〈ため〉に時間と労力と、あるいはお金も費やしているはずだが、その〈ため〉の価値に疑問が生ずる。
 無常がうすぼんやりと姿を見せているのだ。
 そうした時にはきちんと立ち止まる必要がある。
 もしも状況が立ち止まりを許さない場合は、疑問を手放さないことが大切だ。
 この、自ら問い、自ら答を探すことこそ、私たちが真に自分の人生の主人公であるための必要事項である。
 
 重病や災難は、強制的に重要事項の真実を私たちへ突きつける。
 私たちは途惑いつつも、ようやく〈我に返る〉のだ。
 本来、自分が自分の人生の主人公だったことに気づく。
 自分がこれまで〈かまけていた〉諸々のものたちは、仮そめの主人公だったのだ。

 人生の主体性について指摘した師は、次に、私たちが肝腎な疑問を発していないと説く。

「本当に私たちのもっとも深い欲求が生きること、生き続けることにあるとしたら、なぜわたしたちは死が終わりだとかたくなに言い張るのだろう。
 なぜ死後が存在するかもしれないという可能性を探ってみるくらいのことをしないのだろう。」


 私たちの誰もが、幸せに生きたい、他から害されたくないと願い、〈ずっと〉そうありたいと願っている。
 一方で、生きものは必ず死ぬという事実を知っている。
 だから、〈願い〉の期間を、いつしか、自分が生きている間に限定してしまう。

 私たちは本当に、本当の願いと矛盾した存在でしかないのか?
 なぜ、誰にも恥じることのない本心を隠したままで、それを無いことにして生きているのか?
 本心を貫き通せる可能性を探らないのはなぜか?
 肉体の死は、すべてが無に帰することなのか?

 私たちは、こうした問いを問わないままで、果たして人生に誠実であると言えるだろうか?

「みずからに真剣に問うことから始めてみてはどうなのか。
 わたしたちの真の未来はどこにあるのか、と。」


 未来がどこにあるか、と問うことは、過去はどこにあったのか、と問うことにつながる。
 私たちが未来を持つ存在ならば、未来から見た現在は過去となり続けており、私たちは過去を持つ存在でもあるからだ。
 私たちは、「死ねばそれまで」をいわば常識として暮らしているが、ダライ・ラマ法王は端的な事実を示す。

「生まれ変わりである幼い子供が、前世でかかわった物や人のことを思い出すのはよくあることだし、教えられてもいない経典を暗誦できる子供もいる。」


 また、スティーヴンソン教授の「生まれ変わり」現象に関する科学的調査は一定の評価を得ている。
 世界で最古の歴史を誇り世界中の研究者が眼を通す神経・精神病学に関する月刊紙『Journal of Nervous and Mental Disease』が博士の研究を特集したおりには、編集長を務めたユージン・B・ブローディ教授がこう発言している。

「このような特集を組んだ理由は、執筆者が、科学的にも個人的にも信頼に足る人物であること、正当な研究法をとっていること、合理的な思考をしていること、といった点にある。
 以上の条件が満たされるなら、人間の行動に関する知識の増進をめざす雑誌が、このようなテーマの論文を自動的に不採用にすべきではないし、そうしてはならない義務があると思う。」


 私たちが普段、思う以上に、生まれ変わり、つまり前世と来世の存在、あるいは輪廻転生は仏教の世界だけでなく、精神科学の世界でも真剣な探求が行われている。
 
 さて、自分にとっての未来とは、本当に、自分が死ぬまでの間にしかないのだろうか?
 こうした問いを問い、考えるのは人生の重大事ではなかろうか?

「わたしたちは人生の重大事に時間を費やしたいと思っているが、そんな時間はけっしてやっては来ない。」

「まるで人生がわたしたちを生きているかのようだ。
 人生がそれ自体の一種奇妙な惰性を維持するために、わたしたちを突き動かすことによって、わたしたちを生きているかのようだ。
 そしてついには、わたしたちは人生が自分の手にあまるもの、選択の余地のないものと感じるようになる。」


 私たちは確かに忙しい。
 ふと、根本的な問いが頭に浮かんでも、そんなことでボーッとしてはいられず、カバンを抱えて飛び出す。
 友人との会話にこうした問いを持ちだそうものなら、「疲れているんじゃない?大丈夫?」と心配されるのがオチかも知れない。
 でも、私たちはいつか必ず、問いを問わず、日常生活のあれこれに流されているだけでは済まない状況にぶつかる。
 そこで〝もう、どうしようもない〟と思う時、人生は〈自分の手にあまるもの〉として立ち顕れる。
 これまで、自分が自分の人生の主人公でなかったことに気づく。
 いつしかパターン化した人生が、私たちのいのちと時間を支配していたのだ。

チベットの人々は、外的環境を快適にしようとしてすべての時間をそれに費やすようなことはしてこなかった。
 食べるものがあり、着るものがあり、頭の上に屋根があれば、それで十分だった。」

「わたしたちが今のやり方をつづけ、生活環境の向上に夢中になっていると、それは無意味な気散じとなり、それだけで終わってしまうことになりかねないのだ。」


 私たちが〈生活環境の向上〉を願い、工夫するのは当然である。
 誰しもが、よりよく生きたいからだ。
 しかし、ここで私たちは目的と手段を間違えやすい。
 よりよく生きるための手段として生活環境の向上が求められたはずなのに、いつしか手段が目的化し、目的が何だったのか忘れられてはいないだろうか?
 そもそも、本来の〈目的〉こそ、最も真剣に考え続けられねばならなかったはずなのに。

 おりしも、11月8日の報道によれば、政府は「1億総活躍社会」を実現するための方策の一つとして「スポーツGDP拡大構想」を掲げ、今後10年間でスポーツや文化に関連した産業の規模を3倍以上にするという。
 スポーツ産業の市場規模を現在の5兆円から15兆円にするらしい。
 国民のうちいったいどれだけの人々がこんなことを望んでいるだろう。
 そのスポーツはいったい誰が楽しむのか?

 健全な成長のためにスポーツが最も必要とされる子供たちの貧困は目に余る。
 いじめによる自殺が日々、報道されているが、文部科学省の発表によれば、その2・5倍の子供たちが経済的困難で将来を悲観し、自殺しているのだ。
 また、新聞にはこうした投書があふれかえっている。

「欲しいものというのは、高価なものではなく、交通費やお昼ご飯、ノートのお金。
 高校時代はボロボロのシューズを履き、恥ずかしい思いをした。」(長崎県・10代女性)

「児童相談所で働いている。
 子供の貧困とは衣食住に不安を感じる生活はもちろん、経済的理由によって親とゆっくり過ごせる時間が少ない、自立を強いられる、子供らしく遊ぶことを制限されるなど、経験やその後の人生が制限されてしまっている状況をさすと考えています。」(千葉県・20代女性)


 私たちは根本的な疑問を知っている。
 私たちは恥を知っている。
 私たちは見捨てられない。
 何としても立ち止まらねばならない。
 せき立てられ、あるいは目の前に幻のニンジンをぶらさげられ、〈無意味な気散じ〉に投げ込まれたままでよいはずがないと思う。
 親も子も、真に大切なことをよく考えたい。




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2015
11.09

生涯を感謝すこゝろ落葉降る ─飯田蛇笏─

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〈11月4日、『ペット霊園やすらぎ』さんで、恒例となった秋の供養会を行いました〉

 11月8日、飯田蛇笏(イイダ ダコツ)が昭和27年に詠んだ句をとりあげた。

は地上におはし給はず


 息子3人を失った老年男性の呻きとしか言いようのない作品だが、同時期のものについても書いておかねばならない。

「生涯を感謝すこゝろ落葉降る」


 晩秋から初の時期に降る落ち葉は、いのちの終わり、あるいは休息というイメージを、極めて強く喚起する。
 しかし、蛇笏はストレートに「感謝す」と言う。
 しかも「生涯」を。

 きっと、〈もういい〉のだろう。
 超一流の俳人としてあらん限りの力を発揮し、戦争もくぐり抜けた。
 も仏もないこの地上をありようも、まざまざと観た。
 無常の現世は、私たちに喜怒哀楽を催させながら、全体としてここにある。

 これも同時期の作品である。

「凪ぎわたる地はうす眼してに入る」


 ここで言う「凪ぐ」は、実際に海が平穏に広がっている光景であっても、あるいは大地がおさまりかえっている気配であっても構わない。
 ポイントは「うす眼」にある。
 の冷たい空気は氷のように密度が高い。
 あらゆるものを、そこにあるがままに固定、密閉する。
 隙間や弛みを許さない。
 その存在の力を受けながらでなければ、アリ一匹、動けない。
 こうした凪ぎ切り、支配し切った空気の圧力を受けてなお、大地は、はっきりと薄眼を開いている。
 あらゆるものに存在と緩慢な活動を許し、見守っている。
 私たち人間も又、薄眼のご加護が及ぶ範囲で生きている。

 は進む。
 

「こゝろなごみゆく地の起伏冬日和


 初冬の小春日和とは違い、本格的な冬の最中に空が晴れ渡り、寒いながらも陽光の恵みを直接ありありと感じられる状態が「冬日和」である。
 そんな日は、大地の自然な起伏にすら弛緩のありがたみを覚える。
 厳寒に玩ばれつつ生をつなぐ生きものである人間にとって、その〈赦し〉は何ものにも代えがたい。
 蛇笏はそう言うしかない言葉を紡いだ。
「こゝろなごみゆく」は、冒頭の句における「感謝す」と同じ率直さだ。

 もう一句ある。

「魂沈む冬日墓地を通るかな」


 墓地におられる御霊については普通、「鎮まる」と表現する。
 未練や怨みや怒りや不満などを脱却して、安らかに、静かにお眠りいただきたいと誰しもが願う。
 しかし、蛇笏は敢えて「沈む」と書いた。
 それは沈むという動きを言うのではない。
 沈んでしまっている状態だろう。
 若くして死んだ三人の息子たちの御霊はあの世へ行ったが、そこはもう手の届きようがない世界だ。
 冬ですらこの世の生きとし生けるものへ遍く降りそそぐ陽光も、死者へはまったく恩恵を与えることができない。
 現実をそのままにとらえ、諦観に静まる心で合掌しつつ墓地を通り過ぎる蛇笏。

 ここまで読んで来ると、「は地上におはし給はず」にも潔さが感じられてくる。
 生きてたどり着いた境地を見せた、さすがの67才である。
 最後に辞世の句、あるいは臨終の句とされている作品について触れておきたい。

「誰彼もあらず一天自尊の秋」


 この「一天自尊」は明らかに、現象世界はそのままに自らの心の本性であると観た状態である。
 無常なるものとして「誰」も「彼」も「自分」も全てが在る。
 それは「天」であり「尊」と言うしかない。合掌

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〈灰塚や火葬炉や古いお塔婆のお焚きあげなど、一切の供養を行いました〉




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2015
11.08

神は地上におはし給はず冬の虹 ─飯田蛇笏─

201511080002.jpg
〈会津の冬空にかかったをお借りして加工しました〉

 11月8日は立冬である。
 今年もとうとう冬を迎え、が一段と儚さを感じさせる時候となった。
 太平洋戦争敗戦から7年後となる昭和27年、俳人飯田蛇笏(イイダダコツ)は詠んだ。

「神は地上におはし給はず冬の


 冬の空に鮮やかなが浮かんでいる。
 多くの人びとは美しさに惹かれ、「あっ、だ」と喜んで眺める。
 つかの間、幻のように浮かんでは消えるアーチは、天への架け橋であるかのようだ。
 天におわす神が何かを約束される徴(シルシ)と観るクリスチャンの方々にとっては、特にありがたい吉兆であろう。

 と神と言えば、映画『黒い雨』を思い出す。
 広島で被曝し、死に逝く人びとの生と死を描いた映画の最終場面、閑間(シズマ)重松は、倒れて病院へ運ばれる姪の矢須子を見送りながら、思う。
〝―─今、もし、向うの山に虹が出たら奇蹟が起る。
 不吉な白い虹でなくて、五彩の虹が出たら矢須子の病気が治るんだ……〟
 モノクロの映画はついに虹を見せることなく幕が降りる。
 この映画の原作が井伏鱒二によって書かれたのは昭和40年、映画が公開されたのは平成元年であり、冒頭の一句は『黒い雨』をふまえたものではない。

 しかし、戦争と死はふまえている。
 蛇笏は長男をレイテ島で失い、外蒙古で抑留された三男も失っている。
 三男もまた社会人になる一歩手前で、病死した。
 神が天におわすかどうかはいざ知らず、少なくとも、人間が棲む地上には決しておられない、という慟哭が「地上におはし給はず」と詠ませた。
 
 敗戦から70年、地上の地獄を体験した方々のうちいったい幾人が、こうした思いで虹を眺めて来られたことだろう。
 昭和21年に生まれた小生は、傷痍軍人や米兵に〈戦後〉を感じつつ、モノの不足な時代を生きたが、戦争による喪失そのものを体験してはいない。
 それだけに、映画や小雪の『黒い雨』、あるいはこうした句に接すると、戦争そのものに巻き込まれ、戦後を背負いながらの人生を過ごして来られた方々のお気持は〝いったい、いかばかりか〟という強い思いが起こる。
 息子三人を失った67才の男が眺める虹とは……。
 あまりにも深々と心へ切り込んでくる忘れ得ない一句である。




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2015
11.07

【現代の偉人伝】第213話 ―空(クウ)となった師匠欣ちゃん―

201511070001.jpg
欣ちゃんは74才で駒沢大学仏教学部に合格し、「認知症対策のつもりで勉強した。本当にうれしい。大学には一日も休まずに行く。野球部にも入りたい」と言った〉

 11月6日、隠形流(オンギョウリュウ)居合の道場から帰山し、久方ぶりに「ファミリーヒストリー」(NHK総合テレビ)を観た。
 昭和63年、52才で突然逝去したコメディアン東八郎のルーツを辿る番組である。
 欣ちゃんこと萩本欽一氏は、東八郎の弟子だった。
 東八郎は、わずか5才違いの欣ちゃんへ身体を張って芸を教えたという。
 欣ちゃんは、父親の急死にとまどう息子東貴博氏へ、父親と同じ道を歩みたいのなら亡くなった父親の前で誓えと励ます。
 誓った東貴博氏は46才になった今、父親が遺したお笑い養成所「笑塾(ショウジュク)」の再開を果たし、活躍中である。

 さて、番組の最後近く、「私の芸の八割は東八郎のものです」と公言している欣ちゃんは、テレビカメラを通して東貴博氏へ言葉をかける。

「私は東八郎から芸を教えてもらいました。
 私が貴博に教えたのは、東八郎からもらった私の芸です。
 だから貴博は私の弟子ではありません。
 東八郎の弟子です」


 絶句する東貴博氏は涙ぐみ、小生もしばし、アングリとなり、隣に座る妻へ語りかけるともなく呟いた。
「こんなことって言えるのかなあ」

 9年前、ブログ『現代の偉人伝』へ書いた「第22話 武士道を見せた萩本欽一氏」が思い出された。
 野球好きの欣ちゃんは、自前の球団『茨城ゴールデンゴールズ』を手塩に掛けて育てていた。
 ところがある日、遠征先で、若手メンバーの一人が未成年者と飲酒したあげく、婦女暴行事件を起こした。
 メンバーが所属していた吉本興業はただちに解雇を決めた。
 その発表とほぼ同時刻、移動中の欣ちゃんは羽田空港で取材に応じ、足を振るわせながら球団の解散を発表した。
 欣ちゃんは、自分が悪いと重ねて社会へ詫びた。
 山本圭一容疑者を一言も責めず、恨み言も発しない。
 この時点で「(弟子を)どうしてあげることもできないから。一緒に謝るしかない」とは信じられない言葉である。
「僕には責任がある。山本が反省して、どっかで仕事をやるまで責任がある」
「今は『ごめん』と『ありがとう』だけです」
 これでインタビューは締めくくられた。

 師へ迷惑をかけ、弟子に裏切られるなど、さんざん失敗をやらかしてきた小生には一生、忘れられないできごととなった。
 今回の言葉も、穏やかな横顔もきっと忘れないことだろう。
 コメディアンの第一人者が、全く〈この私〉というこだわりを離れている。
 懸命に弟子を育てただろうに、育ててやったという意識が全くない。
 義理のやりとりに明け暮れ、自分の売り出し合戦に忙しいこの世間を、欣ちゃんはあまりに飄々(ヒョウヒョウ)と生きている。
 何としても偉人伝へ書き遺しておきたい。




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2015
11.06

心から思いやりがなかなか出ない時は? ―思いやりを思い出す瞑想法―

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〈十三代酒井田柿右衛門作『慈母観音置物』〉

 当山では、瞑想法の一環として、チベット密教に学んだやり方を採り入れています。
 誰かからひどい仕打ちを受けて腹の虫が収まらない時。
 世の中の嘆かわしさにうちひしがれた時。
 意欲が湧かない時。
 さまざまな状況で、この単純な瞑想が皆さんに役立っています。

 まず、目をつぶり、誰かから思いやりでくるまれた状況を思い出してください。
 親、友人、先輩 先生、師、その方その方によって相手は違っても、必ず誰かは心に浮かぶはずです。
 一人として、〈おかげさま〉という体験をしない人はいません。
 誰かの手を借りないでこの世を生きている人は、一人もいないからです。
 小生は、悪口をたしなめてくれた母親、弱い者いじめを制してくれた父親、病弱な生徒を励ましてくれた先生、困窮のどん底で手を差し伸べてくれた友人、無知で高慢な者を導いてくださった師、托鉢のおりに本音をぶつけてくださった方々、当山を信じ支えてくださっているサポーターやご縁の方々、……。
 まるで死に瀕したおりのように、恩人の数々が思い浮かびます。

 次に、そうした人びとのうち、誰か一人をはっきりと瞼の裏側に浮かび上がらせます。
 そして、忘れられない〈その時〉の光景をできるだけはっきりと再現します。
 すると〝ああ、ありがたい……〟という思いが胸に広がります。

 感謝の思いで胸がいっぱいになったなら、その人へ呼びかけます。
 心中でも、小声でも、あるいは大声でもかまいません。
 「お母さん」「母ちゃん」「ママ」「おふくろ」、自分の心から自然に出てくる呼びかけ方が一番です。
 呼びかけが重なると情感が深まり、自然に合掌しているかも知れません。
 このあたりではもう、受けた思いやりに対して感謝するだけでなく、音叉が共鳴するように、自分の心でも誰かを思いやる気持が強く動き出しています。

 一日のうち数分でも、こうした時間を持てば、心中に閉ざされがちな思いやりの心が日々、活き活きとはたらくようになることでしょう。

 11月5日、河北新報社で行った相談会でも、参加者の方々と共に、ささやかな瞑想体験を行いました。
 シーンとした会場に、小生の「かあちゃん」という小さな呼びかけが通って行きました。
 心中で母親以外の誰かを思い出していた方々には邪魔だったかも知れませんが、単純な瞑想法の肝(キモ)のところはご理解いただけたのではないかと思っています。
 当山の人生相談に来られる方だけでなく、より広く、この〈思いやりを思い出す方法〉をお伝えしてゆきたいと願っています。
 私たちの人生が幸せなものになり、社会が幸せで満たされるためには、私たち一人一人の心から思いやりの光が発せられなければならないからです。

 そう言えば、会場からお受けしたご質問の一番目は「あらゆる宗教に共通しているものは何ですか?」でした。
 すかさず「思いやりです!」とお答えしました。
 愛、慈悲、いつくしみ、さまざまな呼び方はあっても、相手を思いやる心は私たちの心中におわす仏神の心です。
 それに根ざさない宗教はないと思われます。
 この世に生まれ落ち、自力のみでは決して生きられない生きものである人間が生き延び、育ってゆくために、無条件の思いやりは欠かせません。
 私たちはそれを持ち、発揮する者としてこの世にやってきました。
 人間が人間として生きるとは、思いやりの光を発しつつ生きることに他なりません。
 だから仏教では、私たちを〈み仏の子〉と考えるのです。
 思いやりを忘れずに、日々、生きて行こうではありませんか。
 なお、11月14日(土)に開催する寺子屋でも、この瞑想を行いますので、どうぞふるっておでかけください。




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2015
11.05

無常の中で見つからない本当の自分 ―『チベットの生と死の書』を読む(5)―

201511050001.jpg

 ソギャル・リンポチェ師の著書『チベットの生と死の書』は、生と死を考える人びとへ重要な示唆を与える一冊である。
 伝統仏教の最先端を示し、かつ、最奧をもかいま見せる高貴な魂の結晶である。
 師は「仏法をより近づきやすいものに、現代的、実践的なものにするために著した」とされているが、700ページ近い力作で、なかなか読み通せないかも知れない。
 以下、全体の概要というよりは、いくつかのポイントを挙げておきたい。

第二章 無常

 師は、この章の最初にモンテーニュの言葉を示す。

「死を練習することは自由を練習することである。
 いかに死ぬかを学んだ者は、奴隷をやめることを学んだ者である。」


 死を練習すると言っても、自死のまねごとをするというわけではない。
 自分の死をリアルに想像してみるのだ。
 常々、死は〝やってきては困るもの〟として、ほとんど無意識のうちに日常生活から排除されているが、実は、心のどこかで、対決は避けられないと知っている。
 私たちは、〝無いもの扱い〟している死に抱きつかれている。
 振りほどけない。
 だから「自由」でなく、「奴隷」じみたことにもなりかねない。
 受け身になっているだけでなく、正面から死と対峙してみようというのがこの章の眼目である。
 自由になり、奴隷であることをやめるために。

「死は広大な神秘だ。
 だが、ふたつだけ確かにいえることがある。
 わたしたちが死ぬのは絶対に確実だということ。
 しかし、いつどのように死ぬかは不確実だということである。」


 私たちは、死の時期が「不確実」だから放置する。
 しかし、やってくることは「確実」だ。
 私たちは、正反対な二つの面を持った未知の死にどう向き合えばよいかわからない。 

「おそらく、わたしたちが死を恐れる最大の理由は、私たちが『自分は誰か』を知らないことにあるのだろう。」


 自分はこの世で唯一無比な存在であると思っているが、では、その「自分」を特定しているものは何か?と探してみると、「際限もなく集められたさまざまなもの」によって支えられていることに気づく。

「名前、生涯の記録、伴侶、家族、家、仕事、友人、クレジットカード……。
 わたしたちの身の保証はこのもろくはかないものによって支えられているのだ。
 では、それら一切が取り去られたとき、『自分は誰』だということになるのだろう。

 これら慣れ親しんだ支えを失ったとき、わたしたちはわたしたち自身に向き合う。
 見ず知らずの、ずっと一緒に暮らしてきたのにけっして会いたいとは思わなかった、気詰まりなよそ者に。
 わたしたちがあらゆる時間を騒音と雑用━それがどんなに退屈でくだらなくても━で埋めつくそうとするのは、沈黙のなかでこのよそ者と二人きりになるのを避けるためなのだろう。
 このことは、わたしたちの生き方にひそむ本質的な悲劇を指し示しているのではないだろうか。」


 ここで自分が「気詰まりなよそ者」と説かれているのは恐ろしい。
 よく考えてみれば、自分とは、〈よくわからないけれど、居ることだけは確かそうな誰か〉なのだ。
 そんな正体不明の誰かと「二人きりになる」ことを好む人はほとんどいないだろう。
 つまり、私たちは、名前や家族や仕事など自分の存在を支えているものは、はっきりと意識しても、それらを剥ぎ取った裸の自分とはなかなか向き合えない。
 しかし、必ずいつか、あらゆる支えが頼りにならない死を迎える。
 その時点ではもう、自分は「よそ者」扱いできない。
 このことを師は「悲劇」と言う。
 

「死んで、わたしたちはすべてをあとに残してゆく。
 特にこの肉体を。
 あんなにも大事にし、ひたすら頼みとし、懸命に生き延びさせようとしてきたこの肉体を残してゆく。
 しかも、わたしたちの精神は肉体よりもあてにならないときている。
 自分の精神をしばし見つめてみるがいい。
 蚤のようにつねに前に後ろに跳びはねているのが見えるだろう。
 思考が、何の理由もなく、何の脈絡もなく湧いてくるのが見えるだろう。
 その時々の混沌に押し流され、わたしたちは精神の気まぐれの犠牲になっているのだ。
 もしこれがわたしたちの知っている唯一の意識の状態であるのなら、死の瞬間に精神をあてにするのは馬鹿げた話だ。」


 名前も家族も友人も成果も、あれほど手入れし大事にしてきた肉体も、すべてこの世へ残してあの世へ旅立つ。
 もはや、頼りになるのは自分だけだが、その〈自分〉は何者であるかわからないまま、死の地点に至っている。
 意識は確かに在るが、恐怖や不安や希望などが次々と現れては消え、それらをコントロールする者はいない。
 自分自身が、瞬間瞬間に明滅する灯火のような意識の変化に翻弄されている。
 だから師は「死の瞬間に精神をあてにするのは馬鹿げた話だ」と言う。

 つまり、確実にやってくる死から目をそむけ、自分を自分たらしめていると思われる肉体や名前や家族や仕事などを当てにしているだけでは、いつやって来るかわからない死が到来した時に、何一つ頼るものなく、どうすればよいかわからない混乱の最中に、この世を去らねばならない。
 そこにはこの世を去る恐怖と、行く先の知れない不安しかない可能性が高い。
 では、どうすればよいか?

 持っている霊性に気づき、その光から覆いを取り払いさえすれば大丈夫です。
 次回へ続きます。




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「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
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2015
11.03

11月5日、秋の相談会を行います ―あの世への安心と、この世での幸せを―

201511030003.jpg

 今年も「マイベストプロ宮城 秋の生活相談会」が行われます。
 生と死について、いろいろなお話を申しあげる予定です。

 さて、私たちは必ず誰かをあの世へ送っています。
 ご先祖様がない人は誰もいません。
 では、実際に自分が誰かを送らねばならない時は、どうすればよいでしょうか?
 ソギャル・リンポチェ師は説きます。

希望を与えることと、許しを見出すこと」


 この二つを考えてみましょう。

1 希望を与える

「死を目前にした人といるときは、つねにその人が成し遂げたこと、成功したことを思い語らうようにしなさい。
 その人生を建設的なものとして、十分に満足できるものとして受け止めるように仕向けなさい。
 短所ではなく長所に目を向けること。
 死に行く人はしばしば、罪悪感や後悔の念や失意といったものにとらわれて、ひどく脆くなる。
 それを心ゆくまで、ありのままに表現させてやりなさい。
 その人の言葉に耳を傾け、それを受け止めること。
 そして同時に、いつか適当なときに、その人にみずからの仏性(ブッショウ)を思い起こさせ、瞑想の行を通して心の本質に安らぐように励ますといい。
 特に、その人にとって痛みと苦しみがすべてではないことを思い出させることだ。」


 小生は、ご本尊様へ祈り、戒名をいただく前に、故人がどういった方だったかをお訊ねします。
 すると、ご遺族は必ず、口々に〈長所〉を言われます。
 そして祈れば必ず、人間としての徳にあふれたお戒名が授かり、それをお伝えし、ご説明申しあげると皆さんは、あらためて故人の人徳に涙されます。
 そこに送る人の大いなる安心があり、当然、あの世の親であるみ仏から降りた戒名を受けた故人は安心を自信を持ってあの世の旅を始めることでしょう。
 生前戒名の授与において、この過程がこの世の方のために行われます。
 生前戒名を受けた方は必ず、出家した僧侶のように、日常生活において何らかの生き直しを行われるものす。

 それと同じように、旅立とうとする人が自己嫌悪や後悔の念にとらわれそうになった時は、〈長所〉を語ってあげたましょう。
 仏性が何をさせたかを語ればよいのです。
 特に、子供や後輩など、恩を受け感謝している人びとの言葉は必ず大きな力づけになることでしょう。
 もちろん、その人の口から漏れ出し、流れる愚癡は遮らず、出させた上で。
 いわば、膿を出し切ってから薬をつけるのと同じです。
 必ずや癒えて心が軽くなることでしょう。

2 許しを見出す

師は、 「神さまは私の罪を許すでしょうか?」と不安な人にはこう答えます。

「許しはすでに神の本性のうちにあります。
 それはすでにそこにあるのです。
 神はすでにあなたを許しています。
 なぜなら、神は許しそのものですから。
『過つは人のつね、許すのは神の性』というでしょう。
 むしろ、あなたは真にあなたを許せるか?
 それが本当の問題なのです。
 自分は許されていないし、許されることもないのだという思いが、あなたをそんなにも苦しめているのです。
 だが、それはあなたの心のなかにしか存在しないものだ。
 臨死体験のなかで、すべてを許す大いなる黄金の光の存在が現れる話を、読んだことはありませんか?
 そしてまた、こういうこともよくいわれるのです。
 最後に私たちを裁くのはわたしたち自身なのだ、と。
 罪を清算するためには、心の底から浄化を求めることです。
 あなたが真に浄化を求めたその先に、許しはあるのです。
 神はあなたを許してくださるでしょう。
 キリストが語った美しい寓話のなかで、父親が放蕩息子を許したように。
 あなたがあなた自身を許すのを手伝ってあげなさい。
 あなたがした善いことを思い出すのです。
 あなたの人生に現れたすべての人を許しなさい。
 そして、あなたが傷つけたすべての人に許しを乞うのです。」


 キリストは人間の原罪を背負って磔になりました。
 菩薩(ボサツ)は、お地蔵様の代受苦(ダイジュク)に表れているとおり、生きとし生けるものの苦を身代わりとなって吸い取り、浄化します。
 神仏は、お許しくださいますか?と問うまでもなく、〈罪や苦を引き受け、許す者〉として存在しているのです。
 だから、神仏に問うまでもありません。

 問題は、自分が自分を許せるかという一点にかかっています。
 自分は自分を容易に許せません。
 なぜなら、自分の行為も、それをさせた心も知っており、かつ、良心があるからです。
 まじめに生きてきた人ほど、自分を許せないものです。
 それが、人生最後の苦しみになったりもします。
 では、どうすればよいのでしょうか?

 まず、良心に恥じない善行を思い出すこと。
 もちろん、それで〈チャラ〉になるわけではありませんが、心は常に瞬間というピンポイントの連続体であることをイメージすれば、善行というポイントが輝いている時は、悪行というポイントは光を発していないことになります。
 だから、それだけでも楽になります。
 しかし、それだけでは根本的な解決にはならず、さらなる善行必要です。

 自分にかかわったすべての人の過ちを許すのです。
 自分を傷つけた人、陥れた人、バカにした人、無視した人などなど。
 許す心のはたらきは慈悲であり、それは尖らず柔らかく、冷たくなくて温かい。
 心に慈悲が広がる時、自分の罪を暴き、咎める氷の刃は消えています。

 それでも罪滅ぼしの意識は消え去らないでしょう。
 ならば、傷つけたすべての人に許しを乞うしかありません。
 心から。
 本当にそれができて心に涙が流れる時、〈自分が悪かった〉という思いは決して自分から力を奪いはしません。
 良心が激しく活動しているからです。
 他人を許し他人へ許しを乞うている時、心の主役は慈悲心と良心です。
 この両者によってあの世へ送られる方に、罪と罰に関する何の心配がありましょうか。

・講  師 住職遠藤龍地
・日  時 11月5日(木)午後3時~3時50分
・場  所 河北新報社一階ホール
     仙台市青葉区五橋1-2-28
・参加費 無料
・定 員  20名(申込順で締め切られます)
・申込み  022(715)9350
 閉会後、個別にご相談を受ける時間とスペースもあります。お気軽にお申し込みください。




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2015
11.03

あの世のことがなぜ、わかるのか? ―『チベットの生と死の書』を読む(4)―

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 ソギャル・リンポチェ師の著書『チベットの生と死の書』は、生と死を考える人びとへ重要な示唆を与える一冊である。
 伝統仏教の最先端を示し、かつ、最奧をもかいま見せる高貴な魂の結晶である。
 師は「仏法をより近づきやすいものに、現代的、実践的なものにするために著した」とされているが、700ページ近い力作で、なかなか読み通せないかも知れない。
 以下、全体の概要というよりは、いくつかのポイントを挙げておきたい。

1 バルドの教えは科学的か?

 師は弟子たちからよく訊ねられるという。

「わたしたちはどのようにしてこれらバルド(死と再生の間にある中間状態)の何たるかを知ったのか。」


 あの世に行って写真に納めてきたわけでもないのに、なぜ、死後の成り行きがこうであると断言できるのかという〈科学的〉思考に慣れ親しんだ私たちにとって至極、あたりまえな質問である。
 師は「現代西洋における〈精神〉の概念はきわめて偏狭なものだ」と言う。

「近年の、特に精神と肉体に関する科学や超個人心理学(トランス・パーソナル・サイコロジー)による目覚ましい現状打破の動きにもかかわらず、科学者たちの大半は相変わらず精神を脳における生理作用以上のものとみなしてはいない。
 しかしそれは、あらゆる宗教の神秘家たちや瞑想者たちの体験が数千年にわたって語り伝えてきた事実に反するものだ。」


 また、仏教についてアメリカの学者が述べた見解を紹介している。

「内なる科学は、実在についての徹底的で包括的な知識のうえに、自己と世界についての揺るぎない深い理解のうえに、成り立っているのである。
 言い換えれば、覚者(ブッダ)の完全なる覚醒のうえに成り立っているということである。」


 科学が研究者の発見と検証と利用の積み重ねとして成り立っているのと同じく、宗教的知見もまた修行者の観照とその追体験、及び工夫が重ねられて成り立っている。
 科学的真理は数値などを理解する人びとにとって明らかであり、宗教的真理は宗教的修練や覚醒、あるいは救済を求める祈りによって明らかとなる。
 また、分子式などを勉強しなければ科学的論述がチンプンカンプンで理解できないのと、教えを学び実践しなければお経がチンプンカンプンなのは同じである。
 当山では、お聴きいただく方々がある程度、理解されるように、お経の読み下し文を多用してはいるが、それには限度があり、ここ一番という法を結ぶ段階では、伝統的お次第に従い、最奧の経典を伝授されたとおりに用いるしかない。
 外科手術を受ける時、執刀医へメスの使い方を説明させようとする人はおられないだろう。
 それと同じく、修法もプロの行為であると考えていただくしかない。

バルドの教えはその源を覚醒した精神に、完全に目覚めた覚者(ブッダ)の精神に発し、原初仏から連綿と連なる幾多の志たちによって体験され、語り伝えられてきたものである。
 師たちは、精神についての発見を、何世紀にもわたって、科学的といっていいほど周到に入念に探究し体系化してきた。
 それがわたしたちに生と死を望みうる最高の形で図式化して見せてくれているのである。」


 お大師様の密教体系も、ダライ・ラマ法王やソギャル・リンポチェ師が説くチベット密教も確かに精緻であり、万人へ開かれている。
 それを日々〈体験〉し、科学の成果にも深い関心を持ちつつ生きている一行者としては、科学と宗教が文明を導く車の両輪であることが実感できる。
 物理学者デヴィット・ボーム氏は言った。

「世界は流動し続ける完全無欠な全体性として存在している。」


 それは、あらゆるものが因と縁によって生じ滅する無常にあり、その全体が因果応報の理によって動いていると考える仏教の世界観と重なっているではないか。

2 「なぜ?」の問い方

 冒頭の疑問に対しては、覚者(ブッダ)が観た世界の真実性を確かめたいのなら、強い問題意識と探求心をもって教えに学び、仏法を体験してみればわかる、と答えるしかない。
 科学の発展も仏法の深化も、根本的問題意識なしにはあり得なかった。
 自分が紡いでいる生の頼りなさ、必ず訪れる自分の死に対する不安や恐怖と本気になって向き合う時、きっと「死後の世界がなぜ、そうであるとわかったのか?」ではない、別な疑問が湧いてくることだろう。
 
 小生もそうだった。
 受験の失敗に始まった彷徨での問いは、人生がかかっていたつもりでも、〈生きられる〉環境にあって発した甘いものだった。
 生きて行けるかどうかの崖っぷちで、ようやく本当の疑問、探求心が起こった。
 何もなくなったのに、自分をそのまま映し出す鏡が目の前にぶら下がり、逃げられない。
 自己弁護も逃避もできず、自分そのものをどうにかするしかない。
 偽りの自分にはもう、すがりようのないところで、一本の道が待っていた。
 ただし、幸いにも師は最初から、道の盲信を戒めた。
「教えは仮説じゃ」
 問いを忘れず生きてみよ、そこで自分の血肉になったものだけが真実であると説かれたのだ。
 だから、お釈迦様が「教えの内容を聴いたなら、必ず自分で咀嚼せよ」と溶かれ、ダライ・ラマ法王が科学者との対話を欠かさない理由がよくわかる。
 本当の問いを発しないではいられない人生の局面が真理・真実へと導く。
 『チベットの生と死の書』は、そうした疑問をまっすぐに受け止める。
 失意にある方、誰かを失った方、何かを失いそうな方、行き場のない方……。
 皆さんと共に読み進めよう。




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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA





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2015
11.02

志と生き方の共有 ―今月の聖語─

 お大師様は説かれました。
「古の賢人は、人と会うことを必ずしも貴ばない。
 大切なのは、いかに遠く離れていても、固いと生き方を共有していることである」
 
原文です。
「古人面談を貴ばず
 貴ぶ所はを同じくするに在るのみ」

 お大師様の時代は今と違って、お互いの意を確認する手段としては、面と向かうか、それとも手紙でやりとりするしかありませんでした。
 もちろん、電話やネットはありません。
 こうした環境にあって、遠方にいる人と会うことの重みは、今の何万倍もあったはずです。
 それでもなお、それほど重要な〈面談〉の価値よりも、と生き方の共有はずっと貴いのだと説かれたのです。

 おそらくお大師様は、他心通(タシンツウ)という他者の心を知る力を具えておられたでしょうから、会わなくても肝腎な相手との通じ合いは行っておられたものと思われます。
 とは言え、天皇や高官とはどうしても会わねばならぬ状況がたくさんあったので、都と高野山の往復は長く続きました。
 お大師様は入定(ニュウジョウ…瞑想状態に入ったままになること)される6日前、弟子たちへ「吾れ永く山に帰らん」と〈その日〉を宣告されました。
 そして、自分が旅立ったあとは、仏法僧の三宝がお前たちを守るので悲嘆にくれず修行を続けよと説かれました。
 自分とはもう会えなくなるけれど、自分は〈このまま〉弥勒菩薩(ミロクボサツ)の浄土へ行ってお前たちを観ているし、と生き方はバトンタッチされているのだから、迷うことはないぞ、と叱咤激励したのです。

 事実、私たちは今でも、「南無大師遍照金剛(ナムダイシヘンジョウコンゴウ)」の御宝号をお唱えすると、お大師様との通じ合いを感得できます。
 面談は叶わなくとも、を同じくしているからでしょう。
 今日も、それを信じる善男善女が四国の霊場を歩いています。
 当山の「みやぎ四国八十八か所巡り道場」は何としても完成させたいと念じています。

 そうそう、「と生き方の共有」とは、何も、お大師様のように活躍し、山中に籠もることを意味してはいません。
「私たちは皆、み仏の子として尊い霊性を共有しており、それを確認するために、身体と言葉と心とをできるだけ、み仏へ合わせて行く努力をする。
 そうすれば、その人なりに、み仏の子らしい人生になると信じて精進する。」
 これだけのことです。
 どうでしょう。
 共有できそうではありませんか。




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 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。

https://www.youtube.com/watch?v=qp8h46u4Ja8





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