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2015
12.31

大三十日定めなき世の定哉 ─浮き世・憂き世の大晦日─

2015122800022.jpg

 井原西鶴(イハラサイカク)は大晦日(オオミソカ)を詠んだ。

「大三十日定めなき世の定哉」


「大三十日」は大晦日である。
 この「晦」には、不明確という意味があり、そもそもは太陰暦において、15日に満月になった後、新月へ向かって月が欠けて行く時期、そして、すっかり欠けきり真っ暗になった30日を指した。
 やがて、「晦日」は月の〈末日〉として用いられ、一年の間に12回ある末日のうち、もっとも重要な日として12月31日が大晦日となった。

 井原西鶴は、名にし負う元禄のベストセラー作家だった。
 浮き世のありさまや人情の機微を知り尽くした西鶴にとって、大晦日に繰りひろげられる人生模様には、特に哀れさ、健気さ、あるいは諦観を感じさせられたのではなかろうか。
 すべては変化し有為転変(ウイテンペン)して、流れゆく時間の中で何一つ屹立し続けるもののないこの世にありながら、私たちは、それを知りつつも何かへしがみつかずにはいられない。
 義理、人情、名誉、あるいは儲けといったものが、私たちに我と我が身を懸けさせる。
 特に師走や大晦日といった大きな区切りの時期には、そうした〈けじめ〉の意識によって、悲喜こもごもの〈決着〉がはかられてきた。

 江戸時代には、盆と正月が商売上の支払期限となっていたこともあり、借金している者はいよいよ返済に迫られ、切羽詰まるのが大晦日だ。
 敗戦後の昭和20年代にあっても、大晦日には、衣類はもちろん鍋や釜や布団なども質草になった。
 子供の頃、やもめ暮らしの中年女性が胸の前で腕を組み、親指と他の4本の指とで二の腕を挟みつつ、コートも羽織らず俯(ウツム)いて質屋の門をくぐる光景に出会った。
 娑婆にいた頃、支払いができず正月を迎えられない小生のため、風邪をひいた幼子を背負いながら資金を用意してくれた友人の姿は、夜の暗さ、風の寒さと共に、今も記憶に鮮明である。

 私たちは明日のいのちも確かでない〈定め〉なき身であり、何一つ確かなものとてない〈定め〉なき憂き世ではあるが、時の流れだけは確かであって、大晦日は誰にでも等しく訪れる。
 ──否応なく。
 定めなき身が、定めとしての大晦日をどう過ごそうか。
 因果応報の〈果〉をどう生きつつお正月を迎えようか。

 答の一つが飯田蛇笏(イイダダコツ)の一句である。

「父祖の地に闇のしづまる大晦日」


 一年の終わりは、いのちの終わりを連想させる。
 誰もが上上大吉(ジョウジョウダイキチ)を願う新たな年を迎える夜の闇はいつにも増して深く黯(クロ)い。
 かつてこの世に在り、いのちと心を受け継いでくださったご先祖様たちは、この地のどこかに、気配を留めておられる。
 そもそも、私たちが生きて在る以上、必ず気配をまとっているはずなのだ。
 忙しい日常生活にあっては、誰もそのことに気づかない。
 しかし、否応なく訪れた区切の時を前にして、敵や獲物に全身の神経をそそぎつつ物陰で息をひそめる獣のように、密やかな静けさへ身を置く時、我が身にまとっていた気配が天地と感応して闇の中から気配が立ち昇る。
 あくまでも静まり、鎮まりながら。
 
 きらきらしいお正月を前にして、せめてこの日ぐらいは、その静まりに身を置きたい。
 そして、冥界から降りて来られる無限のご先祖様方と共に新たな年を迎え、祝いたい。




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2015
12.30

遺影と語る ─ヘルメットのAさん─

20141223000232.jpg

 ご葬儀、あるいはお納骨の時など、たまに、遺影を縁とした会話が生ずる。

 Aさんは還暦を過ぎてもまじめに工事現場ではたらき続け、突然、亡くなった。
 仲間と酒を飲んだりもしたが、なぜか出身地については語らなかったという。
 福祉関係者のみの立ち会いによるお納骨となり、石屋さんが手順を進めた。
 好きだった缶ビールやセンベイが添えられ、「準備が調いました」の声に法具を正面へ移動しようとして、荷物の上へ置かれたままになっている小さな遺影に気づいた。
 工事現場らしい背景で、上半身だけが映ったありきたりのスナップ写真である。
 手に取り、お墓へ立てかけた。
 黄色い安全帽をかぶった痩躯(ソウク)のAさんは陽に焼け、やや得意気に穏やかな笑みを浮かべていた。
 プロとしてはたらく誇りなのか、あるいは年配者になっても仕事に自信があるのか、揺るがぬ何かを感じさせる渋みの伴う佳い顔だった。
 手を合わせた瞬間、思いもよらず、こちらから問いかけが生じた。
「何を埋められたのですか?」
 彼が過去に埋めたのは、よもや人間ではあるまいが、埋めるしかなかったモノなのか?
 それとも、交友関係や家族関係や仕事上のできごとなどの記憶だったのか?
 どんよりとした雪空の下、答が返ってこないまま修法に入り、結界を結び終えた瞬間、急に空から陽光が降って来た。
 Aさんの笑顔は輝きを増した。

 すべてが終わり、礼をして正面から離れようとした時、今度は口からもう一度、喉を擦る空気に伴って問いが出た。
「何を埋められたのですか?」
 数秒、遺影との対面が続いた。
 Aさんは静かに笑ったままだった。
 後片付けの途中で、察知した女性の担当者からおずおずと質問された。
「何を話されたんですか?」
「埋めたものをお訊きしたんですが、わかりませんでした」
 別の担当者が荷物へしまい込もうとしているAさんの写真が視界の隅を通って消えた。
 ありがとう、と聞こえたのは気のせいだったのか……。




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2015
12.29

【現代の偉人伝】第218話 ─競走馬ゴールドシップ─

201512290002.jpg
〈日刊スポーツ様よりお借りして加工しました。白く見えるのが奮闘するゴールゴシップ〉

 今年最後の偉人伝は人間でなく、馬になった。
 どうしても書き遺しておきたかった。

 12月27日、サッカーファンが「INAC神戸」澤穂希選手の神がかり的ゴールに酔いしれた日、JRA(日本競馬会)では老雄が最後のレースに散っていた。
 師走の名物「有馬記念」を戦ったのはゴールドシップ(牡6才)。
 3着までが3才馬と4才馬である。
 もう充分にベテランの域に達し、若手有力馬の台頭が目覚ましい中でファンはファン投票第一位に選び、専門家はほとんど本命あるいは対抗に押せない状況だったにもかかわらず、馬券は何と1番人気だった。

 夜中に観たJRAの動画では、案の定、スタートダッシュがつかず、最後方からの競馬になった。
 今年の菊花賞馬キタサンブラックが先頭に立ち1000メートルを62秒4で通過するというゆったりした流れで、追い込み馬にとってはもうほとんど届かない展開となった。
 2500メートルのうち、最初の1000メートルを1分以上かかるのは、ゆったりとレースが流れていることを表しており、先行する馬がゴールへ向かって徐々にペースを上げて行けば、後から追いかける馬は道中で力を使わせられてしまうので、最後の直線に入ってからの瞬発力を発揮しにくいのだ。
 それにもかかわらず、ゴールドシップはファンの期待どおり、向こう正面で最後方から驚異的な動きを見せ、ファンの大歓声を受けつつあっという間に4番手まで上がって行った。

 ほとんど、どの馬もこうしたレース運びはできない。
 途中で余計な力を使った上で最後に勝ちきろうとすれば、心臓も末脚ももたない。
 だから、騎手はなるべく馬と〈ケンカしない〉レース運びを目ざす。
 馬があまりスピードを出したくないのにムチで叩いたりすると、馬にとってストレスになってしまうし、反対に、馬がもっと早く走りたがっているのに手綱を絞って抑えようとすれば、かえって馬がムキになり、これも気力と体力を消耗させる原因になる。
 こうして馬たちの位置取りは自然に決まる。
 先行し、他馬よりも前へ行っている利点を武器にしてゴールへの逃げ込みや流れ込みをはかろうとするタイプの馬は前方に位置する。
 他馬の動きを見ながら先行馬をとらえようとするタイプの馬は中断に位置する。
 そして、道中、何も気にせずゆったりと走り、最後の瞬発力に期待して一気の追い込みを決めようとするタイプの馬は後方に位置する。

 ところがゴールドシップは違う。
 スタートが苦手で、ダッシュもなかなかつかず、そうかといって直線だけで勝負する、軽く鋭いカミソリのような切れがあるわけでもない。
 勝つためには、適当なあたりでなるべく前の方まで進出しておき、あとは根性で抜け出すのだ。
 この〈進出〉が並大抵の行動ではない。
 他馬がまだ、ゆったりと〈流して〉いる間に突然、ギアアップする。
 しかもそれからが正念場、先行する馬をとらえ、なおかつ、後から必ずやって来るであろう追い込み馬の猛追をしのぎきらなければならない。
 スパートしている時間が長く、いわゆる〈長い脚〉を使う。
 こうした誰も真似のできない芸当をこの馬はやってのけてきた。
 もちろん、そもそもが明らかに〈無理〉のあるレース運びなので、いつも成功するわけではない。
 しかし、決まれば胸のすく勝利となる。

 今年の5月3日、京都競馬場で第151回 天皇賞(春)が行われた。
 2年前のダービー馬で、凱旋門賞(仏)でも4着と健闘した武豊騎手のキズナ(牡5才)が一番人気、キズナと同年のラストインパクト、あるいは2才下のアドマイヤデウスやサウンズオブアースの充実ぶりもめざましく、恐らく最後の挑戦となるであろうこの盾を獲得するのは容易でなかろうと予想されていた。
 しかし、ゴールドシップは、お定まりのレース運びを見事に決めた。
 横山典弘騎手は、珍しく「お願い」するのではなく「檄を」飛ばしながら向こう正面でポジションを押し上げて進出、豪快に抜け出して勝った。
 レース後、「今後、この馬に何を期待しますか?」と訊ねられた横山典弘騎手は「もう何もありません」と答えてから、「たまにでいいから真面目に走ってくれれば」と付け加えた。

 さて、今年の有馬記念に戻るが、引退が決まっているゴールドシップにはもう、春の力は残っていなかった。
 前にいたキタサンブラック(牡3才)が粘り、横にいたサウンズオブアース(牡4才)、そして勝ったゴールドアクター(牡4才)が駆け抜けて行った後、8着でゴールした。
 しかし、決して脚が止まっての惨敗ではなく、ゴールドシップまでの間に、前の馬から一馬身以上離された馬はいない激戦だった。
 かつて、皐月賞、菊花賞、有馬記念、天皇賞、宝塚記念と最高峰のG1レースで勝利し、引退レースも手綱を取った内田博幸騎手は、引退式の壇上で涙を流しながら言い切った。
「自分の中で悔いのない乗り方ができた」
 引退式でも尻っぱねするほど気性が荒く、気まぐれな馬をなだめ、育ててきた今浪厩務員も泣いた。
「無事にあがってきてくれてホッとした。
 引退式では寂しさがこみ上げてきて(涙を)押さえきれんかった。
 世界一の相棒やからね」
 4万人ものファンが見守る引退式では、ありがとうの大歓声が谺(コダマ)した。

 もう一度、レースを観た。
 向こう正面、内田博幸騎手は老雄へ「さあ、行こうか」と声をかけた。
 老雄は「おう!」とばかりに往年の〈まくり〉を始めた。
 最終決戦場の最前面へ向かって──。

 剣聖とうたわれ、70才を超えてから戦場で斬り死にしたとされる上泉伊勢守を想う。
 浮き世の義理で戦闘に加わり、味方を勝たせながら、たった一人斬り死にした幕末の剣客平手造酒を想う。
 12月29日の日刊スポーツは厩舎へ届いたゴールドシップ宛の手紙を報じた。
「15着惨敗で初めて掲示板を外した13年ジャパンCの直後。
『あんなに強い馬でも、これだけ負けることがあるんだと、逆に勇気づけられました』。
 心の病を抱えた女性からだった。
 負けても負けてもくじけない姿が共感を呼んだ。」
 ありがとう、ありがとう、ゴールドシップ。
 小生も……。




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「おん あらはしゃのう」
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2015
12.28

問われる価値と倫理 ─爆弾テロに怯える時代(その3)─

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 なぜ、国家が反国家的な武装集団を抑えられず、爆弾テロが世界中の〈日常〉へ入りこんだのか?
 国際危機グループ(ICG)会長のジャンマリー・ゲーノ氏は朝日新聞のインタビューに答えた。
 以下、要点の抜粋である。

「欧州にもいえることですが、日本はもっと開放されるべきです。
 均一性の高い社会であることは、日本の強みであるとともに、弱みでもあるからです」

「私はフランス人で、仏文化を愛しています。
 同時に、自分の国はもっと多文化になるべきだとも思います。
 日本も同様です。
 私は、日本に行くたびに文化の素晴らしさに感動します。
 その独自性を保ちつつ、他の文化との対話を進めることが、結局は日本の成功につながるでしょう」

「インターネットを発展させたのが、欧州でも日本でもなく米国だったことから、教訓を得るべきです。
 グーグル、アマゾン、フェイスブックと、この分野で米企業が圧倒的なのは、米多文化社会で育まれた刷新の機運と無縁ではありません」


 氏の言う「解放」とは何を指しているのかよくわからない。
 文化の多様性を認めるという点からすれば、日本が〈閉ざしている〉とは思えない。
 キリスト教の教会やイスラム教のモスクがもっと建たないのか、という意味ならば、現状はおのづからそうなっているとしか言いようがない。
 たとえば、日本におけるキリスト教徒の数は、ずっと人口の0・8パーセントを超えないが、自然にそうなっている。
 イスラム教徒も今後、増えはするだろうが、それなりの範囲におさまることだろう。
 欧米と比べてどうなっているかという比較にはあまり意味がないと思われる。

 そもそもキリスト教が土台になってできあがった文化と、神道仏教が土台になってできあがった文化とでは、種々の面で違うのが当然だ。
 日本では、神道仏教そのものが多様性をもって変化、発展しているので、日本に暮らす人々の精神風土が一神教的ではない。
 もしも伝統的な仏教神道に納得できない人びとがそこから離れても、神道系や仏教系の新興宗教に行くケースが多く、新興宗教に入信して問題を感じた場合も、伝統的な神道仏教へ問題の解決を求める人びとの割合が多いものと思われる。
 事実、当山へもそうした人生相談は絶えない。
 新しい宗教には、早く、たくさん信徒を増やしたい、あるいは、入信した信徒を手放したくない、また、他の宗教を攻撃するといった姿勢でさまざまな問題を起こすものもある。

 ただし、移民や政治亡命という政治がらみの観点から解放を考える際は、なかなか難しい。
 何しろ四方を海で閉ざされた狭い国土である。
 しかも限りある国土の4分の3は山地であり、山脈に分断された平野は少ない。
 人口の約半分が住む沖積平野は国土のわずか1割しかなく、そこは地盤が軟弱で地下深くへの開発は進めにくい。
 今は急激な人口減少が深刻な問題となっているが、国土、自然、環境を考えた場合、日本列島における人口規模はどのくらいが適正なのか、という検討も必要ではなかろうか?
 また、ノーベル賞の受章者に見るとおり日本には充分な知力がある。
 必ずしもフランスや米国をモデルにする必要性はないと思われる。

「インターネットの発達で、国家の危機はこの先も拡大するでしょう。
 生身の人間と仮想の空間との間には、すでにずれが生じています。
 それに伴い、現実の政治形態も変わらざるを得ません。
 例えば税制。
 これほど人の移動が頻繁な中でどう徴収するか。
 徴税の難しさは、国家の本質的な危機につながります」


 儲かっている企業が税金を逃れるため、儲けさせてくれている国から登記を移して納税義務を免れようとするなど、資本家と経営者のモラルはどこへ行ったのか。
 税金によってのみ、社会の手助けを必要とする人びとが救われるのであり、そこを無視してさらに私腹を肥やそうするとは情けない。
 別な視点から見ても、この先、どうしても必要なのは「生身の人間」の回復である。
 イジメも、各種のハラスメントも、社会の格差も、他者との〈全人間的〉な、あるいは魂レベルでの接し方がわからなくなっていることと深い関係があると思われる。
 生身の人間同士の通じ合いによるまごころの回復は焦眉の急である。
 相手も自分も同じ人間である、あるいは同じ生きものである、との実感がなければ、本当の思いやりもまごころも動かない。
 ロボットの開発、普及も結構だが、便利になれば心が潤うわけではないことと、心は心によってしか救われないことを忘れないようにしたい。

「私たちが今いるのはルネサンスのような時代です。
 活版印刷術の発明が価値観を根本から変え、戦乱の時代を招き、安定を求める人々の意識を受けて絶対王制や国民国家が生まれました。
 現代もやはり、国家の弱体化の反動から、安定への希求が生まれています。
 20年後には、国家の領土とは異なる枠組みの共同体が機能しているかも知れません」

「『人はパンのみにて生くる者にあらず』と言われるように、利害だけで共同体はつくれません。
 共同体を束ねるための『価値』『倫理』が問われる時代が来るでしょう。
 この分野では現在、(過激な)宗教原理主義とナショナリズムが大手を振っています。
 私たちは、この概念を自分たちの手に取り戻し、ヒューマニズムを通じて再構築しなければなりません」


 交通網が発達し、生身の人間が簡単にどこへでも行けるようになった。
 インターネットが普及し、情報は世界中を一気に駆け巡るようになった。
 確かに国境は揺らいでいるのだろう。
 日本のような島国に暮らしていても、その実感がある。
 しかし、一気に〈地球市民〉になるというわけにはゆかない。
 言葉にせよ、生活習慣にせよ、ある程度共通点を持った人びとと共に形成している社会でないと、一日たりとも、落ちついて生活できない。
 氏はそれを「価値」と「倫理」と言った。
 宗教や思想や慣習が異なれば、それらも異なる。
 しかしそれでもなお、ヒューマニズムという上位の概念によって、違いが対立や争いをもたらさず、それぞれの〈よさ〉を認め合いつつ共生できるよう努めねばならない。
 そうでなければ、信頼に基づく安心な共同体はつくられない。
 自分だけの価値や倫理を硬い棒のように振り回して独善的にふるまい、構成員の間に混乱や憎悪を生む共同体にならぬよう、心したい。




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2015
12.27

「お坊さん便」と「脱檀家宣言」

20150120000732.jpg

 アマゾンが僧侶の配達「お坊さん便」を始めたという。
 資本主義はすべてを儲けの対象にするのが本性だ。
 だから、そのこと自体に価値判断はできない。
 人間がそのシステムをどう動かし、どう関係するかが問題だ。

 日本では、教育や医療まで商売の対象になった。
 今や、教師は生徒をお客さんと呼び、医師も患者をお客さんと呼ぶ。
 そうしなければ経営が成り立たないからだ。
 教師も医師も、お客さんの顔色を窺う。
 お客さんはお金を払う相手へ高飛車にでる。
 こうして、ある種の聖性を帯びた「師」は消滅しつつある。

 小生は、無から僧侶になった。
 紆余曲折はあったが、小生には、出家者であり同時に在家者であることは無理だったので、古い家を道場とし、托鉢人生相談、ご祈祷、ご供養、密教剣法の隠形流居合を法務として行い、営利事業は一切行わずにやってきた。
 そうした行者にもときおり、葬祭業者さんや信徒さんから、導師としてご葬儀を行って欲しいとのご依頼はあった。
 まとまった収入があれば仏像の借金が払え、屋根の修理や境内地の整備もできたが、決してご葬儀を〈待つ〉ことはなかった。
 待つのが本分でないことは言うまでもなく、お釈迦様も、お大師様も、まず歩いてこその行者だったし、行者としての本分を尽くしつつ生きられる範囲が出家者に許される〈この世の生〉であると心得ていたからだ。
 現在は、お寺らしいお堂も墓地もでき、職員もいるが、すべては結果でしかない。
 共同墓も、お焚きあげも、求める方々の願いに応じてスタートし、今に至った。
 いのちはみ仏へお任せし、縁を求める方々のために、求められる法務を行ってきたに過ぎない。

 さて、今回の一件である。
 改革、解放、自由などのお題目ですべてが儲けの対象になろうとしている異様な時代であっては、娑婆の論理が宗教の世界にまで網をかけようとしているからといって、驚くことはない。
 どうすればよいか?
 まず、第一に、出家者がご葬儀を求めて右往左往せず、托鉢人生相談やご供養など出家者としての本分を尽くすことである。
 聖職者がみ仏へいのちをお預けした者として生き、死ぬならば、何者にも便利に〈利用〉されはしない。
 第二に、娑婆の論理とは無縁の世界の存在に気づき、その価値を感得できる人びとがおられる限り、まっとうな出家者は結果として生きられ、真に必要とされる寺院は存続し、仏法は生き生きとはたらき続けるので、いっときの時流など傍観することである。
 教師も医師も、志操堅固な方々は微動だにされないではないか。

 どんな世の中になろうと、娑婆と仏神と二つの世界があいまって、人間の智慧と慈悲は深まり続ける。
 娑婆の世界と仏神の世界と、両方を行き来しながら生きる人間には、二種類の智慧が欠かせない。
 そのことは1900年ほど前、お釈迦様が説かれた「縁起」の説を空(クウ)の理論で解明した龍樹菩薩(リュウジュボサツ)によって指摘されている。
 今やその『中論』に学ばない大乗仏教はない。
 
 娑婆をきちんと生きられるよう、当山では、皆さんと共に7つの徳目を誓っている。

「愚癡を言わない
 好き嫌いにとらわれない
 自他のものの区別をする
 明らかこととそうでないことの区別をする
 公と私の区別をする
 恩を着せず恩を忘れない
 自分の権利を主張するよりも人間としての尊さを見失わない」


 出家すなわちみ仏の世界へ一歩でも近づいていただけるよう、当山では、皆さんと共に5種の供養を誓っている。
 (塗香〈ヅコウ〉を加え、6種とすることもある)

「お水を供えて布施を誓う
 お花を供えて忍耐を誓う
 お線香を供えて精進を誓う
 食べものを供えて感謝と心身の調整を誓う
 灯明を点して自己中心の克服を誓う」


 蛇足だが、宗教行為である法務に値段はつけられない。
 病床にある恋人の回復を願う時、自分のいのちに代えても元気を取り戻させるよう、ご本尊様と導師へ求める力添えは、いくらになるのだろう?
 女手一つで自分を育ててくれた母親をあの世へ送る時、安心の世界へ旅立てるよう、ご本尊様と導師へ求める力添えは、いくらになるのだろう?
 真剣に祈る気持があるならば、そうした価値判断は自分でするしかないし、差し出すお布施は、財布の事情によってまったく異なるのが当然である。
 差し出すお布施は100パーセント自主的でなければならないので、商売上の〈対価〉ではない。
 平成22年、当山は、お布施の真意が忘れられつつあることを憂い、「脱檀家宣言」を行い、サポーター制にして今日まで来た。
 文章を再掲しておきたい、

「脱『檀家』宣言」 ─仏法の復興をめざして─ 

 平成22年6月15日、昨今の仏教界への危機感を募らせた末、「脱『檀家』宣言」を行った。
 高額な戒名料など、お布施に関する檀家の疑問や不安が寺への不信を招いたと世間でいわれるようになって久しい。
 仏法の危機を痛感しての決断について記してみたい。

 そもそも檀家とはインドの言葉でダーナ(檀)すなわち布施をする家であり人である。
 だから本来、檀家は仏宝・法宝・僧宝という三宝を守るすばらしい家と人を指す言葉だった。
 しかし日本では「ご先祖様を託している家」に限定して使われるようになり、問題が生じた。
 檀家は寺に所属する信徒の称だが、問題は「所属」にある。
 以前は、どこかの寺院に所属していればご先祖様の供養に心配がなく、万が一の時にも安心だった。
 また、子供が寺子屋へ通って勉強したり、病気平癒を願って祈祷を依頼したり、夫婦げんかの仲裁を頼んだりというように、地域の人々と寺には切っても切れない安心と信頼の関係があった。
 しかし、今の寺院の多くは普段、門を閉ざし、会話や法話の機会を十分に設けていない。
 檀家は何かの折には「いくら請求されるか」とビクビクする。
 安心よりも、不安の方がはるかに大きい。
 戒名料などで意のままにお布施を請求することに慣れた寺院はお布施本来の意義とありようを忘れ、堕落したかにみえる。
 それは仏教界の習俗に浸り切った姿を表している。

 お布施には「空(クウ)」と「自主性」が欠かせない。
 渡す側は真心を込める。
 受ける側は相手や多寡に惑わず、真心を受け止め、感謝する。
 これが真の布施である。
 「嫌々ながら差し出す布施」も「請求する布施」もあり得ない。
 こうして「所属」がもたらした縛り縛られる関係を基礎とするやりとりは檀家と寺双方の布施行を破壊した。
 だから、今や、縛り感覚が抜き難い「檀家」という言葉から離れる必要があるのではないか。

 しかし、営利事業を行わない寺院はお布施が納められなければ寺院を維持し法務を継続できない。
 この問題を解決するには、仏縁を求める人が自由意志で「サポーター」になればよい。
 寺院は、サポーターに対し、来るを拒まず、去るを追わなければよい。
 例えば、当寺には無縁だが、世間では確かに存在する、檀家への入檀料、離檀料は廃止すべきである。
 檀家300を超す当寺は脱宣言したが、サポーターという形をとるようになり、むしろその数は増えた。
 寺と「ゆかりびと」と称するサポーターの変わらぬ交流が続いており、それは、檀家という縛りから解き放たれ、双方がより自由になったことの証といえる。
 寺には人生相談、葬儀、などさまざまな任務があるが、布施はあくまで皆さんの常識と良識にお任せしている。
 寺院は法務内容を公開し、誰に対しても平等に祈ることはもちろん、勝手な請求をせず、真の布施のみで運営すべきである。
 真剣にサポートしてもらえるかどうかに存否をかけねばならない。
 寺院へ仏縁を求める方には、寺院の法務と僧侶の姿勢をよく見て自主的に判断し、布施行を実践していただきたい。

 こうした方法は、難しく険しい道のりになるかも知れないが、双方がここから再出発するならば、釈尊から流れ始めた仏法の清流は日本でレベルアップし、やがては世界を清め潤す力にもなると信じている。

(平成22年7月21日 河北新報「持論・時論」に掲載された投稿へ加筆修正した文章です)




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2015
12.26

夢と希望と戦争と

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 私たちは、新たな一年を迎えてを描き、希望を持ちます。
 では、希望とはいかなるものか少々、考えてみましょう。

 文学博士大喜直彦氏は述べます。

「『』とは将来実現させたいと思っている事柄、『希望』とは将来に対する期待である。」(『神や仏に出会う時』より)

「『希望』があってこその『』である。
 『希望』がなければ、『』は単なる空想的な理想にすぎないではないか。」


 たとえば、大リーガーになるのが、そのを実現するために野球の名門校へ入学するのが希望です。
 野球部の充実している学校へ入れなければ、少年が大リーガーになりたいという願いは空想でしかなくなる可能性があると言えましょう。
 中世びとを研究している氏は、自然=神仏を身近に感じながら生活した人びとの歴史を思い起こしてみることによって、深刻な環境問題などへ対処するヒントが得られるのではないかと述べています。
 具体的な希望を持ててこそ、安全、安心な地球環境を取り戻すという夢へ向かって進めます。
 たとえば、インドや中国における深刻な大気汚染に対して、一足先にそこを通り抜けた日本は、体験と技術をもって具体的に貢献したいものです。

 一方、法学博士小室直樹氏は述べました。

「人類社会はつねに過程のことである。
 最終的な桃源郷しか考えない人は困ったものだ。
 それに理想とは、現実に可能ないくつかの選択肢の中で最良と思われるものごとである。
 実現可能性が証明されないものは、理想ではなくて白昼夢である。」(『新戦争論』より)


 ここで言う「理想」は、上記の「希望」にほぼ該当します。
 たとえば、まったく勉強をしないでテストが0点ならば、進学という希望は理想的な進路ではなく、白昼夢にしか過ぎません。

文明が崩壊した状態は野蛮である。
 野蛮とは自然状態のことである。
 本能のおもむくままということである。
 文明社会は、今さら、『自然』に戻るわけにはいかない。
 『自然』とは、文明社会がもっとも恥ずべきもの、百方手を尽くして避くべきものである。」

「日本人は自然が好きだ。
 自然を愛好し、人工は忌むべきものだと考える。
 しかし、この表現をぎりぎりつめてゆくとたいへんなことになる。
 文明の否定につながりかねない。
 『人工』こそ文明の核心である。」


 私たちが生きている地球上は、人間にとって、文明に覆われた世界です。
 ヒマラヤやアマゾンの秘境といっても、排気ガスの影響から逃れられる一坪の土地もなく、飛行機から眺められる時点ですでに、文明の下にあることを意味します。
 人間は、ありとあらゆる分野に対して、常に〈人工〉をはかっています。
 私たちは、工夫せずに生きられないいきものだからです。
 氏は、こうした観点から説きました。

戦争は、自然の次元にあるものではなく、高度に人工的なものである。」

戦争とは、国際紛争解決の最終手段である。」


 戦争平和も、私たちの工夫から離れて自然に存在することはありません。
 平和な世界を〈夢〉見るならば、私たちはいかなる〈希望〉を持てばよいのか、よくよく議論される一年であって欲しいものです。




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2015
12.25

お斎(トキ)とお地蔵様

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 かつて、伴侶を亡くしたAさんからご葬儀後のお斎(トキ)に招かれた際に言われた言葉が忘れられません。
住職に居ていただきたいんです」

 突然、伴侶に先立たれたAさんはほとんど茫然自失、ご友人に連れられて当山を訪ねられました。
 さっそく葬儀屋さんに来ていただいて手順のうち合わせを始めましたが、百か日までのご供養を終えた後に行う会食について決めねばならず、小生が出席できるかどうか訊かれました。
 予定がギリギリだったこともあり、失礼させていただきたい旨を述べたところ、会食を行わない方向へ話が行きそうになりました。
 慌てて、私のことは気にせず、どうぞ皆さんでゆっくりしてくださいと声をかけた時に返って来たのが冒頭の言葉だったのです。

 これには衝撃を受けました。
 小生は常々、通夜振る舞いでも、お斎でも、酒を口にしないのはもちろん、出席しない、あるいはできない場合が少なくありません。
 皆さんのおもてなしや感謝のお気持はよく理解できるし、ありがたいと思いますが、ご葬儀関係の法務は、スケジュールどおりにやっている日常の法務へ飛び込んでくる突発的かつ緊急の法務なので、日程のやりくりが厳しくなりがちです。
 また、ご遺族の方々にとって一生のうち何度もない大変な時に、なるべく負担をおかけしたくないという思いがあり、送迎もお断りしています。
 そもそも行者たる僧侶は本来、どこへでも自分一人で動き、いかなる〈現場〉でも一人で修法を完結させねばなりません。
 もちろん、後進の人を育てるためには連れて歩くようになるだろうし、あるいは高齢になればどうなるかわかりませんが、少なくとも今は、こうした姿勢でやっています。
 そうした中での「居て」欲しいというご要望は、まったく思いもよらないものでした。

 常々、皆さんは何を思い、何に困り、何を望んでおられるのかと考え、極力、皆さんの気持や願いに添った法務を行うつもりでいるのに、さっぱり気づかなかった自分が情けなくなりました。
 会食は、弔問者へのおもてなしであり、お世話になった方々への慰労であり、聖職者への供養であるという形しか見ていませんでした。
 たとえ小生のごとき者でも、仏界との橋渡しを務める僧侶がそこに居ることを安心と受けとめてくださる方がおられるとは気づきませんでした。
 まことに不明の至りです。

 ところで、最近の人生相談では今まで以上に、皆さんの言葉へ耳を傾けています。
 ご本尊様と一体になった気持で、よく聴いているつもりです。
 悩み、苦しみ、壁にぶつかっている方々はどなたも真剣です。
 精一杯、与えられた人生を生ききりたいと願っておられます。
 小生の仕事はまず、そこに居合わすことだと考えています。
 自分の行き先を求める皆さんは、どうすればいいでしょうか?と幾度も訊ねているうちに、だんだん、ご自身の中でまとまってくるものがあり、光を感じたりもされます。
 あと一歩の力が欲しいと思わる場合には、ご祈祷やご加持(カジ)やご供養などを行います。
 
 路傍に立つお地蔵様は、ただ立っているだけで何も言いませんが、至心に心を向けると必ず目に見えない通じ合いが生まれます。
 そして、急時には思いがけないご加護をくださったりもします。
 人生相談を受ける行者としては、お地蔵様の爪の垢ほどでも役立ちたいと願うのみです。 

 身内を亡くすのは人生の急時です。
 修法を行うだけでなく、もう一歩、皆さんに身近なところにも居れば、もう幾ばくかお役に立てるかも知れません。
 Aさんはとても大切なことを教えてくださいました。
 その都度、状況をいっそうよく観て、ますます精進したいと肝に銘じています。




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2015
12.24

殺人者の夢枕に思う ─夢・亡霊・廻向─

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〈磨かれ、鮮やかな紅色をまとった六地蔵様〉

1 殺人事件と夢枕

 12月22日、奈良県警は、無職の川中浩容疑者(52才)を殺人の容疑で逮捕した。
 殺されたのは内縁の妻(82才)である。
 川中容疑者は滋賀県警に自首した。
「実は口論になって人を殺した。
 被害者が枕元に立って、仕事も手につかなくなった」
 
 夢枕に立つ被害者の亡霊に悩まされて自白した例としては、昭和46年に8人の女性を殺した大久保清事件が思い出される。
 スポーツカーに乗り画家を装った被告は幾度も刑務所暮らしをした結果、連続殺人事件を起こし、逮捕後も暴れたりしたが、最後は夢枕に立つ被害者たちの亡霊に耐えきれず自白した。
 また、4人の遺体が埋められていた現場近くでは、ことが発覚する前から幽霊を見る人が相次いでいた。
 被告は証言を覆さないと誓い、2年後に前橋地裁で死刑判決を受けても控訴せず、その3年後には東京拘置所で死刑が執行された。
 被告は最後まで死霊に怯え、死刑を怖れていたが、謝罪や懺悔は一切、なかったとされる。

2 制御できない無意識

 犯人は二人とも夢枕に立つ亡霊を見て、どうにもならないところまで追いつめられたが、それは当然である。
 無意識が起こすものであり、無意識の領域は意識つまり自我が直接、関与できないので、見たくなくても止められず、無意識の世界が変化するまでその夢は反復され得る。

無意識の自立性は情動が起こる時に始まる。
 情動は思いどおりにはならない本能的な反応であって、その反応は意識の合理的な秩序を自然力の爆発によって攪乱する」(カール・ユング著『個性化とマンダラ』より)

「我々は無意識を無と呼ぶが、しかしそれは潜在している現実である」(カール・ユング著『個性化とマンダラ』より)


 夢は自我のコントロール圏内にはないが、自分のと無関係ではない。

「デカルトが『考える』ことを重視したのに対して、たましいは『想像する』ことを重視する。
 想像(イマジネーション)こそは、たましいのはたらきであり、それを端的に体験するのは夢であろう。
 夢の大切な特徴は、それが人間の意識的自我によって支配できぬことである。
 夢は自我のつくり出したものでない証拠に、われわれは夢の展開がどうなるかまったくわからないし、『思いがけない』人物が登場し、展開が生じる。
 つまり、夢創作の主体は自我ではない。
 このような夢を創り出す主体をたましいであると考えてみるのである」(河合隼雄著『宗教と科学の接点』より)


 私たちは、実際には見たことのない光景を夢の中で幾度も見ることがある。
 意識の外に追いやりたい、記憶から消してしまいたい被害者の様子が繰り返し夢に登場したとて、何の不思議もなく、かつ、どうしようもない。
 夢にうなされ、目覚めては烈しい情動が起こり、事実を口にせずにはいられなかった二人の葛藤はいかばかりだったことか。

3 亡霊廻向

 では、亡霊はいるのか?

 一つは、死後、転生(テンショウ)する先が定まっていない中有(チュウウ)の御霊である。
 行く先がわからず、かつ、引導(インドウ)も渡されぬままの死者は、浮遊するしかない。
 インドのギュメ寺元管長ドルジェ・ターシー師は説く。

「中有の状態は決して楽ではありません。
 むしろ苦しみそのものです。
 なぜなら自分の生まれる先を必死で探さねばならず、また自分の心の投影であるさまざまな化けものや猛獣が現れて本人を苦しめるからです」


 だから、引導とご供養は重要である。

 もう一つは、この世への執着心により地獄などへ堕ちた御霊である。
 同じく、ドルジェ・ターシー師の言である。

「死ぬ際にとりすがって泣きつくと、死に向かう者の気持は大きくとり乱されます」
「死ぬ前にはその人が喜ぶようないい話をしてあげるのです」
「仏法に関する話をしてあげて、法に心が向く状態で死なせてあげることが死者を見取る最高の方法です」


 だから、感謝をもって送ること、ご葬儀における「お別れの言葉」に託すまごころなどは重要である。

 こうしたことを考えても、〈浮かばれない〉御霊が犯人に対して強い怨みの念を持ち続け、生死を超えた広大な無意識の領域で何かの感応が起こり、犯人の〈悪夢〉につながったものと思われる。
 ちなみに、当山では、さまざまな修法の最後にこうした願文を唱える。
「いまだ成仏せざる者には、願わくは成仏せしめん」
 修法の功徳(クドク)を未成仏霊へ廻向(エコウ…廻し向けること)するのである。
 当病平癒や商売繁盛のご祈祷でも、三回忌供養の修法でも、目的とする内容の如何を問わず、ご本尊様からいただいたお力の一部を未成仏霊へふり向け、少しでも成仏への縁としたいと願っている。
 善き願いをもって修法の場に臨んだ善男善女にとっても、善行(ゼンギョウ)の功徳を広く廻向することがさらなる善行となり、本来の目的達成の力となるはずである。

4 日常生活における廻向

 最後に廻向について述べておきたい。
 もちろん、最高の廻向は寺院での修法を依頼することだが、日常生活においてもそれは可能である。
 たとえば咲いている花を見た時は、御霊に対して誓いたい。
〝自分もこの花のように、いかなる雨風にも耐えて自分なりの心の花を咲かせます。
 だから、どうぞご安心ください。
 どうぞ、お見守りください〟
 そして言葉どおりに忍耐し、きちんと生きる姿を見ていただくのである。
 これこそが、菩薩(ボサツ)になるための「忍辱行(ニンニクギョウ)」であり、その功徳を廻向することは、在家の方々にとってすばらしい善行になる。
 こうした善行にいそしんでいれば、無意識の世界が穢れたり歪んだりせず、悪夢にうなされることもあまりないはずである。

 もしも悪夢に苦しむ時は、いつでも修法を受ければよい。
 東日本大震災後、急に濁った井戸を埋めたAさんは悪夢に悩まされるようになった。
 井戸の修法を受けた日から悪夢は去った。
 若い頃からやりたい放題だったBさんは、急に奥さんを亡くしてから眠れなくなり、当山の門を叩いた。
 あらためて御霊のご供養を行ったところ、体調を取り戻された。
 いずれも、〈思い当たる節〉があるのに放置しておいたのが原因だったと推測される。

 夢は知らせであり、警告であり、導きでもある。
 それは、自分の生活を陰から動かす無意識という氷山が水面上に出した頭のようなものであり、慎重に対応したい。




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2015
12.23

正氣と仏道 ─1月の聖語─

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 国防の専門家であるA氏に天下の情勢を訊ねたところ、こんな答が返ってきた。

「故小室直樹博士に、日本はこのままで大丈夫でしょうか、とお訊ねしたことがあります。
 先生は『時がくれば輝く人が出てくるものだ』と答えられました。
 藤田東湖の『正氣、時に光を放つ』だと思いました」

 幕末の儒学者藤田東湖は幽閉されたおり、40才にして気力、胆力、知力衰えることなく『文天祥の正氣歌に和す』(通称『正気の歌』)を書いた。
 その中にある一節。

「世に汚隆(オリュウ)無くんばあらず、正氣(セイキ)、時に光を放つ」


(世間に栄枯盛衰はつきものだが、その時が来れば、おのづから天地に満ち人を正しく導く正大なる精気が光を放ち、日本は本来の姿を取り戻す)

 藤田東湖は続けて、道鏡を退けた和気清麻呂(ワケノキヨマロ)や武士道を再認識させた赤穂浪士などを列挙し、時が経って当時を知る人びとが死に絶えても、英霊(エイレイ)は永久に亡びず、正氣は天地の間にあり、凛として普遍的な道を顕し続けると説く。
 霊性を十二分に発揮した英傑の御霊は後世にまで感化力を及ぼし、それを感得できる人がまた霊性を発揮して国は亡びないのだ。

 話を聴きながら、お大師様の言葉を思い出していた。

「時至り人叶(カナ)う時は、道、無窮(ムキュウ)に被(コウム)らしむ。
 人と時と矛盾する時は、教え即ち地に堕つ」


(機が熟し、人が応ずる時は、道が無限に広まる。
 人が感応できない時期には、教えは地に落ちる)

 お釈迦様に始まる仏道ですら、時が至らず、人びとの心が開かなければ、埋もれているしかない。
 時期が来れば本来の力で人びとを感化し、法が弘(ヒロ)まる弘法の時代となる。
 今の日本では、仏教の役割に関し、あれも要らない、これも要らないという風潮が広まり、寺院の存立が危ぶまれている。
 しかし、慌てることはない。
 他の世界宗教と同じく、仏教も迫害された歴史を持っている。
 そもそも仏教が日本に伝来した欽明天皇の時代には、仏教の受容は権力闘争と絡み、寺院が焼かれ仏像が投げ捨てられたりした。
 明治の廃仏毀釈でも、国家レベルで仏教排斥が叫ばれた。

 いずれにせよ、人が(ゴウ)によってどう苦しみ、社会が共業(グウゴウ)によってどう苦しむかは、その人により、その時代による。
 悪しきに対処する智慧を深め、2500年にわたって対処法を精緻に構築してきた仏教が人びとのために役立てるかどうかもまた〈時〉による。
 人を人として存在させる霊性は決して疵つかず、壊れず、無くならず、時至れば社会を動かすほどの正氣となり、仏性となって輝く。
 いつが〈その時〉であるかは、仏神にしかわからない。
 霊性の存在に気づいた凡夫は、ただ大切に保ち、穢れで覆わず、磨き続け、導かれるまでのことである。
 誰かの霊性に打たれた凡夫は、感応した時の瑞々しい感覚を忘れず、時に応じ事に応じて思い出し、心を清風で浄化し、力を奮い起こすまでのことである。
 必ず「時至り人叶う時」が来ることは、歴史が証明している。
 自分の小さな霊性を導きの灯火とし、迷わず、気負わず、淡々と社会的持ち場での分を果たし尽くすしかないと思う。

 お正月には、先人、先徳を偲び、その正氣仏性に想いをいたし、心身を清めながら新たな一年を迎えましょう。




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「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
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2015
12.22

豊かであるとはどういうことか? ─ユングが説く「内面の広さ」とは─

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 私たちは、モノがあれば豊かであるというわけではないことを知っている。
 もちろん、今日を生きるための食べものや水に窮乏していれば、そんなことを考える余裕もないので、普通に生きられる状態から先の話ではある。
 
 よく、「心の豊かさが一番」「心が豊かであれば、いつ、どこでも幸せに生きられる」と言う。
 では、心が豊かであるとはどういうことか?

 スイスの心理学者ユングは指摘する。

人格というものは、最初のあり方のままで、いつまでも変わらないということは稀である。
 それゆえ、少なくとも人生の前半においては、人格が拡大したり変化したりする可能性が存在している
 拡大は外からの付加によっても、、つまり外から新しい生き生きした内容が流れ込んで、同化されることによっても、起こりうる。
 このようにして人格の本質的な成長が経験されることもある。
 このためにわれわれは人格の拡大が外からのみやってくるものと仮定しがちであり、それを根拠として、人格というものは可能なかぎり多くのものを外から取り入れることによって成立するという偏見を持ちがちである。
 しかしわれわれがこの処方に従って、あらゆる成長が外からのみ来るものと考えれば考えるほど、ますます内面的には貧しくなる
 それゆえもし偉大な考えが外からわれわれを掴んだとしたら、むしろわれわれはわれわれの中の何かがその考えを迎えいれ、それに応じたからこそ、その考えがわれわれを掴んだと理解すべきである。」


 子供の成長ぶりを眺めていると、確かに人格の変化や拡大が認められる。
 特に「新しい生き生きした内容」が流れ込んだ時の反応や消化は目覚ましい。
 だから、世の親たちは、我が子へたくさんの習い事などをさせようとする。
 しかし、どんどん溜め込んだものがそれだけ素養として積み上がるという考えは「偏見」であるとされる。
 外からかき集めようとするだけでは「内面的には貧しくなる」のだ。
 そして、何かに〈掴まれた〉体験が例示される。

 私たちは子供の頃、あるいは若い頃、何かに掴まれる。
 とてつもない体験をしたような気持になり、世界が急拡大する。
 文学、音楽、スポーツ、人格、思想、恋愛、自然などが、なぜか突然、私たちを圧倒的に魅了し、虜(トリコ)にもする。
 小生が高校生の頃、ビートルズが注目され始め、世間の親たちは「子供を不良にする」と警戒し、小生の周囲でもその音楽性に感嘆する者はほとんどいなかったが、A君だけは誰はばかることなく堂々と価値を認め、楽しんでいた。
 小生が彼の追体験に及んだのは、遥か後のことだった。
 それまで大したつきあいはなかったが、心中深く尊敬するようになり、いまだに音信が続いている。

豊かであるとは、こころが何にでも対応できる状態にあることであって、狩りの獲物を溜め込むことではない
 外から入って来たものであれ、内から浮かび上がって来たものであれ、すべて自分のものになるのは、まさしくわれわれが外や内で出会った内容の大きさに見合うだけの内面の広さを持っているときだけである。」


 ここで言う「内面の広さ」は重要である。
 これがなければ、いかにすばらしい〈もの〉も〈こと〉も、通り過ぎるだけである。
 たとえば、お釈迦様やお大師様に出会っても、わからない。
 事実、四国の衛門三郎は庄屋で大富豪だったが、托鉢姿のお大師様の来訪が何であるかを理解できず、何度も追い払った。
 そして、重なる不幸にようやく我と我が身を省みて愚かさを知り、お大師様を追ってついには救われた。
 かつての三郎は財物にも家族にも恵まれていたのに、心が狭く、内面的には貧しかった。
 不幸になって気づいてからの三郎は、心が開け、内面的に充実した。

人格の本来の意味での成長とは、内的源泉から湧きあがってくる拡大を意識化するということである
 こころの広さがなくては、われわれは自分が相手にするものの大きさと関係を持ちようがない
 それゆえ、人間は彼の課題の大きさによって成長する、と言われるのは正しいが、しかし彼は自らのうちに成長できる能力を持っていなければならない。
 さもないと、どんな困難も役に立たない。
 彼はその課題によって打ちひしがれてしまうのがおちである。」


 思えば、敗戦からの復興、そして高度成長に向かう時期、「金の卵」、「就職列車」という言葉があった。
 多くの国民が貧しく、教育体制も充分に調わない頃、中卒の子供たちは有力な労働力として都会へ都会へと向かった。
 歓待され、あるいは虐げられ、激動の時代を懸命にはたらき、やがて一家を構えた人びとは例外なく、「困難」にうち克った。
 電器屋、寿司屋、床屋、などなど、当山を訪れる方々からそうした時代のお話を聴くことは多い。
 あのモノのない時代、誰もが「課題」を背負っていたが、皆さん「うちひしがれ」ることがあっても潰されはせず、見事に「成長」された。
 皆さんの昔話は「内的源泉から湧きあがってくる拡大」の物語であると言えるかも知れない。

 私たちは、安心と豊かさを求めてやまない。
 もちろん「足を知る」ことは大切だが、そもそも「豊かである」とはどういうことか、考える姿勢を失わないようにしたい。
 万般、〈誤った貪り〉に陥らないために。




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2015
12.21

【現代の偉人伝】第217話 ─「鶴岡のおじさん」こと金野昭治氏─

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〈「鶴岡のおじさん」は想像どおりの優しさに満ちていた〉

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〈児童の驚きと喜びが溢れている〉

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〈人間は、こんなに尊いことも為し得る〉

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〈児童に夢と感謝と読書の感動をもたらした証拠〉

 12月19日朝、NHKテレビの「おはよう日本」は、山形県鶴岡市立羽黒第四小学校に匿名で図書購入費を送り続けた金野昭治氏(68才)と子供たちの出会いについて放映した。
 昭和49年4月12日、小学校に届いた手紙には「社会から受けた温かい恩に少しでも報いたい。図書費に使って下さい」としたためられ、に2千円が添えられていた。
 差し出し人は「鶴岡市」とのみ記され、以来、手紙と送金は41年間、途切れることなく続いた。
 金額は途中から月5千となり、消印も仙台市になった。
 これまでに贈られた寄付金の総額は約220万円、購入された本は1400冊の「おじさん文庫」となった。
 児童たちは、まだ見ぬ「鶴岡のおじさん」を想像し、毎年、おじさんの似顔絵を描いて「おじさん祭り」を行ってきた。

 今年3月、児童24人しかいない小学校が今年限りで廃校となることを知った「鶴岡のおじさん」は名乗り出た。

 昭和48年、母校を訪ねた金野昭治氏は、図書購入の予算が2万円しかないことを知り、子供たちの力になろうと誓った。
 そして50年間は「鶴岡のおじさん」という子供たちの夢を壊さぬよう、匿名を貫こうとしていたが、名乗り出ることを決意した。
 直接、伝えたい思いがあったからだ。
「たくさん、本を読み、勉強して欲しい」
 氏は家が貧しくて高校へ行けない状態だったが、秋元育英資金を受けて高校を卒業し、東北電力へ努めた。
「私は子どもの頃、環境に恵まれず、地域の恩を受けました。
 その恩返しのつもりで続けてきました」
 これもまた、伝えたい思いだった。
 10月に行われた「おじさん祭り」に際し、氏は河井伸吾校長へ501通目となる最後の手紙と図書費を渡した。
 手紙はこう結ばれている。
「別れても 心の絆 とわに咲く」

 氏は児童たちと一緒に食事し、児童が「今かみしめる 読書の楽しさとおじさんの愛」と唄う「BELIEVE」の替え歌へ耳を傾け、「目標を持って努力する大切さが皆さんに伝われば、おじさんの夢は達成されました」と語りかけた。
 最後に、おじさんは子供たちがつくる腕のアーチを通って去った。

 今井大稀君(3年生)。
「決めたことを最後までやり続けるのはすごい」
 かつて似顔絵を何枚も描き、今は母親となった千春さん(33才)。
「私も娘もずっとおじさんに見守られてきたんだとジーンときました」
 司会を務めた百瀬蒼君(3年生)。
「僕も泣きそうになったけどこらえた。
 感謝の気持ちを伝えることができてよかった」

 羽黒第四小は隣の第三小と統合し4月から広瀬小になる。
 広瀬小では「おじさん文庫」の一部を引き受け、活用する予定である。

 最後にできごとを振り返ってみたい。
 昭和49年頃の高卒は初任給6万円前後だった。
 その中から2000円を割くことはいかばかりだったか?
 氏が高校を卒業できたことをどれほどありがたいと感じていたか、現在ではなかなか実感できないかも知れない。
 そして、社会から受けた恩を図書講読費という形で母校へ返したいという気持もまた、なかなか想像できない。
 自分へ課した使命を果たすためにはきっと、あれもこれも、我慢したことだろう。
 41年間には、たくさんの〈窮地〉があったはずだ。
 そのいずれをも乗り越え、月5千に増額して励ましの手紙と共に送り続けた事実はあまりにも重い。

 また、名乗り出るまでの葛藤も想像しきれるものではない。
 最後まで名乗り出なければ、優しくありがたい夢のおじさんがどこかにいて、毎年、読める本が増えるという児童たちの夢と現実は〈不思議〉なままで終わる。
 おじさんが現れれば、すべては現実となってサンタクロースのような夢の面は消え、現実が目の前に顕わとなる。
 現実のみとなった強いリアリティが児童たちの心へどうはたらくか?
 氏は、最後の最後までそこを考えられたのではなかろうか?
 そして決断された。
 直接、語りかければ、恩を感じ、感謝し、優しさと根気をもって奉仕する人間の姿そのものがきっと、夢を含んだ曖昧さのベールがなくなった素(ス)の力強さで、児童たちの心へ大切なものを植え付けられる──。

 子供たちは、為した人と現実に接した。
 やればできることが事実であると知った。
 やはり、「おじさん」の出現は正解だったに違いない。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA





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2015
12.21

お正月には生き方を修正しましょう

2015012000073.jpg

 お正月には、午前10時と午後2時の合計5回、修正会(シュショウエ)の護摩法を謹修(ゴンシュウ)します。
 3日(日)の午後は「みやぎ四国八十八か所」の初詣を行うので、護摩法はありません。
 3日は、午後2時より、高橋香温先生のご指導で書き初めを行い、自分の守本尊様の尊名を大きく書いたりします。
 いずれの修法でも、30分前に地下鉄泉中央駅前「イズミティ21」の正面へ送迎の車がまいります。
 送迎をご希望の方は必ず前日午後5時までにお申し込みの上、おでかけください。

 私たちには生まれながらにして一生をお守りくださる一代守本尊様がおられます。
 お正月には、その守本尊様方へ一年間のご守護と善き願いの成就を祈ります。

【一代守本尊様】

○子(ネ)年生まれの方……………………千手観音菩薩  
○丑(ウシ)年と寅(トラ)年生まれの方……虚空蔵菩薩  
○卯(ウ)年生まれの方……………………文殊菩薩    
○辰(タツ)年と巳(ミ)年生まれの方………普賢菩薩    
○午(ウマ)年生まれの方…………………勢至菩薩    
○未(ヒツジ)年と申(サル)年生まれの方…大日如来    
○酉(トリ)年生まれの方……………………不動明王    
○戌(イヌ)年と亥(イ)年生まれの方………阿弥陀如来   

 お正月にはそれぞれの守本尊様をご供養し、過ちを悔い改め新たな生き方を決します。
 これを悔過修正(ケカシュウセイ)と言います。
 その上で善き願いを持ち、三日間のみ修法される如意宝珠(ニョイホウジュ)の秘法によって実現へ大きなお力をいただきます。

20121125001.jpg

 写真は、お正月のみにご開帳される火焔宝珠舎利塔(カエンホウジュケイシャリトウ)。
 お大師様は、舎利塔を「如来の分身である」と説かれました。

【申込みによって授与されるもの】

 ご志納金の金額は決めておりません。
 ご志納金によって内容は変わります。
○御札 ○各種御守 ○御加持法楽米 ○御清め塩 ○大師ペンダント御守 ○高野山御線香 ○大師茶 ○絵馬

 ネット上からのお申し込みも可能です。
 修法後、授与品一式をお送りします。
 以下の要領でファクスかメール(ryuuchi@hourakuji.net)をお送りください。
 ご志納金は以下の口座へどうぞ。
・ゆうちょ銀行
 口座:宗教法人大師山法楽寺
 店名:八一八
 店番:818
 種目:普通預金
 番号:1537886 

 天下泰平、国土安穏、万民富楽の一年となりますよう。合掌

正月修正会祈願申込書20151221





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2015
12.20

さよならだけが 人生ならば  人生なんか いりません ─人生の嵐と花と─

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〈今年最後の護摩法が始まったところです。昨日の煤払いには他県からの方も含め、20人近い善男善女が参加されました。あらためて心より感謝申しあげます〉

 Aさんがご祈祷のお礼参りに来られた。
 手のケガがなかなか完治せず、辛い思いをしていたご夫人が、ようやく再手術に成功したと言う。
 
 Aさんは両手を固く組んで見せた。
リハビリが進んで、ようやく、こうできるようになったんですよ」
 当たり前の光景に思わず目を瞠った。
 それは密教の外縛印(ゲバクイン)であり、キリスト教など他の宗教でも、大いなる者へ心を向ける際にはこうしたポーズをとる。
 印を目の前にしてようやく、ご夫人が〈できないでおられた〉状態をかいま見た。
 自分はこれまで、病状、症状をお聴きしてはいたが、そこで失われていたものを本当にはわからないでいたことが痛感された。

 次いでAさんは片方の手で、もう片方の手の爪を切る仕種に入った。
「彼女はようやく、こうして両方の爪を自分で切られるようになったんです。
 今までは、私が切ってやっていたんです」
 いかにもおしどり夫婦という雰囲気のお二人ゆえ、とっさに想像した光景は温かなものだったが、ご主人のためになりたい奥さんが、ご主人にいろいろと手をかけてもらっていることに対する嬉しさと、手をかけさせる不甲斐なさや辛さも忖度(ソンタク)された。

 そうでしたか、と応えるのが精一杯だった。
 奥さんは同居していたご主人の母親に文字どおり仕え、老後は懸命に支え尽くし、長年の疲労がケガにつながったと思われた。
 しかし、ご夫婦はそうした気配を欠片(カケラ)も見せず、人前では笑顔を絶やすことなく二人してケガに耐え、ついに乗り切ろうとしておられる。
 いつ、どのような形で苦難が襲ってくるかわからないのと同じく、至福の時はどこにあるかわからない。
 苦難があったればこそ感じられる恵みのお力は、仏神からのご褒美のようだ。

 Aさんご夫婦は、ずっと、晩酌を楽しんでこられた。 
 今からおよそ1300年前、盛唐の詩人孟浩然は『勧酒』を詠んだ。 

「君に勧む金屈巵(キンクツシ)
 満酌(マンシャク)辞するを須(モチ)いず
 花発(ヒラ)けば風雨多し
 人生別離足(タ)る」

 
 金屈巵は金の杯、満酌はなみなみと注ぐことである。
 井伏鱒二は訳した。

「コノサカヅキヲ受ケテクレ
 ドウゾナミナミツガシテオクレ
 ハナニアラシノタトエモアルゾ
 『サヨナラ』ダケガ人生ダ」


(今、この時こそ共に、心ゆくまで酒を酌み交わそうではないか。
 人生の花が開く時もあれば、咲かそうとしていた花が風雨にやられてしまう時もある。
 いずれにせよ、会った者に別れは避けられないのだから)

 寺山修司はこの詩を承け、「幸福が遠すぎたら」を詠んだ。

さよならだけが 人生ならば
 また来る春は 何だろう
 はるかなはるかな 地の果てに
 咲いている 野の百合 何だろう

 さよならだけが 人生ならば
 めぐり会う日は 何だろう
 やさしいやさしい 夕焼と
 ふたりの愛は 何だろう

 さよならだけが 人生ならば
 建てた我が家 なんだろう
 さみしいさみしい 平原に
 ともす灯りは 何だろう

 さよならだけが 人生ならば
 人生なんか いりません」


 Aさんご夫婦は、百合を愛で、百合を咲かせた。
 愛を育んできた。
 家を建て、守っている。
 今はゆったりと人生のハンモックに揺られているのだろう。
 酒の量はぐっと減っただろうが……。




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2015
12.19

ISの正体と日本 ─爆弾テロに怯える時代(その2)─

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〈早朝の虹とお大師様〉

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〈「不惜身命、但惜身命」を通した貴乃花〉

 なぜ、国家が反国家的な武装集団を抑えられず、爆弾テロが世界中の〈日常〉へ入りこんだのか?
 国際危機グループ(ICG)会長のジャンマリー・ゲーノ氏は朝日新聞のインタビューに答えた。
 以下、要点を抜粋し、考えてみよう。

 来年もひき続き、IS対策が大きな関心を集めることだろう。

「イラクやシリアでは、ISは政治から排除された人々が逃げ込む場所です。
 でも、欧州からISに参加する人の意識は違う。
 力への憧れを抱き、漠然と『何か自分個人より大きなものに属したい』と願い、画期的な大プロジェクトの一翼を担えると思い込むのです」


 中東でISが生まれた背景には、政治的、宗教的、経済的に深刻で追いつめられた問題がある。
 しかし、世界中からこの先頭集団への参加を希望する人びとは違う。
 前稿でとりあげた、価値観(生きがい)の喪失や、将来への絶望、あるいは、自由な身であることの不安すら、「画期的な大プロジェクト」へ自分のいのちごとそっくり投げ入れてしまうきっかけになっている。
 先頭やテロ行為でいのちを失う危険性のあることが、かえって〈いのちをかけられる〉という幻想を生み出す。

 不惜身命(フシャクシンミョウ)という言葉は、自分の身命にこだわらず、身命を惜しまずにすべてを賭けてものごとを行う覚悟だが、但惜身命(タンジャクシンミョウ)が付け加えられてこそ、真の導きとなる。
 後者は、身命を賭してものごとを行うには、道具である身命を大切に用いる注意深さや準備の周到さや粘り強さなどが欠かせないことを教えている。
 ここでの「惜」は、前者にとっての〈こだわること〉ではなく、「愛(オシ)む」すなわち〈たいせつにすること〉なのだ。
 だから、真に不惜身命を貫こうとすれば、決して無鉄砲にはなれず、軽挙妄動から最も遠くなる
 かつて横綱貴乃花は、昇進の覚悟としてこの言葉を挙げた。
 そして相撲動に精進し、人びとへ夢や勇気を与えた。
 特に、平成23年、両国国技館で行われた5月場所の千秋楽で武蔵丸と戦った優勝決定戦は、「但惜身命」に支えられた「不惜身命」の凄まじさを示して余りあるものとなった。
 度重なるケガを乗り越えて復活した土俵だったが、14日目の取り組みで半月板を傷め、千秋楽の本割りでは仕切りすらまともにできず、武蔵丸にあっさり寄り切られた。
 多くの人びとは、優勝決定戦はできないだろう、あるいは強行出場しないで欲しいと考えたはずだが、貴乃花は上手投げで武蔵丸を下し、優勝した。
 その時の表情は不動明王そのものに見えた。
 ここで文字どおり〈惜しまず〉捨て切った貴乃花は、7場所の休場を経て復活した土俵で武蔵丸に敗れ、引退した。
 日本人最後の横綱となった。
 
 純粋な思想信条からでなく、我が身の置きどころがなくてISを目ざす世界中の人びとに、こうした考え方、生き方があることを知ってもらいたい。
 そして、立ち止まり、「不惜身命、但惜身命」によって日々を生きられる何かを見つけ出して欲しい。 

「ただ、ISの力をあまり大げさに考えてはいけません。
 イスラム教スンニ派の範囲を超えては広がらないからです。
 ISはその宗派性ゆえに台頭しましたが、宗派性ゆえの限界も抱えています


 ISいかに「個人より大きなもの」を示そうと、イスラム教スンニ派の思想に合わせられる人しかそこでは暮らせない。
 ISが何を目ざそうと、世界中を席巻することはそもそも、思想的に不可能である。

「彼らは対話を拒みます。
 対立の中に居場所を見つけた彼らにとって、対話は自殺行為ですから。
 ただ、ISの内部にはアサド政権への反発から銃を手にする人もいて、必ずしもみんながテロリストの仲間ではない。
 対話が生まれる可能性は常に考えたほうがいい」

「対話することは、相手の立場を正当と認めることではありません。
 敵との間にこそ対話が必要です。
 それが外交というものです


テロリストへの反撃ばかりに目がくらむと、分断すべき敵を結束させかねません。
 誰も彼も排除すると、対話の可能性のある人々までIS側に押しやってしまう。
 ISと戦うには、できるだけ広く結集しなければなりません」


 最近では、日本でもISの〈撲滅〉を勇ましく語る政治家が出てきたのは憂うべきことである。
 上記のとおり、ISが出現したのには理由があり、その思想は世界に拡散し、すでに人びとの心へ入っている。
 ISの構成員になる、あるいは外形を真似たテロ行為に走る可能性がある人びとは世界中にいる。
 撲滅などできはしない。
 軽々に拳を振り上げるのは百害あって一利もない。
 すでに日本人がISによって被害者となり、敵国であると名指しされてはいるが、まだ国家そのものがテロに攻撃されてはいない。
 まだ、爆撃などの戦闘行為を行ってはいない(はずだ)。
 日本は「敵との間にこそ」必要な対話や外交の当事者になり得ないのだろうか?
 
 12月15日、史上最年少のノーベル賞受賞者、マララ・ユスフザイさんの言葉が世界に流れた。
 米大統領選挙の有力候補者ドナルド・トランプ氏が発表したイスラム教徒の米国入獄を拒否するという政策に対して諫めたのだ。

「あなたがイスラムについて話すたびに、そして全てのイスラム教徒を非難するたびに、私たちの中からさらに多くのテロリストが生まれます

「政治家たちが何を発言しようと、メディアが何を発言しようと、とても慎重であることが大切です。
 テロリズムを止めるのが目的なら、イスラム教徒の全てを批判しようとしてはいけません。
 なぜなら、それではテロリズムを止めることはできないからです。
 より多くのテロリストを急進的にしてしまうでしょう」

テロリズムを終わらせたいのなら、質の高い教育が必要です。
 そうすればテロリズムの精神構造や憎しみを生む考え方をなくすことができます


 ここで言う「考え方をなくす」は重要である。
 中国や北朝鮮のように、国家が思想を統制するではなく、刃を保つ考え方を生まれなくしようという意味である。
 人びとが心に刃を持たず、刃を持ちたいと思わなくても生きられる世界にしようとしている。

 ISに代表されるテロリズムをなくすための根本的な方法が、ドナルド・トランプ氏の〈排斥〉にあるのか、アメリカ軍を主体とした〈殲滅〉にあるのか、それともマララ・ユスフザイさんの〈慎重さ〉と〈質の高い教育〉にあるのか、幸いにして今の日本人にはまだ選択権がある。
 ISの勢力拡大を防ぎ、テロリストにつけいられぬよう警備を整えるのはもちろんだが、同時に根本的な解決をはからねば、永遠に〈対症療法〉を続けるしかなくなり、世界から戦乱や不安はなくならない。
 よく考えたい。




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2015
12.18

映画『波伝谷に生きる人びと』に観る風土の喪失 ―東日本大震災被災の記(第173回)―

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〈運良く監督のサインをいただきました〉

 ようやく我妻和樹監督作品『波伝谷に生きる人びと』を観た。
 まったく〈普通〉の日常生活が記録されており、物語性や作意はない。
 ただし、撮られた人びとの日常生活が、いのち共々ばっさりと失われたことにより、その記録は特別の意味を持つようになった。

 波伝谷(ハデンヤ)には契約講があり、代表者を議長と呼ぶ。
 契約講は旧家の組織で、「お獅子さま」などの伝統行事を中心とした政治や祭礼を行う。
 ある議長経験者は、講の仲間をかわいい「弟や子供」のように感じていたという。
 部落対抗のソフトボール大会に際し、女衆は手作りのおにぎりを作って応援し、撮影した年の大会では男女共に優勝した。
 おかみさんの一人は言う。
「他の部落ではコンビニ弁当でした。
 ウチでは伝統どおりに、おにぎりを作りました。
 やっぱり、手作りのおにぎりでないと力が出ません。
 人手が減っていろんなものが省略されてきていますが、どうにかして伝統を守って行きたいと思います」

 講に入れない新しい住民たちの組織も生まれ、講を支える役割を果たしつつある。
 高齢化や病気などで行事になかなか参加できず、休講を申し出る家も重なり、部落の組織は時代に合わせて様相を変えつつある。

 何年にもわたる撮影が一段落し、部落を去る監督へ声がかかった。
「自分で泣ける映画にしてください。
 自分で泣けなければ人を感動させられませんよ」

 作品になった映像を地域で観てもらう打ち合わせのため、再度、波伝谷へ入った監督は東日本大震災に遭う。
 部落にたった一艘、残った船で監督を船着き場へ送り帰した漁師は言う。
「生きて会うべ」

 関東に住む友人の妻へ引導を渡し、別れ際に交わした言葉を思い出す。
「生きて会おうぜ」
「おう」

 映画には起承転結の物語がない。
 観る人が期待する結末はない。
 人と人とが信頼関係を保ちつつ、共に〈地域の空気〉をつくり、それを守り、それに育てられ、それに守られてきた人々の短い歴史が在るのみである。
 ただし、このドキュメンタリー映画が決定的な意味を持つのは、その歴史がほとんどそっくり突然、断絶させられたがゆえに、記録は、日常性の中で輝いていた普遍的で広大で深遠な何ものかに気づかせる役割を持ったのである。 
 映画の終了後、舞台に立った監督は、どうしてもパターン化を免れない映画製作の過程からこぼれ落ちてしまいがちなものをこそ、大切にしたかったと言う。
 
 東日本大震災後、石巻市渡波(ワタノハ)地区へ祈りにでかけたおり、托鉢で訪れるたびにトイレを借りていた公園へ立ち寄った時のできごとを思い出す。
 家々は消え失せ、草花もベンチもすっかり泥に覆われていたが、そのつるりとした平面から巻き貝の殻が頭を覗かせていた。
 まるで行者の再来を待っていたかのようだった。
 貝殻から「遅かったね」と言われたようで、涙が流れ、丁寧に泥を拭いて連れ帰った。

 それにしても、波伝谷にあったあのつながりは何だったのだろう?
 住民を一人残らず〈その地〉に惹きつけるもの、他人同士を親戚以上の親しみで結びつけるもの、それは圧倒的な風土の力ではなかろうか?
 海の恵みを柱としたかけがえのない〈価値ある空間〉の共有こそが、人びとを真の意味で共生させていたのではなかろうか?
 風土は単なる空間的広がりのありようではない。
 人びとが先祖代々住み続けてきた膨大な時間が今を生きる人々へ与える一種の〈保証〉といったもの。
 まるで盤石な保証人のような価値を有する〈連続性〉もまた、かけがえのなさを彩る。
 時間のはたらきによって醸成された自然と人間のかかわり合いが、得も言われぬ一つの色となって人びとの心を染める時、共に人生の時間を過ごすに足る信頼感、安心感、幸福感、責任感が皆の心に生まれるのだろう。

 東日本大震災後、気仙沼市へ人を探しに行った時のことを思い出す。
 高台にある神社の境内と社務所に避難した男衆も女衆も、長老らしき数名の指示のもとで煮炊きや土掘りなどに精を出し、整然と役割を果たしていた。
 尋ね人の行方については、あのあたりの人なら、あっちへ逃げただろうから、あのへんの避難所にいるだろう、と的確に判断し、教えてくれた。
 その落ち着き、知恵の深さ、統率力──。
 いわゆる老賢者の力量をまざまざと見せられた。
 老子は「無為(ムイ)にして化す」と説いた。
 人徳のある王ならば、特段のことをあれこれやらなくても、人びとはいつしか感化され、国はひとりでに治まって行く。
 あの避難所の〈王〉もまた、風土に磨かれ、無為の力を持った人物だったのではなかろうか。

 風土が創られてゆくためには時間という要素が欠かせない。
 崩壊した地域に新しいコミュニティが合理性をもってつくられるだけでは、何かが決定的に足りない。
 多くの被災地がまず、昔からあったお神輿やお祭やお地蔵様に注目したことには深い意味がある。
 時間を孕んだものにこそ、空虚を埋めて欲しかった。
 お神輿もお祭もお地蔵様も、哀しいほど、重要な役割を果たしてくれた。
 人びとは涙し、喜び、いくばくか安心を取り戻し、希望が持てそうな思いになった。

 空間的にも時間的にも〈普通に〉つながる人びとの日常生活こそが、いつしか、かけがえのない風土を創る。
 この映画は「確かに在った風土」を示し、私たちを、その喪失という過酷な現実に向かい合わせる。
 さて、かけがえのなさに気づいた私たちは、何をなすべきだろうか?

※仙台市における上映は、惜しくも12月25日までです。
 ぜひ、おでかけください。
・場所:桜井薬局セントラルホール
 仙台市青葉区中央2−5−10 桜井薬局ビル 3F
・電話::022-263-7868




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2015
12.17

【現代の偉人伝】第216話 ─原発下請け労働者の放射線被曝と写真家樋口健二氏─

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〈東海村JCOの臨界事故によって被曝した近隣住民大泉昭一氏の腕。この現実を前にしてなお、企業は裁判を続けた〉

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〈身体中の血管が破れ、約12年間苦しみつつ、最高裁の判決を待たずして大泉昭一氏は世を去った〉

 平成23年、日本が太平洋戦争に敗戦した8月15日に写真家樋口健二氏の写真集『原発崩壊』が発売された。
 氏は昭和60年以来、原発関係の写真展を全国で行ってきた。

 昭和60年には、「科学万博-つくば '85」が開催され、東では青函トンネル本坑の貫通、西では関越自動車道の全線開通や大鳴門橋の開通に沸き立ち、宇宙へは土井隆雄、内藤千秋、毛利衛の三人が飛び立った。
 ファミコンゲーム、スーパーマリオブラザーズが大ヒットし、機動戦士Zガンダム、小公女セーラが少年少女をとりこにした。
 わずか数年先にバブルの崩壊が起こるとは予想されておらず、小松左京のSF小説『首都消失』は、非現実的であるがゆえに幅広く楽しまれた。

 そうした時期に氏は、原発下請け労働者放射線被曝、及び暗黒労働について社会的告発を始めた。
 当時はアメリカ・スリーマイル島の原発がメルトダウンした後だったので注目を浴びたが、政府と企業と学界とマスコミがつくった原発安全神話はビクともしなかった。
 そして、平成11年に東海村JCOが臨界事故を起こし、2名が死亡、667名が被曝した後も、原発は平然と運用され続け、ついに、福島原発の事故へとつながった。

「2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖大地震による『原発事故』は、またしても『人災』であった。
 12年前の東海村JCO臨界事故の『人災』と同じである。
 どちらも危機管理のなさが引き起こした大事故であるからだ。
 東京電力福島第一原発では地震による津波の高さはわずか5・7メートルしか想定されていなかった。
 通常の大きな台風襲来ではこのくらいの高波が押し寄せるのは常識であるにもかかわらずだ。
 地震の想定もマグニチュード7・8だったと言われているが、はたして本当なのか疑問が湧く。
 現実には津波は15メートルを超え、緊急用発電機をのみ込み破壊した。
 地震もマグニチュード9・0に達した。
 これを『想定外』と平然と言ってのけた御用学者にはあきれはてるが、常に自然は人間の英知を上まわるものである。
 私はこれまで、原発関係者に対して『大地震が発生したら原発は大丈夫か?』と何度も質問してきた。
 回答は『国の基準をクリアしており、日本の土木工学は世界一だ』というものだった。
 その土木工学世界一の原発もマグニチュード9・0の前にはなすすべもなかった。」


 氏は東海村事故の翌日に、「現地で無防備にちかい姿で取材を続けた」ことにより鼻血が出て「再生不良性貧血」と診断されている。
 それでも福島へ行かずにはいられなくなり、まだ放射線量の高い福島市と南相馬市へ取材にでかけ、これまで出版した内容と併せ、今回の出版にこぎつけた。
 被曝労働者を見捨てられないのだ。

「1970年から2009年まで原発に関わった総労働者数は約200万人、そのうちの50万人近い下請け労働者の放射線被曝の存在がある。
 死亡した労働者の数は約700人から1000人とみていい。
 この数字は残念ながら国も労働組合(連合)も調査していないので正確な数字とはいえないのかもしれない。
 私が約40年前に被曝労働者の取材を始めたとき、東電福島第一原発で働き、死亡した地元の労働者数が70人近かったことを考えての数である。
 また福井県でも地元の人で原発で働いて死亡した被曝労働者を調査した結果、30人近い人がこの世を去っていた。」


 氏は「あとがき」に書く。

「原発の本質はなんといっても、弱者(下請労働者)を犠牲(放射線被曝)にしなければならないということである。
 それを国家ぐるみで『絶対に安全だ』『核の平和利用だ』『CO2をださないクリーンエネルギーだ』『コストがかからない』『資源のない国においては夢のエネルギーだ』などと理屈を並べ、そして極めつけには『安全神話』を押しつけ、国民を洗脳してきたのがこの40数年の原発の歴史である。」

「本書は闇の彼方に葬り去られた被曝者に対する鎮魂の書でもある。」


 最後に、「Ⅲ 原発下請け労働者」から文章と資料を抜粋しておきたい。

「私は38年間、原発下請け労働者放射線被曝の実態に焦点を当て取材してきたのだが、この問題は原発の最大のアキレス腱だと受けとめている。
 しかし、原発が生み出す被曝労働者の存在は闇から闇へと葬られてきた。」


 私たちは原発に対して、最新技術を背景としたコンピューター管理による〈安全な〉プラントであると思わされてきたが、実際は、被曝しつつはたらく膨大な数の人びとの手によって行われる〈現場の作業〉なくして一日も動かない人海戦術のシステムである。
 多くの方々は、福島原発の事故後、途方もない数の人びとが集められているのは事故処理のためだと思っておられるだろうが、実際は、普段でも千人単位の人びとが日々、手作業をしている。
 しかも、危険性を知っているだけに、「通常の事故、故障や定期点検に東電の技術屋が現場に入って労働するなど絶対にあり得ない」のだ。

「各原発によって服装の色はまちまちだが、重装備に身を固め、雑巾(ウェス)で床やパイプに付着する放射能除染作業を行い、労働者の着用した服の洗濯、大小パイプの点検、掃除、補修、ひび割れ箇所の溶接、放射能スラッジタンクの掃除やピンホールの穴埋めなどを行う。
 蒸気発生器の点検、補修など、何百種類に及ぶ原発内労働なくして、原発は一日たりとも動かないのだ。」


 こうした現場ではたらく人びとの労働形態は悲惨である。

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「暗黒労働の世界では人権が完全に無視されていることを労働形態が如実に示している。」

「この下請け多重構造の労働形態は石炭産業時代から引き継がれてきた。
 それぞれの要素は複雑に絡み合い、上から下へと賃金のピンハネがあり、二重の差別構造を形成している。
 つまり、社会的弱者を徹底的に使役し、搾取し、病気になればボロ雑巾のように捨ててきたのである。
 原発の本質はここにある。」

「賃金は親方(人出し業)のところで約3万円どまりというのが相場であった。
 それはさまざまな取材によって明らかになったのである。
 一番最下層の日雇い労働者には、親方が約2万円近い金をピンハネしているから、1日1万円が支払われていた。
 今回の東京電力福島第一原発事故の収束のために労働者が各方面からかり出されているが、ハローワークの募集要領にも9000円から1万1000円とあるところを見れば、私が取材を始めた38年前からピンハネ率はほとんど変わっていないのだ。
 むしろ不況の中で労働賃金は抑えられていると言っていい。」

「原発労災が認定されたのは現在までわずか10人に過ぎない。
 私の取材した下請け労働者たちは『放射線管理手帳』の存在すら知らず、自分がどれほどの放射線被曝を受けたのかさえ知らず、死亡したり、病気になったりしたあげく、ボロ雑巾のように捨てられてきたのである。」

「大事故を機に古くて新しい原発下請け労働者の放射線被爆問題が大きな社会問題化することを私は心より願っている。」






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「おん あらはしゃのう」
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2015
12.17

有料老人ホーム・デイサービス施設の人材募集 ─NPO法人野のゆりホーム─

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 当山から車で1分の位置にある『NPO法人野のゆりホーム』さんが人材募集中です。
 優しい理事長さんはじめ、皆さん一生懸命です。
 どうぞ、ご検討ください。
 電話は022-358-2755です。
 以下はホームページからの抜粋です。

 私たちは、理念の
 ①「年老いても、障害(不自由)を感じても、住み慣れた場所(居場所)で馴染みの人と安心して生活し続けられる地域作り」
 ②「利用者が可能な限り在宅で、その有する能力に応じて自立した日常生活が営むことができるよう尊厳を保持し、『寄り添い』による社会的孤立感の解消及び心身機能の維持並びに家族の精神的負担の軽減化」
のための支援を行っています。

 人は「出会い」を通してその人の優しさに気づき、その優しさを誰かに返すことができます。そして、この出会いは「巡りあい」とも言えます。
 私たちは、お互いの「巡りあい」の中で「支えあい」が生まれ、安心してその人らしい当たり前の生活を送ることができると考えています。
 地域社会のなかで「巡りあい」「支えあい」を通して「寄り添い」「そばにいる」ことを実感し「言葉はいらない。でもあなたの隣にわたしたちがいます」そんな介護を行っています。




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2015
12.16

グローバル化が生んだ危機 ─爆弾テロに怯える時代(その1)─

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〈古いウーファーは期待に応えてくれるか?〉

 なぜ、国家が反国家的な武装集団を抑えられず、爆弾テロが世界中の〈日常〉へ入りこんだのか?
 国際危機グループ(ICG)会長のジャンマリー・ゲーノ氏は朝日新聞のインタビューに答えた。
 以下、要点を抜粋し、考えてみよう。

「現代の世界は、情報やコミュニケーション、ヒト・モノ・カネの移動によって結びついています。
 でも(その回路を通じて)伝わってくるものをどう解釈するかは、場所や立場によって大きく異なります。
 世界はグローバル化されると同時に、バランスを崩し、細分化されているといえます」


 多様なものが入って来るだけで、地域や国家は崩れるだろうか?
 日本が海外から入って来るものを消化しつつ存立を保っているのは例外なのか?

テロを解く鍵はここにあります。
 バランスが崩れ、分断と対立が続く状況だからこそ、過激派組織『イスラム国』(IS)が栄えているのです」

テロの危険性は、社会をさらに細分化することにあります。
 パリのテロによって、フランスという国家の統合が破壊され、欧州が分断される恐れは拭えません。
 ISは今、自らの本拠地に生じた細分化状況を、欧州に輸出しようと狙っています」


 確かにシリアやイラクは「バランスが崩れ、分断と対立が続く状況」になっている。
 欧州やアメリカで国粋主義的な動きが強まっているのは、中東の混乱で発生した難民の急激な流入が社会のバランスを崩し、同時にISなどのテロ組織が活躍する下地となりかねないことへの恐れがあるからだろう。
 米大統領選挙の有力候補者ドナルド・トランプ氏が「米国を、聖戦を信じる者による残虐な攻撃の犠牲にすべきではない」として、過激主義を封じ込める対策を講じるまでイスラム教徒の入国を禁止すべきだとの見解を発表し、その後も共和党支持者から圧倒的な期待を集めていることは見逃せない。
 

「2015年を一言で振り返ると、世界の様々な動きに対し、国家がコントロールを失いつつあることが明らかになった、ということでしょう。
 大国の合意で世界が安定する時代ではもはやない。
 あり得ないことが突然起きる、驚きの連続の時代です。
 指導者が決めるトップダウンの出来事が減り、人々が互いに連絡を取り合うボトムアップ型の出来事が増えたからです。
 テロは、その典型です」

「国家の統制が利かないのは、テロに限りません。
 地球温暖化も、国家単位では答えが見いだせません。
 多国籍企業や組織犯罪網など、国家の枠に収まらない存在も力を持ってきました


 ネットを通じ、世界を股にかけて活動する「多国籍企業や組織犯罪網など」が増えたために、一国の経済制度や警察力だけでは、地球温暖化やテロの拡散に対抗しきれない。
 しかし、氏は触れていないが、軍事企業もまた、世界中へ武器弾薬を売り続けている。
 12月15日付の産経新聞によれば、平成26年における軍事企業の売上高上位100社(中国は入っていない)の総売上高は約48兆5千億円である。
 そのうち、米国企業の占める割合は54・4パーセントに上り、世界第一位のロッキード・マーチン社は約4兆5千億円、第二位のボーイング社は約3兆5千億円となっている。
 この二社の売上高合計は、軍事企業でない日本企業の上位6社(トヨタ・ホンダ・日産自動車・NTT・JX・日立)の合計に等しい。
 ロッキード・マーチン社とボーイング社の従業員数は合計で25万人を越えている。
 これは何を意味しているのだろう?
 ──戦争で儲かる企業の半分はアメリカにあるのだ。

 第二次世界大戦後、「個別国家の戦争は違法である」とする国連の枠組みを作ろうとした時期があった。
 世界中の国々が、戦争は悪である、もう懲り懲りだ、と実感したからだ。
 しかし、それはアメリカにとって不都合だった。
 だから、サンフランシスコ条約と旧日米安保条約の立役者ダレスは、それまでになかった「集団的自衛権」を国連憲章へもぐり込ませた。
 国連安保理によって認められない戦争は違法として弾劾されるはずだったのに、複数の国家間で結ばれた軍事同盟によって起こされる戦争は違法でないと定められた。
 集団的自衛権を標榜して軍事同盟さえ結べば、アメリカはいつでも、どこでも〈正義に基づく戦争〉を正当に行えることとなった。
 だから、中国と独自の外交を行おうとした田名角栄はロッキードによって失脚させられ、かねて国連軍の強化を理想としてきた愛弟子小沢一郎は永遠の悪役とされ、日米軍事同盟の強化を目ざす人びとが政治権力を握り続けて来た。
 また、日本の武器輸出三原則が昨年4月、安倍内閣によって事実上廃止され、「武器輸出を慎む」国だったはずの日本は、堂々と世界の武器市場へ進出し始めた。
 アメリカへ「軍隊を〈地球の裏側まで〉も派遣するから、我々もどんどん消費される武器弾薬で儲けさせてくれ」と頼む〈普通の国〉になりたいと、日本の国民は本当に願っているだろうか?

ナショナリズムの伸長と、宗教過激派の台頭は、実は同じ現象です
 どちらも、冷戦の崩壊に原因があります」

「冷戦とともに消えたのは、マルクス主義だけではありません。
 個人の自由な行動が勝利したと受け止められたことで、(ソ連に象徴される)『集団行動』への信頼も失われたのです。
 ただ、個人の価値が高まると、社会の結束が弱くなる。
 しばらくすると『周囲の人々と共通の価値観を持ちたい』『集団のアイデンティティーに戻りたい』という意識が復活しました

 人間はしょせん、個人の成功だけでは満足できないのです」

「そこに、過激な宗教やナショナリズムの花が開きました。
 ナショナリズムは、政治思想ではありません。
 単に『みんなと一緒にいたい』という思いなのですから。
 何かを成し遂げるための結束ができない時代に、進むべき道を指し示すのが、過激な宗教やナショナリズムです。
 それは、しばしば危険な道なのですが


 個人個人が自由になり、考え、行動する枠がなくなってくると、かえって不安になる。
 その事情は、かつて、エーリッヒ・フロムが『自由からの逃走』で明らかにした。
 彼は、ヨーロッパで中世社会が崩壊し教会も階級も権威を失った時、人びとが新たな権威を探さないではいられない様子を描いた。
 新たな衣をまとった神が登場し、救済される人間と救済されない人間を分けるので、救済される側に入れば安心が与えられる。
 同様に、自由であれば優秀である人間は優秀でない人間より上位に立てるのだが、能力による勝利を目指す方向は、ナチズムの「優性」思想にまで行ってしまった。
 日本における「勝ち組」「負け組」という軽薄な言葉や、韓国やインドにおける異様な学歴競争などは、人間を二分しようとする行き過ぎた自由競争の歪みを顕わにしている。

 現代人の不安はもっと先に来ている。
 かつて村上陽一郎は書いた。
 ニュートンなどの時代はこうだった。
「彼らの自然についての知識を、信ずる神の作品の内部に刻まれた造り手の計画を知り、その栄光を讃えることを目的として、追求し続けていた」(『科学で人間は判ったか』より)
 やがて自由思想家たちが現れ、こうなった。
「知識は、神の意志を知りその栄光を讃えるためではなく、人間に現実的な幸福をもたらす能力を備えたものとして、世俗的に追求されることになった」
 それでもなお、科学が求める真理の絶対性は神の絶対性に結びついていたが、科学の発展はキリスト教のドグマに多くの矛盾や疑問を見つけさせ、〈まず信じよ〉という宗教は権威を喪失しつつある。
 また、量子力学や心理学や生命科学の発展は、カチッと完全に構成された世界のイメージではなく、さまざまな面で境界のあいまいな世界と人間のありようを浮き彫りにしつつあり、これにすがれば大丈夫という絶対神の存在をますます危うくしつつある。
 花形の開発は、兵器と発電という恐るべき鬼子たちを生み出してしまった。
 神にはすがれず、科学もその発展だけでは人間に幸不幸のどちらをもたらすかわからない

 こうした現代に『周囲の人々と共通の価値観を持ちたい』『集団のアイデンティティーに戻りたい』という欲求が生じた。
 今、「過激な宗教やナショナリズム」がそれに応えようとしているが……。




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2015
12.16

画家武内祐人氏の個展は本日まで

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 画家武内祐人氏の個展が藤崎6階ギャラリーで開催中です。
 奈良県在住の氏は、東日本大震災の被災地でライブペインティング活動を行い、子供たちを励ましてくれました。

 氏の描く生きものたちは皆、穏やかで、喜びを持っています。
 眺める私たちもまた、思わず頬が弛み、目の角張りが消えます。

 「人間の世界はどうしてギスギス、ゴツゴツしているの?」
 氏の手になる象も、キリンも、パンダも、痛いところを優しく衝きながら、私たちの心身をほぐしてくれます。

 惜しくも、今日16日の午後4時30分で東北初の個展は終了します。
 クリスマスプレゼント用のグッズも多数準備されています。
 どうぞお見逃しなく、おでかけください。





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2015
12.15

日常に潜む危機 ─小池光の「生存について」(その2)─

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 昭和22年に小説家を父にもち宮城県に生まれた小池光氏は、東北大学理学部物理学科から大学院を卒業し、短歌結社「短歌人」に入会し、高校の教師をしながら歌を詠んできた歌人である。
 昭和57年、氏が発表した歌集『廃駅』に「生存について」という連作がある。
 ここでは残りの6首を読んでみたい。

「充満を待つたゆたひにインフルエンザのわが子をすこし思つたであらう」


 ナチスの係官は、アウシュビッツでガス室に閉じ込めたユダヤ人の抹殺をはかり、ガスの注入に従事する。
 人びとが死に絶えるのに必要なだけガスが充満するには時間がかかる。
 待たねばならない。
 ガス室内の阿鼻叫喚とはまったく無関係に、係官にとっての時はゆったりと流れる。
 彼は手持ちぶさたなのだ。
 そんなおりには、インフルエンザで家にいる我が子を思い出し、心配になる。
 〝大丈夫だろうか?熱は上がっていないだろうか?食事はちゃんと摂れているだろうか?〟
 それも束の間、たちまち、時は満ち、役割が全うされる。
 だから、我が子を思いながら呼吸をしていたのは、ほんのいっときだった。
 係官は我が子を〈少し〉思っただけで、たちまち普通の仕事へ回帰した。

「クレゾールで洗ひたる手に誕生日の花束を抱へ帰つたであらう」


 ガス室で死んだ死者を扱えば、血や汚物などで手足も衣服も汚れ、クレゾールが活躍する。
 薬品で清められた手は清々しい香りをまとい、死の気配はどこにもなくなる。
 その手は、子供や家族の誕生日を祝う花束を抱えるにふさわしく清潔そのものである。
 法に則った仕事を終えた手のどこにも罪はないのだ。

「棒切れにすぎないものを処理しつつ妻の不機嫌を怖れたであらう」


 夥(オビタダ)しい屍体はそれぞれ硬直し、ただの棒きれでしかなくなる。
 運び、焼き、埋める処理は退屈だ。
 早く終わらせ家へ帰りたいと思った瞬間、今朝、出がけに不機嫌だった妻の顔を思い出し、げんなりする。
 人間を殺し、処理する役割に応じた正しい仕事は単調で飽き飽きし、家もつまらなければ、係官の一日は灰色になる。
 

「夏至(ゲシ)の日の夕餉(ユウゲ)をはりぬ魚の血にほのか汚るる皿をのこして」


 一転して、場面は作者の自宅である。
 暑い盛りの夕餉に魚が出された。
 刺身でも作って食べたのだろうか、食べ終わった皿にはかすかに血がついている。
 自分はまぎれもなく、生きもののいのちを奪ったのだ。

「現世のわれら食ふための灯の下に栄螺(サザエ)のからだ引き出してゆく」


 サザエを焼いたのだろうか?
 箸か何かでつまむか刺すかして殻の中から身体を引っ張り出し、口に入れる。
 自分はまぎれもなく、生きもののいのちを奪っているのだ。

「沢蟹(サワガニ)のたまごにまじり沢がにの足落ちてゐたり朝のひかりに」


 また、場面は変わり、散歩途中の川べりとなる。
 沢ガニが何かに襲われ、いのちを落としたのだろうか?
 卵が散乱し、もがれた足もそばに落ちている。
 いのちが奪われた小さな光景も、朝陽は明るく照らし出している。

 作者は、アウシュビッツにおいて膨大な殺戮を行った下手人の〈日常性〉が、たった今、私たちが生きている〈日常性〉と何ら変わらないことを想像、感得した。
 狂気の行為も、社会的に〈正しく〉行われる仕事ならば、他の行為と同じように労働者へ恙(ツツガ)ない生活を保証する。
 オフィシャルな時間にも、プライベートな時間にも、神の祝福は平等にもたらされる。
 前の9首は、その世界を詠んだ。

 そして、続く2首は、日常的な殺戮がナチスの時代だけでなく、人間のあらゆる生にまといついていることの気づきを詠んだ。
 最後の一首は、他者のいのちを奪うことが自然界を成り立たせているという摂理そのものを詠んだ。
 こうして12首をあらためて眺めると、私たちが明らかに狂気と感じているものの実体があやふやくなってくる。

 ベルリン大学医科卒業試験受験者のフリッツ・メーゼは、ロレットオ高地で戦死する前に書いた。
「戦場ではみんな子供になる。
 どんなにひどい砲火を浴びても次の瞬間には無邪気に愉快になる。
 ──次の刹那のことを思はず、その瞬間の気分を捉へることを心得ている人間は幸福な存在だ。
 みんなそれを習ひ覚える。
 外では敵の砲声が轟いているが、内では自宅にいる──先づさういった所だ。
 ねえ、みんな、人はどんなに故郷を愛することを学ぶものだらう──ふだん誰もが理解しないことに堪へるやうになると。」(『ドイツ戦没学生の手紙』より)
 彼は勇敢に前進し、「列をなして倒れてゐる戦死者の上を」匍(ハ)って越えて行き、死んだ。

 集団に狂気の行為を行わせる思想は日常の中に生まれ、常に自分の〈日常〉を保てる者たちによって忠実に実行される。
 狂った個人は、集団的狂気に従えない。
 私たちはまるで、五右衛門風呂に入ったカエルのようなものだ。
 日々、適度な温度の中で(他の生きもののいのちを必要なだけ奪いつつ)生きているうちは、快適に過ごす。
 やがて、いのちと心の危機に瀕するほどの熱さになって(他のいのちを烈しく奪い、自分のいのちが奪われそうになって)きても、まだ、大丈夫、と耐えつつ過ごす。
 しかし最後は心が先に破壊されて狂うか、もしくは身体が先に破壊されて倒れるか、それが同時に起こるかして、いのちを失う。
 風呂に入っている状態が〈日常〉であり、それ自体、あるいはそこで起こりつつあることを客観的に観られない。

 歌人は、アウシュビッツの下手人に成り代わり、狂気を生きる日常を描き、そこから、自分の足元を観るところへ戻って来た。
 12首はあまりに重い。
 私たちが〈下手人〉にならないためには、米であれ、野菜であれ、魚であれ、他の生きもののいのちを奪わずには生きられない存在であることを忘れないようにせねばならない。
 感謝し、度を超して貪らぬようにしたい。
 度を超すものに違和感、嫌悪感、罪悪感、愚かさを感じられるようになれば大丈夫。
 そこを忘れると、いつしかアウシュビッツに行き着きかねない。
 また、私たちが生きていること自体がそのままそっくり〈日常〉であり、それは五右衛門風呂に入っているカエルの姿であることも忘れぬようにしたい。
 日常的であることは決して安心の土台であることを意味しない。
 私たちはあくまでも日常の中で、集団的狂気のふるまいをさせられてしまうのだ。
 五右衛門風呂に入っている自分の姿、友人や家族や同胞の姿を眺め、危機を察知したならば勇気を持って飛び出し、火勢を弱めねばならない。
 私たちにとって、小池光の「生存について」は宝ものである。




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2015
12.14

狂気と日常 ─小池光の「生存について」(その1)─

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昭和22年に小説家を父にもち宮城県に生まれた小池光氏は、東北大学理学部物理学科から大学院を卒業し、短歌結社「短歌人」に入会し、高校の教師をしながら歌を詠んできた歌人である。
 昭和57年、氏が発表した歌集『廃駅』に「生存について」という連作がある。
 以下の12首である。

「草群(クサムラ)に吐きつつなみだ溢れたりなんといふこの生のやさしさ」


 日本が太平洋戦争に敗れてから37年が経過したある日、ざくろの花が落ちるのを観ている氏の脳裏へ、アウシュビッツで生きるナチスの党員と交錯する世界が来襲した。
 イメージのおぞましさに耐えられず、吐いてしまったのだろう。
 吐く時は涙が流れる。
 何とも哀れな姿ではあるが、吐きつつ泣く身体は生を証明して余りある。
 草むらの上で、自分は確かに生きているのだ。
 嘔吐に伴った涙は、やがて、生の実感に伴う涙となる。
 殺し殺されているアウシュビッツに比べ、自分を存在させている生の世界はあまりに優しい。
 

ナチズムの生理のごとくほたほたとざくろの花は石の上に落つ」


 ざくろの花は濃い橙色であり、白が混じるものもある。
 葉の深緑とあいまって、いのちが強く輝く。
 その花が、硬い石の上へ一つ、また一つと落ちる。
 いのちは断ち切られるのに、枝に付いている時と何ら変わりなく、輝きつつ落ち、落ちても輝きを失わない。
 笑ったまま首を切られているかのようだ。
 狂気の饗宴は、人間の生と死を一括りにして続く。
 肉体の血も心の血も流されながら、現実は非現実へと反転させられている。

「かの年のアウシュビッツにも春くれば明朗にのぼる雲雀もありけむ」


 自然界の摂理は人間の愚行などお構いなしに時の流れを表現してやまない。
 阿鼻叫喚の地上であっても、春にはヒバリが高く舞い、無心に鳴く。
 ライプチヒ大学哲学科学生のリヒャルト・シュミーダーは、ベダンヴィルで死ぬ前に書いた。
「戦いの騒音と負傷者の呻き声の間に短い休止が生じると、高い青空に鳥が嬉々と歌い囀ってゐるのが聞こえました。
 故郷の春の鳥の歌!
 あゝ、心臓をむしり取ってしまいたひやうな気持です」(『ドイツ戦没学生の手紙』より)
 ベルリン大学神学科の学生パウル・ベーリッケもまた、ヴェルダンで戦死する直前に書き遺した。
「西の空は血のやうに赤く、赤いけしの花がなほ一層血の色に染まる。
 夕方が来た。
 ここで死を待っている無数の灰色の人びとの上に夕べはなごやかに横たはる」(『ドイツ戦没学生の手紙』より)

「夜の淵わが底知れぬ彼方にてナチ党員にして良き父がゐる」


 深夜、自分の心の階段を静かに降りて行くと、凶悪な暴力、残虐行為も厭わない憎しみ、あるいは黒いサディズムがある。
 何かに同調し思考停止した単略的な帰属意識を頼りに、正義の拳を振り上げ、ささやかな存在意義を叫びたい浅はかな自分がいる。
 その一方で、子供へ正邪善悪を教え、何者からも家族を守るよき父親たらんとする自分もいる。
 父親の転勤で宮城県第三女子高等学校に在籍した作家小池真理子氏は、昨年、開校90周年の式典で訴えた。
「スマホばかりをのぞいているのではなく、人と会い、本を読み、自分で考えて」
 自分で考えない限り知性は、はたらかない。
 現実を肌身で感じとり、根源的矛盾や不条理に気づき、世界へも自分へも疑問を持たない限り、真に自分で考えることはできない。
 自分で考えなければ、意のままに世の中を動かそうと企む者たちから都合良く与えられた餌に絡め取られ、感情が利用され、思考は停止させられる。
 自立して尊厳を守るためには、情報を客観的に眺める幅広い視点と、心の余裕を持たねばならない。
 そうして立ち止まり、〈ナチ党員〉的な行動に走らぬよう、常に気をつけねばならない。
 さもないと、〈良き父〉のまま、いかなる愚行に加担してしまうかわからない。

「ガス室の仕事の合ひ間公園のスワンを見せに行つたであらう」


 ナチ党員も夫であり、父親であった。
 ユダヤ人をガス室へ送り込みつつ、〈仕事〉の合間には家族を誘って公園へでかけ、普通の夫として、父親として真っ白なスワンに見とれたことだろう。
 そこでは、スワンの白さによって罪悪感が呼び起こされ、苦しむこともない。
 殺人は国家から与えられた公的な仕事であり、苦しみつつ行っては身が保たない。
 もちろん、多くのドイツ人が苦しみつつ仕事をこなしたことだろうが、少なくとも、この句の世界にはそうした煩悶が感じられない。
 一般的国民の一人として、郵便配達や列車の運行などと同じ感覚で仕事が行われている淡々とした日常が描かれている。
 ただし、「であらう」は見逃せない。
 推量する歌人の思いはいかなるものであったか、それには言及されていない。
 この歌を詠んだ人ではなく、読む人へ託されているものは膨大だ。
 人類が行った過去の愚行は日常と直結していただけに、私たちの日常と直結してたった今、再び行われたとしても何ら不思議はない。
 〈~だったであろう〉光景が〈である〉となり得る恐ろしさを直感する感覚だけは失いたくない。

「隣室にガス充満のときの間を爪しやぶりつつ越えたであらう」


 これも上記の作品と同じである。
 ユダヤ人たちを閉じ込めたガス室では、ガスの濃度が高まるにつれて人びとは倒れ、死んで行く。
 その時間を過ごす下手人は普通の人間だ。
 爪をしゃぶりながら時計を眺めていたとて、何の不思議もない。
 醜悪な行為が勤勉な公務員によって正確に行われる。
 狂気は日常の中にたやすく包み込まれてしまう。




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 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2015
12.13

寺子屋が終わりました ─原発に安全はない─

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〈日本にはない安全対策コアキャッチャー

 12月12日、鈴木宏一弁護士の講演「脱原発の道」をお聴きした。
 6ページに及ぶレジメ及び8ページに及ぶ資料を基に、詳細なお話をいただいた。
 原発とは何か?
 原発事故の実態はどうだったのか?
 現在の原発はいかなる基準に基づいて稼働しているのか?
 問題の所在はどこにあるか?
 18項目に分かれたレジメはいずれも貴重なものだが、特に新規制基準に関するNO・12についてメモをしておきたい。
 ナンバーとタイトルだけがレジメの写しである。

○12 新規制基準→重大事故絶対防止しうる基準でない

1 立地審査指針なし

 東日本大震災が起こるまでは、原発の立地審査に厳しい指針があった。
 旧立地審査指針によれば、仮想事故(重大事故)の際も、「周辺の公衆に放射線被害を与えない」ことが条件とされた。
 非居住地区でなければならない。
 また「著しい放射線災害を与えない」場所でなければならなかった。
 低人口地帯でなければならない。
 しかし、福島原発の事故においては、30キロメートル圏内が避難指示区域となり、そこは、被居住地区でも低人口地帯でもなく、人口密度の高い都市が含まれた。
 途方もない被害が発生した事実は、〈日本国中、どこでも原発は造れない〉ことを示している
 では、深刻な事故を受けていかなる施策が講じられたかというと、立地審査基準に照らして現在の状況を改善するのではなく、基準そのものを廃止したのである。
 そして、住民、地域、国家国土の安全ではなく、原発の存続と建設を第一にして新たなルールを作った。
 そもそも、規制委員会の委員長は繰り返し述べている。
規制委員会の仕事は基準に適合しているかどうかを判断するのみであり、安全を保証するものではない
 
2 シビアアクシデント対策→大規模損壊時→具体的対策何も決められていない→放水設備、海洋拡散抑制のみ→逃げるだけ

 旧立地審査基準の代わりに設けられた「シビアアクシデント対策」と「防災対策」には、放水設備、海洋拡散抑制があるだけで、重大な事故があったならただ、逃げるしかない。
 そして、現在も海への漏れ出し続けている深刻な汚染水に関する具体的な対策は一切、ない。
 住民の安全を守りつつ原発を造り稼働することができないのは明らかである。

3 原子力防災計画(避難計画)→規制基準になっていない

 私たちは、いざという場合に地域住民が安全に逃げられる計画があってこそ原発が造られ、稼働するのだろうと思っているが、避難計画は自治体任せであり、計画の妥当性が規制基準になっているわけではない
 実際、原発のある地域の住民の多くが福島原発の事故を見て、逃げようがないと実感している。
 だから、脱原発は国民の願いになっている。

4 設計基準事故→共通原因故障(複数一斉故障)(自然現象)入れていない→(単一故障のみ想定)

 設計の基準には単一の故障を想定するのみで、複数の故障が一斉に起こった際や、自然現象によって起こる最悪の状況などは勘案されていない。
 つまり、〈第二の福島原発事故〉が起こったならどうするか、という想定はない。
 考えてみれば当然である。
 未だに、事故の全体像はわからず、汚染水などの処理もできていないのだから、事故に遭ったならどうすればよいか決められるはずがない。
 だから、原発の再稼働があってはならないし、造るなど論外ではなかろうか


5 重大事故の重畳考えられていない

 重大事故が重なって起きる事態の想定はない。
 実際に福島では起こったのに。

6 格納容器破損の安全確保なし(コアキャッチャー、圧力容器水棺システム)

 福島第一原発では、メルトダウンした核燃料が格納容器を突き破り、どこまでどうなっているか、今現在わかっていない。
 こうした事態を防ぐため、ヨーロッパでは格納容器を二重にするだけでなく、コアキャッチャーという設備が一般的になりつつある。
 万が一の際は、溶け出した核燃料を地下のプールのようなところへ逃がし、地上へ影響を及ぼさない。
 中国の原発ですら採り入れられ始めたと言われるこうした最新の安全対策も無視されている。

7 外部電源重要度分類(1~3)3のまま(低い分類のまま)

8 基準地震動→平均値で決めている→平均値超える地震動無始(倍以上の地震動いくらもある)

9 テロ対策はほとんど実効なし

 わかりやすいレジメはコピーしてお分けできます。
 関心のある方はどうぞご連絡ください。(022-346-2106 AM9:00~PM5:00)
 お送りします。




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2015
12.12

慈雲尊者が説いた戒めの効能(その2) ─十善戒と安心の話─

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〈古く、大きく、重い箱がやってきました〉

 江戸時代の傑僧慈雲尊者(ジウンソンジャ)は、十善戒に導かれた生き方の効能を述べています。
 その後半です。

6 不悪口(フアック)戒

「言葉に刺がなくなり、言葉の刃で他人を傷つけない。
 むやみと責め立てられたり、怒鳴られたり、恨み言を言われたりする縁が遠ざかり、自分もまたそうしたもの言いをしなくなる」

 悪口(アック)とは、いわゆる悪口(ワルクチ)ではなく、感情に任せた粗暴な言葉遣いや、無神経あるいは意地悪なもの言いです。
 お釈迦様は、「人は口の中に言葉という斧を持って生まれているから、知恵と慈悲で制御せよ」と説かれました。
 言いたい放題を口にする気ままな人や傲慢な人は、自分もいつか、そうしたものによって手酷く斬りつけられることでしょう。
 感情に流されず、相手の気持に心をくばり、適切に語りたいものです。

7 不両舌(フリョウゼツ)戒

「言葉に思いやりや気遣いが滲み出る。
 親睦や友好を破壊されたり、讒言(ザンゲン)で信頼関係にヒビを入れられたりせず、自分もまた、そうした言動を行わなくなる」

 両舌(リョウゼツ)は単なる二枚舌ではなく、他人同士の信頼関係を壊そうとして、複数の人びとへ違った情報を流すことです。
 原因は嫉妬であれ、怨みであれ、怒りであれ、我欲であれ、許されない行為です。
 和合や友愛を尊び、喜ぶ菩薩(ボサツ)の心と正反対であり、こめられた悪意は他人にトラブルを起こさせるだけでなく、やがては自分自身へブーメランのように回り来て、大切な人間関係を壊される目に遭うことでしょう。

8 不貪欲(フトンヨク)戒

「いつでも、どこでも足(タ)るを知って欲求不満がなくなる。
 さまざまな度の過ぎた欲望や、悪しきことへの没頭や、現世的な力へのやっかみや、地位名誉への自賛などに落ち込まない」

 欲が適切に制御できる人は、「夜も昼も安穏であり、家にいても、でかけても安穏であり、病気に負けず、独りでいても憂いなく、他人と交わってトラブルなく、やがては煩悩を脱し、悟りへも近づく」と説かれています。
 また、「貪欲でなくなれば、誰もが、生まれついたままで聖者として生きられる」とも説かれています。
 そして「あたりまえのことを実践し、自分の分を超えないことはいたって簡単だが、実践する時の徳は広大である」とされています。

9 不瞋恚(フシンニ)戒

「身体全体が慈悲心に合ったはたらきをする。
 眉をひそめたり、額に皺を刻んだり、目を三角にする憂いや煩悩(ボンノウ)から離れる」

 私たちに悪事を行わせるものは、貪りと怒りです。
 貪れば、いかなる志も人徳も損なわれます。
 怒りに任せた行動をとれば、必ず世を乱し、ものごとを破壊の方向へ導きます。
 貪りと怒りはあいまって生じ、貪る心が薄くなれば、つまらぬことに起こらなくなり、怒る心が薄くなれば、いつしか貪らなくなるものです。

10 不邪見(フジャケン)戒

「貴賤や男女にかかわりなく人びとを見ても、山河や大地を眺めても、すべてが因果応報によって、ありのままに存在していることがわかる。
 ありとあらゆるものが真如(シンニョ…活き活きした真実)の顕れであり、実相(ジッソウ…ありのままの姿)そのものであることがわかる。
 邪(ヨコシマ)な考えを持ち、つまらぬ分け隔てをし、聖者をないがしろにし、賢者を誹(ソシ)り、神祇(ジンギ…神々)を侮り、仏菩薩(ブツボサツ)を誹謗(ヒボウ)し破壊しようとする悪しき心と無縁になる」

 慈雲尊者は説きました。
「邪とは正に対して用いられる名である。
 邪(ヨコシマ)に僻(ヒガ)んだ心である。
 見は、見るという字だが、目で見るのではなく、心に見定める処があることを指す。
 この見処が横道に行けば邪見となる。
 邪見は恐ろしいと知って、正しい知見に従うのが不邪見である」
 すべては(クウ)であり、因果応報の糸につながっているという真理に立ち、自分も他人も生きとし生けるものは皆、広大ないのちの世界を共に生きているという真実に気づけば、何が正しいかは自ずと観えてくることでしょう。

○ 〈普段のありよう〉と〈究極のありよう〉

 前回、(その1)に書いたとおり、 この世には、〈普段のありよう〉と〈究極のありよう〉との二面があります。
 愚癡を言わず、自分の好みだけにとらわれず、自他のものを混同せず、明らかなこととそうでないことを区別し、公と私をわきまえ、恩を忘れず恩を着せず、自分を第一として権利の主張をするよりも、自他の人間としての尊厳をこそ第一すれば、〈普段のありよう〉において、まっとうに、安心に生きられることでしょう。
 これが隠形流(オンギョウリュウイアイ)居合の『七言法(シチゲンホウ)』です。
 そして、この十善戒を心に刻んでおけば、〈究極のありよう〉においても、深い安心と共に生きられることでしょう。




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2015
12.11

慈雲尊者が説いた戒めの効能(その1) ─十善戒と空(クウ)の話─

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 江戸時代の傑僧慈雲尊者(ジウンソンジャ)は、十善戒に導かれた生き方の効能を述べています。

1 不殺生(フセッショウ)戒

「たとえ敵や害虫などに遭遇しても、慈悲心をもって接することができるようになる。
 そうすると無体に攻撃してくる者との縁が薄くなり、自己中心から他を害する心も起こらなくなる」

 もちろん、敵からは身を守らねばなりませんが、その場合ですらも、単に「この野郎!」と恐怖と怒りに任せて戦うのでなく、心のどこかに哀れみを持ちつつの防御となることでしょう。
 作家曽野綾子氏はかつて、泥棒に出くわした時、こんなことをしてはいけませんと諭して帰らせました。
 敬虔なキリスト教徒としての生活がそうさせたのでしょう。
 むやみにいのちあるものを害さないという思いやりの心は、宗教の如何を問わず、根本から自他を救います。

2 不偸盗(フチュウトウ)戒

「社会的立場などを利用した賄賂などの不当な要求をしなくなる。
 そうすると、強盗や窃盗などによって自分の財産も奪われにくくなり、自分もまた、奪わなくなる」

 自分へ本来、与えられていないモノを好き勝手にしようとするのが盗みです。
 ここのところ相次いで、土木・建築関係の手抜き工事や食品・薬品関係のルール違反などが明るみに出ました。
 不当に得る悪業(アクゴウ)は必ずツケが回ってきます。
 たとえ強盗や窃盗に遭わなくとも、因果応報の報いは受けねばなりません。

3 不邪淫(フジャイン)戒

「誰かと男女関係が成立している異性に対して、勝手に接触を求め、執着しないようになる。
 非倫理的で誰かを傷つける関係を求める者は寄りつかなくなり、自分もそうしないようになる」

 恋に落ちると言うとおり、異性を好きになる恋愛感情は、ものの道理とは無関係に〈起こってしまう〉ものであり、防ぐことはできません。
 だから、問題は、その感情の扱い方に尽きます。
 きちんとコントロールすれば、自分にとっても相手にとっても人生の味わいを深める佳い体験になり得ますが、煩悩(ボンノウ)のままにふるまえば、ろくなことにならず、老いて死を間近に感じる頃には取り返しのつかない後悔の念に襲われることでしょう。

4 不妄語(フモウゴ)戒

「用いる言葉はすべて真理に従い、正しくなる。
 嘘偽りやインチキな書面で騙そうとする者が寄りつかなくなるし、自分も誰かを騙せなくなる」

 自分の言葉に注意をはらっている人は、他者の言葉にも注意深くなるものです。
 ただ疑い深ければ騙されないというわけではありません。
 他人を悪者扱いするより先に、自分自身が常々どうなのか、言葉づかいに気をつけるようにしましょう。

5 不綺語(フキゴ)戒

「言葉に虚飾がなくなる。
 駄洒落、無意味なおしゃべり、時間つぶしの稽古事などに縁がなくなる」

 人生は時間です。
 時間が創造的に用いられてこそ、人生は活き活きしたものになります。
 もちろん、仕事の成功であっても、家庭の平安であっても、趣味の探求であっても、何かの結果をつかむためには休息も準備も気分転換も必要であり、そうした時間も含めて自分はどう過ごしているか、振り返ってみたいものです。

○過ちを犯さないようになるには?

 私たちが十善戒に背く過ちを犯す理由の一つは、〈自分〉の絶対視にあります。
 よく用いられる数珠の例えはこうです。
 108個の珠が集まって一本の数珠になりますが、数珠とはその全体に対して与えられた名称であり、珠の一個一個、どれをもってしても、数珠であるとは言えません。
 私たちは、数珠の全体に対してそう思い、そう呼んでいるに過ぎません。
 私たち自身をふり返ってみても同じです。
 指や足など、どこをとっても〈自分〉そのものではなく、たとえ大好きな恋人であっても同じです。
 恋人の髪一本すらも愛しく感じますが、では髪を切ったなら、あるいは病気で失ったなら、恋人は〈減る〉のでしょうか?
 自分も恋人も、地や骨のように固いもの・水や血液のように流れるもの・火や体温のように温かいもの・風や呼吸のように通り抜けるもの・それらが互いに妨げず自在にはたらくバランスのとれた場としての(クウ)・精神という6つの構成要素によって存在しています。
 これを六大(ロクダイ)と言います。
 また、自分も恋人も、身体を含む物質・感受作用・表象作用・意志作用・認識作用が集まって存在しています。
 これを五蘊(ゴウン)と言います。
 そして、これらが全部、たまたま、因と縁によってうまい具合にまとまっていればこそ、その結果として自分も恋人も居るに過ぎません。
 また、身体を構成している数十兆もの細胞は数年ですべて入れ替わりますが、そうすると、大人になった人は子どもの頃とは別人でしょうか?
 あるいは、医者になる決心をしていた子供の頃の心と、教師になってはたらいている今の心は別ものでしょうか?
 自分とは実にファジーな存在です。

 私たちは、普段、何気なく〈居る〉と思っている〈自分〉ですが、このようによく考えてみると、諸条件の集まりによってガラス細工のように、海辺の砂山のように、危うく存在しているだけであると気づきます。
 確たる不変の実体があっての自分ではありません。
 この気づきが、(クウ)を知る入り口です。

 もちろん、自分は(クウ)だからといって、「去年の自分はどこにもいないので、今の自分には関係ありません」と去年の約束を反故にできるわけではありません。
 大切なのは、自分にも恋人にも何ものにも、〈普段のありよう〉と〈究極のありよう〉との二面があるのを忘れないことです。
 そうすると、普段のやり方で行き詰まった時、究極の観方から、思わぬ打開策が見出されたりします。
 自分の絶対視、何かの絶対視というものの本質に背いた無理な観方から生じた壁が、嘘のように消えたりもします。

 自然に、妄りな殺生、盗み、不貞、嘘、おべんちゃらなどから離れることにもなるはずです。
 十善戒を唱える修行と(クウ)を観る自覚によって、自他の苦を克服したいものです。




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2015
12.10

第七十回寺子屋『法楽館』のご案内 ─原発から脱する道─

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〈『河北ウィークリー仙台』の記事です〉

 今年最後の寺子屋では、原発問題をあたらめて考えましょう。
 講師は弁護士鈴木宏一先生(仙台弁護士会)、日立システムズホール仙台にて12月12日、午後2時から開催します。
 参加費は1000円(お菓子と飲物付)です。

 福島原発の事故で明らかなとおり、核による発電は核兵器と同じような危険性があり、私たちへ重大な選択を迫っています。

「人間は、完全な安全性を確保しつつ使いこなせるまで、いったん事故が起これば壊滅的な打撃を受けるリスクを冒しながら、利用と開発を続けていいのか?」

「今生きている人々は、便利さを享受しつつ、最終的処理方法のない危険な放射性廃棄物をどんどん積み上げ、後の世代へ渡すことが許されるのか?」


 これは、単に経済の問題ではなく、政治の問題でもなく、人間の存続と尊厳をかけた文明の問題ではないでしょうか。
 地球上にいるすべての人びとが考え、判断し、結論を出さねばなりません。
 経済の問題なら、失敗した経営者は退陣し、会社が潰れればお終いです。
 もちろん、関わって損をする人びとも発生しますが、それはある程度、自己責任となります。
 政治の問題なら、信頼を失った政治家は落選し、政権が潰れればお終いです。
 もちろん、影響で苦しむ人びとも発生しますが、それはある程度、選挙民としての責任になります。
 しかし、原発の失敗には〈お終い〉がありません。
 会社が潰れ、政治家が退陣するのとは次元が異なり、人間生活の破滅と環境の破壊は補う方法がありません。
 しかも、規模によっては、補おうとする主体(自治体・国家)が消滅するかも知れません。

 当山がたびたび指摘してきたとおり、日本の安全保障上、最大の危険は中国の原発です。
 日本列島のほぼ真西に続々と造られている原発から放射性物質が偏西風に乗って飛来すれば、日本全土を簡単に覆ってしまうことでしょう。
 しかも、最新の紅沿河原子力発電所などは、昭和51年に65・5万人(米国地質調査所推計)が死亡した唐山地震発生地から遠くない場所にあります。
 大気汚染が深刻な中国ではこれからも原発が増える可能性があり、日本国の存続は危うくなる一方です。

 核兵器廃絶はなかなか進みませんが、脱原発は人類喫緊の課題です。
 なぜなら、核兵器は「用いる」という人間の意志があって初めて災厄をもたらしますが、原発は、意志とかかわりなく、ミスや、天災や、場合によってはテロによってすら、桁外れの災厄をもたらしてしまうからです。
 そして、時々刻々、地球にとっての異物であり毒物でもある放射性廃棄物が生み出され、溜められ続けているからです。

 あらためてよく考え、来年こそ、課題解決に向けた確かな一歩を踏み出したいものです。




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2015
12.09

自己と非自己の境界はどこにあるか? ─ファジーさの救い─

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〈私たちを導く叡智〉

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〈浜に感謝、届けてくださった浜の方へ感謝です〉

1 胸腺の不思議

 今から約20年前に故多田富雄博士によって書かれた『免疫の意味論』はまったく色あせないどころか、人と人、国と国との関係が硬直し、ぶつかり合う度合いを強めている状況下にあって、私たちに重要な示唆を与えてくれる。

 そもそも、免疫とは〈自己を守るシステム〉だが、では、どこまでが〈自己〉であり、どこから先が〈非自己〉であるかという境界は、研究を進めれば進めるほど、曖昧であることが明らかになったという。

「非自己自己の延長線上にあって、自己と非自己の境界はその時その時で自ら決めているという、そういうことになってきています」

 
 現在、免疫の中枢臓器と考えられているのが胸腺である。
 この臓器は、約半世紀前までほとんど注目を浴びなかった。
 生後まもなく最も活発に動き、10才ほどで最大の大きさになった後はどんどん縮んで40才ぐらいで10分の1になり、老年期では何10分の1でしかなくなる。

「胸腺は年令を非常によく反映するわけですが、小さくなってしまった胸腺を若い動物に移植しますと、また大きくなるんです」

「若い動物の胸腺を老化した動物に入れますと、しばらくは働いているんですけど、やがてまた小さくなってしまうんです。
 ですからどうも胸腺を動かしているものがほかに何かあるらしいんです。
 それがわからないんです。」

「(寿命に至る)プログラムは、胸腺の中にある程度まで書き込まれていると思いますけれど、またさらにそれを調節している上位のものがあるらしい。
 そんなことが最近わかってきたんです。」


 これほど重要で不思議なはたらきをしている胸腺は、子どもの時期に大きく膨らむので、かつては何かの病気に関わっていると疑われた。
 その結果、病気になった子どもを救おうとしてX線で破壊されるケースが多々、あった。
 今日では、脳神経系、胸腺を含む免疫系、内分泌系などが複雑に絡み合って身体の統合能力を保っていることが解明され、悲劇はなくなった。
 しかし、それら全体を統御している臓器は発見されていない。

「システムは完全にプログラムされているものではなくて、外部から何か刺激があればそれに反応するけれど、内部的に調節が働いて、結局は自分の中にもともとあった全体性のようなものを保つ、いわゆるホメオスターシスを保つための臓器系といわれています。
 しかし、それらの全体を統御しているもう一段上の臓器があるわけではない。」

「発生から免疫反応にいたるまで、完全にDNAで決められているというわけではなくて、状況に適応しながら新しいものをつくっていくというシステム、そういう仕組みがあって、そのへんが生物学の面白いところなんじゃないかと思いますね。」


2 ファジーな身体と心

 私たちは、生まれ持ったDNAの指令によって個体の身体がつくられるというイメージをもっているが実際は違う。
 そもそも人間の身体の99・99パーセント以上は同じものでつくられているのだ。
 生まれ持った条件に、まったくプログラムと無関係の外部環境がかかわり、〈一人の人〉を特定する新しい生きものとしての身体がつくられ、保たれ続ける。
 しかも〈一人の人〉全体を統御しているものはわからない。
 実に神秘的ではないか。

 こうしたありようは、心の姿にも通じている。
 心が幾重にもなり、変化しやすい部分と変化しにくい部分があることはある程度、わかってきたが、何によって特定の〈自分〉という意識が生み出されたのかはわからないし、確かに自分であるはずの身体のどこを探しても自分の心は見つからない。
 何が〈自分〉の全体を統御しているのかもわからない。
 しかし、生まれる前に何らかの原因があってこそ、自分は自分として生まれ、ここにいる。
 育ちや生き方によってどんどん変わり、中には〈別人〉のような人へと変貌を遂げる人もいるが、どんなに変わろうと、依然として〈その人〉は〈その人〉以外の人にはなり得ない。
 これまた神秘的ではないか。

3 ファジーさと危機管理

 私たちは、身体も心も、それを特定する境界がある程度不確か(ファジー)であればこそ、恒常性(ホメオスターシス)を保ちつつ存在できる。
 それは危機管理上、必須の条件であるとも言える。

「体のほうは見事にプログラムされているわけではありませんから、かなりファジーなやり方で、条件次第で反応しているんですけど、そのほうが危機管理としてはうまくいっているということもあると思いますね」


 さて、多田富雄博士の発言は、平成7年に新潮社より刊行された対談集『こころの声を聴く』に載っている。
 この対談の締め括りに故河合隼雄博士はこう述べた。

危機管理という点でいうと、ファジーなほうがいいというのは、たとえばわれわれのところに相談に来られる人がみんなそうなんです。
 みんな思いがけないことに遭遇して不幸になっておられるわけですね。
 思わぬ事故にあったとか、思いがけない人が亡くなったとか、思いがけなく先生に怒鳴られたとか、そういうようなことがあって、みんないろいろな状況になって相談に来られる。
 その時、だいたいファジーなところが少ない人は、その状況にガツーンといかれてしまうわけですね。
 ファジーさをもっている人は、危機状況の時に強いといえますね。
 ただ、人間の思想とかの体系でいうと、ファジーすぎる人は、危機でない時に負けたりしますので、難しいんですけども、との点でいうと、身体のシステムはすごいですね」


 日本文化の研究者ヨーク大学教授テッド・グーセン氏は対談を読み、すぐに『免疫の意味論』を買ってきた。
 実際に読んでみなければ心の〝声〟を聴けないと思ったからである。
 そして、『こころの声を聴く』のあとがきに述べた。

「この対談集は『国家の知的健康』によく効く薬であることはまちがいないと私は思うのです」


 知的とは何よりも自己を絶対化せず、自己を省み、自己を客観的に観て全体を想う視点に立つ姿勢ではなかろうか?
 多田富雄博士の言葉は忘れられない。

「非自己は自己の延長線上にあって、自己と非自己の境界はその時その時で自ら決めている」


 敵対も親和も決して自動的に決まりはしない。
 相手だけが決めているのでもない。
 最終的に決めるのは「自ら」である。
 ぜひとも、知的健康さを失わない日本であって欲しい。




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2015
12.08

経典は宝もの ─智慧と実践─

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〈早朝の虹〉

 仏教における経典と実践の大切さをあらためて考えてみたい。

1 なぜ、経典が尊ばれ、供養されるのか?

 八千頌(ジュ)般若経にある経文である。

 神々の王である帝釈天(タイシャクテン)がお釈迦様へ質問する。
 以下は大意である。

「片方には、智慧の完成を書き記し、書物の形にして安置する人びとがいます。
 捧げものを調え、恭敬し、尊重し、奉仕し、供養し、讃歎し、祈願します。
 もう片方には、悟った如来の舎利をストゥーパの中に安置し、自分のものとして保存する人びとがいます。
 こちらの人びとも書物と同じように、大切にします。
 さて、どちらの人びとがより多くの福徳を得られるでしょうか?」

 お釈迦様は問われる。

「それでは、お前に質問しよう。
 如来はどのような道について学び、全知者性を獲得し悟ったのだろうか?

 帝釈天は答える。

如来智慧の完成について学び、全知者性を獲得し、悟られたのです」

 お釈迦様は指摘される。

帝釈天よ、そのとおりである。
 如来は具体的存在である身体を得ているから如来という名で呼ばれるのではなく、全知者性を得ているために如来という名で呼ばれるのだ。
 全知者性は智慧の完成によってもたらされた。
 如来が具体的存在としての身体を得ているのは、智慧の完成を生ずるための巧みな手立てとして必要だからである」

「だから、如来が涅槃へ入ったおりには、人びとが舎利を尊び、供養するだろう。
 しかし、より多くの福徳を得るのは、智慧の完成を書き記し、書物の形にして安置する人びとなのだ。
 なぜなら、それは全知者の知を直接、供養したことになるからである


 肝腎なのは智慧の獲得であり、それは、自己中心的なものの観方を離れ、如来の観方ができるようになることを意味する。
 これがない限り、たとえ100年にわたって仏舎利を拝んでも、煩悩の束縛から脱し得ない。

 お大師様も説かれている。

「真言密教に縁を結び、経典を書写し、読誦し、教えに即して修行し、思惟を深めるならば、永遠とも言うべき長い時間をかけなくても、父母から生まれたこの身このままで高い境地へ入り、心中のみ仏を開顕することができるでしょう

 大切なのは教えに学び、実践し、日常の認識パターンを超えた認識の目を持つことであり、その先にこそ般若心経の空(クウ)を知り、空に生きる道が開ける。

2 観る人から行う人へ 

 では、空に生きるとはいかなるイメージか?
 脱力し、我関せずを決め込む〈観る人〉になっただけではどうしようもない。
 仏教はそんなところを目ざしてはいない。
 自利利他(ジリリタ)に精進する菩薩(ボサツ)となることが目的である。
 お大師様は、仙人のようになってもしようがない、とはっきり述べておられる。
 では、利他の勇猛心はどこから出てくるか?
 どうすれば、智慧が慈悲に結びつくか?
 なぜ、〈観る〉から〈行う〉へのジャンプが可能なのか?
 その方法こそが密教の三密行(サンミツギョウ)である。

 私たちの心といのちは、身口意としてはたらいている。
 身体、言葉、意識の三つである。
 普段は煩悩(ボンノウ)によって三つのそれぞれが、自己中心的にはたらき、他者とぶつかり、傷つけ合っている。
 しかし、印を結ぶなどして身体をみ仏に一致させ、経文や真言を唱えるなどして言葉をみ仏に一致させ、観想するなどして意識をみ仏へ一致させれば、おのづから、心中のみ仏がはたらき出す。
 この訓練を繰り返すことによって、身体と言葉と意識は三つの悪業をつくらず、み仏のおはたらきと一致するようになる。
 み仏のおはたらきは、普段、隠れており凡夫の生活から秘密になっているので、三密(サンミツ)と言う。
 つまり、三業(サンゴウ)ではなく、三密に生きられるようになる。
 これが即身成仏(ソクシンジョウブツ)である。

 ただし、仏心は万人にあり、すべての現象が大日如来の顕れとして仏法を説いている以上、所定の経典を読誦するという限られた方法によってしか、三密を得られないわけではない
 いつの間にか自己中心にとらわれなくなっていた人もおられる。
 平成25年9月、ジョギング中の厳俊氏(26才)は、増水した淀川で流されている小学4年生の男児を救出した。
 思わず飛び込んだが自分も溺れそうになっていったんは岸へ上がったものの、あきらめずに100メートルも下流へ走って追いかけ、住民が差し出したロープを身体へ巻いて再び濁流へ飛び込み、救出成功となった。
 大阪市立大学留学生である氏は紅綬褒章を受け、語った。
「一人の普通の中国人としてしなければいけないことをしただけです」
 氏はあの時、生き仏になっておられたはずだ。
 身体は飛び込み、言葉は今行くぞと心中で叫び、心には見捨てない覚悟があったのではないか。
 身口意は、どんな地獄へも現れてくださる地蔵菩薩や観音菩薩そのものだったに違いない。
 彼がいかなる生活の中で身につけたかはわからないが、見事な三密と言える。

3 観ると行う

 何を信じていようがいまいが、普段から思いやりの心を意識し、イメージする生活をしたい。
 自分の身体はどうはたらいているか、言葉はどうはたらいているか、意識はどうはたらいているか、チェックしたい。
 そして、できるならば、み仏の教えに接し、煩悩(ボンノウ)のフィルターを外して空(クウ)を観る目も持ちたい。
 そうすればきっと、大切に伝えられた経典とみ仏のご加護により、苦を滅して行けることだろう。




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2015
12.07

Q&Aその17 ─母親の貯金箱から勝手にお金を使ってしまった娘へのしつけは?─

2015120600022.jpg
〈護摩の炎に顕れた龍神様〉

 ある時、さんを育てているシングルマザーAさんから人生相談がありました。

「小学生のが私の貯金箱から一万円札を盗って友だちと使ってしまいました。
 初めてのできごとで、私も混乱し、酷く叱りつけました。
 そして当分、お小遣いをやらないことにしましたが、あまりの落ち込みように心配しています。
 そうかといって、ここで甘やかしてしまえば、父親がいないから厳しさが足りなかったということになるようで、どうすればよいかわかりません」

 さんの性格やこれまでの生活ぶりなどにしばらく耳を傾けた後で、こんなお話をしました。

さんの気持はわかります。
 いわゆる〈ぐれた〉状態ではなく、お母さんとの心理的距離が近いので、お金を含む持ちものについて自他の区別が甘いのでしょう。
 そうした例はいくつもあります。
 盗んだからといって、外で万引きをしたのとはまったく違います。
 恐らくお友達と一緒にどうしてもやりたいことがあったのでしょう。
 また、「ばれたら謝ってそのうちに返せばよい」という生来の甘さもあるのでしょう。
 しかし、〈そのうち〉はなかなか来ないものです。
 ところで、何か最近、特段のできごとはありませんでしたか?
 母親として、さんにこれまでと違ったふれ合いをしたり、女性としてこれまでと違った面を見せたりはしませんでしたか?
 たとえ小さな変化でも、母親と密着して生きているさんにとっては大きく、なかなか消化できないことだったのかも知れません。

 さて、貴女が娘さんをはっきりと叱ったのは当然です。
 しかし、叱ったことが本当に意味を持つためには、許しも必要です。
 恩赦、特赦という言葉があります。
 仕事がうまくいったとか、宝くじに当たったとか、娘さんのテストの成績がよかったとか、何かをきっかけにして、その 「」を家族で分かち合うという形はどうでしょう。
 母娘が一緒に喜び、それと共に罪一等を減じてあげるのです。
 そうすれば、娘さんにとって今回のできごとは、母親への反発や怨みを抱くきっかけにならず、いつか大きな感謝を伴ってよみがえる貴重な記憶となることでしょう。

 そして、どうせ許すなら、怨みや怒りや恐れなどが固まらぬうち、早い方がいいですよ。
 娘さんは、善悪がわからないのではなく、善悪はわかった上で、やむにやまれない心理的要求によって行ったのでです。
 ここで大事なのは、痛い目に遭わせて正邪善悪を教え込むことよりもむしろ、動揺し、あるいは凝ってしまった心理を解きほぐし、本人が〈知っている〉善悪にすなおな気持で従えるよう導くことではないでしょうか。
 しばらく罰を与え続け、時間をかけて思い知らせようとすることはほとんど無意味です。
 優秀な娘さんはもうとっくに、知っているのです。
 心理的状況がどうにもならぬところへ行く前に手を打ってください。
 そうすれば娘さんの心に本当の懺悔や感謝が生まれ、母娘で涙ながらに手を取り合うような気持になれるかも知れません。
 哀しいできごとを、感激のできごとに転化できるのです。
 どうぞ遅くならないうちに、間合いをはかり、ここぞというタイミングでサプライズのビッグプレゼントを与えてください。
 もうすぐ、クリスマスではありませんか」

※これは、ご本人のプライバシーのため、状況も内容も事実とは異なる〈物語〉となっています。




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2015
12.06

【現代の偉人伝】第215話 ─社会のひずみと利己主義へ挑戦するビル・ゲイツ氏─

201512060001.jpg
〈朝日新聞様よりお借りして加工しました〉

 12月5日付の朝日新聞は、「技術革新、社会貢献から」「子の命を守ることは基本的な価値」と題して、マイクロソフト社創業者のビル・ゲイツ氏が行う社会貢献について報じた。
 アメリカにはかねてから、いわゆる成功者と認められる条件として、福祉活動などへ私財を投げ出すことが必須という文化が育てられてきた。
 大統領が議会で聖書へ片手をおいて宣誓し、裁判でも聖書の上に手を置いて真実のみを語ると誓うアメリカでは、キリスト教的倫理に基づき、博愛奉仕の象徴として寄附行為に大きな価値が認められ、税額控除という優遇措置がとられている。
 それにしても、ビル・ゲイツ氏の英断は見事と言うしかない。
 これで氏は文字どおりアメリカ国民の英雄となり、青少年たちに憧れられ、目ざされる資格を得たことだろう。
 以下、インタビュー記事の抜粋である。

「ゲイツ氏は2000年に、自らと妻の名を取った『ビル&メリンダ・ゲイツ財団』を設立。
 08年にマイクロソフトの経営の一線を退いた後は社会貢献活動に取り組む。
 約9兆5千億円とされる個人資産の『95%』を投じるとしている。」

「最も重視するのがポリオやマラリアなど感染症の撲滅。
 深刻な問題ながら政府や国際機関、企業がいずれも十分取り組めていない分野だ。
『個人の資産だからこそ、長期的視野を持ってリスクも受け止められる』と意義を語った。」

「技術革新の多くは社会貢献の中から生まれてきた」

「裕福な国の人には少額でも、最貧国を支援すればすごい効果がある。
 人には、個人の成功を超えたモラルへの希求がある
 自分の周りだけでなく、人類全体まで視野に入れられるかが問われている


 氏が堂々とモラルを口にできるのは、一攫千金の儲けだけを追求する経営者とは異なる志をもってここまで来たからではなかろうか。
 むろん、〈罪滅ぼし〉のために行う慈善活動も何ら問題はないが、その場合の多くは、モラルという言葉を使いにくかろうと思われる。
 また、「モラルへの希求」はおのづから「自分の周りだけでなく、人類全体まで」を想う視野に至る。
 それは必ずしも人生の成功を前提としない。
 昨年、ノーベル平和賞受賞を受賞したマララ・ユスフザイ氏(18才)を見れば明らかだ。
 パキスタンの一生徒だった氏は、暴漢に襲撃されたが危うく一命をとりとめ、女性が平等に教育を受けられる世界を目ざし、いのちがけの活動を続けている。

「子どもの命の不平等に、最優先で取り組みたかった。
 企業にとってビジネス的な魅力がなく、公的援助も不十分な分野だ


 発展途上国で深刻な感染症に関わることは、商売上のうまみがなく、政治家も名を挙げる機会になりにくい。
 つまり、誰もやりたがらないが、人道上は深刻な危機が現出している。
 氏は、人間社会の基本的な価値が地球規模でないがしろにされていることにと気づき、放置できなくなった。

「世界の最貧困層を苦しめる病気について、研究や援助が不十分だと知って非常に驚いた。
 子どもの命を守るのは基本的な価値
 そのために自分たちのお金を使う。
 それが自分の信じる価値だから」


 この明確な価値観が志を生む。

「行き過ぎた不平等は問題だ。
 資本主義は格差是正の方向へ自動的に動くことはない
 不平等の是正には、多くお金を持つ人が持っていない人に渡すことだ


 資本主義のど真ん中で成功した氏は、その光も影も知り尽くしているのだろう。
 富める者がどんどん富を大きくすれば、やがて、貧しい者へも富が滴り落ちるなどというトリクルダウン理論のまやかしを、現場の者として見抜いている。
 それを標榜し、不平等を放置することは氏のモラルが許さない。
 だから、氏は政治に頼らない。
「不平等の是正には、多くお金を持つ人が持っていない人に渡すことだ」
 政治にやれないことは個人がやるしかない。
 私たちは、この断定を深く深く心に刻んでおかねばならないと思う。
「資本主義は格差是正の方向へ自動的に動くことはない」

富裕層はリスクが高い分野に資金を出し、政府は基礎研究に資金援助をするという協力関係を築くべきだ


 富む者はリスクが低い分野へ投資しようとし、政治家は、文系の学部から理系の学部へと国家予算をシフトしつつあることでわかるとおり、すぐに成果が目立つ研究へ資金援助をしようとする。
 富む者も政治家も自分の利を求める以上、こうした状況は決して「自動的に」是正され得ない。
 このままでは富の偏在がますます進み、学問の土台は崩壊を早めることだろう。
 ここで氏は経済界と政界を断罪せず、最初に自らが私財をなげうち、状況の改善をはかろうとする。
 モラルは畢竟、個人によってしか守られず、モラルを自覚する個人によってしか、まっとうな社会は実現しない。
 まず利己主義を抑えることをもって、富む者へも政治家へも同調を求めた今回の偉業はきっと、歴史に残ることだろう。
 そして、「子どもの命を守るのは基本的な価値」という信念は、私たちの心から利己主義の闇を払う灯火として明々と灯り続けることだろう。

追記

 おりもおり、12月6日付の河北新報は「子ども貧困基金」の寄附が低調であると報じた。

「安倍晋三首相らが発起人となり、子どもの貧困対策として10月に立ち上げた民間基金で、政府が期待する経済界からの大口寄付が1件もなく、寄付総額は11月末時点で計約300万円にとどまっていることが5日分かった。
 2016年度に始めるNPO法人などへの助成事業には億単位の基金が必要とされるが、官民挙げて取り組むとした『国民運動』の看板事業の実施が危ぶまれている。
 『子供の未来応援基金』は、子どもの6人に1人が貧困状態にあるとされる中、個人や団体の寄付で基金をつくり、貧困対策に携わるNPOなどへの助成を主な事業としている。」


 この事実は、日本の経営者がダメであることを意味しない。
 実際、当山とご縁のある経営者は人知れず、隠れた社会貢献をしておられる。
 心ある経営者は、宗教的に言えば「陰徳積善(イントクセキズン)」を実行しているはずだ。
 政治の貧困を民間へ補わせようとし、しかも政策の〈看板〉に利用しようとする姿勢にこそ問題がある。
 世界に冠たる日本であろうとするよりも、「子どもの6人に1人が貧困状態」であることを国家的恥と猛省し、ただちに具体的かつ、実効性のある政策を実行することが求められているのではなかろうか。




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2015
12.05

余命を知った医師といのちの苦 ─スピリチュアルペインのこと─

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 12月4日付の朝日新聞は「いのちのケア」と題して、内科医であり僧侶の田中雅博氏に対するインタビュー記事を載せた。
 昭和21年、名刹西明寺に生まれた氏は、住職を務める父親の勧めで医師になり、国立がんセンターの内分泌部治療研究室長まで務めたが、37才で退職し寺を嗣いだ。
 そして7年後、境内地に緩和ケアも行う普門院診療所を造った。
 平成26年、極めて深刻な段階の膵臓ガンが見つかり、「来年3月の誕生日を迎えられる確率は非常に小さい」と考えている。

 氏は最初に受け持った患者さんから「私は死ぬんでしょうか?」と訊かれ、答えられなかったことから「いのちの苦」に対する専門家の必要性を実感し、今日に至った。

「生きられるいのちは粗末にしたくありません。
 一方で、自分のいのちにこだわらないようにする。
 そのふたつの間で、『いのちの苦』をコントロールしているわけです。
 死の恐怖や不安と闘うというよりは、仲良くしようとしている感じでしょうか」


 私たちは生きたいという意志を持っている。
 一方で、死が避けられないことも知っている。
 この意志も知識も普段は、〈在る〉だけと言っていい。
 しかし、身近な人の死や、自分の重篤な病気などに接すると、意志は知識に抗いながら強くはたらき始める。
 この時点で「いのちの苦」が生じる。

「医学はいのちを延ばすことを扱うわけですが、そのいのちをどう生きるかという問題にはまったく役に立たない。
 体の痛みを止める医師が必要であるのと同じように、『いのちの苦』の専門家が必要です。
 それがほとんどいないのは日本の医療の欠陥だと思います」

「それら(※死を覚悟した頃に生じる後悔)も受け入れ、最後の最後まで人生の『ものがたり』を形づくる手伝いをする人が必要です。
 それを含めての医療であるべきだと思います。
 科学では何もできなくなったときこそ、非常に多くのことができるはずです」

「人というのは、元気なうちは自己の欲望にとらわれたり、怒ったり、他人を差別したりするものです。
 しかし死が避けられないとなったときは、そうしたことから離れて、自分のいのちを超えた価値を獲得するチャンスでもあります。
 いのちより大事にしたいもの。
 それは信仰を持たない人にとっても、自身の『宗教』だと思うんですよ。
 それに気づくことができれば、その大事なもののために残りの時間を生きることができるのではないでしょうか」


 氏の言う「自身の『宗教』」とは、死生観だろう。
 それは、科学的知識からは導き出せない。
 病状に対する医学的分析と、治療効果の可能性についての判断によって余命が計算された先に発生するいのちの苦は、科学以外のものに依らなければ解決できない。
 事態をどう受け止め、その先をどう生きるか、という死生観がいかなる形になるのかは本人の全人格にかかっている。

 死生観がきちんとできて、いのちの苦を克服しつつ残りのいのちをまっとうするには、サポートする専門家が必要である。
 ただし、30年も前からその必要性を訴え、世界中で研究してきた氏は、専門家に求められるものの大きさを指摘する。

「欧米でスピリチュアルケアにあたる人は宗教だけでなく、哲学や医療などもしっかり勉強しています。
 ただ、ある人は『知識があるだけではだめだ』と話していました。
 むしろ、死にゆく患者さんに大事なことを教えてもらうという態度で臨むのです。
 非常に高度なことですね。
 人格的にも優れていなければならないでしょう」


 そもそも、「いのちの苦」として表面化している実存的な〈苦〉は広く、深く、全人格をかけて立ち向かわねばならず、そうした戦いに臨んだ人びとの側に立とうとする宗教者もまた、全人格をかけなければ役割を果たせない。
 氏はその資格として決定的なポイントを述べた。
「死にゆく患者さんに大事なことを教えてもらうという態度で臨むのです。
 非常に高度なことですね」
 肝に銘じておきたい。

 死生観に迷ったならば寺院の門を叩いてみてはいかがでしょうか。
 どう弔われ、どう葬られるか、という物理的、金銭的、手続き的なことだけでは済まない精神的状況が〈その前〉に必ず、やってきます。
 最大の問題はむしろ、〈それまで〉をどう生きるか、です。
 氏の言うとおり「やはり生きているというのはいいこと」であると思っています。
 共に、この実感を持ちつつ生きたいものです。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
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「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=WCO8x2q3oeM





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