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2016
02.29

人口の減少とヒトの歴史 ─「おばあさん」が人口増加の立役者だった話─

2016-02-15-011.jpg

1 「おばあさん」の偉大な役割

 ラテン語で〈賢い人間〉をホモ・サピエンスと言います。
 ヒトの先祖であるホモ・サピエンスは、他の動物よりも大脳の前頭葉(ゼントウヨウ)が発達しています。
 つまり、考える力が発達しているのです。

 彼らが出現した頃の地球はとにかく寒く、乾いていました。
 現代の私たちですらすくんでしまうような過酷な環境を、いったいどうやって生き延びたのでしょうか?
 地球物理学者松井孝典(タカフミ)博士は、同時代に生きていたネアンデルタール人と興味深い比較を行っています。

 ホモ・サピエンスは考え、明確な言葉で語り合い、骨製の針を作り、毛皮を着ていまた。
 一方、ネアンデルタール人は身体の耐寒性を発達させ、肉食獣に等しい食事をし、1日4000キロカロリーを消費しつつ寒さに耐えました。
 その後、温暖モードと寒冷モードを繰り返す地球上で生き残ったのは、ホモ・サピエンスでした。

 さて、ホモ・サピエンスが人口を増加させた理由について、松井教授は「おばあさん仮設」を唱えておられます。
 生殖期間を過ぎた「おばあさんが」いる哺乳動物はヒトだけです。
 この「おばあさん」が指導し、手伝うおかげで母親は次々と子供を産み、育てることができました。

 一方、語り合う力は、季候が安定してきた環境において、過去に学び未来を語り合う時間を与えました。
 そして、共同作業によって狩猟や採集だけではない計画的農耕が始まり、定期的に確保できる食糧は、たくさんの子供たちを養いました。

2 なくなった「おばあさん」の役割 

 さて、人口減少に直面した私たちは今、どうやって歯止めをかけようとしているでしょうか?
 一つには、はたらく母親のために託児所などを充実させ、出産や育児により時間的・体力的に以前とは違う状態になっても、これまでどおりに近い待遇を維持させようとしています。
 また、伴侶が育児に費やす時間を確保し、一緒に子育てをさせようとしています。

 その一方で、「おばあさん」は、自分で稼ぎ、自分で趣味などを楽しむ生き方を求めています。
 若い人たちが親から離れて好き勝手に自由を楽しもうとするなら、子育てが終わった自分も人生を楽しまなきゃ損だと考え、そうした希望に応えるべく、ありとあらゆる楽しみが提供されています。
 今は国を挙げ世を挙げて、お年寄りに溜めた財を〈吐き出させよう〉とあの手この手ですが、自分だけでなく、後の世代にも大きな不安を持つようになった「おばあさん」もおじいさんも、財布の紐を簡単に弛めはせず、子供にもまた、親の財物をアテにする心理が蔓延し、小さからぬ問題が多発するようになりました。

3 最も弱いヒトの赤ん坊 

 私たちは、生まれたばかりの仔馬が、間もなく自分で立ち上がる光景をテレビなどで見ています。
 卵から脱したオタマジャクシがすぐに泳ぎ出すことも知っています。
 それに比べてヒトの赤ん坊はいかに脆弱なことでしょうか。

 ヒト以外のほ乳類は、母親の胎内で脳の発達をほぼ、終えてから誕生しますが、ヒトの脳は、生後2年間で、生まれた時の約倍に成長します。
 だから、ヒトが他のほ乳類のように、すぐに自力で生きるためには、約21ヶ月の妊娠期間が必要な計算になります。
 しかし、それでは母胎がもちません。
 そもそも、他のほ乳類とは違い、二本足で歩き、空いた自分の両手で赤ん坊を抱きかかえ、世話ができるからこそ、早期分娩が可能になったのであり、〈産みながら育てない〉という母親は、(病気など特殊な事情がある場合を除き)本来、ヒトという生きものに想定されていないのです。

4 参考までに

 こうして見ると、人口減をくい止める方法の一つとして、「おばあさん」が本来持っていた役割の復権は、考えるに値する方法ではないでしょうか?

 まず、世の女性たちが、産んだ体験者であり先輩である母親から、子供を産み育てるという〈神聖で、種として欠かすべからざる重大な役割〉について指導されれば、すべてがお金に換算される世の中で、モノの世界とは次元の違う価値があるという真実に目覚めるのではないでしょうか?
 最近では、小学生や中学生の妊娠もさほど、珍しくはありません。
 未成年の男女による我が子への暴力や殺人事件も後を絶たず、未熟な感情や、目先のモノや、一時的な享楽を優先する風潮も深刻です。
 産む、育てるといった神聖な役割が少々、脇へおかれているせいではないでしょうか。
 もちろん、産みたいけど産めない精神的、肉体的問題に苦しむ方もおられます。
 産むことにあまり価値を認めない人生観もあります。
 すべては人それぞれではありますが、だからといって、肝腎なものが等閑に付されてよいはずはありません。
 まして、日本の人口減は国のあり方を大きく変える重大な事態です。
 見るべきものをまっすぐに見たいものです。

 また、孫育ては、「おばあさん」にとっても、新たな生きがいの発見につながるのではないでしょうか?
 第一に、「おばあさん」の活躍は何よりも、孫の心の成長によき影響を与えます。
 祖母と孫の接触によって考えられる悪しき影響と良き影響とを比較してみればすぐに察しがつくことでしょう。
 たとえば、お小遣いを与え過ぎて甘やかしかねないなどの問題は、その家庭なりのルール作りをしておけば済みます。
 第二に、当然ながら、息子や娘がはたらきやすくなります。
 第三に、そうしたことごとが、「おばあさん」そのものの心身を活き活きとさせ、高齢者の増加がもたらすさまざまな社会的問題を好転させることでしょう。

 もちろん、こうした方向を目ざそうとすれば、老いも若きも、互いに〈気まま心〉の抑制は避けて通れません。
 公的・私的に、膨大な工夫も必要でしょう。
 フェミニズム論者の反発もありましょう。
 しかし、自由という価値を第一とし、商業主義に乗ってどこまでもやってきた結果が現在の危機をもたらしたという認識があれば、また未来のために今、果たすべき役割を考えるならば、検討も実践も可能なはずです。
 この稿は、松井孝典博士の『我関わる、ゆえに我あり ─地球システムと文明─』を参考にしましたが、同著は東日本大震災の時期に準備され、翌年2月に発行されました。
 あとがきは博士の願いで締めくくられています。
「新たな旅立ちの年の初めに」




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2016
02.28

いのちをかける者の尊厳について ─老いた妻を殺して自殺した國崎誠一氏─

2016-02-28-0001.jpg
〈「必死剣 鳥刺し」の豊川悦司〉

 80才を過ぎた夫が妻を殺し、自分も死んだ事件に関し、どうしても記しておきたいことがある。

1 國崎誠一氏のこと

 妻を刺殺した夫が食事を摂らず死亡した。
 死亡したのは埼玉県在住の國崎誠一容疑者(83才)、殺されたのは妻恭子さん(77才)である。
 
 2月5日、午後11時30分、110番通報を受けた警察官が駆けつけると、彫刻用の小刀で妻の首を刺し、自分も首や手首を切り自殺を図った誠一容疑者がいた。
「認知症の妻の介護に疲れ無理心中をはかった」
 8日、殺人の疑いで逮捕された容疑者は、ほとんど取り調べに応じず、食事も摂らないため、17日、病院へ入院させられて点滴を受けていたが23日、死亡した。
 小川警察署の発表である。
「本人はほとんど何も話さなかったので、なぜ、食事をとることを拒み続けたのか理由はわからない。
 警察としても食事をとるよう説得していただけに、このような結果となり残念だ」
 警察としては、こう言うしかなかろう。
 誰が見ても、老いた身体での介護に限界が訪れ、相当の覚悟と決心をもって心中をはかり、やり遂げたことがわかる。
 夫は、刺すという形では自分を殺しきれなかったが、食べないという形で目的をまっとうした。
 
 経緯については冒頭のかいつまんだ報告だけで想像ができ、無言を通した気持もよくわかる。
 誰に対して何の言いわけもする必要はないし、できるはずもない。
 自分の死をもって、伴侶に対する責任をとり、社会へ対しても責任を果たした。
 それだけである。
 (世にも奇天烈な免罪符「説明責任」にすがり、言いわけをするのみで、あらゆる「責任」から逃れようとする卑劣な政治家の姿とあまりに対照的ではないか。
 責任ある立場にある者が自分の言動について説明を尽くすなどは当然の責務であり、それは、どう責任をとるのかという肝腎な問題の前段階に過ぎない。
 説明によって責任を果たしたと居直る政治の世界にしか見られない傲慢な欺瞞を早くやめないと、国民の政治不信は募るばかりだろう。

 特に、まだ、しがらみに縛られていない若い人たちの目はごまかしようがない。
 選挙の投票率を上げるには派手派手しく鐘や太鼓を叩く必要なはなかろう。
 政治家が自分の言動に責任を持ち、無様な実態が露呈した際には潔く、まっとうに責任をとる、これしかないと思う)

2 放火しようとしたAさんのこと

 二人の漢(オトコ)を思い出した。
 Aさんは、親の代から所有している隣家を知人へ貸していた。
 やがて商売が繁盛し、倉庫のスペースが足りなくなったので、条理を尽くして知人へ立ち退きを頼んだ。
 仲良く近所づきあいをしてきた間柄なので、Aさんも辛かったことだろう。
 ところが知人は何年経っても、ノラリクラリと言いわけをして居座ったまま。
 Aさんは仕事の関係上、離れた場所に倉庫を設けることができない。
 そうかと言って、来客を適当に断りながらやれる商売でもない。
 社会貢献の意識を強く持ち、まじめ一本でやっている。
 追いつめられ、業を煮やしたAさんはとうとう、ある日、灯油の入った缶を手にして隣家へ乗り込んだ。
 燃やそうとしたのである。
 肝を潰した隣人は早々に、行方も告げず、立ち退いた。
 大らかな時代ゆえ、Aさんはお咎めなしで済んだ。
 町内会や業界や防犯活動など、各方面で力を尽くしていたことによって情状酌量されたのかも知れない。
 小生はこの一件で、人生には〈どうにもならない状況〉があることを学んだ。

3 大西瀧治郎中将と「必死剣 鳥刺し」のこと

 もう一人は、神風特攻隊を発案したとされている海軍軍人大西瀧治郎である。
 幾多の青年を見送り、敗戦の色濃い太平洋戦争の末期になっても徹底抗戦を最後まで主張した。
 こう言いつつ。
「棺を覆うて定まらず百年の後知己を得ないかもしれない」
「おいも行く、わかとんばら(若殿輩)のあとを追いて」(西郷隆盛の言葉)
 自分は死後、成仏できないだろう、ただし、若者たちだけを死なせず、必ず自分も逝く。
 明澄で凄まじい覚悟だ。
 実際、敗戦直後に割腹自殺を決行した。
 かけつけた軍医へ「生きるようにはしてくれるな」と断り、遺書や遺言で意思を伝えつつ死んだ。
 物量において日本とアメリカに決定的な差があることを熟知していながらなお、抗戦を続けようとする作戦に、新聞記者だった戸川幸夫はなぜ?と訊ねている。
「いくら物量のあるアメリカでも日本国民を根絶してしまうことはできない。
 勝敗は最後にある。
 九十九回敗れても、最後に一勝すれば、それが勝ちだ。
 攻めあぐめばアメリカもここらで日本と和平しようと考えてくる。
 戦争はドロンゲームとなる。
 これに持ちこめばとりも直さず日本の勝ち、勝利とはいえないまでも負けにはならない。
 国民全部が特攻精神を発揮すれば、たとえ負けたとしても、日本は亡びない、そういうことだよ」

 小生も国防の要諦はここにあると考えている。
 実際に全滅するまで戦うべきであるというのではなく、侵略者に対して〈決して屈しない〉という覚悟こそが国防の根幹であり、それは軍人だけでなく、むしろ一般国民のそうした気概こそ、侵略を意図する者への確かな抑止力となるのではなかろうか?
 気概の具現化は、武力によるものも、よらないものもある。
 具現化に際してこそあらゆる分野の叡智を結集し、国民の前で正々堂々の議論を重ねねばならない。
 かつて、お釈迦様がおられた頃のインドでは、開かれた四阿(アズマヤ)において、各部族ごとに長老の指導のもと、老若男女を問わない論議が行われていたという。
 国家の命運はそうして決められるべきではなかろうか?

 藤沢周平の小説に「必死剣 鳥刺し」がある。
 ズタズタに切られ、死んだとしか思われない敗者が、勝利を確かめようと近づく敵将を一撃で仕留める秘剣である。
 だから、〈必殺〉を目的としてはいるが、自分の死をかけて行うという意味において〈必死〉と言うしかない。
 主人公兼見三左エ門は死んだが、守ろうとした義は死なず、秘剣も死なない。
 一方、斃された相手は最終的敗者になるのみである。
 同名の映画を観て、自分も密かに自分なりの必死剣を持ちたいと強く思った。
 無論、敵は自分の外にあるだけではない。

4 結論 
 
 横道にそれたが、國崎誠一氏の行動には、大西瀧治郎や兼見三左エ門に通じる深い尊厳が感じられてならない。
 どうにもならない状況に立ち至った時、最後は自分のいのちをかけて何かを行うしかない。
 最後に覚悟を決めさせるのは何か?
 よくよく考えたい。




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2016
02.27

猫カフェにて ─ひとときのスローモーション─

2016-02-25-003.jpg
〈我、関せず〉

 初めて猫カフェへ立ち寄った。
 名取市にある 「アミューズパーク名取りんくう店」である。
 カフェと銘打ってあるからコーヒーが出てくるわけではなく、喫茶店でもない。

 注意事項などを聞き、草履を脱ぎ、小さなおやつを買う。
 ドリンクバーで飲物を選び、猫ゾーンへ入る。
 広さは20畳ほどだろうか。
 大きなテレビがついている。
 
 さっそく足元へ5匹やってきた。
 歓迎してくれたというよりも、手にあるおやつがお目当てらしい。
 先客は、成人前のジーパンをはいた女性が一人。
 杯ってすぐのソファーに沈み込み、膝の上に1匹、そばのテーブルには2匹、かしずくように眠っている。

 邪魔をせぬよう、猫足になって左側の壁沿いにあるふかふかしたソファーへ腰を落とす。
 2メートルほど先に加湿器があり、近くには、水がぶくぶくと真ん中から流れる水飲み場がある。
 子供が遊ぶ遊園地のように、猫用の施設がいろいろと置いてある。
 ただし、猫じゃらしなどの小道具は、入店した際に選んで借りることもできるが、あえて持たずに入室した。

 すぐに白と黒のやや大きめの猫が、脇にあるテーブルへ飛び乗り、おやつを請求してくる。
 声は出さないが、手が招く。
 注意事項で「ケガをした時は、応急処置程度しかできません」と言われた理由がわかった。
 小さな器へ移すのを待ちかねてかぶりつく。
 チョコレート色をした小さめの猫は足元で背伸びするだけ。
 そっちへもやろうとして、小さな器に数粒、入れるのを待ちかねたようにテーブルへジャンプしたが、白黒が手元から離れず、ありつけない。
 恨めしそうに横から眺めている。
 いつの間にか、銀色に黒い縞の入った小型の猫も、足元からじっと見上げている。
 ケンカにならないところを見ると、猫社会にも序列があるらしい。

 何とかチョコレート君にも行き渡るころには、さらに3匹が周囲に集まり、視線を視線を送ってくる。
 手から直接やればやりやすいが、それでは引っ掻かれる危険性がある。
 ワッと全員集合にならず、先客にかしずいた3匹や、目の前1メートルほどのところで長々と伸びて熟睡している三毛猫がピクリとも動かないのは、適度にエサが与えられているせいだろうと思う。
 そうかといって、全員が満腹で寝てばかりいたのではおもてなしにならないから、そのあたりはきちんと工夫しているにちがいない。

 やがて大学性くらいのアベックが入店し、男性はまっすぐに一番奥のテレビの横にある座敷用テーブルでマンガを読み始める。
 地味な紺色のロングスカートをはいた女性は加湿器のあたりにしゃがんで猫と遊ぼうとするが、あまり寄って来ない。
 小生のそばにはおやつの余韻で数匹がおり、やや、気の毒になる。
 彼氏は猫に関心が無く、猫たちにもそれほど歓迎されないなら、一緒に来た甲斐がないではないか。

 やがて、ほとんど動かなかったジーパンさんが、思い出したようにおやつをパラパラッと撒く。
 たちまち数匹が駆け寄る。
 〝そうか、ああしてやれば引っ掻かれることもないし、猫も集まるのか……〟
 やはり、先輩には叶わないものだ。

 関心していると、それを見ていたロングスカートの女性も、おやつを買い求めてパラパラやる。
 案の定、4、5匹が集まり、賑やかになった様子に安堵した。
 彼氏はまったくお構いなくマンガに没頭している。
 最近、40才を過ぎた娘が妻へ、「お父さんは子供の頃、ちっともかまってくれなかった」と恨み言を言ったと聞き、仕事にまかけて自分勝手な時間だけを過ごして来た過去を突きつけられ、苦い思いをしているだけに、「おいおい、お前さん、それでは後が大変だぞ」と声をかけてやりたい気持が一瞬、起こり、すぐに消えた。

 客は誰も声を発しない。
 猫もほとんどニャーと鳴かず、カーペットの敷かれた床を足音も立てずに歩く。
 走りもしない。
 部屋全体の時間がスローモーションの無声映画のように流れる。
 そして、撫でられて逃げない猫の柔らかな感触──。
 ああ、これが「カフェ」と称する意味なんだなと気づいた。

 日常とはちょっと違う時間に憩いたい気持を受け入れてくれる空間がカフェなのだろう。
 フランスではまず貴族階級のサロン、そして芸術家たちの議論や発想の場、やがて庶民のくつろぎの場と性格は変遷しても、アジールという面を持つことは変わらない。
 そこは、何かから逃げ込める場であり、互いを決して傷つけ合わないある種の聖性すら伴う貴重な場なのだ。
 そうした意味では、温泉に通じるものがある。

 などと考えているうちに次のアベックが入店して来たので静かに立ち、猫のように足音を立てず、部屋から出た。
 見送ってくれる猫はいない。
 さぞや繁盛しているだろうと店員さんへ訊ねると、土日は順番待ちになるらしい。
 そうだろうと思う。
 しかし、こうした〈カフェ〉が誕生するなどとは、カフェ好きで1日に80杯もコーヒーを飲んだ文豪バルザックとて想像できなかったに違いない。
 人間が活動する人間圏がどうなって行くか、実に、未来はわからない。
 だからこそ、輪廻転生(リンネテンショウ)には楽しみがある。

 クロとミケ子を思い出しながら帰山を急いだ。
 



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「おん あらはしゃのう」
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2016
02.26

無常と生の象徴『リバーズ・エッジ』のハルナ ―『チベットの生と死の書』を読む(11)―

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〈一見、高貴そうだが、おやつをくれそうな人にいち早く気づいて近づき、おやつがなくなるまで先着特権を決して譲らないなかなかの根性を持っている〉

 ソギャル・リンポチェ師の著書『チベット生と死の書』は、生と死を考える人びとへ重要な示唆を与える一冊である。
 伝統仏教の最先端を示し、かつ、最奧をもかいま見せる高貴な魂の結晶である。
 師は「仏法をより近づきやすいものに、現代的、実践的なものにするために著した」とされているが、700ページ近い力作で、なかなか読み通せないかも知れない。
 以下、全体の概要というよりは、いくつかのポイントを挙げておきたい。

 私たちへ苦しみをもたらすものの一つに執着心がある。
 それは他者へも苦しみを与える。
 ストーカーなどはその典型だ。
 自分が勝手に苦しむだけでなく、相手をも苦しめ、傷つける。

 誰かを好きになることに問題はない。
 危険人物を警戒して避けることにも問題はない。
 好意も嫌悪も、きちんと生きて行くためには欠かせない反応である。

 では、なぜ、〈問題〉となる形をとったり、〈問題〉となるところまで行ってしまうのか?
 それは、相手の実態を勝手に誇張してしまうからである。
 好きな人を失えば自分に未来はないと悲観したり、邪魔者によって自分の未来が破壊されると怖れたりする。
 そして判断を誤り、行動を誤る。
 岡崎京子氏の名作『リバーズ・エッジ』における女子高生田島カンナはその典型的な例と言える。
 カンナは、好きな山田が自分の方を向いてくれないのは、友人のハルナが妨害しているせいであると考え、ハルナのマンションの部屋に放火した後、焼身自殺を遂げる。
 二重、三重の誤りが過ちへと結びつく。

 ソギャル・リンポチェ師は説く。

「生は誕生と死があやなすダンス、変化のダンスに他ならないのだ。」


 私たちは無数の生まれ変わりを繰り返している。
 同時に、あらゆるものが、生まれ変わり死に変わりしている。

「これらの変化、これらの死が、私たちと死をつなぐ生きた絆なのだ。
 それはあらゆる執着からの解放をうながす死の脈動、死の鼓動なのだ。」

「生は痛みと苦しみと困難に満ちているかもしれない。
 だがそれらはすべて、死を感情のレベルで受け入れるための一助としてわたしたちに与えられたチャンスなのだ。
 ものごとは不変だと信じこむとき、わたしたちは変化から学ぶ可能性を閉め出しているのである。
 この可能性を閉め出したとき、わたしたちは閉ざされる。
 そして貪欲になる。
 この貪欲さがすべての問題の根源なのだ。


 いじめられて苦しむ『リバーズ・エッジ』における山田は、川原で発見した死体を自分の宝ものと考え、隠している。
 ハルナは、処女を捧げたのにすっかりずれてしまった観音崎が、引っ越しの手伝いを終えて走り去る後姿に、自分がここからいなくなれば観音崎はホッとするだろうと冷静に考え、さり気なく送り出す。
 二人は、「死」と「変化」の〈観察者〉だ。
 だから、周囲でいかなるドラマが起ころうと、心の背骨は決して曲がらず、翻弄されない日々を送っている。

「わたしたちにとって〈無常〉は苦悩を意味する。
 そのため、すべてのものは変化するにもかかわらず、わたしたちは必死になって何かにつかまろうとする。
 手放すことを恐れる。
 だがそれは、生きることそのものを忘れることになるのだ。
 なぜなら、生きることを学ぶということは手放すことを学ぶということなのだから。
 ものごとを持続させようとするわたしたちの悪あがき、その悲劇と皮肉はここにある。
 持続させようとすることがそもそも不可能だからというだけではない。
 それが、わたしたちがまさに避けようとしている苦痛そのものを呼び寄せるからである。」

「何かにつかまろうとする意思それ自体は悪いものではない。
 幸せになりたいという思いに何も問題はない。
 だが、そのつかまろうとしているものは本来つかまることのできないものなのだ。」


 私たちは〈無常〉を深く心に刻みたい。
 人も自然も何もかもがそれを教えている。
 宇宙は大日如来の説法に満ちている。
 そのことに気づけば、必ず自分が変わり、世界が変わる。
 学び、瞑想したい。

「つかまれないものにつかまろうとしてきたために味わった数々の悲嘆、それらがすべて深い意味ではそもそも不要なものであったという理解が、少しずつ開けてくるのである。」

新たな変化が起こると、また少し今まで以上に理解が深まる。
 こうして、わたしたちの生を見る目はより広く深くなってゆくのである。


 小生はご葬儀の後にこんなお話をする。
「故人は自分の死をもって、最後に大仕事をしておられます。
 皆さんがこうして立ち止まり、忙しく追われる日常生活ではなかなか考えられなかった大切なことに気づく機会を与えてくださっているのです。」
 ゆめゆめ、誰かの死を、軽々しく〈手続き〉ですませるべきではない。
 死と無常と向き合い、考え、祈る時間を大切にしたい。
 辛くとも、苦しくとも。
 その結果、私たちの「生を見る目」が「より広く深く」なって行けば、死者に対する最高の報恩であると言えるのではなかろうか。




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2016
02.25

くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる ─正岡子規とバラ─

201602250002.jpg

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 暖かい日に温かな雨が降った。
 正岡子規の歌が思い出された。

「くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる」


 春になり、60センチほどに伸びたバラから赤く色づいた芽が出ている。
 芽にある細かな針は柔らかい。
 幼きものへの愛おしい気持が湧いてくる。
 そこへ春雨が降りかかる。
 雨もまた、柔らかい。

 春の優しさ、新たな四季の胎動、雨と生きものの交歓。
 この一首が歌集にまとめられたのは明治33年、結核に罹患してから11年、前年に脊椎カリエスで寝たきりになった子規は、この針に触れたのだろうか?
 雨には当たっていないだろう。
 想像した針の「やはらか」さが、雨の「やはらか」さを連想させたのだろうか?

 小学1年生のおりに胸をやられ、畳の部屋で仰臥し、横町で遊ぶ子供たちの声を聴いているしかなかった小生には忘れられない作品である。

 薔薇と言えば、「艶麗体」と題した作品にこうしたものもある。 

「くれなゐのとばり垂れたる窓の内に薔薇の香満ちてひとり寝る少女


 もう死期はそこまで来ていたが、まだ30台になったばかりだった。
 窓に紅いカーテンを垂らした室内にはバラの香りが満ちている。
 そこにたった一人で仰臥する少女

 子規は外にいるバラと一体化し、少女は室内にあるバラの香りと一体化している。
 想像する力の創造は凄まじい。
 彼は文字通りいのちの限りを尽くして創造に励んだ。
 死の前日、紙の中央に
「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」と書いた。
 次いで左に
「痰一斗糸瓜の水も間に合わず」
と書いた。
 そして右に
「をとヽひのへちまの水も取らざりき」
と書いて意識を失ったという。
 
 


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2016
02.24

お彼岸の深意(第二回) ─報恩感謝の先祖供養と祖師供養─

201602230005.jpg

 あと一ヶ月で春彼岸となります。
 お彼岸には「仏道精進」と「報恩感謝」の意義があり、二回にわたって考えています。

2 報恩感謝

 先祖供養報恩感謝の実践です。
 私たちの誰一人として、ご先祖様がおられない人はいません。
 いつからともわからぬほどの過去から無限のいのちがつながり今の自分がいます。

 生きてあることを深く実感する時、心中に〝ああ、ありがたい〟という思いがふつふつと起こります。
 こうした心境において何がどうありがたいかと言えば、一つには、人であれ、モノであれ、自然であれ、あるいは仏神であれ、無数の〈縁〉が自分を生かしてくれているということです。
 もう一つには、両親から祖父母さらにご先祖様が生きてきた歴史のどの時点でもいのちのバトンタッチが途切れなかったということです。
 私たちは、奇跡的につながったいのちの最先端で、奇跡的に生きている存在なのです。

 この真実に気づけば自然に両手が合わさります。
 お墓参りをし、供養会に参加し、仏壇にはやお花を供えてお線香を点します。
 春のお彼岸に「ぼた」、秋に「おはぎ」と言うのは、春は牡丹、秋には萩が咲く時期だからです。
 そのようにして感謝のまことを捧げ、ご恩に応える心を発し、六波羅蜜(ロッパラミツ)の実践に励むことこそ、真の供養となります。

 なお、真言宗では、春のお彼岸に万霊供養や先祖供養だけを行うのではありません。
 宗祖弘法大師が承和2年(835年)3月21日にご入定(ニュウジョウ…永遠の瞑想に入ること)されたことにちなみ、霊供膳(リョウグゼン…御霊と諸精霊へお供えする御膳)や精進供(ショウジンク…仏神へお供えする御供物)を調えて修法し、ご恩にお応えする誓いを新たにします。
 当山では、お大師様のご尊像へ当山で用意したお菓子などを捧げていただきます。
 また、お大師様から伸びた五色の紐を手にはさめば、ご加護が実感できます。
 土砂加持(カジ)法を結んだ「御加持砂」もお授けいたします。
 ぜひ、お揃いでお出かけになり、報恩の実践を行ってください。

 また、修法後、講堂横の『不戦堂』にて「不戦日本」の祈りを捧げます。
 こちらにも、どうぞ、ご参加ください。

・日時:3月20日(日)午前10時より
・場所:法楽寺講堂
・送迎:午前9時30分に地下鉄泉中央駅前「イズミティ21」前より送迎車が出ます。乗車を希望される方は、必ず前日の午後5時までに、お申し込みください。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IvMea3W6ZP0





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2016
02.23

【現代の偉人伝】第221話 ─東北の豊かさを守ろうと呼びかける山内明美氏─

201602230001.jpg

 南三陸町出身の大正大学准教授山内明美氏は、東日本大震災のあった平成23年7月、共著「『東北』再生」を発行している。
 赤坂憲雄、小熊英二という「二人の師」との鼎談があったのは震災から51日目だった。
 そして、早くも102日目には、民俗学者赤坂憲雄氏がこの本の「まえがき」を書いている。
 以下、切れ切れではあるが、東北を舞台に「日本の国内植民地」という問題を考えてきた山内明美氏の言葉を追ってみたい。

「今回の原発事故で、放射能汚染という大変なリスクを背負いながら東京へ電力を送っていた地方の姿が浮き彫りになりました。
 福島には、かつて常磐炭鉱がありました。
 茨城県日立市、そして福島県いわきから富岡の『浜通り』にかけては、かつて炭鉱労働者の町でもありました。
 常磐炭鉱は1970年代半ばに閉山しましたが、その炭鉱労働を引き継ぐかたちで、原発の立地町である『原子力ムラ』ができました。
 原発事故のようなリスクが、歴史的な連続性のなかで、地方の村々のなかに常に担保されていまに至っていることの意味をよく考えなくては、と思います。」


 同著の中で、赤坂憲雄氏は、原発の事故によって、見せかけの豊かさの陰に隠されていた構造が明らかになったと指摘した。
 また、「迷惑施設を公共事業とひきかえにひき受けている、沖縄と一緒だった」と確認されたという。
 かねて原発の危険性と文明の問題を訴えてきた議論へあまり関心を向けなかった人びとも、今回は目が覚めたはずだ。

「地震も津波も冷害もある。
 陸で生きるのも浜で生きるのも過酷な場所です。
 過去の歴史のなかでどれほど津波が起きてきたのか、私たちはあらためて知りましたが、それでも、漁師が漁をやめたことはありませんでした。
 過酷な自然に対峙しながら、ここまで続いてきたのです。
 いま、私たちは、この深刻な汚染を発端として、将来へ向けてどんな『生のあり方』が可能なのか、未来への責任とともに考える時期にあるのだと思います。」


 海の恵みを享受する人びとは、海へ感謝すると同時に、津波への怖れも抱いてきた。
 生の営みがくり返される中で、人間の都合や思惑を遥かに超えた自然への畏敬の念が育っていた。
 それは、浜の空気と共にある。
 もしも浜が再生されなければ、ここでの「生」も再生されないのではないか?

「福島の炭鉱の町にハワイをつくるなんて笑い事だと、誰もが思うでしょう。
 私はあの映画を見て、涙を流しました。
 福島にハワイをつくるという破天荒な試みを笑うことなどできなかったのです。
 常磐にハワイをつくることは、炭鉱の町の後の生き残りをかけて必死の賭けでした。」


 小生も、初めて子供たちと共に訪れた常磐ハワイアンセンターで、無性に切なさを覚えた記憶がある。
 たまたま、北原ミレイがショーをやっており、幼い娘が『石狩挽歌』の一節を覚えたこともまた、切なかった。
 震災後、呼びものだったフラガールが復興のシンボルとして全国を回り、映画「フラガール」もできた。
 それでもなお、とうほく蘭展などで、たまたまフラダンスを目にすると、ダンサーに〈生身の人間〉では括れないものを感じてしまったりする。

「今回、福島第一原発が爆発して考えたことは、これは東北だけの問題ではないということです。
 沖縄や水俣、津々浦々の原子力ムラについても同様のことが言えるでしょう。
 そしてそれは、在日についてもそうです。
 戦後日本が抱えてきた問題の本質をむき出しにしたのが、今回の震災だと思います。


 山内明美氏は三陸沿岸の町で独り暮らしをしている在日韓国人宋神道(ソン・シンド)氏を知っていた。
 日本のマスコミでは報道されていないが、宋神道氏は日本政府を相手に慰安婦裁判を起こした日本在住のたった一人の原告である。
 政府相手の謝罪と補償は認められなかったが、慰安婦であった事実は認められた。
 震災後、山内明美氏は、自衛隊や韓国救助隊にも支援を要請するなど、宋神道氏の安否確認が大変だったという。
 在日のコミュニティーの人たちには、関東大震災での虐殺事件が思い出されていた。
 被災したのは日本人のコミュニティー内で暮らす日本人だけではない。
 それぞれの事情を抱えつつ日本で被災者となった外人もいることを忘れないようにしたい。

「この大震災は何かの前触れかも知れません。
 これから世界が転換していくにあたっての、ほんのきっかけにすぎないのかもしれません。
 原発事故も震災も、時間がたつにつれて忘れ去られることを、なによりも恐れています。」


 未曾有の大津波と原発事故は、文明のありようにかかわらないはずがない。
 それを〈なかったこと〉にできはしない。
 個人間のちょっとしたできごとですら、その後の人間関係を決定的に変えたりするではないか。
 ここで立ち止まらなければ危うい。

「『生きていてよかった』という言葉が口から出たあとの、後ろめたさがいつまでもつきまとっていた。
 この町で生き残ったひとは、例外なく、大切な誰かを失った。」


 私たちは一人残らず〈生き残り〉である。
 もしもそれを忘れるならば、私たち全てが戦争を経て生き残ったいのちを嗣いでいることなど、たやすく忘れ去れることだろう。

「故郷へ帰っている間、不思議な話を聞いた。
 あの大津波の二時間前、三陸の海に潜っていたダイバーがいた。
 養殖棚の修理のために海底に潜って仕事をしていたという。
 海の中で気がつくと、みるみるうちに海水が赤く染まっていった、という。
 そして、いつもはたくさん泳いでいる魚が、一匹もいなくなった。
『これは、なにか大変なことが起きるに違いない』
 海の異変に気づいたダイバーは、仕事を中断して、陸にあがった。
 大津波が三陸沿岸の町を襲ったのは、その直後だった。」


 この話は科学的説明が難しくはなかろう。
 しかし、白いシャツが赤く染まった人びとの体験した恐怖と不安は消えない。
 体験者の「痛み」こそが、言い伝える内容に想像力を与える。
 一人の人間と海との目が眩むような対比……。

陸で暮らそうが浜で暮らそうが、ここは、どこも例外なく、最後の場所(ケガヅ)なのである。
 ここは生き死にの物語が無数に埋もれた土地である。


 三陸の人びとは、海に出ては漁業、陸では稲作を行ってきた。
 海を津波が襲うように、陸は凶作と飢饉に襲われる。
 たとえば平成5年に発生した「平成の大凶作」では、平年の作況指数100に対し、20ほどしかなかった。
 山内明美氏の父親は空っぽの稲たちに火を放ち、田んぼは一瞬にして燃え尽きたという。
 村の人々は「時代が違えば、餓死で村が全滅、おまえは娘身売りだ」と言った。

「戦後社会のなかで、かつては『封建的』だという言葉で、村落共同体は、揶揄される対象にすらなってきた。
 原発のたくさんある場所は、コメもたくさん穫れる穀倉地帯である。
 田んぼの風景と原発が、なぜ癒着せずにいられなかったのか、私にはすこし分かる気がする。
 家族が生き残るための出稼ぎと村を存続させるための生業。
 近代が切り裂いていった村を、つかのま維持させるさめに、原発は、たぶん、とても魅力的だった。

東北は、都市へ供給するための若い兵士も、若い労働力も電力も、そして自動車の部品も食糧も……あるだけものをすべて出し尽くしたと思う。
 このうえ、土壌も海も汚染されてしまったら、いったい、なにが残るというのだろう。


 東北の叫びここにあり、と言いたい。

自ら原子爆弾の痛みを背負いながら、その温床ともいえる『核』を日本中に設置し、それでも飽き足らず、世界中に売り歩いている日本。
 これは、世界を滅亡へ導く、とても深刻な病だと思う。」


 平成27年4月、作家の村上春樹氏は 「これから『原子力発電所』ではなく、『核発電所』と呼びませんか?」と呼びかけた。
 深刻な事態を表現する適切な言葉だと思う。

「この『復興』は、戦後日本が立ち向かってきた数々の復興の中で、もっとも過酷なものになるだろう。」

「この『復興』の空気の中で、被災地とは別の場所で、すでに激烈な利権をめぐる戦争がはじまっているいることも、伝えなくてはならない。」


 5年前に山内明美氏が指摘した状況は明らかになりつつある。
 平成27年3月、東日本大震災に伴う高速道路の復旧工事をめぐる談合事件が発覚した。
 大手がズラリ勢揃いである。
 今年の2月、米軍普天間飛行場の工事をめぐり、「防衛省が発注後の1年間に契約を4回変更し、工事費が当初の59億円から147億円と2・5倍に膨らんでいた」ことが発覚した。
 いかなる言いわけをしようとも、競争入札という制度が骨抜きにされていたことは隠しようのない事実である。
 日本では、どさくさまぎれにべらぼうなことが行われているのだ。

「個々が生きていくための、できるだけ短い時間での生活の立て直しを前提として、三陸で暮らすひとたちが将来にわたって、子や孫に残してゆける大切なものを失わないでいることに、これからははもっと注意深く、そして忍耐強くある必要があるかもしれない。」

あたらしい風景が、東北で暮らすひとたちにとって、『ほんたうに豊かなもの』になってほしい。
 けれども、その『豊か』という意味は、けっして経済成長を意味するようなものにはなりえないということを、確認しておきたい
と思う。」

「月並みな言い方だけれども、三陸の美しい自然、澄んだ空気、おいしいお魚、おコメ……どれをとっても、ここには一流のものがある。
 それだけは、世界中のどこにも負けない。
 東北には、そのままですでに、すばらしい『豊かさ』がある。
 そして東北の『復興』にとってもっとも必要なのは、先祖から(あるいは自然から)、当たり前のようにあたえられてきた『ほんたうの土』と『ほんたうの海』なのだと思う。

この空気と土と海だけは、未来への責任として、奪還しなくてはいけない。
 そして、東北の生き残りの戦略として、あるいは未来の東北を奪還する手だてがあるとすれば、それはたぶん『ほんたうの農業と漁業』のあり方を模索することだろうと思う。
 その道のりは、これまでとは比較にならないほど過酷だろうと思う。
 それでも、東北ならできると思う。
 ここは、地獄絵図のような生き死にの紡がれた歴史の中で、くり返し死の淵から再生をとげてきた場所だからだ。
 巨大な巨木が倒れたあと、無数の蘖(ヒコバエ)があらわれるように、『東北』は、きっと再生する。


 私たちは、東北が持つ「子や孫に残してゆける大切なもの」すなわち本当の豊かさを再確認したい。
 それは自分たちの手で守るしかないと思う。
 山内明美氏の烈々たる志を共有しつつ……。




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2016
02.22

お彼岸の深意(第一回) ─仏道修行は一つの輪─

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〈南三陸町の切り絵〉

 あと一ヶ月で春彼岸となります。
 お彼岸には「仏道精進」と「報恩感謝」の意義があり、二回にわたって考えましょう。

1 仏道精進 

 この行事は日本独自のもので、太陽をお天道様(テントウサマ)として尊ぶ天道信仰が基になっています。
 昭和の時代あたりまでは、朝に太陽へ手を合わせて一日の無事を祈る慣習があったように思われます。
 さて、春分と秋分には、昼夜の時間がひとしくなります。
 この特異性に神秘を感じ、人としての正しさを求める仏法が、心と世の中の魔界を離れる好機すなわち〈仏法相応の時節〉ととらえ、集中的な祈りを勧めることになりました。

 きっかけは、延暦25年(806)、非業の死を遂げた崇道天皇(スドウテンノウ…早良親王)のために日本中の国分寺へ指示が出され、「春秋二仲・月別七日、金剛般若経」を読誦させたことにあります。
 春秋二仲とは、春と秋それぞれの真ん中の月であり、陰暦の2月と8月すなわち現在の3月と9月です。
 月別七日とは、春分と秋分の日それぞれを挟んで合計一週間づつであり、これが現在のお彼岸の時期です。

 彼岸は迷いの川の向こう岸であり、此岸(シガン)はこちら側です。
 川を渡って向こう岸へ到達する「到彼岸(トウヒガン)」が元々の表現であり、「般若波羅蜜多心経」にもある「波羅蜜多(パーラミター)」を漢訳したものです。

 さて、皆共に大きな船に乗り、迷いの川を渡って行こうとするのが〈大きな乗り物に乗ろうとする〉大乗仏教です。
 この船には6本の櫂がついていて、それがうまくはたらかないと彼岸へ行けません。
 6つの櫂に例えられる修行が六波羅蜜(ロッパラミツ)です。
 これまで幾度もこの修行に言及していますが、今回は、輪のようになっているという見方から記します。

布施(フセ)…………見返りを求めず、水が万物を潤すように、相手のためにならずにはいられない心で、言葉やモノや労力など何かを差し出すこと。
 み仏のお力がいっそう人びとの救いとなるよう、あるいは困っている人が窮地を脱することができるよう、何かを手放すのは、自分の執着心を断ち切る修行でもある。
 他のためになる慈悲行は人の道のあるべき姿であり、持戒の心が磨かれる。

持戒(ジカイ)………いかなる状況も言いわけにせず、自分を清める塗香(ヅコウ)のように人としての道を守り、他を害しないこと。
 気まま勝手な自己中心的態度が克服され、あらゆる悪行が抑制される。
 戒めを守るには自分の煩悩(ボンノウ)に負けない忍耐力が必要であり、忍辱の心が磨かれる。

・忍辱(ニンニク)……いかなる状況にも心を乱さず、花が時至れば必ず咲くように、まっとうな道を歩むこと。
 耐え忍ぶ力は時間の経過と共に徳の力を蓄えさせ、怒りや我欲から判断を誤るようなことがなくなる。
 他からの悪意や害毒に耐えられるようになれば、決心した仏道をまっすぐに歩む精進の心が磨かれる。

精進(ショウジン)…いかなる妨害や障害にも負けず、火を点されたお線香が淡々と最後まで燃えるように、仏道を歩んで揺るがないこと。
 継続によって地力がつき、自ずから滲み出る徳の香りが周囲へもよき影響を及ぼし、必ず目的地へと進める。
 周囲のできごとに左右されなくなれば、自分自身を含め、あらゆるものごとを根本から考える禅定の心が磨かれる。
 
禅定(ゼンジョウ)…周囲からの情報や自分自身からおこる妄念・衝動によって波立つ心を鎮め、適度な食べもののように心身を調え、瞑想など肝腎なものごとへ心身を集中すること。
 心が落ちつけば、日常生活で動いている表面の心の下にある心へと進む冷静な観察が可能になり、霊性・仏性へと近づく。
 波立ちが止み、集中力が高まった心による瞑想によって、み仏のお智慧につながる智慧の心が磨かれる。

智慧(チエ)…………自己中心から離れた智慧が、灯明のように万人のためにはたらくみ仏の智慧となり、縁起と空(クウ)を悟ること。
 心眼がみ仏の眼となれば慈悲心がはたらき、智慧は必ず救済のための具体的な手立てすなわち方便(ホウベン)を導き出す。
 真の意味での方便は、自分が救われるだけでなく、必ず他のためにもなる方法であり、それは布施の実践に他ならない。

 こうして6つの修行道は、どれもが欠かせぬものとして円環を形づくっています。
 円環は動きとしてのマンダラであり、同時に、全体として統一のとれたマンダラでもあります。
 前者の視点からすれば金剛界マンダラ的であり、後者の視点からすれば胎蔵界マンダラ的です。

201602220001.jpg
〈左が躍動する智慧の金剛界、右が包括する慈悲の胎蔵界〉

 こうして、ご本尊様とご先祖様へお水やお線香を供えながら、六波羅蜜の修行を行いましょう。
 次回は、「報恩感謝」の面を考えます。




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2016
02.21

◎第七十三回寺子屋『法楽館』 ―映画「日本と原発 4年後」を鑑賞する会─

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 河合弘之弁護士は映画監督として、仕組みや歴史や福島の事故など、日本における原発のすべてを描きました。
 東日本大震災と福島原発事故から5年が経つ今、現実を直視し、日本のあり方を根底から再考しましょう。

○日時:3月12日(土)午後2時より4時30分まで
○場所:大師山法楽寺講堂(宮城県黒川郡大和町宮床字兎野1-11-1)イス席・駐車場完備
○送迎:地下鉄泉中央駅前「イズミティ21」前より午後1時30分出発
    (乗車を希望される方は必ず前日午後5時までに電話などでお申し込みください)

○日時:3月12日午後5時30分より8時まで
○場所:地下鉄旭ヶ丘駅前「日立システムズホール仙台」研修室3(仙台市青葉区旭ヶ丘3-27-5)

○参加費:大人1000円 中学生以下500円(両会場とも茶菓付き)




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2016
02.21

東日本大震災被災の記(第178回) ─書家高橋香温先生の個展「永遠のしずく」─

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 当山で書道教室を開かれている書家高橋香温先生の個展です。

・日時:3月11日~3月16日 9時~22時(最終日は18時まで)
・場所:日立システムズホール仙台 3階ギャラリー 
     仙台市青葉区旭ヶ丘3ー27ー5(地下鉄旭ヶ丘駅前)

 平成24年4月1日、「みんなのテレビ」は「いのり 願 想 みらいを描く」を放映しました。
 そこでは、津波によって家族5人すべてと一切を失った書家高橋香温先生がとりあげられています。

 四季をテーマにした作品展のため、書きためていた20点以上がすべて流され、たった一つ、泥をまといながら見つかったのが夏の「ひまわり」でした。
ひまわり」と大書された横には「コブクロ」の詩の一節が書かれています。
「夏の おわりに うつむく 向日葵
 たいよう のぼれと
 また 咲くときを 待っている」

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 先生は言います。

「筆も持てなかった自分へ、前の生活に戻るためのきっかけを与えてくれた」

「すべて流され、最後に言葉が残った」

 そして、仙台市、名取市、大和町で書道教室を始めました。

「書くことに集中できる時が救いだった」

「思いつきや勢いだけでなく、被災した体験を練って、もうちょっと違うものが書けるようになりたい」

被災した経験を世界の人が見て何かしら〝ああ〟って思えるような作品を書きたい」

 あれからもうすぐ4年、先生が示す「永遠のしずく」の世界は……。




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2016
02.20

運勢を変えるには? ─知ること、行うこと─

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 ある時、運勢の話をしたところ、ご質問があった。
 以下、やりとりの概要である。

Q:「是非善悪を見分けて行動すれば運勢を転換できるという教えですが、見分けるにはどうすればよいのでしょうか?」

A:「まず、自分の立場、自分の損得、自分の好き嫌いといったものから離れることです」

Q:「私はなかなか〈自分〉から離れられません」

A:「臨死体験における幽体離脱ではありませんが、客観的に自分の身体や心を眺めるというイメージは持てませんか?」

Q:「私はいつも、ここを何とかしよう、といった必死な気持でずっとやってきたので、そうした自分からなかなか離れられません」

A:「もちろん、量子力学の世界では、粒子の位置と運動量を同時につかめないとされているとおり、私たちは純粋に客観的な世界を知ることができるのかどうかという根本的な問題はあります。
 カントもまた、私たちは客観的なモノそのものを認識できず、モノの現れである現象を、自分なりの認識の仕方でとらえられるのみであると主張しました。
 だから、そういった完全性を求めるということではなく、自分の目を、客観視できる別な目に入れ替えようという話でもありません。
 どうしても自己中心的になり、自分なりの強い色眼鏡を使いたくなる日常生活的視点から離れようとする姿勢が大切です。
 客観的視点は、そうした努力の結果として、はたらきだすものなのです」

Q:「日常的な自分から離れる方法はいかなるものですか?」

A:「ここで説かれている是非善悪の見分けは、虚空蔵菩薩様のご守護で行われるものです。
 だから、虚空蔵菩薩様の真言を一心に唱える、あるいは経典を読む、あるいは九字を切る、あるいはお詣りするといった何かを実践することが大切です。
 こうした方法のうち、どれが自分にしっくりくるかは、やってみなければわかりません。
 問題意識を持ち、何とかしたいと願い、説かれた教えを信じて実践しない限り、あなたにとって確かな導きとなる方法はつかみようがありません」

Q:「私に見つかるでしょうか?」

A:「私は預言者ではなく、超能力者でもないので、軽々に他人様の未来について無責任な断言はできません。
 確かなのは、小生自身がこうした実践によって、おりおりに何かをつかみ、いくつもの山や川や壁を乗り越えてここまで生きてきたことです。
 また、何かを見つけて乗り越えた方々がおられることです。
 だから、み仏の子である私たちは誰でも見つける可能性を持っているという信念を持って、こうしたお話をしています」

 以上は、隠形流(オンギョウリュウ)居合の道場における一コマである。
 運勢を動かしたいならば、まず〈知ること〉である。
 そして自分なりに何かを行いたい。
 居合の行者のような実践も、あるいは敬虔な気持でご祈祷やご加持を受けることも、いずれもまごころからの行動であることに変わりはない。
 知って、行動すれば、必ず原因に結果が伴う。
 よき意識、よき願いをもってよき方向を目ざしたい。




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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA





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2016
02.19

東日本大震災被災の記(第177回) ─支え合う極楽を─

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 ときおり、東日本大震災の被災地で祈る。
 そして、しばしば、違和感を感じる。
 ──新世界の出現に。
 かつて托鉢で歩いた集落が津波で消え去り、まったく新しい景観が形づくられつつあるが、それは、もはや〈かつての町〉ではない。
 無論、再び同じ被害を受けないように万全を尽くすのは理の当然ながら、本当に住民の皆さんはこうした〈別の町〉の住民になりたいと望んでおられるかどうか、訝しく想われる。
 一つの地域に根差し、そこで日々を過ごしていた方々の暮らしとまったく異質の空気を持った空間は、再び同じように人びとへ安心と喜びと活気を持たせつつ定住させるかどうか、心配しないではいられない。
 堤防などの巨大な建造物は、自然と共生してきた人たちの文化を生かせるのだろうか?
 海から隔離された〈安全〉なはずの堤防の内側で、いかなる文化が営まれ得るのだろう?

 こんな疑問を持っていたところ、2月18日の朝日新聞は、大正大学准教授山内明美氏(南三陸町出身)のインタビュー記事「『三陸世界』と復興」を掲載した。
 氏は言う。

「いまの復興事業は、私には三陸沿岸を津波のおそれのない地域と同程度まで改造しようとしているように見えます。
 三陸が長年抱えてきた自然のリスクなんて、もう受け入れないぞ、と。
 近代の論理でいえば一見正しいのですが、それによって、三陸の人びとが生かされてきた風土は失われてしまいそうです」


 天にそびえる堤防は「風土」の破壊者かも知れない。

「震災後の三陸に通ううちに『三陸世界』とでも呼びたい、独自の生き方や価値観、風土の存在にあらためて気づきました。
 近代社会が追い求めてきた、自然に立ち向かう強靱(きょうじん)さや合理性とは全く違うものです。
 三陸の人たちは大津波や飢饉(ききん)など、過酷な自然と折り合いをつけながら生きてきたのです


 風土は、救済者であり、同時にいつでも破壊者になり得る自然との共生によってつくられてきた。

「ここには『鹿躍(ししおど)り』という、江戸時代から漁師が継承してきた、死者を供養する踊りがあります。
『シシ』とは四つ足の獣のこと。
 伊達藩の文書には、約400年前に村が全滅する大飢饉があり、その供養で鹿躍りが奉納されたという記録があります。」


 そして奉納を記した石碑にはこう書かれているという。

一切の有為(うい)の法躍り供養奉るなり


 有為法(ウイホウ)とは仏教用語で、現象世界のありとあらゆるものを指し、漏れるものはない。
 地域の人びとはその意味に忠実な用い方をしている。

「地元の人によると『この世にある一切を躍って供養する』という意味だそうです。
 一切とは、木も草も動物も人も土も海も、です


 津波をもたらす海をも供養するのは、平時には大いなる恵みをもたらすからである。
 飢饉をもたらす土をも供養するのは、平時には大いなる実りをもたらすからである。

「陸も海も大事にする。
 そういうメンタリティーからは、あれほどの巨大開発や、陸と海とを切り離すような復興計画は出てこなかったでしょう。
 守られるべきなのは人だけではない。
 自然を含めすべてを守り、その中で人も守られる、ということですから」


 自然を破壊し、自然を遠ざけ、人間だけが守られようとする思考は、「三陸世界」から遠く隔たっている。
 自然と共に生きる者は、自然を畏怖し、畏敬している。

「厳しい自然環境を前に、生きることとは、もろくてはかないものだ、と認識せざるをえない。」


 人びとは「もろくてはかない」人生の支えとして、同時に表現として、障子紙による切り紙の御幣を神棚へ祀る。

「もろくて、はかなくて、繊細で、すぐに汚れる。
 風になびいたり、さらさら音を出したり。
 そこに人々は神様の訪れを感じるのでしょう。 
 長く大事にして継承してきました」


 はかないいのちを生きる人びとのはかない願いをみそなわす神は、真っ白な紙が切られてできた空間としてのタイやカブやモチをご覧になり、哀れと思し召し、ご加護を垂れる。
 

「一方、近代社会は強くて、大きくて、分厚くて、強靱なもの、永久に続くものを求め、作ろうとします。
 現在の復興工事がまさにそれですね。
近代』が、三陸ならではのものが生まれる場所を埋めている。
 私にはそんな気がしてなりません」


 この指摘は看過できない。
 ブルドーザーのキャタピラーが低地を埋め立てるだけでなく、文化の根をも埋めつつあるという感覚は恐ろしい。
 それは小生ならずとも、少なからざる人びとが共有する実感ではなかろうか?
 しかし、私たちは「近代」という空気を吸わずには生きられない。

「三陸の人たちに対して、なぜこんなへんぴで危ない場所に住んでいるんだ、安全なところに移ればいいのに、といわれることがあります。
 でも、三陸の強みは、海があって山があること。
 リアス式海岸は、大津波が来たら被害はめちゃくちゃ大きい。
 でも、普段はものすごく魚が寄ってくる場所なんです。
 とても豊かな場所なんです。
 だからずっと人が住み続けている。
 何回津波が来ても」

 「津波をはじめ圧倒的な自然への畏敬(いけい)なしに、三陸での暮らしは成立しません。
 ここの住人は自然に打ち勝つなどということは考えもしません。
 それがいま、まちの論理で、近代知だけで、復興を進めてしまっている


 とは言え、防備無しの生活はあり得ないのではないか?
 防備には「近代」の知と力を有効利用するべきではないのか?

 「まちの人にとってはそれが正しい。
 その通りです。
 でも漁師の論理は違います。
 三陸に住む限り、いつか津波に遭うことは避けられない。
 漁師はそれをよく知っている。
 津波と一緒に生きるというふうに思っている。
 だから、『一切を供養奉る』なのです。
 津波さえ供養する


 「漁は危険を伴う生業です。
 そのかわり海からものすごくいろんなものをもらってきた。
 三陸の人にとっては、そこに海との『経済』があるんです


 「一方的に人間だけが守られて安全だというような状況は、海との関係性でいったら、人間だけ得していることになってしまう。少なくとも海と陸を分断する考え方は、三陸の発想から生まれたものではないです

 「三陸から沖に出て流されたら、あるのは圧倒的な大海原です。
 対岸なんてない。
 太平洋へ向き合うときの心情とは、無限の絶望感ではないか、と思います。
 かなわないという気持ち。
 それが『三陸世界』です。
 もともと『負け』から始まっている。

 それでも三陸で暮らそうと思うなら、ここで豊かさを求めるなら、津波と折り合いをつけて暮らすしか道はないと思います」

「ここの人たちはそうやって困難を乗り越えてきたのです」


 幾度となく、ほとんど全滅させられながらも、「ここの人たち」は、その経験を生かした乗り越え方を編みだし、いのちをつないできた。
 巨大な津波を起こし得る海であればこそ、恵比寿様の笑い顔のような豊かさをもたらす。
 人間にとって破壊と恵みの両面がある海を、人間の都合で一面的に利用しようという発想は、現に共生している「ここの人たち」とは無縁のものである。

「そこへ、海や山の形を変えてしまうような大開発が入ってきました。
 これで本当に住民を守れるのか。
 逆に将来のリスクを大きくしてしまうのでは」

巨大な防潮堤にしても高台のアパート群にしても、作っただけでは終わりません。
 将来の維持補修費だけでも相当の金額になるはずです。

 既に財政再建を余儀なくされている地方自治体の多くは、公共事業を連打した後に立ちゆかなくなります。
 前例はいくらでもあります。
 少子高齢化が進むなかで、次の世代、さらに次の世代に負担を与えてしまうことは確かだと思うのですが」


 しかし、膨大な工事はもはや、止められないところまで来ている。
 どうやって「ここの人たち」が紡いで来た「三陸世界」をつないで行くか?

人口が減っていくのだから、今からでも小さくできるものは小さくする、なるべく作らない、なるべく手を引く。
 役場の職員は何もしないのかという批判に耐え、小さくしていく」

「私自身は1次産業にこだわっています。
 農林水産業でこの町の人たちが食べていくにはどうするか、考え、活動しています。
 それが『三陸世界』の生きる道だと思うからです


 時代の流れと震災の影響で減りつつある人口を「近代」の力によって増やし、経済的に発展させようとするのではなく、山と海のはざまに集落をつくってきた「三陸世界」の人びとは、山での農林業と海での水産業をもって生きて行く道をこそ、模索すべきであると言う。

ここでは住民の7割が被災したのに、餓死者も野宿者も放置児童も出ませんでした。
 地域の支え合いが生きていたからです。

 一軒一軒の所得は高くなくても、海や山のもの、家の庭でとれたものなどをゆずりあって暮らしてきました。
 食うに困らない地域でした。
 海も山もあるのに、食うことにさえ困る地域になっては大変です」


 ここで言う「支え合い」の持つ意味は深い。
 流行の言葉である「福祉」や叫ばれる「絆」とは違う。
 自然がもたらす喜びも苦しみも分かち合ってきた風土に生きる人びとが自然に身につけた共通の〈ふるまい方〉である。
 子供から大人まで、〈おかげさま〉のおかげで〈お互いさま〉と生きられるなら、それこそが極楽浄土ではないか。
 儚いいのち、決して自然に勝てないいのちを〈共に生きる〉人間であればこそ、極楽浄土の住人になれる。
 そこに、膨大な経費で作られる〈近代〉の防護壁と鎧にすがり、〈個々に生きる〉現代人の不安はない。

「高台移転で立派な団地ができたはいいが、なじんだ共同体は壊れ、生活のありようががらりと変わってしまうのでは――。
 心配なのはこれからです」

「都市社会が脆弱(ぜいじゃく)なのは、いざというときの食料確保が困難なことも一因です。
 比べて『三陸世界』には、近代を包み込んでも余りある知恵があります。
 それを損なわないで復興できれば、ひょっとして、新しい社会の構想や姿が見えるかもしれません」


 今はエネルギーをめぐっての争いがもっぱらだが、すでに、食物をめぐる争いが展開されつつある。
 自然の一部である人間は、親であり庭である自然界から食べものをいただかなければ生きられない。
 人間は、一粒の米ですら、無から作り出すことはできない。
 東日本大震災と福島原発の事故を体験してなお、自然を敵視し、常勝者たらんとする人間の仕業は、御幣に宿る神々の目にどう映っていることだろうか。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA





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2016
02.18

東日本大震災被災の記(第176回) ―般若心経で霊性の復活を─

20160217001012.jpg

 東日本大震災からもうすぐ5年になりますが、復旧・復興はまだまだこれからという状態です。
 たくさんの方々が、あの日に〈続く〉生活を余儀なくされ、次のステップへ踏み出せずにおられます。
 原発事故にいたっては、いまだに事故の全容解明がメドもたたず、具体的かつ現実的な避難計画もないままに、次々と原発の再稼働が行われています。
 当山は今年も般若心経108巻の供養会を行い、全国で1万人の方々によるご唱和を持って108万巻の大供養会となるよう願っています。
 古来、ご先祖様が行ってこられた方法で、供養のまことを尽くそうではありませんか。

 なぜ100万巻を目ざすのか?
 それは、100万が千の千倍だからです。
 千は仏教では〈無限〉を意味します。
 その千倍ですから、意味としては〈ありったけ〉〈せいいっぱい〉ということになりましょうか。

 では、なぜ、当山が〈ありったけ〉〈せいいっぱい〉の読誦を提唱するのか?
 そのような、あるいはそうした思いの供養をせねば、この世の私たちも、あの世の御霊も、あまりに巨大なクレバスを真の意味で乗り越えられないのではないかと危惧するからです。
 今の日本は、 『霊性の震災学』をまとめた金菱清教授の指摘どおり「津波や原発によって文化の虚構性が暴かれた社会」のままではないでしょうか。

 震災前、私たちは、日常生活から〈死〉が追い出された、あるいは無いものにされた社会で、文明の根底にあり続けた「弔い」までもほとんど〈無くてよいもの〉として簡略化し、死者は手続きや形式だけで社会から消えて行きました。
 そこで起こっていた霊性のまどろみに喝を与えたのが情け容赦ない日常の崩壊でした。
 あの時は、広島型原爆に換算して3万発以上ものエネルギーが発生して起こされた地震と津波に襲われました。
 膨大な死が生じ、生き残った私たちは、無我夢中で必死に弔いのまことを尽くしました。
 誰もが、できる限りのことをしないではいられませんでした。
 震災前まで流行っていた〈あれも要らない〉〈これも要らない〉といった風潮は嘘のように消えました。
 そして、多くの人びとがが「自分にできることは何か?」と問い、真の智慧がはたらき、真の布施が行われました。
 皮膚が剥がされたような切実な感覚で死の真実がとらえられ、自己中心という魔ものは力を失っていました。

 さて、今はどうか?
 早くも、あまりに早くも震災前に戻りつつあると驚きの目を瞠っているのは小生だけでしょうか?
 家やインフラなどのモノの世界は遅々として戻らない一方、死をないことにし、弔いを限りなく〈手続き〉に近づける雰囲気は、恐ろしいほど速やかに復活しました。
 よみがえった霊性は、忙しい日常生活の中で、またもや、はたらきを失いつつあるように見受けられます。
 ちなみに、金菱清氏は、霊性をこう定義しています。
「身体性を伴う言語以前の、コミュニケーションの場」
「生者と死者が呼び合い、交換(※交感か?)し、現世と他界が共存する両義性の世界」

 この供養会では、霊性の次元に立ち、供養のまことを尽くすことによって御霊の安寧を目ざすと共に、私たち自身が、生活から死と死者を追い出したつもりでいる「文化の虚構性」を克服する一歩にしたいと願っています。
 当日は例祭に当たり、護摩法も行いますので、お盆の迎え火のように、御霊の降臨を感じられるかも知れません。
 途中参加や、途中退席もかまいませんので、どうぞ、どこかで一巻だけでもお唱えいただきたく存じます。

 なお、お塔婆を立てて供養されたい方は、電話やメールなどでお申し込みください。
 経典百万巻を供える納経供養会も同時開催いたします。
 般若心経、観音経、理趣経百字偈など、供養の心を込めて書いたお経をお送りください。
 般若心経百万返の読経と合わせて御霊をご供養しましょう。
 もしも、写経用紙が必要な方はどうぞ、お申し出ください。
 百文字で綴られた『理趣経(リシュキョウ)百字偈(ゲ)』という大乗仏教の根幹である〈菩薩(ボサツ)として生きる道〉を説いた経文の下書きをお送りいたします。
(お塔婆も納経も、ご志納金は皆様の判断で結構です)
 参加された方には般若心経法を結んだ御守をお授けします。

・日 時:3月6日(日)午前10時より
・場 所:当山講堂
・参加費:無料
・駐車場:50台可
・送 迎:9時30分地下鉄泉中央駅そば「イズミティ21」前より(前日午後5時までにお申し込みください)



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
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「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。

https://www.youtube.com/watch?v=qp8h46u4Ja8





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2016
02.17

人間の病いと世界の病い

 患者一人一人が抱える心のいと徹底的に向き合った故河合隼雄の言葉である。

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「ぼくの場合は、一人の人間のことに必死になっていたら、世界のことを考えざるをえなくなってくるんですね。
 結局、深くんでいる人は世界のんでいるんですね。」


 一人の人間のありようは世界の具体的な表現だ。
 一人の人間のありように世界が表れていないはずはない。

「進行性不治難病と告げられて何処に在りてもわれは〈時計〉か」(山口健二


 進行性をもった不治の気に罹った山口健二氏は、自分が死への時を刻み続ける一個の時計であると観じた。
 しかし、気づいて詠んだのは一人であっても、たった一人だけが〈時計〉なのではない。
 万人が〈時計〉なのだ。
 追いつめられた一人の心理に万人のありようが顕れている。

 また、病気になり伏せっている維摩居士(ユイマコジ)を見舞い、あなたほどの神通力を持った方がなぜ病魔に勝てないのかと問う文殊菩薩へ、居士は答えた。

「一切衆生(シュジョウ)病むが故に我れ病む」


 万人に病気があり苦しんでいるのだから、自分もまた同じ苦しみを苦しむのは当然であるという。
 悟りを開きながらも絶対安心の世界である涅槃(ネハン)へ入ってしまわず、人びとの苦楽を自分の苦楽と感じながら具体的な救済に励む菩薩(ボサツ)の道を示す決定的な言葉である。
 身代わり地蔵は、衆生の苦しみを我が苦しみと深く感じるがゆえに、身代わりになられずにはいられない。
 たった一人をも見捨てない。
 苦しむ一人に、万人の苦しみが表れており、菩薩は万人の苦へ立ち向かう。
 弥勒菩薩(ミロクボサツ)が現れて最後の一人をも救い尽くす日まで。。

 苦しむ〈一人の人間〉が心の目に入らない人は、世界の苦しみがわからない。
 自分が苦しい時は、万人の苦しみがわかる時だ。
 苦しむ人が目に入る。
 さあ、見えてくる人、見えてくる世界へ、自分はどうするか?
 何ができるか?
 何をしないではいられないか?




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2016
02.16

これまでの自分から脱皮する道 ―『チベットの生と死の書』を読む(10)―

2016021600022.jpg

 ソギャル・リンポチェ師の著書『チベット生と死の書』は、生と死を考える人びとへ重要な示唆を与える一冊である。
 伝統仏教の最先端を示し、かつ、最奧をもかいま見せる高貴な魂の結晶である。
 師は「仏法をより近づきやすいものに、現代的、実践的なものにするために著した」とされているが、700ページ近い力作で、なかなか読み通せないかも知れない。
 以下、全体の概要というよりは、いくつかのポイントを挙げておきたい。

 私たちは向上したいと思う。
 こんな自分のままではだめだ、変わりたいと願う。
 しかし、習慣という鎖はなかなか切れない。
 詩がある。

「万物の本質は束の間の幻
 二元論的認知をする者は苦を楽ととらえる
 カミソリの刃から蜂蜜をなめる者のように
 有形の現実に執着する者のいかに哀れなことか
 内に思いを向けるのだ、わが心の友よ」(ニョシェル・リンポチェ)


 私たちは、あらゆるものが変化してやまず、いかなる執着心も時の流れに抗えないことを知っている。
 それでもなお、何かを〈確たるもの〉と思いたい。
 自分の財産、自分の名誉、自分の身体、自分の好きな人、自分の楽しみ、自分の怠惰……。

 師は言う。

「わたしたちは自由を理想としてかかげる。
 にもかかわらず、こと習慣となると、わたしたちはまったくの奴隷なのだ。
 それでもなお、内省はゆるやかに智慧をもたらす。
 固定し習慣化した行動様式に自分が何度も落ち込むのを自覚できるようになるのである。
 何度も何度も、わたしたちはその行動様式に舞いもどる。
 だが、少しづつそこから出てきて、変わってゆくことができるのである。」


 詩である。

「1 わたしは通りを歩いている
 歩道に深い穴がある
 わたしは落ちる
 途方にくれる……絶望する
 これはわたしのせいじゃない
 穴から出るのに長い長い時間がかかる

2 わたしは同じ通りを歩いている
 歩道に深い穴がある
 わたしは見て見ぬふりをする
 また落ちる
 同じところに落ち込むなんて信じられない
 でも、これはわたしのせいじゃない
 やっぱり、穴から出るのに長い時間がかかる

3 わたしは同じ通りを歩いている
 歩道に深い穴がある
 わたしはそれを見る
 やっぱり落ちる……習慣なんだ
 わたしは目を見開いている
 自分がどこにいるのかわかっている
 これはわたしが悪いのだ
 わたしはすぐに穴から出る

4 わたしは同じ通りを歩いている
 歩道に深い穴がある
 わたしはそれを避けて通る

5 わたしは別の通りを歩いている」(ポーシャ・ネルソン)


 ポイントは、「3」の「わたしは目を見開いている」である。
 ようやく心の目が開く。
 覚醒である。
 お釈迦様は弟子たちへ、端的に「起きよ!」と説かれた。
 私たちはいかに「目を見開いて」いないことか。

 歌人穂村弘氏は書く。

「普通に考えても、未来は恐ろしいに決まっている。
 そのどこかに必ず〈私〉の死が埋まっているのだから。
 しかし、夢や可能性もまたそこにある。
 詩の根源にあるものはこの両義性だろう。」(『ぼくの短歌ノート』より)』


 本当に自分が変わりたい、つまり、真の意味で未来にかかわりたいのなら、自分の死は排除できない。
 師は説く。

「死を内省するのは、心の奥深くに真の変容をもたらすためである。
 さらには『歩道の穴を避ける』すべを、『別の通りを歩く』すべを学ぶためである。
 それには、しばし日常から身を引いて、深い瞑想に沈む時間が必要になる。
 なぜなら、そうすることによってしか、人は自分が人生でしていることに真に目を開くことができないからである。」


 私たちはいつでも、自分を〈死に行く者〉と思うことができる。
 それは、何かに成功した時でも、何かを得た時でも、あるいは失敗した時でも、失った時でもかまわない。
 瞑目し、あるいは空を眺め、〈我が死〉を想う。
 それが死への速度を早めるのではないかと怖れる必要はまったくない。
 むしろ、観ることによって、怖れは薄れる。
 知ってしまえば、〈それだけのこと〉だからだ。
 師は説く。

「死を観想することによって、あなたのなかに解脱への意思が、〈出離〉と呼ばれるものの感覚が、深まってゆく。」

 
 出離とは生まれ変わりであり、これまでの自分からの脱皮である。

「この〈出離〉はそのなかに悲しみと喜びをふたつながらに含んでやって来る。
 悲しみは、それまでの自分の生き方がいかに虚しいものであったかに気づくからであり、喜びは、それまでの生き方を手放せるようになったとき、大いなる展望が開けてくるからである。」


 そして、自分は習慣の奴隷でないという重要なインスピレーションをもたらす。
 自分は確かに向上できる、変われるのである。

 生前戒名を受けることもまた、出家に似た重要なきっっかけとなる。
 み仏から新たな名前を授かることにより、僧侶が白衣をまとうような心の生まれ変わりが実践できる。
 それは、この世の幸せとあの世の安心を得るきっかけの一つである。

 死に臨んだことのある人びとは自問自答する。
「これまで、自分は何をやってきたんだろう?
 これでよかったのか?」
 そして、自分の仮そめのありようと、本質的なありように気づく。
 否応なく〈その時〉がやってきてからでなく、早めに気づきたいものである。
 それが、習慣に流される自分から脱皮し、自他の苦を抜く重要な方法であることは間違いない。




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2016
02.15

東日本大震災被災の記(第175回) ―掘り起こされたご遺体─

2016021500012.jpg

 東日本大震災においては、いったん土葬し、掘り起こしてから荼毘に付するというまったく想定外の状況が発生した。
 「呼び覚まされる 霊性の震災学」第六章「ご遺体の掘り起こし」を読んでみよう。

「仮埋葬=土葬を行った要因は大きく分けて二つある。
 一つは、あまりにも遺体数が多く、あふれてしまったことがある。」

「短期間に大量のご遺体が発生するだけでなく、津波で流されたご遺体の身元確認に多くの時間が費やされ、その結果、ご遺体があふれる事態を招いてしまった。」

「二つ目の要因は、火葬場の対応能力に限界が生じ、ご遺体の搬送ができなかったことにある。」

「わずかに稼働する県内の火葬場に大量のご遺体が集中し、対応能力の限界を超えてしまった。」

「道路の寸断やガソリン不足のために早急に遺体の搬送を行うことができなかった。」


 当山は、天井板が外れ、埃の舞う仙台市の葬祭会館で掃除を手伝いながらご葬儀を行った。
 ガソリンがないため、農協さんの車で初めて送迎をしてもらいながら自宅葬も行った。
 友人や知人の車でお骨を預かりに来る方々もおられた。
 関係者の誰もが、何もかもが〈間に合わない〉中で最善、全力を尽くしていた。

 石巻市では、半月ほどしてご遺体の掘り起こしが始まった。

「石巻市で2週間後にご遺体の掘り起こしが始まった理由は、遺族の気持ちを汲み取ったことにある。
 遺族は身内をいつまでも冷たい土中に閉じ込めておくことに耐えられなかった。」


 石巻市役所の担当者は率直に語っている。

「遺族の心情が第一とすべての職員が感じたからです。
 ご遺体の搬送手段や火葬施設の手配ができた場合、[遺族が]自ら改葬し始め[たため]、それを知った担当者全員が一日も早く、できれば新盆には遺骨にして、すべてのご遺族にお返ししたい、そうしないとご遺族の心の復興ができないということを感じたと思います。」


 しかし、火葬の国日本では、こうした仮埋葬や掘り起こしなどの技術を持った葬儀社はない。
 それでも総合葬祭業者(株)清月記は「絶対にNOと言わない」という経営理念のもと、石巻市役所の条件に応じた仕事をやり遂げた。
 現場はすさまじい状況だった。

「仮埋葬から短期間で掘り起こされたご遺体の状態は、想像をはるかに超えていた。
 対面するご遺体は、通常のご遺体とは大きくかけ離れていた。
 なかには体液と地下水が混じった、液体とも何とも区別がつかない物質が棺から染み出しているものもあった。」


 気温が上がり、梅雨に打たれながらの苦闘については、誰も全体を書ききることはできないだろう。
 現場の西村恒吉氏は言う。

「一つのご遺体を棺に納めてお弔いするわれわれの仕事を見て、作業という人はいない。
 多数のご遺体を、合同で、集団でということが異常事態なんです。」


 現場の藤島翔太氏も言う。

「通常の精神ではできなかったと思う。」


 彼らは未体験の異常事態に対し、誠意と創意工夫で役割をまっとうしたのである。
 常態を超えた現場と事実を記した章はこう締めくくられる。 

「災害時の大量のご体の処理において、一連の作業にみえる葬祭業者の行為には、遺族の感情を大切にする弔いの意味があり、ご遺体に敬意を抱き、ご遺体の尊厳を守ろうとしたのである。
 遺族がご遺体と最期の時間をどのように過ごすかで、遺族が悲しみに向き合う悲嘆のプロセスが変わってくるのではないだろうか。」


 ご遺体はモノだが、単なるモノではない。
 なぜ、「敬意」を抱かれ、「尊厳」が守られるのか?
 それは私たちが、そこに〈宿るもの〉を信じているからである。
 本書ではこの冒すべからざるものを「心」「霊性」と表現している。
 つまり、誰もが、意識せぬ間に無垢の宗教心を目覚めさせ、すなおにそれに従ったがゆえに、苦を厭わず、損得を離れ、最善を尽くせたのである。
 
 小生は、ご遺体を前にして枕経を唱える時も、お骨を前にして引導を渡す時も、お位牌を安置してご供養を行う時も、まず相手の霊性を感得すべく、魂のすべてをかける。
 中には「まだ逝きたくない」という若い女性の悶えがのしかかり、必死で耐えたこともある。
 あるいは、ご家族によれば無宗教だったはずのお祖父さんが壇上に正座しておられ、切腹する武士にも似た覚悟のほどに深い畏敬の念を抱いたこともある。

 私たちは大震災後、日常生活の崩壊によって、恥知らずの自己中心や勝手なこだわりといった煩悩から切り離され、敬虔な気持になったがゆえに、苦しみつつも清浄な次元で時を過ごした。
 何よりも「心」を、「霊性」を、大切にしたのである。
 あの時の思いこそが、私たちの文明が抱えている病を克服させる力ではなかろうか?

 エピローグである。

「日本では近代化に伴って、死をあらゆる場面で遠ざけタブー視してきた。
 しかし、死者を彼岸の世界へと追いやる文化的対処法が、震災時においては有効に機能せず、災害死は死をタブー視する社会はきわめて脆弱であることを露呈する引き金となった。
 それでも災害地の人びとは災害死という痛切な現実に直面して、文化的対処法ではない独自のコントロール法を創意工夫のなかで見出していた。
 この痕跡を本書から読み取っていただけるだろう。」


 確かに読み取った。
 ──湯川秀樹博士による原子核の解明という偉業が核爆弾・核発電へとつながった〈モノの創意工夫〉とは異なる〈まごころの次元における創意工夫〉を。
 ここに立って進むことこそが御霊への真の供養となるのではなかろうか。
 当山は今年も、3月6日(日)に東日本大震災で犠牲になられた方々へ捧げる般若心経108巻の供養会を行う。
 覚悟を新たにしたい。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
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「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2016
02.14

東日本大震災被災の記(第174回) ―幽霊現象に向き合う─

201602140001.jpg

 1月20日、『霊性の震災学』が発売された。
 大学のゼミが記録と調査により幽霊現象へ肉薄した。

1 霊性に気づかされた被害日本大震災

「災害において身を削られるような思いで別れの時を過ごした人たち、行方不明のまま宙吊りにされた人たちの体験がただの数値に還元され、過ぎ去った歴史の一コマとして『復興』や『絆』の歯切れのよい掛け声の陰で葬られようとしている。」

「タブー視される『死』に対して、震災の当事者たちはどのように向き合わなければならなかったのかを、綿密なフィールドワークを通して明らかにする。
 この試みを、意識の古層にあった死が呼び覚まされる〝霊性〟の震災学と名づけることにしよう。
 未曾有の災害において艱難辛苦を嘗め尽くした経験の末に、彼ら彼女らが到達したのが〝霊性〟であった。

「人間の秘められた高次の感情である〝霊性〟を、知識や概念としてではなく感覚的に〝わかる〟境地に、震災の当事者たちは到達している。」

「狭量な因果関係による科学的説明では捉えきれない、もっと深い宗教性にまで降り立った死生観が、災害地の現場では求められている。

「津波や原発によって文化の虚構性が暴かれた社会において、一足飛びに天に向かう動きに飛躍するのではなく、眼の高さを起点とする天と地の間の往復運動によって、身体性を伴う言語以外の、コミュニケーションの場を設定しうる可能性が示される。
 生者と死者が呼び合い、交換し、現世と他界が共存する両義性の世界が、すなわち〝霊性〟である。


 こうした問題意識をもって霊性の体験者たちと対話し、「被災者の耐えがたい『災害期』を短縮する防災・減災策に新たな死生観をもたらし、災害社会学に意義深い射程を与え」ようとしている。
 白眉は第一章「死者たちが通う街」であろう。
 ここでは、タクシードライバーの方々が体験した「幽霊現象」を集めている。

 怪奇現象の特に多いのが宮城県石巻市であり、そこでは、「明らかに『リアリティ』を伴う幽霊現象」が多数、聞き取り調査されている。
 ドライバーの方々は、普通のお客様と同様に幽霊との対話や接触を行っていたのだ。

 たとえば、男性タクシードライバー(56才)の体験談である。

 震災後の夏、彼は「ふっかふかのコートを着た女の人」を乗せた。
 行く先を訊ねると「南浜まで」と言う。
 不審に思いもう一度、声をかけた。
「あそこはもうほとんど更地ですけどかまいませんか?
 どうして南浜まで?
 コートは暑くないですか?」
 震える声が返ってきた。
「私は死んだのですか?」
 驚いて振り向くと、誰もいなかった。
 最初は怖くてしばらく動けなかったが、今はもう何ともない。

「今となっちゃ別に不思議なことじゃないな~。
 東日本大震災でたくさんの人が亡くなったじゃない?
 この世に未練がある人だっていて当然だもの。
 あれ[乗客]はきっと、そう[幽霊]だったんだろうな~。
 今はもう恐怖なんてものはないね。
 また同じように季節外れの冬服を着た人がタクシーを待っていることがあっても乗せるし、普通のお客さんと同じ扱いをするよ。」


 震災で娘さんを亡くしている彼は微笑みつつ語った。

 同じく男性タクシードライバー(49才)の体験談である。

 震災から2年後の8月、深夜に「小さな小学生くらいの女の子が季節外れのコート、マフラー、ブーツなどを着て」手を挙げていた。
 彼は車を停めて訊いた。
「お嬢さん、お母さんとお父さんは?」
 一人ぼっちだと聞いて迷子だろうと思い、女の子が住所を告げた家まで送った。
 女の子が降りる時、手を取ってやったら「おじちゃんありがとう」と言い、そのまま姿が消えた。
 彼は「恐怖というか驚きと不思議でいっぱい」だったが、今はこう思う。

「噂では、他のタクシードライバーでもそっくりの体験をした人がいるみたいでね、その不思議はもうなんてことなくて、今ではお母さんとお父さんに会いに来たんだろうな~って思っている。
 私だけの秘密だよ。」


 彼は「どこか悲しげで、でもそれでいて、確かに嬉しそう」に語った。

 聞き取り調査したタクシードライバーの方々は、できごとを真剣にとらえ、メモや書類を残している。
 幽霊現象は事実上、「無賃乗車」扱いになっているのだ。
 不思議なことに「幽霊」のすべてが若年者で、お年寄りを〈乗せた〉という報告はない。

』というのは宿している肉体がなくなっても残り続けるものであると、調査を通じて改めて考えさせられた。
 離れ離れになって会えなくなってしまった両親に会いたい。
 愛しい彼女に会いたい。
 忘れられない故郷に帰りたい。
 そんな『無念』の思いを、条件が重なって、タクシードライバーたちの『畏敬の』が受け取った。
 受け取った彼らは各々の感情の推移を通して、怪奇現象を理解してきたのである。
 したがって、彼らに『わからないから怖い』として発生する恐怖はなく、今ではむしろ受容している。
 この相互作用は、霊の無念さと、タクシードライバーの畏敬の念によって起こったのである。

「人は『わからない』のが怖い。
 しかし、霊魂の本質を明らかにできるかどうかは、『わからない』から怖れるのではなく、各々が受け入れ、理解できるかどうかにかかっていることに気づかされる。


2 今の日本

 フランスの歴史学者エマニュエル・トッド氏は指摘した。

「今後30年で地球に何が起きるか予測したければ、近代を切り開いてきた欧米や日本について考えなければ。
 本物の危機はそこにあります。」


 そして、宗教的信仰、イデオロギー、未来への夢など、自分たちの存在に意味を与えるものが消え去り、経済的合理性という最後の「信仰」に取り憑かれているが、残念ながら、それは「手段の合理性をもたらしても、何がよい生き方かを定義しない」と言う。
 欧米の人々も日本の人々も、生きる意義を見失い、ただただ〈儲けて生きる〉しかない世界にいるのではないか。
 生きる〈手段〉に夢中で〈目的〉がない状態は危うい。
 誰かがそこへポンと〈目的〉を投げ込めば、飢えているは、エサに群がる魚のように、たやすく群がり、取り込むかも知れない。
 それが、高慢や、憎悪や、敵対心をかき立て、やがては争いや戦争へ誘うものであっても。

3 未曾有の災厄に学ぶこと

 今回の出版は、非宗教者による霊性の確認という重大な役割を果たした。
 自分という存在の根本に「心」や「霊性」があることを教えてくれた。
 たくさんのタクシードライバーの皆さんが体験談をもって示したとおり、その次元では死者と交感できる。
 ならば、生者とも無論、その次元での交感が可能ではないか?
 お互いに「心」や「霊性」を尊び合えば、株価など儚い数字の世界に一喜一憂させられることのない安心な世界に住めるのではないか?
 それこそが、エマニュエル・トッド氏の言う「本物の危機」を乗り越える道ではないか?
 心で通じ合い、霊性で通じ合う真の宗教心を取り戻し、心の空洞を確かなもので満たす道ではないか?

 もうすぐ震災から5年となる今、金菱清教授が率いる「東北学院大学 震災の記録プロジェクト」の皆さんによって貴重で重要な一歩が踏み出された。
 一人でも多くの方々にこの労作を読んでいただきたいと願ってやまない。




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2016
02.13

第七十二回寺子屋『法楽館』―厄年と厄除けのすべて―

 そもそも「厄」とは何か?厄年はどう決まるのか?本厄八方塞がりは誰が厄除けをしてくださるのか?厄に負けない自分なりの努力法はないのか?
 こうしたことについて、各年令ごとに九種類の運勢を詳しくお話しします。ただ漫然と恐れず、無視して転ばぬよう、学び、敬虔な気持で行動したいものです。
 どうぞ、ふるってご参加ください。
・日時:2月13日午後2時より
・場所:法楽寺講堂
・講師:住職遠藤龍地
・参加費:千円(茶菓付き)
2016
02.13

建国記念日の世界 ─北朝鮮・アメリカ・そして日本の姿─

201602130001.jpg

 2月11日は日本の建国記念日だった。
 その日のできごとを眺めておきたい。

1 北朝鮮の高揚

 2月11日、北朝鮮は、国営の朝鮮中央テレビを通じ、2月7日に事実上の長距離弾道ミサイルを発射した際の映像を公開した。

「白頭山大国の最後の勝利の軌道に進入するということを知らせる荘厳な宣言です。」


 轟音と共にミサイルが発射される映像には、私たちにおなじみとなった中年女性による、激しい抑揚と語尾の小さな震えを交えたナレーションが被せられた。

「衛星とともにわが国の尊厳が宇宙へと荘厳に打ち上がった。」


 彼女の精いっぱいが伝わってくるだけに、その役割はあまりにも哀れでならない。
 飢えた国民へ食糧を与えるのではなく、虚勢を張るために膨大な国家予算が消費される恐ろしさ、その真実からかけ離れた仮面……。

 偉大なる祖国を誇り、金正恩第一書記へ忠誠を誓う感動が全編に溢れ、起立して拍手する幹部たちの中には涙を拭う者もいる。
 成功を祝うのか、それとも失敗して処刑されずに済んだ安堵感を隠しきれなかったのかは、わからない。
 今から千数百年前の日本では、遣唐使船の出発に際して盛んに壮行会が催された。
 天皇をはじめとする高位高官からの励ましに涙する人々もいたが、そのほとんどは、日本国を背負って唐へ向かう武者震いの果てに流されたのではなく、沈没する確率が半分に及ぶ船に乗り込むことを嘆くものだった。
 宴席は、水杯で今生の別れをする湿った雰囲気だったという。

2 トランプ氏の絶叫

 同じく2月11日、米大統領選挙の予備選挙、ニューハンプシャー州の結果が報じられた。
 共和党ではトランプ氏が2位候補者の2倍を超える投票率で圧勝した。
 そして、熱狂的な支持者たちに迎えられ、絶叫調の勝利宣言を行った。

「米国を再び偉大な国にして行こう。」

「中国や日本、メキシコを貿易で打ち負かす。
 彼らは毎日のように我々から大金をむしり取っている。」

「世界最高の経営陣を集め、すばらしく強いことをやる。」

「(米国は)最近、勝てていない。
 貿易でも軍隊でも勝てない。
 過激派組織イスラム国(IS)すら倒せない。」

「米国をもう一度強くします。
 これまでになかったほど偉大な国になるのです。」


 むき出しの大国エゴには顔を背けたくなる。
 これまで〈勝ちに勝ってきた〉商売人が、臆面もなくさらに世界中から儲け、あげくの果ては、軍事力で世界を屈服させたいと言う。
 かつてはベトナムで勝てず、今はISに勝てないアメリカ自身が抱えている根本的な問題点を振り返らず、外の〈敵〉を力でやっつけようと扇動する人物が、産軍複合体を核とする超軍事大国を指揮したならば、世界はどうなることか。

3 フランスの良心

 同じく2月11日、フランスの歴史学者エマニュエル・トッド氏は、朝日新聞のインタビューに答えている。

「今後30年で地球に何が起きるか予測したければ、近代を切り開いてきた欧米や日本について考えなければ。
 本物の危機はそこにこそあります。
 歴史家、人類学者として、まず頭に浮かぶのは信仰システムの崩壊です」(以下『展望なき世界』より)

宗教的信仰だけではない。
 もっと広い意味で、イデオロギー、あるいは未来への夢も含みます。
 人々がみんなで信じていて、各人の存在にも意味を与える。
 そんな展望が社会になくなったのです


「そのあげく先進国で支配的になったのは経済的合理性。利益率でものを考えるような世界です

「信仰としては最後のものでしょう。
 それ自体すでに反共同体的な信仰ですが。
 経済は手段の合理性をもたらしても、何がよい生き方かを定義しません

「悪魔は外にいることにする。
『テロを起こした連中はフランス生まれだけれども、本当のフランス人ではない』
『砂漠に野蛮人がいる。脅威だ。だから空爆する』。
 おそるべき発想。
 ただそうすれば、仏社会内の危機を考えなくてすみます。」

先進国の社会で広がっているのは、不平等、分断という力学
 移民がいなくても、教育などの不平等が同じような状況を生み出しうる」

「それに日本の文化には平等について両義的な部分があります。
 戦後、民主的な時代を経験し、だれもが中流と感じてきた一方、人類学者として見ると、もともと日本の家族制度には不平等と階層化を受け入れる面がある。
 民主的に働く要素もあれば、大きな不平等を受け入れる可能性もあります。」

この段階で取り組まなければならないのは、虚偽からの脱却です。
 お互いにうそをつく人々、自分が何をしようとしているかについてうそをつく社会。
 自分を依然として自由、平等、友愛の国という社会。
 知的な危機です。


「それは本当に起きていることを直視するのを妨げます。



4 日本は?

 私たちは、北朝鮮を嗤う。
 あるいは、怒る。
 中には恐れる人もあるだろう。

 私たちは強いアメリカと一体になれば、日本も強い国でいられると錯覚する。
 戦後ずっと事実上の属国だったことを忘れている。
 アメリカと同じく、国民のほとんどが〈弱者〉とされつつある病理を抱えていることに気づかない。

 そして、「自分が何をしようとしているかについてうそをつく」欺瞞が政治を呑み込みつつある。
 もはや例を挙げるのもバカバカしいほどだが、丸川珠代環境相の「うそ」は目に余る。
 各報道によれば、氏は2月7日、長野県松本市の講演で述べた。

「『反放射能派』と言うと変ですが、どれだけ下げても心配だと言う人は世の中にいる。
 そういう人たちが騒いだ中で、何の科学的根拠もなく時の環境大臣が決めた」

 環境相でありながら、東京電力福島第一原発事故に伴う除染などで国が長期目標として示している年間1ミリシーベルトの追加被曝線量に科学的根拠がないと明確に否定した。
 (科学的知識もなく)ただ心配でたまらない現地の人々に迎合しようと、科学的根拠もなく民主党政権下の環境大臣が決めたいいかげんなものに過ぎないと断定したのである。
 問題視され、12日夜、こう言い訳した。

「『何の科学的根拠もなく、相談もなく』という発言をしたことを確認した。
 こうした発言は事実と異なるものであり、当日の発言のうち、福島に関連する発言を全て撤回させていただきたい。
 福島をはじめとする被災者の皆様には誠に申し訳なく、心からおわびを申し上げたい。」

 そして、これが氏の結論だという。

「引き続き職責を果たしたい。」

 発言は〈失言〉ではなく、誰が見ても聞いても〈本音〉である。
 その明らかなことは、安倍首相の「一億総活躍社会」を看板に背負い、「育児休暇」の重要性をアピールしていた宮崎謙介衆議院議員が、こともあろうに妻の出産と前後して不倫をしていた欺瞞が白日の下にさらされたのと同等である。
 国政を担い、税金で生きる人間として、あまりにも不適格である。
 即刻、国会議員を辞職せなばならないのはもちろん、普通の神経を持った人物なら、二度と政治に関与できないはずだが……。

 私たち凡夫はどうしても過ちを犯す。
 ウソで固めた生き方もしてしまう。
 それでも社会人として生きて行ける資格はただ一つ、ことに及んでは責任をとる、この一点に尽きる。
 どのように責任をとったかにより、失敗の許され方も、その後の立ち直り方も違う。
 責任をとらぬ者は、まっとうな社会人たり得ない。
 これは庶民の間では常識だが、政界では不思議にも謝罪で簡単に済まされたりする。

 この世界は、北朝鮮のような小国も、アメリカのような大国も、悲壮で滑稽で哀れなほど、他国との比較において強い国たらんとしている。
 多くの国民が安心して確かな未来を目指せる日々を過ごすことの価値は忘れられている。
 顕わになっているのは、「経済的合理性。利益率でものを考える」しかない餓鬼(ガキ)の世界である。
 そこで決定的に失われているのは、「何がよい生き方か」を問い、それぞれに自分なりの答が見つけられ、よい生き方を選べる〈自由〉であり〈平等〉である。
 社会全体が「うそ」で覆われ、「自由、平等、友愛の国」は地球上のどこにもなくなりつつある。
 私たちの国に何が起きているか、北朝鮮やアメリカを反面教師とし、自分の足元をよく見たい。
 何よりも大切なのは「本当に起きていることを直視」することだと思う。




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2016
02.12

お骨の入っていないお墓に手を合わせる意味は? ─あの世に行けばなぜ、安心なのか?─

201602120006.jpg

 富谷町のAさんがご相談に来られました。

1 お骨のないお

「私はもう年なので、息子に心配をかけないようにおを造ったのですが、お参りをしてよいかどうか、わかりません。
 まだ、お骨が入っていないので、拝むのは変ですよね。
 でも、せっかく気に入ったおを見に行かないではいられず、掃除をしてから帰ってくると、あれでよかったのかなあと、いつも思うんです。」

 お答えしました。

「たとえば、石で立派な門やフェンスを造ったからといって拝む人はいないでしょう。
 あるいは銅像や置物などでも同じですよね。
 でも、おだけは拝みたくなります。
 それはもちろん、親やご先祖様などの御霊が眠っておられるからなのですが、もっと重大な背景もあります。
 生前に造る寿陵墓(ジュリョウボ)の意義を考えてみましょう。」

2 あの世に行けばなぜ、安心なのか

 御霊はなぜ、安心していてくださると思えるのでしょうか?
 たとえば、病気で苦しみ、あるいは借金に苦しんでいた方が、亡くなられた途端に、本当に苦しみから離れておられると、なぜ、思えるのでしょう。
 肉体が無くなれば、肉体的な苦痛はなくなります。
 この世にいなくなれば、相続人がいればともかく、少なくとも本人はもう、借金取りから追いかけられることはありません。
 だから、もしも死んで苦がなくなると考えるならば、肉体がなくなると共に何もかもが無になるという前提が必要です。

 すべてが無になるのならば、私たちはなぜ、手を合わせないではいられないのでしょうか?
 すなおに自分の心を省みれば、手を合わせ、心を向ける〈対象〉があることは確かです。
 その対象はどこにあるのでしょう。
 もし、所詮は記憶でしかないというならば、記憶はどこにあるか、どうやって取り出し、確認できるのでしょう。
 また、仏壇やおの前でいっそう自然な祈りができるのでしょうか?
 私たちは目に見えぬ何かが、目に見えぬ世界に〈在り〉、瞑目や合掌や祈りによって日常生活的感覚から離れれば、その世界に通じることを知っています。
 こうした対象を御霊と称し、御霊のおられる世界をあの世と考えています。
 御霊あの世も、科学的にその存在を検証することはできませんが、その存在を科学的に否定することもできません。
 だから、私たちは太古の時代から、御霊あの世に対して生じる敬虔な心をすなおに尊び、祈る形を考え、伝えてきました。

 さて、御霊がどこかにおられるならば、御霊は当然、特定の何かであり、それを特定するものは、この世で積んだ業(ゴウ)に他なりません。
 善い結果をもたらす善業(ゼンゴウ)であれ、悪しき結果をもたらす悪業(アクゴウ)であれ。
 つまり、御霊はこの世での生の歴史がもたらす来世での善き可能性も、悪しき可能性も持った存在であると考えられます。

 要するに〈死ねばチャラ〉になりはしないのです。
 このことを認識する必要があります。
 
 だから、私たちがこの世で、仏神や師や親や先生や先輩などの指導や庇護や加護を受けてこそまっとうに生きられるのと同じく、御霊もまた、あの世でそうした導きがあってこそ、より安心な未来へ向かって進めるであろうと考えています。
 悼み、感謝し、安寧を願うまごころを御霊へ廻し向けることを廻向(エコウ)と言います。
 廻向は導き手があればこそ可能です。
 あの世の親であるみ仏こそが、あの世における導き手であり、この世にいる私たちの廻向を実質あるものにしてくださると考えるのが仏教です。
 つまり、導き手であるみ仏に手を合わせず、御霊をしか拝まない仏教はあり得ません。

3 み仏をお迎えする

 こうして、あの世の御霊がかつて積んだ悪業を少しでも滅し、安心してさらなる来世へ向かえるよう、導き手であるみ仏をお迎えする大切な場の一つがお墓です。
 それを確かにするのが開眼供養(カイゲンクヨウ)です。
 法力のある導師が法を結び、み仏に墓所へ降りていただけば墓石はみ仏の世界、あの世へ通じる標識となり、墓所は聖地となります。
 お骨があるから聖地なのではなく、み仏と通じる場であって初めて聖地と言えます。

4 お墓によってこの世も守られる

 以上の理由により、結論をこう申しあげました。

「お墓は聖地です。
 それを造られたのだから、お骨のあるなしにかかわらず気になるのは当然です。
 お勧めするのは、聖地を形だけでなく、本当の聖地にすることです。
 それには開眼供養が必要です。
 開眼供養した聖地は、ただちに皆さんにとってご守護の場となります。
 訪れ、守護してくださるみ仏へ手を合わせる方はすべて、ご加護の中へ入られます。
 お骨のあるなしは関係ありません。
 そうして、おりおりにご加護いただく安心体験はとても貴重です。
 Aさんの心が不動の安心へ向かってどんどん定まるだけでなく、そうした生き方によって奥さんも、お子さんも、必ず、よき感化を受けます。
 安心の世界を目ざしている人のよき気配は知らぬ間に周囲へ漂っているものです。
 気になることを放置せず、決心されたならば、開眼供養をお申し込みください。」




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2016
02.11

イラク戦争と靖国神社への祈り(その21) ─日常生活の中で修行はできないか?─

201602110001.jpg

 平成16年1月、自衛隊のイラク派兵に鑑み、仏神と祖霊のご加護で自衛隊員の無事帰還をはかるべく、靖国神社へ向かって托鉢行を始めた。
 世界の情勢が急変を見せ始めた今、そのおりの記録を加筆訂正しながら再掲しておきたい。
 不戦日本の願いを込めて。

 ご葬儀など、帰山しての法務が続いている。

○日常における修行(2月29日)

 ホームページをご覧になられた方からのご質問である。
「自分を変えるために、日常生活の中で実践できる行はないのでしょうか?」
 迷わず、四摂法(シショウホウ)をお勧めした。

布施(フセ)

 相手の身になり、一切の見かえりを求めず、真に相手のためになる行為を実践すること。
 与えるものはお金やモノとは限らず、汗を流したり、真理真実を伝えたりするなど、無形のものも含まれる。
 価値あるものを自分のためだけに抱え込むのではなく施し、分かち合い、誰かが喜ぶのを見て、自分も心から嬉しくなるようでありたい。
 これは無常の真理を忘れた執着心という迷いを脱する大切な修行である。
 マザー・テレサは諭した。

「大切なのは、どれだけ多くを施したかではなく、それをするのに、どれだけ多くの愛をこめたかです。」


 何を手立てとしても、救いをもたらすものは、それに込められたまごころである。

愛語(アイゴ)

 相手のためになる言葉を用いること。
 必ずしも優しい言葉だけではなく、危険を避けねばならぬ場合などは厳しく激しい言葉が必要な場合もある。
 思いやりの心があれば、言葉は必ず愛語になる。
 その反対に、関心の薄いものごとについての言葉はどうしてもいいかげんになる。
 たとえば北方領土を管轄する政治家が「歯舞」や「色丹」を読み間違ったらどうだろう。
 それは知識の問題ではなく、恐ろしくも、関心の問題である。
 私たちは薬の効能書きが読めぬ医師にいのちを託せようか?
 マザー・テレサは断言した。

「私たちは、成功するためにここにいるのではありません。
 誠実であるためにここにいるのです。」


 まごころそのもので生きた人の言葉である。
 そのまごころが、私たちのまごころを眠りから目覚めさせる。
 社会的成功などという幻に惑わされず、誠実であるかどうか、自他へ問いたい。
 ──自分は誠実か、自然に愛語が出る自分であろうか?
 ──この人は誠実か、この言葉は愛語だろうか?

利行(リギョウ)

 他のためになること。
 他人だけが〈他〉ではなく、社会や国、あるいは生きとし生けるものも含まれる。
 身・口・意で善きことを行えば、必ず誰かの利益になる。
 反対に、悪しきことを行えば必ず誰かの何かを損ねるが、それと同様に避けるべきは〈自分だけの安寧〉を求めたり、〈仙人のような世捨て人〉を目ざすことである。
 そこに欠けているのは慈悲心である。
 歌人吉川宏志氏は詠んだ。

「イスラエルに野性のシクラメン咲くと聞きしはいつか日々爆死あり」


 歌人の魂が詠ませた歌は、私たちを立ち止まらせ、無惨を想像させ、自分を含めた〈人間の所行〉を省みさせる。
 慈悲心は利行の源泉である。

同事(ドウジ)

 自分を相手の立場に置くこと。
 悲しんでいる人のそばにいたり、人手が足りない人には手伝ったりすること。
 お大師様は、地域住民と朝廷からの要請に応え、誰もできなかった満濃池の改修工事を行ったが、具体的な指示を出しただけではなかった。
 お大師様はまず現地で托鉢を行いつつ、説いた。
 人々の歴史的な苦を我がものと受けとめた上で檄を発した。

満濃の池は限りない仏の福田だ。
 我が身のためとも思わぬ努力に、長い子孫への恵みは流れる。 
 働くところへ報いは来るものだ。 
 虚しく天を仰いでいても、甘露は降らぬぞ。 
 そなたたちの運ぶ土で、仏道の魂は錬られるのだ。
 そなたたちの汗が、秋の稔りに姿を変える。 
 仏天の加護は働くものの肩に加わる」(「小説・弘法大師物語」より)


 そして、雲霞のごとく集まり、昼夜を問わず汗を流す人々のそばで護摩法を行い、仏天のご加護を祈ったのである。
 人々は奮い立ち、仏神はご加護を垂れた。
 やがて、長年にわたって住民を苦しめてきた災厄の池は、子々孫々にわたって福徳をもたらす池へと変貌を遂げた。

 この4つは、日常生活のどこででも実践可能である。
 商売をするのなら、社会に喜ばれる商いをすれば良い。
 勤めているのなら、手抜きをしないで汗を流し、会社のためになれば良い。
 料理を作るのなら、食べる人の身になって作れば良い。
 政治家は国家国民のために、先生は生徒のために、医者は患者のために、役者は観客のために、僧侶は悩む人のために、それぞれ、真剣に己の分を尽せば立派な行であるとお釈迦様は説かれたのである。




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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y





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2016
02.10

戒名と温泉 ─アジール、平和の場─

201602100002.jpg
〈日本人の平均賃金は下がる一方です〉

 当山には戒名に関するご質問が絶えない。
 その意義と授かり方を聴かれた方の99パーセントは死後の戒名、もしくは生前の戒名を望まれる。
 お話し申しあげるポイントの一つは温泉である。

 裸になって温泉に入る時、私たちは一切の衣だけでなく、区別、差別も離れる。
 現代日本人の風紀的感覚から、男女の区別だけはつけねばならないが。

 温泉に上席も席順もない。
 ここまでが俺の領分だから勝手にそばへ寄るな、などというテリトリーもない。
 マナーに反しなければ会話にも制限はない。

 この世でいかに生きたかという因縁からは逃れられないにしても、この世で七転八倒しつつ犯した過ちや、味わった迷いや苦しみなどから一旦、離れるのが死であり、それは一種の解放であるに違いない。
 ならば、大きな温泉へ入るようなものではないか。
 同じ魂同士として平等だ。
 
 あの世へ逝く時、あの世の親であるみ仏が、〈個としての魂〉を特定すべく、あの世での名前をつけてくださる。
 もしくは、白衣をまとい、いったん死んだつもりでこの世での生き直しを決意した者にも、親からもらったものとは別に名前をつけてくださる。
 それが戒名である。

 歴史的経緯はどうであれ、現代に伝わる戒名は三つの熟語からなっている。
 一番上の「○○院」は院号(インゴウ)といい、魂の色合いを表す。
 真ん中の「○○」は道号(ドウゴウ)といい、この世でいかなる道を歩んだかを表す。
 最後の「○○居士」や「○○大姉」は法名(ホウミョウ)といい、あの世での徳を表す。
 なお、僧侶の法名は僧名でもある。
 もし生前戒名を授かれば、出家せずとも、その時点から僧名を名乗り、新たな人生を歩み直すことができる。

 だから当山では、お布施の金額にかかわらず、特殊な場合を除き、等しく、ご本尊様から降りた9文字の戒名をお伝えする。
 その時点で魂は必ず一種の解放を体験しておられることだろう。
 み仏の世界へ融け入って行く道を歩む準備ができたのだから。
 このことは、日々、無限の次元と向き合いつつ生きている一僧侶として断言できる。
 み仏と一体となるのが修法である以上、解放されぬ修法はあり得ない。

 さて、温泉である。
 温泉評論家石川理夫著『温泉の平和と戦争』に歴史学者阿部謹也氏の言葉が紹介されている。

「浴場内で争いを起こし相手を傷つけた者には二倍の罰金が科せられたし、浴場内で盗みをはたらいた者は死罪とされていた。
 浴場は平和の場とされていたからである。
 債務を負って債権者から追われている者も浴場内にいる限り捕らわれることはなかった。
 浴場は平和領域アジールでもあったからである。」


 中世ヨーロッパの公衆浴場、共同浴場は平和の場だった。
 ドイツ語アジールとは、避難所、逃げ込み場、憩いの場所、平和領域、聖域といった意味を持つ。
 石川理夫氏は指摘する。

アジールという概念は、『平和の場』とされた浴場、湯屋、さらには温泉(の湧く場)と深くかかわってくるのである。」


 日本においても、南北朝時代あたりには、敵も味方も同じ洛中の温泉につかっていたという。

「湯屋や共同の浴場という場では、敵味方を詮索したり争い事をしてはならないという暗黙の約束事、あるいは社会通念があったのでは、と想像されるのである。」


 こうしたわけで、当山にある温泉『七ツ森の湯』も何とか〈平和利用〉したいと願っている。
 聖地においてこの世の極楽を味わっていただきたいものである。
 この世の苦から解放され、あの世への不安からも解放されるひとときを味わっていただければありがたい。




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2016
02.09

臨死体験と治癒への道 ―『チベットの生と死の書』を読む(9)―

201602090001.jpg

 ソギャル・リンポチェ師の著書『チベットの生との書』は、生とを考える人びとへ重要な示唆を与える一冊である。
 伝統仏教の最先端を示し、かつ、最奧をもかいま見せる高貴な魂の結晶である。
 師は「仏法をより近づきやすいものに、現代的、実践的なものにするために著した」とされているが、700ページ近い力作で、なかなか読み通せないかも知れない。
 以下、全体の概要というよりは、いくつかのポイントを挙げておきたい。

 臨死体験者は、との身近な出会いが真の目覚めをもたらし、生に対する姿勢そのものを変容させる「良い例」だと言う。

臨死体験者はを以前ほど恐れなくなり、より深く死を受けいれるようになる。
 他人を助けたいという気持が強くなり、愛を非常に重要なものとして認識するようになる。」


 ある男性は、初めて臨死体験学を提唱したコネチカット州立大学のケネス・リング教授へ語った。

「わたしは人生の目的といえば物質的な富を追い求めること以外に知らず、あてもなくただ漫然と彷徨(サマヨ)っていただけの男でした。
 それが、強い意欲と、人生の目的と、はっきりした方向づけと、人生の終わりには必ず報われるのだという絶対の確信を持った人間に変わったんです。
 物質的な富への関心と所有欲は精神的な理解への飢えと、より良い世界を求める熱い思いに取って代わられてしまったんです。」

 人は死にそうになると、欲のはたらきが変わるものなのか?
 
 自らがガンにかかったフレダ・ネイラー医師は日記に書き残した。

「わたしはこういう事態にならなければしなかったような体験をしている。
 それについては癌に感謝しなければならない。
 わたしは謙虚になった。
 死ぬべき存在としての自分を甘んじて受け入れるようになった。
 自分の内なる強さを知った。

 これにはつねづねわたし自身が驚かされている。
 他にも自分自身に関する多くのことを知った。
 それは、わたしがここにきて立ち止まり、振り返り、再び歩きはじめることを余儀なくされた結果に他ならない

 師は言う。

「もしもわたしたちが、この新たに獲得した謙虚さと率直さ、さらには真の死の受容をもって実際に『振り返り、再び歩きはじめる』ことができたらどうだろう。
 精神的な指導や修行に対するわたしたちの受容ははるかに高まるに違いない。
 しかも、この受容はさらに驚くべき可能性の扉を開くのである。
 文字通りの治癒の可能性である。」


 師がニューヨークでドゥジョム・リンポチェの通訳を務めていた時のできごとである。
 医者からあと2・3ヶ月のいのちと告げられた女性が来訪し、泣いた。
 ドゥジョム・リンポチェは「優しい、慈悲のこもった」笑いで応じた。

「いいですか、わたしたちはみんな死ぬのです。
 単なる時間の問題にすぎません。
 ただ他の人より少しばかり早く死ぬ人もいるという、それだけのことです。」

 不安の和らいだ彼女へ、「死にゆくこと、死を受けいれること」、そして「死の中に秘められた希望」と「治癒の行」について語った。
 この行を熱心に実践した彼女は死の不安が消えたどころか、〈不治の病〉すら癒えてしまったという。
 それを目の当たりにした師は確信した。

私たちが死を受けいれ、生に対する姿勢に変容をもたらし、生と死の根源的なつながりを見出したとき、劇的な治癒が起こる可能性があるということである。」


 チベットの人々は、病気を警告として受けとめるという。
 警告と言っても「あなたのいのちが危険に晒(サラ)されていますよ」といった肉体的、物質的なものではない。
 そんなことはわかっている。

自分が生命の奧深くにある何かを見過ごしてきたことに、たとえば宗教的な欲求といったような何かを見過ごしてきたことに気づかせてくれる警告になりうると信じているのである。
 わたしたちがこの警告を真摯に受けとめ、人生を根本から方向転換させたとき、治癒への希望が、肉体のみならず、全存在の治癒への希望が、立ち現れてくるのである。」


 当山では日々、同様の実感をもって法務に邁進している。
 ある時、仙南の町から年配のご夫婦が二組、人生相談へご来山された。
 病気がちになり、自分の死をどう受け入れればよいか、また、どう送ってもらうべきか、そして、死後の家であるお墓をどうすればよいか、などなどについて根本から相談したいと言われる。
死の迎え方は、自分の生涯全体が何だったのかを明らかにすることでもあると思えてなりません。
 だから、懸命に生きてきたのと同じように、安心して死と死後を託せる方を探していました。
 大変失礼な言い方ではありますが、自分で選びたいのです。」
 お応えしました。
「私たちは、自分や愛する人が大病に罹ると、より安心していのちを託せる医師や病院を真剣に探します。
 しかし、死者を送る際には、導師がいかなる人物であるかも確かめず成り行き任せにしたり、安く便利に処理したいといったケースも少なくないように見受けられます。
 それでは死者の人生を冒瀆することになりかねません。」
 また、皆さんはこうした心配もされた。
「私たちは年金以外、頼るものがありません。
 伴侶を送り、自分が送られることの重さは年々、身に迫ってきますが、先立つお金は年々、心細くなってゆきます。
 心苦しい思いをどうすればよいのでしょうか。」
 お応えしました。
「まごころを尽くすしか方法はありません。
 たとえば、愛する人へ千本のバラを送って思いを告げたくても、お金がなければ1本しか買えませんが、1本へ千本分の思いを込めて通じさせることはできます。
 こうしたまごころの行き着くところこそ、宗教の世界です。
 娑婆の経済原理では、千本分のお金がなければ千本のバラは買えませんが、宗教の世界は原理がまったく異なります。
 だから、お布施の内容は、自分を偽らない価値観と、財布の事情とのバランスで決めるしか方法はありません。
 もちろん、当山では、お布施の金額にかかわらず、御霊の安寧のため法力の限りを尽くします。
 損得を離れたみ仏の世界では〈救済の量〉を計ることなどあり得ず、〈救済力の出し惜しみ〉もまたあり得ません。

 経済の仕組みに寺院が取り込まれようとしていることに疑問と危機感を持っていた4人の善男善女は、大きく頷いて帰られた。
 病気に罹ることも、老いることも、そして身近な人の死も、深い警告を孕(ハラ)んでいる。
 その時に「生命の奧深くにある何かを見過ごしてきたこと」に気づくかどうかで、その後の生き方も、人生の締め括り方も天と地ほどに異なってくる。
 ご夫婦が異口同音に言われたとおり、「自分の生涯全体が何だったのか」が問われているのだ。
 臨死体験者ならずとも、誰かのためになり、思いやりをこそ最も大切にしつつ生き抜き、死を迎えたいものである。




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2016
02.08

死に学ばずしていつ学ぶ? ―『チベットの生と死の書』を読む(8)―

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 ソギャル・リンポチェ師の著書『チベットの生との書』は、生とを考える人びとへ重要な示唆を与える一冊である。
 伝統仏教の最先端を示し、かつ、最奧をもかいま見せる高貴な魂の結晶である。
 師は「仏法をより近づきやすいものに、現代的、実践的なものにするために著した」とされているが、700ページ近い力作で、なかなか読み通せないかも知れない。
 以下、全体の概要というよりは、いくつかのポイントを挙げておきたい。

第三章 内省と変身

 師は、我が子を失って我を失った母親クリシャ・ゴータミが、お釈迦様に救われた逸話を紹介する。
 彼女は我が子のを受け入れられないまま、お釈迦様の言うとおり、者を出したことのない家々を探し回るが、ご先祖様のいない人はいるはずもなく、疲労困憊の果てにようやく、は誰にでも訪れるということの真実性に気づく。

「クリシャ・ゴータミの物語はわたしたちが現実に何度も目にする事実を物語っている。
 それは、との身近な出会いが真の目覚めをもたらすということ、生に対する姿勢そのものを変容させてしまうということである。」


 私たちは、生きものが必ず死ぬことを知識として、また常識として知っている。
 しかし、知っていることと、それを動かしようのない真実として受けとめ、そこに立ってものごとを考え、判断し、生きるということとの間には途方もない距離がある。
 師の言う「真の目覚め」とは、ある病気が特定のウィルスによって起こることをつきとめるといった、知られざる事実の発見を指すのではない。
 むしろ、知っていたはずの事実にあらためて気づくといった内容だ。
 「死との身近な出会い」はそのきっかけとなる。
 クリシャ・ゴータミのような〈我が子の死〉との出会いなどは典型的な例である。

 わたしたちは彼女と同じく、「なぜ?」と問わずにいられない。
 この問いの根拠には、いくつもの前提がある。
 死が年令の順になっていない、死をもって償わねばならぬほど悪いことをしている子ではない、自分がこういう目に遭わねばならぬ理由が思い当たらない、などなど。
 確かに、因果応報はお釈迦様が説かれた真理であり、ものの道理だ。
 死という結果に原因のなかろうはずはない。
 しかし、一方で私たちは、因と果のつながりのすべてを知る能力を持っていない。
 そうした意味で、「なぜ?」の答は得られぬ場合が少なくない。

 また、死の持つ内容は、生きられる条件の喪失である。
 そもそも私たちは、五蘊(ゴウン)という要素がうまくまとまっている場合のみ生きられる存在だ。
・色蘊(シキウン) …肉体を含む一切のモノ
・受蘊(ジュウン) …感受作用
・想蘊(ソウウン) … 表象作用
・行蘊(ギョウウン) …意志作用
・識蘊(シキウン) …認識作用
 そして、まとまっている状況は永遠に続きはせず、五蘊仮和合(ケワゴウ)という。
 そもそも、いのちがはたらいているのは〈仮そめ〉の状態でしかない。
 こうした条件の崩れや崩壊や喪失はさまざまな原因により生じ、それが一定のレベルを越えれば〈再和合〉は叶わない。
 私たちがそうなった原因を知るか知らないかということは一切、関係のない成り行きである。
 だから、「なぜ?」に答が得られぬ場合が少なくない。

 もう一つ、答が得られぬ根本的理由として、心のどこかに〈自分は例外〉という意識があることも挙げられる。
 江戸時代の文人大田南畝(オオタナンポ)は75才で転び、死を迎えるに至り、辞世の歌を詠んだ。
「今までは 人のことだと 思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん」
 もう立派な長寿となっていたのにこう言い遺したのは、自分の生への未練ではなかろう。
 広く人間一般の心理を衝いたのだろう。
 いずれにせよ、私たちは普段、特に死について〈自分は例外〉と思い、死の不安や恐怖から離れていればこそ、日常生活に没頭して生きられるとも言える。
 しかし、例外はあり得ない。
 だから「(よりによって)なぜ?」という問いはそもそも成り立たない。
 私たちの日常は常に、いつか必ず全員が当たるあみだくじを引き続けているようなものである。
 今日、当たってびっくりする理由は何もない。
 むしろ、今日、当たらないことに安堵し、感謝するしかないのだ。

 ともあれ、「なぜ?」という問題意識が「真の目覚め」へのきっかけとなるのは事実である。
 問い続けるうちに、忘れかけていた事実が真実として立ち顕れる。
 そして、魂が真実と共鳴する体験は「生に対する姿勢そのものを変容させてしまう」。

 因果の糸を繋ぎきれない自分の愚かさを知る。
 人間のはからいが届かない生と死の峻厳さを知る。
 〈自分だけは(死に神につかまらぬ)例外〉なのではなく、五蘊仮和合によって〈例外的に(危うい)生を保っている〉のだと知る。
 これらがもたらす「変容」とは、生きざまが変わることである。
 お釈迦様は、変容の入り口に立ったクリシャ・ゴータミへこう告げたという。

「苦しみがあなたに学ぶ準備をさせてくれました。
 今あなたの心は真理に向かって開かれています。
 わたしがその道をあなたに見せてあげましょう。」


 小生も、ご葬儀の後で行う供養に関する法話の締め括りに申しあげる。
「故人は、自分の死をもって皆さんを立ち止まらせ、2500年も受け継がれてきた供養の真実について耳にする機会をつくってくださいました。
 どうぞ、この機会を生かし、真の供養を行うことによって真の恩返しをしてください。」
 実に「死との身近な出会いが真の目覚めをもたらす」のである。
 ゆめゆめ、死を〈手続き〉と〈処置〉で手軽に済ましてしまわぬようにしたい。
 それでは死者を冒瀆するだけでなく、送る方々が魂を眠らせ、向上する貴重で重大な機会を失ってしまう。
 しっかり立ち止まり、慌ただしい日常を離れた心で故人の魂と向かい合っていただきたい。
 きっと、気づかないでいた心の目が開くことだろう。




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2016
02.07

イラク戦争と靖国神社への祈り(その20) ─生き仏の献身─

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 平成16年1月、自衛隊のイラク派兵に鑑み、仏神と祖霊のご加護で自衛隊員の無事帰還をはかるべく、靖国神社へ向かって托鉢行を始めた。
 世界の情勢が急変を見せ始めた今、そのおりの記録を加筆訂正しながら再掲しておきたい。
 不戦日本の願いを込めて。

 寺へ戻っての法務が続いている。

○個から普遍へ(2月28日)

 早朝から斎場へ行き、百カ日の法要まで終えて帰山したら、もう夕方になっていた。
 喪主は、ずっと病院へ泊まり込み、不治の病に倒れたご主人を献身的に看病した奥さんだった。
 供養の膳を前にして、親戚の方々は異口同音に奥さんを称讃し慰めておられたが、弟さんはちょっと違う感想を述べられた。
「最後は人間としてやってたんですよね」
 看病は当然〈妻としての務め〉に始まったのだろうが、文字通り24時間つきっきりの5カ月が、それを夫婦としての愛憎を超えた行為にまで高めていたのだろう。
 人間の霊性は、宇宙にただ一人しかいない〈自分〉そのものを懸けた誠意ある地道な行為によって磨かれる。
 
 まず〈自分〉は人間であり、同時に、男か女であり、日本人か異国の人かどちらかであり、あるいは子であり、あるいは親であり、あるいは妻であり、あるいは夫であり、あるいは商売人であり、あるいは勤め人であり、自分を限定している諸々の面を持っている。
 時に応じ事に応じ、それぞれの面にふさわしい役割を果たしてこそ、心が安定し、充足感が得られ、社会からも認められる。
 普遍的な人間性の次元は、その努力の先に結果として開ける世界であり、ただ漠然と〝人間らしく〟考え、自分を限定している諸条件を無理に無視しようとしても、観念の遊びに陥るおそれがある。

 もちろん、いわゆる「らしさ」へのこだわりが大事であるというわけではない。
 よく知られているように、平安時代あたりの物語で男性が殴り合いをする場面などはなく、すぐに決闘をしたがる西洋の男性たちとはかなり異なった生き方をしていたようだ。
 勇ましいイメージのある「大和魂」もまた、本来は、日本人らしい繊細な情緒の理解や感得の能力を表す言葉であり、ねじり鉢巻をして拳を振り上げる粗野・粗暴からは最も遠いありようを指す。
 この「らしさ」が強調される社会は危うい。
 なぜなら、「らしさ」は人間の区別を伴い、人間が明確に区別されればされるほど管理しやすくなり、統御されやくすなるからである。
 本来、人間はきわめてファジーな存在であり、お互いにファジーであればこそ、多様な人々との相互理解も共鳴や共生も可能であるということを忘れないようにしたい。

 とは言え、まずは、自分のありよう、自分が置かれた立場なりに素直な生き方をしたい。
 時には、さまざまな社会的・文化的な「らしさ」と、それに括りきれない「自分らしさ」との緊張関係をも素直に受け入れながら、真摯に生きたい。
 思考停止して枠にはまってしまうのも偏り、気ままな自己主張も偏りではないか。
 
 さて、冒頭の喪主様は、こうした意味でとらわれのないまごころによって看病の5ヶ月を生きられたのだろう。
 良心、仏心、霊性といったもののはたらきが明確に主役となった時、周囲の人の目に「人間らしく」生きていると見えたのではなかろうか。
 一人の〈個〉を普遍の広大な世界へ解放するのはまごころだろうと思う。
 あらためて思い出してみると、喪主様は生き仏だった。




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2016
02.06

死ののちに見つからむ性の写真など抽斗にあり昼に降る雪 ─アニマ・写真・肉体─

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 吉川宏志氏の歌集『海雨』を読んだ。
 その中に凄まじい一首があった。

「死ののちに見つからむ性の写真など抽斗にあり昼に降る雪」


 自分が死んだあとで見つかるであろう性的な写真をこっそり引き出しにしまってある。
 昼の空を冥(クラ)くしつつ降りしきる雪を眺めているうちに、そのことがふと、思い出された。
 詠んだ氏はこの頃まだ30才台、もっともいのちの勢いが盛んなはずだが、昼の雪に早くも生の翳りを感じとっている。
 その感覚は自分の死後から遺品整理にまで及ぶ。

 女性にはなかなかピンとこないかも知れないが、男性、特に年配の方には思い当たるふしがあり、小さな苦笑が起こることだろう。
 男性は往々にしてこうしたことをやらかす。
 それは、まるで鳥が巣作りのために枯れ枝を集めるようなものだ。

 カール・ユングは、男性にとって魂のイメージは女性像をとって顕れると考えた。
 魂や生命を表すアニマという言葉をそれに当てはめ、男性は生涯、一つのアニマを持って過ごすという。
 一方、女性にとってそうした根源的イメージとしての男性像すなわちアニムスはあいまいで、複数になる傾向がある。
 そしておもしろいのは、そうした心理を補償するための現実的な行動として、男性は複数の女性に関心を持ち、女性は定めた男性に関心を持つらしい。
 だからといって、別に男性の浮気を正当化するわけではないが、冒頭の歌が持つ背景は何となく理解しやすくなる。
 無意識のうちに、自分固有のアニマ像と感応する女性の姿形に惹かれ、写真などを手元に置きたくなる場合があるのだ。
 心底から惚れた恋人や妻がいようと、いまいと、無意識の領域に潜んでいるイメージは消せない。

 事実、かつて、印象的な場面に遭遇したことがある。
 河北新報の「持論時論」に掲載された小生の意見に賛同したAさんは、生前戒名も含め、自分の死後の一切を託したいと申し出られた。
 独り暮らしのお宅を訪ねたところ、ご自身の経歴を告げるために古い箪笥からアルバムを取り出した。
 それをめくっているうちに、半世紀以上も前のものとおぼしき雑誌の小さな切り抜きがこぼれ落ちた。
 黒いガーターと紅いパンティで股を半開きにしたその写真は、かつて、小生が男子校の教室で廻し読みしたエロ本の1ページそのものだった。
 Aさんはこちらを見向きもせず、何ごともなかったようにしまい込み、淡々と話を続けた。
 やがて娘さんに送られるであろうAさんはいつ、処分するのかなと余分な心配をしつつ、同じように娘の手を借りるであろう自分にはもう、そうした〈忘れもの〉が残っていないことを確認し、微かにホッとした。
 Aさんは、当山のご本尊様から授かった戒名によって悠然と仏界へ旅立たれて久しい。

 こんな歌も見つけた。

「カーテンがまばたくたびに上下する メルロ・ポンティ死の前の記述」


 カーテンが揺れ、思考も動く。
 それは、50代で逝った哲学者が晩年、自分の思想を振り返り、見直す軌跡に通じて行く。

 モーリス・メルロー=ポンティは半世紀ほど前に活躍したフランスの哲学者である。

「私の身体が世界のなかにあるありかたは、心臓が生体のなかにあるありかたとおなじである。」

「感覚とは贈与ではなく、感覚されるものとの『交換』である。
 感覚とは、あるいは『共存』にほかならない。
 感覚とは『存在との原始的な接触』であり『感覚する者と感覚されるものの共存』である。」

 彼は、自分を〈主体〉、周囲の現象世界を〈客体〉と分離せず、肉体を持つ自分そのものに存在の両面性、あるいは全体性が具わっていると考えた。
 そして、最後にはこんなところまで行った。

「私の身体は、世界(それも一箇の知覚された世界)とおなじ肉でできている。」

 ここに、吉川宏志氏の歌が言葉と肉体を一つにし、ひときわ濃い血の通った作品になっている秘密があるのではないか。
 妻の入院と手術に際してこう詠んでいる。

「足指に塗られていたるマニキュアを拭(ヌグ)いてやりぬ手術する足」

「全身の麻酔の前にこまごまと妻は言うなり鍋のこと塩のこと」


 歌人鳥居氏は、吉川宏志氏の作品に学んだという。




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2016
02.06

イラク戦争と靖国神社への祈り(その19) ─善悪とは?修行とは?─

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〈造化の妙〉

 平成16年1月、自衛隊のイラク派兵に鑑み、仏神と祖霊のご加護で自衛隊員の無事帰還をはかるべく、靖国神社へ向かって托鉢行を始めた。
 世界の情勢が急変を見せ始めた今、そのおりの記録を加筆訂正しながら再掲しておきたい。
 不戦日本の願いを込めて。

○善修行(2月27日)

 ご祈祷を行うため、早朝から上京した。
 東京駅はもちろん、周辺のビルなどの警備態勢にもただならぬ様子を感じた。
 宮床の雪が嘘のような快晴の下、春の陽を浴びたサラリーマンのワイシャツ姿が醸し出す長閑さと、オウム事件の首謀者に死刑が言い渡されようとしている緊迫感とが、何の違和感もなく共存していた。
 麻原 彰晃の弁護側は、「一連の事件は弟子たちの暴走であって、被告は無罪」と主張したが、東京地方裁判所は求刑どおり死刑を言い渡し、弁護側はただちに控訴した。

 帰山してすぐ、お通夜へ向かった。
 通夜振舞いの席で事件に関する質問が相次ぎ、殺人戦争について皆さんと対話を行った。
 
 釈尊は、「を為すなかれ、善を為すべし、自らを浄めよ。これが諸仏の説くところである」と説かれ、何よりも善をはっきりさせるよう指導された。
 オウム真理教の行為は明らかにであり、多くの犠牲者を生んだ。
 彼らの業(アクゴウ)は、幹部の死刑で償いきれるものではない。
 のパワーはすさまじい。
 その非道に巻きこまれた方々は、首謀者や教団を憎んでも憎んでも憎みきれるものではなかろう。
 心中は察するに余りある。
「なぜ自分が被害者にならねばならなかったのか?」
「なぜ子供が死なねばならなかったのか?」
 こうした答が期待できない問いを発せずにおられず、「麻原を憎まないでいられない自分が悲しい」という袋小路に入った方は、どこに救いを求められるのだろう。

 もしも、犠牲者やその身内が、み仏へおすがりした場合、こうしたお定まりの説法など何の役に立とうか。
「すべては空(クウ)なので、こだわらないように」
「いつまでもとらわれてはいけません」
 これだけで、そうですか、と深く納得し救われることはなかろう。

 かと言って、全ては因と縁によって成り立っており、変化して止まず、時空に屹立(キツリツ)しているものは何もないという道理がベースと成っている仏教は、そこから離れた真理を説き得ず、そこから離れた救いの手も差し伸べられない。

 釈尊はそこで、自分が汗を流すことによって真理を〈つかむ〉実践法を説かれた。
 典型が、一人娘を失ったキーサゴータミーの指導である。
 悲しみと絶望のあまり半狂乱になった彼女へ、釈尊は「一人の死者も出したことのない家が見つかったなら必ず救おう」と約束し、彼女は村中を訪ね歩いたが、ご先祖様のいない家は一軒もなかった。
 夢中で歩き、疲れ果てて釈尊のもとへ戻った彼女へようやく、釈尊は無常の理を説き、一瞬にして苦から解放した。
 こうした〈つかむ〉ための手段を方便(ホウベン)と称する。
 対機説法と呼ばれる釈尊の指導法は相手により、状況によって千差万別だった。
 言い換えれば、釈尊は千本の手に象徴される無限の方便を持つ千手観音である。
 こうした方便は、2500年の時をかけて整理され、深められ、修行の手引きであるお次第となった。
 自分に合った師を見つければ、必ずや師は適切な方便を授けるだろう。

 さて、善悪についてはどうだろう。
 十善戒の布教に生涯をかけた慈雲尊者は「瓔珞経(ヨウラクキョウ)」の一節をもって明快に説かれた。

「理に順じて心を起こすを善といい、背くを悪と名づく」


 道理・真理に合った心が善であり、背く心が悪である。
 尊者は続けて断じる。

「仏性(ブッショウ)に順じて心を起こすを善といい、これに背くを悪という」


 つまり、「理」は「仏性」であり、み仏の子である万人に具わった仏性が輝けば、身体も、言葉も、意志も、善なるはたらきをするのだ。

 ならば、「方便」とは、「仏性」を輝かす方法に他ならない。
 たとえば写経である。
 お手本となっている文字の一つ一つがそのまま写されれば、一文字一文字に秘められたそれぞれのみ仏が立ち上がってくるとされている。
 また、〝自分はうまくないな〟と気づくことが、仏性を汚しているものに気づくきっかけであるとも説かれる。
 たとえば経文を読み真言を唱える読経である。
 気分によって激しい抑揚がついたり、異様なだみ声になったりすれば、経典の清浄さはどこかへ行ってしまう。
 読み手の心はご本尊様やご先祖様へ届くだけでなく、聴き手の心へも鏡のように映し出されることを忘れないようにしたい。

 殺人は悪である。
 戦争も悪である。
 海軍大将となった最後の軍人井上成美(イノウエシゲヨシ)は日独伊三国同盟に反対した。

 「日本が亡びるようなときには戦争もやむをえないし、部下に死地に赴くよう命令もできる。
 しかし、国策の延長として独伊と結び、戦争に入るのは許せない。」

戦争というのはいいものではなく、私は、戦争は刑法でいう死刑と同じ必要悪だと、罪悪だと思います。
人を殺したり、人の物を破壊したり、そんなことをするのは、交戦国の権利として認められてはいるが、国の行為としては悪行為なのです。」


 何としても国民一人一人のいのちを守り抜こうという思いが感じとれる。
 およそ国をあずかる為政者は、いかなる艱難辛苦にも耐えて国民を殺さず、殺させないという強い決意を持ち、その決意は、うわべの言葉だけでなく、周囲に感得されるほどでなければならないと思う。

 善悪は、いかなる場面にあっても必ず明確にすべきである。
 むろん、善悪をあいまいにし、釈尊の教えをないがしろにする仏教などはあり得ない。
 他の悪を見て己の内なる悪におののき、善に向かって辛苦する過程が修行であり、そこを通って行く先に一段、上のステージが待っている。
 このステップアップを信じて何らかの修行を行う実践者こそが仏教徒だ。
 オウム真理教の誤りは、仏教を標榜しながら善悪の判断という根本を見失ったまま、思いつきの訓練へ走ったところにある。
 まっとうに生き、善悪をつきつめ、壁にぶつかり、その苦悩と正面から向き合った人が正当な伝授を受けて行う修行こそが本ものであり、み仏は必ずや救いのみ手を差しのべてくださるに違いない。




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2016
02.04

目を伏せて空へのびゆくキリンの子 月の光はかあさんのいろ ─セーラー服の鳥居─

201602040001.jpg
鳥居氏のサイトからお借りして加工しました〉

 2月3日付の朝日新聞『ひと』の欄で歌人鳥居氏を知った。
 まず経歴に驚いたが、何よりも最後に掲載された一首にはノックアウトされたような感を覚えた。

「目を伏せて空へのびゆくキリンの子 月の光はかあさんのいろ」


 嵐のような家庭的経験の結果、目を伏せて生きるしかなくなったが、それでもいつしかキリンの子は育つ。
 すくすくと、空へ向かって。
 喧騒の昼が去り、静かな夜がやってくると、月光が佇むキリンを優しく包む。
 キリンは目を伏せたままだが、月光はキリンの色と模様を際立たせ、表情を和ませる。
 遥か遠く、手の届かないところにいる「かあさん」は、立つキリンの存在を丸ごと祝福し、守っている。

 記事は書く。

自殺し、自らも自殺未遂をした。
 児童養護施設でいじめにあい、公園の水を飲んで空腹をしのぐホームレスを経験した。
 絶望の縁の体験を短歌に詠む。

『1首1行。
 すっくと立つ短歌に一目ぼれした。
 短歌があるから私はひとりぼっちじゃない』」


 キリンはまぎれもなく「すっくと」立っている。

 ネットで探したところ、2月に出版される本の紹介と共に、6首が載っていた。
 読んでみたい。

「あおぞらが、妙に乾いて、紫陽花が、あざやか なんで死んだの」


 アジサイには雨が似合う。
 それなのに空が晴れ、アジサイは陽光に湿り気を奪われたまま、否応なくあぶり出されたように色鮮やかだ。
 瑞々しさを伴わぬ悲しい美しさ。
 氏が小学5年生のおりに、大量の睡眠薬を飲み、台所で倒れていた親は美しいままだったのだろうか。

「揃えられ主人の帰り待っている飛び降りたこと知らぬ革靴」


 氏は自殺未遂を経験している。
 きちんと革靴を揃えて決行したのだろうか。
 何も知らない革靴は律儀にも、再び履かれる時をいつまでも待っている。
 哀れなのは飛び降りた者、そして、遺されたモノ。

「慰めに『勉強など』と人は言う その勉強がしたかったのです」


 氏は「中学校は満足に通っていない」し「施設にあった新聞を辞書をひきひき読み、字を覚えた」のだ。
 学校へ行けないお子さんへ「何も学校へなんか行かなくたって大丈夫」、「勉強などできなくたって立派な人になるのが一番」などと気安く言うが、学校へ行けない環境にありながらも勉学への意志を持っているお子さんにとっては、何の慰めにもならない。
 病気になり健康を取り戻したいと願っている人へ、「健康なだけが人生ではない」とかける言葉に、いかなる内容があろうか。
 氏は「成人した今も、学ぶことの象徴として」セーラー服を着続けている。

「花柄の籐籠いっぱい詰められたカラフルな薬飲みほした


 氏の親はシングルマザー、「うつ病で寝たきり」だった。
 うつ病の人は突如、気分が高揚して力を回復し、驚くほど快活になったり、行動的になったりする場合がある。
 親も「花柄」にはしゃいだ瞬間があったのだろうか、それとも、だれかが回復を願ってそうしたものを置いたのだろうか。
 いずれにせよ、何かの拍子に強い力がはたらいて「飲みほした」のは事実だ。
 ままならぬ生命力の谷と山……・

「ふいに雨止むとき傘は軽やかな風とわたしの容れものとなる」


 氏は「公園の水を飲んで空腹をしのぐホームレス」だった。
 そんな時、酷薄でない「軽やかな風」は嬉しい味方だったのだろう。
 傘は雨から守ってくれただけでなく、味方と共にいる自分をも守り、親和に満ちた空間を確保してくれている。
 これほどまで傘へ感謝できるものだろうか。

 そしてもう一首は冒頭の歌だった。
 記事はこう締めくくられる。

「家を転々とし、中学校は満足に通っていない。
 施設にあった新聞を辞書をひきひき読み、字を覚えた。
『育つ環境で義務教育もままならない人がいるよ、と伝えたい』。
 成人した今も、学ぶことの象徴としてセーラー服を着る。

 現実を忘れたくて訪れた図書館で、穂村弘さんや吉川宏志(ひろし)さんの歌集に出会う。
 五七五七七に様々な思いや情景がうたわれ、映画のように見えた。
 漢字にルビをふってもらい、歌集を日々読む。

 年齢も本名も明かさず、不登校や夜の街で働く人と歌会を開く。
 誰とも先入観なく向き合いたいから。
 好きな短歌を披露しあううち自然に悩みも打ち明けられる。
短歌は心のセーフティーネットになれるんじゃないかな』

 大阪での暮らしは厳しく日に1食というが、声は明るい。
 第1歌集の題は『キリンの子』である。

 目を伏せて空へのびゆくキリンの子 月の光はかあさんのいろ」


 2月10日の出版が待ち遠しい。




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2016
02.03

2月の運勢 ─スウェーデンやアメリカを眺める─

201602030001.jpg

 2月の運気の流れについて要点を記します。
 今月は全体的に不安定で、何をしようにも確かな具体策が見つかりにくく、もどかしい状況になりやすい時期ですが、もしも、〈変わり目〉をつかんだならば慎重かつ、確実にチャンスを生かしたいものです。
 こうした時期に大切なのは、自分が早く進みたい時ほど、皆のことを考える必要があるということです。
 他人を押しのける〈自分だけ〉の姿勢ではチャンスを失しかねません。
「おたがいさま」の気持で動けば、自分も「おかげさま」に助けられるのです。
共生」がキーワードです。

 共生と言えば、スウェーデンの「積極的労働市場政策」が思い出されます。
 充実した職業教育・失業者や転職者への手厚い教育・再就職の支援などによって労働の高い質が確保されています。
 かつてハンソン首相は、理想国家『国民の家』を目指そうと説きました。

「私たちはしばしば、社会(国や市)を、私たちの共通の家、国民の家、市民の家と見なす。
 家の基礎はコミュニティと相互依存の意識である。

「良い家では、平等、配慮、協同、援助が優位を占める。
 偉大な国民と市民の家にあてはめると、これはあらゆる社会的かつ経済的バリアをなくすことを意味する。
 社会的かつ経済的なバリアが、現在、市民を特権と不遇、支配者と依存者、富者と貧者、高額の資産のある人とそうでない人、搾取する人と搾取される人に分けている。」


 スウェーデンでは労働者の7割が3大労働組合に加盟しつつも国民全ての発展を第一とし、企業もまた社会への貢献を第一としています。
 選挙の投票率は常に7~8割、国民の総意として福祉国家が推進されています。
 権力者が好き勝手なことをせず、国民全体の意志が名実共に国家運営の主役であるという実感があるからでしょう。
 その結果、この国は第一次、第二次世界大戦でも中立を保ち、約二百年間、戦争に加担していません。

 また、「自然享受権」があり、木を伐れば必ず植えねばならず、山河や風景は基本的に「共有財産」として大切に保護されています。
 この「緑の福祉国家」は過去半世紀近く工業国としてGDPを伸ばしているにもかかわらず、エネルギー消費量は横ばいです。
「環境法典」を制定してからもうすぐ20年です。
 
 スウェーデンは遥かに遠い国ですが、同じ地球上にあります。
 学ぶ心があれば隣人と言えましょう。
 ちなみに、私たちに身近な「ムーミン」は、フィンランド人のトーベ・ヤンソンによって書かれましたが、用いられたのはスウェーデン語です。
 ともあれ、今月のような動きが緩慢になりやすい時ほど、目を広く見開き、根本的な問題をよく考え、しっかり行動しましょう。

 ところで、2月1日、アメリカ大統領選挙にけるアイオワ州の党員集会が開かれ、民主党はヒラリー・クリントン氏が辛勝しました。
 わずかな差で敗れたバーニー・サンダース上院議員(74才)の主張は瞠目すべきものです。
 彼は自ら「社会民主主義者」を名乗り、正義を求めるアメリカの社会であまりの格差は許されないと主張、その是正を政策の柱としています。
「1パーセントの人々のためだけでなく、全国民のために働く政府の実現を!」
 アメリカは、自由競争こそがバラ色の未来を招くとし、成功者が英雄視されてきた一種の実験国家です。
 20世紀になり、女性、黒人奴隷、先住民にも権利の平等が認められて以来、自由を絶対視してきましたが、今や、弱肉強食の放置は人間社会に著しい不公正を招くとして、正面から糾弾される事態に立ち至りました。
 オバマ大統領の時代になってすら、ここ3年間で上位1パーセントの富裕層は収入を4割増やし、99パーセントの人々は収入を僅かながら減らしています。
(アメリカの実態はキリスト教徒が主導する階級社会です)
 彼の公約は富裕層への増税、大企業の課税逃れの取り締まり強化、国民皆保険制度、公立大学の授業料無償化と徹底しています。
 自由競争の果てに生じる膨大な〈敗者〉や〈弱者〉を見捨てられないだけではありません。
 彼を支持する若者たちは、勝者や強者の〈層〉と敗者や弱者の〈層〉との間が途方もなく広がっただけでなく、今や、それが固定化しつつあることに対して不満どころか危機感を抱いています。
 まことに異例なことに、彼の選挙資金の7割は1口30ドルに満たない少額の寄附によるものです。

 私たちの社会は、人間が思いつく単純で単一な原理だけでは、うまくゆかないものなのでしょう。
 かつてのソ連に代表される共産主義の実験が失敗に帰しただけでなく、アメリカや日本における自由主義の実験も、あまりの弊害をもたらしてしまったことは明らかです。
 イスラム原理主義ももちろん、例外でないはずはありません。
 古人は「人の振り見て我が振り直せ」と言いました。
 人類の歴史はまだ、たかだか20万年です。
 弥勒菩薩(ミロクボサツ)が私たちすべてを残らず救い尽くしてくださるまでは56億7千万年かかるとされています。
 単純な原理を主張するだけでなく、客観的な視点を失わずに学びたいものです。
 それを基に改善する素直で、目先の利にとらわれず、地道な努力がいつの時代にも求められるのではないでしょうか。
 大統領選挙を通じてアメリカがいかなる変貌を遂げて行くのか、楽しみです。

 だいぶ、横道にそれました。
 今月は「共生」をイメージして自分の利を性急に求めず、周囲に起こる動きを冷静に眺め、全体の流れの中でつかみたいものをしっかりとつかむ智慧をはたらかせましょう。
 きっかけを見逃さないためにも、確かな宝ものを得るためにも、守本尊様へ祈りたいものです。 




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「おん あらはしゃのう」
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2016
02.02

イラク戦争と靖国神社への祈り(その18) ─感謝と敬意─

201602020001.jpg

 平成16年1月、自衛隊のイラク派兵に鑑み、仏神と祖霊のご加護で自衛隊員の無事帰還をはかるべく、靖国神社へ向かって托鉢行を始めた。
 世界の情勢が急変を見せ始めた今、そのおりの記録を加筆訂正しながら再掲しておきたい。
 不戦日本の願いを込めて。

 まだ、再出発の日を待っている。

○新たな日々(2月26日)

 好意で当山のホームページを管理してくださっている方や協力してくださっている方はもちろん、見てくださる方々にも深い感謝敬意を抱いている。
 ネットでもテレビでも、五感を瞬間的に刺激する面白おかしい情報や戦いの場面が目につく。
 笑いも怒りも恣意的につくられる。
 一方、み仏の教えは、厳しく、耳に痛い面はカットされ、話術や文章の巧みな人々によって、耳をくすぐる〈ちょっといい言葉〉として流布される。
 み仏におすがりして救われるしかないギリギリの現場などは、それがあることすら知られていない。
 普段、必要とされない仏法はあまり関心を持たれず、寺院僧侶も徐々に、〈要らないもの〉とされつつある。
 あるいは、儲けの道具として商業主義に組み込もうとする動きすらある。
 こうした時代に、四角く固い仏法のページを創っていただき、誰かに読んでいただけるのはただただ、ありがたい。

 感謝敬意は、人生相談やご祈祷に訪れる方々へも抱いている。
 皆さんから教えられることや気づかされることが山ほどあるのだ。
 人間関係に苦しんだAさんは、さる教団へ入信したが、求められるお布施が用意できず、勤労奉仕でまごころを尽くしているつもりだった。
 ところが、すぐに周囲から、汗をながすのは当たり前と受けとめられるようになり、一生懸命やればやるほど、金品を修められない肩身の狭さが募って教団を離れようとした。
 そうなると今度は、皆で引き留めにかかられ、ようやく、教団の真姿に気づいた。
 魂の解放をめざすはずの宗教者たちが、信者を縛ろうとすることなどあってはならない。
 いかに高邁な旗を掲げようと、信者を縛ろうとする教団は必ず他の宗教宗派への攻撃的姿勢を持っており、社会的に見れば、そのこと自体が大いに問題である。
 
 脱出劇を切々と訴えるAさんの涙目は忘れられない。
 そもそも、信徒さんが差し出すお布施と、寺院が行う法務のバランスがとれて成り立つ寺院にあって、〈慣れ〉は魔ものである。
 たとえば、護摩法の後で信徒さんがお手伝いくださる仏器磨きのご奉仕は、尊い布施行の実践であり、寺院側は常に心して受けねばならないが、やってもらって当たり前という感覚になれば、不満や傲慢が顔を出し、謗ったり命じたりするようになる場合がある。
 そうなると、奉仕する側にも反発や幻滅や不信が生じて、布施行は腐敗し破綻する。
 何万回同じような動作を繰りかえそうが、布施についても法務についても、行う側・受ける側双方共に、常に心新たでなければならない。
 なぜなら、財物や身体を用いての財施(ザイセ)も、修法による法施(ホウセ)も、その都度、己をみ仏へ投げ出し、己がみ仏に成る行為だからである。
 惰性で「投げ出し」、慣れて「成る」ことはあり得ず、それは偽ものだ。

 平和な日本が保たれ、明日もいのちあるならば、明日も新たでありたい。
 感謝敬意を忘れずに。
 ──ご縁の方々と共に。




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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