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2016
03.31

天災と人災 ─戦争と震災の話─

2016-03-31-0001.jpg

 引導を渡した方の言葉に中村哲医師の言葉が重なり、書き置かずにはいられなくなった。

1 敗戦を生き延びたAさん

 ある時、枕経で祈ったAさんはあまりに昂然としておられ、驚いた。
 ご遺族からの身の上話では、少女時代を満州で送ったという。
 勃発した戦争敗戦は、それまでの〈人生〉を奪い去った。
 家運隆盛の生活は夢のまた夢。
 みずぼらしい引揚者となって親族の家で暮らし、若い女性ながら列車に乗って闇米の買い出しなどを行い、家族、親族のために身を粉にしてはたらいた。

 それから半世紀以上が過ぎ、今度は東日本大震災に遭った。
 生活の崩壊と、周囲にあふれる膨大な死と悲しみは徐々にAさんの心身を蝕んだが、常にこう言っていた。

「これは天災でしょ。
 戦争に比べたら、まだまだ……。」


 そして、手元にある食材を用い、できるかぎりの料理を作っては家族や客人に精いっぱい振る舞い続けた。
 人間がもたらす巨大な愚行に対して〈挫けざる者〉の矜恃は、天災に遭ってなお厳然と揺るがなかったのだろう。

2 アフガニスタンの医師中村哲

 30年以上、アフガニスタンで人々を救い続ける医師中村哲氏は言った。

天、共に在り

私たちが己の分限を知り、誠実である限り、天の恵みと人のまごころは信頼に足る。


 穏やかな人々の暮らしが戦争によって脅かされるという巨大な不条理の中にあってなお、誠実に生きる時、人間は真の勇者であり、真人間であり続けられる。
 氏の人生は戦時中の空襲に始まり、「常に米軍が影のように」つきまとい、破壊者の影は「アフガニスタンまで」追いかけてきた。
 以下は著書『天、共に在り』による氏の述懐である。

「いま、きな臭い世界情勢、一見勇ましい論調が横行し、軍事力行使をも容認しかねない風潮を眺めるにつけ、言葉を失う。
 平和を願う声もかすれがちである。

 しかし、アフガニスタンの実体験において、確信できることがある。
 武力によってこの身が守られたことはなかった。
 防備は必ずしも武器によらない。

 一九九二年、ダラエヌール診療所が襲撃されたとき、『死んでも撃ち返すな』と、報復の応戦を引き止めたことで信頼の絆を得、後々まで私たちと事業を守った。
 戦場に身をさらした兵士なら、発砲しない方が勇気の要ることを知っている。

 現在力を注ぐ農村部の建設現場は、常に『危険地帯』に指定されてきた場所である。
 しかし、路上を除けば、これほど安全な場所はない。
 私たちPMSの安全保障は、地域住民との信頼関係である。
 こちらが本当の友人だと認識されれば、地元住民が保護を惜しまない。

 そして『信頼』は一朝にして築かれるものではない。
 利害を超え、忍耐を重ね、裏切られても裏切り返さない誠実さこそが、人々の心に触れる。
 それは、武力以上に強固な安全を提供してくれ、人々を動かすことができる。

 私たちにとって、平和とは理念ではなく現実の力なのだ。
 私たちは、いとも簡単に戦争平和を語りすぎる。
 武力行使によって守られるものとは何か、そして本当に守るべきものは何か、静かに思いをいたすべきかと思われる。」

「いたずらに時流に流されて大切なものを見失い、進歩という名の呪文に束縛され、生命を粗末にしてはならない。
 今大人たちが唱える『改革』や『進歩』の実態は、宙に縄をかけてそれをよじ登ろうとする魔術師に似ている。
 だまされてはいけない。
『王様は裸だ』と叫んだ者は、見栄や先入観、利害関係から自由な子供であった。
 それを次世代に期待する。」

「科学や経済、医学や農業、あらゆる人の営みが、自然と人、人と人との和解を探る以外、我々が生き延びる道はないであろう。
 それがまっとうな文明だと信じている。
 その声は今小さくとも、やがて現在が裁かれ、大きな潮流とならざるを得ないだろう。」


3 人災に抗するもの

 私たちは天災を畏れ、防備に精を出す。
 しかし、天災は人智を超えているから天災であり、完全防備は不可能なので常に逃げる方法を考えておく必要がある。
 大自然がもたらす天災は、大自然の一部である人間にとって、いわば存在者の宿命である。
 だから、浜の人々は、海による犠牲者を供養すると共に、時として災厄をもたらす海をも供養する。(山内明美准教授)
 いのちを奪うこともある海は、決して〈敵〉ではあり得ない。

 一方、戦争は思い上がった人間による人災である。
 そして、人災は人間の行為であるがゆえに、それも丸ごと〈大肯定〉されはしない。
 ここが天災とは決定的に異なっている。
 愚かさに気づいた人間は、それを克服しない限り納得できない。
 霊性に発する良心があるからだ。
 冒頭に書いたAさんの言葉どおり、人災をもたらすものは、その根源を断たない限り悪魔として存在し続け、人間を脅かし、消えない傷を与え続ける。
 良心は、悪魔との永遠の戦いを命ずるからこそ良心である。
 
 中村哲氏は、砂漠に水を引くという自然との戦いに勝利したが、それは畢竟、「自然と人」との「和解」の範疇である。
 しかし、戦争との「和解」はない。
 終熄させる、つまり、存在させなくするしか、悪魔への対処法はない。
 氏は、悪魔をもって悪魔へ対峙する愚かさを説いている。
 具体的対処法は「人と人との和解」のみであろう。
 氏は実践者として、そこに目覚めよと言う。
 今、世の中を動かしている〈去り行く世代〉の義務が何であるか、よくよく考えたい。
 Aさんのように、現に去りつつある人々の冥福を祈るためにも。




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2016
03.30

政治不信の先に待つものは? ─お互いを尊び合おう─

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 当山は宮城県黒川郡大和町の宮床という田舎にある。
 近くではクマが出没して子供たちを脅かし、イノシシに畑がやられたりする。
 3月27日、町議会議員選挙の投票があった。
 投票率は53・53パーセント。
 4年前の59・08パーセント、8年前の65・24パーセントと比べると、まさに〈つるべ落とし〉である。

 ある候補者は、選挙中に述懐した。
「こんな選挙は経験がない。
 なにしろ、畑仕事をしている人のすぐそばを通っても、まったく知らん顔の人が結構いるし、町場でも反応が少ない。
 世の中がすっかり変わった。
 恐ろしい気がする」

 事実、ほとんどの現役当選者は、前回の選挙よりも獲得票数を減らした。
 大和町は大企業の進出がめざましく、人口も増えている勢いのある地域なのに、候補者が肌で感じたとおり、政治への関心は薄れる一方である。

 法学博士樋口陽一氏の言葉を思い出す。

「競争の末に勝ち組に振り落とされた弱い者も幸福追求ができるよう、社会権というものを深める方向でこれまで考えてはきたけれど、新自由主義的な憲法観が全面化されれば、崩れてしまう。
 そんな状況下では、個人は個人であることのつらさや寂しさに耐えられない。
 そこで起こるのは、集団の温かみに救いを求めるということですね


 ここで指摘されている状況は深刻だ。
 簡単に使い捨てられる労働者は、生きて行く糧を得るという生活の基盤が常に脅かされ、不安を持っている。
 また、子供が遠くへ巣立ち、夫婦は離婚が珍しくない現在、家庭や家族は心の止まり木としての役割を薄めつつある。
 近年、〈個の自立〉を求めて来た歴史は、無慈悲新自由主義と、自由を第一とする生活形態の激変により、〈個の不安定〉や〈個の孤独〉を深め、耐えられないほどの「つらさや寂しさ」をもたらしつつある。
 しかも、共同体としての社会を動かす人々に、その大役にふさわしい人品や素養や識見を感じられないなら、私たちはどうなるのだろう。
 北海道を司る大臣が北方四島の名前を読めなかったり、次の参議院議員選挙で圧倒的な票数をかき集めると目されていた人物が血眼になって不倫に精力を傾けていたなど、政界に棲む人物たちの低レベルぶりに国民はあきれ果てている。

 選挙での投票が役に立たないならば、私たちは、私たちの手で社会を創り、保つことができない。
 権力者はますます権力を強め、資本家はますます富を蓄えるだろう。
 人間は〈より多く〉と求める存在であり、権力者はより権力をふるいたく、資本家は富をより膨らませたく、その歯止めがどこにもなくなるからである。
 そして無力な個人は、何か「集団の温かみ」を求めずにはいられない……。

 そこへ〈美しい国家〉や〈信じれば救われる宗教〉といった〈疑似家族〉が提供されたなら、私たちは健全に〈個〉を保てるだろうか?
 尊厳ある者として互いに互いを真に尊び合うまっとうな個人であり続けられるだろうか?
 アメリカではトランプ氏が強い国家と正しい宗教を掲げ、躍進しているが、その一方では深刻な対立や憎悪や亀裂を招いている。
 自分の国や自分の信じる宗教を絶対化し、他国や自分の信じない宗教を尊ばない指導者の姿は、恐ろしいことに国民の熱狂的同調を生みつつある。

 これは決して対岸の火事ではない。
 確かに今は「個人であることのつらさや寂しさ」に耐え難い時代である。
 社会と私たちの心に〈無慈悲〉という化けものが育ち、絶望という闇が膨らみつつある。
 作家辺見庸氏は書いた。

「現状は全く絶望的ではありますが、絶望と希望の境をどこに見つけるか。
 簡単なようで、これは簡単ではない。」


 戦争体験者のAさんは言う。

「私は一票を入れるためだけに生きています。」


 一宗教者として思う。
 自分の心にある〈無慈悲〉を直視し、社会の〈無慈悲〉を見逃さず、慈悲と智慧で消すための長い努力を続けよう。
 誰かから与えられた国家像や、食虫植物のような閉じた宗教に引き込まれず、互いを尊び合う社会と人間を目ざそう。




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2016
03.30

「私の八月十五日」を読む(第二回) ─勝ち戦で知らされた敗戦─

2016-03-30-0001.jpg
〈光か影か〉

 仙台市泉区長命ヶ丘に「ほっといっぷく」という高齢者のサークルがある。
 年に8回、集い、そのうちの一回は子供たちとの交流会に当てられる。
 ある時、乃木大将の詩吟をきっかけにして、「私たちは8月15日をどう迎えたのだろう」という話題になり、それぞれの体験談が冊子「私の八月十五日」にまとめられた。
 語られた方がなくなり、法事の席で読み上げられるなど、子や孫の世代へ伝えておきたい真実が、徐々に人々の心へ伝わりつつある。
 編集されたKさんが当山に深いゆかりの方であるというご縁によって、このたび、増刷した一冊をいただき、ネットでのご披露をお許しいただいた。
 どの稿も、涙なしには読めない。

 以下、順次、転載したい。
 願わくば「不戦日本」が揺るぎなきものでありますよう。

○私の八月十五日 (A・M T9生 男性)

 私は昭和十六年三月二十二日、二十一才の現役兵で入隊しました。
 中支派遣軍、独立野戦銃砲兵、第十五聯隊として大阪に集合、入営致しました。

 その後、佐世保港より輸送船で中国に向かい、揚子江を遡って一ヶ月がかりで無昌に参りました。
 武漢大学が我等の弊社でしたが、白亜の殿堂は龍宮城を感じさせるものでした。
 我々はここで兵隊の教育訓練、一期検閲を受けました。

 昭和十六年の九月頃、初めて宣昌作戦に参加しました。
 揚子江の上流にある所で、宣昌峡という険しい岩山での戦いでした。
 敵は軍艦から射ってきますから、こちらの兵舎の回りに着弾します。
 部隊で使っていた苦力(クーリー)が河岸に水を汲みに行ったところ、十五粒の砲弾射撃を受けて、跳びあがっているのを見ました。
 戦をしていながら稲刈りをしたり、米作りをしながらの毎日でした。

 昭和十八年六月、白洋陣地に待機中のことですが、路上を駄馬部隊が通過しようとした時、敵機が来襲し機銃掃射をしてきました。
 隊長は先頭の馬上で。馬もろとも胴原腹を射抜かれて戦死兵隊たちも蟻の子を散らすようにバラバラになる有様でした。

 その後、私は将校に編上靴を貸してくれと頼まれたことがありました。
 そこで靴を取りに貨車に上って行ったその時、再び敵機来襲、爆音だというので空を見上げるや、頭上に来ておりました。
 瞬間的に飛び降りたところにバラバラと機銃掃射をして来まして、貨車のシートが燃え上がりました。
 貨車には連隊本部の重要書類や兵器、観測器、ドラム缶等が積んであります。
 敵は八機の反復襲撃、秒を競う合間に兵隊たちを呼び集めて、火のついたシートを払い除け、「それ来たぞ」と言っては土手にぺたりと逃げ隠れを繰り返していました。
 弾丸は一メートル間隔に砂塵を挙げて炸裂します。
 物は蹴落とす、爆風で書類は飛び散る、敵機はまた来て襲撃を繰り返す。
 土手に逃げ隠れしていても、生きた心地などあるものではありませんが、貨車は守り通しました。
 後から見ると、編上靴は弾丸に射抜かれておりました。
 間一髪で命拾いを致しました。

 その後、当陽地区に移動、私は守備隊長を命ぜられたのでした。
 当陽飛行場も襲撃を受け、全面的に荒らされておりました。
 そこで掃射戦を行いました。
 平坦地の所で、友軍と敵軍との迫撃戦となり、高台から見ておりました部隊長が、即座に砲列に命を下して、敵軍の後方に発射、敵を追い乱したのです。
 また他方では我等も敵を追いつめ、敵前二百五十メートルの地点まで出た時、初年兵の若山戦友が私に近寄って来たところで、機関銃で喉を射抜かれて戦死しました。
 可哀想なことをしました。
 この戦いでは我が軍でも数十人の戦死者を出しました。

 その後、湘桂戦にも参加しまして、長沙、桂林を攻撃して占領、後は周家村に滞在しておりましたが、その後、上海付近に転進命令を受けたのでした。
 昭和二十四年四月、上海郊外、羅点鎮地区陣地構築の任務についておりましたが、八月十二日には全部が完了したところでした。

 八月十五日部隊全員が営庭に終結、無線にて終戦の命を受けました。
 中支戦線に於いては、苦戦こそありましたが勝ち戦ばかりでしたから、敗けたことには本当に驚き、口惜しい思いでなりませんでした。
 終戦と同時に、我々は上海西兵舎に移動しまして、兵器の接収がなされました。
 軍司令官の「大命の終戦であるから、火砲、兵器をこれまで通りに手入れをして、支那(中国)軍に引き渡すように」との命令で渡しました。

 その後、我が聯隊は副官の指揮で、上海の貨物敞から糧米を運んで確保しました。
 兵器を接収された後は支那(中国)の土民(現地人)までが、敗けた日本の兵隊に対して、身につけている時計とか手拭いとか、何であれ、無理やりにかっぱらって行くようになりましたので、隊長は棒を持って歩くように、そして腰から下は撲り返して良いということになりました。

 支那(中国)軍は日本兵に、罪として米運びをさせておりました。
 また他方では、日本軍から接収した火砲の使用法説明のため、教育隊を派遣させ、一年間近くも支那(中国)軍と寝起きを共にして指導訓練させました。
 他の部隊では、奥地から上海に帰ってきた兵隊達が、上海の街の泥さらいをさせられておりました。
 
 昭和二十一年五月、復員ができるようになりまして、各自がリュックサックを作り、帰国の準備でした。
 私は経理室の縫製工場に行き、縫工兵と共に洋服を縫って、隊長、将校、下士官に渡しておりました。
 上海より佐世保港に帰り、検疫を受けて暫く滞在した後、地方ごとに各自、故郷に向かいました。
 私どもは敗戦であるが故に、胸を張って故郷に帰るのが重く、家族に電報も打たずに帰ることにしました。
 二本松の駅に着いた時、中年の女の人が近寄って来て、
「どちらから帰ってきましたか。」
と聞くので、
「中支から帰ってきました。」
と答えましたが、あの人も誰か、復員して来る兵隊さんを待っているようでした。
 我が家に帰ったら、家族はみんな喜んで迎えてくれました。
 



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2016
03.29

「私の八月十五日」を読む(第一回) ─亡くなった母親の胸で泣いていた赤ん坊─

2016-03-29-0005.jpg

 仙台市泉区長命ヶ丘に「ほっといっぷく」という高齢者のサークルがある。
 年に8回、集い、そのうちの一回は子供たちとの交流会に当てられる。
 ある時、乃木大将の詩吟をきっかけにして、「私たちは8月15日をどう迎えたのだろう」という話題になり、それぞれの体験談が冊子「私の八月十五日」にまとめられた。
 語られた方がなくなり、法事の席で読み上げられるなど、子や孫の世代へ伝えておきたい真実が、徐々に人々の心へ伝わりつつある。
 編集されたKさんが当山に深いゆかりの方であるというご縁によって、このたび、増刷した一冊をいただき、ネットでのご披露をお許しいただいた。
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○発刊によせて (長命ヶ丘一丁目町内会 会長永山三男)

 長命ヶ丘一丁目に『ボランティアほっと』が開設されてから十年の節目を迎えました。
 この会をお世話されてきた福祉部の皆様、そしてお集まり下さっている高齢の皆様方(寿会)に感謝を申しあげます。

 さて、昨年、定例の交流会の席で寿会の方から『』という質問が出されて、参加された方々に次々と当時のお話を語っていただきました。
 その後、このお話を次の世代にも伝えておこうという事に至った次第です。

 太平洋戦争が終結してから五十九年になります。
 当時の有様が忘れ去れようとしている今日ですが、戦争中、何事にも耐えながら生き抜いて来られた方々の貴重なお話です。
 有志の方々に原稿作成をお引き受け頂きましたので、題名を『私の八月十五日』として発刊することに致しました。
 どこにもない、又これまでにもなかった体験秘談の貴重な冊子となりました。
 長年に亘り、この会にお集まり頂いております皆様方の心と心のふれあいから生まれたものと思っております。

 発刊にあたりましてご協力いただいた寿会、『ボランティアほっと』の皆様に心から感謝を申し上げる次第です。

○私の八月十五日 (I・H S12生 女性)

 私は父の仕事の関係で、当時、秋田におりました。
 まだ、幼かったので、当時のことは何も覚えていないのですが、ひとつだけ鮮烈な印象として残っていることがあります。
 ちょうど土崎の港が爆撃を受けたとき、私たちも逃げました。
 母に手を引かれて走る途中、激しい赤ん坊の泣き声が聞こえてきました。
 見ると、血だらけになった若いお母さんが、塀かコンクリートか何かに凭れて地面にべったりと座っていました。
 赤ん坊は、そのお母さんの胸の中で泣いていたのです。
 たぶん、あのお母さんは息絶えていたのでしょう。

 みんなみんな、自分の逃げることに必死だったのだと、いま思います。
 あの赤ん坊が生きておられれば、もう六十才近くになられたはずです。




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2016
03.29

Q&A(その22)お戒名はどうやって決まるか? ─テレビでは語られない〈宗教行為〉─

2016-03-27-0002.jpg

 帰山したところ、たまたま「ぶっちゃけ寺」なるテレビ番組が目に入った。
 ある住職はお戒名を二つ作り、ご尊家様に気に入った方を選んでもらったり、二つから気に入った文字をご尊家様と一緒に組み合わせて完成させたりするという。
 司会者やコメンテーターのペースで、おもしろおかしく語られているのは〈経済行為〉でしかなく、死の絶対性に正面から向き合う〈宗教行為〉は語られていないと思われた。

 当山のやり方をもう一度、書いておきたい。
 当山では、故人の誕生日や命日などの情報を頭へインプットし、ご本尊様と一体になった状態で、ご本尊様から降りてきた文字を並べる。
 こうする理由は、一介の行者が、あの世という親元へ旅立つ〈みの子〉である御霊を特定するためのお戒名を求める場合、こうするしかないからである。

 この世へ生まれた私たちは、この世の親が〝──幸せな人生を歩めるように……〟と懸命に考え尽くした果てに現れた名前を授かって一生を過ごす。
 真であれ、華であれ、一生、自分の名前によって少なからぬ影響を受ける。
 だから名前は必ず、イメージのよい文字で構成される。

 親から授かった肉体の耐用年数が過ぎれば、今度は、の故郷であるあの世へ還って行く。
 肉体を離れ、霊性だけになった存在へ、今度はあの世の親であるみが名前を授けてくださる。
 それが、〝安心して欲しい〟〝迷わないで欲しい〟など、ご尊家様の希望に叶ったものであるよう、行者は至心に祈り、みからの応答を感得する。

 これが〈宗教行為〉というものであり、小生のような未熟者にとっては、こうするしかお戒名をお渡しする方法はない。
 ちなみに、お身内のお戒名をお送りしたAさんからいただいたお返事である。
「一文字一文字にとても感動し前向きに頑張りたいと思います」(Aさん、ありがとうございました。小生も頑張る力をいただきました)

 一文字一文字は、みの世界に連なっている。
 それを感じる時、私たちの心も、いのちも、清められ、本来の力を取り戻す。
 これが宗教の世界であり、お戒名をいただくという〈宗教行為〉の真実である。(宗教行為に値段のつけようがなく、まごころからのお布施によるしかない理由がいくらかはおわかりいただけただろうか……)




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2016
03.28

Q&A(その21)英雄って何? ─バトルで相手をやり込めるのが真の英雄ではない─

2016-03-27-0010.jpg

 スポーツでも、ゲームでも、パチンコですら英雄が求められる。
 胡散臭い人物清原和博氏がパチンコの人気キャラクターだったのは、つい、最近までのことである。
 そもそも英雄とは何か?
 芥川龍之介の短編小説『英雄の器』を読んでみたい。

 漢軍の大将呂馬通(リョバツウ)は、敵将項羽(コウウ)を打ち破り、上機嫌だった。
 そして、「項羽英雄の器じゃない」と断じる。
 項羽はたった28人の手勢で漢の大軍と戦い、逃げるチャンスがあったのに、むざむざと討ち死にしてしまったではないか、本当の英雄なら、自分が滅ぼされる運命であることがわかっていてもなお、最後まで戦い抜くはずだ、と言う。

 決戦に臨んだ項羽は、部下を前にこう宣言している。
項羽を亡(ホロボ)すものはだ。
 人力の不足ではない。
 その証拠には、これだけの軍勢で、必ず漢の軍を三度破って見せる。」
 そして三度ならず九度も勝利し、最後は自害した。

 呂馬通(リョバツウ)は、自分の負け戦を「」のせいにして、非力をごまかそうとするのは英雄ではないと重ねて断じる。
 しかし、耳を傾けていた劉邦(リュウホウ)は「一種の感動を、眼の中に現し」つつ語りかける。
 以下、文末までのやりとりである。

「そうかね。
 項羽はそんな事を云ったかね。」
「云ったそうです。」
 呂馬通は、長い顔を上下に、大きく動かした。
「弱いじゃないですか。
 いや、少くとも男らしくないじゃないですか。
 英雄と云うものは、と戦うものだろうと思うですが。」
「そうさ。」
天命を知っても尚(ナオ)、戦うものだろうと思うですが。」
「そうさ。」
「すると項羽は――」
 劉邦(リュウホウ)は鋭い眼光をあげて、じっと秋をまたたいている燈火(ともしび)の光を見た。
 そうして、半ば独り言のように、徐(オモムロ)にこう答えた。
「だから、英雄の器だったのさ。」


 決して抗することのできないの力によって滅ぼされることを知りながら、圧倒的多勢を相手に幾度も勝利した。
 しかも、漢軍に殺されることなく、自害した。
 のせいで負けたという言いわけはどこにもないし、負ける運命をつくった天に対しても、自害という形で受け入れを拒否した。
 だから項羽はまぎれもなく英雄の器だったと劉邦は指摘したのだ。
 
 呂馬通は、天命を知ってなお「立派に生きられる所」があるならそこへ逃げて、殺されるまで戦うのが英雄だと言うが、それでは目先だけ天命に抗しても、結局は天命どおり、負けて死ぬだけである。
 そうした行動は決して、「天命を知っても尚(ナオ)、戦う」英雄のものではない。
 臆病な人間の悪あがきでしかない。

 項羽が自分を滅ぼすものが「天」であると言ったのは、自分は決して、自分と同じ〈人間〉には負けないという意味である。
 大軍にうち勝ち、その証拠を見せた。
 つまり、滅ぼそうとする天に対して、超人的な力をもって抗したのだ。
 立派な英雄である。 

 しかも、天には抗し得ない者としての自分を深く自覚しながら、〈破れざる者〉としての矜恃を貫いた。
 負けて首を取られるのではなく、自ら首を刎ねたのである。
 逃げず、従容として天命に従いつつ、凡人の分際を超えた超人として死んだ。

 こうした項羽を、自分の器の範囲で眺め、貶めた呂馬通。
 英雄たる器をもって項羽の心を見透した劉邦
 二人を観ると、つくづく、人間の器というものを考えさせられる。
 それにしても、芥川龍之介はどこか、超人的である。
 英雄に近いのかも知れない。




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「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
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https://www.youtube.com/watch?v=EOk4OlhTq_M





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2016
03.27

空(クウ)と救い ―『チベットの生と死の書』を読む(14)―

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 全てが(クウ)なら人生は(ムナ)しいか?
 そうではない。 
 ソギャル・リンポチェ師は『チベット生と死の書』に、そこのところを説く。
 前回に続いて「と希望」を考えてみよう。

 私たちは一本の桜の樹を見て、〝あっ、桜が咲いた〟と気づく。
 桜の花々は、いのちを輝かせながら、そこに在る。

 しかし、その全体をじっと眺めているうちに一陣の風が吹けば、 花びらのいくつかは引きちぎられ、舞い落ちる。
 雨が降れば花びらのいくつかは地へ落ちるが、残ったものたちはいっそう輝き、濡れた枝も幹も嬉しそうに艶々する。
 地中へ染み込む水が根から吸い上げられ、巨大な幹や複雑に伸びた枝を通って末端の花びらたちへ潤いをもたらすさまも想像される。
 黒い雲間から再び太陽が顔を出し、世界に明るさが戻り、陽光が頬に温かく当たれば、その光と熱によって私たちを生かすのと同じく、桜をも生かしていると実感できる。

 その樹は、自分が子供の頃、こんなに大きくはなかったことを思い出すかも知れない。
 地震にも津波にも火事にも害虫にもやられず、人間に伐られもせず、今に至っていることにも思い至る。
 自分自身、枝を折らず、もちろんノコギリを当てもしなかったから樹はここに立っているのであり、自分が害を与えなかったこともまた、花びらの一枚一枚に関係しているのだ……。

 宇宙のあらゆるものが一本の樹を存在させている。
 あらゆるものとの関わりの中で桜は咲き、あらゆるものとの関わりの中で今、自分は桜を眺めていられる。
 桜も自分も(クウ)である。

「現代科学も広大な相互依存について語っている。
 生態学者(エコロジスト)たちは、アマゾンの熱帯雨林で燃える一本の木が、パリの一市民が呼吸する気を変化させることを知っている。
 メキシコのユカタン半島の蝶の一羽の震えが、スコットランドのヘブリディース諸島のシダに影響を与えることを知っている。
 生物学者たちは、性格と個性を形づくる遺伝子のめくるめく複雑なダンスの秘密を明かしつつある。
 はるかな過去へと広がって、『個性』と呼ばれるものがさまざまに異なる影響からなるひとつの渦であることを示すダンス。
 そのダンスの秘密を彼らは明かしつつある。
 物理学者たちはわたしたちを量子の世界に招き入れた。
 その世界はブッダが思い描いた、宇宙に広がるきらめく網のイメージに驚くほどよく似ている。
 その網の宝石のように、すべての量子は他の量子とさまざまに結合しうる可能性をもって存在しているのだ。」


 お大師様は、この〈網〉について説く「華厳経」を、密教の世界へあと一歩のところにあると高く評価した。
 密教のマンダラは〈網〉の具象化であり、マンダラと一体化する具体的な方法を実践するところに究極の即身成仏(ソクシンジョウブツ)がある。
 
 ソギャル・リンポチェ師は世界の真の姿を説いた。
 

「観想を通して、わたしたちを含むすべてのものの、その(クウ)と相互依存を真に見たとき、世界はより鮮やかな、より新鮮な、より明るい輝きのうちに、ブッダの言った宝石の網の無限の反射のうちに、その真の姿を現す。」


 聖者ミラレパは端的に説いた。

「空(クウ)を見て、慈悲を持つ」


 チャンドゥ・トゥルク・リンポチェは言った。

「つねに生は夢のようなものだと認識し、愛着と嫌悪を減じてゆきなさい。
 あまねくすべてのものを思いやりなさい。
 慈しみ、あわれみなさい。
 人があなたに何をしようとも、あなたがそれを夢と見れば、人のすることなど何でもない。
 要は、その夢のあいだじゅう肯定的な意思を持ちつづけること。
 これが肝心な点。
 これが真の精神性だ。」


 ダライ・ラマ法王の指摘である。

「今日の高度に相互依存しあった世界にあっては、個人と国家はもはや自分の問題を自分だけで解決することができなくなっている。
 お互いにお互いを必要とするようになっている。
 そのため、わたしたちは世界的な責任感をつちかってゆかなければならない。
 ……地球家族を養い、守ってゆくこと、弱者を支えること、そしてわたしたちが住むこの環境を保護し回復させること、これらはすべてわたしたちの集合的責任であり、個人的責任なのである。」


 私たちは法王の説かれる「責任」を果たすことにより、個人的な善業(ゼンゴウ)を積み、自他を幸福へと向かわせられる。
 責任を果たさなければ、個人的な悪業(アクゴウ)を積み、自他を不幸へと向かわせてしまう。
 個人的な業(ゴウ)の積み重なりが共業(グウゴウ)であり、戦争も、飢餓も、搾取も、過酷な格差も、悪しき共業(グウゴウ)の現れである。
 すべてがつながっている空(クウ)であればこそ、地球上の全員に「責任」がある。
 個人的であれ、世界的であれ、幸福と不幸は、私たち一人一人が空(クウ)を観て「責任」を果たすかどうかにかかっている。




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2016
03.26

Q&A(その20)天職って何? ─自分に向いた仕事に巡り会えない方へ─

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 最近、職業に関する悩みが人生相談の場にたくさん登場するので、「自分に向いた仕事」という問題を少々、考えてみましょう。

 私たちの多くは、自分に〈合った〉仕事に就きたいと願う。
 音楽が好きだから歌手になりたい、パンが好きだからパン屋さんになりたい、サッカーが好きだからサッカー選手になりたい、文学が好きだから作家になりたい。
 実際、そうして成功した多くの有名人が言っているではないか。
「好きだからここまでやってこれました」
「好きなことを一生懸命やれば道は開けるのです」
 だから、若いうちは、好きなこと=自分に向いた仕事、好きなことをやる=幸せに暮らせる、だろうと思う。

 さて、現実はどうか?
 誰もが作家村上春樹になれるわけではなく、大リーガー田中将大になれもしない。
 好きな世界で生きられない理由としてはもちろん、持って生まれた資質のレベルが一番の問題だが、実はそれ以前に大問題がある。
 好きなこと=自分に向いた仕事、とは限らないし、何が自分に向いた仕事かは、やってみなければわからないのだが、この真実は、自分で汗水垂らしてはたらき、生きてみなければ〈本当にはわからない〉のだ。
 そして、70年近く生きてきた者の実感としては、自分を見ても、ご縁の方々を見ても、友人知人を見ても、仕事は果たして自分で選べるものなのかどうか、そのこと自体が極めて曖昧であるとしか言いようがない。

 ちなみに小生は僧侶だが、小学校から大学までを通して、自分自身、僧侶が好きなわけでなく、僧侶になりたいわけでもなく、家族も友人も先生も、おそらく誰一人として小生が僧侶になると思っていた人はいなかったはずだ。
 しかし、今の自分と過去の人生を省みれば、不思議にも、こうなったのは〈必然〉とすら、思えてくる。

 僧侶になりたいとは思わなかったが、生きる道に迷った大学性の頃は、東京や鎌倉で、ありとあらゆる宗教の門を叩いてみた。
 挫折し、絶望を抱いて仙台へ帰る電車のデッキで突然、自分の口から「文武両道の塾をつくる」というまったく思いもよらない言葉が漏れた。
 あの時は、自分以外の誰かが乗り移って言わせたかと思えるほど唐突だったが、しばらくして、「文武」という文字を冠する組織の創設にかかわることになり、それが現在の自分の骨格となっている。
 食うために始めた商売の世界が縁となって、世間に埋もれている行者を紹介された。
 あらゆる因縁の結果、自分の愚かさが極まって全財産を失い社会へ多大な迷惑を及ぼし、懺悔が山のように膨れ上がり、滅罪のため托鉢僧になるしか生きようがなくなった。
 しかし、過去の人生と出家との間に因果の糸が見えるのは、あくまでも〈あとから〉であり、当時はただ、もがいていただけで、ほとんどの場面が〈成り行き〉で現れ、熟慮をふまえた自分の選択など、どこにあったか訝しい。

 そもそも、私たちは、自分が〈こういう心身を持った人間〉としてこの世に生まれ出た因縁を知らない。
 また、普段は自分が何者であるかなどと考えず漫然と生きており、日々、自分がいかなる心で暮らすかは、暮らしてみなければわからず、不意の仲違いから事故や天災まで、突発的事態が生じた時に自分がどういう行動をとるかも正確には予測できない。
 こんなあやふやな自分でも、自分の口へ食べものを入れて自分で咀嚼(ソシャク)しなければ生きては行けず、狭い世界における縁の糸が生きる糧を得る手段に結びつく。
 ほとんどの我々凡人はこうして生きる道を見つけるし、こうして生きなければまっとうな社会人にはなれない。
 事実として、自分に向いた仕事が何であるかは自分でわからないし、自分の好きなことが仕事となって生きて行けるわけでもないのだ。
 言えるのは、何ごとかに対する〈強い関心〉が持続すれば、もしかすると不思議な〈必然〉をもたらすかも知れないということだけではなかろうか?

 故河合隼雄は述懐した。

「長い間(心理療法士を)やっていると、自分の能力ではこの職業はやっていけないのではないかと思うことがよくあって、いろいろ悩んだりもしましたが、でも、結局は、自分にはこれ以外に職業は考えられないということで、今日もなお続けているわけですから、『天職』というか、自分としてはやはりそこになんらかの必然性を感じざるをえないのです。」


 彼は元々、「一生、高校の教師をするつもり」だったのに、まったく思いも寄らぬ成り行きで超一流の心理療法士となった。
 ただし、「人間というものが好きで、人を育てるということに興味があり、人間と人間がふれあう場所にいたい」し、「子どものころから死というのが最大の問題だった」という。
 彼にとって変わらぬ〈強い関心〉がそこにあったという事実は重い。

 こんなことを考えてみると、好きなことは自分でわかるが、そもそも自分そのものが何者であるかがよくわからず、当然、あやふやな自分に向いた仕事が何であるかもよくわからない。
 ならば、縁となった糸をつかみ、まずは、自分で得た食糧を自分の口へ入れて自分の心身を養ってみたい。
 もちろん、仕事と関わりがあってもなくても、〈強い関心〉は失いたくないものである。
 生きているうちに、それが何らかの〈必然〉をもたらし、結果的に、仕事が「天職」と思える日が来るかも知れないのだから。




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2016
03.25

Q&A(その19)逝った妻に会えるか? ─あの世のあるなし─

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 以下、人生相談に来られた方々に成り代わって書きました。

 僕の妻はときおり、薬を大量に飲む。
 彼女の何がそうさせるのか、僕の何がそうさせるのか、しかとはつかめないが、見つければ止める。
 そして言い聞かせる。

「死ねば何もなくなくなってしまうんだよ。
 君とのも、ここまで育てた子供との思い出も、君にとっての僕も、いなくなってしまうんだよ。」

 でも、妻は、発作を起こすように突然、実行しては周囲を慌てさせ、ある日とうとう限度を超えた。
 死んでしまったのだ。

 いなくなってみると、気づく。
 妻へ「死ねば何もなくなってしまう」と言い聞かせながら、僕もいつしか、そう思うようになっていた。
 妻がいなくなることを想像すると、文字通り、何もなくなってしまうような恐怖感に襲われ、そうなって欲しくないという気持がああいうふうに言わせていた。
 同時に、言いつつ、〝そうに違いない〟という信念がつくられていたのだ。
 僕自身が、あの世のあるなしをよく考えたわけではない。
 奇妙なことに、恐怖は信念となっていた。

 しかし、実際に妻がいなくなり、恐怖が現実のものとなった今、今度は、何もなくなってしまうことがどうしても信じられなくなった。
 いつも、どこかにいるはずの妻を探している。
 咲いた梅や、子供の声や、カレーライスの匂いなど、何もかもが、もどかしい思いをかき立てる。
 ──どこにいるんだ……。

 酒を飲み、独りで泣き、せめて夢に出て欲しいと願いつつ床に就くが、一度も会えない。
 かつて、妻へ言い聞かせ、自分の信念となっていた思いは完全に裏返った。
 死んでも決していなくならない。
 そのことはわかっているのに、どこにいるかがわからないだけだ。
 あの世はどこにあるのだ?

 僕はある僧侶へ会いに行った。
 単刀直入に訊ねた。

「死ねば何もかもがなくなるんでしょうか?
 死んだ人は無になるんでしょうか?」

 僧侶は妻を供養してから、こんな体験談を語った。

「昔、娑婆で世話になり、かつ、迷惑をかけたまま、お礼もお詫びも言う機会のないままに、あの世へ逝ってしまった人へ懺悔し続けていました。
 懺悔は海へ水滴を落とすような感覚で、まったく、つかみどころのないものでした。
 10年ほど経ったある日、祈りつつ山道を歩いていたところ、ふと上げた視線の先にその人の後姿がありました。
 ゴルフ帽、いかり肩、上体を揺らさずに進める一歩一歩、まごうかたなく、その人でした。
 言葉にならない言葉で喉の奥が詰まり、呼吸が止まって涙が溢れました。
 メガネを外し、涙を拭いた時、もう、無人の山道が静かに延びているだけでした。
 今もその人を供養していますが、あの時以来、いつでもその人は背中で供養を受けてくださいます。
 あまりにもはっきりと……。」

 それっきり僧侶は黙った。
 僕も黙っていた。

「妻へ謝り続けます。」

 これだけ言って、辞した。
 手には僧侶が書いた『供養について』という小冊子を手にしている。
 僕も懺悔供養を続けたいと思う。
 いつか、きっと、疑問への回答に出会えることだろう。




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2016
03.24

イラク戦争と靖国神社への祈り(その24) ─四摂法(シショウホウ)を語り合う─

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〈平和な日本のドーム〉

 平成16年1月、自衛隊のイラク派兵に鑑み、仏神と祖霊のご加護で自衛隊員の無事帰還をはかるべく、靖国神社へ向かって托鉢行を始めた。
 世界の情勢が急変を見せ始めた今、そのおりの記録を加筆訂正しながら再掲しておきたい。
 不戦日本の願いを込めて。

 公開講座での講演など、帰山しての法務が続いている。

四摂法(シショウホウ)の実践(平成16年3月3日)

 NHKの講座で四摂法(ししょうほう)の話をした。
 四摂法とは、人間の集団がまとまって活き活きとはたらくための留意点であり、それはそのまま社会人としての基礎的修行となる。
「一つに『愛語(アイゴ)』があります。
 相手の心に響く愛のある言葉と言っても、必ずしも優しい言葉だけとは限りません。
 相手のためになろうとして、きつい言葉を使ったり、激しいもの言いをせねばならない場合もあります。
 あえて悪者(ワルモノ)になることだってありますね」

 こう申し上げたら、受講者から即座に「内部告発もそうですね」と返ってきた。
 内部告発には権力闘争や人間関係のもつれなどの要素がからむ場合もあろうが、純粋な正義感でそれを行う人の心には、逼迫感・緊張感・勇気など、想像を絶するものがあることだろう。
 決断し発せられた言葉もまた、何かを守るための愛語に相違ない。

「誰とでも平等に接する『同事(ドウジ)』とは、他人を自分と思う心がなければ実践できません」

 今度は、「他人のものと自分のものをごっちゃにするのはどんなものでしょうか」と突っこまれた。

 隠形流(オンギョウリュウ)居合で唱える『七言法(シチゲンホウ)』の三番目は「自他のものの区別をすること」であり、自分を厳しく鍛える修行として欠かせない。
 一見『同事』と相反するように見える。しかし、あくまでも我がものと他人様のものとを区別できる心の定まった人であればこそ、四摂法の実践が可能になる。
 それぞれの〈分〉を見極め、大切にしつつも、そこにとらわれず、自他を同一に観る目を持つところに同事の意義と価値がある。 
 たとえるならば、自他のものの〈区別〉は土台であり、〈同事〉は家である。
 土台のない家を建てれば、見かけは立派でも、やがては崩壊する運命を逃れられない。
 
 人生相談では、ご来山された方のお心へ限りなく近づくように心がける。
 持ち出されるお話は、決して〈他人ごと〉ではない。
 対話する2人は、いわば〈同位〉にある。
 しかし、状況を把握し、問題点を見つけ、最善の解決法を考えるためには、相手の心へどっぷりと入り込んではならない。
 去り行く方のと感応しつつ引導(インドウ)を渡すご葬儀の場面と同じである。

 日常生活における同事の実践には、区別との緊張を超えて行われる場面があろう。
 まさしく〈行〉なのである。




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2016
03.23

【現代の偉人伝】第224話 ─孫を預かる「おばあちゃんの部屋」運動─

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〈平穏な東京駅。私たちの尊大で戦闘的な心が災厄を招かぬよう祈りつつ通る〉

 仙台市北部の小学校で「おばあちゃんの部屋」というボランティア活動が続いている。
 20年ほど前、当山にご縁のAさんが声をかけて始まった子どもの一時預かりは、今やPTAの組織的活動に組み込まれ、学校にとって、子育て中の母親たちにとって、そして何よりも子どもたちにとって、なくてはならないものになっている。

 きっかけは授業参観だった。
 複数の子どもを持つ母親は、小さな子どもがまとわりついてゆっくり参観ができず、授業を受けている子どもも、そばにいる幼子も、落ちつかない。
 そこでおばあちゃんたちが立ち上がった。
 空き部屋を借りて子ども達を預かり、教室に落ちつきを取り戻そうとしたのだ。

 これが大好評。
 運動のネーミングは、一人の女の子が母親へ語った一言によって決まった。
「今日もおばあちゃんの部屋へ行こう」

 集まった幼子たちは、みんなでお婆ちゃんたちからいろいろなことを習う。
 お婆ちゃんたちも、自分が役立つことの嬉しさでいっぱい。
 授業参観は、どの子どもにとっても有意義で、かけがえのないものとなる。

 今から6年前、Aさんはこの活動について書いた。

「保護者や先生方との関わりの中でそれぞれの立場の違い、世代的な隔たりを知らされると共に多くの事を学んだ。
 孫のお陰とも言える。」

「いつの世にあっても、子どもは先であり、未来であり、希望である。
 この地域を土壌として日々成長していく子ども達は、地域にとっての宝であるとも言える。
 土壌は豊かで肥沃なものでありたい。」

「学校と親に委せるだけでなく、地域に住むみんなが、それぞれの立場で、できることを担い合い、前向きに応援していければと願う。」

「直接、教育に携わる学校と家庭(教師と保護者)の重ね合った大きくて厚い、温かい掌の上で子ども達が健全に育まれ、成長していくことを心から願い、ばあちゃんはばあちゃんなりに、ささやかな支援を申し出て今日に至っている。」

「この地域を土壌として育つ子ども達の健全な育成を願って、学校の教育方針とPTAの活動方針に沿い、慈愛を理念とした陰からの支援協力に努める。」

「参加者は子どもの安全と健康に細心の注意を払って任に当たる。
 また幼児と触れ合う中で得られる多くの幸福に感謝し合う。」


 こうして、地域に眠っているお婆ちゃんたちのエネルギーと智慧が活き活きとはたらき、若い夫婦やその子ども達とおばあちゃん達との接点ができる。
 ただし、気をつけているのは、あくまでも子どものための自主的なお手伝いであり、母親や父親が遊びにでかけるための〈便利な〉道具にはならないという点である。
 母親や父親に〝利用する〟という意識が生じたり、おばあちゃんが負担感に苛まれたりすると、本来の意義と価値を見失いかねないからだ。

 小生は、ブログ「3世代同居住宅への補助について」の中で、〈あの時代〉へは戻れないと書いた。
「私たちはとっくに、新たな家族のありよう、新たな地域のありようを模索せねばならない段階へ入っている。
 私たち一人一人が家族として、社会人としてまっとうに生きる心がけや、生きざまや、生活スタイルを考えねばならない。
 あるいは自分の尊厳をかけて、権利と義務についてよく考えねばならない。
 そうした努力の総和として、やがて新たな時代が幕を開けることだろう。」
 Aさんたちは、新たな時代の幕を開けられた。
 お上のつくった制度や補助に頼らず、善意と誠意と工夫と協力によって一歩二歩も進んでおられる。
 子どもの未来を想う心が地域を生かしている。
 この「おばあちゃんの部屋」が全国へ広がるよう願ってやまない。




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2016
03.22

3世代同居住宅への補助について ─あの時代と今の時代、そしてこれからの時代─

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〈おかげさまにて彼岸供養会を無事、終了しました。「不戦日本」の願いは108返、堂内に響き渡りました〉

 3世代同居住宅へ補助するため150億円を投入するという。
 祖父母が孫の面倒を見れば、若夫婦が共稼ぎしやすくなり、「1億総活躍社会」が実現するという論理である。
 木造で3世代同居の家を建てれば30万円、同居のためにリフォームすれば50万円、耐久性に優れた住宅であれば、新築であれリフォームであれ165万円を限度として補助する。
 しかも、「家族の構成、出産の予定や意思の確認はプライバシーに関わる」ので、「同居への補助ではなく、同居できる住宅への補助」であり、同居実態の把握は不要とされている。

 70年間、人間をやってきた身としては、一見しただけで〈途方もない話〉と判断してしまう。
 平成15年、東京都知事石原慎太郎氏が首都主導の「金融改革」のため、「資金調達に悩む中小企業を救済すること」を目ざして設立した新東京銀行が、3年で1000億円もの累積赤字を抱えて破綻した事件を思い出させる。
 あの時も、詐欺師や、詐欺まがいの方法で手っ取り早く現金を手にしたい輩の餌食になることに思いが至らない人々にあきれたものだ。
 知事や上層部が、とにかく貸し出しを行って実績を上げろと現場の尻を叩くので、現場は貸し急ぎ、倒産に近づいている企業や最初から返済意思のない者たちへジャブジャブとお金を渡し、危惧は現実のものとなった。

 さて、今回の旗を危ぶむ理由はいくつかある。

 まず第一に、国家がシステムを管理して〈国民全員をはたらかせる〉といった発想そのものにとてつもない夢想と危険が見てとれる。
 アリの社会はほぼ3つのグループから成り立っているが、人間社会もまた、似たようなものではなかろうか?
 普段は約2割がリーダーシップを発揮し、約6割が黙々とはたらき、約2割は適当にやっており、はたらき者が死ぬなど何かの危機に際しては、休んでいたグループからはせ参じて対処するという。
 ファジーな部分があってこそ、全体が柔軟に生きて行ける。
 生きものとはそもそも、そうした存在であり、人間が例外でないことは論を俟たない。

 第二には、新東京銀行と同じく、お上が掲げた理想のために資金を用いる人々など、実際はたかが知れており、多くは棚ぼた的なお小遣いに消えてしまうだろうとしか思えないからである。
 そもそも、3世代が同居できるだけの生活環境にいる人々が、いくらかお金をもらうからといって急に祖父母と孫の距離が近づき、若い母親が勇んでどこかへはたらきに出るなどということが全国規模で起こるなど、これもまた夢想でしかない。
 小生の周囲を見渡しても、本当に祖父母が孫に手を貸している家族においては、すでに、それぞれの方法で何とかやっている。
 生きるためにやらざるを得ない現実があるからだ。
 どうしてもできない家族にもまた、それなりの精神的、物質的、金銭的な現実がある。
 もちろん、家族間の精神的関係も急に変えられない。
 あまり報道されないが、東日本大震災や原発事故で被災した方々が、どこかにいる家族や親族のもとへ避難したおりに、受け入れ側も含めてどれほどの苦難や困難が生じたか、その現実の厳しさは想像を絶するものがあろう。
 だから、家を新築して与えるならともかく、数10万円のお金が家族の生活形態を劇的に変えるなど、ほとんどあり得ない。

 第三に、これが最も根源的な理由だが、そもそも、3世代同居が私たちの多くにとって本当に幸せになれる生活形態であるかどうかという問題である。
 一家団欒の象徴として、よく〈昔のよき時代〉のシーンが挙げられ、語られる。
 何世代もの家族が一つのちゃぶ台を囲んで食事をしたり、親子が一つの炬燵に入って一つのテレビ番組を観ていたりする。
 小生もそうした体験をしているが、あれは果たして、家族全員が〈そう望んだ〉シーンだったのだろうか?
 モノが今のように豊富でなく、共有したり、分け合ったり、譲り合ったり、我慢し合ったり、助け合ったりしなければ生きられない社会であり生活環境だったので、〈ああして生きるしかなかった〉というのが真実ではなかろうか?
 もちろん、忍耐、尊敬、感謝、協同など、そうした日常生活で得られる得難い人格の陶冶があったことも確かだが、反面、家庭でも地域でも各種の抑圧はすさまじく、真の意味での〈個の自立や独立〉に障碍となる影の部分も多々、あったことは見過ごせない。
 そして、何よりも重大なのは、あの貧しい時代が私たちの理想としてもたらされたものではなく、大家族によってつくられた精神構造もまた、決して望まれたものではないという事実から目を背けないことである。
 同様に、あの時代の大家族が復活すれば、モノにあふれたこの時代に、〈あの時代の心〉が再び舞い戻るはずはなく、私たちの本音としてほとんど誰も、そんなことを望んではいないであろうという事実もまた、正面から見すえねばならない。

 私たちはすでに、家族としても、地域としても、バラバラになりつつある。
 生きて行くためのモノがあり、個々の行動の自由に制限がなくなれば、当然の帰結である。
 私たちはとっくに、新たな家族のありよう、新たな地域のありようを模索せねばならない段階へ入っている。
 私たち一人一人が家族として、社会人としてまっとうに生きる心がけや、生きざまや、生活スタイルを考えねばならない。
 あるいは自分の尊厳をかけて、権利と義務についてよく考えねばならない。

 そうした努力の総和として、やがて新たな時代が幕を開けることだろう。
 ちなみに、今の日本では、子供たちの6人に1人が凄まじい貧困状態に置かれ、1割の高額所得者の富が全体の4割を占めている。
 子供たちと未来のため、個人を、家族を、社会を、この国をどうするか、根本から考えねばならない。
 ゆめゆめ姑息な手段を用いるべきではないと思う。

※この稿は、複数の世代が心と生活様式をつなぐ麗しい家族関係など、昔の佳き文化を否定するものではありません。
 モノのありようが心へ影響を及ぼし、心がモノを動かし、モノと心が相関し合っている事実をリアルにとらえる必要性について述べました。
 そこを見逃せば、奇怪な幻想、熱狂、憎悪、不安が発生して私たちの心と社会に鋭い亀裂をもたらしかねず、また、タイプの異なる社会や国家と不要な軋轢や対立を生みかねず、戦争の〈後遺症〉が次の戦争を招いてきたことは歴史的事実です。
 私たちが本当に根差しているものは何か、依って立つべき確かなものは何か、虚実をよく見て考えたいものです。




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「おん あらはしゃのう」
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2016
03.21

【現代の偉人伝】第222話 ─仏像の制作・修復に励む柳本伊左雄教授─

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陸前高田市の悲母観音

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 身延山大学に仏像制作修復を行う学部がある。
 柳本伊左雄教授(65才)率いる仏教学部は、東洋文化研究所仏像制作修復室を設け、学生が仏像に取り組んでいる。
 各地の芸術大学以外では、おそらく日本で唯一のグループだろう。

 柳本教授にお会いした。
 今の日本では、仏師という職業が絶滅しかかっていると言う。
 中国などで安価なものが造られ、仕事として成り立たなくなったのだ。
 そうした現状に危機感を抱いた教授は、仏像制作で生きて行ける若者を育てようと、身延山大学に実践する講座を設け、実地指導に当たっている。

 ラオス世界遺産仏像修復事業は、そうした一環として18年の長きにわたって続けられてきた。
 平成25年2月に、世界遺産地区ヴィスンナラート寺院で行われた15周年大法要では、当地の情報文化観光省の工芸局長や日本国全権大使など100名を超える参加者が集まった。
 その様子が東洋文化研究所仏像制作修復室発行の「のみおと 工房便り第二号」に書かれている。

「現在のラオス人民民主共和国はフランス植民地時代、ベトナム戦争、独立戦争と長きにわたっての苦難の時代を経て、1975年に建国されました。
 その歴史のなかで仏像制作修復の伝統的技法は残念ながら途絶えてしまっている現状です。
 本学の行っている仏像修復事業は伝統技法と文化の再興を目指し15年間事業を実施して参りました。
 修復の習慣が無い(失われた)、技術者がいない、場所が無い、物が無い、全てが揃わぬ中でも少しずつ着実に行ってきた結果、ラオス人技術者7名が育ち始め、修復事業は40体を超えております(1014年3月時点)。
 更にはここ2年間ではラオス政府や民間からの仏像修復依頼が増えてきており、修復の輪が少しずつ広がりを見せています。」


 ところで、戦争で破壊された仏像が日本人の協力で徐々に修復され、仏教が国教として国民の確かな柱となっているラオスは今、中国の脅威にさらされている。
 人口約600万人のラオスに100万人の中国人を送り込む計画が着々と進み、すでに首都ビエンチャンなどには中国の企業が活動し、中国人が建物を造り、住み、中国料理を食べ、中国人の間で中国マネーが回る地域もできている。
 この状態を放置できないアメリカが介入し、やがて両国の野望によって何らかの形で代理戦争が始まる可能性は否定できない。
 しかし、柳本教授はそれでもなお、「今ではもう文献のない、失われつつある技法」で450年も前に制作された仏像の修復などに今後も取り組んで行こうとしている。

 柳本教授のチームは平成27年3月11日、岩手県陸前高田市の妙恩寺へ悲母観音を安置した。
 堂宇を造ったのは、当山の講堂を手がけた寺院サービス(株)である。
 殉難者の御霊を慰霊し、地域を守る観音様はどっしりして、お優しくも頼もしい。
 優しさの極みが〈守護〉にあることを教えている。
 柳本教授は言う。
「今後もラオスでの活動を続けたい。
 学生たちがそれぞれ、仏像にたずさわりながら生きて行けるような道筋をつくり、日本で消滅しかけている技術と文化を継承して行きたい。」

 うち合わせのために当山を訪れた教授は、自らユニック車のハンドルを握り、お弟子さんたちが乗る乗用車を先導して山梨県へ向かわれた。
 これからも、ますますよい仕事をされるよう、お弟子さんたちが無事、巣立って行くよう祈ってやまない。




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2016
03.20

漢文『法句経』を読んでみる(その3)

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 寺院や寺子屋ではもちろん、戦前まで広く親しまれていた漢文の『法句経 (ホックキョウ)』を読んでみましょう。
 戦場へ赴く若者が懐へ忍ばせていたという話も聴いています。
 当山では、寺子屋やNHKの講座で読み通しており、学びの柱として欠かせません。
 小生の土台はこの教えによってつくられました。
 どれか一句でも、皆さんの心へピンと届くものがあればありがたいことです。
 新たになった読み下し文を意訳してみましょう。 (「新国訳大蔵経」によります)

 前回に続き【無常品(ムジョウホン)第一】 です。

〔二一〕此(コ)れを知りて能(ヨ)く自(オノズカ)ら静め、是(カク)の如(ゴト)く生(セイ)の尽くるを見て、比丘(ビク)は魔兵(マヒョウ)を厭(イト)いて、生死(ショウジ)より度するを得(う)。


(無常を知って心を静め、生じたものは必ず滅するという真実を見極めて、行者は魔ものの兵士たちを制圧し、生まれては死ぬ迷いの世界から脱することができる)

 これより【教学品(キョウガクホン)第二】へ入ります。

・教学品(キョウガクホン)とは、導くに行う所を以(モッ)てし、己(オノレ)の愚闇(グアン)を釈して道(ドウ)の明らかなるを見ることを得しむ。


(教学品においては、行動の規範を示して導き、自分が愚かで智慧の明かりがない状態であることに気づかせ、教えが智慧の明かりであると理解させるものである)

〔二二〕咄(トツ)哉(カナ)何(ナン)ぞ寐(ビ)を為(ナ)さん。螉(オウ)、螺(ラ)、蚌(ボウ)、蠹(トウ)の類(タグイ)、隠弊(インペイ)するに不浄を以(モッ)てし、迷惑して身(シン)為(タ)りと計(ケ)す。


(こら、起きよ、なぜ惰眠を貪っているのか。ジガバチ・タニシ・ドブガイ・木喰い虫のような者たちよ。不浄なものに覆われているというのに、迷い惑ってそこに我が身があると考えているとは何と愚かなことか)

〔二三〕焉(イズク)んぞ、斫創(シャクソウ)を被(コウム)り、心、疾痛(シッツウ)に嬰(カカ)るが如(ゴト)くにして、衆(モロモロ)の厄難に遘(ア)うに、反(カエ)って用(モッ)て眠るを為(ナ)すこと有(ア)らんや。


(まるで刀傷を受けたように心は病み、痛み、さまざまな災厄や難事に遭遇しているのにもかかわらず、眠りこけているなど何たることか)

〔二四〕思いて放逸(ホウイツ)ならず、仁(ジン)を為(ナ)し、仁(ジン)の迹(アト)を学べば、是(コ)れに従(ヨ)りて憂い有ること無く、常に念じて自(ミズカ)ら意を滅す。


(よく考えて気ままに走らず、他者を思いやり、慈しみ、そうした人々の行跡を学べば、憂いは無くなり、いつも正しい道へ思念を集中して自ずから波立つ心の動きを滅することができる)

〔二五〕正見(ショウケン)にして、学び務めて増やさば、是(コ)れを世間の明(ミョウ)と為(な)す。所生(ショショウ)の福千倍し、終(ツイ)に悪道(アクドウ)に堕せず。


(正しい見解を持ち、学んで増やせば、それが世間を導く灯火となる。いかなる場所に生まれようと福徳は無限に膨らみ、決して地獄・餓鬼・畜生の世界へ堕ちはしない)

〔二六〕小道(ショウドウ)を学びて、以(モッ)て邪見(ジャケン)を信ずること莫(ナ)かれ。放蕩(ホウトウ)を習いて、欲意(ヨクイ)を増さしむること莫(ナ)かれ。


(卑小で誤った道を学び、邪な見解を信じてはならない。気ままな生き方を習い性として我欲を増やしてはならない)

〔二七〕善(ヨ)く法を修し行じて、学誦(ガクジュ)して犯すこと莫(ナ)かれ。道(ドウ)を行ずるに憂い無く、世世(セセ)に常に安(ヤス)し。


(正しく真理の教えを修め実践し、学び、唱えて、決まりに反することを行ってはならない。教えの道を実践する者はいかに輪廻転生を繰り返そうと、心は平安である)

〔二八〕敏(ツト)め学)びて身を摂(セッ)し、常に思(シ)と言(ゲン)とを慎めば、是(コ)れ不死に到る。行(ギョウ)滅すれば、安らぎを得(ウ)。


(よく学んで身体の行動を慎み、常に思念と言葉を慎めば、生死の迷いを超えた境地へ達する。生じ、滅するものに惑わされなくなれば、永遠の安らぎが得られる)

〔二九〕務めに非ざれば学ぶこと勿(ナ)かれ。是(コ)れ務めなれば宜(ヨロ)しく行ずべし。已(スデ)に念ず可(ベ)きを知らば、則ち漏(ロ)は滅することを得(ウ)。


行者としての務めでないことを学んではならない。務めならばしっかり実践せよ。心へ保っておくべきことを知り尽くせば、煩悩は消滅する)

〔三〇〕法を見て身(ミズカ)らを利すれば、夫(ソ)れ善方(ゼンポウ)に到る。利を知りて健(タケ)く行ず、是(コ)れを賢明(ケンメイ)と謂(イ)う。


(真理をつかんで自分の血肉にすれば、悟りの境地へ至る。その価値を知って果敢に修行するのが、賢く、智慧の明かりを持った者である)




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2016
03.19

四国霊場を巡る話 ─88の意味、心の変容─

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 四国八十八か所巡りは、宗教宗派を超越した世界有数の聖地巡礼です。
 お大師様にゆかりの深い霊場を巡ると、各札所で何を体験したかという事実はもちろん大切な思い出になりますが、その全体が、日常的な自分を離れた〈何ごとか〉であったことを、あとからジワッとした充実感と共に感じとれるものです。

1 八十八の話

 ところで、「88になったのはなぜですか?」というご質問をよくいただきます。
 煩悩(ボンノウ)の数。
 男性42、女性33,子供13という厄年の数の合計。
 八十八の末広がり。
 その他いわれは多々あっても根拠はあいまいで、数にこだわる必要はなさそうです。
 ちなみに、星野英紀博士はこう書いています。

「開創については諸説あるが、信仰上では弘法大師空海が修行のため一寺一寺を巡ったことから始まったとされている。
 しかし、この説には史的データの裏付けがないこともまた確かである。
 無理のない学的推測の範囲でいえば、平安末期にはその祖型らしきものが確立し、鎌倉期、室町期を通じて次第に整備され、おそらく室町末期には八十八か寺が定まり、そして江戸期になって一般民衆の遍路者を多く迎えるようになったと考えられる。」(以下、「四国遍路の宗教学的研究」より)

「もし旧遍路道を徒歩で歩くとすると、現実には、参詣寺院は優に百か寺を上まわるのである。
 すなわち八十八の数は参詣のうえで、あまり実質的な意味を持っていなかったと考えることができる。」

「ある案内書には、八十八カ寺の他に『四国別格二十カ所霊場』を付加している。
 両者を併せると百八か寺となり、仏教のいう百八煩悩に通じると説明している。」


 実際、八十八カ寺以外のいわゆる番外札所も訪ねてみると、少なくともその〈聖性〉において、定められた札所にまったくひけを取らないすばらしい寺院が数多くある事実に気づきます。
 たとえば、細い山道の先に突然、光景が開け、山上とは信じられないほど広い駐車場に着き、本堂はいかにも修行寺らしい峻厳な空気を漂わせていて身が引き締まったりします。
 だから、あまり八十八という数字にはこだわらず、許された時間と体力の範囲で、ご縁に応じたお詣りを実践することが大切ではないでしょうか。

2 熟成される体験

 さて、私たちの日常生活は、家族や友人との関係、あるいは地域や会社の構造など、幾種類もの関係・構造が重なり合いつつ営まれています。
 それがあってこそ人間の社会であり、そこにこそ生きられる基盤がある一方で、関係や構造は、個人個人をつなぎ止めて救いとなるだけでなく、鎖としてそこに縛りつけるという一面も持っています。
 私たちは家族や会社に感謝しつつ、時には〈鎖〉から解放されたいという欲求も禁じ得なくなります。
 そうした欲求に導かれてでかけるお遍路さんは皆、平等であり、一切の階層や上下関係などが消えます。
 お遍路さんも地域の住民も互いに尊び合う四国遍路は、〈鎖〉の対称にある〈解放〉世界です。
 解き放たれたといっても孤独地獄へ放り出されるのではなく、自然な思いやりという信じがたいほど温かで柔らかい空気に包まれるのです。

 数々の苦しみや迷いから10代で四国遍路を体験した明治時代の女性史研究家高群逸枝(タカムレイツエ)は、苦闘の遍路体験を振り返り、20年後にこう書きました。

「その後、私の生活は、幾起伏(イクキフク)を辿(タド)ったけれども、それを一貫した態度としては、運命にまかせるところに、安心の境地をもつことであった。」


 お遍路の体験が、時の経過とともに高群の心へ「運命にまかせる」という根本的態度を育てたのでしょう。
 もちろん、そう意識されていようがいまいが、「運命」の成り行きと、「まかせる」気持を受けとめるのはお大師様です。
 霊場巡りは、いつしか、お大師様が目に見えない人生の同伴者となってくださる尊い修行です。

「〈生きている〉のではなく、〈生かされている〉のだという認識を得ることもできた。」(以下、体験者の話)

「心がきれいになったらいいなと、遍路に出る前に思った。
 終わってみて、心がきれいになったとはいえないが、世の中には優しい人がいることがわかった、接待などを通じて、ここまで心の優しい人がいるのかと思った。」


 四国は実に別世界であり聖地そのものです。




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2016
03.18

イラク戦争と靖国神社への祈り(その23) ─永代供養の共同墓─

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〈車窓越しに撮った頼もしく走る仙石線。津波に襲われたこのあたりは瓦礫に覆われ、復旧のイメージなど到底、持てなかった。〉

 平成16年1月、自衛隊のイラク派兵に鑑み、仏神と祖霊のご加護で自衛隊員の無事帰還をはかるべく、靖国神社へ向かって托鉢行を始めた。
 世界の情勢が急変を見せ始めた今、そのおりの記録を加筆訂正しながら再掲しておきたい。
 不戦日本の願いを込めて。

 人生相談やご祈祷など、次々と法務が重なってなかなかでかけられない。
 しかし、新しいご縁が多く、学ばせていただき、目を見開かせていただく毎日である。

共同墓法楽の礎』(平成16年3月2日)

 石材業者のAさんが言う。
 
「『法楽の礎』のような合祀墓は、あっちでもこっちでも企画するようですが、うまく行った話を聞いたことがありません。
 よくここまで来られましたね」

 当山が『法楽の礎』を造った理由はただ一つ、托鉢の途中、お尋ねする家々でこうお聴きしたからである。

「お墓を子供へ託すのが心配です。
 永代供養を受けられる共同墓があれば安心なのですがねえ」

 ならば、自分でやるしかない。
 しかし、当時の当山は、広大な林をご寄進いただいたものの、資金はなかった。
 ご縁の方々と共に樹木を伐り、草を刈り、重機で地ならしをしつつ、何としても十三仏様をお祀りする共同墓を造らねばと決心し、日々、祈った。
 設計図は小生の脳内に確立していても、形にするすべがなく切歯扼腕である。
 そんなある日、関東在住の中国人石材貿易業者Bさんと意気投合した。
 彼は図面を起こして石材を送ってくださり、それに基づいて仙台市の石材工事業者Cさんが組み立ててくださった。
 躯体の鉄筋コンクリート部分は地元の建設会社さんにお願いしたが、BさんとCさんは長期の分割払いに応じてくださった。

 宗教活動は非営利事業であり、投資効率や損益分岐点などという発想とは無縁。
 求められている救いを実現するため、ただただ、体力と智力の限りを尽くして取り組むのみである。
 そうした行者の生き方が、み仏のお目にかなえば希望は実現し、かなわなければなかなか実現しないだけのこと。
「結果はみ仏へお任せする」
 宗教行為はシンプルだ。
 損得でやる宗教行為はそもそも真の宗教行為ではなく、よしんば利益を得たとしても、それはみ仏のお手からいただいたものではないので、娑婆の原理でやがて失うか、もしくは誤った用い方で宗教者を堕落させることだろう。
 真のご利益(リヤク)は宗教者の懐を潤すものではない。
 ご利益にあずかるのは救いを求めるご縁の方々であり、役立てば行者も生きられる。

 これからも、我が寺のためではなく、もちろん自分のためなどでもなく、当山を必要とする方々のためにできるかぎりの務めを果たし続けようと思う。
 そうしていれば、結果として最高のタイミングで靖国神社へ到着し、大いなるご加護をいただけるに違いない。
 もちろん、それに浴するのは、信心深いご縁の方々であり、未来を創る子供たちであり、国を護る自衛隊員であり、すべての国民である。

(この稿を書いてから12年、今は各地で共同墓が造られるようになった。時代の転変は早い)




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2016
03.17

Q&A(その18)怒る上司に困っている時は?(1) ─思いやりがあるかないか─

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〈上京のおりに、カップラーメンなどで腹ごしらえするおなじみのコンビニさん。店員さんはいつも年配者。スズメがよく飛んできて、近くをウロウロします。〉

 このところ、上司の高圧的な態度に困っている方の人生相談が相次いだので、一般論を書いておきます。

 上司は何のために怒るのでしょう。
 チームとして仕事を円滑に進めるため?
 あなたに対する口に出せない不満があるため?
 自分のうっぷん晴らしをあなたへぶつけやすいため?

 上司が怒っているのか、本当の意味で叱っているのか、客観的に眺める必要があるかも知れません。
 いつも怒っているのなら、少なくとも、あなたへの優しさがそうさせているとは思えません。

 優しさから叱るのはそれ以外の方法がない場合であり、叱った結果、必ず、叱られた方に大きな利益が生まれているはずです。
 たとえば、カルト集団に取り込まれた場合など、自分が危険な状況に置かれたことに気づかないでいる人へ目覚めさせる方法として叱り飛ばす場合はあります。
 小生もかつて、そうした現場へ乗り込み、逃げ出せないでいた青年を救出したことがあります。
 また、スポーツの監督が選手を叱る場合も、持てる能力を発揮させるため、あるいは能力を向上させるため必要な場面では叱り飛ばします。
 ただし、元プロ野球選手の桑田真澄氏が「殴られて愛情を感じたことは一度もない」と言うように、あるいは大相撲で暴力的指導が事件にまでつながった例を見るように、肉体的暴力を伴う場合は要注意です。
 ちなみに、しらかし台中学校野球部監督猿渡善宏氏はこうしたメッセージを込めてノックバットを握り、選手を叱りながら厳しく鍛えています。
「限界を自分で決めるな」
「仲間のためにそのボールにくらいついてみろ」
「声をかけ合え。ボールと思いをつなげ」
「考えろ。すべてのものには原因がある。徹底的に究明して改善しろ」
「情熱を持て。情熱なしでやり遂げられる価値のあることなんてこの世にはないんだ」

 カルト集団のケースも、野球部監督のケースも、叱られた側にプラスの結果が生じており、思いやりが叱らせたと判断できます。
 さて、あなたの場合はいかがでしょうか?
 
 思いやりが叱らせているかどうか、判断する方法はもう一つあります。
 優しい心は5つの形で顕れます。
 人格を丸ごと認める。
 人間性を信じる。
 必要なものを与える。
 必要なことを教える。
 自分をかけて相手を守る。
 思いやりは必ずこうした要素が組み合わさりながら表現されます。
 あなたの場合はいかがでしょう?

 怒られることがもしも、愛によって「教えられている」のなら、あなたの人格が丸ごと「認められている」はずです。
 あるいは「守られている」はずです。
 そうなっていますか?

 あまりにも怒られる一方なら、あなたの存在は上司にとって、ある面では必要だけれど、ある面ではイライラする存在なのかも知れません。
 あなたの何が必要とされ、あなたの何が苛立たせているのかを冷静に判断する必要がありそうです。
 怒られ、抑圧される状態が続くことは、忍耐力を鍛えるといった範疇を超えて、あなたの心へよからぬ影響を及ぼすかも知れません。
 また上司にとっても、高圧的な態度を続けることがよい影響をもたらさないかも知れません。
 
 本来、思いやりに発するならば、誉めても叱っても、相手の心へ真情が届き、結果的に感謝を招きます。
 怒られているあなたは今、上司へ感謝しているか、もしくはこの先、感謝できそうか、よく考えてみる必要がありそうです。




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2016
03.16

河合弁護士から聴く脱原発論 ─原発事故による被害の実態・ドイツの成功例─

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 3月15日、ある勉強会において映画「日本と原発 4年後」の監督河合弘之弁護士から話をお聴きした。
 あまり知られていないと思われるいくつかのポイントを書き留めておきたい。

1 日本と中国の自然エネルギー

○中国は現在、世界一の自然エネルギー大国となっている。
 風力発電は日本の30倍、太陽光発電は5倍の規模である。
 10年前、ドイツで行われた世界自然エネルギー大会以来、日本へ技術を学びに来るなどして、急速に発展した。
 日本は地熱発電の技術で世界最高水準にあり、ヨーロッパ各国などで日本製のシステムが用いられているが、国内での普及はまだまだである。
 この10年間の推移と原発事故は、「安全安心キャンペーン」で原発の危険性をないことにしてきた電力会社と政府の方向性を変えねばならないことを示している。

2 原発事故によるものと思われる甲状腺癌の多発と現状

○福島原発の事故によるものと思われる甲状腺癌の患者は現在167名、そのうち116名は手術を行った。
 すでに複数回の手術を余儀なくされた例もあり、「甲状腺癌は転移しない」という風説は誤っている。
 しかし、いずれも事故との関連とは「考えにくい」との理由で、東電は事故と病気の因果関係を認めていない。
 つまり、放射線による肉体的被害はすべて「気のせい」とされつつある。
 現在、1万人以上が、住めなくなったことによる損害賠償請求などを行っているが、その99パーセントは財物被害であり、このままでは、肉体的被害を恐れるがゆえに発生した財物被害もまた、「気のせい」とされてしまう恐れがある。
 精神的苦痛も同様に「気のせい」とされる恐れがある。
 東電が手術代を肩代わりする理由は〈人道上行う恩恵〉という位置づけであり、事故による責任はまったく認めていない。
 診療し、手術する病院も発症の原因については一切、口を閉ざしており、患者に病気の原因が知らされないという異常事態が続いている。
 インフォームド・コンセントとはほど遠く、セカンドオピニオンも求めにくいまま、患者は増えつつある。

○放射線による身体的被害の実態は福島県を始め、どこも発表していないが、「甲状腺癌110番」などで把握し、事実として明確な被害についての責任を追及すべきである。
 身体的被害が明らかになれば、それを避けたいという住民の精神的苦痛も、避けたいがための財物被害も認めざるを得なくなり、被害に対する賠償が正当に行われることになる。
 身体的被害が認められない限り、現に発生している他の被害はすべて「気のせい」で片付けられてしまう。
 子育て中のシングルマザーが甲状腺癌に罹り、生活が困難になるなど被害は悲惨であり、拡大の一途をたどっていながら、情報は伏せられ、国も東電も責任をとっていない状況は異常である。
 電力各社は原発1基当たり、およそ500億円から600億円の年間収入を得ており、それを確保するための〈原子力村の存続〉が第一とされている。
 儲けのため、事故の被害実態を隠し、事故に備えた現実的避難計画が立たないまま再稼働をすることは社会正義に反する。

3 ドイツの脱原発

○脱温暖化、脱CO2のために自然エネルギーへの転換をはかるのは世界的趨勢であり、すでに「自然エネルギー産業」が勃興しつつある。
 福島原発の事故をきっかけにドイツはエネルギー政策を根本的に転換した。

原発事故を知ったメルケル首相の真摯な述懐である。
「原子力発電所を安全に運転させることができるかどうかについて、首相として責任が持てない」
「自分の原子力についての考え方が楽観的すぎたことを悟った」

 日本では、「ドイツはフランスから不足分の電力をいつでも買えるので原発をやめられる」という誤った風説が流されている。
 しかしU各国間では、スマートグリッドという電力網があり、国境を越えた電力の安定供給体制が整っているので、2国間のことをとりあげること自体、無意味である。
 しかも、ドイツ国内で消費される電力量よりも生産される電力量の方が大きいので、フランスから買うなどという想定そのものが成り立たない。
 日本では、ドイツにおけるフィット(電力の固定価格買い取り制度)の改訂に関し、自然エネルギーの未来を不安視する風説が流されている。
 しかし、現地では国策転換による当然の微調整と理解されており、政府も国民も、国家と世界のために行うエネルギー政策を推進する決意に揺らぎはない。
  ドイツを訪問し、現地で確認すると、日本で流されているような原発擁護議論などはない。

※昨年、来日したドイツのメルケル首相は、安倍総理へ語った。
「議会制民主主義に基づくこの国(ドイツ)で、過半数を超える市民が原発全廃を支持しているのだから、そうした世論に逆行する政党は敗北する」

※エーオンというドイツ最大のエネルギー企業は、原発や火力発電から再生可能エネルギーを開発する組織へと変身しており、ドイツでは官民を挙げた脱原発が行われている。




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「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
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2016
03.15

イラク戦争と靖国神社への祈り(その22) ─写経の功徳─

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 平成16年1月、自衛隊のイラク派兵に鑑み、仏神と祖霊のご加護で自衛隊員の無事帰還をはかるべく、靖国神社へ向かって托鉢行を始めた。
 世界の情勢が急変を見せ始めた今、そのおりの記録を加筆訂正しながら再掲しておきたい。
 不戦日本の願いを込めて。

 現在は途中から帰山して法務を行っている。

写経(3月1日)

 Aさんが、写経した般若心経を1300巻、納められた。
 ご家族について祈った分と合わせて合計1600巻にもなる。
 膨大な数である。
 己をふり返り、写経に救いを求め、一心に筆を動かした幾百時間がここに結晶していると思うと、卓上に置かれた風呂敷包みになかなか手をかけられなかった。
 深い自省の言葉と共に人生の一部を差し出された女性のお顔は、「私は何と罪深いのか」と涙するそのままに、み仏だった。

 お大師様は写経を勧められた。

「もし、真言密教を学ぶ縁のある人々が、出家者と在家者を問わず、私と志を同じくして真言密教に縁を結び、密教経典を書写し、読誦し、説かれたとおりに修行し、法理を熟考すれば、永遠とも言うべき長期間の生まれ変わりと修行を繰り返さなくても、父母から承けたこの身このままで、菩薩(ボサツ)の境地をも超えて、心中におわすみ仏を顕わにすることができるだろう。」


 また「八千頌般若経」にも説かれている。

智慧の完成を書き記し、書物の形にして安置し、供物を供えて恭敬し、祈願するならば、多くの福徳を得る。」

智慧の完成を供養する者は、全知者の知を供養したことになる。」


 至心に書く時は、我(ガ)から離れ、み仏のお智慧をなぞり、それに自分を合わせようとしている。
 ひとまとまりの文章として結晶し、完成しているみ仏のお智慧が記された経典を供養するならば、お智慧全体の供養に通じる。
 こうしたまごころを尽くす行為は、み仏のお智慧にあずかり、あやかって過ちを離れ、ご加護をいただくための道である。

 写経をしていると、自己中心の妄想から離れる。
 自分の身体と言葉と心をお手本に合わせていると、いつも自分を操っている煩悩(ボンノウ)は消えている。
 まさに浄化の時間である。

 その時、月の光を覆う群雲(ムラクモ)が離れるように、心身中のみ仏がはたらき出す。
 お大師様はその状態を「心仏に証入する」と説かれた。
 凡夫である自分の心におわすみ仏の世界へまぎれもなく、確かに入る、すなわち、み仏と一体になり即身成仏(ソクシンジョウブツ)すると説かれた。

 写経功徳は限りない。
 書こう。
 供養しよう。

 こうして、社会と国家と地球と宇宙の一部である自分の真姿、広大な心といのちの世界が顕現している自分のありように気づけば、他を害する心は起こらない。
 不害はそのままに不戦であり、共生への道である。
 そこにこそ、思いやりで通じ合う〈この世の極楽〉が顕れる。




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2016
03.14

探梅や遠き昔の汽車にのり ─誓子と又吉─

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〈水子供養墓〉

 梅が咲き始め、一句を思い出した。

探梅や遠き昔の汽車にのり」 山口誓子


 昭和2年の作品とされる。

 一輪の梅を求める心、やってくる春に対する待ち遠しい心が、探梅すなわち梅を探すという言葉に込められている。
 それはまるで、遠い記憶の中にある汽車に乗っているようなものだ。
 かつて、寒さに縮こまっていたある日、ようやく咲いた梅に出会いホッとして心の温まった思い出が、懐かしい汽車の気配となってよみがえる。
 春という季節の列車が鳴らす汽笛を聴きたくて、心が動く。

 もう一句、季節外れの作品を思い出した。

故郷の 声走らせて 涼新た」 ピース又吉


 これは去年の夏、俳句の腕を競うテレビの番組で一位となった作品である。
 さすがの夏井いつき先生も改善のチェックを入れず、「ちゃんとわかって作っている人の俳句です」と絶賛した。
 お題は「新幹線と夏休み」だったが、新幹線の動きと音、夏休みのワクワク感、秋の気配を含んだ夏の風、故郷に呼ばれ故郷へ向かう気持、すべてが込められている。
 この番組は見ていなかったが、ネットで知り、小生も唸らされた。

 約90年を隔て、この二つの作品ははまるで響き合っているようではないか。 




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2016
03.13

東日本大震災被災の記(第182回) ─「映画「『日本と原発』 4年後」を観て─

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 当山の寺子屋で映画「『日本と原発』 4年後」を観た。
 あらためて、私たちの文明がたどりついた地点を知った。
 福島県浪江町の馬場町長は言う。

「小学校と中学校で9校ありましたが、生徒たちは全国699校に分散しています。」

「悔しいなんてものじゃありませんよ。
 町民は悲しみと怒りでいっぱいです。
 何代にも渡って住んでいた土地を追われたんです。
 町の匂いまでも消されたんですよ。」

「小学生の手紙には、大人になったら浪江を再興したいとありました。」


 町長は、顔といい、雰囲気といい、故鶴田浩二を想わせる。
 太平洋戦争で数多くの特攻機を見送った鶴田浩二は生涯、生き残った者という自覚を持って行動し、戦争を憎み、戦没者のご遺骨を収容する事業に莫大な寄附を続けた。
 町長も鶴田浩二も、〈背負ってしまった人間〉の覚悟を強く滲ませており、言葉には言霊が顕わに顔を出し、存在はこの世ならぬ陰影を帯びている。

 現在、10万人を超える方々が故郷を追われ、流浪の民となっている。
 統計に含まれない自主的避難者を含めれば、どれだけの人びとがそれまでの生活を奪われたか、見当もつかない。
 友人・知人・家族・家・地域・仕事から突然、切り離された膨大な人びとの心と生活はとても想像がつかない。

 映画を見終わり、Aさんがしみじみと言われた。
「テレビでは復興がめざましいとか遅れているとか盛んにやっていますが、ほとんどは津波に関するものです。
 5年間の変化がわかりにくく、映像になりにくい原発事故に関する報道はとても少なく、違和感を感じました。」

 この事故は文字通り〈取り返しがつかない〉できごとである。
 理由の一つは、膨大な人びとの人生が奪われ、償われようがないこと、もう一つは、教訓として発展させるという方法がないことである。
 監督の河合弁護士は、原発事故がこれまでの「科学・技術進歩の一般論」に当てはまらないと主張する。

 第一に、事故も失敗も、普通は原因究明や検証によって次の進歩へ結びつけられるが、原発事故は被害があまりにも大きく、無限定かつ不可避であって人類の絶滅すらもたらしかねず、教訓にはできないからである。
 第二に、放射能のために、できごとの解明も検証も事実上、不可能であり、実態を知り得ないからである。
 その証拠に、チェルノブイリではコンクリートで全体が固められてしまい、福島では損害賠償が現に行われ、何兆円にも達する裁判が起こされているにもかかわらず、5年経ってもいまだ、警察も検察も実地検分ができず、証拠は次々と破壊され続けているではないか。

 映画は全編を通して、原発が明らかに〈手に負えない〉シロモノであることを告げている。
 創り出した人類、日本人は、これまでに創り、利用し、恩恵を享受してきた者として一日も早く廃棄し、後世のために責任を果たすしかない。
 原発の安全神話が実態のない虚構であったことを知ったように、 科学がいつも人類のために発達し続けるという神話から私たちは一日も早く目ざめねばならない。

 最後に流れた河合弘之弁護士のメッセージである。

原発事故
 国民生活を根底からくつがえす。
 経済も文化も芸術も教育も司法も福祉も
 つつましい生活もぜいたくな暮らしも
 何もかもすべてだ。
 したがって、
 原発の危険性に目をつぶっての
 すべての営みは、砂上の楼閣と言えるし、
 無責任とも言える。
 そのことに国民は気が付いてしまった。
 問題は、そこで
 どういう行動をとるかだと思う。」


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 原発を心眼で観てみよう。
 中で何千人もの人びとが日々、被曝しながら作業している建造物はまるで、文明の巨大な墓場ではないか。
 決して憩いのない不気味で無機質な化けものと闘うか、それとも闘わないで滅ぼされる時を待つか、私たちは今、分岐点に立っている。

 子々孫々のために潔く責任をとろう。
 原発を廃棄し、文明を転換させよう。
 これまで原発にすがって生き、今を生きている一人一人のいのちが尽きぬうちに。




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「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
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2016
03.12

東日本大震災被災の記(第181回) ─海と血潮─

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 3月11日の朝、境内地は薄く白い雪に覆われていた。
 あの日は、だんだん雪が降りしきってきた。
 今日も雪になるのか……。

 ご葬儀へでかける頃は日が射し、いつしか雪は消えかけていた。
 普段、何かを信仰しているわけではないが、お身内を当山の修法で送って欲しいというお申し出だった。
 天寿をまっとうした方は生きたまま枯れたように穏やかな威光をまとっておられた。

 帰山して法務を行っていると、町内のスピーカーからお知らせが流れる。
 一心不乱になっていたので内容を聞き漏らし、職員の森合さんに訊ねたら、もうすぐ2時46分になるから黙祷しましょうというお話。
 時計は確かに〈その時〉が近いことを知らせていた。

 瞑目すると、やがて一陣の風が吹き、窓外の六地蔵様にかけた善名善女の絵馬たちが一斉にカラカラと鳴った。
 鳥がキーッと声をあげた。
 瞼の裏に、あの日、共同墓の壇上で、津波の来た方角へクルリと向きを変えた大日如来のお像が浮かび、何かのざわめきが聞こえたような気がした。

 夜、仙台市で開いている隠形流居合の道場へ行く。
 道場にお借りしている会館の三階にあるオープンスペースは、当山で書道教室を開いてくださっている書家髙橋香温師の個展会場になっていた。
 師は一人でご縁の人びとを待っておられた。

 個展を申し込んだこの会館は、3月11日から数日間だけ空いていたのでちょうどこの日に始められたのです、と師は言う。
 師はあの津波でご家族を亡くし、一人ぼっちになられた。
 5年後の今、人も家も生活も呑み込んでしまった海をこう詠み、「永遠しずく」と大書された。
 
「太陽に輝く
 青い海
 月夜に輝く
 白い海
 永遠しずくとなる
 海よ
 すべては血潮が
 知るところ
 生と死が
 わかちあう場所を」

 帰山して写真を見た。
 永遠しずくとは、お大師様が説かれた一文にある「海渧(カイテイ)」すなわち、海に満ちる潮から生じる無限の滴(シズク)からインスピレーションを得た言葉であり、文字であると、師は語ってくださった。
 師の血潮と涙を感じ、お送りした御霊へ祈り、生者と死者の3月11日は終わった。

○個展「永遠しずく」は、仙台市青葉区旭ヶ丘の日立システムズホール仙台にて3月16日まで。




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2016
03.11

東日本大震災被災の記(第180回) ─思い出の上書き─

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 東日本大震災の3月11日を迎えた。
 6日に行った供養会思い出しながら祈った。

 最近、被災者Aさんからお聴きした。

避難所ではケンカが絶えませんでした。
 すぐに警察官が飛んできますが、二人や三人ではありません。
 暴動のような大混乱にならないよう注意していたのでしょうか。
 早起きしたい人といつまでも寝ていたい人とのズレで、イライラも凄いものでした。
 トイレに行っている隙に配られた食べものがなくなっているなどは日常茶飯事で、盗られたくないものは荷物の下の下へ隠してから自分の場所から離れました。
 大工さんがボランティアで仕切りとカーテンを作ってくださってからは、体育館全体の雰囲気も、私たちの気持もずいぶん落ちつきました。
 でも、今度は女性だけのところを覗く人が出てきて、見られないよう、なるべくしゃがんだり寝たりして過ごしました。
 いろんな人がいるんだなあって、あらためて思い知りました。」

「仮設住宅から市が用意した住宅に移る時は必ず保証人を求められますが、私のように親族が皆、亡くなり、友人とも連絡がとれなくなった人はどうしようもありません。」

「同じような境遇で、ひっそりと暮らしていた仮設の仲間が突然、居なくなります。
 行く先が見つかったのでしょうが、残った人たちの気持は複雑です。
 中には『世の中すべてコネなのよ』と薄笑いする人もいます。
 私自身、顔見知りの安心や幸せを心から喜べないことが残念です。」

 歌人鳥居氏の作品を思い出す。

思い出の家壊される夏の日は時間が止まり何も聞こえぬ」

 5年前のあの日は、とりわけ寒かった。
 思い出の〈場〉が、あまりにもはっきりと奪われてしまった時、思い出は、それまでの思い出のままで残りはしない。
 小生は、毎年、托鉢に通った地域から生活の痕跡もなくなったしまった光景に、膝が頽(クズオ)れそうだった。
 過去の日々が暴力的に〈上書き〉されてしまった。
 Aさんの故郷は、喪失に上書きされ、避難所の体験に上書きされてしまったのだろうか。

 被災した方々はこの先、どのように思い出と折り合いをつけながら生きて行かれるのか……。
 願わくば、この先、少しでもよいできごとに上書きされるよう祈るばかりである。
 霧の中へ歩み込むような思いで今日も、法務を始めた。




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2016
03.10

変化がもたらす逆境と希望 ―『チベットの生と死の書』を読む(13)―

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〈有楽町駅〉

 無常をむやみに恐れぬようにしたい。
 希望は変化の中にこそ見出せる。

1 逆境と成長

 私たちは〈失う〉ことを恐れる。
 恋人を。
 財産を。
 名誉を。
 健康を。
 しかし、数10年、人間をやってみると、喪失や喪失の危機が自分を育ててきたことに気づく。
 ソギャル・リンポチェ師は『チベット生と死の書』に説く。

「波が荒磯をたたいても、岩が崩れるわけではなく、むしろ波に洗われ浸食されて美景をなすように、人格も変化によって形づくられ、角がとれてゆく。
 絶え間ない変化に洗われて、わたしたちは穏やかにして不動の落ち着きを身につけるすべを学ぶ。
 自己への信頼が大きく育ち、その結果、善性と慈悲がごく自然に放たれ、周囲の人びとに喜びをもたらす。
 この善性こそが死をこえて生きぬくものであり、すべての人にそなわったものなのである。
 わたしたちの生はこのゆるぎない善性を見出すための実習であり、それに気づくための訓練なのである。」


 今から約40年前、故伊藤肇は『左遷の哲学―嵐の中でも時間はたつ』を書いた。
 彼は、人間を成長させる逆境として5つの苦難を挙げている。
 闘病、浪人、投獄、左遷、挫折である。
 闘病によってようやく他者の辛さが忖度でき、自分の存在の脆さを知り、一人で生きているのではないことも身に沁みる。
 浪人すれば、〈どうしても失わざるを得ない状況〉があることを実感し、去る人、去らない人、目をかけてくれる人、さまざまな他人の本心も見えてくる。
 投獄されれば、国家権力と個人のありようが体感され、不条理の壁が不動心を育てる。
 左遷されれば、力の限界を知り、隠されていた自分の力に気づきもする。
 挫折によって高慢心がへし折られ、地べたに叩きつけられる一方で、まったく新しい世界が見えてきたりする。

 確かに、逆境に磨かれた人はどこかに「不動の落ち着き」を持ち、信頼感をもよおさせるものだ。
 師は、逆境によって起こる変容が二つあると言う。

「変化のうちにくつろぐすべを学ぶこと」

無常を友とするすべを学ぶこと」


 変化に流されず、悪あがきせず、泰然と対応できれば怖いものはなくなる。
 無常が不動の友であれば、執着という悪友は近づけない。

2 希望

 無常を深く見つめると、新たな真理が顔を出す。

「宇宙の本質に、さらにはその宇宙の本質とわたしたちとの途方もない結びつきに、あなたの目を開かせる希望。」


 つかまえるものがないところになぜ、希望が湧いてくるのか?

「すべてが無常であるのなら、すべては〈(クウ)〉である。
 永続し安定した独自の存在などありえない。
 そして、それらすべては、分離独立しているのではなく、他のすべてと相互に依存しあっているのである。
 ブッダはこの宇宙を無数の光り輝く宝石が織りなす巨大な網にたとえた。
 そしてその宝石のひとつひとつがさらに無数の切子面を持っていて、その切子面のひとつひとつが他のすべての宝石を反射させている。
 つまり、ひとつが同時にすべてなのだ。


 ある時、20才そこそこの一人娘が突然、男性との同棲を始め、しかもうまくいっていないらしいが、どうすれば家に引き戻せるかという人生相談があった。
 両親も祖父母も心配でたまらない。
 じっと状況をお聴きしているうちに、お祖母さんからこんな場面が語られた。
「突然、帰宅した孫は何も言わず自分の部屋へ入り、しばらくしてまた、黙って出て行きました。
 去る背中に向かって、いつだって帰って来ていいんだよ、ここはお前の家だからね!と叫びました。
 ビクッとした孫は一瞬、立ち止まり、チラッと見せた横顔で小さく頷きました」
 申しあげた。
「船着き場があるから、船は航海に出られるんです。
 別に毎日、顔を合わせていなくても、家族という糸があることをお孫さんが忘れなければ、それで家族の役割は立派に果たせています。
 そして、心配する一方で信頼もしている、という家族ならではの真実が揺るがないことをお孫さんが感じとっていれば、充分です。」

 どんなに離れていようと家族も一つの小宇宙。
 友人関係も、仕事場も、地域も、国家も、そして世界も、構成する無数の輝く宝石によって織り成されている網であり、マンダラである。
 大海から岸辺に打ち寄せる小さな波の一つも、他のすべての波と関わり合って海を構成しており、もしもその小さな波一つがなかったとしたら、それは海そのものがなくなることを意味する。
 公園にある一本の樹木も、土、陽光、雨、風、手入れする人、眺める人、おしっこをかける犬、など、ありとあらゆるものとの関係がその存在を支えており、しかも、関係すべてが刻一刻と変化してやまない。
 量子化学によれば、偏在する量子たちは、さまざまに結合する可能性をもって存在している。
 網のようであり、マンダラのようでもある。
 ありとあらゆるものが(クウ)であり、同時に関係性という糸で結ばれているからこそ、望む方向への変化という〈希望〉がある。

3 逆境希望

 変化が苦を伴って現れれば逆境となるが、それは試練として人間性を陶冶(トウヤ)する。
 変化を、望む方向へ動かせる可能性が希望を抱かせる。
 試練の時期をどう生きるか、(クウ)とマンダラの真理を観ていかなる希望を持つか、それはその人次第である。

 3月9日、大津地裁は、関西電力高浜原発3、4号機の運転を差し止める仮処分決定を出した。
 東日本大震災によって安全神話が崩壊し、きちんとした現実的な避難計画も策定不能なままに、国策として再稼働をしてきた原発に司法が危険信号を点した。
 変化の中にこそ発展と救済の可能性があり、いかなる〈壁〉も変化を拒みきれない。
 無常を恐れず、無常の中に悠然と、方向を見誤らずに生きたい。
 



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「おん あらはしゃのう」
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2016
03.09

フウテンの寅さんと愛の誤解 ―『チベットの生と死の書』を読む(12)―

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 ソギャル・リンポチェ師の著書『チベット生と死の書』は、生と死を考える人びとへ重要な示唆を与える一冊である。
 伝統仏教の最先端を示し、かつ、最奧をもかいま見せる高貴な魂の結晶である。
 師は「仏法をより近づきやすいものに、現代的、実践的なものにするために著した」とされているが、700ページ近い力作で、なかなか読み通せないかも知れない。
 以下、全体の概要というよりは、いくつかのポイントを挙げておきたい。

 私たちは容易に無常を知ることができる。
 人やペットの死、花の枯朽、企業の倒産、世界のすべては無常を告げている。
 何もかもが変化してやまない。
 しかし、私たちは〈知って〉いるのに、不変を求めてしがみつき苦悩する。
 だから師は諭す。

「〈無常〉を思うだけでは充分ではない。
 生きてあるうちに、あなたはそれに働きかけなければならない。
 医学の修得に理論と実践の両方が必要とされるように、生もその両方を必要とするのだ。
 生の実地訓練はここにある。
 今にある。
 この変化の実験室のなかにある。」


 最近はテレビで名医を紹介する番組が多くなった。
 ゲストたちの判断や治療の正確さには舌を巻く。
 理を知り腕を磨いた達人の仕事ぶりは神業のようだ。
 どの分野であろうと、「理論と実践」が私たちを生かし救う力となる。
 そして、私たちの日常生活はすべて、心次第で「変化の実験室」となり、「実践」の場となる。

「ひとつ実験をしてみよう。
 硬化を一つ用意する。
 それはあなたが生のなかで必死でしがみついている何かだ。
 それをしっかりと手のなかに握って、腕を伸ばす。
 手のひらを地面の方に向ける。
 今、手を開くかこぶしをゆるめるかすると、あなたはそれまでしがみついてきたものを失うことになる。
 だからあなたはしがみつく。

 だが、ここに別の可能性がある。
 手を開いて、それでも硬化を持っていることができるのだ。
 腕を伸ばしたままで、手のひらが上を向くようにする。
 手を開いてみよう。
 硬化は依然あなたの手のうえにある。
 あなたは手を放す。
 だが硬化は依然としてあなたのものだ。
 広い空間のなかで。

 つまり、生を味わいながら、何かにしがみつくこともなく、〈無常〉を受けいれる道があるということだ。」


 私たちは無常を知ってはいるが、本当にそれが避け難く、自分自身も、自分の関係するすべてのものにとっても例外ではないという真実が腑に落ちてはいない。
 だから、何かを握ろうとする。
 握っていないと不安だからだ。
 自分が、成就不可能な可能性にかけていることを無意識の領域で知っているのに、可能性にしがみつくから不安が起こる。
 いつまでもされていたい。
 いつまでもしていたい。
 ──自分の心も、相手の心も、一瞬たりとも休まず揺れ動いているのに。
 ──自分自身が物心ついてこの方、ずっと気移りを繰り返してきたことを誰よりもよく知っているのに。

「わたしたちはつねに幸せを求めている。
 しかし、幸せを求めるそのやり方があまり不器用で稚拙なために、よりいっそうの悲しみを呼び寄せるばかりだ。
 ふつうわたしたちは、幸せを保証してくれる何かをしっかりと握りしめていなくてはならないと思っている。
 何であれそれを自分のものにしなくて、どうしてそれを楽しむことができるだろう、と思っている。
 執着がいかにと誤解されやすいことか!
 二人がたとえ良い関係にあっても、執着によって損なわれるのだ。
 その不安感、独占欲、プライドによって損なわれるのだ。

 そして、が失われたとき、あなたに残されているのはの『思い出』と執着の傷痕だけ。」


 愛と執着は別ものであり、執着に愛を確保しておく力があるわけではない。
 愛が本当の愛であるためには、つまり、決して損なれわない愛であるためには、執着という〈損なうもの〉を排除せねばならない。
 師からこう言われると、私たちがいかに勘違いをしているかに気づく。

「では、どうすれば執着を乗りこえてゆけるのか。
 無常の真理を理解することによってである。
 それ以外にはない。

 その理解がゆっくりとわたしたちを執着の手から引き離してゆく。」


 私たちが変化に対してとるべき態度は一つしかない。

「変化に対する正しい態度とは、流れゆく雲をながめる空のようであること、水銀のように自由であること、である。」


 私たちは普通、せいぜい「流れゆく雲をながめる」〈人間〉でしかない。
 無常を自分の向こう側へ置いている。
 だから、無常を見て、知っているだけである。
 しかし、「流れゆく雲をながめる」〈空〉となれば、話はまったく違う。
 無常を自分の世界内で起こることとしてそのまま受け入れた上で、それを観察している。
 とどまらない雲の動きと、自分が〈在る〉こととは切り離せない。
 ここまで行ってようやく「無常の真理を理解」したことになるのだろう。

 また、水銀のたとえは鮮烈だ。
 水銀はどこにこぼれても、泥やゴミと混じり合わず、純粋なままだ。
 そして、水銀は合体して大きな固まりになっても、別れて小さな粒になっても同じ水銀のままだ。
 環境に左右されず、〈そのもの〉として在る。

 こうして考えてみると、渥美清の演ずるフウテンの寅さんが、約30年間に48本もの映画になり、ずっと日本人の共感を得てきた背景がわかる。
 四季の移り変わりが明確な環境に住み、かつ、それを深く受けとめる繊細な感覚を持っている日本人はおそらく相当程度、無常を知っているのだろう。
 知っていても、普通、無常はそちら側に置きたいし、自分のことについては無常を忘れて何かにしがみついていた方が、安心なように思えてしまう。
 無常を見ている心の目と、それに蓋をしておきたい心とが葛藤を起こしている。
 寅さんは葛藤を哀愁に昇華させて、人生を次の場面へと移して行く。
 私たちは、哀愁になる前の喜悦、執着、煩悶、嘆き、怒り、怨みなどでがんじがらめになり、そこからなかなか抜け出られない。
 私たちは、執着心の後遺症を抱えてしまい、なかなか人生の場面を切り替えられない。
 そんな私たちにとって、寅さんは私たちに成り代わり、潔く無常を生きて見せてくれる英雄なのだ。
 寅さんはいつもマドンナのために、周囲の庶民のために、身を粉にして何ものも惜しまない。

「少しづつ執着から離れてゆくと、わたしたちのなかで大いなる慈悲が解き放たれる。
 貪欲の雲はうすれ消えてゆき、真の慈悲心の陽がさしこむ。」


 師は、真理を示したものとしてウィリアム・ブレイクの詩を挙げる。

「喜びをその身に引きつけて離さぬ者は
 天地をかける生命を滅ぼす。しかし
 飛び去る喜びに口づけする者は
 永遠の朝日のなかに生きる」


 寅さんを演じた渥美清は肝臓癌が肺まで転移しており、ほとんど動けない状態(主治医は映画出演を「奇跡に近い」と表現した)でも、リリーこと浅丘ルリ子と4度目の共演(死期を悟った浅丘ルリ子はぜひ、と熱望していた)を果たし、従容と逝った。
 寅次郎はまさに「永遠の朝日のなかに生き」続けていると言えないだろうか。合掌




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2016
03.08

誰かの誕生日を祝おう ─明かりを届け、追い風を贈ろう─

2016-03-07-00100.jpg
〈東京の街角に〉

 誰かの誕生日には、わけもなく嬉しくなる。
 嬉しさはどこから来るか?

 自分がこの世に生まれただけでは、巡り会いはない。
 同じこの世に同じ人間として生まれてくださったからこそとなり、尚かつ、今も生きておられればこそ、共にこの世で息をし、この世を形成していられる。
 心を通じ合える誰かと共にこの世に〈在る〉ことは、他のことに代えがたいありがたさを感じる。

 私たちはいつも〈関係性〉の中にいる。
 猫と、梅と、職場と、自宅と、そして誰かと何らかの関係があればこそ、自分が自分でいられる。
 もしも100年分の食糧と100年間過ごせる空間があったとしても、たった一人で、通信手段がない月へ置き去りにされたならば、発狂するか自殺するか道は二つに一つしかなかろう。

 優しいAさん、感激屋のBさん、いつも陽気なCさん、怒りっぽいDさん、偏屈なEさん、皮肉屋のFさん、……。
 そうした方々と接し、何らかの〈反応〉をするところに〈自分〉が見出される。
 病気のGさん、しばらく会っていないHさん、誤解を解いておきたいIさん、……。
 そうした方々を〈思い出す〉ところに、心配したり祈ったり、電話をしたくなったり、会おうか会うまいか逡巡したりする〈自分〉が居る。
 目覚めた布団の中で、〝昨日、食欲がなかったクロは元気かな〟と愛猫を想う。
 顔を洗い歯を磨きながら、〝梅は咲いたかな〟と庭木を想う。

 そこにしか〈自分〉は居ない。

 だから、もしもそうした関係が次々と断ち切られたならば、〈自分〉はどんどん希薄になることだろう。
 脳は、著しく機能低下しない限り、何らかの機能不全に陥るだろう。

 今月、あるいは今日、誰かの誕生日が来る。
 何と嬉しいことだろう。
 おめでとう、と意思表示すると、ありがとう、と返って来る場合もある。
 返って来ようが来まいが、自分に湧き起こっている喜びは、心にもいのちにも力を与える。

 誕生日は、その日に生まれ、経年後のその日を迎えた当人にとってのお祝いとなるだけでなく、となったすべての人にとってのお祝いともなる。
 
 若い人々は、何かにつけ、おをやりたいので、誕生祝いは格好のチャンスとなる。
 しかし、年配者になると、自分が年をとったことを思い出したくないなどの心理から、誕生日を意識しなくなったりする。
 それは残念だ。
 たとえ自分の誕生日は気にしなくても、知っていたはずの誰かの誕生日は思い出したい。
 その人の笑顔などを思い出すだけで、心が温かくなるはずだ。
 現代医学は、体温が1度下がると免疫力が30パーセント下がるといい、筋肉の衰えを防ぎ体温を確保するために歩くことを勧める。
 心も温かくなると必ず活性化する。

 誰かの誕生日を祝いたい。
 その思いはきっと、相手の心へ明かりを届け、優しい追い風となるだけでなく、祝う自分をも元気づける。
 そもそも、お釈迦様はこう説かれている。
「ありとあらゆるものはによって現象している」
「自分がを脱したいなら、他のためを思え」




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2016
03.07

現代の苦と水子地蔵墓

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1 水子地蔵へのお納骨

 過日、水子地蔵へお納骨を行いました。
 水子地蔵様の台座に小さな扉をつけ、お地蔵様のお足元へお骨を納められるようにしたのです。
 まだ、寒い日が続く時期なのに、風もなく、陽光の恵みが感じられる佳い日でした。
 成人していない〈お父さん〉も〈お母さん〉も親につきそわれ、神妙な面持ちで手を合わせました。
 緊張し、表情を失ったような二人にとって、できごとの持つ意味を本当に知るようになるのは数十年先かも知れません。

2 水子霊への供養や後悔

 人生相談に来られたAさんはしみじみと言われました。
「結局、男の子を授かることはできませんでした。
 もちろん、女の子たちはそれぞれまっとうに育っており、何の文句もありませんが、ごくたまに、夫へこう言いたくなります。
『あの時、性別を教えてもらってから決めた方がよかったのかしら……』
 夫の答はずっと同じです。
『あの時はああするしかなかったんだから、もういいじゃないか』
 それでも二人して還暦を過ぎ、そう遠くない将来、ご先祖様を毎日ご供養しているお仏壇を嗣ぐ人がなくてすっかり途絶えることを考えると、堕胎した罰が当たったのではないかと思ってしまうんです。
 今になってようやく、子育てをすることや、ご先祖様を供養することの意味がわかってきたのに、もう〈遅い〉なんて……」
 そして、ご夫婦のどちらかに万一の事態が発生した際のことごとを当山へ託しました。
「お骨の状態になってから本堂に来るので、引導を渡してから共同墓で永代供養してください。
 いつかは、先祖代々のお位牌を位牌堂に納めます。
 お仏壇のお焚きあげもお願いします」

3 水子をつくったり暴発したりする若者

 今は、トイレで堕胎したり、生まれてから何年かを過ごした幼子ですら、親が平気で虐待し、殺しもする時代になりました。
 小中学生の堕胎も珍しくはないと耳にします。
 年配者はどうしても「道徳教育がなっていない」「親のしつけが悪い」と考えがちですが、最近の脳科学は興味深い事実をつかんでいます。

 情動などを司る大脳辺縁系は思春期になると急速に発達します。
 一方、適切な社会的行動へ導く前頭葉皮質の発達は遅れ、成人してからもどんどんはたらきを強めます。
 そもそも、感情などで衝動を起こさせる部分と、それをいったん制御して人間社会に即した行動へ結びつける部分とのズレが思春期特有のイライラや、情緒不安定や、暴発的行動などをもたらしてきたのですが、なぜか最近、大脳辺縁系の発達があまりにも早くなったために、子供たちの行動に深刻な影響が出始めているのです。
 こうした状況こそが真の緊急事態ではないでしょうか?
 広い分野の専門家が額を寄せ合って真剣に対応せねばならないのではないでしょうか?

4 新たな現代の苦

 生活環境や生活形態の激変によって、私たちはわずか数十年前には予想もしなかったほど便利で、長生きできる日々を手に入れましたが、一方では、各種のアレルギーや、心の病気や、不可解な暴発の激増、そして、年配者の生を支えきれない社会構造、若い人々の未来を保証できない年金などの重大な問題を抱えるようになりました。
 お釈迦様の説かれた「苦=ままならなさ」は常に、その時代や社会なりの〈姿〉で顕れます。
 私たちが今、息苦しくなったり、生きずらくなったりしてきたと感じるのは、社会全体に苦が増したというよりは、〈私たちすべてが苦を抱えた存在である〉という真実が、社会の無理や矛盾や歪み、また私たちの〈生きものとして変化〉によって、明らかになってきたということではないでしょうか。

 この苦へ対処するには、現代特有の原因を滅する方法と、万古代わらぬ苦の本質に迫る方法があります。
 当山は、人生相談や社会的発言などで〈現代〉と正対し、み仏におすがりする修法で本質的転換や本質的解決を目ざしています。
 水子地蔵と身代わり地蔵様の祈りは、おすがりする万人を救います。
「南無大施徳菩薩地蔵尊(ナムダイセトクボサジゾウソン)」
「おん かかか びさんまえい そわか」




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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
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2016
03.07

東日本大震災における殉難者の安寧を祈る会が終わりました ─般若心経百八巻─

2016-03-06-003.jpg

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 おかげさまにて、般若心経百万巻を目ざす供養会が無事、終わりました。
 2時間を優に超える修法の前半では般若心経法を結び、後半では護摩法を行いました。
 当山へ足を運ばれた方々、納経された方々、お花や御供物やご志納金を送ってくださった方々、そして津々浦々で般若心経108巻、あるいは1巻でもお唱えくださった方々、また、心を向けてくださったすべての方々へご報告とお礼を申しあげます。
 まことにありがとうございました。
 皆様のご誠心は、尊い「供」物となり、その徳はきっと、東日本大震災で亡くなられた御霊が極楽へ向かう力を「養」い、苦境を乗り切ろうとしておられる方々の生きる力を「養」い、皆様の霊性を清らかに「養」ったことでしょう。
 皆様共々、真の供養を実感したひとときでした。合掌




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2016
03.06

東日本大震災被災の記(第179回) ─地方・中央の関係と生命体のシステムについて─

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〈河北新報様の記事よりお借りして加工した神経回路のような東京の姿〉

 当山は今日、東日本大震災の殉難者を供養する般若心経108巻の供養会を行う。
 5年前の11日、生の底が抜けた。
 死と崩壊と喪失、そして放射能の脅威によって、私たちは、営んできた生活、紡いで来た歴史の意味を問われた。
 否応なく立ち止まった。

 あれからもうすぐ5年。
 思い出すのは、今年の元旦、河北新報に掲載された生物学者福岡伸一(青山学院大学教授)氏の新春エッセー「生命の論理から地方を考える」である。
 生命体の真実に鑑みれば、ここ「みちのく」は決して中央に従属し、中央へ奉仕するべき存在ではない。
 以下、記事の一部を抜粋し、考えてみたい。

1 中枢と末梢

 氏は、中枢と末梢について指摘する。 

「中枢と末梢という言葉がある。
 国や社会の組織でも、首都と地方都市の関係でも使われる。

 中枢と末梢とは、もともと生物学の用語である。
 脳が『中枢』であり、それ以外の身体部分が『末梢』だとされる。
 でも実は人間が勝手に生命をそう見立てているにすぎない。

 本当のことをいえば、脳は生命にとって中枢ではない。
 そんな偉そうなものでは全然ない。
 というのも、脳は、それ自体では自発的に情報を作り出すことも、命令を下すこともできないからである。」


 脳がなく、神経回路に頼っているだけのミミズだって立派に生きているではないか。

2 生命体をつくる細胞とは何か?

「細胞にとって一番大事な仕事は何か。
 それは絶えず増大するエントロピー(乱雑さ)と戦うことである。

 世界が乱雑さが増大する方向にのみ進む。
 壮麗なピラミッドは年月とともに風化し、ダ・ヴィンチの傑作でさえ退色し、ひび割れする。

 エントロピー増大に最も果敢に対峙しているのは何か。
 高度な秩序を維持している私たちの生命体だ。」


 バラバラになろうとする部品を調和のとれた形でつなぎ止めて生命を維持しているのは生命体が持つ全体性であると言う。

「いかにして?
『動的平衡』によってである。
 動的平衡とは、細胞の内部にたまるエントロピーを絶えず外部にして続けることである。

 エントロピーは、酸化、変性、老廃物の蓄積といった形で絶え間なく生命に降り注ぐ。

 これと戦うため、生命は自らを頑丈に作るのではなく、むしろ常に壊しつつ、やりなおすと言う方法を選んだ。
 分解と更新の流れこそが生きていることの本質である。これが動的平行である。

 生命は、動的な流れの中にある。


 寒く、乾燥した地球で生き延びるため、ネアンデルタール人は鎧のような身体にしたが、冷温を繰り返すようになった季候変動に対応できず、亡んだ。
 道具を作り、衣装を替えるホモサピエンスは対応して私たちへいのちを繋いだ。
 動いてやまない世界に対応して生きる生命体もまた、柔軟な動きを持たねばならない。

3 社会のバランスとは?

 中央地方は「単なる見立て」の言葉であり、それは決して主従関係を意味しない。
 首都から見た「陸奥」も「東北」も、首都の都合で位置を示した言葉でしかない。

「この動的平衡の視点を、人間組織、社会のあり方、あるいは中央地方の問題に当てはめることができるだろうか。
 会社組織の硬直かや衰退、あるいは人口減少や過疎化による地方都市の不活性化やインフラの劣化は、すべてエントロピー増大の危機といえる。

 細胞は作ることよりも壊すことの方を一生懸命やっている。
 その上で動的平衡をフル回転して、柔軟性と可変性を取り戻す。
 そうして生命は環境の変化に適応し、進化を遂げてきた。
 動的とは、物質・エネルギー・情報の動きのことだ。
 社会ならこれに人の動きが加わるだろう。」


 放置すれば、社会を構成するものは硬直化し、バラバラになる。

進化の過程では、むしろ末梢の細胞が先にあり、生命の本体であり主権者だった。
 後になって末梢の利便性のために中枢が作られた。
 脳は末梢のための奉仕者としてある。
 首都や中央地方の奉仕者であるはずだ。


 生命体や社会の構成要素が柔軟さを失わずにそれぞれが生き延びるため、脳ができ、中央ができた。

4 地方と中央、地方と地方

「末梢は常に中枢を巧みに利用している。
 末梢で発生した事象は良いことであれ、悪いことであれ、すべて中枢に伝達される。
 中枢はそれを統合・整理して、各末梢に伝える。

 つまり末梢とって中枢とは、有用・有益なメディア装置なのである。
 この情報のやりとりによって末梢は、過剰なものを分けあい、足りないものを融通しあって、分散的な自律性を模索する。
 これを相補的な関係という。
 末梢同士の関係はローカルな相補性の中にある。


「ジグソーパズルのピースのように、地方と地方の相互性が少しずつ共鳴し、重なり合うことによって、大きく強靭なネットワークが生み出される。
 私たち人間の組織も、生命の動的平衡に学ぶべきである。」


 私たちは、中央と地方、そして地方と地方について、考えなおす必要がある。

5 中央、中枢の実態

 3月5日、マスコミ各社は、東京五輪のメーンスタジアムとなる新国立競技場に聖火台の設置場所が決まっていないという驚くべき事実を報じた。
 損得の計算をし、姿形を競おうとする現代日本の文明がいかに底の浅いものか。
 華々しく鐘太鼓を叩き、花火を打ち上げて目立つ成果を競う政治がいかに薄っぺらいものか。
 まるで本尊の祀り方を考えないで豪壮な伽藍を設計するような、魂のはたらきが薄れている実態は、世界に対して恥ずかしい。
 あの、おぞましい「エコノミック・アニマル」という蔑称を世界に思い出させた罪はあまりにも重い。
 これほのど失態、醜態について、いったい誰がどのように責任を取るか(「説明責任」などというごまかしは効かない)、あるいは責任逃れをするか、よく確認しておきたい。

 地方は中央に従属すべき存在ではない。
 不屈の土性骨(ドショウボネ)をもって、みちのくから〈魂の復活〉をはかりたい。
 それをあの世の御霊に見ていただきたい。
 今こそ、誓おうではないか。




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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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2016
03.05

お金が主役の時代に想う ─中沢新一・トランプ・ユダヤ原理─

2016-02-25-014.jpg

 世の中がなぜ、こうまでもすべてをお金に換算するようになったか?
 住処を調える家事や子育てまでも金銭的な尺度で〈価値〉を計られるなど異様ではないか?
 また、医療や教育までも〈商売〉にしてしまうのは危険ではないか?

 すべてを単一の価値観で数値化するという無理は、家事や子育てそのものの本質や尊さを忘れさせつつある。
 すべてを儲けなければ存続できない世界へ堕とした無理は、医療現場の混乱や教育現場の商業化を招き、医師も教師も本来の〈師〉たり得なくなっている。
 当山でお茶のみ話をされるお年寄りは、ロボットに介護されるくらいなら早く死んだ方がいいと考えておられる方が少なくない。
 人間にとっての本当の〈価値〉が、お金とモノが持つ〈数値〉とあまりにも乖離しつつある。

 思想家中沢新一氏は東日本大震災と原発事故を憂い、平成25年「グリーンアクティブ」を創設した。
 趣旨である。

「現代世界におこっているさまざまな困難な問題の根源に、私たちはグローバル化した経済を見出す。
 自然環境の破壊や人間社会の解体の奥で、あらゆるものを根こぎにし、商品化していく経済の暴走を見出すことができる。
 グリーンアクティブは目覚めつつある『緑の意識』によって、このような破壊の運動に対抗していこうとしている。
 グリーンアクティブは新しい富のかたち、 新しい豊かさの感覚、新しい人間的絆のありかたを、つくりだそうと思う。」

 
 昭和63年、氏は心理療法家河合隼雄氏と対談し「ブッダの」を上梓した。
 そこでこの問題に関する重大な発言を行っている。

「反共産主義の陣営に立っているロシア民族派の人たちは、ものすごく強硬な反ユダヤ主義なんですね。
 彼らが言っているのは、要するに社会主義革命というのはユダヤ人だと。」

「実際、レーニン博物館に行くと、初期のボリシェヴィキ全員で撮った大きな写真があるんですが、九十パーセントがユダヤ人なんですね。」

「スラブ民族派に言わせると、ロシアをこんなふうにしてしまったいちばんの原因は、農村を破壊してコルホーズにしたことなんですね。
 農民というのは土地に帰属して生産を行う人間だから、魂の世界というのがあった。
 それをアパートに住まわせて、教会を破壊して、そこを農場にしてしまった。
 これを推し進めている原理というのは、人間の魂は土地に帰属するということを否定する原理であり、それはユダヤ原理だと言うわけです。
 彼らこそ土地を持たない民族であって、彼らにとって重要なのはお金と知識だったわけでしょう。
 そういうユダヤ原理というものがこの地球を席巻していくのであって、ロシア革命の時に起こったこともそういうことなんだと言うわけです。」


 無論、すべてをユダヤ人のせいにするのは無理であり、偏見は厳に慎まねばならないが、氏の指摘する「お金と知識」が世界の物質文明を驚異的なスピードで発展させ、人間一人一人に自由の意識を育て、一人一人が自由意志で動ける範囲を拡大して来たことは否めない。
 私たちはある意味で解放されたが、同時に〈魂の根〉を失いつつあるようにも思える。
 その根は、農業・林業・漁業など第一次産業の世界には確かにあった。
 田畑や山や船を所有する家や地域の人びとが、伝えられ磨かれたそれぞれの知恵や、惜しまぬ汗によって生業を守り伝える時代には。
 しかし、今は時代の主役が代わった。
 そして、失いつつある重大なものが輪郭を顕わにしつつある。

 ところで、アメリカの大統領選挙にトランプ旋風が吹き荒れている。
 トランプ氏の娘も孫もユダヤ教徒であり、氏はそのことを「光栄」と語り、約束している。
「我々は100%、イスラエルのために戦う。
 1000%戦う。
 永遠に戦う」

 さて、私たちの世界、私たちの思考はどうなっているか?
 世界はどうなって行くのか?
 前述の「ブッダの」で、中沢氏はユダヤ原理をこう言う。

「帰属するものを引き離して流浪する民に変え──これは自由ということかも知れませんが──、その流浪するものを貨幣や知識に切り替えていくという原理」


 河合隼雄氏の締めくくりは恐ろしい。

「切れてしまったものをもう一度土地につなごうと思ったら、そのあいだのメッセージというのは、もうしかない……。」


 そうだろうか?
 まだ切れきっていなのではなかろうか?
 私たちはまだ、〝おかしい〟と思い、不安になり、何ものかに頭を占領されつつあることに気づくことができる。
 よく考えてみたい。




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