--
--.--

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

2016
01.31

戦争に加担せず、世界的役割を果たす道 ─アフガニスタンの医師中村哲氏─

201601310001.jpg

 1月30日付の朝日新聞は、待ちに待ったインタビュー記事『アフガン復興を支える』を掲載した。
 30年以上にわたり、アフガニスタンの人々を救済し続けるNGO「ペシャワール会」の現地代表中村哲医師(69才)の話は、文字どおり〈現場〉の〈現実〉を伝えている。
 人道に立つとはどういうことか?
 飢え、戦争で殺され、死んで行く人間に手を差し伸べるとはどういうことか?
 人と人とが殺し合わず平和に生きる空間は何によってもたらされるか?
 太平洋戦争を体験した日本人が、それを深く省みてこれからの国作りを考え、日本ならではの世界的役割を果たすとはどういうことか?
 人生をかけてきた医師の言葉をよくよくかみしめたい。
 そして、日本国と国民一人一人がいかなる決断と実践を行うべきか、よくよく考えたい。
 以下、同記事を転載する。

 米軍などが「対テロ戦」を掲げ、タリバーンが支配するアフガニスタンを空爆してから15年。タリバーン政権は倒れたものの、いまだ混乱は収まらず、治安も悪化したままだ。
 この国の復興を、どう支えていけばいいのか。
 NGO「ペシャワール会」の現地代表として民生支援を続ける医師の中村哲さんに聞いた。

 ――19ロ80年代から90年代は医療支援でしたが、今は灌漑(かんがい)事業が中心です。
 お医者さんがなぜ用水路を引くのですか?

「農業の復興が国造りの最も重要な基盤だからです。
 2000年からアフガニスタンは記録的な干ばつに襲われ、水不足で作物が育たず、何百万という農民が村を捨てました。
 栄養失調になった子が泥水をすすり、下痢でいとも簡単に死ぬ。
 診療待ちの間に母親の腕の中で次々に冷たくなるのです」

医者は病気は治せても、飢えや渇きは治せない。
 清潔な水を求めて1600本の井戸を掘り、一時は好転しました。
 しかし地下水位は下がるし、農業用水としては絶対量が足らない。
 そこで大河から水を引き、砂漠化した農地を復活させようと考えたのです。
 合言葉は『100の診療所より1本の用水路』でした」

「道路も通信網も、学校も女性の権利拡大も、大切な支援でしょう。
 でもその前に、まずは食うことです。
 彼らの唯一にして最大の望みは『故郷で家族と毎日3度のメシを食べる』です。
 国民の8割が農民です。
 農業が復活すれば外国軍や武装勢力に兵士として雇われる必要もなく、平和が戻る。
『衣食足りて礼節を知る』です」


(食えない人は食うしか助かる道はない。
 食えない人が武器を渡されれば戦争に加担するしかない。
 まず、食えることが戦争をなくす道であることがよくわかる。
 仕事と家を与えず、武器を与えるのは地獄への導きである。)

 ――自身で重機を操作したこともあるとか。

「03年から7年かけて27キロの用水路を掘り、取水堰(せき)の改修も重ねました。
 お手本は、福岡県朝倉市にある226年前に農民が造った斜め堰です。
 3千ヘクタールが農地になり、15万人が地元に戻りました。
 成功例を見て、次々に陳情が来た。
 20年までに1万6500ヘクタールを潤し、65万人が生活できるようにする計画ですが、ほぼメドが立ちました。

 政権の重鎮らが水利の大切さにやっと気づき、国策として推進しなければと言い始めました。
 現地の人たちの技術力を底上げする必要を感じています」


(誰かがやらねば〈成功例〉は生まれない。
 しかも、成功例が国策に反映されるまでは長い年月がかかる。
 砂利を積んで造られた朝倉市の斜め堰は、生態系への悪影響がほとんどなく、補修を続ければいつまでも使える。
 江戸時代の知恵が世界を救いつつある。)

 ――工事はだれが?

「毎日数百人の地元民が250~350アフガニ(約450~630円)の賃金で作業し、職の確保にもなります。
 元傭兵(ようへい)もゴロゴロいます。
『湾岸戦争も戦った』と言うから『米軍相手か』と聞くと『米軍に雇われてた』とかね。
 思想は関係ない。
 家族が飢えれば父親は命をかけて出稼ぎします


「最近は、JICA(国際協力機構)の協力も得て事業を進めていますが、基本は日本での募金だけが頼り。
 これまで30億円に迫る浄財を得て、数十万人が故郷に戻れました。
 欧米の支援はその何万倍にもなるのに、混乱が収まる気配はない。
 これが現実なのです


(一人の日本人と、志を同じくする人々が知恵と慈悲によって膨大な人々を救ってきた。
 日本の政府にはこの成功例がどう見えているのか?
 30年も経っているのに。)

    ■    ■

 ――現地の治安は?

「私たちが活動しているアフガン東部は、旧ソ連が侵攻したアフガン戦争や、国民の1割にあたる200万人が死んだとされる内戦のころより悪い。
 この30年で最悪です。
 かつて危険地帯は点でしたが、今は面に広がった。
 地元の人ですら、怖くて移動できないと言います。
 ただ、我々が灌漑し、農地が戻った地域は安全です


(金と軍隊が投入されながら悪化の一途を辿る治安。
 一方、見返りを求めぬ志と汗によって確かに確保される安全な地帯。
 目まいのするような〈現実〉である。)

 ――反政府勢力タリバーンが勢いを盛り返しているようです。

タリバーンは海外からは悪の権化のように言われますが、地元の受け止めはかなり違う。
 内戦の頃、各地に割拠していた軍閥は暴力で地域を支配し、賄賂は取り放題。
 それを宗教的に厳格なタリバーンが押さえ、住民は当時、大歓迎しました。

 この国の伝統である地域の長老による自治を大幅に認めた土着性の高い政権でした。
 そうでなければ、たった1万5千人の兵士で全土を治められない。
 治安も良く、医療支援が最も円滑に進んだのもタリバーン時代です

欧米などの後押しでできた現政権は、タリバーンに駆逐された軍閥の有力者がたくさんいるから、歓迎されにくい。
 昼は政府が統治し、夜はタリバーンが支配する地域も多く、誰が味方か敵かさっぱり分からない。
 さらに(過激派組織)イスラム国(IS)と呼応する武装勢力が勢力を伸ばし、事態を複雑にしています」


(宗教が権力者の暴政から人々を救う場面もある。
 外国人は〈有力者〉とコネクションをつくり、効率的に支配しようとするが、権力と財力に任せて地位を守っている有力者へ、人々は厳しい目を向けている。
 かつてイラクへ行った自衛隊員は、武器を用いず地域に溶け込もうとする姿勢が人々に認められ、撤収に際して「還らないでくれ」と懇請されるまでになった。
 世界で困っている人々のためになりたいのなら、やるべきことは明白だ。) 

 ――アフガンは世界のケシ生産の9割を占めるといわれます。

「我々の灌漑農地に作付け制限はありませんが、ケシ畑はありません。
 小麦の100倍の値段で売れますが、ケシがもたらす弊害を知っているから、農民も植えないで済むならそれに越したことはないと思っている。
 先日、国連の麻薬対策の専門家が『ケシ栽培を止めるのにどんなキャンペーンをしたんだ』と聞くから、『何もしていない。みんなが食えるようにしただけだ』と答えたら、信じられないという顔をしていました」


(儲けた者が勝ちという価値観にどっぷりとに浸っている人々は、悪や罪が待っているとしても、儲けに走らない事態は想像できない。
 しかし、上記のとおり「衣食足りて礼節を知る」であり、特に、足るを知りつつ自然と共に生きる農民には、目先の儲けより大切のものが見えている。
 監視カメラに取り囲まれ、それでもなお、足るを知らず、儲けたいがためにたやすく悪行へ走る人々が日々、新聞の紙面を賑わす我々の文明は恥ずかしい。)

    ■    ■

 ――戦争と混乱の中でよく約30年も支援を続けられましたね。

日本が、日本人が展開しているという信頼が大きいのは間違いありません。
 アフガンで日露戦争とヒロシマ・ナガサキを知らない人はいません。
 3度も大英帝国の侵攻をはねのけ、ソ連にも屈さなかったアフガンだから、明治時代にアジアの小国だった日本が大国ロシアに勝った歴史に共鳴し、尊敬してくれる。
 戦後は、原爆を落とされた廃虚から驚異的な速度で経済大国になりながら、一度も他国に軍事介入をしたことがない姿を称賛する。
 言ってみれば、憲法9条を具現化してきた国のあり方が信頼の源になっているのです

「NGO(非政府組織)にしてもJICAにしても、日本の支援には政治的野心がない。
 見返りを求めないし、市場開拓の先駆けにもしない。
 そういう見方が、アフガン社会の隅々に定着しているのです。

 だから診療所にしろ用水路掘りにしろ、協力してくれる。
 軍事力が背後にある欧米人が手がけたら、トラブル続きでうまくいかないでしょう」


(中村医師はこれまでも同様な〈証言〉を繰り返してきた。
 日本の世界的価値について語る資格がもっともある一人と言えるのではなかろうか。
 支配しようとせず、儲けようとせず、信者にしようとせず、純粋に人道的行為を行う国であり国民であると信頼されているとは何という光栄だろう。
 この信頼が持つ価値と力に比べたなら、経済的あるいは軍事的優位を誇ることなど、どれほどのことであろうか。)

 ――「平和国家・日本」というブランドの強さですか。

「その信頼感に助けられて、何度も命拾いをしてきました。
 診療所を展開していたころも、『日本人が開設する』ことが決め手になり、地元が協力してくれました」


(信頼される日本人であること以上の〈安全保障〉はない。
 武器で得られる安全はすべて、相手との関係で成り立つ相対的な安全でしかないが、相手から狙われない安全は絶対的である。
 狙われないなら守るための武器など不要だ。
 ここには、武器が不要な究極の安全と平和がある。)

 ――日本では安保法制が転換されました。影響はありますか。

アフガン国民は日本の首相の名前も、安保に関する論議も知りません。
 知っているのは、空爆などでアフガン国民を苦しめ続ける米国に、日本が追随していることだけです。
 だから、90年代までの圧倒的な親日の雰囲気はなくなりかけている。

 嫌われるところまではいってないかな。
 欧米人が街中を歩けば狙撃される可能性があるけれど、日本人はまだ安心。
 漫画でハートが破れた絵が出てきますが、あれに近いかもしれない。
 愛するニッポンよ、お前も我々を苦しめる側に回るのか、と」


(かつて、中村医師はこう書いた。
ヨーロッパ近代文明の傲慢さ、自分の『普遍性』への信仰が、少なくともアフガニスタンで遺憾なく猛威をふるったのである。
 自己の文明や価値観の内省はされなかった。

 それが自明の理であるのごとく、解放や啓蒙という代物(シロモノ)をふりかざして、中央アジア世界の最後の砦を無惨にうちくだこうとした。
 そのさまは、非情な戦車のキャタピラが可憐な野草を蹂)躙(ジュウリン)していくのにも似ていた。
 老若男女を問わず、罪のない人びとが、街路で、畑で、家で、空陸から浴びせられた銃弾にたおれた。
 原爆以外のあらゆる種類の武器が投入され、先端技術の粋をこらした殺傷兵器が百数十万人の命をうばった。
 さらにくわえて、六百万人の難民が自給自足の平和な山村からたたきだされ、氷河の水より冷たい現金生活の中で『近代文明』の実態を骨の髄まで味わわされたのである

 私たちは、この〈現場〉を想像してみたい。
 現場をもたらしたのは、我々の文明である。
 それでも日本は一歩、手前で踏みとどまっている。
 踏みとどまっていることが〈現地〉で認められている。
 だからこそ、人道に立つ行動が可能であり、狙われずに役割を果たせている。)

 ――新法制で自衛隊の駆けつけ警護や後方支援が認められます。

日本人が嫌われるところまで行っていない理由の一つは、自衛隊が『軍服姿』を見せていないことが大きい。
 軍服は軍事力の最も分かりやすい表現ですから。
 米軍とともに兵士がアフガンに駐留した韓国への嫌悪感は強いですよ

「それに、自衛隊にNGOの警護はできません。
 アフガンでは現地の作業員に『武器を持って集まれ』と号令すれば、すぐに1個中隊ができる。
 兵農未分離のアフガン社会では、全員が潜在的な準武装勢力です。
 アフガン人ですら敵と味方が分からないのに、外国の部隊がどうやって敵を見分けるのですか?
 机上の空論です


軍隊に守られながら道路工事をしていたトルコやインドの会社は、狙撃されて殉職者を出しました。
 私たちも残念ながら日本人職員が1人、武装勢力に拉致され凶弾に倒れました。
 それでも、これまで通り、政治的野心を持たず、見返りを求めず、強大な軍事力に頼らない民生支援に徹する。
 これが最良の結果を生むと、30年の経験から断言します


(かつて、中村医師はこうも書いた。
たとえ文明の殻をかぶっていても、人類が有史以来保持してきた野蛮さそのもの、戦争そのものが断罪されねばならないと思うのである。
 我われの敵は自分の中にある。
 我われが当然とする近代的生活そのものの中にある。

 日本人は何を得ようとしているのか?
 日本人は何を失おうとしているのか?
 私たちの文明は、このまま〈謳歌〉し続けてよいのか?
 私たちの足元はどうなっているか?
 よく省みたい。)




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IvMea3W6ZP0





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村
 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン

 

スポンサーサイト
2016
01.30

生きものたちは5回、絶滅しています ─年表に想う事は?─

Category: □救われる道   Tags:大絶滅
201601300001.jpg
〈自由な者〉

201601290001222.jpg
〈束の間の天女〉

 いのちあるものは、過去、5度にわたって、大絶滅を経験してきました。
 以下、簡単な絶滅と誕生の歴史です。

 38億年前………生命が誕生しました。

 27億年前………光合成細菌が出現、酸素が放出され始めました。

 26億年前………火山活動が活発化しました。

 24億年前………地球全体が凍結するスノーボールアースになりました。
            その後、真核生物が生まれました。

 21億年前………酸素が増え出しました。

 6億年前…………スノーボールアースになり、[第一の大絶滅]が起こりました。

 5億4千万年前…カンブリア大爆発が起きました。
            史上最も多様な生命体が生まれました。
            〈魚類〉も生まれました。

 4億3千万年前…絶滅が起きました。
 
 4億年前…………植物が陸上に進出しました。
            〈昆虫〉・〈両生類〉・シダ類も生まれました。
            魚類が繁栄しました。

 3億6千万年前…[第二の大絶滅]が起こりました。
            その後、〈爬虫類〉が生まれました。
            ゴキブリが生まれ、昆虫が繁栄しました。

 2億5千万年前…全海洋で酸素が欠乏し、史上最大となる[第三の大絶滅]が起きました。
            その後、〈恐竜〉・〈ほ乳類〉が生まれました。
         
 2億年前…………パンゲア大陸が分裂し、[第四の大絶滅]が起きました。
            その後、〈鳥類〉が生まれました。
            恐竜は巨大化し、昆虫は小型化しました。
         
 6千5百万年前…巨大隕石の落下に伴い[第五の大絶滅]が起きました。
            恐竜も絶滅しました。
            その後、ほ乳類の繁栄を迎えます。

 20万年前………ホモ・サピエンスが誕生しました。

 1万年前…………農耕が始まり、人口が増え出しました。

 絶滅の後に、新たなタイプの生きものが誕生しています。
 不思議としか言いようがないではありませんか。
 数十億年後には、太陽と地球の関係で地球最期の日を迎えるとされていますが、どうなることでしょうか。
 ただし、核兵器か核発電の失敗によっては、少なくとも人類の大絶滅はもっと早く起こり得ます。
 ときおり、こうした年表を眺めてみたいものです。

2016013000101.jpg
〈「隠岐世界ジオパーク」様よりお借りして加工しました〉




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2016
01.30

イラク戦争と靖国神社への祈り(その16) ─死と仏壇─

20160129001000011.jpg

 平成16年1月、自衛隊のイラク派兵に鑑み、仏神と祖霊のご加護で自衛隊員の無事帰還をはかるべく、靖国神社へ向かって托鉢行を始めた。
 世界の情勢が急変を見せ始めた今、そのおりの記録を加筆訂正しながら再掲しておきたい。
 不戦日本の願いを込めて。

 ご葬儀となり、宮城に留まる。

死と仏壇(2月24日)

 ご不幸があった場合、お仏壇を閉じるか、それとも開けたままにしておくか、宗派の作法や地方地方の慣習としてはさまざまある。
 基本的には旦那寺や慣習に合わせておけば大過ないが、場合によっては、親戚縁者の意見が分かれたりするなど議論百出になり、喪主様が困り果ててしまう。
 当山にはこれまで幾度もこの問題についての人生相談があり、喪主様から「皆を説得してください」というご依頼もあった。
 いつも、こう申しあげてきた。
「私が決めて、皆さんに従っていただくというよりも、まず、喪主様に、ものの道理として考えていただきたいと思います。
 もちろん、その材料はご提供しましょう」
 そして、以下のような話などをする。

仏壇はお堂あるいは寺院です。
 仏壇には必ずご本尊様が祀られ、もしご先祖様など先に逝かれた方があれば、そのお位牌も安置されていますね。
 当然、読まれる経典や、お線香などのご供物もあることでしょう。
 さて、ご本尊様という仏宝(ブッポウ)があり、教えという法宝(ホウボウ)があるお堂の前に座り、合掌したりお経を読んだりする人は僧宝(ソウボウ)であると言えます。
 三つの宝ものがあるならば、そこは明らかに寺院であり、聖地です。
 必ずしも立派な建物があるから寺院なのではなく、もし、酒色に狂ったり、修行をおろそかにしたり、豪勢な生活を楽しんだりする破戒僧侶がいれば、伽藍の価値や、長い歴史や、広い名声にかかわらず、真の寺院とは言えません。
 このように、仏壇寺院である以上、家族を送る大切な時に、そこにおられ日々拝んでいるご本尊様に手を合わせてはいけない根本的な理由がありましょうか?
 また、大切な家族の死に際し、ずっとご守護いただいてきたご本尊様におすがりしないでいられないのは、極めて自然な真情です。

 そもそも、私たちのいのちと心と共におわすみ仏のご守護について、私たちが、『今は要りません』などと言えるはずがありましょうか。
 当山でお唱えする『守本尊利益経』には『日は365日昼夜を見守り時は一刻の休みなく八方天地十方世界を守る』と説かれています。
 み仏を想い、ご本尊様に合掌する心を断絶する根本的な理由はないのです。

 判断するに当たって大切なのは、枝と幹を見誤らないことです。
 言うまでもなく〈根本〉こそが幹です。
 常に根本からの発想や判断だけで世の中を円滑に渡って行けるわけではありませんが、自分がものごとの決定にあずかれる立場に立ったならば、そこのところを間違えないようにしたいものですね」




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2016
01.29

イラク戦争と靖国神社への祈り(その15) ─死への同行を頼まれたら……─

201601290002.jpg

 平成16年1月、自衛隊のイラク派兵に鑑み、仏神と祖霊のご加護で自衛隊員の無事帰還をはかるべく、靖国神社へ向かって托鉢行を始めた。
 世界の情勢が急変を見せ始めた今、そのおりの記録を加筆訂正しながら再掲しておきたい。
 不戦日本の願いを込めて。

 一旦、戻ると法務が相次ぐ。

不安の解消(2月23日)

 思わぬ大金を得た男性がそれを目当てに群がる人々へ気前よく分け与えた結果、もらった人々はそれぞれ事業に失敗するなどの憂き目に遭い、結果的に誰も寄りつかなくなったという。
 男性は孤独と失意の裡に死を迎え、ある女性Aさんへ「一緒に逝ってくれ」と頼んで亡くなった。
 懇請されたAさんは困惑のあまり体調を崩し、そのうちに、周囲から祟り障り憑依の話を聞かされて不安を増した。
 眠られなくなり、当山を訪ねられた。

 Aさんの状態は、はたして御霊のせいなのか?
 不安はどこから来るのか?
 御霊か、それとも無責任に不安をあおり立てる人々か。

 答は、自分の心と言うしかない。
 人を憎んだり好きになったりするのは自分の心であって、憎しみも好感も相手から〈来た〉のではない。
 Aさんの不安は、他人の言葉をきっかけとして自分の心中に〈生まれた〉のだ。

 対処法は4つ。

 一つは、ごく特殊な例外はあっても、ものの道理として「一緒に逝ってくれ」には実効力がなく、「動物が憑いた」には実体がないことを自分の頭で確認すること。
 自分の身体も言葉も心も、いかに動かすかは自分次第である。
 もちろん、言霊にも情念にも訴えかける影響力はあるが、それらこそ〈やって来る〉ものであって、それらがAさんに成り代わって身口意を動かすことは不可能だ。
 ましてや、男性が飼っていた動物の霊にAさんを操る力などありようがない。

 もう一つは、心のレベルを変えること。
 真言を唱え、経典を読誦し、瞑想を行ない、心中におわすみ仏にはたらいていただこう。
 眼・耳・鼻・舌・身・意識のはたらきが変われば、見え方・聞こえ方・嗅ぎ方・味わい方・触感・思い浮かべ方が変わる。
 死者であれ、生者であれ、相手の言葉に潜む怖れや悪意や嘲笑や不安や混乱や無知が客観的に眺められれば、憐れみの気持は生まれても、言葉に左右されることはなくなる。
 暗い道で眼にしたニョロッとしたものが縄であると正確に認識できる人は、「蛇だっ!」と驚き、怖れ、逃げ出さずに済む。
 縄をどうしたらよいか、適切な判断ができる。

 もう一つは、心身のクリーニングを行うこと。
 ご加持(カジ)がその代表的方法である。
 自分に生じたものによって自分が縛られているような状況は、この秘法が役立つ場面である。
 法を受けてリラックスした心身は、不要、あるいは不自然なものを削ぎ落とす。

 そしてもう一つは、亡き男性の供養を行うこと。
 きっと、Aさんご自身では、とても心からそうした気持になれないだろう。
 その時こそ、僧侶の出番である。
 行った方がよいと思えるのに自分でできないのなら、プロへ頼むしかない。
 自分が同席しようとしまいと、僧侶が行う供養の修法を信じられるならば、男性が成仏するための、言い換えればあの世で確かな安心を得ていただくための何かを行ったという実感は持てる。
 この「よかれ」と思うことが大切である。
 怖れがもたらす忌避の心は、忌避という一種の執着を生む。
 一方、よかれと思うのは一時的には相手との距離を縮める行為だが、それは必ず、ある種の解放をもたらす。
 成仏を願えば、相手が成仏に近づくだけでなく、自分にもいつしか、み仏の心がはたらいており、苦の原因となる執着から共に遠ざかることができる。 
 
 亡くなられた男性はきっと〈いい人〉だったのだろう。
 行為や善意が周囲から喜ばれている間は幸せ感でいっぱいだったのかも知れないし、あるいは他人に知られたくない不安やコンプレックスなどを解消したくて、いい人を演じていたのかも知れないが、いずれにしても、人を引き寄せていた。
 そして、少なくとも、財をばらまくことそのものは誰かを傷つける悪行ではない。
 ただ、子供が欲しがるあめ玉を欲求に応じて与え、虫歯や肥満にさせてしまう親に似た不注意はあったのだろう。
 結果的に、裏切られたといった気持になり、怨みや寂しさのあまりAさんに同行を頼んだことは残念と言うしかない。
 心から成仏を祈りたい。

 夜に白河市へ向かう予定だったが、信徒さんのお宅でご不幸があり、あと2~3日は出発できない。
 すべてみ仏へお任せして進むのみ。

(ご縁の方々のプラ-バシーに配慮した記述を行っています)




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2016
01.28

自然と平和地帯 ─いじめの退治、魂の治癒について─

201601280001.jpg

 精神病やいじめなど、荒れた魂はいかにして救済されるか?

1 チベットの学校における平和地帯

 平成26年10月、当ブログは「いじめ・不登校・戦争をなくす方法 ―チベット人の学校にある平和地帯―」を掲載した。
(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-4349.html)
 インドのダラムサラにあるチベット亡命政府は、各学校に「平和地帯」を設けており、ダラムサラではいじめなどがまったく起こらないという。
 発端は、昭和62年、ダライ・ラマ法王が欧州議会において『チベットは将来、平和地帯となる』と宣言したことにある。
 法王の妹であるジェツン・ペマ先生が主導しているこの活動はDVD『幸せになる』で明らかにされているとおり、学校の一部に、隔離された静かなスペースを用意して「平和地帯」と名づけ、争う心が起こった子供をそこへ連れていって座らせるというシンプルなものである。

「子供たちが喧嘩をしているのを見かけたら、我々の施設において、先生方、大人達、上級生が彼らと話し仲直りをさせた後、平和地帯に行かせ、平和について考えさせます。
 そして、景色や夕陽を見ながら、しばし時を過ごすのです。
 鳥のさえずり、林や花など、その場の素晴らしさを堪能するのです。」

「良い結果が得られた事から、今では子供たちの寮の中にも平和地帯を設けています。
 例えば食堂やリビングなどの片隅にテーブルと椅子を置いて小さな平和地帯を作ります。
 何か子供たちが問題であれば、寮母さんは平和地帯で子供たちと話をします。
 平和地帯を毎日、思い出す事で、常に平和を意識するようになったり、必ず何か変わると思います。
 法王様が仰るように、世界の平和のためには、まず個々人が心の中で平和を培わなければ、我々はこの平和の概念を子供たちへ根付かせるよう努めています。
 彼らが学校を卒業した後も、平和を愛し、非暴力を貫いて育っていければ、我々の努力が実ったと言えるでしょう。」


2 日本の子供における「自然」の死

 故河合隼雄博士は指摘した。

「西洋の文化を急激に取り入れるまでは、日本は大家族的であった。
 子どもたちはそのようななかで、『自然』に育ってゆくことによって健全に育っていった。
 ここに健全というのは難しいことで、言うならば自然に悪も経験することもそのなかに内包することなのである。
 つまり、親がいくら子どもを善い子にしようとしても、子どもも多く、親も忙しいし、子どもは『自然に』生きてゆくのに必要な悪いことを体験し、それを自ら克服してゆくことによって成長したのである。
 ところが、現代では子どもを『自然に』育てることは難しくなっており、管理が行きとどき過ぎて、人工的な善い子をつくりあげることが多くなっている。」(『宗教と科学の接点』より)

「ここに詳述しないが、現代における子どもの多くの問題の背後に、育児における『自然』の消滅の問題が存在していることはよく理解できるであろう。」


 マニュアルにより熱心に育てられた〈問題〉のないお子さんが起こす重大な〈問題〉には、深刻な問題が潜んでいる。
 だからといって、今さら、自然に還れ、大家族に戻ろうと叫んでもはじまらない。

「現代に生きるわれわれとしては、あいまいな形での『自然』との一体感にしがみつくことなく、対象し得られる限りは、自然を対象として把握することを試みつつ、科学と宗教の接点に存在するものとしての『自然』の不思議な性質をよく弁えて、より深く探求を重ねてゆくことが必要であろう。
 人間がどう叫ぼうと、どう考えようと、神そのもの、あるいは自然(ジネン)は簡単に死ぬものではない。
 ヨーロッパにおける神の死の自覚がより深い神への接近をもたらしつつあるように、日本において『自然』の死を自覚することが、自然のより深い理解をもたらすであろう。」


 家庭における生育の過程から自然さが失われ、都会においては、自然そのものを感得しにくい環境で育つ子供が増えている。
 日本の子供たちの惨状は、二重の意味で自然から疎外されていることに大きな原因があるのではなかろうか?

3 箱庭療法の現実

 昭和40年、西洋で箱庭療法に接した博士は、「日本人に非常に向いている」と感じて日本へ持ち帰り、生涯、その実践に徹した。
 

「箱庭のような非言語的手段によって自分の内面を表現し、またそれを治療者が了解するということが容易なのでうまくゆくと思ったのである。」


 現在、日本は世界で最もこの療法が盛んな国となっている。
 重要なのは、治療者が治療しようという意識を離れ、本人の自己治癒力を引き出すという一点にある。
 療法士は、本人の語るに任せ、沈黙するに任せて、そこに居る。

「本人も誰かに頼ろうとし、他人も何とか助けようとして、それらの作用が人間の心の底に存在する自己治癒の力を妨害していたときに、治療者の態度がそのはたらきを容易ならしめた、と言うことができる。」


4 魂の治療

「西洋の医学が人間の身体を『客観的対象』と見なすことにより、科学的な医学を発展させてきたように、人間の『心』というものを『客観的対象』を見なそうとしても、観察者自身も『心』をもっているので、そのようなことが成立しないのである。」


 心は必ず相手の心に作用する。
 物理的にも、観察するという行為は観察される現象に変化をもたらすことが知られており、それを観察者効果と言う。
 ましてや、共鳴する音叉のようなはたらきを持った心同士であり、〈客観〉を柱とする科学のみでは心の真実に迫りにくく、心の問題は解決しにくい。

「確かに問題を限定すると相当科学的に治療が行えることは事実である。
 しかし『たましい』のレベルまで問題にするときは、科学的にはできなくなってくる。
 既に述べたように、治療者がいわゆる『客観的』な態度をとるかぎり、患者の自己治癒の力がはたらきにくくなり、治療は進展しないのである。
 既に述べたような『開かれた』態度によって治療者が接すると、それまでに考えられなかったような現象が生じ、そこにはしばしば共時的現象が生じる。
 その現象は因果律によっては説明できない。
 しかし、そこに意味のある一致の現象が生じたことは事実である。
 そのことを出来るかぎり正確に記述しようとしたとき、それは『科学』なのであろうか。
 それは広義の科学なのだという人もあるだろう。
 しかしそれはまた広義の宗教だとも言えるのではなかろうかる
 つまり、そこには教義とか信条とかは認められないが、自我による了解を超える現象をそのまま受けいれようとする点において、宗教的であると言えるのではなかろうか。」


 共時的現象とは、夢枕や胸騒ぎといったものに近い。
 そのことの重要性に気づいた心理学者ユングは、「原因と結果」という時間の経過を含む原理とは異なる同時的現象について、「シンクロニシティ(共時性)」を提唱した。
 心理療法の現場では、共時性でなければ説明のつかない現象や状態が発生し、それが治癒に劇的な効果をもたらす場合もある。
 それは、ご祈祷やご加持を行っている宗教行為の現場でもしばしば見られる。
 そして、起こった現象そのものが問題なのではなく、結果として生じた心の変化にこそ意義がある。
 不思議なことに、すべては必ず〈救済〉へ向かう。
 宗教者としては、現場における体験からも、お釈迦様が説き、お大師様も説かれた「仏性の共有」は信じて疑いようがない。

「宗教はもともと人間の死をどのように受けとめるか、ということから生じてきたとも言うことができる。」

「最初はいかに生きるかに焦点があてられていた心理療法においても、死をどう受けとめるかが問題にならざるを得なくなった。」


 生を突き詰めて行けば、死を意識せざるを得ない。
 死を孕まない生はないからである。
 生と死を見つめる先には広い意味での自然がある。
 自然は人間をも仏神をも含み、人間のはからいである科学や宗教という言葉をも超えて存在している。

「東洋における宗教の基礎にある自然(ジネン)と、西洋近代科学の対象であった自然(ネイチャ)は、現代において思いの外に重なりを見せ、新しい科学、新しい宗教の課題となりつつあると思われる。
『人間の性質(ネイチャー)は、自然(ネイチャー)にさからう傾向を持つ』はユングの言であるが、人間のネイチャーを問題とせざるを得ない心理療法という領域が、新しい科学と宗教の接点として浮かび上がってきたのも故なしとしないと思われるのである。」


5 自然と平和地帯

 上記のようなことごとを考える時、自然の力を借り、人間の持つ自然を解放する「平和地帯」の活動が持つ奥行きと広がりの大きさに驚く。
 それは、実践によってもたらされた結果で明らかなとおり、宗教的には霊性、仏性を開顕する有力な方法であり、魂を癒す方法としても充分過ぎるほどの科学性を持っていると言えるのではなかろうか?
 当山はこうした場として、動的で金剛界マンダラに当たる「みやぎ四国八十八か所巡り道場」及び、静的で胎蔵界マンダラに当たる「不戦堂」の造営を願い、小さな活動を始めている。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。

https://www.youtube.com/watch?v=qp8h46u4Ja8





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2016
01.27

琴奨菊の優勝と白鵬への仕打ち ─熱狂がはらむ危険─

201601270008.jpg

 大相撲初場所で大関琴奨菊(31才)が優勝し、日本出身力士の10年ぶりの優勝は大いに称賛された。
 度重なるケガ、5度のカド番を乗り越えての快挙は、頭の下がるものだった。
 特筆すべきは、館内での優勝インタビューにおいて、「10年ぶり」について訊ねられ「私の初優勝がたまたま10年ぶりということだった」と静かに語ったことである。

 さて、横綱白鵬琴奨菊と12勝1負で並んだ14日目、まだ勝ち越していない大関稀勢の里と対戦した。
 琴奨菊は前日の敗戦をものともせず、すでに関脇栃煌山を撃破している。
 館内は稀勢の里へのコールで割れんばかり。
 なすすべなく一方的に押し出された白鵬は支度部屋へ引き上げて淡々と答えた。
「(明日は)自分の一番いい相撲をとって……、まだわかりませんから(土俵に)上がりたい
 ニュースでこの場面を見た小生は、「上がりたい」と小声で漏らす表情に血の気が引く思いだった。
 
 大横綱双葉山を畏敬し、白鵬を理想とする白鵬は、日本人でないがゆえにいいそう、国技のトップに立つ横綱らしい横綱たらんと努力してきた。
 朝青龍の行動と受けた批判を目の当たりにしているだけに、彼なりの精いっぱいを続けてきたことはよくわかる。
 実績も非の打ち所がない。
 それなのに、かつて、双葉山の連勝記録を更新するかと騒がれていた平成22年11月場所で連勝を止めた稀勢の里へ一方的な応援がなされることは、相撲ファンから自分の相撲人生を否定されたと感じたのではなかろうか?
 モンゴル人であるがために──。
 無論、彼はこの件について語らないだろう。
 当分は。
 しかし、翌日の千秋楽でも、およそ白鵬らしからぬ相撲で連敗したことを見ても、14日目の衝撃がどれほどだったか、想像がつく。

 琴奨菊と共にさすがと思わせたのは、好角家(コウカクカ)で漫画家のやくみつる氏である。
日本出身の力士優勝への期待はだいぶ前から高まっていたが、口にするのはモンゴル出身で活躍する力士らに対して非礼なこと。
 それでも心の内で待望する人は相当いて、自分も正直に言えばそうだった。
 やはり10年ぶりというのは感慨深い。」
 この「非礼」がどれほどの重みを持つものか、私たちはよくよく省みたい。
 非礼を意識し、その上で感慨を感じる心と、非礼を意識せず、まるで我が子を可愛がるような姿勢で同胞を一方的に応援する心とでは、天と地ほども隔たっている。
 ちなみに、安倍首相はフェイスブックで「琴奨菊が初優勝を果たしました。新たなスターの登場で、大相撲が更に盛り上がる事を期待します。」とだけ述べている。
 25日に開かれた横綱審議委員会の席上、白鵬の負けっぷりに一部委員から苦言が出たと報道されたが、14日目のできごとについていかなる意見がでたのかはわからない。

 国技である相撲は世界へ開かれているスポーツだ。
 そのいのちは、力士もファンも関係者も〈フェア〉を貫けるかどうかにかかっている。
 国籍で選手を分け隔てしてはならないのはもちろん、勝者の偉業を称賛することと、敗者の気持を忖度することは、スポーツの健全性を保つ車の両輪でなければならない。
 それは、私たちが〈意図された熱狂〉に引きずられない健全な国民であるための指標でもあろう。
 目を世界へ転ずれば、スポーツでフェアを実践できない国がいかなる国情になっているか、目の当たりにできる。
 大いに心したい。 




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2016
01.26

厄祓いと守本尊様 ─誰が厄を祓うのか─

201601260002.jpg

 2月7日午前10時より、皆様の願いをこめた千枚の護摩木を焚いて厄除けの春祭を行います。
 当山で行う秘法の骨子は以下のとおりです。

1 本命星と星の位置

 当山の厄祓い厄除けは、九星学(キュウセイガク)という東洋哲学が示す教えに基づき、古来、伝わる守本尊様の秘法を用いて行います。
 私たちは誰でも、生まれた年に縁となっている九星の一つが本命星(ホンメイセイ)となります。
 たとえば、平成28年の立春から平成29年の節分までの間に生まれた人は、「二黒土星(ジコクドセイ)」が本命星となります。
 なお、四季の廻る一年は立春からスタートするので、平成28年でも、お正月から節分までの間に生まれた人は、平成27年の「三碧木星(サンペキモクセイ)」が本命星です。

 星は毎年、8方位と真ん中との9方位を廻ります。
 9つに分けられた盤は星マンダラとも言えます。
 一年の星の位置を示した盤を年盤と言います。
 ちなみに、平成28年は、「二黒土星(ジコクドセイ)」の年なので、「二」が年盤の真ん中に入ります。
 平成28年における星の配置は以下の通りとなります。

二黒土星(ジコクドセイ)………中央
三碧木星(サンペキモクセイ)…北西
四緑木星(シロクモクセイ)……西
五黄土星(ゴオウドセイ)………北東
六白金星(ロッパクキンセイ)…南
七赤金星(シチセキインセイ)…北
八白土星(ハッパクドセイ)……南西
九紫火星(キュウシカセイ)……東
一白水星(イッパクスイセイ)…南東

2 厄年と本命星

八方塞がりの人…本命星が中央に入る「二」の人々です。
 数え年で1・10・19・28・37・46・55・64・73・82・91・100才です。

・前厄の人…本命星が南に入る「六」の人々です。
 数え年で5・14・23・32・41・50・59・68・77・86・95・104才です。

本厄の人…本命星が北に入る「七」の人々です。
 数え年で6・15・24・33・42・51・60・69・78・87・96・105才です。

・後厄の人…本命星が南西に入る「八」の人々です。
 数え年で7・16・25・34・43・52・61・70・79・88・97・106才です。

3 本命星の位置と守本尊

 八方塞がりの年には、本命星「二」が中央にあり、中央は守本尊地蔵菩薩様の位置です。
 だから、この年回りの方々の厄除けは、地蔵菩薩の秘法によって行います。

 前厄の年には、本命星「六」が南すなわち午(ウマ)の方位にあり、そこは守本尊勢至菩薩(セイシボサツ)の位置です。
 だから、この年回りの方々の厄除けは、勢至菩薩の秘法によって行います。

 本厄の年には、本命星「七」が北すなわち子(ネ)の方位にあり、そこは千手観音菩薩の位置です。
 だから、この年回りの方々の厄除けは、千手観音菩薩の秘法によって行います。

 後厄の年には、本命星「八」が南西すなわち未申(ヒツジサル)の方位にあり、そこは大日如来(胎蔵界)の位置です。
 だから、この年回りの方々の厄除けは、大日如来(胎蔵界)の秘法によって行います。

 厄年だけでなく、それぞれの年回りにおける注意点など、詳しくは、2月13日(土)午後2時からの寺子屋にてご説明します。
 ご自身の精進に加えて敬虔な心になれば、確かなご加護がいただけることでしょう。
 関心のある方はどうぞ、ご祈祷、及び寺子屋へおでかけください。
 (いずれの催しも、地下鉄泉中央駅そばの「イズミティ21」前から送迎車が出ます。必ず事前に乗車のお申し込みをしてください)



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2016
01.25

苦しみはどこから? ─「諸行無常」と「諸法無我」を対にして学ぼう─

2016012400005.jpg
〈ご縁の方から山口百恵のレコードをいただきました。皆さんと一緒に聴く機会をつくりたいと思っています〉

 古人は言い遺した。
(タデ)喰う虫も好き好き」
 世の中には、薬味や刺身のつまになるほど辛いの葉を好んで喰う虫もいる。
 好みというものはさまざまであるというのが直接の意味だが、多くは、〈よりによって〉という他者からの揶揄(ヤユ)や批判を込めて用いられる箴言(シンゲン)である。
 たとえば、誰もが羨むような生まれと育ちと知能に恵まれた青年が、あばずれ女を好きになったばかりにさんざんな目に遭ったりすると、周囲の人々はあきれて嘆息を漏らす。
「彼がよりによってあんな女に惚れるとはねえ。
 喰う虫も好き好きとは、よく言ったものだ」

 とは言え、青年は苦しむばかりではない。
 惚れた悦びも、おそらく惚れられた悦びも体験していることだろう。
 惚れた上でのできごとを、本人がどう感じているかはわからないが、迫力ある人生のドラマを味わっていることだけは確かだろう。
 これはなぜ、否定され得るのか?

 いずれにせよ、この事態が仏教的にどうなのか、疑問が生じる。
 苦を厭い、自他共に苦から離れることを最上の道とする仏教徒は、惚れなければよいのか?
 さらに言えば、惚れるとは、何かに惹かれる感性がはたらいている状態だが、この〈惹かれる〉がなくなれば、私たちは苦を感じなくなり、幸せになれるのか?
 極論すれば、仏教の悟りは〈無感動〉を伴うのか?

 ダライ・ラマ法王は、この問いへ明確に答えておられる。

「『私』という自我をつかむ心を減らせば減らすほど、『私』にとって魅力のあるものに対する欲望も、『私』にとって嫌なものに対する嫌悪も、小さくなっていくことだけは明らかです。
 つまり、執着をする主体となる人が実体を持って存在しているというとらわれがなくなれば、その人は自分の感覚に対する欲望執着嫌悪の心を起こすことはありません。」


 お釈迦様は、日本人にはとても理解しやすい「諸行無常(ショギョウムジョウ)」と合わせて「諸法無我(ショホウムガ)」と説かれた。
 ありとあらゆるものは、それ自体に〈存在するための実体はない〉という。
 草木もイヌやネコも、ビルも山も、町行く人々も、そして自分も、時間の流れの中でたまたま、諸条件が調ってそこに在るだけであり、刻々変化して止まない条件次第では、一瞬後に無くなっても別に不思議なわけではない。
 このことは、爆弾テロに悩まされている地域の方々にとっては、特に強く実感されるのではなかろうか。
 昨日と変わらぬ賑わいを見せている市場が一瞬にして破壊され、たった今まで談笑していた人々がこの世にいなくなる。
 まさに諸行無常だが、それは同時に、諸法無我であることを示している。
 もし、市場も人も、それがそこに在るべき実体を持っているのなら、ターミネーターやゾンビのように〈無くならない〉はずだが、爆弾という縁が生じたばかりに、はたらきを持たないモノとしての欠片に帰してしまった。

 つまり、「実体を持って存在しているというとらわれ」は、勘違いによって生じているのであり、勘違いがなくなれば、「欲望執着嫌悪の心」も起こらなくなり、苦の世界から脱することができる。

「しかし、幸せを幸せと認識し、それを望むことも、苦しみを苦しみと認識し、それをなくそうと望むことも、正しい理由に基づいた正しい心です。
 魅力あるものを魅力あるものとして認識することも、嫌なものを嫌なものとして認識することも、それ自体は正しい認識なのですが、それを間違ったアプローチのしかたによって誇張し、妄分別によって、魅力あるものを実際以上にはるかに魅力あるものとしてとらえることが間違ったことなのです。


 ここが重要なポイントである。
 花の美しさに見とれることそのものに問題があるわけではない。
 それを枝ごと切って持ち帰り、自分だけが楽しめばよいというところまで行けば問題となる。
 
 そもそも、あらゆる生きものは、感情としてというよりも、条件付けとして生存のために選び、生存のために避けるというはたらきを持っている。
 アメーバですら、エサは摂取し、毒は嫌う。
 人間も同じく異性に惹かれて生殖を目指すが、「正しい心」による行動の範囲なら祝福を受け、「間違ったアプローチ」によるストーカーになれば逮捕される。
 どこかで度を超えてしまうところに問題がある。

 それにしても、かのシラノ・ド・ベルジュラックは、親友クリスチャンに成り代わり、毎日、ロクサーヌへ恋文を送った。
 小生の友人A氏は惚れた女性宅の二階へよじ登り、窓から侵入して逢瀬を重ね、無事、結婚して添い遂げようとしている。
 時代により、文化により、状況により、人により、どこまでが正しいのか、線引きは難しい。

 いずれにせよ、惚れた彼女も、ワクワクしている自分も、その根本的なありようは儚い「無常」であると同時に「無我」であることをふまえれば、容易に一線を越えないで済むだろう。
 この「同時に」が大切である。
 なぜなら、無常の意識だけでは〝どうせ無常なのだから、好き勝手にやろう〟と暴発しかねない。
 無我、つまり確たる実体を持たないことをも瞑想などによって観られるようになれば、「妄分別」も「魅力あるものを実際以上にはるかに魅力あるものとしてとらえる」こともなくなることだろう。
 重要な「諸行無常」と「諸法無我」はきちんと対にして学びたいものである。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。

https://www.youtube.com/watch?v=qp8h46u4Ja8





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2016
01.24

イラク戦争と靖国神社への祈り(その14) ─ご本尊様とは何か?─

201601240001
〈勝手に、いつしか、薫陶を受けているという不思議〉

 平成16年1月、自衛隊のイラク派兵に鑑み、仏神と祖霊のご加護で自衛隊員の無事帰還をはかるべく、靖国神社へ向かって托鉢行を始めた。
 世界の情勢が急変を見せ始めた今、そのおりの記録を加筆訂正しながら再掲しておきたい。
 不戦日本の願いを込めて。

○ご本尊様(2月22日)

 わけあって分骨を考えておられるAさんから問われた。
「本家と別に亡き主人のお位牌をつくるよりも、何か仏様をお授けいただきたいのですが……」
 かつての夫は今、その実家のお墓に眠り、お位牌もまた、実家のお仏壇で供養されている。
 Aさんは、せめて分骨をと望んでおられるが、ことはなかなか難しい。
 もちろん、自分の家でお祀りするお位牌を作るのは自由だが、すぐにできることをやればそれで解決というものでもない。

 今般の決断は、さすが、思案を重ねられた上の言葉である。
 ご主人への思慕・柱を失ったご心の揺れなどを抱え、さまざま思いあぐねたあげく、自分にとって最も必要なのは、御霊をも自分をも守り、お導きくださるみ仏であると気づかれた。

 み仏をご本尊様としてお招きするには、手を合わせるご自身の心が素直になれる方を選びたい。
 人の心情も、性格も、あるいは問題意識などもさまざまなので、み仏はたくさんおられる。
 あくまでも優しい観音様・恐ろしくも頼もしいお不動様・親しみやすいお地蔵様・いかにも尊貴なお大日様や阿弥陀様・思慕の念を起こさせるお大師様やお釈迦様。
 どなたも必ず、求める人にとって必要な安寧をお与えくださる。

 ご縁になってしばらくすると、自分で選んだようでも、み仏から選んでいただいたように思えてくるのは不思議である。
 そうなるまで祈り続けていただきたい。
 まずは、御霊とご自身と安寧のために。
 そして、生きとし生けるもののために。

(かつて、隠形流居合の行者Bさんから訊ねられたことがある。
「気合を発し、剣を揮う時の実感と、印を結び、真言を唱える時の気持がうまく結びつきません。
 お不動様をご本尊として所定の作法を行っても、尊象のようなお姿をした方がおられるという実感は持てないのです」
 お応えした。
「お不動様であれ、Bさんの守本尊様であれ、み仏は私たちの心におわします。
 ところが私たちはなかなかそのことに気づきません。
 でも、追いつめられた時や、修練を繰り返して行く先などに、〈その時〉は待っているものです。
 私たちは、優れた人格者にお会いすると、その大きさや、温かさや、深さや、柔軟さや、高邁さなどに圧倒され、憧れます。
 それは、自分の心の音叉が、そうした音色で共鳴し始めたことを意味します。
 また、薫陶(クントウ)という言葉があります。
 お香を焚いて佳い香りを染み込ませながら土をこねて美しい陶器を作ることが転じて、師が人格の影響力をもって弟子を成長させるという意味になりました。
 これもまた、真っ白なカンバスのような弟子の心に師の絵や文字が描かれるというよりは、師にある徳の香りを感じとる弟子の感性が、感得体験を繰り返すことによって磨かれ反応力を増し、同時に自分も、育つ感性をもって生きつつ、いつしか徳の香りを強く発するようになる過程全体を指していると思います。
 ご縁のご本尊様はすなわち、自分の霊性仏性薫陶してくださる方です。
 いつか、ご自身の心に何か〈必死の思い〉が生じた時、〝ああ、そうか〟〝ああ、ありがたい〟などと感じられる時が来ることでしょう。
 無理に自分へ思い込ませようとせず、淡々と所定の作法を行っていれば充分です。
 それらはすべて、お大師やお釈迦様をはじめとする行者、聖者の方々が貴重な感得体験に基づいて研究し、〝これだ〟と信じてまとめ、遺してくださったものなので、後世の私たちが自分の霊性仏性を活かす手段の一つとして信頼に足るものであることは確かだからです」

 なぜ、確かなのか?
 それは、小生自身がさんざん迷い、探し廻ったあげくに出会い、今、現実に生きている日々において、強く清浄な音叉として共鳴を導き出してくださっているからである。)




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=WCO8x2q3oeM





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2016
01.23

作家を生かそう ─ファンとは?─

201601230001.jpg

 1月22日の産経新聞は、図書館での新刊貸し出し問題をとりあげた。
 批判的立場から主張を展開したのは、新潮社常務の石井昴(タカシ)氏である。

図書館を敵だと思ったことは一度もありません。
 図書館が購入することで成り立っている本もあるし、図書館で呼んだ本を糸口にして読書週間ができた人もいると思う。
 その面では大変感謝しています。
 ただ、出版社は増刷できる本で生計が立てられるので、著者と出版社が同意した新刊文芸書の貸し出しを猶与してほしいというお願いです。
 これには、書店の命運もかかっている。」


 出版市場は20年前の約2兆6千億円あったものが、昨年は1兆5千億円になった。
 書店は一日に2店舗が閉店している。

「ベストセラーの貸し出しについて『地方自治の原点だ』という人がいるが、卵をただで配ると皆喜ぶが、(もうからないから)育てる人はいなくなりニワトリは死ぬ
 図書館の役割はストックであって、売れ筋文芸書を多数置いて住民ニーズに応えたり、普及が目的の文庫や新書をそろえたりすることではない。」


 図書館のはたらきを来館者数ではかり、賑わいぶりを競うのはいかがなものか。
 図書館にしかない本をじっくりと選べることこそ、図書館にしかない根本的な役割ではなかろうか。
 卵とニワトリの話は切実だ。
 ややもすると、目先を喜ぶ人々と目先だけ喜ばれればよい人々が生産の現場を崩壊させる。
 ニワトリを育てる現場の必要性やかけがえのなさを忘れるのは、TPPの議論に通じる危うさがある。
 今はもう、グローバル資本主義にすがっていかに儲けるか、ではなく、いかに蹂躙されずに守るべきものを守るか、が問われている段階ではなかろうか。
 このまま、富の寡占と格差の拡大が進むことを黙認できるはずはない。
 それと同じく、文化の根を枯らさないためには、放置ではなく〈工夫〉が不可欠だ。

「今回の要望は、作家の側から出てきた。
 ある著名な作家がパーティーで、ファンだという奥様から『あなたの本は全部読んでいます。でも待ち時間が長くて…』と言われたそうです。」


 真のファンならば、価値の創造者である相手のためになりたいと思うはずである。
 相手のために自分のできることは何だろうと考える。
 そうすれば、一冊の本を買うことこそが、ささやかではあるが自分にできる確かな方法であると気づくだろう。
 しかし、〈卵がただで配られる〉のが当然であれば、〈買う〉ことによる貢献は容易に忘れ去られる。

「公立図書館の問題点は、『本を読むのはタダだ』をいう意識を根付かせてしまうこと。
 作家の収入は印税だけ。
 1冊1500円の本が1初版万部で150万円。
 これでは生活できません。
 出版業はお金を出して買っていただく読者のおかげで成り立っている。
 本を買って初めてその作家応援することになる
という意識を、皆さんに持っていただけるとうれしい。」


 常々作家A氏などの話を聴いている者としては、石井常務が「作家の側」から出た切実な要望を代弁していることがよくわかる。
 もちろん、読みたいが買うお金がないという状況にある人々もおられる。
 しかし、読む方法はいくらでもある。
 それはかつて、タンポポやツクシまで食べながら生きた者として断言できる。
 本当に価値があると信じられる作家であり作品であると確信できるならば、自分の〈今の満足〉だけでなく、〈創造への貢献〉も考えてしかるべきではなかろうか。

 石井常務の「本を買って初めてその作家を応援することになる」は当たり前ながら切実な訴えだ。
 文化の根を枯らさぬよう、〈ニワトリ〉の存在を忘れぬようにしたい。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=WCO8x2q3oeM





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2016
01.22

映画『シーズンズ』 ─アポロ11号・聖フランチェスコ・緑の福祉国家を想う─

201601220001.jpg

 映画『シーズンズ ─2万年の地球旅行─』を観た。
 ジャック・ペラン、ジャック・クルーゾの指揮のもと、最新テクノロジーを駆使し、歴史学、動物行動学、人類学、哲学、民俗学、植物学などの学者たちが力を合わせて創った。
 2万年の歴史を淡々と紡ぎ、ストーリー全体が知性という静かな光に浮かび上がっている。
 動物たちは環境に耐え、対応し、食べ、生殖の役割を果たしつつ、いのちをつないできた。
 人間も同じである。
 ただし、人間のみが道具を用いて環境を変え、生きもの全体を支配しようとしている。
 オフィシャルサイトによれば、以下の5編に分かれている。
 

1 すべてが凍てつく氷河期

 2万年前、およそ7万年前から続いてきた最終氷期の中で、最も厳しい寒さに見舞われたのが、この時期だった。
 永遠に続くかのような冬。荒れ狂う猛吹雪の中、ジャコウウシ、トナカイなどの動物たちが亡者のような姿で長い列を作り、頭を低く垂れ、蹄で凍った大地をひっかきながら重い足取りで進む。
 おびただしい数の動物の群れが、氷のように冷たい風に逆らいながら、わずかながらの食料を探している。
 極寒の地で懸命に卵を温めるシロフクロウもいる。

2 氷河期の終わり、生命の芽吹き

 およそ1万年前、太陽をまわる地球の軌道が変化し、気温が急上昇。
 大地を覆う氷から解放され、氷河期が終わる。
 氷河期を生きた動物たちは、北へ向かう長い旅がはじまる。
 急速に緑の海が大陸全土に広がり、深い森は新しい命に満ちあふれ、鳥たちはさえずり、カエルは鳴き、虫たちは、あらゆる音を奏でる。
 哺乳類、鳥類、両生類、爬虫類があちこちを動き回る。

3 四季のはじまり、森の黄金時代

 四季のはじまりにより、春に新たな生命が誕生し、夏に誕生した生命が躍動し、秋に繁殖の時期を迎え、厳しい冬に備える、という生命のサイクルがはじまる。
 雨風をしのぎ、夏の強い日差しから守る樹木が豊かな、生物多様性に富んだ森は、動物たちの楽園だ。
 木の幹に登り、枯れ葉を引っかき回し、池を泳ぎ、落ち葉や泉で踊り、それぞれが家族でじゃれあう。
 巡りゆく季節のリズムに向かって行進し、格闘し、求愛する。
 自然は、捕食者であるクマ、オオカミ、オオヤマネコに食物を与える。
 豊かな時代、平和な時代。

4 森のいち住人であった人間の変化

 動物たちが森の全てを謳歌できる日々に変化が訪れる。
 木々は人間の斧で打ち倒されていく。
 人間は、土地を耕し、種を蒔き、農民の集落を形成した。
 そして、牛やブタ、ヤギなどを家畜にしてゆく。
 森は田畑に取って代わり、バイソンのような大型の動物は大陸のはずれに逃げ込むしかない。
 しかし、その他の動物にとっては、集落の生活が恵みとなる。
 生け垣には小鳥のさえずりが響き渡り、黄金に輝く稲の実り、牧草地では虫たちが音を立てる。
 陽光きらめく池は自らを飾りたて、魚、昆虫、カエル、水鳥たちを喜ばせる。

5 人間と動物、共生の未来はあるのか

 人間たちの生活圏はますます広がっていく。
 凄まじい勢いで文明を発展させる一方で、必要以上に自然を怖れ、すべてを支配しようとした。
 人間にとって有害だと思われる、クマ、オオカミ、フクロウ、キツネなど、家畜を狙う多くの動物を駆除していった。
 しかし、人間のつくった田園地帯で暮らすことを選択した生き物たちもいた。
 そこでは、森とはまったく違う新しい形で、それぞれの生き物たちが助け合い、共生している。時代の変化に合わせ、その環境に適応し、たくましく生きている。


 この映画で特筆すべきは、ありのままの自然を描きながらも、弱肉強食と生殖活動の場面において適度な抑制がはたらいており、それが全体へ聖性をもたらしているところにある。
 人類への警告においてもまた、声高で粗野な議論が横行する時代には珍しく、客観性を重んじる抑制が感じられる。
 そして、映像としても、有無を言わさぬ感覚への刺激ではなく、激動し緊張する場面を含め、まるでバロック音楽を聴くような諧調に包まれている。

 最も印象に残ったのは、人間が、生きものたちの世界全体への無知から、生活圏を脅かす動物たちに過剰な怖れを抱き、殺し尽くそうとしてきたことである。
 また、より便利で有効な自然の〈活用〉をもくろみ、科学物質に頼ることの危険性である。
 これらが種の絶滅や生態系の破壊をもたらしつつあることの恐ろしさは、筆舌に尽くしがたい。

 人類を月へ送るためのアポロ計画に深く関与したヴェルナー・フォン・ブラウン氏は、アポロ11号打ち上げの前日、こう語っている。

「重要さにおいては、海の生物が陸に這い上がってきた時の、進化におけるあの瞬間に等しいと、私は思います」
「われわれは神によって与えられたこの頭脳と両の手を、極限にまで伸ばしているのです。
 われわれが達成するものは、人間の進化における完全に新しい一歩であります」


 氏はかつて、ナチスドイツが兵器としてのロケットを開発することに非協力的であるとして、ナチ親衛隊刑務所に投獄された経歴を持つ。
 しかし、人間はどう「進化」しているのだろう?
 いつの時代も科学技術の最先端は兵器の開発に結びついてきた。
 また、動物たちを殺してきた〈他者に無知で、過剰に怖れ、排除する〉といった姿勢は今や、同じ人間同士の間で頑強になり、世界は戦争の色を濃くしている。
 モノは作られるモノとして誰かの所有に属し、所有者はそれを用いる権利があるという思想が〈自由〉の観念の根底にある。
 だから、地球上の自然はもちろん、宇宙にある星すらも自由な獲得競争の対象であると考えて「進化」をすすめようとするのだろうが、果たしてそれは私たちと生きものたちと自然全体にとって幸せをもたらす道なのだろうか?

 およそ800年前、アッシジの聖フランチェスコは、神を畏敬するように自然を畏敬した。
 木は、再生のために根などを残して伐り、野原は、野性のものたちのために充分、残した上で野菜作りの畑とした。
 自然は人間が所有するものではなく、必要最低限、使わせていただくものであるという生き方に徹した。
 オオカミやキジやウサギやコオロギからも慕われたという。

 1998年に「環境法典」を制定したスウェーデンは「緑の福祉国家」を目指し、GDPを着実に伸ばす工業国であるにもかかわらず、ここ40年、エネルギー消費量はほぼ横ばいである。
 原発を凌ぐほどの水力発電があり、これからは風力発電の躍進が期待されている。
 2003年に施行された「電力免許状」は、水力や風力はもちろん、地熱、太陽エネルギー、バイオ燃料など、再生可能エネルギーを用いた電力が高めの値段で供給できるシステムである。
 また、電力会社を自由に選べる国民がそうした国家の方向性を支え、多数の国民の希望に添ったエネルギー政策が行われている。
 同国にある「自然享受権」は、自然や風景が国民共有のものであるというコンセンサスがあることを示している。

 最後に作家でナチュラリストC.W.ニコル氏のコメントを記しておきたい。

「どんなに言葉を重ねてもこの映画の素晴らしさを表現できないのがもどかしい。
 今まで見たドキュメンタリー映画の最高峰だ。
 制作者が向ける動物への目線と愛情に心が震える。
 観た人は『この美しいエデンの園である地球を守りたい』ときっと思うだろう。
 日本人の全員に見てほしい映画だ。」


 実際に観た者として、まったく同感である。
 一人でも多くの方々に観ていただきたいと願ってやまない。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=WCO8x2q3oeM





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2016
01.21

イラク戦争と靖国神社への祈り(その13) ─煩悩の裏側にあるもの─

2016012100012.jpg

 平成16年1月、自衛隊のイラク派兵に鑑み、仏神と祖霊のご加護で自衛隊員の無事帰還をはかるべく、靖国神社へ向かって托鉢行を始めた。
 世界の情勢が急変を見せ始めた今、そのおりの記録を加筆訂正しながら再掲しておきたい。
 不戦日本の願いを込めて。

○宝と毒(2月21日)

 帰山し、朝から、お彼岸に向けた境内地整備のうち合わせを行った。
 当山に立派な伽藍はないが、理想の寺院でありたいと強く願っている。
 わざわざ足をはこんでくださった方が「ただ何となくありがたい」「ほっとする」「癒された」だけでなく、「あっ、そうだったのか」「こう祈れば良いんだ」「ああ、ありがたい」「これからは、こう生きよう」「ああ、良くなった」という実感を持ってお帰り願いたい。
 ご本尊様のご加護と、教えと、法力とによって、〈良い気分〉だけでなく魂を震わすはっきりとした宝ものをお持ち帰りいただきたいということである。
 寺院が仏法僧という三宝(サンボウ)の場である以上、参詣される方には、無限の宝ものを受けていただきたい。

 例祭の護摩供養は、高熱で換気扇がストップしたため、かなり熱く煙かった。
 一人前になる前の修行の時期などは、煙と涙でお次第が見えなくなるような毎日だった。
 いくら燻(イブ)されようと、密教行者が護摩法の影響で眼をやられた話も、肺ガンになった話も聞かない。
 熱も煙も五官を通じてみ仏のご加護を伝えてくれる。
 宝ものをいただいているのだ。

 人生相談で、若いAさんから問われた。
「どうしても我慢ならない理由があって、仕事を止めますとメールしたのですが……。
 あれでよかったかどうか、今でもわかりません」
 そもそも、メールで伝わるものは、文字で表わせる〈意味〉の範囲でしかない。
 しかも、その都度、流れは一方的だ。
 絡み合わない。
 人と人が向かい合えば、言葉の抑揚・表情・態度・雰囲気など、存在の全体で訴え、感じ、通じ合える。
 それですら、把握できるものは相手の心中にある情報の何万分の一だろう。
 そして、ギリギリの場面であればあるほど、真剣なやりとりをする体験は人生勉強になる。
 生きた人間相手の体験は何ものをもってしても代替できず、〈場〉から逃げる人は、高慢と臆病という双子の悪魔にとり憑かれる可能性を高める。
「これからは、大事な問題については、可能な限り相手と会って言葉を交わすようにしてはどうですか?
 あなたが自分の意志を伝えたいと願うように、相手もそう望んでいるはずです。
 いくら長く書こうと、メール内の文章は、その意志のうち、ほんの氷山の一角でしかありません。
 ご自身の心をよく観ればすぐおわかりでしょう?」
 厳しいがはっきり答えた。
 
 さて、貪瞋痴(トンジンチ)は心身を滅ぼす三毒といわれ、煩悩(ボンノウ)の代表である。
 そして、貪りの裏側には感謝の欠如があり、瞋(シン…怒り)の裏側には怖れがあり、痴(オロ)かさの裏側には怠慢がある。

 感謝を忘れ、恩返しを怠ってはいないか?
 感謝を知らぬ者は、いくら貪っても足りず、喉の渇きを塩水で癒そうとする時のように自分を苦しめる。
 わけもなくプライドが傷つくことを怖れてはいないか?
 〈自分〉を尊大に扱っていると、つまらぬことで逆上し、人間関係もあるいは自分の人生すら台無しにする場合がある。
 どこかで手抜きをしたために最善の手段がとれず、事態がうまく進まないのではないか?
 探求心を脇へ置いて目先だけ間に合わせようとすれば、本当の智慧は永遠に得られない。

 自分の生活に〈裏側の三つ〉が潜んでいないかどうか、チェックしてみたい。
 毒にやられぬうちに。
 Aさんには耳に痛い話だったろうが、これを話さねば当山は役割を果たせない。
 真剣な面持ちで帰るAさんを合掌して送り出した。 




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2016
01.20

人間の尊厳を破壊し社会から公正さを奪うもの ─一流企業不正事件・バス転落事故・世界的危機─

201601200001.jpg

 文化人類学者の上田紀行東工大教授は、1月17日付の河北新報で「『立派な会社』の相次ぐ不正」について論じている。
 平成27年、三井住友といったビッグネームを冠した会社のマンション傾斜事件、東芝の不正会計事件、フォルクスワーゲンの不正ソフトウエア事件などが社会をにぎわした。
 いずれも「立派な会社」と目されてきた会社だが、やっていたことの実態はあまりにも酷い。

「リーマン・ショック前の米国バブルの時期に世界はマーケティング至上主義に転換してしまった。
『いいものを作れば売れる』から『売れるものがいいものだ』へ、『立派な会社は評価を得る』から『評価を得る会社が立派な会社だ』へという価値の大逆転だ。
 自分たちの製品がどのように世界に貢献し、人々を幸せにするのかとは考えず、ひたすら売りまくって一位になる。
 経済的には勝者かも知れないが、人間の尊厳の敗北である。


 いずれの事件も、「人間の尊厳」を失した一流経済人たちによって引き起こされた。
 売れば勝者、金をつかめば勝者という風潮は、ついに食品の安全をも脅かし始めた。
 産廃業者に処分を依頼したはずの冷凍ビーフカツなど、捨てるべき食品が不正転売されていた事件は、「人間の尊厳」を失した時、人は何でもやるという事実を私たちへ突きつけた。
 この問題は社会全体へ広がっている。

 こうなった原因はマーケティング至上主義だけにあるのではなく、無制限な弱肉強食思想の解放にこそ最も重い罪があるのではなかろうか。
 軽井沢町のバス転落事故では、信じられないような低額でバスが走らされていた。
 ドライバーに肉体的負担がかかるだけでなく、経験の浅い人が安易に現場へ出たり、管理体制に不備が生じたりするのは当然だろう。
 もちろん、国土交通省は料金に制限をかけていたが、生きるために仕事の奪い合いをせねばならない現場は悲惨な状況になっていた。

 関東地方のバス会社社長である。
「(旅行会社から)運賃を切り詰められれば人件費を削らざるを得ず、正社員の確保も難しくなる。」

 亡くなった早稲田大学4年生阿部真理絵さん(22才)の父親である。
「料金の安さだけでなく安全性で選ぶことなどを親として子どもに指導しておくべきだったと非常に後悔しています。」

 かつて、作家曽野綾子氏は、航空券の安売り合戦に関して書いた。

「安売りに殺到するという心理はいつの時代にもあっただろうが、『そんなはしたないことをするな』とか『安物買いの銭失いということもあるんだ』と教えてくれる親や世間の知恵があった。
 しかし今はそんなブレーキもない。
 格安運賃で旅行を売る航空会社が雨後のタケノコのように増えたという。
 宣伝のために、関西から北海道まで往復500円という運賃を打ち出したところまであるという。
 いやな空気である。
 安売り合戦が始まったら、必ず機械の点検その他の基本的な管理に手抜きが出る。
 輸送機器の場合、それは人間の生死に関わる事故につながる。
 そうでなくても、安売り合戦はお互いの首を絞める自殺行為だ。」

「ものごとは基本的な理屈を通さねばならない。
 いくら経済のシステムは自由だと言っても、安売りで競えば必ず事故につながる。
 そしてまともな運賃を払う他の乗客まで巻き添えにする悲劇が起こることが、この業界の特徴だ。


社会には避けられる事故と避けられない事故がある。
 病気の発症の原因に遺伝的要素のあるものは、当人の責任といえない場合もある。
 しかし喫煙は必ず生活習慣病に一役かっているというのが医学の世界の常識だとしたら、喫煙者の健康保険料は高くしたらいいとの説に、私は賛成だ。
 これは避けられる事故に対する責任である。
 理屈で説明できないような安物に飛びつく心理は、利己的で社会性がなく、恥ずかしいものだ、と誰かが公然と言うべきだ。
 人はすべて適切な範囲の対価を払う義務を果たして生きるのである。
」(産経新聞「透明な歳月の光 477」より)


 また歴史学者である米コロンビア大学教授マーク・マゾワー氏は指摘する。

ほんとうの危機は、国家間の対立よりも、テロリズムや気候変動といった世界共通のリスクに協調対応できない国際関係の隙間をついてやってきます。
 世界はいま、マネーが自分勝手に駈けめぐるグローバルな資本主義によって富の不平等が拡大しています。
 政治が取り組むべきは成長よりも、むしろ、富の再配分への介入だと思います。


政治家はいつの時代も、権力に都合よく歴史を読み替え利用しようとしたがるものです。
 時代背景が異なる何百年も前の事例を、あたかも現代に通用する物語として聞かせたがる場合もある。
 そのときに『間違っている』と声をあげ、ただす役割は非常に重要です。
 だから、歴史家は権力から独立していなければならない。
」(朝日新聞「歴史から学ぶ」より)


 現代世界で最大の問題は「グローバルな資本主義」にタガを嵌めることではないだろうか?
 私たちは〈自由競争〉と〈経済成長〉が自動的に世界を幸福にするという作られた神話から、そろそろ目覚めるべきではなかろうか?
 神話を声高に語ることによっていったい誰が利を得てきたか?
 神話の幻想を楯にして私たちの「人間の尊厳」がいかに蔑(ナイガシ)ろにされてきたか?

 社会は人間によって構成されている。
 上田紀行教授はそこから社会を変えようとしておられる。

教育とは長い間『立派な人』の育成を目指すものであった。
 短期的評価を目指すのではなく、コツコツと努力を積み重ねる人。
 人間の弱さを知り、他人への思いやりに満ちて、人が見ていてもいなくても善行をなす『陰徳』を積む人。
 しかしそうした『立派さ』が死滅しようとしている。


「志ある学生の育成を掲げ、科学技術倫理教育も今までの『これをやってはいけない』という禁止型から、いかに『より善く生きるか』『世界を科学技術で良きものにするか』を探求する方向へ転換を図る。
 尊厳ある人間としての創造性こそを高めたいのだ。
 自身のくいが自己の確かな地盤に達していなければ、結局は権威や圧力に押しつぶされ、私たちは悪をなしてしまう。

 社会が、そして人間が表層的な評価に縛りつけられる中、そうした風潮にあらがうような根源的な試みもまた増えていくことを展望したい。」


 まっとうな倫理の復権こそが、「マーケティング至上主義」と「グローバルな資本主義」に踊らされず、その非人間性を糺し、尊厳の回復と公正な社会の実現をはかる道ではなかろうか。
 何が私たちの心を荒ませ、何が私たちの未来を奪おうとしているのか、よくよく目を見開きたい。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2016
01.19

イラク戦争と靖国神社への祈り(その12) ─同郷のよしみ─

201601190001.jpg

 平成16年1月、自衛隊のイラク派兵に鑑み、仏神と祖霊のご加護で自衛隊員の無事帰還をはかるべく、靖国神社へ向かって托鉢行を始めた。
 世界の情勢が急変を見せ始めた今、そのおりの記録を加筆訂正しながら再掲しておきたい。
 不戦日本の願いを込めて。

○慎み(2月20日)矢吹~白河

 宿から国道へ出る道を車で送ってくださった方は、定年になる昨年まで、よく大和町へ出入りしておられたという。
 仙台市の北方にある人口わずか数万人の黒川郡にご縁があった方々と、夜に、朝に出会い、協力していただけるとは何とありがたいことだろう。
 そもそも、こうした方々にとって、赤の他人である小生の住む地域へ過去に足を運んだことがなぜ、感激めいた喜びになるのだろう。
 もしかすると、私たちが〈同郷のよしみ〉を言祝(コトホ)ぐのは、目の前にいる誰かによって、自分の人生をつないできた過去の時間が確かなものだったと認識させられるからかも知れない。
 あるいは、認識よりも〈補強〉と言った方が近いだろうか。
 互いの脳裏にある共通の風景について語り合う時、他人同士の二人は孤独を忘れる。
 それどころか親近感さえ持つ。
 そして、相手のために小さな善行を買って出たりする。 
 不思議なものだ。
 昨夜といい今朝といい、ご縁は実にありがたい。

 夢中で歩いていると突然、グレーのBMWが停まり「先生!」と呼ばれる。
「頑張ってください!」
 丸顔にやや禿げた中年男性が降り立ち、お布施をくださる。
 柔和な笑顔に似合わぬ強い光を宿した眼の励ましがありがたい。
「しっかりやります!」
 満足したような表情を残し、車はすぐに走り去った。

 矢吹から山へ入る裏道を歩き白河へ向かう。
 いかにも旧街道らしい松並木が続く。
 泉崎村踏瀬(フマセ)に高さ六尺ほどの石碑があった。
「昭和十八年、太平洋戦争の最中、国の施策による、食料増産を目指し、各地より此の地へ入植し、荒野を拓く。
 この先人の遺業を称え、後の世に伝える為この碑を建立する。
 平成八年六月二日」
 建立者名はない。
 踏瀬の人々は、開拓者の名も建立者の名も記さず、ただ先人の苦労を忘れるなと子孫に伝えようとしている。
 この清廉さはどこから来るのだろうか。
 それは、生活の慎みではないだろうか。
 慎まざるを得なかったにしても、想像を超える刻苦勉励(コックベンレイ)は、確実に人を磨いたに違いない。
 
 釈尊は繰り返し慎みの大切さを説かれた。
 お大師様も釈尊の時代から伝えられた戒律を尊び、密教は、仏教の歴史をたどり切った末に学ぶべきものであると厳しく指導された。
 密教は本来、小乗仏教が持つ自己への厳しさを身につけ、他者を忘れない大乗仏教の基本を学んでから、あるいはそれらと同時に学ばれるべきである。
 モノの溢れた今、人々の生活から慎む必要性がなくなり、釈尊が悪魔とまで表現し、何としても抑えよと説いた〈放逸〉が、自由という名のもとに解き放たれている。
 日々マスコミを賑わす愚かしくも悲しい事件で、放逸が根本原因になっていないものを探すのは困難だ。
 先人の遺業に学び、教えに学びたい。

 昼過ぎには新白河駅に着いたのだが、先へ進むと早目の帰山ができない。
 国道はバス路線になっておらず、途中から白河駅か黒磯駅へ行く手段がないのだ。
 やむを得ず、かなり早く帰ることになった。

 仙台駅でまた「先生!」と呼ばれる。
 今度は信徒さんだ。
 お身内が突然倒れ、介護に追われる毎日だという。
「朝から晩まで付きっきりです」
 大変ご苦労をしておられるはずなのだが、気迫充分である。
 従軍看護婦さんもかくやと、女性の底力に感心した。
 夜には「先生、ほとほと困りました」と人生相談もあった。
 白河近くで休憩させていただいた車屋でも先生と呼ばれた。
 まさしく今日は昨日の続きである。

(小生などは「先生」と呼ばれるほどの内容を持っていないが、小生にとって、そうお呼びするしかない方がおられる。
 平成27年3月、高野山開創1200年記念事業として『空海の仏教総合学』を著した教王山遍照光院満福寺の住職長澤弘隆師である。
 この600ページに及ぶ大書を読むと、総合仏教としての密教を確立した弘法大師空海の世界がいくばくか、かいま見られる。
 実践者から観たお大師様のおはたらきについて知りたい方は、同書と、松澤浩隆氏著『釈尊になった空海』をお読みいただきたい。
 また、大乗仏教の真髄を知りたい方へは『ダライ・ラマ 他者と共に生きる』がお勧めである)




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IvMea3W6ZP0





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村
 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン

 

2016
01.18

イラク戦争と靖国神社への祈り(その11) ─「先生」とは?─

2016011800022.jpg
〈お焚きあげの本尊お不動様〉

201601180001.jpg

 平成16年1月、自衛隊イラク派兵に鑑み、仏神と祖霊のご加護で自衛隊員の無事帰還をはかるべく、靖国神社へ向かって托鉢行を始めた。
 世界の情勢が急変を見せ始めた今、そのおりの記録を加筆訂正しながら再掲しておきたい。
 不戦日本の願いを込めて。

先生(3月19日)郡山~矢吹

 午前中に福島県郡山市へ到着し、午後1時から歩き始める。
 風も弱く絶好の日和。
 しかし、不在にしている寺からどんどん連絡が入り、なかなか距離は伸ばせない。
 車で10分の距離は、歩けば1時間以上かかるのだ。

 立ち止まって電話をしていたら、終わるのを待っていたかのように、自転車で通りかかった40歳位の男性から声をかけられた。
「どこへ?」
「靖国神社です」
「私は自転車で、10回行きました」
 そして、いきなり「私はホームレスの〝先生〟を二人知っています」と言う。
 ヨレヨレの托鉢姿は、ホームレスの仲間に見えたのだろうか。
 一人は仙台二高から東大法学部へ進み、役人になったが、上司共々やっていた公金の私的流用が発覚してクビになり、上野あたりにいるという。
 飲食物がいつどこで手に入るかなどの情報をいち早く仲間に伝授しているので「先生」と呼ばれている。
 一方、自分だけうまく窮地を脱した上司は、都内の一等地で豪勢な暮らしをしているらしい。
 同じく仙台二高を出て東大受験に失敗したところから人生のダッチロールが始まった身としては、後輩の浮沈は他人ごとと思えない。
 もう一人は、慶大を出て外国へ留学し、英語仏語がぺらぺら。
 親の資産を元手に外車販売をやっていたが、バブルの崩壊と共に生活を破滅させた。
 今は、利根川あたりで不良外人を相手に中古車のブローカーをやっている。
 それでも、「夢よもう一度」と、勉強を欠かさないという。
 
 無頼だった早大生時代、木刀と本を抱えてバーの用心棒をしていた小生も「先生」と呼ばれていた。
 呼ぶ人物はと言えば、無制限に掛売をしてくれた小さな本屋の店主、マージャン好きで笑顔に凄みがあるヤクザの親分、年増できっぷの良いバーのママ、年から年中「南無妙法蓮華経」と唱えていた冴えない小料理屋の女将、目ばかり大きくて風邪の抜けない痩せた売春婦、そのヒモを自称している青白いゲタ屋の若壇那など。
 あの日々は本当に〈あった〉のだろうか。
 もしかすると、彼らにとって〈先生〉は少々、物珍しい仲間だったのかも知れない。
 小生にとって「先生」と呼ばれることは、自分を保つために欠かせない小さな支えだったのかも知れない。
 単なる知人でしかない40才前の売春婦から低く掠れた声で「先生。今度、私さあ、思い切って~」などと相談された時、彼女はちゃぶ台の向こうにいるが、二人で包まれている一つの空間が持つ確かさは、かけがえのないものだった。
 無論、今の小生にとって、「先生」という呼びかけは、「住職さん」「和尚さん」「お父さん」などと同じ声がけ以上のものでも、以下のものでもない。
 上野と利根川の二人にとってはどうなのだろうか。

 自転車の彼は強い調子で言う。
「私は、先生方のように生きたくはありません。
 自分なら断食に入り、二~三日目の空腹を克服したら、そのまま餓死します」
「そうですか。どうせなら、山形県などの即身仏のように、天下泰平万民富楽を祈りながらおやりになれば」と水を向けたところ、言葉を濁した。
 お互いに住所・氏名・年齢・職業を問わない一期一会だった。

 できごとは風の一過に似て、再び、靖国の英霊に対する誓いの言葉などを口ずさみながら夢中で歩いた。
 最後に「壇信徒の方々の善願成就しますよう、身命を賭して祈念し奉ります」と言い終わった瞬間、頭に衝撃を受けて倒れそうになった。
 歩道へはみ出した大きな縦型カンバンの角にぶつかったのだ。
 網代笠(アジロガサ)が破れた。
 額から血が流れ落ちないのは不思議だった。
 明らかに違法な設置だろう。
 首が痛みボーッとしかけたが、仏神のお試しと感じ、再度「身命を賭して~」と誓い歩き出して間もなく、携帯電話が鳴った。
 信徒Aさんからの依頼ごとをつないでおいたBさんが連絡を待っているとのこと。
 電話をして話し合ったところ、Aさんの希望通りに決着した。
 すぐに報告した電話口の向こうから、Aさんの驚嘆し喜ぶ声が流れて来た。
 善願が一つ、成就した。
 まことにありがたい。

 八方へ意識を広げる隠形流(オンギョウリュウ)の護身の意識から離れれれば、やはり危うい。
 暗くなると、歩道のないバイパスは危険極まりない。
 衣の袖が頻繁に舞い上がる。
 父子が乗った通りすがりの車を停めて宿を訊ねたところ、意外な言葉が返ってきた。
「今、近くの温泉に湯を浴びに行くからご一緒にどうぞ。
 あそこは宿泊もできるはずですよ」
 後部座席に乗り込むと、彼は10年前まで当山の隣町宮城県黒川郡富谷町の住人だった。
 そう広くない車中で、宮床と七ツ森の話に花が咲いた。
 
 宿の鏡に映った額には、逆L字形に血の塊が盛り上がっていた。
 網代笠の布は額のところで血だらけ。
 不注意の証しである。
 今日は半日も歩かないのに矢吹近辺まで20㎞以上進んだ。
 明日はもっとスピードを上げたい。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2016
01.17

【現代の偉人伝】第220話 ─肯定と感謝で最高の旅立ちをもたらす方─

201601170001.jpg

 あるご葬儀でのできごとが忘れられない。
 Aさんへのお別れの言葉は、さるデイサービス会社の代表B氏だった。
 静かな語り出しは、原稿を見ないで呼びかけているかのようだった。
 すぐに衝撃がやってきた。

「あなたが永眠される三日前にご自宅を訪問させていただきお会いした際に、息遣いが苦しそうになってはいたものの、確かにあなたの気持は穏やかだったことを感じました。
 私の呼びかけに閉じたままの左目をほんの少し開けてくれたように思いました。
 私の姿は映ったでしょうか?
 また細く小さくなった手を包んだ際にほんの少し私の手を握り返すように指を動かしてくれましたね。」

 これほどまで細やかな心で、身近に接してくださるとは。
 震えるような思いで続く言葉を待った。

「私はあなたの耳元で小さい声で囁きました。
『Aさん、あなたは幸せでした。
 あなたは幸せでしたよ』と……」

 これ以上の送り方はない。
 あの世へ逝く人を大肯定すること、感謝を捧げること。
 旅立つ人が〝これでよかった〟と思えるのが最高の旅立ちである。
 それが目の前で成立する場に初めて立ち会った。
 生き仏が、去り行く人の成仏に確かな手を貸したのである。

 B氏は、喪主の要請でお別れの言葉を述べることになった。

「あなたに感謝申しあげたく、施設の代表として語らせていただくことにしました。」

 何と、面倒をみた方が感謝している。
 無論、商売としてお客様へありがとうございましたを言うといった次元のやりとりではない。
 そしてAさんの経歴を端的に追い、施設での様子を活写するが、中には鋭い指摘も含まれる。
 Aさんは飛び抜けて優秀な人だったが、老いて立ち居振る舞いにも誰かの手を借りねばならないようになれば、変わるしかなかったのだろう。

「年を重ねていく事は、体力的にも精神的にも衰えていく事を避けられないものです。
 昔の知的なプライドは本当に必要なものではないとわかってきたのでしょう。」

 娑婆で懸命に仕事へ打ち込んだ人ほど、プライドを固め、それを自分と同一化してよりどころにしようとする。
 その結果、家庭でも、地域でも、あるいはお世話になる各種の空間でも、この〈余分なもの〉が小さからぬ障碍となり、迷惑や困惑をもたらしもする。
 早くそこから脱しないと、自分で自分の周囲に暗く惨めなものをまとうようになる。

「あれから~年と~か月、デイサービスでの思い出はあなたの人生の何年かを圧縮したくらい、一層温厚な人柄になり、一層すてきな姿と笑顔が見られるようになりました。
 あなたの好きになってくれたデイサービスでの思い出はかずかぎりなくありました。」

 Aさんの見事な転換が見て取れる。
 ここにも丸ごとの肯定がある。
 それから、共に過ごした四季おりおりの催しものが語られる。
 B氏は、まるで、自分の脳裏にある映像を追いながら話しておられるようだ。

「あなたとの思い出のスナップは何十枚のCDとスタッフの脳裏に焼き付いています。
 あなたに会えなくなったのは寂しくなりますが悲しくはありません。
 逝ってしまったのですが、あなたは私たちの思い出の中に今も活きています。」

 そして、B氏は、Aさんが家族やデイサービスのスタッフなどに「ありがとう、ありがとう」と言っている声が聞こえてくるという。

「人は晩年も沢山の『ありがとう』の言葉を言った人ほど、そのに永遠の記憶として焼き付けられるのですから……」

 静かな語りかけは、こう終わる。

「私はあなたに感謝の言葉を捧げます。
 Aさん、スタッフに思い出をつくってくれてありがとう。
 Aさん、私に遇ってくれてありがとう。」

 今年、70才になる小生は、自分の行く先に待っているであろう数々の危険なものを薄々、感じとっていたが、それだけだった。
 み仏の世界へ還って行くことにまったく不安も不信もない一方で、途中経過における自分への〈肯定感〉はイメージできないでいた。
 しかし、とてつもない体験をさせていただいた。
 B氏は日々の業務を通じて、入所者へも、スタッフへも、心からの肯定感謝を伝え続けているに違いない。
 それが、入所者やスタッフの心の音叉を共振させ、縁となった人々へ真に豊かな日々と旅立ちをもたらしているのではなかろうか。

 またしても、生き仏に教えていただいた。合掌

(関係者のご了解をいただき、プライバシーへ留意した表現になっています)




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2016
01.16

漢文『法句経』を読んでみる(その2)

201601160002.jpg
〈『悪魔の飽食』を書いた筆鋒は相変わらず鋭い〉

 寺院や寺子屋ではもちろん、戦前まで広く親しまれていた漢文の『法句経(ホックキョウ)』を読んでみたい。
 戦場へ赴く若者が懐へ忍ばせていたという話も聴いている。
 当山では学びの柱として欠かせない。
 新たになった読み下し文を現代語にしてみたい。

 前回の続き【無常品(ムジョウホン)第一】 である。

〔一一〕咄嗟(トッサ)に老(ロウ)至れば、色(シキ)変じて耄(モウ)と作(な)る。少(ワカ)き時は意(ココロ)の如(ゴト)くなるも、老ゆれば蹈藉(トウセキ)せらる。

 ああ、あっという間に老いがやってくれば、美しい姿形も老醜に変わる。若い頃は気ままに生きられても、老いれば心も身体も思いのままにならず、踏みにじられる。

〔一二〕寿(イノチ)百歳なりと雖(イエド)も、亦(マ)た死すれば過ぎ去らん。老いたるが為(タメ)に厭(イト)われ、病(ヤマイ)条(ノ)びて際(キワ)に至る。

 たとえ百才まで生きたとしても、死がやってくれば必ずこの世を去る。老いれば厭われ、病苦の果てに死へ赴く。

〔一三〕是(コ)の日已(スデ)に過(ス)ぐれば、命則(スナワ)ち随いて減ず。少水(ショウスイ)の魚(ウソ)の如(ゴト)し。斯(コ)れ何の楽しみか有(ア)らん。

 日々、過ぎ去る時に従って、いのちも減り続ける。わずかな水に棲む魚が干上がってしまう時を待つようなものだ。本質的な楽しみはどこにあろうか。

〔一四〕老(オ)ゆれば則(スナワ)ち色(シキ)衰え、病(ヤマイ)に自(オノ)ずから壊され、形敗(ヤブ)れ腐朽(フキュウ)す。命終わること自然(ジネン)なり。

 老いるに従って容貌は衰え、病魔によって身体は壊され、腐り朽ちて行く。やがていのちに終わりが来ることは避けられない宿命である。

〔一五〕是(コ)の身は何の用(ヨウ)ぞ、恒(ツネ)に漏れ臭き処(トコロ)なり、病(ヤマイ)の為(タメ)に困しめられ、老死(ロウシ)の患(ウレ)い有り。

 この身体はいったい何の用を足しているのか、常に不浄で臭いものを漏れ出させ、病魔に苦しめられ、老いの患い、死への患いを伴っているではないか。

〔一六〕欲を嗜(タシナ)み自(ミズカ)ら恣(ホシイママ)なれば、非法(ヒホウ)是(コ)れ増す。変を見聞(ケンモン)せず、壽命は無常なるに。

 愛欲を貪り放逸に暮らせば、誤りを増すのみだ。死という避けられない災難から目を背け知らん顔をしているが、寿命は無常である。

〔一七〕子(コ)有(ア)るも恃(タノ)むところに非ず、亦(マ)た父も兄も[恃(タノ)むところに]非ず。死の為(タメ)に迫(セマ)らるれば、親(シン)も怙(タノ)む可(ベ)きこと無し。

 例え子供がいても死魔を追い払う頼りにはならず、父も兄も同様である。死が迫った時には親であっても頼りにならない。

〔一八〕昼夜に慢惰(マンダ)にして、老(オ)ゆるも婬を止(ヤ)めず、財有(ア)るも施さず、仏言(ブツゴン)を受けず、此(コ)の四弊(シヘイ)有(ア)らば、自(ミズカ)ら侵欺(シンギ)を為(ナ)す。

 いつも死を侮り死への準備を怠り、老いても色欲に溺れ、財物を施さず、み仏の言葉に耳を傾けず、この四つの習い性となった悪行は、自らの生を貶め欺くのみである。

〔一九〕空(クウ)にも非ず、海の中にも非ず、山石(サンシャク)の間に入(イ)るにも非ず、地(ジ)の方所(ホウショ)に之(コレ)を脱(ノガ)れんも、死を受けざるところ有ること無し。

 空であれ、海中であれ、山々の石の陰であれ、どこに逃れようと、死に襲われぬ場所はない。

〔二〇〕是(コ)れ務めなり。是(コ)れ吾が作(ナ)すことなり。当(マサ)に作(ナ)して是(コ)れを致(イタ)さしむべし。人此(コ)の為(タメ)に躁擾(ソウジョウ))して、老死(ロウシ)の憂いを履践(リセン)す。

 これが自分の務めである、これが自分の為すべきことである、こうしてこうしよう。人はこのようにあくせくしつつ、やがて必ず老いの憂いと死の憂いに破壊される。

 私たちは、人間として本当になすべきことが何であるかわからぬままに毎日を送りかねない。
 そうこうしているうちに、30年、50年など、あっという間に過ぎる。
 老苦も病苦も、そして死に神さえすぐにやってくる。
 大切なのは、若い日に抱いた疑問、〝自分は何者なのか?〟〝自分のこの世の役割は何か?〟〝人生に目的はあるのか?〟などの数々を捨てないことではなかろうか。
 問いつつ生きる時は、生きつつ何らかの回答を見出しているかも知れない。

 作家森村誠一氏は83才になってなお、意気軒昂である。

「作家にゴールはない。
 余生ではなく誉れある『誉生(ヨセイ)』にしたい。
 可能性を追う、未知数の狩人でありたい」


 老いてから得られる自由には2種類あると言う。

「『何もしなくていい自由』と『何をしてもいい自由』です」


 かつては、仕事や子育てなどでの〈一段落〉というものがあり、それが〈余生〉の感覚に結びついていた。
 今は違う。
〝もう、何もなくていい〟と思って人生の後半を生きる人と〝これからやれる〟と思う人とでは天地の違いが出ることだろう。
 氏の助言である。

「どのようなことでも、自分の世界を持って、能動的に広げていってほしい。
 何かを生産し、表現することで、生きているという実感が持てるものです」


 そう言えば、「みやぎシルバーネットさん」のシルバー川柳はそうした〈実感〉に満ちている。
 1月の課題は「ババァ(婆)」だった。

「顔のシワ バームクーヘン 美味しそう」 (鈴木洋子 79才)

「婆ちゃんが 大志を抱き バーゲンへ」 (佐藤和則 84才)

「新時代 火星に作る ババァホーム」 (伊勢武子 82才)

「幸・福(シアワセ)は 婆と爺とで半分コ」 (八巻勇夫 77才)






 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=EOk4OlhTq_M





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2016
01.16

イラク戦争と靖国神社への祈り(その10) ─悪行から善行へ─

2016011600012.jpg

 平成16年1月、自衛隊のイラク派兵に鑑み、仏神と祖霊のご加護で自衛隊員の無事帰還をはかるべく、靖国神社へ向かって托鉢行を始めた。
 世界の情勢が急変を見せ始めた今、そのおりの記録を加筆訂正しながら再掲しておきたい。
 不戦日本の願いを込めて。

懺悔(2月18日)

 帰山して行った『法句経(ホックキョウ)講座』で有名な一句をとりあげた。

「人前(サキ)に悪を為し、後に止(ヤ)めて犯さざれば、是(コ)れ世間を炤(テ)らす、月の雲消ゆるが如し」


 僧侶になりたての頃、救われた一句である。
 人は誰しも過ちを犯す。
 教えで言うところの過ちとは殺人や窃盗など目に見えるものだけではなく、誰かに〝ウヌッ〟と怨みを抱くことや、給料をもらいながら怠けることや、道理に反する考えを持つことや、二枚舌を使って他人を仲違いさせることなども含むのだから、〈誰しも〉なのである。
 釈尊は、人はそういうものであるということをふまえ、憐れみをもって諭した。

「いけないと気づいたならば、悪行はただちに止めて二度と過ちをくり返さぬようにせよ。
 そうして努力を続ければ、やがては過ちを犯さぬ人となり、迷妄の暗闇で呻吟する人々にとっての明灯ともなれるのだから。
 そもそも人の心には智慧の明かりがあり、たとえ一時的に迷いという雲で隠されていたとしても消えることなく、雲さえ晴れれば皓々と自他を照らすのである」

 
 問題は、「止めて犯さざれば」である。
 何が悪行の歯止めとなるのか。
 それは、今はやりの反省などという生ぬるいものではなく、心が苦汁で満たされるような、身体が震えるような懺悔(サンゲ)である。
 反省は自分だけの範囲であって、必ず自分に甘いところで落着(ラクチャク)にしたくなる。
 懺悔は意識するとしないとに関わらず仏神など、自分を超えたものの存在をふまえてこそ成立し、悪行の隅々までが自分の心で明瞭になり、自分を隠し甘えさせる逃げ場はない。
 犯した罪に怖れおののき慚愧(ザンキ)の念に苛(サイナ)まれ、心身に受ける苦が大きければ大きいほど強い歯止めとなる。
 懺悔に後押しされた善行が世を照らす光も、確かで強いものとなるだろう。
 そのためにこそ、毎月行う例祭の冒頭で、至心に『懺悔之文(サンゲノモン)』を唱える。

「我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)
 皆由無始貪瞋痴(かいゆむしとんじんち)
 従身口意之所生(じゅうしんくいししょしょう)
 一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)」


 懺悔する対象は、〈昨日の失敗〉などにとどまらず、無限の過去から行って来たあらゆる罪科である。
 いのちの限り、自分の全部を投げ出して懺悔するところから、自他の雲を晴らす力は生まれる。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=EOk4OlhTq_M





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2016
01.15

厄除祈祷について ─悪業の滅し方─

201601150002.jpg

2016011500032.jpg

 そもそも、悪いできごとは、悪い原因があって起こります。
 因果応報です。
 悪い原因とは、時間に対してかかわってくる〈悪い影響力〉であり、それを悪業(アクゴウ)と言います。
 この悪業は悪行(アクギョウ)によって生じます。
 では、悪行は何によって生ずるか?
 誤ったものの観方です。
 だからお釈迦様は、正しい修行道である「八正道(ハッショウドウ)」の第一番目として「正見(ショウケン…正しい見解)」を説かれました。
 
 正しい見解とは、何よりもまず、ありのままに観ることですが、この〈ありのまま〉が問題です。
 たとえば、私たちは優しい言葉をかけられて喜び、貶(ケナ)されて怒ります。
 優しい人にはまた、そうしてもらいたいと思い、酷い人の顔は二度と見たくなくなります。
 これが煩悩(ボンノウ)の「好(コウ)」と「悪(オ)」です。
 自分の都合で相手を分類しており、〈ありのまま〉から離れています。

 また、この時点で、優しい人も、酷い人も、そして自分も〈このままずっと生きている〉という前提が置かれています。
 ところが、この前提は、真理でありません。
 私たちは、身体と心を形成するさまざまな要素がたまたま、うまくまとまっているから〈ある特定の人〉として生きているだけです。
 もしも脳溢血や心筋梗塞が起これば、あるいは交通事故に遭えば、あっという間にこの世を去って何の不思議もありません。
 自分の明日のいのちすらどうなるかわからないのです。
 また、脳裏に思い浮かべる優しい人Aさんや酷い人Bさんはたった今、この世のどこかで確実に生きているとは限りません。

 こうした存在のありようを根本から考えてみれば、すべては因と縁によって仮そめに成り立っている空(クウ)なるものとして平等です。
 優しい人も酷い人も自分も。
 み仏に通じる〈平等の眼〉には、誰しもが幸福を望み、不幸を厭うという平等も観えてきます。
 ここまで来れば、ようやく正しい見解になりつつあると言えましょう。

 その結果、自分と周囲を固定したものとしてとらえ、執着心がさまざまにはたらいて「好(コウ)」や「悪(オ)」や無関心である「平(ヘイ)」となる煩悩(ボンノウ)が動きにくくなります。
 また、誤ったものの観方がなくなれば、それを原因として生じていた悪行は行われなくなります。
 そして、悪行の結果として生じた悪業が引き起こした問題へも根本的な対応ができるようにもなるのです。
 これが因縁解脱(インネンゲダツ)に至る道筋の一つです。

 ところが、〝そうか!〟とわかっても、これまでに染みついた正しくない見解とそれに馴染んだ反応の仕方は容易に消せません。 だから仏神へ祈ります。
 合掌をして。
 左手の自分が右手のご本尊様と一体になった感触が、古い見解と習慣を消す力となります。ご加護が降りるのです。
 当山が行う春祭厄除千枚護摩祈祷は、運気の流れによって正しい見解がはたらきにくくなり、〈厄〉が生じるところをご本尊様のご加護で動かし、皆さんの運が開けるよう祈るものです。
 祈り、守本尊様のお導きで正しい見解となり、悪業を滅していただきたいと願っています。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2016
01.15

イラク戦争と靖国神社への祈り(その9) ─仰ぎ見る峰・万人への救い─

20160115000122.jpg

 平成16年1月、自衛隊イラク派兵に鑑み、小生は、仏神と祖霊のご加護で自衛隊員の無事帰還をはかるべく、靖国神社へ向かって托鉢行を始めた。
 世界の情勢が急変を見せ始めた今、そのおりの記録を加筆訂正しながら再掲しておきたい。
 不戦日本の願いを込めて。

○峰(二月十六日)

 朝に妻と連絡をとってみると、ご祈願やご加持の申し込みが溜まっているらしい。
 皆さんの顔が浮かび、〝もっともっと幸せにしてあげたいのに〟と法力(ホウリキ)の至らなさを恥じる。
 釈尊もお大師様も、人々の迷妄の解消に、善願いの成就に、あるいは社会的な災厄の解消に、いかにお力を発揮されたことか。

 ある時、お大師様は天下泰平を祈る修法に入り、宮中からの要請にも応じず、成就の時まで弟子たちと共に山門からお出にならなかった。
 やがて法は成り、嵯峨天皇の存命中は、いのちをも奪い合う当時特有の権力闘争をはじめ大事件は起らなかった。
 超人的な法力である。
 人間が寄り集まっている衆生世間(シュジョウセケン)と、それが依っており抱かれている自然世界である器世間(キセケン)の全体を〈国〉とし、全力でそれを護ろうとされたお大師様の大きさは想像し切れない。
 それは遙かに高い峰であり、小生のような末徒などは裾野を歩いただけで死ぬしかないが、せめて頂上を拝しつつ死にたい。

 歩きながら、隠形流(オンギョウリュウ)居合の稽古もやっている。
 まず、極力道路の右側を歩く。
 車が見えていれば、万が一突っこまれる場合に予測・回避がしやすい。
 いつも、身をかわす方向と場所を意識している。
 ただし、高い橋の上や右側が切り立った切り通しなどの場合はどうしようもない。
 それと、ぼんやりではあるが八方へ意識を向けている。
 漫然としていたり、考え事に夢中になっていたりすれば危うい。
 歩くのも格好の修行である。

 一旦帰山せねばならず電車を待つプラットホームに鳩が舞い降りた。
 他の人のところへ行かず、おにぎりを背負っているのを知っているかのように、私の座っているイスの前をうろうろして離れない。
 おにぎりを少しづつやりながら、首の付け根をぐるっと取り巻く瑠璃(ルリ)色の羽毛の輝きに眼を奪われた。
 足も、光ってはいないが同じ色だ。
 彼は人間が持っていない宝ものを持っている。
 生きものは皆それぞれに宝ものを持っているのだ。
 人間は、その一つをも創り出せない。
 安易かつ声高に叫ばれる「環境保護」の言葉に対して感じていた違和感の正体がつかめた。
 人間にとっての損得計算以前に、畏敬や畏怖があってしかるべきではなかろうか。
 畏れや慎みがなければ、文明のブルドーザーは高慢さをまとったまま、儚く右往左往するしかない。

帰依(2月17日)

 4日ぶりにご本尊様の前で修法を行う。
 老いと病いの苦、人を憎む苦、突然襲い来る不安と不調、他人との悪因縁にからまる苦、ご縁の方々のさまざまな苦を解かねばならない。
 修羅へ向かう人の足止めもせねばならない。
『般若心経』は「よく一切の苦を除く」と説き、『観音経』は「かの観音の力を念ずれば~」と苦の消滅を説き、『聖不動経』は「須臾(シュユ)にして吉祥を得ん」と説いている。

 日本で会社を始めた中国人Aさんは言った
「よく見ていると、モノに恵まれている人はあまり信仰心がないようですね。
 中国でも、日本でも同じです。
 もちろん、人それぞれですが」
 確かに、人は、自分が欲しい肝心要(カンジンカナメ)のものが決定的に不足し、万策尽きようとする時、仏神を想う。
 不足感の無い場合は、必死の思いはあまり生じない。
 ただし、肝心要のものは人により状況によって異なる。
 だから、「お金持は不信心である」などとは決めつけられない。
 欲しいものは、あるいは財、あるいは人、あるいは心、あるいは命、あるいは健康、あるいは名誉、あるいは力、あるいは天運、あるいは時間、…………。
 誰が何に不足感を感じているか、誰が何に追いつめられているか。
 それぞれの心中は、他人の容易く想像できるものではない。

 いずれ、「み仏は親のようなものである」とされ、何が必要などんな場面でも、帰依(キエ)する者を見捨てるみ仏はおられない。
 帰依こそが極楽への入り口である。
 不足しているものを求め、救いを求めて手を合わせれば、右手はご本尊様、左手は自分なのだから、何が手に入ろうと入るまいと、必ず自分自身への浄めとなる。
 欲自体は善でも悪でもない。
 ともすれば煩悩(ボンノウ)となりやすい欲がまごころと重なれば清らかな大欲(タイヨク)となり、降りたご加護は自分だけでなく他人をも救う。
 欲の転化、昇華こそが決定的な救いである。
 南無般若菩薩(ナムハンニャボサツ)。
 南無観世音菩薩。
 南無不動明王。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2016
01.14

要る人、要らない人 ─守本尊様のお救い─

2012093千手観音

〈子年生まれの方の守本尊千手観音様〉

 還暦を迎え仕事を離れたAさんは、元々、趣味などがまったく異なっているとの毎日をどう暮らすか、頭を痛めておられました。
 きっと、奥さんもそうなのでしょう。
 この先、二人して身体も弱って行くのに今さら離婚もできないし、そうかといって、こまごまとうるさいことを言うと一緒にいるだけで胃がおかしくなってしまうし……。
 やがて、Aさんにとって奥さんはだんだん〈要らない人〉になって行き、危機に瀕しました。
 Aさんが当山の門を叩かれたのはこの時点でした。

 しばらくお聴きしてから、ご提案をしました。
「もっともなお話ですね。
 別に誰が悪いわけでもないし、今さら過去に遡ってのやり直しもきかないし、でも、このままでは過ごせないし、困りましたね。
 こうなったら、守本尊様へお祈りしてみてはどうですか?
 今から真言をお伝えしますから、それを無心にモゴモゴと口にしてみるだけでいいんです。
 やってみる気があれば、一週間ぐらい唱えてみてください。
 私もどうやったらいいかわからない時など、これをやるんです」
 Aさんは最初、あまり気乗りがしないようでしたが、合掌して一緒に唱え、「そうですね」と呟きながら帰りました。

 しばらくして又、Aさんから人生相談のお申し込みがありました。
 Aさんは、やおら、切り出しました。
「私にはが必要だし、にも私が必要だということがわかりました。
 これから少しづつ、に合わせてみようと思います。
 実はもう、何も言わずに合わせ始めているんですが、驚いたことに、の態度がこれまでとちがってきたんです。
 不思議なものですね。
 これからは、妻の守本尊様も拝んでゆきたいと思います」

 そし、奥さんの守本尊様の真言を覚え、二人分の守本尊様をご供養したいと申し出られました。
 自分に合わない妻は〈要らない人〉になりかけていましたが、そうした関係性が生じたのは妻だけに原因があるのでなく、むしろ、自分にこそ大きな原因があると気づかれたのでしょう。
 自分が変わり、それに伴って関係性も大きく好転したのが何よりの証拠です。
 すべてはによって起こり、因縁が変わればありようも変わります。
 無言の言葉でお導きくださった守本尊様はまことにありがたいものです。

(プライバシー保護のため、Aさんのご了解のもと、細心の注意をはらって書きました)




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2016
01.14

イラク戦争と靖国神社への祈り(その8) ─家族・マンダラ・排他性─

201601140001.jpg
〈曼荼羅を前にして瞑想していると、排他の心は起こらない〉

 平成16年1月、自衛隊イラク派兵に鑑み、小生は、仏神と祖霊のご加護で自衛隊員の無事帰還をはかるべく、靖国神社へ向かって托鉢行を始めた。
 世界の情勢が急変を見せ始めた今、そのおりの記録を加筆訂正しながら再掲しておきたい。
 不戦日本の願いを込めて。

家族マンダラ(2月15日)

 宿で夕・朝と満腹にしていただき、会計は5千円しか請求されなかった。
 帽子をかぶった60過ぎの女将に「風邪をひかずに頑張ってね」と何度も励まされながら、みぞれの国道へ出た。 
 空気が湿っているのは実に心地良いものだ。
 喉も肺も歓んでいる。
 晴は晴、雨は雨なりにありがたい。

 風雪は除々にやわらぎ、斉藤清の版画と藍染のテーブルクロス、それにモダンジャズの取り合わせが絶妙な食堂へ入る頃には太陽が顔をのぞかせていた。
 お婆さん・中年夫婦・4人の若者の一団が隣席に座る。
 何か特別の事情で家族全員が集まったのだろう。
「ここは高からず安からずの店だね」などと子供たちは親の財布を気づかい、母親が刺身の盛り合わせを一皿奮発すると一瞬シーンとしたりして、なかなか微笑ましい。
 会話をリードするお母さんは明らかに他の客を意識して笑い声を抑え、家族も自然に慎んでいる。
 盛りそばを注文した老天婦、小生と合わせて3組の客が自然に協力し合って店の雰囲気を大切にしている。
 店内では、全員が〈一時的な家族〉として食事を楽しむ。
 日本は大丈夫だ、などと思いながら「皆さんお元気で」と一足先に辞した。
 
 延々と続くダラダラ坂を登り、腰が落ちそうになったあたりで車屋へ声をかけた途端に、険しい眼で睨みつけられた。
 一軒づつお訪ねする托鉢行でさんざん出会った眼なので、彼の心にあるものはおおよそ見当がつく。
〝そうか〟と思う間もなく、断るための言いわけが連射砲のように続く。
 忙しいところを失礼しましたとお詫びして歩き出す。 
 およそ仏教らしからぬ排他性が〈相手を選ばずに他人を思いやる〉という万人共通の徳を破壊している現実には、幾度がっかり体験を重ねても、やはり残念でならない。
『旧約聖書』のヨシュア紀に、「神を信じない者たちは家畜もろとも滅ぼし尽くせと」いう神の命令があるのは、一神教だから理としてはわかる。
 しかし、万人が苦から解放されるようにと願う仏教を報じながら、教団で迎ぐもの以外は神も仏も否定し、他宗の信徒に対して「穢らわしい!」と心で叫びながら忌避する姿勢は恐ろしい。
 仏典に誤りがあるのではなく、教えを解釈し利用する教団幹部の心に問題がある。
 しかし、それもまたマンダラ内のことに過ぎない。
 お大師様は説かれた。

宗派の争いは名利を求めてのことである。
 仏法の真髄を求めるところに争いは生じない」


 この言葉を噛みしめ、修羅へ走ろうとする心を制せねばならない。
 しばらく歩き、人の好さそうな警備員とめぐり会ってトイレを拝借し、宿への道も教えていただいた。
 み仏は決してお見捨てにならない。
 
 足の裏で大地をつかむのではなく、ピノキオのようにつけ根から脚全体を前へ投げ出すといった歩き方になると、ちょっとした段差でも躓(ツマズ)きそうになる。
 バリアフリーの意味するところが身体へたたき込まれた。
 墓地はもちろん、当山の施設は全てそうあらねばと決意を新たにした。
 夕刻からの風は続いている。
 明日はどうなるのか。

2016011400052.jpg
〈朝日新聞様からお借りして加工しました。一神教でも寛容な祈りが可能。社会と教団と信じる人の心のありようが、対立と宥和を分ける〉

(1月13日付の朝日新聞はオマーンでの宗派共存を報じた。
 サウジアラビアとイランが断交した時だけに、目を見開かされた。
 スンニ派もシーア派も一緒に祈る光景は初めて見た。
 弁護士ユセフ・ブサイディ氏の言葉は日本の事情と変わらない。
「僕らのような若い世代では、自分が何派かわからない人が多い」
 宗派別の政党が存在せず、「中東のスイス」と呼ばれるのもわかる。
 特定の宗教団体が事実上、政権の中枢に居座り、国土・建設・交通にかかわる大臣のイスを代々、手放さないという日本は異様である。
 マスカット大学の学長ハイデル・ラワティ学長は、宗派対立の影響が及び始めたとされる国情を睨みながら話す。
「オマーン人は『寛容』という価値観を捨てない。
 誰が国王になっても、国のまとまりは揺るがない」
 〈寛容〉のないところに真の〈共生〉はない。
 オマーンの光景を眼に焼きつけておきたい。)




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2016
01.13

王と奴隷の話 ─他者を傷つける魔者としての王について─

201601130002.jpg

 39才の作家中村文則氏はかつて、フリーターをしながら作家になるつもりだった。
 その頃は正社員が「特権階級」のようになっており、「面接の段階で人格までも否定され、精神を病んだ友人もいた」という。
 氏は、1月8日付の朝日新聞『不惑を前に僕たちは』において、アルバイトの視点から観た光景を描いている。

「そのコンビニは直営店で、本社がそのまま経営する体制。
 本社勤務の正社員達も売り場にいた。

 正社員達には『特権階級』の意識があったのだろう。
 叱る時に容赦はなかった。
 バイトの女の子が『正社員を舐(な)めるなよ』と怒鳴られていた場面に遭遇した時は本当に驚いた。
 フリーターはちょっと『外れた』人生を歩む夢追い人ではもはやなく、社会では『負け組』のように定義されていた。
 
 派遣のバイトもしたが、そこでは社員が『できない』バイトを見つけいじめていた。
 では正社員達はみな幸福だったのか? 
 同じコンビニで働く正社員の男性が、客として家電量販店におり、そこの店員を相手に怒鳴り散らしているのを見たことがあった。
 コンビニで客から怒鳴られた後、彼は別の店で怒鳴っていたのである。
 不景気であるほど客はに近づき、働く者は奴隷に近づいていく。」


 バイトを苛(イジ)める正社員が客に苛められ、その腹いせとして、他の店で客となって店員を苛める。
 これは修羅と地獄の連鎖ではないか?
 学校で教師を怒鳴りつけるモンスターペアレント、病院で治療に難癖をつけるモンスターペイシェント、皆、同類であろう。
 子供には、家庭で親から圧迫される腹いせに学校で仲間を苛めるといったパターンができ、社会では格差が苛めのパターンをつくり出した。
 〝(奴隷の身から自分を解放するために)どこかでになりたい〟、とは、あまりにも哀れで情けなく、恐ろしい話ではないか。
 しかも、は〈いっとき〉、奴隷は〈日常〉である。
 こんな行動はまったく救いになり得ない。
 それどころか、他者への攻撃性は麻薬のように心を蝕み、やがては〈世間〉そのものへの理不尽な行動に駆り立てるかも知れない。
 また、攻撃性を巧みに利用する煽動者が何かを単純に悪と見立て、群衆を糾合するかも知れない。
 感情優先の思考停止が憎悪差別、排除、争い、戦争へとつながって行きかねない。
 大和の国、日本はどこへ行ってしまったのだろう。

 この〈になりたい〉という心理の動きは深刻に受けとめねばならない。
 自分がどれだけこの心理に影響を受けているかは簡単に調べられる。
 それは、心の中に〝あいつら!〟という他人、他国、他のものへの蔑視や憎悪があるかどうかである。
 また、政治家などが、この心理を利用して何かを企む危険な者であるかどうかを調べる方法も同様である。
 誰かを、他国を、何かを強く蔑視させ、憎悪させようとする者に引きずられれば悲惨な未来を引き寄せることになりかねない。
 かのヒトラーは、その道の天才だったではないか。

 家庭であれ、職場であれ、人間関係を円滑にやって行くには、誠意と智慧と努力が欠かせない。
 1対1の人間関係においてすら、うまくやる単純な方法などというものはない。
 迷いも我慢もつきものだ。
 それなのに誰かを悪者にし、あいつをやっつければよいなどという、社会を、あるいは国際関係を一刀両断するすような単純な議論など、どうして信用できようか?

 今の私たちに最も求められているのは、多くの人々が奴隷化し、〈いっときの〉であることを望まずにはいられない社会の現状をまず、ありのままに把握することではなかろうか?
 そして、この問題を根本から解決しない限り、〈他者を傷つける魔者としての〉という哀しい幻から逃れられないという現実を直視することではなかろうか?
 そして、これをこそ変えねばならないと気づき、その方法を真剣に考えることではなかろうか。
 ゆめゆめ、〈王になりたい〉という心理に絡め取られないよう、煽動者に心理を利用されないよう、心したい。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。

https://www.youtube.com/watch?v=qp8h46u4Ja8





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2016
01.13

イラク戦争と靖国神社への祈り(その7) ─懺悔・危機感─

201601130001.jpg
〈私たちの何がこれを守らせているのだろう。私たちが守られていることを心のどこかで感づいているからではなかろうか〉

 平成16年1月、自衛隊イラク派兵に鑑み、小生は、仏神と祖霊のご加護で自衛隊員の無事帰還をはかるべく、靖国神社へ向かって托鉢行を始めた。
 世界の情勢が急変を見せ始めた今、そのおりの記録を加筆訂正しながら再掲しておきたい。
 不戦日本の願いを込めて。

○共通認識(2月13日)閖上~大河原

 朝から電話とFAXによる打ち合わせが相次ぎ、宿を出る頃はすでに、清掃を担当するジーパン姿の女性が事務所前で待機中だった。
 国道は車の列である。
 その数といい、切れ目なく続く飲食や物販や娯楽などの店舗数といい、うねるような人の営みのエネルギーに圧倒される思いである。
 こんなことは、きっと徒歩で歩かねば感じる機会はなかっただろう。

 以前、知人の住んでいたアパートが建物群の陰から屋根だけ見える。
 車屋でトイレを借りたら、店長らしい人がコーヒーを用意して、熱心に対話を求められた。
自衛隊が行かないで済めば良かったのですが、こうなった以上は立派に役割を果たして、一日も早く全員無事に帰国してもらいたいものです。
 靖国でよく祈って下さい」
 我がことのように真剣だった。
 真言を口に、人家のない切り通しのバイパスを行くと、路端にアバラ骨を白々と露わにした獣の骸(ムクロ)がある。
 タヌキだ。
 宮床付近でも、死骸になった獣へ手を合わせるのはほとんど彼らの一族である。
 どうしてタヌキたちが目立って犠牲になるのだろう。

 次に道を訊ねたガソリンスタンドのご主人は「とにかく話をしてくれ」と事務所へ案内し、なかなか離してくれない。
〈戦後日本のどこかに問題がある〉→〈子供に問題が発生した〉という流れがいかに共通の認識であるか、いかに皆さんが戦争を避けたいと願っているか、再認識させられた。
 事務所の方々のご意見とお励まし勇気百倍の思いで、風の中へ出た。
 お大師様の信念である。

「個人個人においては三密の行によって、み仏の子である自分の真姿に気づくこと。
 国家においては、天皇自らが智慧の実践者たる転輪聖王(テンリンジョウオウ…真理によってこの世を統治し、王としてのすべての徳を具えている王)になること。
 そうすればこの世は密巌国土(ミツゴンコクド…浄土)になる」


 仏法は万人にとっての導きであり、〈戦後の問題〉の解決もそこに手がかりがあるのではないか。

 宿探しに時間を費やし、大河原郊外のラドン温泉でお世話になった。
 このあたりの子供たちの多くは気持良く挨拶を返してくれる。
 彼らの顔が、声が、希望の灯だ。

(現在の共通認識に、格差の拡大、母子家庭の貧困化、結婚し家を持てない若者の増大などがあろう。
 それでいて、これまで行われてきた経済政策への根本的批判や、その大転換感を求める声が広がらない。
 作家中村文則氏は、1月8日付の朝日新聞『選べない国で』において指摘している。
「格差を広げる政策で自身の生活が苦しめられているのに、その人びとがなぜか『強い政府』を肯定しようとする場合がある。
 これは日本だけでなく歴史・世界的に見られる大きな現象で、フロイトは、経済的に『弱い立場』の人々が、その原因をつくった政府を攻撃するのではなく、『強い政府』と自己同一化を図ることで自己の自信を回復しようとする真理が働く流れを指摘している。
 経済的に大丈夫でも『自信を持ち、強くなりたい』時、人は自己を肯定するため誰かを差別し、さらに『強い政府』を求めやすい。
 当然現在の右傾化の流れはそれだけではないが、多くの理由の一つにこれもあるということだ。
 今の日本の状態は、あまりにも歴史的な典型の一つにある。
 いつの間にか息苦しい国になっていた。」)

○行者の血(2月14日)

 自分の足が痛ければ仏神への不敬を詫び、腰が痛ければ親への不幸を詫びる。
 身体が重くとも歩かねばならないのは、生きとし生けるものの命を粗末にした報いであり、足のマメは師のお灸である。
 真言宗中興の祖覚鎫上人(カクバンショウニン)の、『密巌院発露懺悔文(ミツゴンインホツロサンゲノモン)』における懺悔(サンゲ)は、真剣の刃の上を渡るほどの覚悟に満ちている。

「法界(ホウカイ)の諸(モロモロ)の衆生(シュジョウ)、三業(サンゴウ)に作る所のかくの如(ゴト)くの罪、我皆相代(アイカワ)って尽(コトゴト)く懺悔(サンゲ)し奉る、更に亦(マタ)その報いを受けしめざれ」


(世界中のもろもろの人びとが、身体と言葉と心とで生み出す悪しき業によってつくるさまざまな罪を、私がすべて身代わりとなって余すところなく懺悔しますので、人びとへどうか、罪の報いとしての災厄や苦しみがもたらされませんように)

 僧侶が罪を詫び、同時にあらゆる人々が過去世から現在までに犯して来たすべての罪を身代わりとして懺悔し、救いを請う思いは、自らの厳しい行から発したに違いない。
 一輪の花に全ての花の徳を込めて捧げる法が成立する以上、たった一人の行ですべての罪の消滅を祈ることも可能なのだ。
 
 りんご売りの店先で一個だけ買い求めたら、もう一個のサービスとお布施が付いてきた。
「私は、お婆ちゃんから、『神様と仏様とお陽様を拝んでいれば大丈夫だから』と教えられ、宗教のことはよく解りませんが、子供たちもそうやって育てました」
 陽に焼けた顔に大きな眼と口がよく動く奥さんのご家族はきっと〈大丈夫〉だろう。

 歩きに歩き、暗くなって宿を探していたら、お土産物店のご主人が「旅は道連れ世は情け。すぐそこだから」と、奥さんに運転させて宿まで送ってくれた。
 車中でなぜ靖国へ?と問われ、急いで答えようと言葉を探しているうちに気づいた。
 危機を肌で感じたために、行者の血が奮い立ったのである。
 常々、子供や若者たちの心に空洞ができているのを憂いていたことに加え、彼らのいのちまでも戦争によって滅ぼされかねないという状況に立ち至れば放置できない。
 生涯一行者でありたいと願っている自分を何らかの形で投げ出さずにいられなかった。
 
 住職は寺に住むことが仕事の一番目ではないかと心配して下さる方もあったが、ありがたいことに、電話や手紙だけでなく、わざわざ来山してお励まし下さる方もおられる。
 壇信徒の方々はもちろん影形流(オンギョウリュウ)居合の行者たちへも大変な迷惑をおかけしているが、子供たちと日本の未来のために、平にご容赦を賜わりたい。

(この頃、感じていた危機感は、妄想によるものではなかった。
 後になって漏れ聞こえてきたところによると、「戦争をしていない所へ行くのだから戦争には巻き込まれない」などという政府の国会答弁の裏側では、死者が出ることを想定して、自衛隊はお棺もちゃんと携行していた。
 実際、駐屯地のすぐ近くに迫撃砲の着弾などがあった。
 死者が出ないで済んだのは、〈戦争をしない国〉日本への信頼感と、現地の人びとに溶け込もうとした隊員たちのとてつもない努力、そして仏神のご加護のたまものだったのではなかろうか。
 あまりの緊張感に精神を病んだ隊員もいる。
 イラクにはやはり、明らかに〈いのちの危険〉があったのだ。
 日本はあの時、救われた。
 後に、福島原発の事故が東北地方の全滅や日本中の放射能汚染にまで広がらなかったのも、重なる僥倖のおかげだった。
 しかし、いつまでも運良く破滅を避け続けられるはずはない。
 もう、死に神はそこまで来ているのではなかろうか。
 私たちにそれを呼び込む要素や因縁がないかどうか、要素や因縁を処置できないかどうか、手遅れにならぬうちによく考えたい。
 発生した死は、回復の手立てがまったくないのだから)




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。

https://www.youtube.com/watch?v=qp8h46u4Ja8





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2016
01.12

仏性は白い桔梗 ─托鉢とご葬儀のこと─

201601120002.jpg
〈大和町宮床へ来て以来、初めての雪がないどんと祭。恐ろしい〉

 昔、托鉢で歩いた地域の方からご葬儀を依頼されることがある。
 駆けつけると、10年以上も前の光景がそのまま残っていたりする。
 しかし、行者の祈りを受け、お布施を渡してくださった方はもう、この世におられない。
 白い布で顔を隠し、ふかふかの掛け布団の下で枯れ木のように横たわっている。
 かつて、行者のいのちを支えてくださった方が、ご自身のいのちを亡くされた事実に途惑う。
 できることと言えば、安心の世界へ旅立つお手伝いをすることだけだ。
 
 葬送儀礼としての宗教はここから始まったのだろう。
 子供が、自分を育み育ててくれた親の死に際してできるのは、感謝し、安心して眠ってもらいたいと願うことしかない。
 でも、自分にはそれを現実化する具体的な方法も力もない。
 そこで異界と通じる能力を持つシャーマンが登場したのだろう。
 悲しみと共に生じる切実な願い。
 そこで行われる宗教行為と、得られる安心、そして、区切りをつけた上での日常生活の回復。
 私たち人間は世界中のどこででも、まごころが求める自然な行為として葬送儀礼を行ってきた。

 人の死に当たり、ご遺族は最大の敬意をもって死者を送るために、最大の礼を尽くす。
 宗教者は、修行のすべてを注ぎ込む修法をもってその願いに応える。
 ご遺族も宗教者も、そうしないではいられない。
 いわば霊性仏性がそうさせる。
 生があって死があり、死があって生があるこの世で、ここが崩れればあらゆる敬意も礼も嘘になるだろう。
 普段の生活では、仏性が多少、寝ぼけ眼のまま、損得などのつごうによるはからいが表に出てくる場面があってもやむを得ないが、人の死を承けてなおそうならば、仏性の声に無頓着であるという意味で、明らかに自己欺瞞である。

 夏目漱石は詠んだ。

仏性は白き桔梗にこそあらめ」

 私たちの心には必ず、仏性が真っ白な〈balloon flower〉として授かっている。
 普段、風船のように丸くなって閉じたままでも、いざという時には必ず花びらを広げる。
 桔梗は絶滅危惧Ⅱ類(絶滅の危険が増大している種)に指定されているが、仏性を白い風船のまま枯らすわけにはゆかない。
 娑婆の方も出家者も、互いに分を尽くしたい。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=WCO8x2q3oeM





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2016
01.12

イラク戦争と靖国神社への祈り(その6) ─位牌・国旗・閖上─

201601120001.jpg

〈地域で行われた小さなどんと祭〉

 平成16年1月、自衛隊のイラク派兵に鑑み、小生は、仏神と祖霊のご加護で自衛隊員の無事帰還をはかるべく、靖国神社へ向かって托鉢行を始めた。
 世界の情勢が急変を見せ始めた今、そのおりの記録を加筆訂正しながら再掲しておきたい。
 不戦日本の願いを込めて。

○母の心(2月8日)

 今日も出かけられない。
 ご来山のAさんから「友人は男の子ばかり4人なので、このままずるずるとアメリカの戦争へ巻きこまれたら、皆兵隊にとられる時が来るのではないかと心配しています。がんばってください」と励まされた。
戦争をさせるためにお腹を傷めて子供を産んだのではない」といった議論は、防衛や軍事の専門家から「世の中、そう単純なものではない」と退けられたりするが、いつの世も真実は真実である。
 
 専門の方々は素人の素朴な願いをお忘れになっているのではないかと思う場面が、ままある。
 例えば、医者が治療して症状が改善されれば「これで大丈夫」と安心し、「あとは薬を飲んでいればいい」と一件落着にしたらどうか。
 患者としては、誰も薬を飲み続けたいと願ってはいないのに。
 そんな微妙なズレがあるようなものだ。
 患者は、医師のちょっとした言葉に、本音がわかっていない、と敏感に感じとってしまうかも知れない。
 戦争も同じである。
 いつでも相手が意のままに殺せる武器を突きつけ合い、お互いが恐怖心から相手を殺せないでいれば、〈それで大丈夫〉なわけではない。
 人が争わず国が戦わない世の中になるのが普遍的かつ究極的な理想である。
 ことが忘れられてはいないだろうか。
 あるいは、あまり意識されていないのではなかろうか。
 あるいは、夢物語である、と端から軽んじられてはいないだろうか。
 たった今世界中の武器を処分してそれを今すぐに実現せねばならないという議論ではなく、そこを忘れない考え方であって欲しいと願ってやまない。

 お釈迦様は、人間同士が争い、殺し合うさまに打ちのめされ、愚かしさ、恐ろしさ、あるいは苦しみや悲しみを根本から解決する方法を求めて修行に入られた。
 そして悟り、説かれた。

「他を害するものに安寧はない。
 思いやりを持つものにこそ真の安寧がある」
 
「怨みを無くすには、まず己の心から怨みを無くすことである」


 お釈迦様は、釈迦族を滅ぼしにやってきた軍勢を二度、止めたが、三度目は止められず故郷は蹂躙された。
 その後、2500年の歩みは何だったのか、考えさせられてしまう。

位牌の数(2月9日)

 檀那寺と本家とは別に、自分だけで母親の御霊を供養したいが、お位牌をつくって良いでしょうか、というご質問があった。
 仏教が広がる大きなきっかけをつくったのが、仏滅後およそ100年にしてマウリア朝の王となり、インド全土へ行者を派遣したアショーカ王だったことを考えれば根本的な答が出る。
 王は、お釈迦様の入滅後、8つの仏塔へ納められていた仏舎利を分骨してたくさんの仏塔を造り、誰でもが、もはや会えなくなった聖者を偲び学ぶための場とした。
 肝心なのは信の一心であり、誰がどこでご本尊様を祀り、お位牌へ手を合わせても、み仏は必ずや信心の人と御霊をご加護くださることだろう。
 
 今日も境内地整備などの打ち合わせが相次いだ。明日にかけて機関誌『法楽』発行の準備をし、建国記念日には再出発をしたい。

○食料(2月10日)

 テレビでは快適そうな野営地を造る情報が流れている。
 縁あって自衛隊の訓練で用いる缶詰を食べたことが思い出される。
 コードのように細く切った油揚げ・椎茸・ニンジンなどが入った変わりご飯を冷たいままで口にした。
 縁の隊員の笑顔が思い出されて無性に悲しく、温めて食べ直し、やっと美味しいと感じられた。
 何日も山中を行軍する時は煮炊きできない場合もあるそうだ。
 もしも実戦ならば、煙を上げたり焚き火の痕を残したりしたら命取りになるかも知れない。
 私たちは、井上成美中将が言った「必要悪」の持つ非人間性を、もっともっと五感六根を使って想像する必要がある。
 
 ご加持や打ち合わせなどが夕刻まで続いたが、明日の再出発へ向けて全力投球である。

国旗(2月11日)

 戦後、国策によって仙台市の郊外で開拓農家となったAさんが人生相談に来られた。
 優秀な技術者だったが、鍬や鋤を持っての作業には、かなり苦労されたらしい。
 木の切り株一つ掘り起こすのに3日かかったと話されるお顔には、ご高齢になっても失われることのない深く強い意志が宿っていた。
「こういう方々がおられてこそ今の自分がある………」
 心で合掌する思いだった。
 
 今日は建国記念日である。
 当山では国旗を掲げたが、このあたりでも日章旗を翻らせているお宅はほとんどない。
 国旗だ国歌だと、いくら学校でやかましく騒いでも、日々の大人たちの行動を見せねば、子供たちは動かない。
 子供たちにとっては〈感じる〉ことが一番である。
 祝日にはそれなりのふるまいを心がけたい。
 やっと『法楽』や厄除祈願のお札・お守の発送準備が整った。
 明日こそ出発である。

○再出発(2月12日) 仙台駅前~閖上

 午後3時、仙台駅前を再出発し一路、南を目ざした。
 かつて信徒さんから取引の成就祈願を依頼された会社の前を偶然通りかかった。
 どの窓でも、忙しそうにたち働く人々のシルエットが動いている。
 ご繁昌されますようにと祈った。

 街道筋にある小さな砂利敷の駐車場では、かつて、行方知れずになった親子を探すご依頼を受けたことを思い出した。
 あの時はここで関係車両を確認し、最後は無事、涙の帰宅となったのだった。
 立ったまま密かに修法した近くの神社は何一つ変らず森閑としたままで、じっと鎮守の役割を果たしていた。

 名取駅前には宿がなく、以前何度か托鉢に通った閖上まで歩き、民宿のお世話になった。
 この漁港は、壮年期の父が唯一の趣味にしていた投げ釣りの穴場だった。
 河口付近は月も星も人影も墨絵のように黒々として、ただ、ざわざわと海の声が満ちている。
 入院中の父を想うと、過ぎ去る時と共にあらゆる命が砂時計のように減って行く現実が胸に迫ってくる。
 自分も妻も子も信徒さん方も一緒に乗っている巨大な船が闇の中をゆっくりと進むさまを想像したまま、しばらく動けなかった。
 受胎の瞬間から死へ向かって歩む宿命を直視せず、心のおさまりを求めず、賀を張っては互いに傷つけあい滅ぼし合う人間は、実に哀しい存在だ。
 
 夕食で膳を並べた昭和22年生まれのAさんは国学院大学陸上部で活躍し、かつて東京から郷里青森まで走ったという猛者で、靖国神社に勤務している後輩を紹介してくれた。
 ホノルルマラソンへの出場を夢見ている昭和23年生まれの女将と21年生れの私と3人で、戦後世代の役割を果たそうと誓い合った。

(この民宿は東日本大震災の津波で跡形もなく流された。
 女将はどうなったのだろうか。
 父が通った河口はまったく姿を変えた。
 喪失が途方もない規模なので、浜辺に立っても、記憶の中の光景と現場がいまだにつながらない。
 精神科医春日武彦博士は東日本大震災で多数の人命が失われたことについて率直に述べた。
「一定の周期で大災害が起きて多数の人命が失われるなんて、所詮それが世の中の法則であり自然の摂理だとしか思わなかった。」
 そして、自分以外のあらゆる人間に敬意を表する気持ちはあるとした上で、またもや正直に言う。
「多数の『存在感』があっという間に消滅してしまったことを、まことに勿体なく思う」
 もったいないという言葉を反復してみるが、なかなか〈そう〉とは思えない。
 実に人それぞれである。
 この地で被災した書家高橋香温先生とご縁になり、毎月、欠かさず当山の書道教室をご指導いただいている。
 消えた縁、生じた縁……。)





 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=WCO8x2q3oeM





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2016
01.11

人生相談について ─医師、占い師、僧侶の場合─

201601110005.jpg

 精神科医春日武彦氏の『鬱屈精神科医占いにすがる』は、臨床に携わる64才の精神科医の目から観た占い占い師について書かれた極めてポイントをついた好書である。
 ご本尊様と一体になる法を結んだ上で人生相談を受ける身としては、極めて大きな示唆を受けた。
 人生相談を受ける僧侶は、ご縁を求める方々の求めに応じ、時には占い師となり、時にはカウンセラーとなる。
 両方ができて初めて一人前の僧侶と考えていたので、この本はまるで、その内蔵を腑分けしてくれたようなものである。

「精神科の医師だって大いにいかがわしいけれど、占い師にはむしろ手品師とか腹話術師に近いイメージがある。」

「不条理との闘いのために妄想が発明した兵士がすなわち占い師ということになる。」

精神科医は科学的な『ふり』をして占いやオカルトを精神の病と関連づけたがるものだ。
 精神科医と占い師は所詮イカとタコみたいなもので、どちらも触手を持ち墨を吐き水中の生き物としては異形である。」

「占い師がネットで発言しているのを読んだことがある。
 科学は因果律に添っているいっぽう、占いは因果律の文脈には馴染まない。
 むしろシンクロニシティーや共振といったものに親和性があるといった意味のことだったようで、それには当方も賛成の気持ちがある。」


 ユングの共時性を学ばない占い師はいないだろう。
 現代の僧侶はどうか。

「わたしが星占いについて持っている感想は、『当たって当然なシステムなのに、意外と当たらない』というものである。
 占いの基本原理として何か象徴的な体系と故人の運命の共振といたことを考えてみるなら、占星術というシステムは占いとして見事に完成し、長い年月を経て洗練されてきた方式なのだ。
 これに則ればそう間の抜けた結果は出ないのではあるまいか。
 にもかかわらず解釈を誤ったり、精度を超えたピンポイントを占おうとして墓穴を掘りがちな気がする。」


 いわゆる易を成り立たせる『易経』に説かれた運勢の諸相64種は、人生におけるどの場面をも即座に解釈させる。
 古来、日本では僧侶の必須テキストだったが、今は愚かしくも捨て去られている。
 これからも、人生相談を受けようとする僧侶にとって、ユングの精神分析学を研究することと、易経の読み込み及び霊感の正しく系統立った訓練は欠かせないだろう。

「占い=世界観によっては説明しきれぬものをわたしは知りたがっているのかもしれない。
 ならば占い師などに頼っても無意味ではないか。
 といころが占い師は独自の理屈や論理へ変数を代入し、計算結果を読み取るだけが仕事ではない──そんなふうにわたしは思っているのだ。
 多かれ少なかれ霊感や特異な直感力が関与しているに違いなく、必ずしも情報処理マシンではないところに占い師の価値があるはずだ。」


 コンピューターによる占いと占い師の話の違いを明確に示している。
 霊感や直感力は機械にはなく、人間にしかない。
 問題は、すぐに〈見える〉〈聞こえる〉と怯える妄想でなく、明智を訓練した先に生じる直感によって判断が行われるかどうかにかかっている。

「占い師は言い切ること、断言することが仕事である。
 迷ったり逡巡する占い師なんて必要ない。
 それは困惑顔の司令官のようなもので、部隊は一気に戦意を喪失する。」


 ここが人生相談における最大の問題の一つである。
 いわゆる霊能者のいかがわしさも、彼らが人気を博する秘密もここにある。
 僧侶は、自分の良心と慈悲心に従って言葉を選ぶのみである。
 ある占い師は高名な人の死を予言して当たり、名を上げたという。
 ある作家は、医師から余命を告げられたショックでたちまち死へと転げ落ちたという。
 僧侶は、目の前にいる人が本当に求めているよき方向を察知し、そこへ向かえるよう、〈その時点での判断〉と異なる話をする場合がある。
 たとえば、このままでは明日、死にかねない人が、言葉によって心が動けばもっと長く生きられるかも知れないと判断すれば、悠然と、一ヶ月先の話題を提供する。
 その結果、もしも半月先に亡くなられた場合、ご遺族は〈当たらなかった〉と思うだろう。
 ご来山の時点で、明日までのいのちだったことは誰も知らない。
 僧侶の人生相談における役割は、医師とも、占い師とも異なっている。
 医師には職務上の義務があり、占い師には求められている判断に忠実でなければならない。
 一方、僧侶は、願いに微力を加勢させることが使命なのだ。 

「何らかの主義主張や方法論を強く打ち出している医療者は、限りなく占い師に接近することになる。」


 精神科医カウンセラーは、〈傾聴〉の場面を〈着地〉させねばならない。
 そこで、特定の〈システム〉を持ち出すかどうかが、医師と占い師との違いだという。
 春日武彦博士は「企業秘密」と称しつつ、システムならぬ「一応の目安」を明示している。
 まことに目から鱗が落ちるだった。
 関心のある方は本を読んでいただきたい。

 こんな人生相談にご関心のある方は、気が向いたならどうぞお申し込みください。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=WCO8x2q3oeM





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2016
01.11

イラク戦争と靖国神社への祈り(その5) ─運勢の相談、ご葬儀での合唱など─

201601110001.jpg
〈真善美は光の三原色となってダイヤモンドのような霊性を輝かせる〉

201601110002.jpg
〈貪り、怒り、愚かさは色の三原色となって悲しみや苦しみに満ちた黯(クロ)い地獄へ導く〉

 平成16年1月、自衛隊イラク派兵に鑑み、小生は、仏神と祖霊のご加護で自衛隊員の無事帰還をはかるべく、靖国神社へ向かって托鉢行を始めた。
 世界の情勢が急変を見せ始めた今、そのおりの記録を加筆訂正しながら再掲しておきたい。
 不戦日本の願いを込めて。

○ご意見(2月4日)

 早朝からご祈祷と法話の法務があり、NHK文化センターの講座『法句経を読む』を終えて帰山したら午後1時を過ぎていた。
 ひき続き墓地での打ち合わせやお葬式のご相談などがあり、あっという間に夕方である。
 
 講座で、終戦当時に中学生だった女性Aさんからご意見をいただいた。
「テレビを見ると昔、若い人を戦争に送り出した時と同じ光景ですよね。
 どんなことをしても、孫たちをああやって戦地へは行かせたくないと思いました。
 外国から出兵を頼まれても憲法があるのだからと断れるはずではないでしょうか。
 どこの国の人だって、いのちを一番大事にするのは当たり前のことですよね。
 日本は自ら出兵をせず、『戦争はしてはいけないものだ』と世界へ訴えるべきではないでしょうか」
 午後に来山されたBさんは、きっぱりと言われた。
「日本の現状は、すべて戦後の年月が生みだしたのですから、敗戦を境にして何が失われたか、何を得たのかを問う住職の考えに同感です。
 特に50代60代の人々がこの57年間をふり返って懺悔すべきは懺悔し、学ぶべきは学び、やらねばならないことをしっかりとやらなければなりません」
 いじめや授業の様子などにはっきりと現われている子供たちの精神と振舞の荒廃。
 そこに代表される日本の衰運に対して、大人が責任を感じ行動を起こさねばならない。
 足元が崩れていながら外国へ出兵してどうなることだろうか。

運気の弱い場合には(2月5日)

 人生相談や打ち合わせが重なり、お通夜までびっしりだった。
 明日のお葬式が終るまで再出発はできない。
 これもまたみ仏のお導きなのだろう。

 自分の力が出にくい運勢の方からのご相談があったので、その対処法を記しておきたい。
 運勢はバイオリズムである。
 智慧でそれを活かす人は自力で運命を創りながら生きられる。
 ただ怖れたり流されたりする人は、運勢に翻弄され、いつも山と谷を行ったり来たりして人生を過ごす。
 さて、誰にでも〝自分ではがんばっているつもりなのに、どうも力が出ないなあ、どうしたんだろう〟という時期がある。
 力がなくなったのではなく、何ものかに吸収されてしまう。
 こんな時に自分の力を過信して無理をすると、間に合うはずのものが間に合わなくて失敗する。
 年配者が若い時代に持っていたジャンプ力を過信して沢を渡ろうとすれば、川に落ちてずぶ濡れになってしまうようなものである。
 目的地へ向かう力が出ないなら、焦らず深呼吸をして、まず、たとえ小さなことでも他のためになることを実行したい。
 他へ与え、喜ぶ姿を見て自分も喜べることが大切である。
 この「お互い様」は「おかげ様」である。
 お互いが徳を積めば、それが陰の力となって必ずお互いを救う。
「お互い様」「おかげ様」はありがたい教えである。
 
 護摩の火で眼鏡がひび割れたままなので、よく見えない状態だったが、どうにかお通夜の修法を終えた。
 かつて師僧から「行者は、印を結び真言を唱え観想をして法を行うが、最後は、たとえ布団の上で動けない状態になっても瞬時に法を結べるようでなければならない」と教えていただいたことが初めて実感さた。
 若いうちは若いなりの修行、年をとればそれなりの修行があるものだ。
 一生、一行者でありたいとの思いを新たにさせられた。

○お葬式(2月6日)

 お葬式で合唱が入るという初体験をした。
 故人も喪主も合唱が趣味なのでお別れの言葉に代えて合唱を行いたいという。
 お焼香をする前に、20人ほどが導師・職衆を半円形に囲み、指揮者が端に立ってモーツァルトの「アヴェ ヴェルム コルプス」を演奏した。
 歌詞は、以下のとおりである。
「めでたし、まことの御体
 おとめマリアの御子として生まれたお人
 真の試練を受け、人間の罪のため十字架にかけられた
 引き裂かれた脇腹から流れ出る血
 私たちのため、先に最後の審判をお受けください」(インターネットの「クラシック音楽夜話」による)
 正装した善男善女の歌声は、すすり泣きを交えながらも凛としていて、魂を揺すられる思いがした。

 修法が終っての法話で、「先ほどのように清らかな魂の震えを共有できるならば、きっと争いや戦いのない世の中になることでしょう」と申し上げた。
 真・善・美を追究する哲学や科学、宗教や道徳、芸術は、微妙にずれながらもどこかで重なり合っている。
 真実に発するものは人生にとってよきものであり、美しいものでもあるはずだ。
 重いだけになりがちのお葬式が魂の共振をもたらす、すばらしい企画だった。

○問い(2月7日)

 今日も朝から予約がびっしり。
 地鎮祭の相談に来られたAさんから「お釈迦様の教えだから、どの宗派も結局は同じなんですよね?」と問われた。
 これまで幾度となくいただいたご質問である。
 こういう問いを発する方は、ほとんど例外なく「仏教」を自分の向こう側においていろいろ読んだり聴いたりしているだけで、一つの行に打ち込むといった実践をしておられない。
 み仏の教えと法の中に〈この身このままで〉飛び込んでおられない場合が多い。
 正式な作法で真言を唱えるなり、経典を読誦するなり、瞑想をするなり、経典を書き写すなりして何かをつかんだ方は、〈漠然とした問い〉があまり出なくなる。
 問いは具体性を帯び、回答を受けて心と行が深まり、また一歩、お釈迦様の悟りへ近づくきっかけとなる。
 
 行者として冒頭の問いに答えるならば、「花一輪を捧げる場合、見た目には同じ行為でも、いかなる心で行うかによって、得られる境地という行為の結果はさまざまになります」ということになる。
 たとえば、お葬式の後で必ず行う五種供養の法話を聴き、花を手向ける意味と意義が、「美しいもので飾ってあげましょう」だけではないのだと魂で受けとめた方は、眼の輝きが変わる。
 その方が次に花を捧げる機会があれば、以前とは異なったレベルの心で行われることだろう。
 見た目には同じ作法、同じ行為だが内容は別ものである。
 そのように、どの宗派もお釈迦様の悟られた境地を目ざすが、方法は千差万別であり、方法という〈原因〉が異なれば得られる境地である〈結果〉も違うのは因果の理法どおりである。
 仏教を心の柱としたいのなら、とにかく、縁となった教えを実践することがすべてである。
 すべての宗派におけるご本尊様を尊ぶのがマンダラの教えと法なので、お大師様は生涯、他の宗教宗派と争われなかった。
 当然、当山も同じである。
 仏教徒の根本姿勢は、他の宗教宗派と争わず、縁となった教えを実践することである。

 略式礼服のまま、午後7時から開いている居合の道場へ駆け込んだ。
 帰山後、NHKテレビで、日本を剣道団体戦で世界一に導いた〈無心の一撃〉を眺めながら食事をし、一日が終った。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=rWEjdVZChl0





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2016
01.10

漢文『法句経』を読んでみる(その1)

20160109000522.jpg

 寺院や寺子屋ではもちろん、戦前までよく読まれていた漢文の『法句経(ホックキョウ)』を読んでみたい。
 戦場へ赴く若者が懐へ忍ばせていたという話も聴いている。
 当山でも学びの柱として欠かせない。

無常品(ムジョウホン)第一】

無常品とは、寤欲(ゴヨク)昏乱(コンラン)し、栄命(エイミョウ)保ち難く、唯(タダ)道のみ是(コ)れ真なり。

 無常品は説く。悟りへの強い希望を持っていても智慧は暗く、思い乱れているうちに輝く生命力は衰えてしまう。ただ、仏道のみが真理なのに。

〔一〕睡眠(スイメン)解寤(ゲゴ)すれば、宜(ヨロ)しく思いを歓喜すべし、我が説く所を聴き、仏言を撰記(センキ))せよ。

 心を塞ぎ眠気を催させるものから離れて悟りを求め、心を喜ばせ、仏の説法を聴いて言葉を選び取り記憶せよ。

〔二〕所行(ショギョウ)は非常なり、謂(イ)わく興衰(コウスイ)の法なり、夫(ソ)れ生ずれば輒(スナワ)ち死す、此の滅を楽と為(ナ)す。

 現象世界にある変化して止まないものたちは無常であり、起こっては衰える性質を持っている。生じたものは必ず死ぬ。生死から脱すれば真の安楽である。

〔三〕譬(タト)えば陶家(トウケ)の、埴(ウツワ)を埏(コ)ね器を作るも、一切は必ず壊るるが如(ゴト)し。人命(ニンミョウ)も亦(マ)た然(シカ)なり。

 例えば陶工が粘土をこねて器を作っても、すべてはいつか必ず壊れるようなものである。人の命も同様に無常である。

〔四〕河の駛(ハヤ)く流れて、往きて返らざるが如(ゴト)く、人命(ニンミョウ)も是(カク)の如(ゴト)し。逝きし者は還らず。

 川の水が早く流れ去って元の流れが戻らないように、人のいのちもまた、たちまちに去ってしまう。逝った者は二度と還ってこない。

〔五〕譬(タト)えば、人、杖を操(ト)りて、行牧(ギョウボク)して牛を食せしむるがごとく、老と死も猶(ナ)お然(シカ)り。亦(マ)た命を養うも去る。

 例えば牛飼いが杖を使って牛を牧場へ追い立て、草を食べさせるように、老いと死も私たちを追い立て、いかにいのちを大切にしていたとて、必ずあの世へ至らしめさせられる。

〔六〕千、百にして一に非ざる、族姓(ゾクセイ)の男女(ナンニョ)、財産を貯聚(チョジュウ)するも、衰喪(スイソウ)せざること無し。

 同族も異なる姓の男女も、いかに財物を蓄えようと必ず死によって失うことは、千に一つの例外もない。

〔七〕生ある者は日夜(ニチヤ)に、命を自ら攻め削り、寿(イノチ)の消尽(ショウジン)すること、煢穽水(ケイセイスイ)の如(ゴト)し。

 いのちのある者は日夜に自分でいのちをくしけずり、いのちが必ず消え尽きるのは、わずかな水がたちまち干上がるようなものだ。

〔八〕常なる者も皆な尽き、高き者も亦(マ)た堕(オ)つ。合会(ゴウカイ)に離(リ)有り、生者(ショウジャ)には死有り。

 いつも集まっていようと最後にはすべて死に絶え、高い地位にある者も最後には地へ還る。会う者には必ず別れがあり、生きている者には必ず死が待っている。

〔九〕衆生(シュジョウ)相剋(ソウコク)して、以(モッ)て其(ソ)の命を喪(ウシナ)う。行いに随いて堕する所、自(ミ)ずから殃福(オウフク)を受く。

 人びとは争いながら、限られたいのちを喪いつつある。善悪の行いに応じて災いの世界、あるいは福多き世界へと転生する。

〔一〇〕老いては痛を見、死しては則ち意(ココロ)去る。家を楽しみて獄に縛せられ、世を貪りて断ぜず。

 老いればを増し、死ねば心はどこかへ行ってしまう。それなのに日常生活の迷いに縛りつけられたままで、世間的楽しみを追い求め、の根源を断とうとしない。

 無常品はご葬儀などでも用いる。
 川の水が流れ去る教えは、『方丈記』の「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」などに通じているのではなかろうか。
 わずかな水しかないところに棲む魚の教えは凄まじい。
 酷暑のインドにあっては、いかなる恐怖をもって聴かれたのか。 




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=WCO8x2q3oeM





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2016
01.10

イラク戦争と靖国神社への祈り(その4) ─火伏せの法、井上成美など─

201601100002.jpg

201601100001.jpg

 平成16年1月、自衛隊イラク派兵に鑑み、小生は、仏神と祖霊のご加護で自衛隊員の無事帰還をはかるべく、靖国神社へ向かって托鉢行を始めた。
 世界の情勢が急変を見せ始めた今、そのおりの記録を加筆訂正しながら再掲しておきたい。
 不戦日本の願いを込めて。

○春祭(2月1日)

 去年の数倍に上る申し込みをいただき、盛大に厄除祈願の春祭千枚護摩祈祷を行った。
 ほぼ3時間もの間、真言を唱え、祈っておられた方々の熱心さには頭が下がった。
 
 毎年のごとく、今年も守本尊様のご加護を確信させられるできごとがあった。
 護摩壇正面の高いところへ立ててあった小さなローソクたちが火の熱さによって溶け始め、火がついたままで供物を捧げてある壇へ次々に落ちた。
 あるものは壇に敷いてあるビニールのシートを溶かし、あるものは供物を載せてある三宝の紙に火をつけ、あるものは壇の布へ燃え移ろうとしていた。
 護摩壇から降りるわけには行かず、火伏せの法でそれらを次々と消したので大事に至らなかった。
 ご本尊様は誠心に応じて動く世界を目の当たりに見せてくださったのである。
 気づいていた方々もあり、修法後、身体と法について少々お話しし、魔除の伝授も行った。
 授かった法を信じて行じ、眠っている能力の開発をやるかどうかは、ご当人の問題である。
 
 火の熱さで眼鏡のレンズに無数のヒビが入り、群雲がかかったような感じになってしまった。
 このまま見えにくくては困るが、明日の午前中までにお祭関係の仕事を終え、再出発したい。

○足踏(2月2日)

 午前中で一段落つけ、でかける準備にかかろうとしていたところへ葬儀屋さんからの電話。
 枕経と葬儀までの打ち合わせをして欲しいとのこと。
 托鉢用の白衣ならぬ読経用の白衣を着けてでかけ、修法後、枕経の意味や意義などを話し、若干のご質問にお答えした。
 まったく思いもよらず喪主となった若い奥さんから心構えについて真剣に訊ねられ、真言をお伝えした。
 
 告別式までの流れは実に重く、引導を渡して帰山するとぐったりしてしまうのが常である。
 ご遺族は辛く悲しく寂しく、導師は心も身体も〈芯をすり減らす〉のが死者との別れだ。
 出家してまもなく、師僧が嘆息を込めて呟く言葉を聴いた。
「葬式はやりたくないものだ」
 当時はかなり強烈な違和感を感じたものだが、導師を務める今は、実によくわかる。
 故人とご遺族の思いを忖度しながら、持てるエネルギーを使い尽くして引導を渡す仕事など、やりたい人はなかろうが、それを欠かせぬ役割として背負うのが僧侶であり、ここに至った業(ゴウ)の深さを幾度も幾度も突きつけられる。
 だから、寒風の中で立ったままの警備員などを見ると、同輩に思え、心で合掌する。

 そもそも僧侶は、仏教という車の両輪をなす教えと法力を信じ、その世界を求める行者である。
 お釈迦様やお大師様の境地に憧れ、何ぴとをも救った法力に憧れ、たとえ一ミリでも余計にそこへ近づこうとせぬ者は僧侶とは言えない。
 なぜならば、愚かな己を〈み仏の子〉として一歩でも高める努力を続け、あらん限りの力を用いて仏縁の人々のために役立つこと以外、僧侶の存在価値はないからである。
 美しい花を美しいと言い、強い象を強いと言うのみで、己が花となり象となって人々の抜苦与楽(バックヨラク)のために一身を捧げようとしないならば、いかに言葉巧みであり、いかに人気があり、いかに大きな寺院にいようとも、本ものの僧侶とは言えない。
 
 明日は出発したい。

(最近、Aさんの十三回忌供養を行った。
 奥さんは「早いものですねえ」と涙を浮かべられ、支えとなるように並んで立つご子息の頭髪はすっかり白くなられた。
 あばら屋を本堂としていた時代に当山と仏縁を結び、当山の墓地ができるのを待ってお墓を造られたご一家の方々と言葉を交わせるのは、たとえようもなく嬉しい。
 これからも主人と私たちをお守りくださいと言って笑顔になられた奥さんは観音様のようで、業の深い身がまた救われ、力づけられた。
 我が身にまつわる過去世からの因縁は、み仏ならぬ身が解明することはできない。
 与えられた役割は天命であろう。
 全身全霊をかけて引導を渡し、年忌供養の導きとなり、ご遺族の安心の土台となり続けたい。)

○井上中将のこと(2月3日)

 ついにイラクへの本隊派遣となった。
 今朝、ご来山された方が「既成事実ができると人はだんだんそれが当りまえに思え、ことは一方へ流れてしまうものです」と心配しておられた。
 まことにその通りである。
 昭和10年代、マスコミはもちろん世論全体が戦争へ戦争へとなびいている頃、海軍中将井上成美は頑として自説を曲げず、米内・山本両氏と共に急流にあって屹立(キツリツ)していた。
 信徒Aさんが図書館で調べわざわざお届けくださったコピーを引用し、井上中将の言葉を記しておきたい。

「戦争というものはいいものでなく、私は、戦争は刑法でいう死刑と同じ必要悪だと思います。
 人を殺したり、人の物を破壊したり、そんなことをするのは、交戦国の権利として認められてはいるが、国の行為としては、悪行為なのです。
 しかし、国としては、生存ということを考えなくてはならない。
 だから、生存を維持するための、最後の手段として仕方がない。
 だから、生存のため以外に国軍を使うことは、私は、イクスパンショニズム(領土拡張主義)であり、ミリタリズム(軍国主義)であり、インペリアリズム(帝国主義)であると思います。
 そんなことで、国民を殺すことは、その政府が悪い。」


 自衛隊員とご家族の本音は「侵略者があれば命をかけて戦うが、………」というものであろう。
 国内で災害復旧活動をするのと同じく銃を持たずスコップを手にし、ボランティアなどの民間人と行動を共にするのならいざ知らず、硝煙立ち上る国へ武装してでかけるならば、いかなる言葉で表現しようと軍事行動以外の何ものでもない。
 
 しかも、国会では同盟軍という言葉が乱舞しているが、井上中将などの海軍首脳と陸軍との対立点の根幹が「自動参戦」問題であったことがもはや忘れられているように思えるのは何とも残念である。
 英霊にも、戦争犠牲者へも申しわけが立たない。
自動参戦」とは、ドイツやイタリアが戦争を始めたならば、同盟軍である日本も自動的に戦争へ荷担するという約束のことである。
 井上中将はこう言って反対した。

「国軍の本質は、国家の存立を擁護するにあり。他国の戦いに馳せ参ずるごときは、その本質に違反す。
 前(第一次)大戦に日本が参戦せるも邪道なり」


 日本が勝った戦争だからといって、正しかったとは決して言えない。
 この見識がもっと共有されていれば、日本は戦争を避けられたかも知れない。
 井上中将の言葉は輝きを失っていない。
 私たちは深くかみしめるべきではなかろうか。
「同盟国であるアメリカの敵は日本の敵である」という論理ほど日本をすばやく戦争へ導くものはない。
 最大の死魔である。
 呼び寄せられた死神は、もう、あちこちに顔を見せている。
 空港に、港湾に、原発施設に、警察に、国会に、駅に、そして街の人混みの中に、〈不安〉〈警戒〉〈疑心〉〈恐怖〉として………。
 自衛隊派遣問題が起る前と比べて、日本はこれまでより良くなっているだろうか?
 治安と安全と平和がより確実なものになっているだろうか?
 
 井上中将の言う〈必要悪〉の極限性と恐ろしさをもっともっと考えねばならない。
 ブッシュ大統領はイラク戦争に臨み、こう表明している。
「イラクを第二の日本にする」
 ここには、永久に米軍を駐留させるという意味以外のものがあろうか。

(12年前の文章を読みなおしてみると、あそこから現在へつながる流れは速さを増していると思える。
 政府は「世界の情勢が変わった。新しい防衛の仕組みが必要だ」と力説するが、日本中に焦りや勇み立つ風潮が広がりつつあるのは、本当に〈世界のせい〉なのだろうか? 
 そもそも集団的自衛権という概念自体、第二次世界大戦後、アメリカが自国による戦争を正当化するために持ち出したものであり、それは「自動参戦」によって世界中を戦争へ巻き込むきかっけとなり得る。
 これまでのように武力行使を避け、丸腰で、世界各地域への貢献をはかる自衛隊のままでは、アメリカを初め世界中から日本が見捨てられて中国に蹂躙されるという確たる調査結果などがあるのだろうか?むしろ、現場の声としては、日本の〈平和ブランド〉を捨てることによる危険性の増大こそが懸念されているのではなかろうか)




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=WCO8x2q3oeM





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



back-to-top
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。