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2016
05.31

ご来迎と悪魔の襲来 ─その時に後悔しないよう─

2016-05-30-0004.jpg
〈心と宇宙の象徴である五輪の塔〉

 心がけのよい人が死ぬ時はご来迎(ライゴウ)があるという。
 み仏が降りて来てお導きくださる。
 それを願う人々は、かつて、阿弥陀様や観音様のお像につながる五色の紐を手にして臨終を迎えたりした。
 紫がかった雲と光まばゆいみ仏の像は何を意味するか?

 それは仏心が開く様子だろう。
 感謝や満足感があふれ、人もモノも愛しくなり、美しく見えてくるのだろう。
 魂が本来の光そのものになっているに違いない。
 瞑想の月輪感(ガチリンカン)においては、すでにその体験ができる。

 心がけの悪い人は悪魔の襲来を受けるという。
 死に神の強大な力で、否応なく黄泉(ヨミ)の世界へ連れ去られる。
 お釈迦様は説かれた。
「その時は親族とて救いようがない」

 この悪魔は、執着心だろう。
 いのちもモノも失いたくないし、家族や好きな人やペットと別れたくないし、まだやり終わっていないことごとがある。
 残念で、悔しく、後悔や罪悪感に苛まれ、恐ろしい。
 佳きものから断ち切られ、悪しきものをどうしようもない。

 死を間近にした私たちは目が見えず、耳も聞こえなくなってゆくが、目や耳など五官のはたらきによって現象世界と接している時のさまざまな束縛から離れ、魂そのものの動きしかなくなるのだ。
 この時、すんなりとみ仏の心がはたらけば、極楽を感得できるだろう。
 はたらかなければ、辛いだろう。
 どちらになるかは、もちろん因果応報だが、いつでも、決定的なよき〈因〉をつくることができる。

 それは懺悔(サンゲ)と発心(ホッシン)である。
 我が身を振り返り、罪科(ツミトガ)を直視して悔い改めること。
 まっとうな人生に生き直しをしようと決心すること。
 これが日常生活においてはなかなか実践できないので、ご本尊様をお祀りする聖地がある。

 私たちは常々、五官六根に翻弄されてはいるが、用い方次第で、五官六根は心中のみ仏を活性化できる。
 聖なるものを目で見る、聖なる音を耳で聞く、聖なる香りを鼻で嗅ぐ、聖なる味を舌で味わう、聖なる感触を肌で感じる、聖なる雰囲気や気配を心で感じる。
 そうしたことを縁として懺悔発心の教えに心が開けば、私たちはこの身このままで〈本来のみ仏〉である心身に近づける。
 こうした体験を重ねておけば、死ぬ時の心配はない。

 ご来迎に会えるか悪魔の襲来を受けるか、それは自分次第である。




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 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





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2016
05.30

メメント・モリについて ─死を忘れ、思いやりを忘れた私たち─

2016-05-30-0001.jpg

 このところ、ご葬儀や遺言など、後のご相談に際して、真剣にを想う方々のお心に清浄なものを感じる機会が多い。
 
1 メメント・モリとは?

 古代ローマから言われてきた「メメント・モリ」という言葉がある。
 直訳すれば「を想え」となるらしい。
 ウィキペディアによれば、「将軍が凱旋のパレードを行なった際に使われ」、「将軍の後ろに立つ使用人」が「将軍は今日絶頂にあるが、明日はそうであるかわからない」ことを思い出させる役割を果たしていたという。

 私たちはこう読むと、〝そうか、古代ローマでも賢者は無常を忘れなかったのか〟と感心したりするかも知れないが、そうではなかった。
 趣旨は「今を楽しめ」であり、「食べ、飲め、そして陽気になろう。我々は明日ぬから」だった。
 勝者となってなお、戦争でいつぬかわからない身であることを忘れず、今は旨酒にしっかり酔おうとわざわざ思う必要があった。
 それだけ、人を殺し、町を破壊し、仲間を失ったことが重く、恐ろしく、悔恨に満ち、将軍も戦士たちも、いたたまれない思いに苛まれていたことを示している。

 後に、キリスト教世界では、「キリスト教徒にとっては、への思いは現世での楽しみ・贅沢・手柄が空虚でむなしいものであることを強調するものであり、来世に思いをはせる誘引となった」。
 死によって行く先が天国と地獄とに分かれることを忘れず、信仰に励みなさいという意味で使われたのだ。

2 本当の死・本当の生

 さて、平成20年に出版された写真家藤原新也氏の『メメント・モリ』という単行本がある。
 氏は言う。

「この言葉は、ペストが蔓延(ハビコ)り、生が刹那(セツナ)、享楽的(キョウラクテキ)になった中世末期のヨーロッパで盛んに使われたラテン語の宗教用語である。」

本当の死が見えないと本当の生も生きられない。
 等身大の実物の生活をするためには、等身大の実物の生死を感じる意識(ココロ)を高めなくてはならない。
 死は生の水準器(スイジュンキ)のようなもの。
 死は生のアリバイである。」


 そして写真集は締め括られる。

「いま世界は疲弊し、迷い、ぼろぼろにほころび、亡びに向かいつつある。
 そんな中、つかみどころのない懈満(ケマン)な日々を送っている正常なひとよりも、それなりの効力意識に目覚めている阿呆者(アホウモノ)の方が、この世の生命存在としては優位にあるように思える。
 わたしは後者の阿呆の方を選ぶ。
 わたしは、あきらめない。」


 懈満とは、怠惰に満ち、問題意識を持たず惰性に流される状態である。
 氏は、死を想わなくなった生の破綻を観ている。
 死を想うことなど何の得にもならぬと考え、前向きにならねばという強迫観念にとらわれている私たちは、いかなる死も〈向こう側〉や〈そちら側〉や〈脇〉へ追いやって、生の効率に取り憑かれた焦りの日々を過ごしているが、それはあたかも方肺飛行のような危ういものでしかない。
 はっきりと「本当の死」を見つつ生きる者は、惰性で生きる人々から「阿呆者」と思われるが、死の「効力」を知っている氏は、阿呆者であり続けたいと宣言する。

3 進化退化

 詩人白鳥光代氏は詩集・句集『ホモサピエンス』に収められた詩「ホモサピエンス」にこう書いた。

「何やら ホモサピエンスは
 どんどん進化し 止まるところを知らぬらしい
 ヒトの仮面をつけたまま
 動物の生き方を捨ててしまっている
 ゆがんだ地球に浮遊しながら」

「目を合わさず画面を見つめたままで
  会話が生まれ
 生きる糧を得るはずの仕事によって
  押しつぶされるパラドックス
 交尾をしなくても 子供が生まれ
 親が 子が 殺し合う
 アメーバは 何億年もアメーバだった
 ヒトは たった 数十万年で
 肥大化する脳に弄ばれ
 特有の情感を いやいや
  生き物の機能すらも失っていくのか」

「ホモサピエンスの五感は鈍くなるばかり
 そういえば
 進化とは 退化の意味も含むのだった


 死を感得し、死を思わないところに「情感」は生まれない。
 死が排除された架空の生において「五感は鈍く」なって行く。
 私たちは何かへ激しく反応する一方で、何かへはほとんど反応しなくなってしまった。
 どこが進化したのか、どこが退化したのか、世相を眺め、来し方を振り返って見ると恐ろしくなる。
 人間性を根本から崩すイジメは、子供の世界のみならず、セクハラ、パワハラとして大人の世界にも広がったように思える。
 はたらく人々は、使い捨てられる道具となり、はたらく人々もまた、仕事場を自分のために利用するのみであるように思える。
 財物や権力や健康に富む人や階層や国家は、それらに恵まれぬ人や階層や国家との距離を無限に広げて恬淡としているように思える。

 総体的に眺めて、自分の生にたいする執着心が無限に高まり、他人の生にたいする関心が無限に減少しているのではないか?
 それは、自他共に死すべき宿命を負っているという実感と視点の欠落によるところ大なのではないか?
 死を追いやり、死から遠ざかり、死を忘れたがゆえに、思いやりもまた、薄れたのではないか?
 共に死すべき存在として平等である「共死」を忘れれば、「共生」もまた成り立たないのだろう。
 メメント・モリは、現代においてこそ、不可欠の言葉である。




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2016
05.29

終活セミナーを行います ─終活と終括─

2016-05-28-0002.jpg
〈東京出張で昼食を摂るコンビニ前のテラス。毎月のことゆえ、いつの間にか小生からおにぎりをもらう習慣になったスズメたちがいます〉

 6月8日(水)午前10時30分より(受付開始10時)「シティホール古川」様にて、(株)ベルコ様主催の法話とご相談の会を催します。
 まず法話を行い、その後、別室にて個別のご相談をうけたまわります。
 会費は無料ですので、どうぞお気軽におでかけください。
 なお、行政書士による生活無料相談会も同時開催されます。

○場所:(株)ベルコ「シティホール古川」大崎市古川字城西20ー1 0229ー21ー8555
○申込:6月3日(金)まで

 終活という言葉がさかんに用いられ、人生の終わりを迎えるに当たり、混乱のないよう、周囲へなるべく負担をかけぬよう準備を調える意識が高まっています。
 就職活動を縮めて就活と呼ぶことにちなんで、平成21年に「週刊朝日」が「終活」と表現し、この言葉は一気に広まりました。
 しかし、に行く方や、ぬ方を看取り、送る方、そして弔い、悼む方々と日々、接している者としては、「活」の字に少々、違和感を禁じ得ません。
 
 はまず、否応なく訪れるものです。
 そして、生きものは皆、を忌避しないではいられません。
 それだけには過酷で厳粛、人間がいかにぬかという問題は、その人の尊厳にかかわってきます。

 こうした死を迎える時の心持ちは、活躍の「活」で表現されるべきものでしょうか?
 小生は、私たちが生命保険へ入る時に起こしがちな錯覚と通じる危うさを感じます。
 私たちは、自分が死んだおりに大金が入る契約をする時、決して自分が手にするわけでなく、自分が使えるわけでもない〈大金〉に一瞬、嬉しくなりはしないでしょうか?

 今、死に近づいている私たちはいくつもの不安を抱えています。
 子や孫は、自分がいのちを永らえてきたように、活き活きと安心に生きられる社会をつくり、きちんと人生をまっとうできるだろうか?
 子孫は、ご先祖様やお墓を守って行けるだろうか?

 だから、自分が元気なうちに、自分の死後のことごとはなるべくやってしまおうと考えます。
 それはそれで結構ですが、気になるのはやはり、いつの間にか〈鼻先にニンジンをぶら下げられた馬〉のように、急(セ)かされる風潮です。
 私たちは、提供されるメニューから選択した手順さえ調えれば、もう、自分の〈死〉は解決したことになるのでしょうか?

 もしかすると私たちは、実際に死を目前にしてようやく、保険金は自分が意のままにできないこと、あるいは、相続人たちがそれぞれ当てにしていることを実感するかも知れません。
 もしかすると私たちは、実際に死を目前にしてようやく、「自分は死後、どこへゆくのだろうか?」という本質的な不安に直面し、その不安は遺体を処置する方法が万全であることによってまったく解消され得ないことに気づくかも知れません。
 もしかすると私たちは、実際に死を目前にしてようやく、貧困や病気や戦争によって死にゆく人々の苦しみがわかり、何らの手を差し伸べなかった自分の人生を悔いるかも知れません。

 死を迎えて本当に大切なことをよく考える必要があります。
 慌てて「活動」する前に、自分の人生を「総括」し、自分の人生に悔いはないか、人間としてやり残していることがないかどうか、深く省みるべきではないでしょうか?
 そうした意味において、当山は「終活」ではなく、終いを締め括る「終括」という言葉を提案します。


 皆さん、「終活」は結構ですが、それよりもむしろ「終括」をこそしっかりやろうではありませんか。
 当日は、「終活」については業者様へお任せし、小生は「終括」についてお話と対話を行います。
 どうぞおでかけください。
 



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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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2016
05.28

絶望と次の瞬間について ─『罪と罰』『夢十夜』─

2016-05-27-0008水子地蔵

 恋愛をしている時は、「もしも彼を失ったなら、私は生きていられない」などと思う。
 実際、恋愛の破綻で人生を狂わせてしまう場合がある。

 仕事に打ち込んでいる時は、「仕事ができなくなったら早めに死のう」などと思う。
 そして、仕事から離れた途端、腑抜けのようになってしまう場合がある。

 柔道一直線の時は、「俺から柔道をとったら何も残らない」などと思う。
 ケガや病気などで闘えなくなり、絶望人生への熱意も消してしまう場合がある。

 しかし決意も熱意も絶望も、いずれも〈その時点での人生観〉でしかない。
 自分の人生にこれから訪れるシーンをすべて脳裏に描き出せる人はいないし、未知のシーンで自分がどう考えるかをあらかじめわかっている人もいない。

 私たちの人生の基本は割合、単純だ。
 次々と現れるシーンにおいて、私たちは、それまでの考え方をつないで行くか、それとも新たな考え方が起こるか、それともそれまでの考え方に磨きをかけるか、それだけである。

 自分自身が銃殺刑を宣告され、執行の直前に特赦で助かったドストエフスキーは『罪と罰』でラスコーリニコフへこう言わせている。

「どこで読んだんだったけ?
 なんでも死刑を宣告された男が、死の一時間前に言ったとか、考えたとかいうんだった。
 もしどこか高い岸壁の上で、それも、やっと二本の足で立てるくらいの狭い場所で、絶壁と、太陽と、永遠の闇と、永遠の孤独と、永遠の嵐に囲まれて生なければならないとしても、そして、その一アルシン四方の場所に一生涯、千年も万年も、永久に立ちつづけなければならないとしても、それでも、いま死んでしまうよりは、そうやって生きたほうがいい、というんだった。
 なんとか生きていたい、生きて、生きていたい! どんな生き方でもいいから、生きていたい!
 ……なんという真実だろう!
 ああ、なんという真実の声だろう!」


 夏目漱石も短編集『夢十夜』の第七夜に、海へ飛び込んだ男の心を描いた。

「自分はますますつまらなくなった。
 とうとう死ぬ事に決心した。
 それである晩、あたりに人のいない時分、思い切って海の中へ飛び込んだ。
 ところが――自分の足が甲板を離れて、船と縁が切れたその刹那に、急に命が惜しくなった。
 心の底からよせばよかったと思った。
 けれども、もう遅い。
 自分は厭でも応でも海の中へ這入らなければならない。
 ただ大変高くできていた船と見えて、身体は船を離れたけれども、足は容易に水に着かない。
 しかし捕かまえるものがないから、しだいしだいに水に近づいて来る。
 いくら足を縮めても近づいて来る。水の色は黒かった。

 そのうち船は例の通り黒い煙を吐いて、通り過ぎてしまった。
 自分はどこへ行くんだか判らない船でも、
 やっぱり乗っている方がよかったと始めて悟りながら、しかもその悟りを利用する事ができずに、無限の後悔と恐怖とを抱いて黒い波の方へ静かに落ちて行った。」


 私たちは落胆し、絶望する時がある。
 そして、「人生はこのまま続く」あるいは「人生はもうおしまい」などと思う。
 しかし、実際は、死なない限り、〈一瞬後〉が必ずやってくる。
 それが何であるか、そして、その時に自分が何を感じ、何を考え、何を思い、何を語り、何をするかは決してわからない。

 行き詰まり、絶望したなら、こう思いたい。
〝──これは〈今の〉考えなんだ……〟
 こうして〈今〉と見る瞬間、絶望している自分を眺める客観的な自分が登場している。
 それはきっと、ラスコーリニコフのような気づきを与え、「夢十夜」の失敗をさせないはずだ。
 私たちは、自分の人生の〈次の瞬間〉を知らない。
 生きている者として生きてみるしかない。
 何という救いだろうか……。




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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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2016
05.27

オバマ大統領が広島を訪問するにあたって ─月に住もう─

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 アメリカのオバマ大統領が広島を訪問するという歴史的な日を迎えるにあたり、お大師様の教えを思い出した。

 お大師様は『大日経』について説かれた。

「直(ジカ)に月の宮に住む法門である」


 直住月宮(ジキジュウゲツグウ)という。

 満月を眺めている私たちは、群雲がかかってくると〝早く晴れればいいなあ〟と思う。
 また、心中で輝いている満月のような〈み仏の心〉に覆いかぶさる煩悩(ボンノウ)の雲が問題なので、雲をうち払ってしまおうと戦う。
 しかし、お大師様は、月と雲を眺めて右往左往するのではなく、月そのものになってしまうのが『大日経』の教えであると言う。
 月になれば、晴れようが曇ろうが宇宙の節理に過ぎず、動ずることはない。

 ところで、5月26日、オバマ大統領は、広島訪問に先立って述べた。

「第2次世界大戦の甚大な被害と罪のない人々の犠牲を思い出させるだけでなく、まだ我々の仕事が終わっていないことを思い出させるものだ」

「紛争を減らし、平和を構築し核戦争の可能性を減らさなければならない

 一日前の5月25日、作家塩野七生(シオノナナミ)氏の所感が朝日新聞によってまとめられた。
 以下、要点を転載する。

謝罪を求めず、無言で静かに迎える方が、謝罪を声高に求めるよりも、断じて品位の高さを強く印象づけることになるのです

「少し前に、アジアの二つの強国のトップが、相前後してヨーロッパ諸国を歴訪したことがありました。
 その際にこのお二人は、訪問先の国々でまるで決まったように、日本は過去に悪事を働いただけでなく謝罪もしないのだ、と非難してまわったのです」

「ところがその成果はと言えば、迎えた側の政府は礼儀は守りながらも実際上は聞き流しただけ。
 マスコミに至っては、それこそ『スルー』で終始したのです」

ただ静かに、無言のうちに迎えることです。
 大統領には、頭を下げることさえも求めず。
 そしてその後も、静かに無言で送り出すことです


原爆を投下した国の大統領が、70年後とはいえ、広島に来ると決めたのですよ。
 当日はデモや集会などはいっさいやめて、静かに大人のやり方で迎えてほしい」

われわれ日本人は、深い哀(かな)しみで胸はいっぱいでも、それは抑えて客人に対するのを知っているはずではないですか。
 泣き叫ぶよりも無言で静かにふるまう方が、その人の品格を示すことになるのです。
 星条旗を振りながら歓声をあげて迎えるのは、子どもたちにまかせましょう」

「ここイタリアでも、原爆投下の日には、テレビは特別番組を放送します。
 毎年ですよ。
 あれから70年が過ぎても、犠牲の大きさに心を痛めている人が少なくないことの証しです。
 心を痛めている人は、アメリカにも多いに違いありません」

「『謝罪は求めない』は、『訪れて自分の目で見ることは求めない』ではありません。
 米国大統領オバマ広島訪問は、アメリカで心を痛めている人たちに、まず、自分たちが抱いていた心の痛みは正当だった、と思わせる効果がある。
 そうなれば、感受性の豊かな人びとの足も、自然に広島や長崎に向かうようになるでしょう」

広島の夏の行事の灯籠(とうろう)流しに多くの外国人が参加するのも、見慣れた光景になるかもしれないのです。
 そうなれば、原爆死没者慰霊碑の『過ちは繰返しませぬから』という碑文も、日本人の間だけの『誓い』ではなくなり、世界中の人びとの『誓い』に昇華していくことも夢ではなくなる。
 それが日本が獲得できる得点です」

「そしてこれこそが、原爆の犠牲者たちを真の意味で弔うことではないでしょうか」

 塩野七生氏はローマ在住だが、まさに日本人ここにあり、と思わせる。
 慰霊碑の「過ちは繰返しませぬから」は、日本人として奥歯が歯茎にめり込んでしまうほど屈辱的で悔しい文言である。
 しかし、耐え忍び、それもこの際、措こう。
 客人を淡々と、私たち本来のふるまい方に従って迎えよう。
 まさに、ここ一番、である。
 敗戦後70年、私たちが失ったものと失わなかったものとが問われている。
 私たちは自然に、本来持っている叡智と徳に従ったふるまい方ができるか?
 一部の跳ね返り分子によって台無しにならぬよう願ってやまない。




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2016
05.26

仏教で幸せになれるか ─本ものの僧侶は?─

2016-05-26-0004.jpg
〈いつでも、どこでも瞑想し、生き仏だった明恵上人(ミョウエショウニン)〉

 人生相談に来られたAさんから訊かれた。

仏教を信じれば幸せになれるんですか?
 お坊さんは皆さん幸せなんですか?」

 こんなふうにお答えした。

 デカンショという言葉を現在の高校生や大学性の諸君は知っているだろうか?
 自分は何者か?自分は何のために生きているのか?なぜ戦争はなくならないのか?といった人生の根本的な問題に悩み、デカルト、カント、ショーペンハウエルなどの哲学者や聖人賢者たちに答や救いを求めずにいられない若者たちは、一昔前、こう唄った。

「デカンショー、デカンショーで半年暮らす
 よいよい
 あとの半年ゃ、寝て暮らす
 よーいよーい
 デカンショー」
 そして、到底、理解できそうにない哲学書などを読みあさった。

 その一人、ショーペンハウエルが辛辣なことを言っていた。

「純粋な僧侶は最高の栄誉に値する存在である。
 けれどもほとんど大抵の場合、僧衣は単なる仮装なのであり、この仮装のかげに本当の僧侶がひそんでいることは、あたかも、仮装舞踏会の場合におけると同じように稀なのである」

 日本の僧侶も、厳しい指摘をした。
 平安時代後期に真言宗を立て直した興教大師(コウギョウダイシ)である。

「名を比丘(ビク)に仮って伽藍(ガラン)を穢し 形を沙門(シャモン)に比して信施を受く」

(名ばかりの出家修行者として寺院に住み、形だけ出家修行者に似せて信仰を受け、布施を受ける)

 本ものの僧侶だからといって聖人君子ではない。
 本ものの僧侶でありたいと決心し、袈裟衣を穢すレベルの修法であっても、未熟を懺悔してあきらめず、本ものでありたいと願い、精進して止まないのが本ものの僧侶ではなかろうか?

 ところで、ショーペンハウエルはこうも言っている。 

「自分の幸せを数えたら、あなたはすぐに幸せになれる」

 自分の霊性仏性(ブッショウ)に気づこうとする仏教は、「自分の幸せ」を数えさせる教えかも知れない。
 出家したか娑婆にいるかに関係なく、本ものの仏教徒であろうとしてあきらめないのは、幸せになるための極めて有力な方法の一つであろうと思う。
 小生が幸せかとも訊ねられ、答えた。
「まあ、人様なみではないでしょうか」
 全然、気がきかない返事だった。




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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA





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2016
05.26

【現代の偉人伝】第227話 ─行き着くところまで行った岡潔─

2016-05-25-00032.jpg

 最近、昭和53年に亡くなった数学者岡潔博士に再び脚光が当たっているという。
 5月23日付の朝日新聞も「数学の本質『論理ではなく情緒』」として紹介した。

「マティスの展覧会に行き、年代順に並べられた作品やその作品に先立つ素描をたくさん見て『数学もこんなふうにやればよいのだ』と思ったという。
 文学も好み、漱石や芥川、芭蕉などの作品を愛読した。
 数学教育については『計算の機械を作っているのではない』と情緒を培うことの大切さを強調した。」


 博士は、情緒を磨き、霊性を高めることが人間として生きるすべての面において中心的課題であると考えた。
 大正時代に光明主義を掲げ活躍した山崎弁栄上人の教えに「誤りを見つけられない」と断じ、華厳(ケゴン)の世界を友とした。
 華厳はこの世そのままに悟りの世界を感得するもので、お大師様も高く評価しており、奈良の東大寺に伝えられている。
 

「6、7年間考え続けても、完全に行き詰まることが3回あり、その後に必ず数学上の大きな発見があったという。
『本当に行きづまるためにはね、そっちを一旦指さしたら微動もしないという意志がいる(中略)行きやすい所を選って行ったら、行きづまるということはあり得ない』」


 小生は学生時代、アルバイトをしながら山崎弁栄上人や博士の本を読みあさった。
 生き方がわからなかった時代、わからないままに彷徨い続けたことは、かけがえのない財産だったと、後になって気づいた。
 5月25日の産経新聞は作家頭木弘樹(カシラギ・ヒロキ)氏の新著『絶望読書』を紹介した。
 氏はこう言っている。
「絶望したときは、どっぷりと浸らないかぎり、本当の立ち直りは訪れません」
 あいまいなままで浮ついた生活に入り、全財産を失ってからようやく「本当の立ち直り」を得た者としては、腹の底から納得できる。
 今はとかく、早く楽をする方向へ導くものにあふれてはいないか?
 迷う〈はずの〉、あるいは迷う〈べき〉学生時代に、早く稼ぐ方法をうまく探さないと人生に遅れるよとばかりに急き立てる現在の教育には、何かが決定的に欠けているのではないか?
 行きづまりから逃げなかったためにジャンプできたという博士の言葉の重みが胸に迫ってくる。

 博士に驚愕した経験は山ほどあるが、特に、芭蕉を批判した文章は忘れられない。
 江戸時代の俳諧師野沢凡兆が「下京や雪つむ上の夜の雨」と詠んだおりのエピソードである。
 以下、博士の著書『日本民族』から抜粋する。

「この句を作るとき凡兆は『雪つむ上の夜の雨』とすらすらできたのだが、上五字がどうしても置けず、とうとう芭蕉に相談すると、芭蕉は門下の人々に置かせてみた。
 人々はそれぞれに置いてみたが、凡兆はうべなわない。
 それでとうとう芭蕉が『下京(シモキョウ)や』と置いた。
 しかし凡兆は黙して言わない。
 それで芭蕉が、もしこれ以上の上五字があったら、私はもう俳諧のことを口に出さないといったので、凡兆もこの五字に決めたのだという。
 私は凡兆にも芭蕉にも一応同感する。
 しかし、芭蕉が俳諧をやめるようなことになっても仕方がないから、この上五字は良寛に頼むべきだと思う。
 良寛がどう置くかはわかるようでわからないが。『下京や』とは置かないに決まっている。
 私に置かせてくれれば『生死(イキシニ)や』だろう。」


 置いてみて驚いた。
「生死(イキシニ)や雪つむ上の夜の雨」
 動けなくなった。
 人生がつかみきられている。
「下京や」の句とはまったく別ものになった。
 しかし、70才になった今、学生時代とは異なる感覚でこのあたりを読みなおしてみると、凡兆はそれでも納得しなかっただろうと思う。
 なにしろ、こう詠んだ人である。
「市中は物のにほひや夏の月」
「竹の子の力を誰にたとふべき」
 博士の「生死や」はあくまでも博士のものだ。
 見聞きし、嗅ぎ、味わい、触れるものをそのままに写し取る凡兆は「生死」とは詠まないだろう。
 もしかすると、「雪つむ上の夜の雨」は、このままで未完の傑作とすべきだったのかも知れない。

 いずれにしても、博士は数学を入り口として宇宙を相手にされたと思う。
 行き着くところまで行こうとした博士の背中は遥かに遠いが、確かな灯火であることは疑えないと思う。




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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
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2016
05.25

解雇され家に閉じこもった娘さん ─法律と仏法で共業へ立ち向かおう─

2016-05-25-00012.jpg

 ある時、仙北の町からAさんが人生相談に来られた。
 30才になる娘さんが突然、会社をクビになり、1年間の就職活動も実らず、閉じこもりの状態になったという。
 社員として採用され、1年近くまじめにはたらいたあげく、営業担当でもないのに成績が悪いからと解雇されたことが発端だ。
 本人以上に憤慨した同僚もいたが、一緒に辞めるわけにもゆかず、誰も抗議らしい抗議ができないまま、会社を去った。
 これまで、母娘は拝み屋や祈祷師から、憑きものの話をされなどしたが、結局、娘さんはそういった所へも足を向けなくなった。

 お話をよく聴き、娘さんの性格や運勢なども考えてみた。
 辞めさせられた原因は単純なものではなさそうだ。
 娘さん自身に、本当の原因として思い当たるフシもあるが、理不尽としか思えず納得できないフシもあることだろう。
 きっと、その全体像は友人にしか告げていまい。
 だから、親御さんが困惑し、怒りがおさまらないのも当然だ。

 もしも話のとおりなら不当解雇の可能性が高い。
 さしたる規律違反がなく、能力に酷い問題もあるわけでなく、企業自体がつぶれそうにない大会社であれば、労働者のあいまいな〈成績〉を理由にいきなり辞めさせられはしない。
 だから、これまでも当山と縁があったそれなりの信頼できる窓口をお教えした。
 ここからのスタートをお勧めしたのは、娘さんの現状で一番問題なのが心の〈しこり〉だからだ。
 辞めさせられた時点からずっと、解消できないものが心に居座った。
 面接にでかけても、それが知らぬ間に言葉や表情や雰囲気として顔を出し、相手に違和感を与えてしまうのではないか。
 だから、出来事がいったい何だったのか、法律や労働に詳しいプロの客観的な判断を仰ぐことが望ましい。
 抗議や訴訟を行うかどうかの一歩、手前が肝心だ。
 自分自身も感情を離れ、プロの指導を受けながら客観的に眺めれば、正体が明らかに見えることだろう。
 しこりの解消という治療にはまず、診察が欠かせない。

 また、娘さんの守本尊様についてお話しし、御守を渡した。
 
 最後に、「私に何かできることがないでしょうか?遠いし、自分は運転しないし、ここへ何度も来るのは難しいのですが……」とすがるような目で訊くAさんへは祈りをお勧めした。
「二つ、方法があります。
 一つは、いつ、どこででも、当山のご本尊様を思い出して祈ることです。
 祈りは時間空間を超えます。
 もう一つは、お近くにあると言っておられた小さな不動堂へ願掛けをすることです。
 漫然とでかけるのではなく一週間なら一週間、決めて必ず実行しましょう。
 満願したならば、今度は一か月とか、百日とか、あるいは娘さんが就職するまでとか、長期間に挑戦しましょう。
 江戸時代までは、日本全国、津々浦々で行われていたやり方です」
 まじめなAさんは不安だ。
「私などの祈りが役に立つのでしょうか?」
 インドのダラムサラで、ダライ・ラマ法王に拝謁したBさんからお聞きしたエピソードをお伝えした。
「はるばる日本から行った方が、チベットのために自分は何も力になれませんと嘆いた時、法王は笑顔で言われたそうです。
『祈ってください。
 世界中の祈りが故国チベットに届けば、必ず大きな力になることでしょう』
 高い霊性を持った人間は、祈ることができます。
 人としてのまことを尽くせるのです。
 それが何の力にもならないのなら、私たちは人間をやめなければなりません」
 信じて祈り、自分が変わることは、自分を含む世界が変わることなのだ。
 Aさんが変われば、娘さんにとっての環境が変わる。
 力にならないわけがない。

 Aさんは真言をしっかり覚え、お不動様の御守を手にして帰られた。
 人が限りなく道具と見なされるこの時代をまっとうに生き抜くためには、自分の霊性を高めることが重要だ。
 悪しき共業(グウゴウ…社会的な業)に負けないため、自分自身の心をダイヤモンドに近づけたい。
 頑なになってはいけないが、汚されない清浄さと、くじけず壊されない勁(ツヨ)さを持ちたい。
「この山里から祈っています。しっかりね」
「私も頑張ります!」
 Aさんは、来られた時とは別人のような光で目を輝かせた。 
 空が群青色と橙色と赤紫色に別れて笹倉山を包む夕刻、キジがケーンと鳴いた。




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2016
05.24

誰かのためになること、向上心を捨てないこと ─慈悲心と勝義心について─

2016-05-24-0001.jpg

 私たちは、何かに対して一生懸命になります。
 その目的はほとんど、二つに集約されるのではないでしょうか。
 一つは、生きるため、もう一つは、おもしろいから。
 おおざっぱに、「仕事」と「趣味」と言えるかも知れません。

 しかし、お大師様は説かれました。

菩薩(ボサツ)の用心は、みな慈悲をもって本(モトイ)とし、利他(リタ)をもって先とす。
 よくこの心に住して浅執(センシュウ)を破して深教(ジンキョウ)に入(イ)るるは、利益(リヤク)最も広し」


菩薩が心を用いる際は、すべて慈悲により、他者の幸せを先にする。
 私たちもしっかりとこの心になり、浅はかな執着心を克服し、深い教えに入るならば、最も大きな幸せを得られる)

 お地蔵様や観音様や虚空蔵様は、すべてお慈悲を本体とし、その活動は自分の悟りのためではなく、誰かの苦しみを除き、誰かに幸せをもたらすことを第一にしておられます。
 オスカー・ワイルドの童話『幸せな王子』はその物語です。
 お像として立っている王子様は、困っている人々のため、ツバメに頼んで、自分の身体に埋め込まれている宝石を次々に与え、とうとう何もなくなります。
 そして、宝石を運んでいたツバメは冬が来て凍え死に、悲しみに心臓が弾けた王子様の像も美しさを失い、町の人々に溶かされてしまいます。
 しかし、心臓だけはどうしても溶けず、ツバメの屍体と共に捨てられました。
 やがて、神様から「この町で最も美しいもの」を持ってくるように命ぜられた天使が選んだのは王子の心臓とツバメでした。
 王子とツバメはその後、天国で幸せに暮らしたのです。

 このように、一生懸命になるもう一つのやり方があります。
 それは誰かのためになる菩薩の道です。
 私たちは、欲しがっていた何かを得れば嬉しいけれど、誰かのためになった時の充足感や満足感や清涼感には格別なものがあります。
 まして、感謝の言葉などが返ってくれば、本当によかったという思いが心の底から起こってきます。

 ところで、この教えが説かれた当時、仏教各派の間で激しい論争が行われ、相手を論破しようとするだけでなく、誹謗するような面もありました。
 お大師様はその風潮に対し、冒頭の教えを説かれただけでなく、続けてこう諭しておられます。

「若(モ)し名利(ミョウリ)の心を挟みて浅教(センキョウ)に執し、深法(ジンポウ)を破すれば斯(ソ)の尤(トガ)を免れず」


(もし、自分の名を上げたいなどの自利をもくろみ、浅はかな教えに執着して深い仏法を破るような行為をなすならば、その咎めは免れない)

 この文章は冒頭の文章ほど気にとめられないようですが、極めて重要な教えです。
 ある教えや考え方に強い執着心を持ち、それがあれば何でも論破できそうな気がして他の教えや考え方を叩き、それでこと足れりとしてはなりません。
 そもそも、わからないから学び始めたはずであり、学べば学ぶほど自分の思考など所詮、底が浅いという実感が起こり、謙虚になるものです。
 そこで自分自身を客観的に見る視点が身につけば、より高いもの、深いもの、優れたものとの出会いに気づき、向上できます。
 これを勝義心(ショウギシン)と言います。

 勝義心は、冒頭の文章で説く〈利他の心〉がある限り、揺るぎません。
 介護士であれ、タクシードライバーであれ、植木屋であれ、お客様のためになろうとすれば、向上心を捨てられるはずがないではありませんか。
 しかし、楽をするためにうまくやろうと自利を求め始めれば、真の向上心はあっと言う間になくなってしまいます。
 あるいは政治家が自己主張を第一として、真摯な対話や説明や論議を避けるならば、政治は堕落します。
 もちろん、こうした利他だけでは王子様のようになりかねないので、すっかり〈生き仏〉になりきってしまうことはできません。
 それでもなお、お大師様の教えを心のどこかにしまっておけば、どうにかまっとうさを失わずに役割を果たせるのではないでしょうか。

 利他を忘れないこと。
 向上心を捨てないこと。
 この「慈悲心」と「勝義心」はセットです。
 しっかり生きたいものです。




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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
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2016
05.23

人生の終い方と人生の価値 ─NHKテレビ『人生の終い方』を観て─

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〈七ツ森の最高峰笹倉山を正面に〉

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〈清浄で清涼で明瞭な月に学びたい〉

1 NHKテレビ『人生の終い方

 NHKテレビの『人生の終い方』を観た。
 進行役は桂歌丸師匠(79才)。
 師匠はこの日、50年にわたって出演し、ここ10年間は5代目の大喜利(オオギリ)司会を務めてきた番組『笑点』から降りた。
 大喜利とは、何人もの回答者がもらったお題に応じた芸を行うことである。
 師匠は『笑点』の収録中、明るくふるまっていたが、すべてが終わり、観客へ挨拶する段になって号泣したという。
 そうした一日の締めくくりに努めた『人生の終い方』は見事な仕事ぶりだった。

 番組は、お葬式やお墓の決め方といったものではなく、ガンの宣告を受けるなどして〈残された日々〉という意識を強く持った人々が、人生の最期に何をやりたいか、この世と、この世で縁のあった人々へ何を残したいかの2点に絞ってつくられた。
 最後に師匠は言った。
「人生をどう終うかは、最期をどう生きるかということだと思います」
 そのとおりだと思う。
 番組で取り上げられたどの人も、いつ、どう死ぬかは、自分の手から離れた問題であることを骨の髄までわかっておられたことだろう。
 自分でかかわることができるのは、〈それまでの日々の過ごし方〉でしかない。
 満身創痍、舞台を降りれば酸素のチューブをつける師匠は、高座で演じながら死ねるなら本望だと言ったが、それが師匠にとっての生き方であり、同時に死に方だ。

 それにしても、番組の出演者たちはどなたも見事に生き、見事に逝かれた。
 いのちのとっておき方ではなく、使い方に腐心された。
 残された自分自身のいのちそのものよりも大切なものを見つけ、そのために、残された自分のいのちすべてをつぎ込んで悔いはしない。
 むしろ、いかに悔いなくいのちを使い切るかが唯一の関心事となっていた。
 それこそが実は、誰にとっても〈本当の生き方〉なのではなかろうか?

2 健全な精神と健全な身体の矛盾

 私たちは普段、無意識のうちに〈このままずっと生きている〉と思っているのではなかろうか?
 だから、ここ一番といった場面ですら、「とりあえず」「まあ、いいか」「後で始末すれば」「ここはかんべんしてもらおう」「どうにかなるさ」といった意識が頭をもたげてくる。
 しかし、誰一人、自分が死ぬ時がいつになるかを知らないのだから、実は、余命3ヶ月と宣告された人と何ら変わらない人生の日々を過ごしているのだ。
 生まれた全員が死へ向かい、砂時計が時を刻むように残された日々を過ごしている。
 しかし、なかなかその真実に気づかないし、気づけない。
 何が気づかせないか?
 それは健康であり、財産であり、自由である。
 いずれも、私たちが最も大切だと思っているものばかりであることは皮肉だ。
 このことは古代ローマの詩人ユウェナリスがすでに指摘している。
「健全なる精神が、健全なる身体に宿るように祈る」
 それは、戦争などに際して誤用されるように、「身体を健康に保てば精神もキリッとするのだから、身体を鍛えねばならない」といったものでは決してない。
 健康であれば健全な精神を持ちにくいので、健康な身体の命ずるがままに生きるのではなく、健康であってなお、しっかり耐えたり、つまらぬことで怒らなかったり、気ままな国王のような快楽でなく、自分のいのちさえかける英雄のような苦労を求めたいと願うのだ。
 健康や財産や自由に流されないところにこそ、人間の尊厳は輝く

 私たちは往々にして、ユウェナリスが嘆いたとおりに生きる。
 ハッと気づかせるのが、健康や財産や自由がどんどん失われ、誰も、何もが進行を止められない〈老い〉であり〈病気〉であり、そして〈死〉の実感だ。
 私たちは、自分がそれらに直面しないとなかなか〈尊厳ある生き方〉がわからない。
 しかし、お釈迦様は、若くして老人と病人と死者と行者とを眺め、何不自由ない環境に生まれた自分の〈生まれ〉を見つめ、生老病死(ショウロウビョウシ)のままならなさに耐えられず、行者の道へ入った。
 そして、尊厳ある生き方が何であるかを説いた。

3 人生相談人生の終い方

 人生相談を申し込み、「人生の終い方」について口にされる方々は絶えない。
 お葬式やお墓、あるいは資産の処分などについてのご相談もあり、やっておきたいことや言い遺したいことについても本音を言われる。
 それぞれの宗教宗派は多岐にわたり、無宗教の方も少なくない。
 小生はじっとお聴きする。
 ご質問へは答える。
 何かを強制することは一切、ない。
 どなたもが、自分のいのちをとっておくのではなく、いのちをかけてやりたいことについて語り、一種の確認をされる。
 語りつつ自分で確認し、小生の様子を見て確認する
 当山は皆さんにとって必要なお手伝いをさせていただくのみである。
 医師シシリー・ソーンダースは、死に行く人の尊厳をこう定義した。
死んでゆく人が、本人の人生に価値を見出すこと
 人生の終い方とは、それぞれの方々が、ご自身なりに自分の人生の価値を再確認する方法であると思う




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「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
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2016
05.22

生きることと知ること ─マンダラへ─

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〈皆さんからいただいた樹々が活き活きしています〉

1 私たちが生きて知ること

 私たちは一生かかって何を知るのだろう?
 一つは、「誰もがいつかはすべてを失う」ということではなかろうか。
 そしてもう一つは、「自分は、〈自分のいのち〉ではなく、〈大いなるいのち〉を生きている」ということではなかろうか。

 モノはたやすく壊れ、人の心もたやすく離れ、人のいのちもネコのいのちもたやすく消え、自分も必ず死ぬ。
 たったこれだけの事実が〈自分のこと〉として腑に落ちていないために、右往左往し、悩み、怒り、悲しむ。
 モノ金も、交友関係もなければ酷く、寂しいが、あればあったで保持に腐心し、誰かとぶつかり、勝手に〝ないほうがよかった〟などとも思う。

 自分のいのちはどこにあるかも定かでないが、ネコともスズメとも、生きて在るという真実を共有している直感は動かせない。
 一匹のネコが生きていることと、一羽のスズメが生きていることと、一人の自分が〈同じく〉生きていることとは、「ネコ」と「スズメ」と「自分」とを分ける分別の意識から離れないとわからない。
 手にはとれず、何らの測定もできないが、存在し、広がっている〈生〉という次元があって初めて、自分の〈生〉がある。
 それは海水と一滴の飛沫の関係に似ている。
 だから、私たちの文明の行く先を誤らないために不可欠とされている「共生」は、これからつくり出して行くという考え方もあろうが、むしろ、そのようにあるという真実に気づき、共生している真実の次元でお互いのいのちを尊び合う先に、顕わになってくるのではなかろうか。

2 いのちと真如マンダラ

 仏教は、この世のあらゆるものが空(クウ)であり無常であると観る一方で、有為転変の世界とは異次元の世界にある真実を真如(シンニョ)といい、視角による真如の理解と直感をうながすためにマンダラが構想された。
 瞑想阿字観(アジカン)の本尊もまたマンダラであり、瞑想を行って真如を感得する感覚が身についてくると、ケキョケキョ、ホーホケキョと鳴くウグイスの声や、ケーンケーンと鳴くキジの声、そしてワオーンと鳴く犬の声にもマンダラが感得できる。
 それを法マンダラという。
 さまざまな服装や表情で人々が行き交う街角の光景もまたマンダラであり、それを大マンダラという。
 幼稚園の先生が前後を守り、児童たちが並んで歩き、お巡りさんが交通整理し、車が止まって児童一行の通過を待っている様子は羯磨(カツマ)マンダラである。
 病院で、医師や看護師や薬剤師や警備員などがそれぞれの服装によって役割を示している様子は三昧耶(サンマヤ)マンダラである。

 お大師様は、み仏の世界を4種類のマンダラで示した。
 文字や言葉による法マンダラ、姿形の大マンダラ、活動の羯磨(カツマ)マンダラ、誓いのシンボルの羯磨(カツマ)マンダラである。
 み仏の世界は私たちの心にあり、それがはたらけば上述のように、この世のあらゆるものがマンダラとして立ち現れる。

 月輪観(ガチリンカン)や阿字観瞑想を行うのは、現実逃避のためでなく、思いこみをつくるためでもなく、空(クウ)と真如が直感できる〈心の解放〉を得るためである。
 守本尊瞑想による救済もまた、そこにある。
 



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2016
05.21

眠れない現代人に思う ─抱えている問題を眺めてみると……─

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 現代人不眠症が多いという。
 神経質で、気になっていることがあるとなかなか眠れない。
 ちょっとした物音にもすぐ、目が覚める。
 寝不足は心身を消耗させ、持てる力が出なくなる。
 
 こうして私たちは困ってしまうが、最近の科学は、それを人間が本来、生き延びるために持っていた特性であると見る。
 森や林から草原に降りて生活するようになったご先祖様は、チーターの様な足もなく、タカのような羽もなく、クマのようなツメもなく、イノシシのようなキバもなく、イヌのような嗅覚もなく、ミツバチのような視力もなく、とても弱い生きものだった。
 だから、敵の存在をいち早くキャッチできるよう、いつも全身全霊で注意していた。
 本来は自分が生き延びるために用い、磨いていた能力が、自分を食べに来る敵がいなくなった今でも残り、必要以上にはたらくために神経過敏な状態になっている。
 現代人は、他の動物ではあり得ないスピードで安全な環境をつくったのに、生きものとしての姿はあまり変わらず、変化のギャップが私たちの悩みをもたらした。

 私たちはよく「手に汗を握る」というが、これはもっと昔の名残とされている。
 サルのように木々をジャンプしつつ生活していた頃、手がカサカサせず汗ばめば枝を握りやすかったらしい。
 もちろん、雨に当たるなどしてあまりに濡れすぎると今度は滑ってしまうので、湿り気はほどほどであればよい。
 動物としての身体は昔とあまり変わらず、汗の出具合も〈適度〉なはずなのに、今は環境が変わったため、〈過敏〉とされるようになった。

 だから、私たちには工夫が必要だ。
 上がった体温が下がり、自律神経が沈静するという睡眠の条件を意図して満たさねばならない。
 適度な運動をしたり、風呂へ入ったりする。
 また、音楽などの趣味で心身をリラックスさせたりする。
 緊張させるブルーやホワイト系でなく、夕陽や夕焼けにつながる暖色系の小さな電灯を点す。
 こうした努力をしないと、また、お互いに生活習慣や環境の大切さといった認識を共有しないと、悩みが深まってしまう。 

 さて、ある朝、三台のパソコンが皆、ウィンドウズ10へ切り替える場面になっており、困った。
 そんな意思は持っていないのに、機械がほぼ自動的にそうやろうとしている。
 現代文明が抱える危機のありかを再認識させられた。
 私たちは、ネットと電気がなければたちまち、仕事に差し支えるだけでなく、いのちの危機にすら瀕する危うい環境を生きている。
 それはネットを動かし、発電と送電を行う者に事実上、牛耳られていることを意味する。

 ある時、桜の苗木が蔓草にてっぺんまで巻きつかれ、立ち枯れている光景を見た。
 樹木がなければ蔓草も生きられないのに……。
 ネットや電力を扱う者と利用者との関係も同じだ。
 利用者をあまりにも意のままにしようとすれば、利用者は枯れるか反発するかして、共倒れになりかねない。

 私たちの存在が、変わりにくい肉体のDNAと変化の激しい生活環境とのズレで実にままならないだけでなく、個と社会との微妙な関係も国家規模、あるいは地球規模になれば、うまく維持するには相当の智慧が必要だ。
 たまにはこうして、〈いつもの自分〉や〈空気のような社会〉から少々、離れて両方を眺めてみることも必要ではなかろうか。




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「おん あらはしゃのう」
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2016
05.20

人は変わるか変わらないか ─気質と性格─

2016-05-20-0002.jpg

2016-05-20-0001.jpg
〈仙台稲門会様で拙いお話を申し上げました〉

 私たちは、こんなことを知っています。
「三つ子の魂百まで」
「親子の血筋は争えない」
 一方、すっかり〈別人になった〉人を何人か知っているし、なぜ、あの親からこの子ができたのかと首を捻ったりもします。

 私たちは、自分の性格に悩まされます。
「ああ、また同じ失敗をやってしまった。俺ってどうしようもない」
 一方、口べただった人が、周囲の思いもよらないような発言をするようになりびっくりしたりもします。

 私たちは、ここ一番の場面で、強い自分が出て成功する一方、弱い自分が出て失敗することもあり、自分自身がよくわかりません。

 まじめなはずの人の思わぬ二枚舌にきりきり舞いさせられて、驚いたりします。

 私たちは、自分のバカさ加減に諦め気味である一方、まだ、発奮する気力を残しています。

 こんな多面性を持ち、つかみどころのない個人の人間性について、遺伝性格から考える手法が現れました。
 一人の人間の個性気質性格によって形づくられており、変わらない気質と変えうる性格のバランスをとって生きて行けばよいというものです。
 気質は、周囲の環境に対して無意識な反応を行ってしまいますが、性格は意識的な行動を導きます。

 たとえば、気に入らないことがあるとすぐに「バカヤロー!」と頭へ血が上っては後で後悔する人が、何度か失敗を重ねているうちに、内心ではカッカしても叫ばなくなった時、彼のどこが変わり、どこが変わっていないのか?
 たとえば、生真面目で手を抜かず一生懸命やるよい子が、社会へ出てどんどん重荷を背負い、気力を失って何も手につかなくなった場合、彼女の何が変わり、何が変わらなかったのか?
 上記のとたえは、クロニンジャーが唱えた気質性格に関する理論に合っているかどうかわかりません。
 しかし、個性には変わらない面と変わる、あるいは変えられる面との両面があるという説は、私たちへ希望を与えてくれるのではないでしょうか。

 私たちは〈どうしようもない〉面を持っているけれど、〈どうにでもできる〉面もあるのです。
 仏法はそれを過去世の因縁によって生まれ持ったものと、育ちや生き方によってつくられて行くものとに分けて考え、祈ってきました。
 私たちの生活は、来世に〈生まれ持つ〉ものをコツコツとつくり続ける日々でもあるのです。
 最新科学の「気質と性格の理論」も、仏法の「因果応報と輪廻転生の思想」も、私たちの考えを整理し、生きる方向を見定めるための指針となります。
 学びたいものです。




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2016
05.19

【現代の偉人伝】第226話 ─「おから工事」を追求する中国人譚作人氏─

2016-05-19-0001.jpg
〈ネット上からお借りして加工した譚作人氏〉

 今回の偉人伝は中国の活動家である。

 平成7年1月17日の阪神淡路大震災では、6千名を超える死者、4万名を超える負傷者が発生した。
 平成23年3月11日日の東日本大震災(日本周辺における観測史上最大の地震とされる)では、1万8千名を超える死者が発生し、原発事故も重なって40万人以上が避難した。
 その間の平成20年5月11日、中国四川省アバ・チベット族チャン族自治州汶川県で四川大地震が起こった。
 建物の倒壊が相次ぎ、死者・行方不明者は8万人を超えたが、特に学校などの大規模公共施設があまりにもあっけなく倒壊し、多数の犠牲者が出た。
 しかし、当局の対応は鈍く、住民の怒りはおさまっていないという。
 5月13日付の朝日新聞は、投獄を味わったにもかかわらず真相解明を訴え続ける住民に取材した。
 以下、同記事「手抜き工事の再調査、求め続ける男性 四川大地震8年」を転載する。

 約8万7千人の死者・行方不明者を出した2008年の中国・四川大地震から、12日で8年。
 多くの子どもが崩壊した学校で犠牲になったが、その責任は今もあいまいなままだ。
 独自に被害を調べて逮捕され、5年間服役した四川省成都市の譚作人さん(61)は出所後、改めて中国政府に再調査や責任追及を求めている。

 発生当時、環境NGOの幹部だった譚さんは、被災地を回るうち、周辺の被害は大きくないのに学校だけが崩壊した現場をいくつも見て、疑問を感じた。
 仲間と調べ始めると、必要な資材を使わずに手抜きをした「おから工事」が疑われた。
「自分にも大学生と中学生の子どもがおり、ひとごととは思えなかった」

 3カ月かけて64の幼稚園や学校を訪ね、教師や保護者に話を聞いて原因を探った。
 詳しい調査を求めて政府に資料として渡すつもりだったが、09年3月に拘束された。
 直接の容疑は天安門事件をめぐる言論だったが、調査内容の発表を阻止する意図は明らかだった。
 政権の転覆をあおったとして懲役5年の判決を受け、14年3月に出所した。

 地震から8年が経ったが、今も「おから工事」の実態や責任の所在ははっきりせず、調査をした譚さんを訪ねてくる親は後を絶たない。
 親の一人は「この問題が解決しない限り、心の傷は癒えない」と涙ながらに語った。

 今年2月、習近平(シーチンピン)国家主席ら指導者あてに、国の調査と責任追及を求める意見書を送った。
 届いたかどうかすら分からないが、それでも譚さんは政府が唱える「依法治国(法に基づく統治)」を信じ、期待をかける。
 国が法に基づいて問題を解決し、正義を実現しなければ、市民の信頼は得られないと政府も気づいていると思うからだ。

「私の世代で解決できるかは分からない。でも、今は21世紀。政府も変わるはずだ」(四川省成都=延与光貞)


 5年間も投獄され、それでもなお「国の調査と責任追及を求める」譚作人氏の闘志は凄まじい。
 記事は、同氏が「「依法治国(法に基づく統治)」を信じていると書いたが、おそらくは、そう書かねば氏の身が危ういからだろう。
 21世紀の今もなお、地球上には(しかも隣国に!)こうした現実がある。

 そもそも人は人を支配できないし、すべきでもない。
 そこでは必ず人権の侵害が起こる。
 もちろん、社会を維持するには秩序が欠かせないので、立場や権限はある。
 便宜上〈立場上の上下〉はあっても、〈人間の上下〉はない。
 お釈迦様は2500年以上も前に説かれた。
人は、生まれでも地位や財物でもなく、生き方によって何者であるかが決まる
 そして、輪廻転生(リンネテンショウ)は生きとし生けるもの全体として起こっており、人間界に生まれるか畜生界に生まれるかもまた、生き方によって決まると説かれた。
 お大師様は生者が供養の徳を死者へ廻し向ける廻向(エコウ)の大切さを説かれ、実践された。

 私たちはこの世で、無限に広がる〈生きものの世界〉を生きている。
 また、この世とあの世にまたがる〈心の世界〉を生きている。
 人間を除く生きものの世界には節理があるだけで、節理に生きるものとしてネコもカラスも平等であり、我が利を膨らませての支配はない。
 心の世界も同様に、この世での通じ合いも、あの世との通じ合いも、心に応じて起こるだけであり、平等である。

 私たちがこうした真実から離れれば離れるほど、苦も不幸も膨れ上がる。
 人間の平等を独立宣言にうたったアメリカのトマス・ジェファーソンが奴隷に子供を生ませていたように、私たちは理想を知っていながらも、なかなかその通りにはできない。
 しかし、理想を捨てれば、人間は果てしなく人間以下のものへと堕ちる。
 修羅・畜生・餓鬼・地獄……。

 
 譚作人氏に学ぶところ大である。




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2016
05.18

運命と闘う芸術、おりあいをつけたい私たち ─ある茶話会にて─

 ある茶話会の途中でAさんが言われました。
「しばらく前、ご高齢になられた医師と芸術家の対談をテレビで観ました。
 医師の言うことは割合わかりやすく、自分で考えてきた自分の生き方や死に方と共通するものを感じて、とても納得できましたが、芸術家の話は理解に苦しむ部分が多々、ありました。
 長く生きてきた専門家の方でもいろいろおられるのですね。」
 それ以上、Aさんは詳しく話されませんでしたが、その違和感は何となく想像できました。
 医師と芸術家では役割が違うのでしょう。

 美術史家ケネス・クラークの著書『名画とは何か』にはこんなことが書いてあります。

「人生や芸術における英雄性は、人生が闘いであるという意識に基づいているのだとわたしは思う。
 そしてこの闘いにおいて決定的なのは、知性でも感性でもなく、勇気であり、意思の力であり、決断力であるのだ。
 英雄性は便宜性をさげすみ、いわゆる文明生活に寄与するすべての快楽を犠牲にすることを要求する。
 それは幸福の敵である。
 しかし、わたしたちは、それが人間の最高の達成であると認める。
 英雄性は単に物質的障害との闘いではないからだ。
 それは『運命』との闘いにほかならない。」


 Aさんのみならず、私たち、特に東北地方の人々は5年前の大震災に遭い、今また九州の大震災を前にして、自然に抗し得ない運命の過酷さを骨身に沁みて知らされ、それとの〈折り合い〉を模索している状況にあります。
運命は闘う相手なのか?〟
 きっと、そこのところでAさんは違和感を感じられたのでしょう。

 同書はさらにこう書いています。

「英雄性は人間主義(ヒューマニズム)に縁どられながらも、その彼方を見つめている。
 というのも、『運命』と闘うためには、人間は人間以上のものにならねばならないからだ。
 人間は神になりたいと願わねばならない。」


 私たちはそれぞれの分野で精進します。
 ただ生きる糧を得るためにはたらくだけでなく、向上心によって精神を高め、深め、人間として成長しつつ生きます。
 一方では、おりおりに、私たちがいかに〈限定された存在〉であるかを思い知らされます。
 まず、生まれた時点からままなりません。
 因果応報による輪廻転生には自分自身が責任を負っていますが、何ら自分で意図することなく、ある時代に、ある場所で、両親の子供として特定の性を持って生まれています。
 生まれ落ちた瞬間から老いと病気へ向かい、性も生も渇望しているのに、必ず心身が衰え、死ぬ確率は100パーセントです。
 そして、大自然の気まぐれな暴力により、あるいは人間の愚行により、モノもいのちもあっけなく失う可能性すら常にあります。
 運命は、はたして誰の手に握られているのでしょうか……。

 こうした人間が自分自身を眺めた時、運命と闘うために神になろうとはなかなか思えません。
 神を目ざす闘いの中で死んでいった人々の生き方が凡人の生き方の参考になりにくいのは当然です。
 私たちは、私たちが到達し得ない地点への到達を夢見る一握りの人々が表現した作品が示す異次元性の前で立ちすくむのみです。
 そこでは、知らぬ間に何かが解かされたり、インスピレーションやエネルギーを得たりというような、想像もしなかった現象が起こったりします。
 もちろん、違和感や不快感を催すこともあるでしょう。

 いずれにしても、いつもの自分がいつもの空間で感じていた範囲の世界を向こうから突き破られる体験には、その瞬間にしか得られない何かがあるはずです。
 Aさんはきっと、あの日から「あれは何だったのか?」という思いを抱き続けておられることでしょう。
 話を耳にした小生や信徒さんたちもまた、「それって何だろう?」と思いました。
 そのことは少なくとも、生命を活性化する方向で意味と意義を持っていると思います。
 貴重な対話でした。




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2016
05.17

悪魔は誰か? ─ラーダの問いと映画『殿、利息でござる!』の話─

2016-05-17-0001.jpg
〈河北新報様よりお借りして加工しました〉

 ある時、行者ラーマがお釈迦様へ問いました。
悪魔とは何でしょうか?」
 行者にとって、修行を妨害する魔ものは大敵です。
 お釈迦様は答えました。
「色、受、想、行、識である」

 まず、「色(シキ)」です。
 これは形あるモノ一般であり、自分の身体も含みます。
 車であれ、恋人であれ、自分に属すものがあると、とらわれます。
 また、死にたくないので、自分の身体にとらわれます。
 すべてが空(クウ)であり、滅する時を免れないのに、その真実を忘れて自分の思い通りにしようとしますが、そうはなりません。
 どうにもならない状況は恐ろしく、情けなく、怒りも起こります。
 こうして、心と生活の安寧を破る魔ものが現れます。

 次は、「受(ジュ)」です。
 感受作用です。
 これがなければ、世界は意味を持ちません。
 子供は活き活きし、花は美しく、猫はふんわりしていてこそ、この世です。
 信頼できる人の言葉には思いやりを感じ、嫌いな人の言葉には刺を感じます。
 一方、好きでもとらわれ、嫌いでもとらわれ、心は波立ちます。
 こうして、感受作用も又、魔ものになり得ます。

 次は、「想(ソウ)」です。
 表象作用です。
 何かを次々と想い受かべることによって、私たちは心がはたらき、自分がいる実感をつかめます。
 老いた親の面倒を見る時、子供時代の記憶をよみがえらせて頑張ります。
 しかし、時には、人を傷つけたり、傷つけられたりしたシーンなどのフラッシュバックに悩まされます。
 自分の意思とは何らの関係もなく次々と心に表れるものは時として、平安や集中を妨げる魔ものになります。

 次は、「行(ギョウ)」です。
 意思作用です。
 子供が元気で育って欲しいと願っているのに、病気に罹ったり、言うことをきないで怪我をしたりします。
 親切心で言葉をかけたら、とんでもない逆恨みを受けたりします。
 善き願いが叶う時もあり、叶わない時もあって一喜一憂させられます。
 意思しないではいられないのに、意思は常に裏切られる可能性があって不安定であり、いつ、魔ものとして自分を苦しめるかわかりません。

 次は、「識(シキ)」です。
 認識作用です。
 のんびりと昼寝している動物を見て、あっ、猫がいるとわかります。
 一方で、せっかく貴重な忠告をしてくれたのに、つまらぬプライドが邪魔をして相手が敵であると思い、怒ったり、憎んだり、恨んだりする場合もあります。
 見たくないものや聞きたくないものも不断にやってきて、耳目を刺激しつつ通り過ぎます。
 私たちは自分の意思で何かを認識するのではなく、生に付随した認識作用が不断にはたらいていればこそ、世界と自分の存在がわかり、保てます。
 これもまた、思い通りになってはおらず、いつ、魔ものとしてはたらくかわかりません。

 上記の5つを合わせて五蘊(ゴウン)といい、それらがうまくはたらいていればこそ、私たちのいのちと心は安定的に保たれます。
 しかし、それらはいつ、私たちを悩ます魔ものとしてはたらくかわかりません。
 だから大切なのは、常々、よきイメージを持って生きることです。
 五蘊が魔ものにならぬよう習慣づけることです。
 仏像に手を合わせるのも、お線香を捧げて精進を誓い、お花を捧げて忍耐を誓うのも、よきイメージづくりに役立ちます。
 また、『殿、利息でござる!』といった上質の映画を観ることなども、きっと役立つことでしょう。

 そう言えば、この映画で、庶民が救われる決め手になったのは、周囲から強突張(ゴウツクバ)りと思われていた親子の二代に渡る秘められた善行でした。
 善行を実践し、それを秘しておこうとする姿勢は、お釈迦様が説かれた「(イカダ)のたとえ」そのものです。
 お釈迦様は「法というによって迷いという大河を渡ったならば、その先を行くにはもう、を捨てるがいい」と説かれました。
 空(クウ)を説き、執着心を解き放つ仏法は救いの手だてです。
 そうして救われ、悟ったならば、仏法にすら執着してはなりません。
 だから、悟ったお釈迦様は他の宗教と争わず、悟ったお大師様も又、同様でした。
 真の悟りを得た聖者が争いを離れ、あらゆる階層の人々に受け入れられ、尊敬されるのには理由があるのです。
 この映画における胆(キモ)の一つは、「この行いを末代まで人様に自慢してはならない」という慎みの掟にあります。
 ぜひ、多くの方々に観ていただきたいと願っています。




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2016
05.16

私たちは本当に求めるべきものを求めているか? 

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 お釈迦様がゆったりとした瞑想に入って悟られたのは、まず、人間がこれまで何をやってきたかという全体像だったという。
 そして、自分自身の過去世における輪廻転生(リンネテンショウ)である。
 つまり、人間と自分がいかなる存在であるかをつかまれた。

 次は、そうした人間がこの先どうなるかという未来の姿を見通された。
 
 最後に、過去と現在と未来を貫く原理に気づかれた。
 人の世はままならぬ苦に満ちていること。
 苦は、渇愛(カツアイ)によってもたらされること。
 渇愛がなくなれば苦もなくなること。
 渇愛をなくすには、放逸でなく、苦行でもなく、智慧によってきちんと自分自身をコントロールすること。

 これらは、私たちが何者であり、何をせねばならないかという根源的かつ普遍的な問いに対する答が得られたことを意味している。
 答は神などの他者によって与えられたものではなく、迷いという迷妄を破った自分自身の覚醒がもたらした。

 さて、お釈迦様は、説法を始めてから、マールキヤプッタ尊者によってやはり根源的かつ普遍的な問いを問われているが、答えておられない。
「世界は永遠なのか、永遠でないのか、有限なのか、無限なのか?」
「いのちと身体は一つなのか、別なのか?」
「修行を完成した如来は死後も存在するか、しないか、存在しながらしかも存在しないのか、存在するのでもなく存在しないのでもないのか?」

 ここはとても興味深い。
 悟られた内容が、納得して生きるという生き方をもたらす一方、マールキヤプッタ尊者の問いは、いわば科学的な関心事ではあっても、答がなければ生きられない類の問いではないのだ。
 思えば、物理学や医学など科学の発達は、人間が安全に、楽に、豊かに生きるたくさんの道具を与え、長寿をもたらしたが、それに比例して私たちが安心で、争わず、心の満ち足りた生活をしているわけではない。
 むしろ、道具で縛ることによってかろうじて維持される社会になりつつある。
 防犯カメラ、兵器、人工知能といったものがなければもう、成り立たないではないか。
 この現実は恐ろしい。
 今、私たちが頼りとしている方法はすべて、〈電気〉がなければ無用の長物でしかないものばかりだ。
 お釈迦様が説かれた〈方法〉はどこへ行ってしまったのだろう。

 渇愛はそのままで、モノの縛りによって行動を制御される私たちは、このままでよいのだろうか?
 防犯カメラに見つかるとやばいから、見つからない方法で悪事をしようとする人間……。
 レーダーに捕捉されると攻撃できないから、ステルスで相手を殺そうとする人間……。
 もしかして、霊性に反する悪の発露は、お釈迦様の時代よりも膨らみ、深まっているのではなかろうか?
 パナマ文書で明らかになりつつある悪徳の深さは何を意味するか、私たちへ突きつけられているものは重い。




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2016
05.15

お戒名に救われた話 ─お見通しのご本尊様─

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〈ペット供養墓『一心』〉

 寒い日のご葬儀が終わってしばらくたち、境内地がすっかり緑色の輝きに包まれたある日、ご遺族のお一人Aさんがひょっこり訪ねて来られました。
 人生相談のお申し込みでしたが、お礼に参上したと言われます。
 お話には驚きました。
 お戒名が故人の人格的な問題をすっかり補っていたと言うのです。

 突然、申し込まれたご葬儀で、亡くなられた方ももちろん存じ上げず、とにかくご本尊様へ祈って降りたお戒名によって果たしたお務めでした。
 ご遺族皆さんに感謝されましたが、そこにはいつもの光景を離れた気配があったわけではありません。
 しかし、Aさんは涙ながらに言われました。

「私たちは、他人様からわかられにくい故人の心の問題にずっと苦しんで来ました。
 あれが病気であったかどうか、今となっては調べようもありませんが、少なくとも私にはそう考えるしかない状態でした。
 病気と考え、心から同情しつつ過ごした年月でした。
 次は、どうかそこを埋めた円満な人格で生まれ変わって欲しいと幾度、神仏へ祈ったかわかりません。
 お通夜の席で住職は、『院号は魂の色合いを表す』と言われましたね。
 あの院号にこそ、補われた人格が示されていたのです。
 そしてまた、『最後の熟語は僧名と同じ法名で、生まれ変わる姿を表す』とも言われましたね。
 あそこにこそ、私がこうあって欲しいと願っていた姿が示されていました。
 故人は、住職が言われたとおり、他の人と同じく、み仏の子として生まれていながら、何かの因縁で仏性が強く覆われた人として生まれ、仏性を充分に発揮できずぬまま、この世を去りました。
 しかし、それは、素晴らしいものがなかったのではなく、きちんと持っていたことを院号が示してくれました。
 私が拝んでいたとおり、来世ではきっと法名通りの生き方をして、この世で発揮できなかった徳にあふれた人生を送ることでしょう。
 私の永年の苦しみが救われ、故人も救われました。
 お通夜の夜、救いの道筋を確認した私は今までにないほどの安心感をもって眠れました。
 本当にありがとうございました。」

 お戒名を届けて皆さんに感謝されるのは、亡くなられた方の持っていた徳が表れているからです。
 しかし、今回は初めて、欠けていたものが補われるという形になっていました。
 もちろん、小生は何ら気づかず、降りたお戒名をお届けしたに過ぎません。
 ご本尊様のおはらかいに絶句するしかありませんでした。

 ところで、ある講演会でご質問を受けました。
戒名は江戸時代の名残ではありませんか?
 どうお考えかお聞かせください。」
 暗に、本来不要だったはずの戒名をつけて大金を請求するのはおかしいと批判しておられます。
 お答えしました。
「私たちは今の世に生き、文化的な伝統を承けて生活しています。
 仏教は、お釈迦様が初めて真理を明確に説かれ、その悟った方法と内容が2500年に渡って探求され、追体験を望まれて来たものです。
 誰かのお告げでなく、道理の宗教である仏教は、時代や地域や風俗などに溶け込みながら、祈る形などを多種多様に変化させつつ、変わらぬ真理を示して来ました。
 魂にかかわる戒名も当然、その時代なりに用いられてきた道具の一つであり、そこに宗教的真実が宿っている限りは存在し続け、真実の表現でなくなれば、消えてゆくことでしょう。
 宗教者として今を生きる小生は、承け継いだ宗教的伝統に則った方法でご本尊様から戒名をいただき、それを手にした方々はそこに何らかの真実を感じてくださっています。
 それだけのことです。
 ただし、戒名が何であり、どのように授かるかは必要に応じてご説明しますが、決して強制はしません。
 自分は戒名なしで逝きたい、あるいは名前も一切、形に残したくない、とご自身の信念を述べつつ、当山へ万が一の場合を託す方々もたくさんおられます。
 戒名料を含めたご葬儀一式のお布施をくださり、「これで安心です」と清々した表情で帰る方々もおられます。
 当山は、ご依頼に応じて求められる役割を果たすのみであり、相手様の信仰信条、あるいはお布施の金額によって分け隔てすることは一切ありません。」

 お戒名は決して売り買いするものでなければ、強制的に付けさせられるものでもなく、この世で親から名前を授かるのと同じく、あの世に旅立つ時、もしくはこの世で生き直しをして仏法にそった生き方をしたいと決心する時に、縁のご本尊様からいただくものです。
 真摯な宗教行為として尊べば、そこにさまざまな救いがあるのは当然だと考えています。




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2016
05.14

平等・智慧・布施の世界 ─映画『殿、利息でござる!』を観て─

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〈河北新報様よりお借りして加工しました〉

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〈お焚きあげの不動堂〉

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〈笹倉山と永代供養自然墓『法楽の郷』〉

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〈笹倉山と個別型永代供養樹木葬『法楽陵』〉

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〈横幅30メートルに及ぶ十三仏守護の永代供養共同墓『法楽の礎』〉

 当山のある宮城県黒川郡大和町は、映画『殿、利息でござる!』でもちきりだ。
 何しろ、大和町の中心部吉岡地区で実際にあったできごとをもとにして創られ、子孫たちにとっては、ご先祖様方の隠れた善行が陽の目を見るという、ほとんど信じがたい作品なのである。
 全国公開に先がけて観られる当地の映画館は老若男女でいっぱいだ。
 特にお年寄りの姿が目立つ。
 仙台市の北部に隣接する黒川郡全体としてはトヨタ自動車などの工場進出でめざましい動きがあっても、さびれる一方の吉岡や周辺地域の人々にとって文字どおり、快哉を叫びたくなるできごとだからだ。

 KHBによれば、話はおおよそ以下のとおり。

 金欠の仙台藩は百姓町人へ容赦なく重税を課し、破産と夜逃げが相次いでいた。
 さびれ果てた小さな宿場町・吉岡藩で、故郷の将来を心配する十三郎(阿部サダヲ)は、知恵者の篤平治(瑛太)から宿場復興の秘策を打ち明けられる。
 それは、藩に大金を貸し付け利息を巻き上げるという、百姓が搾取される側から搾取する側に回る逆転の発想であった。
 計画が明るみに出れば打ち首確実。
 三億円相当の大金を水面下で集める前代未聞の頭脳戦が始まった。
「この行いを末代まで決して人様に自慢してはならない」という“つつしみの掟”を自らに課しながら、十三郎とその弟の甚内(妻夫木聡)、そして宿場町の仲間たちは、己を捨てて、ただ人のために私財を投げ打ち悲願に挑む!
『武士の家計簿』の原作者が取材した実話を基に、『ゴールデンスランバー』『白ゆき姫殺人事件』の監督が贈る痛快歴史エンターテインメント超大作。


 僧侶の身としては、他のため、皆のためになろうとする〈布施〉の精神はもちろんだが、仏教的観点からの〈平等〉が描かれていることに最も感心した。
 地域を救うため、貧しい庶民が、地域の有力者やお金持ちへ堂々と出資を説くシーンには涙が出た。
 皆のためという誠心に身分や貧富による違いはない。
 自分のためではなく、皆のためであればこそ、お金を出したくないという執着心に対して、「それでいいのか?」「恥ずかしくないのか?」と問いかけることができる。
 自分の執着心であろうと、他人の執着心であろうと。
 むろん、人はそれぞれなりに、他人にはわからない事情というものを抱えており、布施は決して強制されるべきではない。
 本当の布施の心は平等にはたらき、布施をする時、一切の差別は消え、人間として真の平等が実現する。

 私たちが普段、意識している「平等」とは、ほとんど「チャンスにおいて不公平でない」という意味である。
 いわゆる「機会の平等」だ。
 しかし、仏教における平等、すなわち差別(シャベツ)を離れた心は違う。
 我欲(ガヨク…自己中心的な自分へのこだわり)や我慢(ガマン…自己意識から起こる慢心)から離れ、自分と他人とを差別しないのが〈平等〉である。
 平等の心から他人の苦を見捨てられず、それを何とかしないではいられずにはたらくのが〈智慧(チエ…自己中心でなく最善の方法を考える心)〉であり、そこで行われる実践が〈布施〉である。
 ここにおいて、本人は執着心から離れて真の自由を得、相手は苦が消される。
 だから、平等な意識で智慧がはたらき、行われる布施は清浄な行為であり、滅罪への道とされる。

 いかに史実に基づくとは言え、この映画はあくまでも娯楽作品である。
 伊達家の殿様やフィギュアスケートの羽生結弦選手が効果的に使われ、人々は皆、善人として描かれる。
 映画を観て、そんなことはなかろう、と思う方もおられようが、〈布施〉と〈智慧〉と〈平等〉が救いをもたらす世界の価値を多くの方々に感じとっていただきたいと願ってやまない。
 ご覧になられればきっと、性欲・暴力・恐怖といった刺激に頼らない良質の映画に安心されることだろう。
 



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2016
05.13

心の眺め方(その2) ─満月を眺めて煩悩(ボンノウ)を滅するには─

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 ブログ「心の眺め方」について、瞑想に関するご質問が多く、満月を眺めて、あるいは満月をイメージして瞑想を行う場合の観想文を書いておきます。
 詳しくは5月14日午後2時からの寺子屋法楽館』にてお話しします。

月輪観(ガチリンカン)における三毒消滅の観想

一 心月(シンガツ)清浄の観

月の清浄なるが如(ゴト)く 自心も無垢(ムク)なり
自性(ジショウ)清浄にして 無貪(ムトン)無染(ムゼン)なり
月の浄徹(ジョウテツ)なるを見て 心の浄性(ジョウショウ)を観ぜよ
本(モト)より貪染(トンゼン)なし 元(モト)これ浄仏(ジョウブツ)なり


(月の光が清浄であるのと同じく、自分の心も本来、垢や穢れを離れている
 心の核である魂は清浄で、貪りも、悪の影響もない
 穢れをまとわぬ清浄な光を放っている満月を見て、自分の心の奥底も又、清浄であることに気づくべし
 心は本来、貪りも悪の影響もなく、そもそもが清浄なみ仏そのものなのである)

二 心月(シンガツ)清凉(ショウリョウ)の観

月の清凉(ショウリョウ)なるが如(ゴト)く 自心も熱を離れたり
慈悲の水を瀧(ソソ)いで 瞋恚(シンニ)の火を消す
月の凉光(リョウコウ)に触れて 心の慈水を澄ませば
無量の恚(イカリ)の焔(ホノオ) 一時に消滅しぬ


(月の光が清凉であるのと同じく、自分の心も熱悩を離れている
 慈悲の水を注いで怒りや憤りの火を消す
 月の涼やかな光に触れて、心にある慈悲の水を澄ませば
 無限の怒りの炎も いっときのうちに消滅する)

三 心月(シンガツ)円満の観

月の円満せるが如(ゴト)く 自心も闕(カ)くることなし
万物を具足(グソク)し 種智(シュチ)を円満す
月の円形(エンギョウ)を見て 心の満体(マンタイ)を観ぜり
福智を円満せる 雙円(ソウエン)の性仏(ショウブツ)なり


(月が真円であるのと同じく、自分の心も本来、愚かさのない智慧で満ちている
 あらゆるものが調い、必要な智慧は不足なく備わっている
 月が円形であるのを見て、心も又満ち足りていると観想する
 悟りを得るための福徳智慧が二つの満月のように円かに具わった仏としての本性を持っている)

 こうして貪・瞋・癡(トンジンチ)の三毒を克服しましょう。




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 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2016
05.13

中国人学生の死とネット社会の問題 

2016-05-13-0001.jpg

 産経新聞の「北京春秋」は5月12日、「ある大学性の死」を報じた。
 以下、記事を追ってみる。

「先月、21歳で死去した西安電子科技大学の学生、魏則西氏のことが最近、中国のインターネットで話題となっている。

 滑膜肉腫という難病にかかった魏氏が検索サイト最大手『百度』で、北京にある軍系病院が、米国の大学との共同研究の成果として『生物免疫療法』という画期的な治療法を行っていると知った。
 両親と共に親戚中から20万元(約340万円)をかき集め、4回の治療を受けたが効果はなく、腫瘍は肺に転移した。

 友人を通じて米国などの病院に問い合わせ、嘘の公告にだまされたことに気づいた。
 自身が受けた治療法は海外で否定されたもので、共同研究を行った事実もなかった。
 魏氏は亡くなる直前、ネット上で『あなたは人間性のなかの最大の〈〉は何だと思うか』の一文を書き残した。

 魏氏の死が大きな話題となり、虚偽の情報を流した病院は営業停止となった。
『百度』にも批判が集まった。
 病名を検索すれば、広告料をより多く払った病院が上位にランクされて出てくるシステムを導入しているため、偽情報が氾濫し、患者がだまされることが以前から多かったという。

 中国では政府批判はすぐに削除され、書き込んだ人が逮捕されることもよくあるが、いかがわしい医療公告は取り締まり対象となっていないようだ。(矢板明夫)」


 この一文はあまりにも重い。
「あなたは人間性のなかの最大の〈〉は何だと思うか」
 仏法的に、が何であるかは明確である。
 慈雲尊者は説いた。

「瓔珞経(ヨウラクキョウ)に『理に順じて心を起こすを善といい、背くをと名づく』と説く。
 仏性(ブッショウ)に順じて心を起こすを善といい、これに背くをという。」


 心の源底にある仏性という満月のような鏡に照らしてみれば、何が善で何がであるかは明確にわかる。
 そこにはたらくごまかしようのない道理に合っていれば善であり、背いていれば悪である。
 お大師様は、鏡に気づかず、鏡が塵に覆われた状態で右往左往する状態から、鏡そのものに成り切った状態までを10の段階に分けて説かれた。
 食欲と性欲に支配される生活から、み仏そのものとなる生活まで、私たちは同じ人間とは思えないほど異なる一生を送る。
 嘘の公告で大借金をし、無念の思いで死んで行った魏氏の問いかけは、中国の人々に対して「我が身を振り返る」ことを訴えたのではないだろうか?

 ネットの検索システムにも大きな問題がある。
 海辺の砂のようにたくさんある情報から本ものや、自分が本当に必要としているものを探すのは、非常に困難だ。
 どうしても、検索して上位に引っかかった対象から選ぶことになる。
 だから、情報の提供者も探索者も〈上位〉を意識するが、そこにはカラクリがあって、広告料や手数料の金額によってランクが決められるとしたなら、公正で開かれたネットではなくなる。
 お金が万能で、〈袖の下〉があまりにもあっけらかんと横行したり、環境汚染が放置されたり、食品にまでも粗悪品が流通している社会構造の罪も重い。

 いずれにしても、個人的な悪もあれば社会的な悪もあり、個人的な、あるいは社会的な悪行(アクギョウ)となれば、積まれた悪業(アクゴウ)は必ず自他へ苦しみをもたらす。
 魏則西氏の呻きと問いかけは決して〈他人ごと〉ではない。
 悪業を避けるには、心の鏡から塵芥を拭き取る不断の努力が欠かせない。
 お経を学び、読誦し、瞑想や写経を行うことは、重要な方法である。
 興教大師は説かれた。
「月の浄徹(ジョウテツ)なるを見て 心の浄性(ジョウショウ)を観ぜよ」
(穢れをまとわぬ清浄な光を放っている満月を見て、自分の心の奥底も又、清浄であることに気づくべし)
 実践したい。




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2016
05.12

迷いなどを抱えていれば菩薩を目指せないか? ─仙台稲門会にて─

2016-05-12-0001.jpg
〈自然の花かご〉

 5月10日、仙台稲門会で「見捨てない心をつくる」というお話をしたところ、最後にご質問をいただいた。
「心に問題を抱えている人は菩薩(ボサツ)として生きられないのでしょうか?」
 菩薩とは、布施・持戒・忍辱(ニンニク)・精進・禅定(ゼンジョウ)・智慧の六波羅蜜(ロッパラミツ)行を成就しても、自分だけが安心の世界へ行ってしまわず、この世に現れてくださる存在であると話したからである。
 つまり、悟っても、悟りの浄土へ行ってしまわないのが菩薩なら、いろいろやらかし、悟っていない私たち凡夫菩薩として生きられないのではないか、ということだ。

 確かに地蔵菩薩も、観音菩薩も、迷い、苦しむ凡夫ではない。
 悟った者であるからこそ強大な救済力を発揮できる。

 では、迷いと苦しみに満ちたこの世に現れ、私たちの身近でお救いくださるとはどういうことだろう?
 現れたお地蔵様はいろいろなお姿をとる。
 経典は説く。
 
「仏身、菩薩身、辟支佛(ビャクシブツ)身、声聞(ショウモン)身、梵王(ボンノウ)身、帝釈(タイシャク)身、閻魔王(エンマオウ)身、毘沙門(ビシャモン)身」

 さまざまなみ仏や神様の姿となる。
 しかし、それだけではない。

「長者身、居士(コジ)身、宰官身、婦女身」
 
「薬草身、商人身、農人身」

「大地形、山王形、大海形」

 長者、信徒、役人、女性、草木、庶民、山や海などの大自然。
 まだまだあるが、これは文字どおり、救済を求める相手に必要な何ものにでもなってくださることを意味している。
 ならば、私たちも、欠陥や罪や愚かさなどを持ったままで、お地蔵様になり得る瞬間があるはずではなかろうか?

 だから、こんなふうにお答えした。

「そうですね。
 小生もたくさん欠陥を持っており、重々、自覚しています。
 しかし、それでも菩薩を目ざして修行し、法を結び、人生相談などを行っています。
 たとえば、小生と同じような欠陥に悩む方が来られると、その方の苦しみや辛さが我が身に沁みてよくわかります。
 手を取り合うような雰囲気で問題に対峙したりもします。
 だから、大切なのは問題意識ではないでしょうか?
 自分が凡夫であることを自覚した上で、菩薩を目ざす。
 そうして生きていれば、この身このままで、いつかきっと誰かの何かの役に立てる。
 その瞬間には、まぎれもなく菩薩になっているはずです。
 それを即身成仏(ソクシンジョウブツ)と言います。
 誰かへ心から優しい言葉をかけた瞬間、その人は生き仏として菩薩になっています。
 凡夫が救い、救われる道はここにあります。」




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「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
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2016
05.11

心の眺め方 ─守本尊と一体になる瞑想について─

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 5月14日(土)午後2時からの寺子屋法楽館』では瞑想についてのお話を少々、申し上げ、瞑想体験も行います。
 イス席があるので、どうぞお気軽にご参加ください。

 さて、根本経典『大日経』は、迷いを断ち悟りを開く方法について説きます。

「実(ジツ)の如(ゴト)く自を知る」


 自分のをありのままに知るとはどういうことでしょうか?

 お大師様は説きました。

「これこの一句に無量の義を含めり。
 竪(タテ)には十重の浅深を顕し、横には塵数の広多を示す。」


(この一句には無限の内容が含まれている。
 縦にその深さを観れば、十段階ものレベルがあり、横にその広さを観れば数えきれぬほどの教えを示している)

「自分のがあやふやで、迷い穢れに満ちていればこそ〝このままではいけない〟と配しているのに、これ以上、自分のを眺めても救いなど見つけられるとは到底思えない……。」

 これが皆さんの本音ではないでしょうか?

 実は小生も、かつてはそうでした。
 しかし、問題は眺め方にあります。
 そのヒントを得ていただくだけでも、今回の講座は万々歳だと思っています。

・日  時 5月14日(土)午後2時~3時半(ひき続き、自由参加の茶話会もあります)
・場  所 当山講堂(イス席もあります)
・参加費 千円 中学生以下五百円(お菓子、飲物付)
・送  迎 開始30分前に『イズミティ21』前へ無料送迎車がまいります。乗車希望の方は必ず、前日午後5時までにお申し込みください。℡022(346)2106




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2016
05.11

ボクサーと僧侶 ─沢木耕太郎氏の目に映った「捨てるもの」と「得るもの」─

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 作家沢木耕太郎氏が朝日新聞に「春に散る」を連載している。
 結末がどうなるかはわからないが、今のところ、若いボクサーが育って行く物語である。
 かつての強豪藤原は若い翔吾へ語りかける。
 あるジムの会長が「ボクサーというのはリングの上で自由になるために練習をする」と言った言葉をきっかけに諭す。

「それは半分しか正しくない言葉のような記がするんだ。
 アマチュアのボクサーならそれでいい。
 でも、プロボクサーは、それだけでは駄目だと思う。
 プロとアマの違いは金を貰ってボクシングをするということだ。
 ただ自分が自由になるところを見せるだけでは金は貰えない。
 プロボクサーというのは、観客に勇気を見せることで金を貰う職業なんだ。
 打たれても向かっていく。
 倒されても立ち上がる。
 死んだ会長もトレーナーの白石さんも、そういうボクサーを嫌っていた。
 打たれないで打つ。
 倒されないで倒す。
 でも、実際にギリギリの戦いをしていると、打たれるとわかっていても打ちにいかなくてはならないときがある。
 あのインサイド・アッパーも一歩間違えば倒されてしまう。
 ボクサーはその恐怖を乗り越えて打ちにいく。
 観客はその勇気に金を払ってくれるんだ……」


 僧侶に対してはこう言い換えられそうだ。
「仏教に興味があるアマチュアなら、拝んでいる時に自分が解放されるだけでいいだろう。
 でも、プロ僧侶ならそれだけでは駄目だと思う。
 プロとアマの違いは、お仕えするご本尊様へお布施をいただくに足るはたらきができるかどうかということだ。
 ただ自分が解放されている状態の僧侶を見ても、お布施を渡す気にはなれない。
 プロ僧侶というのは、ご本尊様へおすがりする方の願いに応じ、身に着けた法力の世界を感じとってもらえるレベルの修法を行い、自発的に差し出されるお布施を受け取る職業なんだ。
 どこまで行ったらよいかわからない無限の深みへ踏み込んで行く。
 胆力も声も続かないかと不安が一瞬よぎってもなお、倒れない限り踏み込んで行く。
 見える範囲、聞こえる範囲でうまくやり、途中から引き返してきても、修法の依頼者や参集した方々は文句を言わないだろう。
 でも、法へ入れば、うまくはやれなくなる。
 技術や計算の世界ではない。
 プロの僧侶はそこを完全に離れて仏界を現前させる。
 ご縁の方は、その異次元を感得すればこそ、ご本尊様へ心からのお布施を差し出してくださるのだ。
 決して、いただくお金の範囲で拝むのではなく、拝んだ労力に対してお金をいただくのでもない。
 そもそも、修行とは、み仏の世界、すなわち異次元へ入って衆生のために力を尽くせるだけの能力を身につけるものだ。
 娑婆の損得を離れた世界を感じとった方もまた損得からでなく、自主的に、まごころからお布施をくださるだろう」

 沢木耕太郎氏の書くものは必ず、テーマとする世界の胆(キモ)をつかんでいる。
 胆にかけている人間としては、読むことが再確認の貴重な機会となる。
 自分が懸命にやっているところまでズイッと入って来てしまう観察眼と筆力にはただただ、舌を巻くばかりである。
 氏が手がける世界へ関心を持っておられる方々もきっと、「そうか!」と膝を叩いたり、「うーん」と唸らされたりすることだろう。
 そう言えば、氏はこんなことを書いていた。 

「何かを捨てて、何かを得る。
 生きるとは、何かを捨てて何かを得るという繰り返しの中にある、と言えなくもない。」


 捨てようとしているもの、得ようとしているものが氏にはお見通しなのだろうか。




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2016
05.10

トランプ氏につきつけられたもの ─これでいいのか?─

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 トランプ氏の騒動をきっかけにして思う。

1 トランプ

 アメリカ大統領選挙におけるトランプ氏の言動は、個人と社会との関係を考えるよいきっかけだ。
 建前や幻想といったものから離れ、生身の人間とその集団との血が通ったありようを考えなおすきっかけとも言えよう。
 人間そのものと、飛び交うモノや情報との違いも考えたい。

 私たちは、モノや情報といった環境世界の動きが高速化したことにより、人間そのものも、いつでも地球上を飛び回り、地球を庭にできると思うようになった。
 そこでは文化も思想も共有され、あるいは自由に選択され、自分が何者であり得るか、はてしなく自由な選択と自己形成ができると思うようになった。
 地域社会や国家もまた、より広い範疇へと枠が溶融し、国家が掲げる普遍的理想は世界の理想として人類を導くと考えるようになった。
 自由主義や民主主義が普遍的原理と考えられ、一方では社会主義や共産主義、あるいはキリスト教的世界観やイスラム教的世界観がグローバリズムに乗って理想郷をつくると主張されている。

 しかし、生身の人間という現実から眺めればどうか。
 モノが世界中から買えるからといって、いっぺんに和風と洋風と中華風と3種類の料理を並べ、これまでの3倍食べるわけにはゆかない。
 むしろ、欧米化した食事の影響で乳ガン、大腸ガン、前立腺ガンなどが増えている(田中雅博医師の見解)現実を直視したい。
 また、情報がたくさん得られるからといって、私たちの頭脳がキャパシティを急に拡大させたわけではなく、入れ物としての能力や咀嚼力や創造力そのものは何ら変わらない。
 入れる内容が違ってきただけのことである。
 たとえば、半世紀前の若者は、古典を読み、文学や哲学論争にふける時間をたっぷり持っていたものだが、大学が就職のための機関と化し、高校も中学校もその準備段階と見なされる今では、若者たちの多くが〈就職やお金もうけの有効な道具〉を得ようと血眼になっているように見受けられる。
 厳しい時代になったものだ。
 
2 人間と環境

 人間も生きものである以上、環境との関係性が、いのちをいかにまっとうするかという根本問題を左右する。
 ちなみに、コアラは1年間に1500万円、パンダは550万円もの飼育量がかかる。
 それによってようやく自分が生きられる環境を得つつ見せ物となっているのだ。
 人間もまた、遙かなご先祖様から受け継いだ遺伝子によって特定の特性を持った生体がつくられ、維持されている以上、環境のありようと無関係に生きられるはずがない。
 アザラシ、クジラ、トナカイといった動物たちを食べてきたエスキモーの人々が、西洋風の食習慣を取り入れたために心臓病や糖尿病が激増したことを見ても、人間が生まれ持った条件とマッチした環境で生きることの大切さがわかる。

 また、血液が体内を順調に循環しつつ人間の生体が保たれるように、言葉や生活感覚や情報がある程度、共有され、他国から容易に侵されぬ程度の自衛力を持ち、経済もまた滞りない循環構造を保っていればこそ、国家は独立した存在であり続けられる。
 その国に暮らす人々の生活が安定し、国家が安定的に存続してゆくための特定の条件は、その国なりのものだ。
 当然、千差万別である。
 同時に、独自性を持った国家が存立し続けるためには、周囲の国家との円滑な交流が欠かせない。

 人間も国家も独自なものでありながら、環境世界との関係性が存否を決定づける。

3 問われる価値

 私たちはこの〈独自性〉及び、環境世界との〈緊張感〉を少々忘れていたのではないか。
 言い方を変えれば、グローバリズム自由競争が世界中へ富をもたらすという幻想によって忘れさせられていたのではないか。
 人間も国家も、世界へ羽ばたけば誰もが富を得られると勘違いさせられていたのではないか。
 そもそも〈飛んで得る富〉は、私たち一人一人へ確かな幸せをもたらすものなのだろうか?
 地に足を着け、一坪の土地を耕して野菜を得る行為は、さしたる価値を持たないのだろうか?
 人間が一個の生物である以上、環境との関係性の中でしか生きられないという認識、環境との関わり方が生活の質を左右するという認識も、「バベルの塔」的な過ちを犯さないために必須ではないか。

 富の寡占という現実は、グローバリズム自由競争の絶対性が誰のために叫ばれてきたかという真実を明らかにしつつある。
 アメリカでは、ここ20年の間に所得上位5パーセントの人々が所得を15パーセント増やして年収約4000万円を得ているのに対し、、下位20パーセントの人々は所得を4パーセント減らし、年収約130万円ほどになってしまった。
 世界をまたにかけて動いたお金と人が何をやったか、白日の下にさらされたのだ。

 自由主義、民主主義、グローバリズム自由競争などは今や、人間にとって真に価値ある思想なのかどうかが厳しく問われている。
 無論、それらが無価値であり誤謬であるわけではない。
 問題は、誰がいかなる意図で、いかなる内容を込めてそれらを標榜してきたかという〈人間〉と〈国家〉が問われていることにある。
 また、それらを人間と国家の現実に照らして、生身の人間一人一人に、あるいはそれぞれの国家にどういう形で生かしてゆくか、人々の生活に根差した方法、世界の調和をはかる方法が問われていることも忘れてはならないと思う。




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2016
05.09

ミケ子はキジを獲り、人は人を殺す ─本来の仏が迷う姿─

2016-05-09-0001.jpg

 妻が騒いでいる。
「ミケ子がキジを獲ったみたいだよ」
 あり得ると思った。
 何しろ、小型でおっとりしているクロでさえ、かつてはスズメやモグラを獲って意気揚々と玄関へ運んで来たものだ。
 情報は、キジが歩いていたあたりでミケ子がウロウロしているという極めて曖昧なものだったので、それ以上の詮索はやめた。

 なぜか、最近、聴いた話を思い出した。
 かつてイラン・イラク戦争のおり、崩壊したイランのパーレビ王朝関係者がジャングルに亡命していて、侵攻したイラク軍兵士の暴虐ぶりを目にした。
 兵士たちはイランの女性を集めて暴行し、最後は一人づつコモにくるんで全員を爆殺した。
 飛んで来た肉片が近くへ落ち、この世の光景とは思えないものを見た彼は心のどこかが壊れ、時にはむやみと他人へ優しくするが、時には平然と冷酷な行動をとるようになったという。

 ケモノは節理に従うのみ。
 人間は真理道理に合わせるか、合わせないか、迷う。
 慈雲尊者(ジウンソンジャ)は不殺生について説いた。
 

「一切衆生(シュジョウ)は我が子なるによって、一切有命(ウミョウ)の者に対すれば不殺生となる。
 一切有命の者が眼に遮(サエギ)れば必ず慈悲心生ず。
 この菩薩(ボサツ)の心をと名づく。
 この菩薩の心、衆生に本来具有のものなれど煩悩(ボンノウ)・業障(ゴッショウ)の深厚(ジンコウ)なるによって現ぜぬまでなり。」


(いっさいの生きとし生けるものは、我が子同様に、み仏からいのちを分けいただいた者同士であり、この心で生きとし生けるもののに接すれば不殺生という律の実践者となる。
 生きとし生けるものが目に入れば必ず思いやりの心が生ずる。
 おのづからそうなった菩薩の心が、の成就である。
 この菩薩の心は、生きとし生けるものを代表する人間には本来的に具わっているものだが、自己中心的な煩悩と、悪行の悪しき影響力、そしてそれが招く障りによって表れにくくなっているのである)

「もし残忍の心をたくましくして、罪なき者をことさらに殺害して、極大(ゴクダイ)の苦悩怨恨を生ぜしむる。
 この時、業(ゴウ)の種子(シュウジ)が成就して、他時異日(イジツ)、我が身に集まる。
 無しと言われず。」


(もしも残忍の心を逞しくし、何ら罪のない者をわざと殺害して、この上ない苦悩と怨恨を生ぜしめたとしよう。
 その時は、悪しき影響力の核がはたらき、やがて悪しき結果がその者の一身に集まる。
 因果応報は避けられない)

「殺生の、人道に背き、天命に背き、正道理に違うことを知り、みだりに殺さずみだりに悩まさぬが、世間相応の持者。
 殺生の業果(ゴウカ)空(ムナ)しからぬを信じ、殺さず悩まさず、憎み恨まぬが、出世間少分相応の浄持戒者なり。」


(殺生が人道に背き、天命に背き、人間としての正しい道理に違うことを知り、他の生きとし生けるものをみだりに殺したり苦しめたりしないのが、一般世間における持戒者である。
 殺生の悪業が因果応報の理によって必ず悪しき報いを生じさせると信じ、他の生きとし生けるものを殺さず、苦しめず、憎まず、恨まないのが、出家の立場としては、最低限度、資格が保たれる持戒者と言える)

「人間に生まれしことの尊重なるを憶念するは、道に達する要津(ヨウシン)なり。
 自ら自己人身に尊重の心あれば、自暴自棄の患(ワズラ)い無し。
 更に、微細の虫蟻に至るまで本性の平等なるに達す、これを不殺生戒全きと名づく。」


(人間として生まれた事実そのものの尊さ、重さを肝に銘じて忘れないのが仏道を成就するための要点である。
 み仏から授かった我が身を尊重する心があれば、何があっても自暴自棄になるおそれはない。
 さらに小さな虫や蟻までもが尊いいのちを授かった者として皆、平等であると知って害さず、苦しめないのが、不殺生戒を完全に成就した状態である)
 

「人たる道に背き清浄妙心の中に地獄を建立す。
 大火を現ず。
 大水を現ず。
 仏と異ならぬ心を持ちつつ、自ら迷うて業相(ゴッソウ)の姿を構え、ここに死しては彼に生じ、しばらくも定かならず。
 生もなく滅もなき場所に、自(ミズカ)ら生死(ショウジ)を構えて種々に顛倒(テンドウ)す。
 自己心中に大安楽のあるを知らず迷うなり。」


(人間の人間たる道に背き、本来清浄で精妙な心の中に自分で地獄を現出させてしまう。
 無限の火炎地獄を生じさせる。
 無限の寒氷地獄を生じさせる。
 本来、み仏の子としての心を持っているにもかかわらず、自分から迷って悪業の結果として生じた姿になり、ここで死んだかと思えば、あそこに生まれ、迷いの世界を転々として彷徨うばかりである。
 本来、生死を超えた存在であることに気づかず、自分から生き死にの苦を招き、いのちを真理に反した形ではたらかせる。
 自分の心中に、無限の安楽があることを知らず、迷っている)




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「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2016
05.08

苦しみと生き仏 ─瞑想・言葉・救済─

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 救われた体験を記しておきたい。

1 苦しみの存在

 お釈迦様は「苦」と正面から対峙した。
 私たちの存在は苦と共にあると喝破(カッパ)した。
 苦の根本原因は何かと言えば、自分や自分の持ちものへの実体視であり、それに付随する執着心である。
 本来はままならぬ三つを思い通りにしようとしてあらゆる苦が生ずる。
 すなわち、生きること、死ぬこと、性衝動に代表される感覚の満足。
 これらを思い通りにしようとせずに済めば、苦はなくなる。
 煩悩(ボンノウ)の火が消えた状態である涅槃(ネハン)へ入られる。
 生きながらそうした状態へ入った人を「生き仏」と言い、死んで引導を渡された人は皆、悟った人同様に「仏」と呼ばれる。
 仏に成るための方法として八つの正しい道が説かれた。
 八正道(ハッショウドウ)である。
 この世への姿勢、考え方、話し方、思い方、生活パターン、などを正せば聖なる世界へ近づけると説かれた。
 だから、八正道は八聖道とも呼ばれる。

 お釈迦様が「まず、ありのままに観よ」と説かれたとおりの実態に気づき、納得、同感、理解できれば、次の行動へ入ることができる。
 こうして、このままではいられないのだ。
 信じて実践すれば必ず結果がもたらされる。
 こびりついた気まま勝手な考え方が変わり、真理に即した目と心を持てるようになれば、苦は薄れて行く。

2 苦を除く思いやり
 
 そこで力になるのが菩薩(ボサツ)である。
 私たちは、自分をわかってくれる人、特に、自分の苦しさや悲しさや辛さを我がことと感じてくれる人によって救われる。
 真の救済者は、誰かの苦しみを〈我がこと〉と感じたり、思ったりできる人だ。
 誰かが私たちの苦しみを我がことと感じてくれていると信じられるだけで、不思議にも苦しみは薄れる。
 その典型が病人である。
 倒れた時、誰にも声をかけられず、あるいは搬送された病院で生きられる方向へと手助けされず、あるいは誰一人、心のこもったいたわりの言葉をかけてくれないならば、病人は生きられないだろう。
 肉体が物理的な死を迎える前に、心が生きられなくなる。
 その反対に、心のこもった看護や見舞いは病人を勇気づけ、いのち分をまっとうする手助けになる。
 生きられるいのちいっぱいに生き尽くすことができるのだ。

3 瞑想で消える苦の原因

 さて、少々、これらとは異なった道筋で救われるケースもある。
 たとえば、古来行われてきた満月を眺めての瞑想などがそうだ。
 月は清らかである。
 月はさやかである。
 月は光に満ちあふれている。
 一方、我が身には、ガツガツとどこまでも貪る心がある。
 また、高慢心や頑なさなどから、他者を許せず怒る心がある。
 また、自己中心的な姿勢で勝手な考え方をする心がある。
 満月をじっと眺めて心の毒を消す月輪観(ガチリンカン)という瞑想法がここに生まれた。
 月の〈清浄〉と一体になって貪りを離れる。
 月の〈清涼〉と一体になって瞋(イカ)りを離れる。
 月の〈光明〉と一体になって癡(オロ)かさを離れる。
 満月と入我我入(ニュウガガニュウ)する深い瞑想は、貪瞋痴(トンジンチ)という地獄へ導く害毒を消し去る。

4 完成されたものとの同化

 一般的に私たちは、悪い心を起こさぬよう〈モグラ叩き〉的な行動をとる。
 出てきたらやっつける。
 実際、昔は、そうした観点から家庭でも学校でも体罰が広く行われてきた。
 しかし〈叩く〉エネルギーは、生命力や、すなおな心のはたらきそのものをも損ないかねない。
 副作用の強すぎる薬を服用するようなものであり、いつ、〈元〉を断てるのかもわからない。
 だから、本来持っている善い心を積極的に掘り起こそうとする方法が探求されても来た。
 それが即身成仏(ソクシンジョウブツ)を目ざす上記した月輪観のような瞑想法である。

 私たちは一人残らず、み仏の子であり、仏性(ブッショウ)を魂の核としている。
 苦を生ずる要因は皆、月にかかる群雲のようなものである。
 しかも、いずれの雲にも実体がない。
 そして、雲がかかろうが晴れようが、月はいつも清浄で、清涼で、光明にあふれている。
 み仏も同じである。
 私たちが笑っている時も、泣いている時も、喜んでいる時も、起こっている時も、お地蔵様は、観音様は、文殊様は観ていてくださり、お不動様はいざという時に叱ってくださる。
 そして、お地蔵様も、観音様も、文殊様も、お不動様も、おられる場所は私たちの心中(シンチュウ)である。
 目の前のお地蔵様に〝ああ、ありがたい〟と思って手を合わせる時、手を合わせる私たちの心中のお地蔵様がおはたらきくださっているのだ。
 気づきは同化でもある。

5 お別れの言葉と生き仏

 あるご葬儀に際し、お孫さんがお祖父さんへ対して述べたお別れの言葉に文字どおり、目を見開かされた。
 その一部を掲載したい。
「2年ちょっとの闘病生活(入院生活)は辛いことの方が多かったかもしれないけれど、私達は、おじいちゃんが生きていてくれることだけで幸せでした。
 本当にありがとう。」

 これはおざなりの言い方ではない。
 それは締めくくりの文章でもわかる。
「今ごろは、ばあと天国で出会えていますか。
 つもりに積もった話をたくさんしてね。
 そして、2人の話の合間に私達を見守って下さい。
 今まで本当にありがとう!」

 幼い日のできごとがトラウマになり、祖父を憎み軽蔑し、祖父母を無視し、その記憶までほとんどなくしてしまった小生は、この問題が心に生じさせた氷塊をずっと意識してきた。
 氷塊は、自分だけにしか感じられない影響を与え続けてきた。
 冷たさが溶けないまま、ある種の欠陥人間として死ぬことを覚悟していた。
 しかし、すぐ目の前で少女が祖父へ呼びかけた言葉は、あまりにも温かかった。
 似たような言葉はこれまで幾度となく耳にしたはずだが、今回は今までにない明確さで心へ迫ってきた。
 心で涙が流れ、60年以上も居座った氷塊はついに溶け始めた。
 溶けて行く道の扉が開いた、道筋が見えてきた、溶かし切れるという確信が生まれた、そんな感じである。
 氷を認識し、砕こうとするハンマーの力ではなく、氷を持たない少女のまごころが、そこに在るだけでとてつもないパワーを発揮した。

 小生にとってあの少女は、同苦の心で寄りそい、慰め、励ます菩薩というよりも、圧倒的な霊光でまぎれもない仏界を示す如来なのかも知れない。
 姿を見ることのなかった少女は声だけで仏界を感得させた。
 生き仏である。合掌




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2016
05.07

信頼という宝もの ─死後の安心とは─

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〈人の目のないところで〉

 ある秋の午後、Aさんは「墓地のことについてお訊きしたい」と人生相談にやってこられた。 
 ごく普通の安定した職業に長いこと従事してきたAさんの質問は、いずれも勘所を外さぬものだった。
「私が亡くなったら、ご住職はどんなふうに戒名をつけてくださるのですか?」
「私が死後年忌供養を受けるのにはどういう意味があり、ご就職は何をしてくださるのですか?」
「ご住職は新聞などでご自身のご意見を明確にしておられますが、多少、意見の食い違う者もきちんと送っていただけるのですか?」
 舌を巻いた。
 短いやりとりの後、Aさんはその場で墓地の契約を申込み、つぶやかれた。
「ようやく見つかりました」
 かたわらの奥さんへ言う。
「おい、もう大丈夫だ」

 Aさんは「ゆかりびとの会」へ入会したが、それきりとんと顔を見せず、どうしておられるかなあと思い出すようになった頃、突然、訃報が届いた。
 メガネを外し、仰向けになったAさんの顔は、あの時と変わらず、穏やかだった。
 そして、口元は緩んでいない。
 違うのは神々しさをまとっておられることだけだ。
 無口で表情は動かないのに、周囲の空気が一種の明るさを漂わせている。
 自然に手が合わさった。

 Bさんは、居合の見学を申し込まれ、友人と二人でやってきた。
 まだ少女のような無邪気さを振りまきながら、熱心に質問された。
 み仏のご加護をいただく剣法というものに心底、驚いた様子だった。
 深い関心を持つ一方、二人とも、自分にはやれないという結論に達した旨を正直に言われた。
 そんなBさんは、お身内のご不幸に際してご主人と共に当山を選び、久方ぶりの再会となった。

 留守電で聞いたBさんの訃報は信じられなかった。
 明るくふるまっていたBさんは、人知れず闘病生活をしていたという。
 当山が発行する機関誌や新聞記事に欠かさず目を通し、ご主人や友人たちとあれこれ議論することが楽しみだった。
 お柩の中でBさんは微笑んでおられる。
 信じていますと語りかけてくるようで涙があふれそうになった。
 
 当山を信頼する方が逝かれたならば、信頼は永遠に託されたことになる。
 不動の信頼へ当山はどうお応えしてゆけばいいのか?
 どうお応えせねばならないのか?
 寺院の存在理由と価値が問われている。

 死を託す相手を選び、信頼して託すことは真の宗教行為である。
 託された死と死後に対して、信頼に恥じぬよう誠意を尽くすこともまた、真の宗教行為である。
 一行者、宗教者として、信頼を宝ものとして守り、死にたいと願う。
 あの世で、AさんやBさんと一緒に、信頼という宝ものが発する光に浴したい。




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2016
05.06

生かされている不思議 ─スマホの毒─

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〈伐られしものの肌は温かかった〉

 お大師様の聖語です。

如来(ニョライ)威神(イジン)の力を離るれば、十地(ジュッチ)の菩薩(ボサツ)もその境界(キョウガイ)にあらず、いわんや生死(ショウジ)の人(ニン)をや」


 意訳です。
如来(ニョライ)の持つ不思議なお力がなくなれば、高い位にある菩薩(ボサツ)といえども、その世界に安住することはできません。
 ましてや、生き死にの輪廻転生(リンネテンショウ)に迷う私たちはなおさらです。」

 私たちは、み仏の不思議なお力に守られていればこそ、日常生活をつつがなく送られます。
 もちろん、四苦八苦(シクハック)は否応なくやってきますが、それにしても、車を運転中に何百台の車とすれ違ってもぶつからないこと、切符を買って電車に乗れば目的地へ連れて行ってもらえること、コンビニのおにぎりできちんと空腹が満たされること、いずれも、考えてみれば〈自分の力〉の果たす役割は小さく、無限のよき縁が重なってこその現象です。
 他の車がぶつかってこない、電車が脱線せずに目的地へ行く、おにぎりに毒が入っていない、いずれも「ありがたい」というしかありません。

 もっとも、ここでは、そうした日常的な場面ではなく、決心して仏道を歩むという行為が、み仏のご加護なくしては行われ得ないという状況について述べています。
 み仏のご加護を「加(カ)」と言い、私たちがそれをいただいて救われることを「持(ジ)」と言い、合わせて加持になります。
 不安でたまらない方や体調不良の方、あるいは変なものに取り憑かれたような気がする方などが「ご加持」を受けにご来山されれば、加持法という特殊な修法を行いますが、加持が意味するものはそれだけではありません。
 上記のように、365日、24時間にわたってご加護をいただいているのが真実であり、それに気づく人は「ありがたい」という感謝と共に生きられます。
 実に、「加」も「持」も真実なのです。

 守本尊利益経は説きます。

「子年千手観世音菩薩、丑寅年虚空蔵菩薩、卯年文殊菩薩、辰巳年普賢菩薩、午年勢至菩薩、未申年大日如来、酉年不動明王、戌亥年阿弥陀如来となりて守り、
 月にては十二か月四季折々の物を授け守り、
 日は三百六十五日昼夜を見守り、
 時は一刻の休みなく八方天地十方世界を守る」


 今日は早朝からA家の出棺・火葬、B家のご葬儀、C家のお通夜と続き、寺へ戻る余裕がありません。
 この世での役割を終え、み仏の世界へ還って行く方々をお送りする者としては、死を想う気持が深まる一方です。
 また、死に待たれているがゆえに生が輝いているという真実も、深く、深く心に迫ってきます。
 私たちの生は文字どおり〈束の間〉です。
 ゆめゆめ、仇(アダ)やおろそかにすることはできません。
 偽り、ごまかし、放恣で過ごす時間の恐ろしさが実感されます。

 国立青少年教育振興機構の発表によれば、「スマホ熱中度」と「生活慣習の乱れ」には強い関連があります。
 熱中度の高い層は、朝食や歯磨きなどの基本的生活習慣が、薄い層の半分ほどしかできていません。
 恐ろしいではありませんか。
 もはやとっくに言い古されたことですが、人間が人間の発明したものによって支配され、が壊されつつあります。
 自然や生きものや人間の輝きが心の目に瑞々しく映っているか?
 自分の頭で、が感応するものへの意識を深めているか?
 スマホに取り憑かれ、自分の意識と人生の時間を奪われてはいないか?
 取り返しのつかないことにならぬよう、よくよく振り返ってみたいものです。

 私たちは、の世界の親であるみ仏に守られつつこの世を過ごす息子であり娘です。
 恩知らずや親不孝にならぬよう、生を充実させながら生きたいものです。




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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
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https://www.youtube.com/watch?v=IvMea3W6ZP0





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2016
05.05

5月の守本尊は普賢菩薩様です ─菩薩に救われる道─

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 5月5日から6月4日までは「立夏」と「小満」の皐月(サツキ)です。
 5月は巳(ミ)の月なので、守本尊普賢菩薩(フゲンボサツ)様です。

 普賢菩薩様は、『諸善解脱三昧智力(ショゼンゲダツサンマイチリキ)』という、苦を解決し心の平穏を保つ智慧をつかさどるみ仏です。
 煩悩(ボンノウ)は、自分を迷わせ、他から邪魔される魔ものを呼び込み、いざ何かをしようとする時に、思わぬ妨げとなります。
 正しい方法によって、煩悩を菩薩(ボサツ)の大欲(タイヨク)へ転換させ、自分と周囲を清め、よき運命の創造に障害となる魔ものを祓いましょう。

 また、普賢菩薩様は、辰己(タツ・ミ)年生まれの善男善女を一生お守りくださる守本尊でもあり、身体においては、主として腕や手をお守りくださいます。
 ご供養し、ご守護いただき、心豊かで無事安全に過ごしましょう。

 以下は、普賢菩薩様を讃歎する経文です。

普賢菩薩は三摩地(メイソウ)の○境地に入って大悲(ダイヒ)から○普(アマネ)く衆生(シュジョウ)の救済を○願い行う菩薩にて○その方便(ハタラキ)の究竟(モクテキ)は○衆生(シュジョウ)の利益(シアワセ)実現す○慈悲の心の実践に○あるを信じてこの菩薩○ただ誠心(ヒタスラ)に帰依(キエ)をして○己(オノレ)の罪障(ザイショウ)懺悔(サンゲ)して○菩提(サトリ)求める心持ち○普賢の真言誦持(ジュジ)すべし」


普賢菩薩は深い瞑想の境地へ入り、無限のお慈悲からすべての生きとし生けるものの救済を願い、実践するみ仏である。
 最高の手だてが目的とするところは救い漏れのない慈悲の実践にあることを信じ、普賢菩薩へまごころこめて帰依し、自分の罪科を懺悔して悟りを求める心になり、普賢菩薩の真言を唱えて離すことなかれ)

 普賢菩薩は行者の象徴です。
 お釈迦様が過去世において、行者として実践された修行の数々を説くジャータカは、シビ王だった時代の逸話を伝えています。
 王は、盲目のバラモンを救うため、「一切を知る智慧の眼は、肉眼の百倍も千倍も好ましい」と言いつつ医師に自分の眼球を取り出させ、バラモンへ与えました。
 小生も心眼の実話を聞いたことがあります。
 ある町の職人は仕事も信仰も熱心でした。
 やがて名声が上がり、知らぬ人のない名人となりました。
 しかし、中年にさしかかる頃、目の病気にかかり失明しました。
 仕事ができなくなり苦しみましたが、祈るうちにだんだんと心眼が開け、不思議にも、眼前に置かれた画の内容までわかるようになったそうです。

 行者である菩薩の行う実践は畢竟(ヒッキョウ)、生きとし生けるものへ楽を与え、その苦を抜く慈悲行です。
 凡夫も他のためになる慈悲心はありますが、菩薩とは〈差し出せるものの範囲〉が違います。
 我々凡夫は、自分のできないレベルまで行える菩薩を心から敬わないではいられません。
 自分の目を差し出すほどの菩薩に心うたれ、自分にはできないながらもその崇高さの前に己を投げ出し敬わないではいられないのです。
 これが帰依(キエ)です。
 帰依を表現する具体的な方法が合掌であり、真言を唱えることです。
 これで心も身体も言葉も菩薩へ一歩、近づけます。
 「おん さんまや さとばん」と唱えつつ普賢菩薩の境地をめざせば、やがては数々の穢れや過ちをまとったままの自分が、菩薩の境地を自分なりのレベルで感じとれる時が来るかも知れません。
 それが即身成仏(ソクシンジョウブツ)であり、感じとられ、生き方が変わった時、自分も菩薩に近づき、普賢菩薩の救済が現実のものとなるのです。

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 写真は、永代供養を行ってご加護を受けるため、当山の講堂へ納められた普賢菩薩様です。
 総丈は約35㎝あり、日本で唯一、護摩を焚いてできた灰が体内へ納められたご本尊様です。(奉納受付中)

 5月の守本尊様をご供養しお守りいただきたい時、願いを成就させたいと念じる時、つらい時、悲しい時、淋しい時、あるいは感謝したい時は、合掌して普賢菩薩様の真言(真実世界の言葉)を唱えましょう。
 たとえ一日一回の行でも、信じて行なえば、ご本尊様へ必ず思いが届きます。
 続けて行う回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。

普賢菩薩(フゲンボサツ)

「おん さんまや さとばん」

今月の真言をお聞きになるにはこちらをクリックしてください。音声が流れます

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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y





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