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2016
06.30

行者の精進、ご縁の方々の救い ─自利と利他に思う─

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広島の平和記念資料館にある被曝人形。もうすぐ撤去される予定だという。今のうちに、脳裏へ刻みつけておきたい。戦争が何であるか、原爆が何であるか。その身震いする実感が払拭された時、平和は言葉だけになってしまうことだろう〉

 27日から282日かけて、新幹線で東京へ行き、当日夜そのまま広島へ、そして翌日、平和記念公園へ出向き、同じく新幹線で帰山した。
 片道約6時間、往復12時間は得難い時間となった。
 大正大学仏教学科編による「仏教とは何か その思想を検証する」が通読できた。
 ほとんど知っていたはずの思想史の基礎だが、今回、集中して読んでみたところ、思いもよらない発見があった。

 あまりにもあたりまえだが、お釈迦様が得られた一切智(イッサイチ)は深遠にして広大であること。
 そして、祖師となられた方々は皆、自分自身が納得を得た後、娑婆の方々の救済法に工夫をこらしたことである。
 これもまた当然だが、プロは娑婆の方々のお支えにより、非生産的日々で道を探求するが、娑婆の方々はそうはゆかない。
 しかし、はたらき、家族を養い、家庭とお墓を守るといった普通の日常生活をして営んでいる方々が救われなければ、宗教の価値はない。
 だから祖師方は、呻きつつ自らの問題に挑み、高度な修行を続けて何かをつかんだ後、今度は、娑婆の方々が自分と同じように救われる方法の発見へ挑まねばならなかった。

 自利(ジリ)、利他(リタ)と簡単に言うが、自らが苦悩を脱する自利の道はもちろん、真剣に考えた利他の道もまた、イバラの道だった。
 しかし、どの道もすべての手がかりは経典にあり、お釈迦様が実際に悟られた境地への憧憬が不退転のエネルギーをもたらした。
 インド仏教の完成形であり、インドにおける〈最後の仏教〉となった密教においてもまた、自利のための修行・修法が高度化したため、利他の方法もまた深く考慮されてきた。
 それは、お釈迦様が終生、続けられた対機説法(タイキセッポウ…相手に応じた説き方)の伝統によって、役割を果たすことである。
 マンダラの思想をふまえ、小乗仏教、大乗仏教すべてを学び、他の宗教宗派と一切、争わずそれぞれのレベルを尊重する密教においては、相手を尊重し相手に合わせることは極めて自然な姿勢である。

 象徴的な例が、淳和天皇(ジュンナテンノウ)の第四妃となった真井御前(マナイゴゼン)の逸話である。
 御前は過酷な宮中の人間関係に耐えられず、西宮の摩尼峰に神呪寺を立てて出家し、如意尼(ニョイニ)となった。
 お大師様を深く信じ、伝授された高度な修行を重ねたが、なかなか悟りへ達しない。
 苦悩する如意尼のため、お大師様は桜の樹で如意輪観音(ニョイリンカンノン)像を彫り、真言の読誦を指導された。
 やがて病気になった如意尼は、お大師様が入定(ニュウジョウ…瞑想に入ったままこの世を去ること)される前日、高野山へ向かい、真言を唱えながら遷化(センゲ)した。

 このできごとは、実に大きな意味を持っている。
 広大な修行や修法の体系はプロにとって死ぬまで探求せねばならないものだが、寺院へ救いを求める方にとっては、その方が救われる実戦可能な方法が授かるかどうかがすべてである。
 その方に応じた方法や考え方を選び、お伝えすることができるかどうか。
 行者が本ものであるかどうかが、ここで問われる。
 祈りはすべて身体と言葉と心が用いられるとは言え、如意尼の場合は、唱える言葉への集中が霧を払う突破口になった。
 隠形流(オンギョウリュウ)居合の場合には、剣を持ち身体を大きく動かしながらご本尊様の印を作るところに突破口を求める。
 気合術では、言葉への集中が主である。
 そして阿字観(アジカン)は、観想という心の用い方を主とする突破口と言える。

 行者は、自分が何らかの方法で突破口を開いたように、ご縁の方々が先へ進めるよう、全力を尽くす。
 また、自分自身ではなかなか実践できない方々のために、その方に成り代わってご加護をいただけるよう、ご祈祷やご加持やご供養などを行う。
 ご本尊様がおられる寺院には救いのきっかけがある。
 何かを感じとっただけでもいい。
 そして、ご本尊様をお祀りする寺院のミニチュア版であるお仏壇にもまた、救いのきっかけがある。
 ご本尊様に守られた墓地や墓所にもまた、救いのきっかけが見つかることだろう。
 信じて手を合わせ、足を運んでいただきたい。
 



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA





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2016
06.30

7月の行事予定 ─例祭・書道教室・寺子屋・居合─

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〈広島平和記念公園の遭難横死者慰霊供養塔。訪れる人の影もない〉

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〈公園内を足早に行くネコ。全身から警戒心が滲み出ている〉

 平成28年7月の行事予定です。

[第一例祭] 2016/7/3(日)

 今月の守本尊である大日如来(ダイニチニョライ)様のわかりやすい経典や真言などを読誦してご加護をいただきましょう。
 護摩の火に守られ、太鼓の音と共に般若心経をお唱えすると心身がリフレッシュされますよ。
 参加は自由です。
 願い事を書く護摩木は一本300円です。
・送迎申込 開始30分前に地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡ください。

[書道・写経教室] 2016/7/3(日)午後2:00~午後3:30

 髙橋香温先生の熱意と誠意を感じられる貴重な時間です。
 書道の基本を学び、100文字の写経も行います。
 イス席もありますので、お気軽にご参加ください。
・場  所  大師山法楽寺
・指  導  書道師範高橋香温(温子)先生
・ご志納金 1000円(未成年者500円)
(毎月第一日曜日午後2時から開催します)
・送迎申込 開始30分前に地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。

[第七十七回寺子屋『法楽館』 ―これからの生き方について─] 2016/7月9日(土)

 今月は、当山の開基二十周年を記念して、講演会を行います。
 東日本大震災から五年が経ちました。
 大自然と原発事故の凄まじい破壊力によって立ち止まらせられた私たちは、その後、できごとをどうとらえ、私たち自身の生き方をどう考えてきたでしょうか?
・時  間 13時~15時(開場12時30分)
・場  所 日立システムズホール仙台
・コーディネーター 白鳥則郎様(東北大学名誉教授)
・講  師 山内明美様(大正大学人間学部准教授)
      渡辺祥子様(アナウンサー・朗読家)
      遠藤龍地(法楽寺住職)
・ご志納金 無料
※お問い合わせが相次いでおりますので、どうぞお早めにおでかけください。

[第二例祭] 2016/7/16(土)午後2:00~3:00

 今月の守本尊である普賢菩薩様のわかりやすい経典や真言などを読誦してご加護をいただきましょう。
 護摩の火に守られ、太鼓の音と共に般若心経をお唱えすると心身がリフレッシュされますよ。
 参加は自由です。
 願い事を書く護摩木は一本300円です。
・場  所 大師山法楽寺
・送迎申込 開始30分前に地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡ください。

[第三回瞑想会『新法楽塾』] 2016/7/20(水)午後2:00~3:00

 土日以外の日に瞑想を行いたいというご希望があり、平日の午前中に設定しました。
 阿字観(アジカン)を中心として行いますので、関心のある方はどうぞおでかけください。
・場  所 当山講堂(イス席もあります)
・参加費 千円 中学生以下五百円
・送迎申込 開始30分前に地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡ください。

[機関誌『法楽』の作製] 2016/7/25(月)午前9:00~

 講堂にて、機関誌『法楽』を作り、機関紙『ゆかりびと』と共に発送しますので、ご協力をお願いします。
『実語教・童子教』も共に学びましょう。
 おかげさまにて、『法楽』は第319号、『ゆかりびと』は第182号となります。
・場  所 大師山法楽寺

[お焚きあげ] 2016/7/30(土)午前10:00~10:30

 最終土曜日、お不動様の前で「供養会」を行い、「お焚きあげ」を行います。
 人形や手紙や写真や時計、あるいは御守や御札や仏壇や神棚など、燃えるものも、燃えないものも大丈夫です。
 一緒にお不動様のお経を読み、真言を唱えましょう。
※お焚きあげをご希望の方は、必ず電話などで日時を連絡の上、お品をご持参、あるいはお送りください。
 当日とは限らず、いつでも結構です。

[隠形流(オンギョウリュウ)居合道場]

 仏法に生きる身と心をつくるために行います。 
 九字を切り、守本尊様のご加護をいただく密教独自の剣法です。
 高齢者の方々や女性が多く、厳しいながらも和気藹々(ワキアイアイ)と稽古しています。
 入門ご希望の方は、事前に連絡の上、まず、見学してください。
・日  時 毎週金曜日 午後6:00~8:00
・場  所 日立システムズホール仙台(29日のみ旭ヶ丘市民センター)




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2016
06.29

広島の被曝人形と原爆供養塔を訪ねて

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原爆供養塔

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被曝人形

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〈この人形が私たちの目に触れてはならない理由などあろうか?〉

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〈いったい、誰が、なぜ、この人形を撤去したいと望んでいるのだろう?〉

 広島平和記念公園を訪ねた。
 目的は二つ、被曝者を立体的に描いた被曝人形を観ることと、原爆供養塔で供養すること。
 6月27日、東京での講習を終え、4時間後の午後9時前に広島市文化交流会館へ入った。
 小雨の中を飛ばすタクシーの運転手は「明日は大雨」と言う。

 覚悟して目覚めた翌朝の6時過ぎ、NHK『おはよう日本』は、写真家山口友香氏が妊婦のお腹を撮っていると報じた。
 お宮参りなどの家族写真を撮っていた氏は5年前、胎盤早期剝離で初産の子供を亡くし、一旦、カメラを置いた。
 しかし、その後、長男の出産に伴い、「命がけで産むことの尊さを伝えたい」と思うようになった。
 101人の妊婦のお腹を撮り、写真集を出版するのが目標だ。

 氏は被写体となる女性に対して毎回、決まった所作を行う。
 自分の体験を話す。
 死産という最悪の事態もあり得る過程をたどって生まれ、育つ生命の尊さを想って欲しい。
 出産、成長は決して、誰にでも与えられたあたりまえの幸せではないのだ。

 この番組は、小生の広島行きを象徴していた。
 被曝人形の世界をリアルに想像できてこそ、戦争や原爆が何であるかが理解でき、それらのない世界のありがたさもまた、実感できるはずだ。
 子供が唄い、ハトが飛び、善意の人々が祈る〈平和な光景〉だけでは、平和への強い希求は起こらないだろう。
 戦争と原爆への強い忌避もまた、望めないのではないか。

 カーテンを開けると曇り空だった。
 テレビは雨を告げている。
 7時の朝食もそこそこに、公園へ向かった。
 幸い、まだ、降ってはいない。

 平和記念資料館の開館は午前8時30分、まず、原爆ドームへ向かう。
 天気予報のせいか、早いせいか、通勤、通学、散歩、掃除などの人々ばかりだ。
 ドームは川の向こうにあった。
 若い白人の数人が眺め、写真を撮っている。

 周囲はビル、整備された道路、行き交う車、歩く人々、そして、ポツンと取り残された時代の残骸。
 ヘルメット姿の人が一人、屋根の近くで作業をしている。
 補修工事なのだろうか。
 ドームはまるで、ベッドに横たわり、介護を受けるお年寄りのようだ。

 不意に空が明るくなったような気がした途端、川面が輝いた。
 しかし、あの時、人々はそこで水を求め、そこで溺れ、力尽き、そこに折り重なって死んだのではなかったか。
 絶えずに行く川の水が、お骨の一片をも流し去ってしまえば、もう、そこは〈死の場所〉ではなくなるのか。
 光明真言を唱え終わってふと、身近に気配を感じて左を向くと、青いポロシャツに半ズボン姿の白人青年がカメラを手に立っていた。

 互いに存在を意識しつつも、視線を合わせず、言葉も交わさず、軽い会釈ですれ違った。
 曇ってきた。
 被曝供養塔はどこだろう。
 見回すと樹木の間から角塔婆の一部が見えた。

 小さな五輪の塔が載った遭難横死者慰霊供養塔だった。
 導かれるように足を運ぶと、その南側に原爆供養塔は、まるで太古の時代から在ったかのように在った。
 納骨堂の入り口には白いペンキが塗られている。
 南側へ回って拝した納骨塚は当山の「自然墓」のイメージそのもので、深く納得できた。

 供養していると、修学旅行の中学生らしい子供たちが数人、やってきた。
 塚の右手、離れたところに、さして大きくもない説明書きがあるにはあるが、子供たちは「昔のお墓かしら」などと言い合っている。
「そうだよ。この塚の下にはお骨がたくさん納めされているんだよ」と教えたら、熱心に聞いていた女の子が2人、合掌した。
 他の女の子3人もならって合掌したが、数人の男の子たちは、さしたる関心も示さず、ブラブラと去った。

 原爆死没者慰霊碑のあたりには男性1人、女性3人、献花の後始末などを行っている。
 小さな慰霊碑の碑文「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」を眼にした心は「無念!」と叫んでいた。
 文章は知っていたが、いくら歯を食いしばっても涙を抑えられない。
 インド人法学者パール博士の言葉「原爆を落としたのは日本人ではない。落としたアメリカ人の手は、まだ清められていない」と言った意味が痛感された。
 
 広島市の公式見解は「碑文はすべての人びとが、原爆犠牲者の冥福を祈り、戦争という過ちを再び繰り返さないことを誓う言葉である」となっている。
 文章がそう読めることも、歴史的経緯があるこの碑文を生かすためにはそう読むしかないこともわかる。
 それでもなお、小生の魂は何かと強く共鳴し「無念」が渦巻いている。
 御霊の方々へ深く詫びた。

 さっきのグループに似た子供たちがやってきて、またもや女の子が2人、「わあ、読めない」と言い合っている。
 読んでやったが、説明はしない。
 顔を見合わせて深刻そうな表情になり、小さく合掌した。
 丹念に掃除をしている人々へ小さな声で「ご苦労様です」と声をかけたら、男性だけが「はい」と応えた。

 厚い雲の下でいろいろ観め、拝し、資料館へ向かった。
 身なりを整えた年配の衛視が中へ案内してくれた。
 東館は改装中とて、目的の展示物は二階建ての西館入り口にあるという。
 廊下正面にあるキノコ雲を見ながら右へ曲がると、視界が赤くなった。

 劫火にあぶり出された人は、立っているものの、皮膚は溶けかけている。
 開いた眼は何を見ているのか。
 どこへ歩もうとしているのか。
 生きつつ死んでいる生き地獄だ。

 この被曝人形を撤去する広島市の公式見解である。
「凄惨な被爆の惨状を伝える資料については基本的にありのままで見ていただくべきという方針の下、この度被爆再現人形を撤去することとしたものであり、見た目が恐ろしい、怖いなどの残虐な印象を与えることなどを懸念して撤去するものではありません。
「被爆再現人形は、非常に印象に残り、当時の情景を伝えているという展示だというご意見があります。
 しかし、一方で被爆者の方は、無残な遺体がたくさんあり、男女の区別さえつかず、親子でさえ見分けることができない情景を体験されています。
 そうした状況からは、被爆再現人形に対して『原爆被害の凄惨な情景はこんなものではなかった。もっと悲惨だった』といったご意見もあります。
 展示をご覧になられる方の見方によっては、原爆被害の実態を実際よりも軽く受け止められかねません。
 来館された全ての方々に悲惨な被爆の実相を現実に起こった事実として受け止めていただき、こうした惨劇を今後二度と繰り返してはならないという思いを心に刻んでいただきたいと考えており、そのためにも誰が観覧しても個々人の主観や価値観に左右されない実物資料の展示が重要と考えております。」

 30分程、3体の被曝者を眺め、それから館内すべての展示物を見た。
 確かに、破れた衣服や止まった時計の現物、あるいはケロイドの皮膚や焦げた爪など、そして破壊された光景の写真。
 それらの〈資料〉のどれよりも、〈現場〉を如実に物語っているのが立体の人形であると断言できる。
 駅へ向かうタクシーの運転手は白髪で穏やかなもの言いをする方だったので、訊ねてみた。

「人形が撤去されるそうですが、被曝者の方で、あれは惨たらしいから見たくない、あるいは、撤去して欲しい、などのご意見はあるのですか?」
 彼は口調を変えて断言した。
「そんな人は1人もいないはずです。私たちも撤去理由は理解できません」
 各種のアンケート調査では、撤去反対が圧倒的であるという。

 原爆供養塔被曝人形は、老行者の最後の仕事に大きな力を与えてくれた。合掌




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
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2016
06.28

供養は心の昇華作用 ─7月の聖語─

 お大師様の聖語です。

「法界は惣(ソウ)じてこれ四恩(シオン)なり。
 六道(ロクドウ)、誰か仏子(ブッシ)にあらざらん。
 怨親(オンシン)を簡(エラ)ばず、悉(コトゴト)く本覚(ホンガク)の自性(ジショウ)に帰(キ)せしめん」


 意訳です。

(この世のすべては、すべて、親の恩、生きものの恩、国家社会の恩、仏法僧の恩によらないものはない。
 地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天、いずれの世界にあるものも、すべて御仏の子として、悟りを開き苦を脱する可能性を持っている。
 怨んでいたり、親しんでいたりする関係にとらわれず、すべてのものを、元々み仏であることに気づかせ、その本当の姿を明らかにさせたい)

 この世は〈おかげさま〉の力で成り立っています。
 生まれ出るのは親の恩、飲み食いする食糧も生きられる環境も生きとし生けるものの恩、日常生活の安全・安心は国家社会を司る人々の恩、そして、人がまっとうに生きられるのは、み仏と教えとそれを守り伝える人々の恩によります。
 私たちは古来、こうした目に見えない恩恵をひっくるめて「おかげさま」と言い習わしてきました。
 そもそも、生きとし生けるもので〈み仏の子〉でないものはありません。
 だから、権力や財産などを持っていたり、善行に励んでいたりする人だけが成仏できるというわけでなく、貧しく、虐げられているものや悪業を積むものが特に強い救済力を受けるわけでもありません。
 み仏の慈眼から見れば、よい子も、問題のある子も、等しく我が子なのです。
 お大師様は、そうした立場に立って、ご供養しようと願われました。

 ちなみに、供養の心は、どのような形でも起こります。
 太平洋戦争に敗れた後の昭和29年、定時制高校の卒業記念誌に矢敷喜一が「お父さん」という文章を書きました。
 誰にも最期か確認されず、遺骨すら戻らない南方の激戦地に眠る父親を想って綴られたものです。
 以下、澤地久枝著『昭和・遠い日 近いひと』から転載します。

「……お父さんの眠られたアッツ島では今寒い北風の冬でしょう。
 お父さんの遺骨も早く故郷の土にお埋めしたいのですが実情が許しません。
(略)
 映画〔「風雪の二十年」〕の主人公は片脚になっても帰って来ましたが、お父さんはもう帰れないのですね。
 脚も両方とも無くなってしまったのですか?
 心だけでも帰って下さって私の胸におさまって下さい。
 どうも私一人では何事につけ寂しいですから。
(略)
 北風の孤島に漂える、
 よ。
 朽ちたる古船の如く、
 怒濤の中に、
 浮き沈みするよ。
 宿い寄る岩さえ遠し、
 呼ぶに迷える父のみたまよ」


 心で合掌しつつ書かれた文章は、矢敷喜一の思いを表して余りあると言えましょう。
 合掌は身体の形。
 文章は溢れ出た言葉。
 呼びかける思いは心の叫び。
 身口意がみ仏になっています。
 自分が生き仏になれば、そのこと自体が立派な供養です。
 この心を持って世の中を眺めれば、さまざまなものが供養の対象としてたち顕れます。
 供養は、いつでも、どこでも、何もなくても可能な心の昇華作用なのです。




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2016
06.27

ワンちゃんの見事な最期 ─涙と覚悟と─

2016-06-27-0004一心
ペット供養墓『一心』〉

 当山には、ペットのご葬儀やご供養に訪れる方が絶えない。
 ペットは文字どおり家族である。

 Aさんの飼い犬B君が逝った。

 Aさん宅には種類の違うC君もおり、C君は弱ったB君の介護をしていた。
 C君はいつもB君のそばで見守り、B君が変な声で鳴くと、たちまちAさんのもとへ飛んでいってけたたましく吠え、異変を知らせる。
 散歩から帰るとまっすぐにB君の様子を見に行く。

 こんなC君はB君が死んだ時、今まで見たこともないほどいっぱいの涙を両眼に湛えた。
〝──ああ、イヌも泣くんだ〟
 Aさんはびっくりし、打たれた。
 C君は、亡きB君が寝ていた場所から離れない。
 いつもAさんのベッドへ入っていたのに、亡くなった夜は,ついにその場から動かなかった。
 翌日、夜になり、ベッドへ連れてきてよくよく言い聞かせたところ、一声鳴いて〈あの場所〉へ走ったが、すぐにベッドへUターンし、その夜から普段通りの生活になった。

 B君は動けなくなっても、「頑張るんだよ」と声をかけ続けるAさんとC君の介護を受けて,しっかり食べていた。
 しかし、ある時、闘病生活を哀れんだAさんが、「もう頑張らなくてもいいんだよ」と静かに声をかけたら、まもなく飲まず食わずになり、3日後に亡くなった。
 Aさんは言う。
「見事な最期でした」




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2016
06.27

新月からの修行 ─16日間の心(その2)─

Category: 瞑想講座
 新月から満月までの16日にわたって心の修行をしましょう。

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○第三日…阿閦如来(アシュクニョライ)の世界

 金剛愛菩薩(コンゴウアイボサツ)のお姿を胸に引き入れ、その徳を思い、真言を唱えましょう。
 この方は、愛すなわち貪欲のパワーを清浄なはたらきとして発揮し、まっとうに生きる意欲を失っている衆生を愛の矢で目覚めさせます。
 私たちを迷わせる貪り、怒り、愚かさという煩悩(ボンノウ)は、その本源を見極めれば、菩提心(ボダイシン…悟りを求める心)のはたらきと変わりありません。
 いのちと心のパワーが迷って出ていれば煩悩(ボンノウ)であり、迷いから離れれば菩提心(ボダイシン)です。
 このことを煩悩即菩提(ボンノウソクボダイ)と言います。
 だから、衆生(シュジョウ)を菩提心(ボダイシン)に愛着させる愛染明王(アイゼンミョウオウ)と同体とされています。

 真言は「オン バザラアラギャ コク」です。

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○第四日…阿閦如来(アシュクニョライ)の世界

 金剛喜菩薩(コンゴウキボサツ)のお姿を胸に引き入れ、その徳を思い、真言を唱えましょう。
 この方は、大いなる慈悲心に伴う喜びを境地とし、悟りを開いた方々へ讃歌を捧げます。
 また、すべての衆生へ等しく喜びと安楽と満足を与えます。
 指を弾く弾指(タンジ)の印を結び、一回目のパチンは、讃歌をもたらすご挨拶、二回目は、定(ジョウ…瞑想状態)へ入っておられるみ仏を驚かせ立ち上がっていただく合図、そして三回目は、行者が道場へ入らせていただくお願いです。

 真言は「オン バザラサト サク」です。

 東におられる阿閦如来をとりまく4尊が終わり、次は、南におられる宝生如来(ホウショウニョライ)をとりまく4尊の観想に移ります。

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〈成身会(ジョウジンエ)マンダラのうち、下の円から向かって左の円の中におられる菩薩様へ移ります〉

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○第五日…宝生如来(ホウショウニョライ)の世界

 金剛宝菩薩(コンゴウホウボサツ)のお姿を胸に引き入れ、その徳を思い、真言を唱えましょう。
 この方は、すべての衆生を安心の境地へ引き入れる宝珠を持ち、その功徳が広く行き渡るように施す与願印(ヨガンイン)を結びます。
 光輝く宝珠と、「どうぞ」と手向ける印のセットは虚空蔵菩薩と同じスタイルなので、虚空蔵菩薩と同体であるとみなされます。
 真言の最後にある「オン」は、あらゆるものが妨げ合わないで存在するありようが、虚空と同じであることを意味しています。
 また、「オン」は、ダラニを唱える際に最初の言葉となるので、その聖性から、ダラニの母ともされています。
 オウム真理教などは、そのパワーを勝手に使い、曲がってしまった例です。

 真言は「オン バザラアラタンノウ オン」です。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=rWEjdVZChl0





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2016
06.26

第七十七回寺子屋『法楽館』のご案内 ─これからの生き方をたずねて─

 第七十七回寺子屋法楽館』は、当山開基20周年を記念した講演会「これからの生き方をたずねて」となります。
 以下のとおりです。
 どうぞお気軽にお出かけください。
 なお、6月26日付の河北新報「適少社会」の欄に、講師をお願いしている山内明美先生(南三陸町出身)のご意見が掲載されています。
 それ行けどんどん、の効かなくなった現実、時代、世界にしっかり向き合い、地に足の着いた生き方を考えようではありませんか。

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 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
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「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2016
06.26

ある心中事件・不透明な未来 ─さいたまの家族と、つげ義春著「無能の人」─

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〈「おらも連れてってくれえ」という叫びは、紙面から聞こえてきたような気がした〉

 6月23日、さいたま地裁は、昨年11月に両親を溺死させた罪で、波方敦子被告(47才)へ懲役4年の実刑判決をくだした。
 以下、産経新聞の報道である。

「母は認知症、一家を養ってきた父も病気に倒れ、生活保護を申請しながら一家心中の道を選んだ3人家族。」

「波方被告は姉2人が家を出た後、父母と3人で暮らしていた。

 高校中退後にいくつかの仕事をしたが、『仕事中に人の目が気になった』と退職した。
 事件当時は無職。
 退職後は両親のもとで暮らしたが、母は平成15年ごろから認知症とパーキンソン病を患うようになった。
 波方被告は母の介護を献身的に行っていたという。
 母の介護について波方被告は『母のことは大好きだったし、大変だとは思わなかった』と振り返っている。

 父は波方被告が幼いころに一度蒸発したが、約20年前から再び3人で暮らすようになった。
 それからは、真面目に新聞配達の仕事をこなし、月収は約18万円と決して多くはなかったが、時にはドライブに行ったりと3人での生活を楽しんでいたという。」


 しかし、はたらいていた父親が、頸椎圧迫による手足のしびれなどによってバイクに乗れなくなったばかりでなく、ついには歩くことすらできなくなり、11月末には手術が予定されていた。
 被告は言う。

「かわいそうだなと思ったし、父本人も『惨めだ』と感じていると思っていた。」


 11月17日、被告は生活保護を受けようと深谷市役所へ足を運んだが、その翌日、父親は心中を切り出した。

「あっちゃん、一緒に死んでくれるか」


 やがて、受給審査のために訪れた職員へ自分の人生を語った被告は、惨めさに、心中の実行を急いだ。

「仕事を転々として、高校も中退で惨めだと思ったけど、父も同じような感じで。
 親子で似たような人生だと、また惨めに思った」


 2日後の21日、車で突っこんだ利根川は浅く、水没しなかった。
 

「車は押しても進まず、波方被告は車内で水に浮かんだ状態の父母を車の窓から出した。

 右手に父、左手に母の服をつかむと、水深が深い方へと進んでいった。
『死んじゃうよ、死んじゃうよ』と言いながら手足をばたつかせる母に『ごめんね、ごめんね』と繰り返し謝った。
 いつのまにか父の服から手が離れ、母も動かなくなった。

『死んじゃったかな。私もこのまま流れにそって浮いていれば死ぬかな』と流れに身を任せた。
 川の水を飲んでははき出し、浮き沈みを繰り返していると、浅瀬にたどり着いていた。
 それからは、一緒に流れ着いた母の遺体が離れていかないように見守りながら、空を眺めたり、歌を歌ったり、うたた寝をして夜を明かしたという。」


 唄ったことに不謹慎と思う方もおられるはずだが、きっと、もう、何かが〈抜けた〉状態だったのだろう。
 

「法廷では、波方被告は被告人質問で『本当は3人で死にたかった』と繰り返し、『でも父を証言台に立たせることにならずに良かった。そんな残酷なことはない』と嗚咽をもらす場面があった。」


 父親は、貧しくとも気位を失わない人だったのではないか。
 死の選択はきっと、辛さからではないだろう。
 憂き世の辛さなどはもう、とっくに味わい尽くしていたはずだ。
 はたらけなくなり、もうこれまで、と覚悟したに違いない。

「6月21日の論告求刑公判では、最後に涙を流しながら『母と私はうり二つの親子。そこに父も入れて三位一体だと思っていた』『お父さん、お母さん。こんな私ですが、これからもどうか見守っていてください』と絞り出すように話した波方被告。」


 今どき、母娘が「うり二つ」あるいは、親子三人が「三位一体」と言い切れる家族など、どこにいようか?
 探してもなかなか見つけられない花が、人知れず咲いていた。
 生を諦めねばならない家族が咲かせた希有な花は、あまりに脆かった。
 しかし、心中を決意し、実行したことは、家族として生きた三人の揺るがぬ強さを示しているのかも知れない。
 この先の日本では、こうした〈家族〉が増えることだろう。
 人は満たされればバラバラになり、追いつめられれば結束する存在なのだろうか?

 約30年前、マンガ家つげ義春氏は、『無能の人』シリーズを書いた。
 登場人物は当時の社会からずれていたものの、真実を生きていた。
 そうした人々を遥か遠い時代と感じながら、なぜか、未来の登場人物でもあるような感覚を訝(イブカ)しがりながら読んだ記憶がある。
 決して輝きはしないが壊されもしない哀しい真実は、明らかに自分が失いつつあるという事実を突きつけられ、うろたえもした。

 子や孫の未来は茫漠(ボウバク)として霧の中にある。




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「おん あらはしゃのう」
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2016
06.25

新月からの修行 ─16日間の心─

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 新月から満月までの16日間にわたって瞑想修行をしませんか。

 私たちが霊性そのものになれば、円満して欠けるところのない大日如来の心になれます。
 生き仏になるのです。
 しかし、簡単にはそうなれません。

 さまざまな行者、聖者が思考と修行を重ね、感得した経典が『金剛頂経(コンゴウチョウキョウ)』と『大日経(ダイニチキョウ)』です。
 今回は、この『金剛頂経(コンゴウチョウキョウ)』にもとづいて表された金剛界マンダラの中心にある「成身会(ジョウジンエ)」というマンダラに描かれた菩薩(ボサツ)様方に導かれて円満な心をつくる修行法を公開します。

 完成された智慧を表す成身会(ジョウジンエ)の中心には大日如来がおられ、その四方に阿閦如来(アシュクニョライ)、宝生如来(ホウショウニョライ)、無料寿如来(ムリョウジュニョライ)、不空成就如来(フクウジョウジュニョライ)がおられます。
 4尊は、大日如来の智慧を4つの方面から、私たちにわかりやすく示しておられます。

1 阿閦如来(アシュクニョライ)は、大円境智(ダイエンキョウチ)を示します。
 これは、モノが鏡に映るように、ありのままに観る智慧であり、これがあってこそ、私たちの生活は成り立ちます。
 真理・真実にそぐわない勝手なものの見方を離れ、よき願いを持ちたいものです。

2 宝生如来(ホウショウニョライ)は、平等性智(ビョウドウショウチ)を示します。
 これは、人間もネコもスズメも、それぞれに存在していることは平等であると観る智慧であり、ここからあらゆる創造が可能になります。
 自己中心的でなく、自分をも含めて客観的に広く眺める視点を持ちたいものです。

3 無料寿如来(ムリョウジュニョライ)は、妙観察智(ミョウカンザツチ)を示します。
 これは、それぞれのものがそれぞれなりに独自のありようで存在していることを観る智慧であり、ここに活きたコミュニケーションが生まれます。
 苦しみや楽しみのさまざまなありようを眺め、生きとし生けるものへ慈悲をもって接したいものです。

4 不空成就如来(フクウジョウジュニョライ)は、成所作智(ジョウショサチ)を示します。
 これは、あらゆるものがそれぞれ固有のはたらきを持って存在していることを観る智慧であり、ここからあるべき行動が導き出されます。
 生きとし生けるものが尊い役割を果たしていることを理解できれば、自分にも自分なりの他に代えがたい役割があると気づくことでしょう。

 この4尊それぞれが、私たちの心に感得しやすい四菩薩(ボサツ)を生じさせてくださいます。
 だから、私たちが4×4の16菩薩(ボサツ)に成りきれれば、大日如来の智慧に近づくことができます。
 以下、1、2、3、4それぞれの如来様の智慧をつくる修行に入りますが、月の満ち欠けと現在、一般的に使われている暦の日付とがずれていることを承知しておいてください。
 今の暦は太陽暦であり、太陽の運行に合わせているので、ずれが生じるのはやむを得ません。
 新月の日をもってスタートし、月が満ちて行くように、円満な智慧を獲得しましょう。
 ちなみに、次の新月は7月4日の20時1分( 中央標準時)です。

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○第一日…阿閦如来(アシュクニョライ)の世界

 金剛薩捶(コンゴウサッタ)のお姿を胸に引き入れ、その徳を思い、真言を唱えましょう。
 この方は、金剛のように堅固な菩提心(ボダイシン…悟りを求める心)を持ち、普賢菩薩(フゲンボサツ)と同体であると見なされています。
 大日如来の説法を聴き、私たちへ伝えてくださる使者の役割を果たしておられます。
 右手に持つ金剛杵(コンゴウショ)は如来の智慧を表し、左手に持つ金剛鈴(コンゴウレイ)は、私たちの迷妄に気づかせ、まっとうに生きようという心を起こさせます。
 菩薩(ボサツ)の「五大願」を発しましょう。
 
 衆生無邊誓願度(シュジョウムヘンセイガンド)…生きとし生けるものは無限にいますが、誓って救います。
 福智無邊誓願集(フクチムヘンセイガンシュウ)…福徳と智慧は無限にありますが、衆生のために誓って集めます。
 法門無邊誓願覺(ホウモンムヘンセイガンガク)…み仏の教えは無限の量ですが、誓って学びます。
 如来無邊誓願事(ニョライムヘンセイガンジ)…み仏は無限におられますが、誓ってお仕えします。
 菩提無上誓願證(ボダイムジョウセイガンショウ)…み仏の悟りは無限の高みにありますが、誓って体得します。

 真言は「オン バザラサトバ アク」です。

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○第二日…阿閦如来(アシュクニョライ)の世界

 金剛王菩薩(コンゴウオウボサツ)のお姿を胸に引き入れ、その徳を思い、真言を唱えましょう。
 この方は、一切の如来を引き寄せる力を持っているために、自利行を自在にできます。
 衆生へ利益を自在に与えられるので、利他のために衆生を引き寄せることも自在にできます。
 だから、鉤(カギ)のように引き寄せる形の印を結びます。
 衆生を仏道へ引き入れるための善行である「四摂事(シショウジ)」を誓願しましょう。

 布施(フセ)…教えを与え、物資を与える。
 愛語(アイゴ)…思いやりのある言葉をかける。
 利行(リギョウ)…身体と言葉と心を用いて衆生へ利益をもたらす。
 同事(ドウジ)…相手と同じ立場に立って利益をもたらす。

 真言は「オン バザラアランジャ ジャク」です。




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2016
06.24

一人になって ─苦も楽も─

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 Aさんは、ご主人が最期を迎えた時、病室にいた。
 看病に疲れ、ウトウトしてしているうちにご主人の容体が急変した。
 すぐにナースコールを押したが、まもなくご主人は息を引き取った。
 混乱したAさんは、夫の死を自分のせいだと思い込み、心が塞り、冷えていった。

 Aさんのご心痛は、いくばくか理解できた。
 小生も義父の病室に泊まり込み、ナースコールが一瞬、遅れたという意識を持っている。
 無言の言葉は確かに交わし得たし、その眼差しも忘れてはいない。
 告げられた言葉を「受けとめました」という小生の答が届いていたと信じて疑わないが、それでもなお、遅れたのではないかという慚愧の思い、罪悪感といったものは何十年経とうと、消え去らない。

 幾度か、来山したい旨の電話があったが来山されず、そのまま、連絡の間隔が長くなった。
 やがて、睡眠中にご主人が重く覆いかぶさってきて、圧死しそうだというお話があり、医師の診断を受けるようお勧めした。
 家にいれば黒いがつきまとい、デイサービスに行けば白い靄が天井から降り、道を行けばつけ狙われていると感じ、不安が常態化した。
 心配しているうちに、ご家族から入院のご連絡をいただいた。

 Bさんは、ご主人を亡くしてから、すっかり気力を失った。
 好きだった山登りはもちろん、何をする気にもなれず、他人と接したくなくなり、家からあまり出なくなった。
 しかし、おりおりに、当山へ手紙を出した。
 お彼岸お盆年忌の供養などを申込み、来山する力は出ないけれど、ご主人が信頼していた当山との連絡を欠かさず、当山から送られる新聞『ゆかりびと』や機関誌『法楽』などを熱心に読んでおられた。

 数年後、やはり、Aさん同様、ご主人が〈圧する者〉としてたち現れるようになった。
 Bさんは「思い当たるふしはありません」と言われるが、小生は、オシドリ夫婦特有の寂しさや執着心が作用しているのではないかと感じていた。
 思い余ったBさんは、ご主人共々救われたいとの一心で塔婆供養を申し込まれた。
 そして、ついに心が晴れたBさんから届いた手紙の一部を書きとめておきたい。

 もちろん、Bさんのお許しを得ている。
 なお、手が不自由になったBさんは、一時間ほどの〈稽古〉をしてから、そのままの勢いで書かれたという。
 筆達者な人がままならなくなってなお、両手で万年筆を握った。
 いただいた手紙は当山の宝ものである。

「昨日、とても立派な『廻向之証』とお便りをいただき、ありがとうございました。
 手に取って見ていると、戒名も中央に書いてあり、まるで後光が射しているように思います。
 夫も安心して私の所から去っていきました。
 私にもご加護を祈っておりますと書いて下さり、とても力強く勇気が出ました。」

 Aさんご夫婦も、Bさんご夫婦も、当山の法友である。
 この世とあの世に別れても、いかなる状況になっても、ただただ苦を離れ楽を得られるよう、等しく祈るのみである。
 南無守本尊大法護如来。
 南無大師遍照金剛。




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2016
06.23

【現代の偉人伝(第228話)】 ─『原爆供養塔』を書いた作家堀川惠子氏─

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 作家堀川惠子氏は、広島の原爆供養塔を守り続けている一人の女性と、供養塔に眠る御霊の周辺を取材し、『原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年』を書き上げた。
 平成27年に出版された同著は、このたび大宅賞を受賞した。
 氏はこれまで、連続ピストル射殺事件を起こし、19年前に死刑となった永山則夫をとりあげた『裁かれた命──死刑囚から届いた手紙』などのノンフィクション作品を書いてきた。
 いずれの作品からも、いかに虐げられようと、行為の価値を理解されまいと、人間としての何かをかけつつ生きる者を見捨てられない必死の思いが伝わってくる。
 お会いしたことはないが、まさに菩薩(ボサツ)、生き仏であると感じている。
 今回、氏が取材したのは、今年93才になる佐伯敏子さんである。

 佐伯敏子さんは、かつて、遺骨が納められた広島の原爆供養塔を守り、遺骨を遺族のもとへ届けてきたが、今は老人保健施設に入り、ほとんど動けなくなっている。
 氏は、その人の言葉を聴き、遺族たちを訪ね、この書を書いた。

「7万人もの遺骨が納められた原爆供養塔は、いわば広島の墓標だ。」
 
「かつて原爆供養塔のそばには、遠くから見ても一目でこの場所だと分かる巨大な木碑が建っていた。
『原爆納骨安置所』と書かれたその木碑は、ある日、市民に知らされることなく撤去された。
 そして供養塔の地下室へと入る入り口に書かれた『安置所』という大きな文字も、知らぬ間に白いペンキで塗りつぶされた。
 死者の存在を示す印そして言葉は、年々、目立たぬよう細工されてきた。
 かろうじて原爆供養塔の南側に新しい案内板が置かれているのは、被曝者の遺族が、せめて『名札』くらい立てて欲しいと訴え続け、2005年になってようやく実現したものだ。
 ここに眠るのは『神』でも『仏』でもなく、『人間』である。
 さらに言えば、無差別に殺された人たちだ。
『神聖』というもっともらしい響きの中に、遺骨となった死者たちにまつわる苦しみに満ちた記憶は遠ざけられてしまった。


 今、この墓標を訪れる観光客はほとんどない。

原爆資料館では、訪問者に当時の凄惨な雰囲気を伝えてきた被曝者のケロイド人形が、2016年には撤去されることが決まった。
 広島の戦後から、死者たちの姿はどんどん消えていく。

 平和とはまるで、白いハトを空に飛ばすことであり、折り鶴を飾ることであり、緑豊かな公園や子どもらの美しい歌声にとって代わってしまったようだ。
 七〇年前、無念のまま町のあちこちで燃やし尽くされた〝死者たち〟の声は、どんなに耳を澄ましても聞こえてこない。」

「あの日、広島で一体何が起きていたのか。
 そして私たちは戦後七〇年、その事実と本当に向き合ってきたのか。
 これまで語られることのなかった、もう一つのヒロシマ。
 原爆供養塔、そこに眠る死者たちの物語を始めたい。」


 以上が、序章の要点である。
 平和がいかに声高に叫ばれようと、ついこの間、平和が壊された事実はどんどん風化されて行く。
 壊される前に在った確かな平和と、それが壊される戦争とを直視せずして、本当に平和が目ざされることなどあり得ようか。
 記憶が薄れ、想像力が枯渇した時、私たちは〈繰り返す〉のだ。

 終戦直後に「また戦争をやろう」とする者はいないだろう。
 しかし、戦争はなくならない。
 原発事故の直後に「このまま原発を続けよう」とした者はいなかったはずだ。
 しかし、実際は、トップが「安全とは申し上げられない」と言うしかない新たな〈安全基準〉なるものがつくられ、まるで何ごともなかったかのように原発は再稼働されつつある。

 氏は終章に書いた。

「人間は、愚かで弱い。
 強いものにすがりつきたくなる。
 行儀の悪い隣人がいて、それをやっつけろと責めたてる力強い声が上がれば、賛同したくなる時もある。
 いざ大きな潮流が動き始めると、どんな優れた政治家も著名な文化人も作家もマスコミも、みなその流れに呑み込まれ、むしろ加担していく。
 一旦、溢れ始めた濁流にひとりで立ちはだかることができるほど、人は強くない。
 七〇年前、私たちはそのことを経験し教訓を学んだ。
 だから戦後の日本は、たとえ戦争に踏み出しそうになっても身動きのとれぬよう、二度と戦争ができぬよう、自らに対して、どこの国よりも重い手かせ足かせを課してきた。
 それは、同じ過ちは繰り返さないという覚悟の上に築いた、平和を維持するための『装置』でもあった。
 その『装置』を、もっともらしい理由を並べて強引に取り外そうとする動きが、今の日本にはある。」

「世界の国々は今、一万発を超える核兵器を保有している。
 今後、その一発も使われない保証など、どこにもない。
 二〇一五年三月には、ロシアのプーチン大統領がウクライナ危機に際して核兵器を準備したことを明らかにした。
 日本だけが世界の紛争と無縁でいられる時代では、もはやない。
 戦争はいつも些細な出来事から始まり、〝正義〟の衣をまとって拡大していく。
 そんな世界へと向かって歩を進めることは、先の戦争で命を奪われた幾百万もの死者たちへの裏切りにほかならないだろう。


 私たちは今ならまだ、平和と戦争を思い出し、あるいは平和と戦争をリアルに想像し、何を繰り返すべきではないかと、落ちついて考えられる。
 しかし、思い出すことのできる体験者が減り、ゲームで〈バトル〉慣れした若者が増え、もう少し、この〈潮流〉が強まれば、その先はおぼつかない。
 戦争も、原発事故も、語り継ぐ意思が弱まり、絶えたならば、必ず繰り返されるだろう。
 語り継ぎたいとの一心で生きて来られた佐伯敏子さん、その思いを伝えようと奮闘しておられる堀川惠子氏、生き仏たちの言葉に心の耳を傾けたい。





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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
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2016
06.22

愚癡の人にならないために ─守本尊様の救い─

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 私たちは、時に、過去を振り返り、時に、未来を思い描きます。

 過去は、時には恨めしいものであり、時には、ほのぼのさせるものです。
 前者に傾けば、後悔から愚癡が出て暗くなり、後者であれば、満たされた気持から感謝が生まれて明るくなります。

 では、運が悪かったり、失敗が多かったりした人は愚癡を言い、運がよかったり、順調だったりした人は感謝するのでしょうか?
 70年間、生きて人を観て来た者の感想としては、そう言えなくもないけれど、必ずしもそうでないケースが少なくないような気がします。

 たとえば、27年間の投獄生活に耐え、南アフリカ共和国の大統領になったネルソン・ホリシャシャ・マンデラは、まるで密教僧のような言葉を遺しました。
「我々が自らの内にある光を輝かせるとき、無意識のうちに他の人々を輝かせることが出来るのだ。」

 私たちが共有している仏心は、誰かが輝かせれば、他の誰かの仏心に障碍となっている邪心を祓い、それも輝かせます。
 この身このままで仏心を輝かせるのが即身成仏(ソクシンジョウブツ)であり、生き仏になった人が、他の誰かをも生き仏へと誘わないはずはありません。

 また、過去がどうであれ、〈現在〉の過酷さが、過酷であるがゆえに視点の転換をもたらし、過去を意識させないケースもあります。
 過酷な現実に何らかの価値を見出した人にとって、もはや、過去がどうであったかということは問題になりません。

 ドイツ軍によって捕虜収容所に入れられ、いつガス室へ送られてもおかしくない体験をしたユダヤ人フランクルが書いた『夜と霧』に有名な一節があります。
「現実には生に終止符を打たれた人間だったのに―あるいはだからこそ―何年ものあいだ目にできなかった美しい自然に魅了されたのだ。」

 過酷な労働を終えて居住棟に帰り、スープを手にして土間でへたり込んでいた時、沈む夕陽の美しさに気づいた仲間に呼ばれ、皆して空を眺め、目を転じた地上にある水たまりが夕焼けの赤々とした光景を映し出している様子に、誰かがこう言ったのです。
「世界はどうしてこんなに美しいんだ!」

 書かれたのは昭和21年、一瞬、激しく動いた心の鼓動は、フランクルと仲間たちの間で共有されただけでなく、70年を経た今も、私たちの心に共鳴、共振をもたらします。
 こうした体験をした人は、〈愚癡の人〉へと堕ちて行く可能性や危険性が少ないのではないでしょうか。

 愚癡の人は、恐ろしくも、マンデラ大統領と反対の心になります。
「我々が自らの内にある光を覆い、輝かせないとき、無意識のうちに他の人々をも輝かせない者となる」

 こうならないためにこそ、ご本尊様へ手を合わせて身体をみ仏と一体化させ、真言や経文を唱えて言葉をみ仏と一体化させ、ご本尊様の徳を観想して心をみ仏と一体化させましょう。
 そうすれば、私たちは「自らの内にある光を輝かせ」、きっと「美しい自然に魅了され」つつ生きられます。

 愚癡の人にならないために、ご本尊様へ祈りましょう。
 特に、〈理想の自分〉の一面を示す一代守本尊様は、生まれ年によって運命づけられた具体的な導き手です。

 愚癡の人にならず、生き仏になりたいものです。




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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y





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2016
06.21

晩年のお大師様が表した願いとは? ─迷いを解き、万人を救うために─

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 お大師様は、み仏の世界へ旅立つ7ヶ月前にこの文章を書かれました。
 すでに死期を悟り、2年前から穀類を断っているという状況にあって、金剛界と胎蔵界という大日如来の世界を表現し、行者が修法し、ご縁の方々が参拝して救われる仏塔とマンダラを造る事業にとりかかられました。
 しかし、高野山に資材が集まり、人は集まっても、食べる食糧が足りないのでお金一銭、米一粒でも布施していただきたいと願い、以下の文章を書かれたのです。
 少々、長いのですが、一文字たりとも省ける部分がありませんので、筑摩書房の「空海全集」から転記してみます。

「夫(ソ)れ諸仏の事業は、大慈を以(モッ)て先と為し、菩薩(ボサツ)の行願(ギョウガン)は、大悲を以て本(ホン)と為(ナ)す。」


(そもそも、もろもろの仏のなされることは、大いなるいつくしみの心を第一とされ、菩薩の衆生をすくわんとする行為と願いは、大いなるあわれみを、要点としている)

 仏菩薩は、私たちへお慈悲をたれておられます。

「慈は能(ヨ)く楽を与へ、悲は能(ヨ)く苦を抜く。
 抜苦与楽(バックヨラク)の基(モトイ)、人に正路(ショウロ)を示す、是(コ)れなり。」


(いつくしみは人々に楽を与えることができ、あわれみは苦しみから救い出すことができる。
 苦しみから脱し、楽を与えてやることの基礎は、人々に正しい仏の道を示してやることに他ならない)

 動物も植物も人間も、生きとし生けるものはすべて、楽に生きられる方向を求め、死へ向かう苦しみから脱したいと願っています。
 それを見捨てられないならば、救われる正しい道を教えてあげるに越したことはありません。

「謂(イ)う所の正路(ショウロ)に、二種有り。
 一には定慧(ジョウエ)門、二には福徳の門。
 定慧(ジョウエ)は正法(ショウボウ)を聞き、 禅定(ゼンジョウ)を修するを以(モッ)て旨と為し、福徳は仏塔を建て、仏像を造するを以(モッ)て要と為す。
 三世の諸仏、十方の薩、皆斯(コ)の福智を営みて、仏果を円満す。」


(いわゆる正しい道には、二種の行き方がある。
 一つは瞑想〔定〕と智慧〔慧〕をもっぱらにするもので、第二は、善行に因り人々に福を与えることをもっぱらにする行き方である。
 定と慧は、正しい仏の教えを開いて、深い瞑想を修行することを主とし、福徳を与えるのには、仏塔を建て、仏像を造ることを、要点とする)

 私たちがまっとうに生きたいならば、心を平静にして我欲や自己中心の心から離れ、真理・真実を見極めるのが一つ、もう一つは、他者へ福徳を与えることです。
 つまり、み仏の教えに基づいて瞑想の修行をするか、もしくは仏塔や仏像を造り、人々が救われる場とすることです。
 自分自身の心を制御し、他者のために役立つこと、これが歩むべき正しい路です。

「三世(サンゼ)の諸仏、十方の薩埵(サッタ)、皆斯(コ)の福智を営みて、仏果を円満す。
 是の故に比年、四恩を抜済(バッサイ)し、二利を具足(グソク)せんが為(タメ)に、金剛峯寺に於(オイ)て、毘盧遮那(ビルシャナ)法界体性塔(ホウカイタイショウトウ)二基、及び胎蔵・金剛界両部曼荼羅(マンダラ)を建て奉る。
 然(シカ)るに今、工夫(コウフ)数多(アマタ)にして、粮食(リョウショク)給し難し。」


(過去・現在・未来の仏たち、世界全体の菩薩たちは、みなこの福徳の行いをして、さとりの境地を完成するのである。
 この故に、最近、父母・国王・衆生・三宝の恩に報いんとして、すべての苦を除いて、自利・利他を完全になしとげようと思った。
 そこで高野山金剛峯寺に毘盧遮那仏という宇宙の本体を表すため二基の塔を建て、金剛・胎藏二部の曼荼羅をお作り申しあげることにした。
 しかしながら、今、労役する者はおびただしく、食糧を満足に与えられない)

 悟りを開いたみ仏は、智慧を磨き、世界へ福をもたらした方々です。
 自分勝手な考えを持ち、欲しい、惜しいと貪るままで不動の安寧を得ることはできません。

 そうした役割を果たそうとする仏教者として、お大師様は死期を迎えてなお、仏塔とマンダラを造ろうとされました。
 しかし、山上の高野山では、はたらく人々の食べものにすら事欠くありさまです。

「今思はく、諸(モロモロ)の貴賤の四衆と、斯(コ)の功業を同じくせんと。
 一塵(イチジン)大嶽(タイガク)を崇(タカ)うし、一滴広海を深うする所以(ユエ)は、心を同じくし、力を勠(アワ)すが、之(コレ)致す所なり。」


(今思うに、多くの貴者・貧者・僧・尼僧・男女の信徒たちとともに、この仕事を一緒になし遂げたい。
 塵も積もって大山として聳え、一しずくの水が広い海を、いっそう深くすることができるのは、それは心を合わせ、力を合わせてこそ、できるのである)

 人の道を行くよきことは、相手を選ばず、共に行いたいものです。
 私たちは子供の頃から「塵も積もって山となる」と、精進の大切さと価値を教えられたはずです。
 そして、ことをなし遂げるためには、心を一つにし、真に力を合わせせなばりません。


「伏して乞(コ)ふ。
 諸(モロモロ)の檀越(ダンオチ)等、 各(オノオノ)の一銭、 一粒(イチリュウ)の物を添へて、斯(コ)の功徳(クドク)を相済(アイスク)へ。
 然(シカ)らば則ち営む所の事業(ジゴウ)、不日(フジツ)にして成らん。
 生ずる所の功徳(クドク)万劫(マンコウ)にして、広からん。
 四恩(シオン)は現当(ゲントウ)の徳に飽き、五類は幽顕(ユウケン)の福を饒(ユタカ)にせん。
 同じく無明(ムミョウ)の郷(サト)を脱して、斉(ヒトシ)く大日の殿(デン)に遊ばん。
 敬って勧む。
 承和元年八月二十三日」


(心よりお願い申しあげる。
 多くの施主たちが、それぞれ金一銭、米一粒をあつめて、この功徳をなしとげるように。
 そうすれば、きっとこの大事業も、日ならずして完成するであろう。
 その行為によって生まれる功徳は永遠に亡びることなく、世界中に広く行きわたるであろう。
 四恩は現在および未来も、その恩に充分に報いることができ、五類の天は、目に見える。また目に見えぬ福を豊かに垂れてくれるであろう。
 そして皆ともに無知の迷いの世界を抜け出して、そろって大日如来のさとりの御殿に遊べるようにさせたまえ。
 謹んでおすすめ申しあげる)

 これは、西暦834年に書かれました。
 今から約1200年前のできごとです。
 恵まれた環境や、約束された栄誉をなげうって仏道に入ったお大師様は、還暦にいたってなお、烈々たる万民救済の意思を持ち、全身全霊をかけて法務に邁進しておられました。
 宮中で修法を行い、般若心経の解説書を書き、高野山ではこうした活動を行っておられました。
 そのおかげで私たちは、現在、学び、実践し、救われ、救うことができます。

 日本が戦争をせず、子供たちが怒りや怨みやイジメの心を離れ、ひいては世界が平和になるよう願い、祈る当山の「不戦堂」建立運動も、フンドシを締め直して進めねば、と奮い立つ思いです。




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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y





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2016
06.20

瞑想と室内型永代供養納骨堂『法楽殿』について

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〈個別型永代供養樹木葬『法楽陵』〉

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〈自然葬『法楽の郷』〉

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〈共同墓『法楽の礎』〉

 6月19日、「ゆかりびとの会」の総会を無事、終えました。
 檀家という縛りを離れたご縁の方々が自主的に当山をお支えくださり、本当にありがたいことです。
 ご挨拶の中で、特に時間を割いて申し上げたのは、終括と心の締め括り、そして阿字観(アジカン)のお話でした。

 ここ数年、「終活」という死への準備が盛んに行われるようになりましたが、当日、参加された方から「言葉の軽さが気になっていました」というご意見が出たとおり、何か肝心な部分が網羅されていないように思えて、小生は「終括」という言葉を提案しています。
 そこには、手続きにとどまらず、心の締め括りもできていますか?という問いかけの思いも籠められています。
 たとえば葬祭会館との契約が済んでも、財産の処置を決めても、死を前にした時の死への不安や怖れは消えないからです。

 さて、当山では最近、特に瞑想法に関する時間を設けています。
 この世の苦に正面から挑んだお釈迦様が最終的に、この世にいながら苦を脱することができたのは、瞑想という手段にたどりついたからであり、仏教の歴史とは、その境地と方法を追体験したいという消えない願望のつながりだからです。
 弘法大師に導かれる当山では、大師が根本経典を読み解いて構想した阿字観と、その方法に準じたさまざまなみ仏の世界へ入る瞑想こそが、現代人のストレスや不安を解消し、生きる方向を導き、最終的には臨終の安心へもつながるものと信じています。

 また、このたび、納骨堂『法楽殿』を改装し、室内型永代供養堂として皆さんにご利用いただくことにしました。
 三十三回忌まで、本堂に隣接する『法楽殿』で憩い、最終的には『五輪の塔』で自然に還り永代供養を受けるという形です。
 お大師様と十三仏様に導かれる供養堂から五輪の塔へ、そして永遠の安心の世界へというインスピレーションは、幾度も高野山の奥の院へお詣りし、幾度も途中の参道に並ぶ五輪の塔に霊気を感じてきた体験からもたらされました。

 室内型永代供養堂『法楽殿』の中心は阿字観の御本尊様であり、『法楽殿』は十三仏様に導かれる世界です。
 私たちは、阿字観の稽古によって、日々のストレスや苦にうち克ち、最期もまた、阿字観瞑想の中で安らかに迎えたいものです。
 そして、ご供養する時にもまた、阿字観のご本尊様へ手を合わせ、あの世で憩う御霊とまごころで通じ合いたいものです。

 私たちは、東日本大震災において、常々、心を縛っている〈自己愛〉から離れるという体験をしました。
 この世の儚さを突きつけられ、離れがたい哀しみと共に生き、立ち上がって今を生きています。
 あそこで顕わになったものは何だったでしょうか?

 あの時の私たちは、日常生活の喪失とひき換えに、日常生活を支えていたはずの〈底〉が抜け落ちた地点に立っていました。
 そこで多くの方々は自分が生きつつ、生かし合ってもいたはずです。
 阿字観の瞑想は、忙しく生きる日々にあって、ふと、〈我〉を忘れ、知らぬ間に、生かし合う心を回復する時間でもあります。

 阿字観は、この世の苦を抜き、ひいてはあの世の安心にもつながる伝統的な瞑想です。
 多くの方々へ真の安寧をもたらすよう願ってやみません。
 イスでも問題なく実践できますのでご心配なく……。
 



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2016
06.19

「お前いつまで生きているつもりだ」に思う ─失言と選挙制度─

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〈カラスの背中には〉

 政治家失言は〈付きもの〉らしい。
 だから、国民も聞き慣れ、特に日本人は多様性をそれなりに認める感覚があるので、「誰にでも失敗はあるさ」とばかりに、〈謝れば終わり〉としてきたように思える。
 それはそれで一つの文化であり、社会内で収拾がつかない先鋭的な対立や混乱が起こらないでいることは評価したい。

 しかし、そもそも政治家失言は、庶民レベルの失敗や、うっかりとは違う。
 言ってはならない本音を、言ってはならない立場にいることを知っていながら言ったという事実の持つ意味は大きい。
 だから、その内容が政策の実現や選挙での勝利に障碍になるからと、早々に引っ込められても、国民は、「そうですか」「仕方がない」と済ませるべきではないと思う。

 政治家が国民に注目されるような失言は、常々、本人が掲げている主張と異なっていたり、国民の多くが望んでいることとは相反するような内容を含んでいればこそ注目される。
 つまり、そこでは、〈常々、本人が掲げている主張〉は信念ではなく仮面であることが露呈している。
 また、〈国民の多くが望んでいること〉を本人は決して望んではいないことも証明している。

 今回、看過できないと思うのは副総理・財務相である麻生太郎氏の発言である。
 6月17日、北海道小樽市で開かれた自民党支部大会において氏は講演し、こう語った。(各種メディア共通の内容である)

「お金を何に使うかをぜひ考えてほしい。
 金は使わなきゃ何の意味もない。
 さらにためてどうするんです?」

「90になって老後が心配とか、訳の分からないことを言っている人がテレビに出ていたけど、『お前いつまで生きているつもりだ』と思いながら見ていました」

「私のばあさんは、一切貯金はせず、金は息子と孫が払うものと思って、使いたい放題使ってました」


 なお、氏は終末期医療に関して、平成25年1月にこう発言し、撤回している。

「政府の金でやってもらっていると思うと、ますます寝覚めが悪い。
 さっさと死ねるようにしてもらうとか、いろんなことを考えないといけない」


 翌平成26年12月には少子高齢化と社会保障に関して、やはり問題発言の釈明に追われた。

「子どもを産まないのが問題だ」


 こうした一連の発言を眺めてみると、ここにあるのは明らかな本音であり、釈明や撤回で〈なかったこと〉には決してできない大きな問題が見えてくる。
 その大きなものは三つある。

 一つは、政策という看板と、政治家の本音との乖離であり、政治家政策の実現にいのちがけで取り組んでいないという欺瞞である。
 政権を取り、政権を担い、権力を行使し、国を思い通りに動かしたいがための看板でしかないという恐るべき実態である。

 もう一つは、看板通りに国策が進まない理由を、権力者である自分ではなく、世間の心構えにあるとする根本的勘違いと傲慢さである。
 世間の人々は、90才になってなお、生きている自分の周囲にさまざまな問題を抱えているからこそ、「老後が心配」なのであり、本当は死んだ後についてすら、心配なのだ。
 当山の人生相談には、障碍を抱えたお子さんやお孫さんのいる方、貧困に苦しむ方など、生きて行くのが辛い家族を抱えた方々も訪れる。
 お年寄りが安心して死ねないのも、溜めてきたお金を簡単には使えないのも、女性が子供を産めないのも、もちろん個別の理由はあろうが、それがこれだけの社会的現象になっていることは、本質的な責任が個々人にではなく、政府、政治にこそある証拠ではないか。
 仏教的視点から言えば、社会的な悪しき共業(グウゴウ)が、個人的な善業(ゼンゴウ)を押し潰しているように見えてしまう。
 その真実に気づかぬ政治家が政府の中枢にいることは恐ろしい。

 もう一つの問題は、こうした政治風景をもたらした選挙形態である。
 麻生太郎氏のみでなく、これまで、騒ぎになっては消されてきた政治家の失言や暴言をふり返って見ると、この問題の深刻さがわかる。
 小選挙区制によって、政党の支持は政党が決めた政治家の支持とイコールになるしかない。
 つまり、選挙民は〈政策〉は選択できても、候補者の〈人格〉は選択できない。

 政党と候補者の都合が100パーセント、投票行動を決定しており、候補者の人となりを知っている選挙民は決して〈人物〉を選択できない。

 一方、政治の流れを観ていると、政策など、紙切れ同様の扱いしか受けてはいないと思える。
 政党は簡単に政策を変え、政治家は旗印を変え、所属する政党を変える。
 もちろん、「政治は生きものである」以上、ある程度は当然の現象だ。
 ならば、選挙民は、どうやって政治家へ希望や夢を託すべきだろう。
 どうやれば、託せるのだろう?
 そのためには〈人物〉を選ぶことが最も大切であり、〈人物〉を選べない小選挙区制が、選挙民の納得できない諸問題を生んでいるのではなかろうか?

 思えば、日本特有の「首相の解散権」が、結果的に嘘をついた政治家の免罪符になっているようだ。
 議員の生殺与奪の権を握っているたった一人の首相は、国会を解散するというとてつもない件につき、一切の制約を受けず、いかなる嘘をついても構わないことになっている。
 解散風が吹くと、国会内だけでなく、マスコミ界も一種の賑わいを見せる。
 解散があってもなくても、より〈意外な〉結果になると、また、一段の盛り上がりを見せる。
 だから、誰も「おかしい」とは言わない。
 しかし、世界に目を転ずれば、少数のエリートに権力が集中することの危険性を知悉している国々では、解散権を縛っている。
 権力者が自分の都合を第一にして勝手な行動をとることのできない仕組みにしている。
 首相の嘘について国民が盛り上がることなどあり得ず、冷静な投票行動によって判断をくだす。
 一方、日本では、総理大臣の嘘が政治劇として許される。
 だから、「1000パーセントありません」と言いながら正反対のことをやる政治家も現れ、人気を博す。
 国民は、劇を楽しみつつ、あまりにも問題の多い政治風土をつくっている。

 国民はもうこのあたりで、立ち止まり、考え、行動すべきではなかろうか。
 選挙では、政権なり政党なりがその時点まで何をやってきたか、これから何をやろうとしているかが、誠実に国民へ伝えられねばならない。
 そして政治家は、自分をかける政策を語り、選挙民はその人物が負託に応えられるかどうか、よくよく見極めねばならない。
 そのためには、政党と候補者の都合のみによって立候補者が絞られるのではない、新たな選挙制度が求められる。
 また、政策なり、人物なりについて大きな問題が起こったならば、政治家は〈説明〉で逃れようと汲々とせず、きちんと〈責任〉を取るべきだろう。

 この稿は、麻生太郎氏への個人攻撃ではない。
 氏には気の毒だが、その発言に含まれている膨大な問題を愚考させていただいた。
 氏と支持者の方々には不快極まりなかろうが、政治家の宿命として、勝手な稿をお許しいただきたい。
 こうした稿を書かねばならないことは極めて残念だ。




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2016
06.18

Q&A(その24) ─なぜ、お骨を2人1組で拾うのでしょうか?─

2016-06-18-0001.jpg
高橋香温先生の書道教室です。朝日新聞様からお借りして加工しました〉

 火葬場でお骨を拾う収骨の時、2人1組で行う風習が残っています。
 その理由については、さまざまに言われています。
 共に故人を悼むという気持の表現。
 故人の思いが1人に取り憑かないための防備。
 一般的にはこうしたことになるのでしょうが、お釈迦様やお大師様があの世へ行かれた様子を思い描きつつ、祈っている者としては少々、違うイメージを持っています。
 お釈迦様は葬式を望まなかったのだから、僧侶が死んだ人に関わるのはおかしい、悟りを求め、生きている人のケアさえしていればいい、と叫ぶ方もおられますが、〝そうだろうか?〟と、かなり強い疑問を持ってもいます。

 お釈迦様は生前、すでに高名でした。
 その人格を慕い、教説を求め、たくさんの人々が共に行動し、あるいは地域への来訪を待ちわびました。
 そしてインドでは、昔も今も、薪を積み上げてご遺体を火葬します。
 また、お釈迦様の入滅後100年か200年経ってインドを統一したアショーカ王は深く仏法に帰依(キエ)し、お釈迦様のお骨を納めた8つの塔のうち7つからお骨を取り出し、インド中に建てた8万4千と称される仏塔へ納め、人々がどこででも、手を合わせられるようにしました。

 こうした状況を考えれば、お釈迦様が「もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成させよ」と言って入滅された後、弟子たちや周囲の人々はどうしたと想像されるでしょうか?
 もちろん、ご遺体を放置したり、庶民のようにお骨をサラリと河へ流したりはしなかったはずです。
 祈りながらねんごろに火葬し、そのお骨には、一欠片(カケラ)をも残さないほどたくさんの手が伸びたことでしょう。
 大切に集められたお骨は8つの塔で供養される一方、聖なる御守として持ち帰った人々もたくさんいたのではないでしょうか?

 つまり、周囲から生前、慕われ、尊ばれた人が亡くなって火葬されれば、お骨はそうした人々によって拾われ、いかなる形で自然へ還されようと、お骨も、お骨を納めた場所も、大切に扱われてきたはずです。
 そうです。
 きっと、お骨を複数の人で拾うという現在の風習は、「皆、あなたの尊い人格を偲び、あなたを死を悼み、あなたのような人にあやかりたいと願っているのですよ」という心の呼びかけが大元にあったのです。

 そして、亡くなった人を心から惜しみ、何としても安寧(アンネイ)の世界へ旅立って欲しいと願う人々は、宗教者の助けを借りてきたはずです。
 そもそも、死をどうするか?という根本的問題に発しない宗教はないでしょう。
 古い時代の生活を示す遺構や遺物は、死と祈りが文明・文化の根本にあったことを示しています。
 宗教者はその問題に真正面から取り組むことを重要かつ欠かせない使命の一つとし、自らが答を求め尽くすと共に、その問題にまつわる苦を抱えた人々のためになりたいと願わずにはいられません。
 いつの時代であろうと。
 お大師様がご葬儀や法事に際して書かれた文章を読むと、死に際して仏天へ祈らずにはいられない人々と宗教者の思いや願いが、まるで、今のできごとのように胸の音叉に響いてきます。

 お骨を2人1組で拾うという行為1つにも、私たちの生き方、死に方が表れています。
 漫然とやり過ごしたり、日常生活的な〈要る〉〈要らない〉で済ませたりしないようにしたいものです。
 今の日本では、子供が親から受けた恩の量と、親の死までかける手間やお金と、2つを天秤にかけることを推奨する評論家さえ現れました。
 ここまで来てしまったかと暗澹たる気持になるだけでなく、仏天に、ご先祖様に、世界に対して、恥ずかしくてなりません。
 私たちが真の意味で心豊かに生きられるかどうかは、人生の根本的な問題にどう向きあうかにかかっています。
 伝統、作法、教え、何であろうと先人が残してくれたものによく学び、自分でよく考え、人生を心豊かに生きたいものです。
 自分がそう生きることが、この世と社会を真の意味で豊かにする出発点ではないでしょうか。




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2016
06.17

ミラバッシの『アヴァンティ』 ─病み付きになった演奏─

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〈ブックレットによる「フランス革命」〉

 かつて一度、このCDについて書いたが、毎日、カーステレオで聴いているうちに、もう一度、メモをしておきたくなった。
 ジョバンニ・ミラバッシのピアノ・ソロ『アヴァンティ』を1人で楽しんでいるのはもったいないと思ったからである。

○クーデター直前のアウグスト・ピノチェト

 昭和48年、チリの陸軍総司令官アウグスト・ピノチェト(58才)はアメリカの後押しを受け、クーデターを敢行し、軍事評議会の議長となった。
 サルバドール・アジェンデが率いる社会主義政権を倒し、戒厳令下、1日で2700人を虐殺した。
 ミルトン・フリードマンが唱える新自由主義によって「チリの奇跡」と称される経済発展をもたらしたと喧伝されたが、ピノチェト政権の政策は、格差が広がり国民が疲弊する悲惨なものだった。
 国の内外で、生涯に幾度も裁判にかけられ、91才の死に際しては、追悼集会と並んで祝賀会すら催された。

 そのピノチェトがクーデターを起こす直前、カメラにおさまっている。
 背後に立つ者たちの表情には緊張と不安が読み取れるが、腕を組んで座した当人はサングラスの奧から、斜め上の虚空を睨(ニラ)んでいる。

 それにしても、セルジオ・オルテガがクーデターの3か月前に書いたメロディーは甘美だ。
 通りに射す日光の明るさや、人々が活き活きと行き交う町の光景が連想される。
 そうした日常の陰で、選挙によって成立した政府の転覆が企てられていたとは……。
 
 歌手ビクトル・ハラなども殺してしまう残酷な事件を起こしたピノチェト政権は15年で瓦解した。
 
 この曲は幾度、聴いても決して悲しくはないが、それだけに無性に哀しくさせる。
 書かれた時はいのちの輝きに満ちていただけに、歴史的事実を知ってしまった者としては、それを〈失ってしまった人々〉の無念さが胸に迫ってくるのを禁じ得ない。
 強引に、理不尽に〈失わされた〉ものの思いが、亡霊となった美女のようにたち顕れてくる。
 だから、明るいのに哀しい。

○第二次世界大戦、フランスのパルチザン

 ミラバッシは昭和17年、ロンドンでこの曲を聞いた。
 第二次世界大戦に際し、枢軸国に対抗したユーゴスラビア共産党は人民解放戦線の軍を創設した。
 それがパルチザンである。
 パルチザンはあっという間に陸軍だけでなく、空軍、海軍までも擁するようになり、100万人にも迫る勢いの彼らは、イタリア軍やドイツ軍と渡り合い、ついに追い出した。
 
 この曲はエネルギーに満ち、全編に躍動がある。
 立ち上がった若者たちの熱と汗が飛び散るほどだ。
 元々、ロシア出身のアンナ・マルリーがスモレンスクのレジスタンス軍を讃えるために唄ったものだが、ミラバッシは全身全霊を込めてキーを叩いている。

○フランス革命 

 ザ・ネイション・チャイムズというこの曲は、フランス革命で断頭台に登った王妃マリー・アントワネットが愛し、自らハープシコードで弾いていたものだという。
 それにしては、長調の旋律が短調の旋律と入り交じるなど、あまりにも不吉な影を宿している。
 初めて聴いた時は、日本の学校で高揚を伴ったできごととして教えられるこの革命が、フランスでは二度とあってはならないものとしてとらえられ、そのために各家庭での宗教教育が求められていることを思い出したほどだった。
 社交界の煌びやかさには裏があり、親からスポイルされつつ育った若者たちだからこそ、あれほど過激で、残忍な行動に走れたという説に納得していた自分としては、ミラバッシから観た革命の姿かと思ったのだ。

 しかし、落ちついてブックレットを読んでみたら、それはまったく的外れだった。
 驚きつつ聴いてみて、謎はさらに深まった。
 小さな主題がいかに可愛らしいとしても、本当にあのマリー・アントワネットが愛したのか?
 彼女はこの曲のどこに惹かれたのだろう?

 それとも、ミラバッシの解釈と演奏が、本来はなかった不吉さを伴わせたのか?

 さて、一人の旧軍人がこの曲をフランス革命歌「ア・サ・イラ」に仕立てあげ、勇ましい演奏が行われるようになった。
 この「うまくいくさ!」というセリフは、駐仏大使だったベンジャミン・フランクリンが口癖にしていたという。
 それにしても、マリー・アントワネットが愛した曲を革命歌にするとは、文化の違いというものの遥けさを感じさせられる。




「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IvMea3W6ZP0





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2016
06.16

映画『TOMORROW 明日』を観て

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 映画『TOMORROW 明日』を観た。
 原爆が落とされる長崎で暮らす人々の前日と当日を描いた作品である。
 戦争末期とはいえ、寝て起きて、飯を食い、はたらき、恋をする人々の日常生活は淡々と続いている。
 それは広島に原爆が落とされた直後であっても変わらない。

 東日本大震災の直後を思い出す。
 浜辺は信じがたいほどの惨状であっても、水が及ばなかった高台の生活は見かけ上、震災前とさして変わらない。
 駆けつけた気仙沼で目にした光景には呆然とさせられた。
 津波に遭い、泥にまみれながら後片付けをしている人々の目線が届く範囲にある民家では、普段通りの〈洗車〉が行われていたのだ。

 長崎の日常生活は、人々の思いと真実によって普段通りに紡がれる。
 結婚も、出産も、仕事も、招集も、近所づきあいも皆、〈明日〉を前提としていればこそ、今日のふるまいようがある。

 新婚初夜、蚊帳の中で新婦と向きあった新郎は、母の形見の指輪を新婦の指にかける。
 
「あなたを大切にします。
 戦争はどうなるかわからないが、
 それだけは約束します」

 母親の秘密について告白しようとするが、言い出しかねている様子に、新婦は優しく言う。

明日でも明後日でもいい。
 まだ時間はいっぱいあるでしょう」

 恋人の学生から召集令状が来たと聞かされて新婦の妹は泣く。

「悲しくて泣いているのではありません。
 招集が来て嬉しいのかも知れないけれど、
 それでも勝手に涙がでてしまうんです」

 その先に本音が出る。

「秀雄さんを一人では死なせたりはしません。
 もしも万が一、死ぬことになったなら、
 私も生きてはいません」

 二人は抱き合ってただ、泣くしかない。

 結婚式に参加した新婦の姉はその日、陣痛が起こる。
 母親と、産婆さんと、一晩かけてようやく男児を出産する。
 母親は汗を拭いながら言う。

「いい天気だねえ」

 それぞれが明るい一日を迎えた昭和20年8月9日の昼前、ゴーッという爆撃機の音が空から聞こえる。
 そして、一瞬の閃光がすべてを消滅させた。
 プロローグが思い出される。

「人間は
 父や母のように
 霧のごとくに
 消されてしまって
 よいのだろうか」
  (若松小夜子「長崎の証言・5」)

 こうして身内や大切な人を〈消された〉体験に身震いする人々は、70年経った今、この世から〈消えつつ〉ある。
 それと共に、理不尽な消滅のできごとを、我が身に置き換える想像力が〈消えて〉しまわぬよう願ってやまない。
 体験者がいなくなれば、あとは想像力に頼るしかない。
 それが枯渇した日には、恐ろしいことに、きっと愚行は繰り返されることだろう。




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「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
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2016
06.15

舛添都知事の直訴に思う ─パンと見世物─

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 6月14日付の日刊スポーツは、東京都議会の議運委理事会へ出向いた舛添都知事の訴えを報じた。

「子どものことを言うのはなんですが、高1の娘と中1の息子がいます。
 毎朝、テレビに追いかけられ、泣きながら帰って来る。
 妻にもカメラを回して『やめてください』とガーガーと叫んでいる映像ばかり流して『変な女』と報じられます。
 週刊誌やワイドショーは基本的人権を考えてもくれない。
 子どもも殺害予告をされている。

 1カ月前も今も、子どもを守るために、すぐにでも辞めたいけど、都政を混乱させないようにやってきた。
 マスコミに真実と違うことを言われても、訂正もしてくれない。
 人格的に辱められ、失う物は何もない。」


 古代ローマの詩人ウェナリウスの言葉「パンと見世物」を思い出した。
 私たちは、生きられる社会になっただけでは満足できない。
 サーカスめいたものが必要なのだ。
 為政者側からすれば、この二つを与えておけば、民衆から反逆されにくいという考え方が成り立つ。

 だから、選挙を迎えた政治家は、とにかく「経済」と「福祉」を声高に叫ぼうと腐心する。
 一方の「見世物」は、マスコミが〈獲物〉に食らいついているなら好都合である。
 ただし、獲物の不行状が為政者にとばっちりをもたらしては困るので、その場合は幕引きのタイミングについて深謀遠慮をめぐらす。
 まずいできごとは、世間から早く忘れてもらいたい。
 選挙に響かぬよう、権力が陰らないよう。
 ちなみに、この数年間だけでも、いったいどれだけの不行状があり、「反省」が繰り返され、速やかな幕引きが行われてきたことか。
 あげくの果ては、政府与党内で事実上の箝口令(カンコウレイ…口封じ)まで行われてきたのは衆知の事実である。

 さて、都知事の言葉である。
 いくらなんでも、ここに含まれている事実については、都民であっても「お前にそんなことを言う資格はない」と言えないだろう。
 私たちに、そこまで彼とその家族を見世物にしてあざ笑う権利はないと考えるのがまっとうな感覚ではなかろうか。

 そもそも、彼に対して「けしからん!」と拳を振り上げる私たちの中で、会社や役所の公金を私的に使ってはいないと断言できる人がどれだけいるだろう。
 社員が給料をもらっていながら喫茶店でだべってはいないか。
 社長が出張先で愛人と会ってはいないか。
 私たちのほとんどは〝隙あらばうまくやろう〟と思っているはずだ。
 こうした後ろめたさ、あるいは、うまくやれないうっぷん、さらに、彼が庶民には不可能なほどあまりにもうまくやったことへのやっかみが一大ブームを引き起こしたとも思える。
 その陰で、彼と家族は、明らかに基本的人権を侵害され、誰も「基本的人権を考えてもくれない」という絶望的状況に落とされている。

 彼がここまできてしまった原因の一つは想像がつく。
 誰も彼に「言いわけをやめろ」と忠告してくれなかったのだろう。
 プライドと自分可愛さが世間的に通用しないところまで来ている危険性を指摘してくれなかったのだろう。
 娑婆での失敗から立ち上がろうともがいていた頃の小生には、苦く、同時に感謝しきれない体験がある。
 ある友人から、面と向かって「言いわけをやめた方がいい」と言われた。
 失敗してもなお、あるいは自分が犯した失敗を心底では認めたくないがために、プライドと自分可愛さが自分の言動を醜くしていることに、きっと、自分だけが気づかないでいたのだ。
 もしも、あの一言がなかったならば、と思うと、冷や汗が出る思いである。
 いかに優秀な彼の人生でもきっと、いくつかの失敗はあったはずだ。
 そこで誰からも「言いわけをやめろ」と言ってはもらえなかったのだろう。
 今でも冷や汗を禁じ得ない小生は、彼に対し、口が裂けても「自業自得だろう」とは言えない。

 彼の都知事としての行動がどうであるかは都民、国民の判断が待たれる。
 ただし、彼と家族の人権が無視されている日々には大きな疑問を禁じ得ない。
 私たちはここまで〈見世物〉を楽しむ権利はないし、私たちの怒りや嗤(ワラ)いに含まれている自己欺瞞に気づかないならば、私たちは今なお、古代ローマの人々と何ら変わらないと言うしかない。
 これでいいのだろうか?




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2016
06.14

第二回瞑想会『新法楽塾』

Category: 瞑想講座
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 土日以外の日に瞑想を行いたいというご希望があり、平日の午前中に設定しました。
 阿字観(アジカン)を中心として行いますので、関心のある方はどうぞおでかけください。

・日時:6月15日(水)午前10時~午前11時30分
・場所:当山講堂
・参加費:1000円(中学生以下500円)




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「おん あらはしゃのう」
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2016
06.14

どう死ねばよいか ─密教の心がけ9つ─

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 いかに死ぬかは、人生最後の大問題である。
 漫然と生きていれば、苦しみのうちに漫然と死ぬしかない。
 最期の迎え方について、興教大師(コウギョウダイシ)は9つのポイントを説かれた。
 約880年前、聖者はどう旅立たれたか……。
 大意をわかりやすく述べてみたい。

1 身命を惜しむ用心

 寿命が尽きそうだと確信できないうちは、身命をおろそかにしてはならない。
 み仏へすがり、医療の助けを受け、安身延命(アンジンエンミョウ…身体を楽にしていのちを長らえる)をはかる。
 ただし、いたずらに〝長生きしたい〟と執着するのではなく、悟るべきところをきちんと悟るためにこそ、未熟な身を大切にしたい。

2 身命を惜しまない用心

 もはや、死に呑み込まれそうであると覚悟したならば、延命をはかるよりも、心に抱くべきものをきちんと保ちたい。
 昨日、誰かの家で死人が出たと思っていると、今日は死が我が身へ訪れるものであり、こう観想したい。
「この世のありとあらゆるものは、夢、幻、泡、影、露、雷光のように儚い」

3 娑婆を離れる用心

 生きるために用いてきた場所から、死を迎えるために用いる場所へ移りたい。
 それができなければ、剃髪(テイハツ)して仏道に入るか、もしくはそうした心持ちで娑婆のことごとを離れる。
 お釈迦様が城を出て悟りを開き、お大師様が瞑想に入って即身成仏(ソクシンジョウブツ…この身このままで、み仏の真姿と成っていることを顕わにする)を完成させたように。

4 ご本尊様に導かれる用心

 北枕に横臥して顔を西へ向け、信じるみ仏のお像を正面に置き、その手から5色の糸を伸ばし、自分の手でつかむ。
 西方浄土へお導きいただくための準備である。
 お香を焚いてご来迎を待つ。

5 業障(ゴッショウ)を懺悔(サンゲ)する用心

 懺悔(サンゲ)、滅罪などの印を結んだり、真言を唱えたりする。
 あらゆるものは空(クウ)であるとする阿字(アジ)の教えを念ずる。
 それによって、仏性(ブッショウ)を覆い隠す業障(ゴッショウ…悪しき行為の影響力による成仏の障碍)が消え、阿字の世界へ向かうことができる。

6 悟りを求める決心をする用心

 生きとし生けるものと自分は一体であり、それらの苦を抜き、それらへ楽を与えたいと願う。
 いかなるレベルの心もすべて、即身成仏(ソクシンジョウブツ)へ収斂(シュウレン)されることを認識する。
 阿字観(アジカン)に集中して、貪り、怒り、愚かさの雲をうち払い、満月のような仏心を輝かせ、阿字と一体になる。

7 極楽を観念する用心

 極楽浄土は遙かな彼方にあるのではなく、最高の安楽は即身成仏(ソクシンジョウブツ)するこの場に在る。
 気づけばたちまち阿弥陀如来の浄土に入り、そこはそのまま大日如来の無限で永遠の世界である。
 自分はもう極楽の住人に他ならない。

8 最期の時を迎える用心

 瞑想に入ったままで旅立つよう願う。
 僧侶は不動明王の結界を張り、天魔外道(テンマゲドウ)を近づけず、悪鬼邪神(アッキジャシン)の妨害を退ける。
 死に行く人の吸う息と共に、み仏のご加護が加わって清められ、最期に吐く息と合わせた修法によって成仏できるが、しっかりとした瞑想に入っていれば、僧侶の手助けがなくても苦から離れ、安心世界へ旅立てる。

9 没後供養の用心

 もしも、旅立った人の即身成仏(ソクシンジョウブツ)が確信できなかった場合は、あの世の苦から救うために追善供養を行う。
 この世の苦が耐えがたいことを知っている者は、あの世の苦もまた耐えがたいと想像できる。
 あの世で成仏できた御霊は、必ずこの世の人々を救う。




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2016
06.13

アメリカで50人が射殺された ─テロの原因と、すがらせようとする宗教の問題─

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 6月12日、アメリカのフロリダ州で、オマル・マティーン容疑者(29才)が同性愛者の集うナイトクラブへ押し入り、50人を射殺、53人にケガを負わせたあげく、警察の特殊部隊に射殺された。
 反抗の直前、容疑者がISへ忠誠を誓う声明を出していたため、13日、ISは「『イスラム国』の兵士による襲撃」と発表した。
 取材された父親によれば、2~3カ月前に男性2人がキスをしている姿を見た容疑者は「見てみろ。俺の息子の前であんなことをしている」と激高していたという。

 事件前日の6月11日、朝日新聞は、欧州大学院大学(EUI)のオリビエ・ロワ教授に対するインタビュー記事「過激派のイスラム化」を掲載している。
 表題のとおり、イスラム教の中に過激派というセクトがあるのではなく、短絡的で暴力的なタイプの若者が、何かのきっかけでイスラム原理主義の思想を旗印にして走ってしまうというのが、教授の見立てである。

 教授は10代で外国を放浪し、アフガンへ侵攻するソ連軍と戦ったこともあり、過激派とされる人々と現場で議論を重ねてきた。
 フランス国立科学研究センター主任研究員などを歴任してきた教授は、体験と研究の結果、種々の事件を起こした若者たちについて断言する。

「過激になる前から敬虔なイスラム教だった若者は全くいません。
 布教にいそしんだ人、イスラム団体の慈善活動に従事した人も、皆無に近い。」


 彼らの多くは、事件を起こすまでの過程において、むしろ非宗教的で粗暴な日常生活を送っていたことが判明している。
 確かにイスラム教徒の家庭で育った者が多い。
 しかし、彼らは移民2世であり、非イスラム教の風土で育った。
 そこで、言語的にも宗教的にも世代のズレが生じる。
 

「今起きている現象は、世代間闘争です。
 若者たちは、自分たちを理解しない親に反抗し、自分探しの旅に出る。
 そこで、親のイスラム教文化とは異なるISの世界と出会う。
 その一員となることによって、荒れた人生をリセットできると考える。
 彼らが突然、しかも短期間の内にイスラム原理主義にのめり込むのはそのためです。」


 彼らは、うっぷんを晴らすための〈旗印〉としてイスラム原理主義を用いる。

「彼らが魅せられるのは、ISが振りまく英雄のイメージです。
 イスラム教社会の代表かのように戦うことで、英雄として殉教できる。
 そのような考えに染まった彼らは、生きることに関心を持たなくなり、死ぬことばかり考える。
 自爆を伴うジハード(聖戦)やテロは、このような個人的なニヒリズムに負っています。」


 いつの時代も、貧困や病気や差別に苦しむ人々は、宗教的救済の対象となる一方で、宗教団体に引き入れられもする。
 そうした層を狙う宗教団体は、ほぼ例外なく他の宗教宗派を否定、攻撃しする〈閉じた〉組織となっている。
 門を入った者たち同士の極楽があると思わせる一方、門から入らない者には容赦ない。
 事実、東日本大震災後、避難生活を送る人々の悩みの一つは、宗教的勧誘を断ることだった。

 世界中でいのちのケアにたずさわる宗教者には、仏教徒とキリスト教徒とを問わず、共通の姿勢が求められる。
 まず、相手の宗教や思想や立場を尊重すること。
 その上で、虚心坦懐に相手の言葉に耳を傾けること。
 そして、相手へ自分の宗教を押しつけないこと。
 勧誘という下心があってはならないし、相手の宗教を貶めるなどあってはならない。
 当山の人生相談も同様の姿勢で行っている。
 相手が求めるか、もしくは問題を解決するために必要な方法であると確信できる場合のみ、宗教的方法を提案する。

 教授は言う。

「こうした現象が初めて顕著になったのは、中国の文化大革命でした。
 若者たちが親を『打ち倒すべき敵』と位置づけ、ちゃぶ台をひっくり返して、すべてをゼロから始めようとした。
 1960年代以降、このように親の世代を否定する過激派現象が世界で吹き荒れました。
 68年のフランスの学生運動『5月革命』、テロを展開した『ドイツ赤軍』、カンボジアで虐殺を繰り広げた『クメール・ルージュ』は、みんなそうした例です。
 若者による親殺しなのです。」

「しばしば指摘される過激派の暴力的、威圧的な態度も、イスラム主義に限ったものではありません。
 若者文化、ストリート文化につきものなのです。
 ロサンゼルスのヒスパニック系ギャングにも、シカゴの一部の黒人集団にも、同様の傾向がうかがえます。」

 
 数々の現場に立ち会ってきた教授の目は、イズラム教の旗に惑わされず、若者たちの「暴力的、威圧的な態度」そのものを見抜いている。
 宗教は本来、そうした「態度」を和らげ、あるいは「態度」の発生源を解消し、あるいは若者のエネルギーを創造的な方向へ導かねばならない。
 若者一人一人が人間として真に解放され、伸び伸び、活き活きと生きる方向を見つける手助けになればそれで宗教本来の役割は果たされるはずだ。

 いかなる宗教を信じるかは、一人の人間にとって人生の一側面である。
 信仰が人を離反させてはならず、無論、いのちを捨てさせてはならない。
 万人に開かれ、すがる人を利用しようとしないのが真の宗教の姿ではなかろうか。
 私たちは、テロを見すえる一方、宗教へすがらせようとする者、教団という閉じた世界へ引き入れようとする者への警戒を怠らないようにしたい。




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2016
06.12

東日本大震災被災の記(第185回) ─書道家高橋香温先生の復活─

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〈第一回書道教室髙橋高温先生。「百字偈(ヒャクジゲ)」のお話を申し上げた。〉

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〈ハッとさせられた作品〉

 6月11日、朝日新聞は、名取市閖上東日本大震災に遭った書道家髙橋高温先生を紹介した。
 思えば、当山が先生とご縁になったのは、知人を介してご相談に来られたことがきっかけだった。
 そして、すぐに当山で毎月一回の書道教室を初めていただき、回を重ねるうちに、たちまち5年が過ぎた。

 震災から半年後の9月11日に当山で開いた寺子屋では、「シンポジウム『文字を書く心・文字を唱える心』」と題してお話をお聴きした。
 泥の中から見つかった作品「ひまわり」が支えとなったことは、参加者の心に強く響いた。
 各方面、各地からの支援があるとは言え、まさに着の身着のままといった気配は痛々しかったが、先生は思いのたけを述べられた。

「白いものが落ちてきたなと思ったら雪でした。
『早く明るくならないかな』しか考えられないで一夜を過ごしました。
 翌朝明るくなり始めた頃、イヌを連れて散歩しているらしい親子を見かけ、声をかけました。
 母親らしい人に、『下へ降りられないですか?』と言われ、水があるので降りられないと思っていたけれど、何とか階段を伝って外へ出ました。
 そして、『誰かと一緒にいなければならない』と思いました。」

「やがて4月中旬になり、作品「ひまわり」を見つけました。
 そのことを知った書道教室の生徒さんから『先生、誰かに教えたらどうですか。見つかったのはとても凄いことですよ』と言われ、ハッとしました。
『まだ行方不明のご家族を捜している方が見たら安心するかな』
 こう考え、震災前の予定で一緒に展示会を行うことになっていたカメラマンの作品と共に、展示することにしました。」

「しばらく筆を持っていなかったのですが、『ああ、作品も生きていたのだな』と打たれ、『何か書かなければいけない』と思えました。
 あの時が、自分の書の転換期になったと思います。」

「マスコミの取材で『自分だけが生き残り、罪悪感はなかったですか?』と問われ、『罪悪感があったなら、私は生きていられません』と答えました。
 すでに〈思いやり〉は人びとの心から薄れつつあるのかと悲しくなります。
 たまたま生きている自分です。
 震災後には確かにあったお互いを思いやる気持を書にしたいのです。
 色あせないうちに、ふるさとの潮風、カモメ、学校、友達、お寺、神社などを書にしたいのです。
 そこから本当の自分が再スタートをきれるのではないかと思います。」

「今や、生きていた作品「ひまわり」は私の手を離れつつある〈震災のシンボル〉です。
 しかし、私は、この作品と共に、ここから再スタートをしたいのです。」


 あれから5年、先生は仙台市で「永遠のしずく」と銘打った作品展を開かれた。
 先生は、当山でお大師様の教えに接し、インスピレーションを得られた。
「永遠のしずくとは、お大師様が説かれた一文にある『海渧(カイテイ)』すなわち、海に満ちる潮から生じる無限の滴(シズク)」

「太陽に輝く
 青い海
 月夜に輝く
 白い海
 永遠のしずくとなる
 海よ
 すべては血潮が
 知るところ
 生と死が
 わかちあう場所を」


 Aさんが朝日新聞に驚き、息せき切って電話をくださった。
 Aさんは以前、仙台市で開かれた先生の作品展にでかけ、先生と言葉を交わし、すっかりファンになっていた。
 だから、「永遠のしずく」展を知っていち早く、お赤飯を持って駆けつけ、展示のお手伝いもした。
「あれは凄いと思っていました。
 先生のお人柄と作品が紹介されてよかったですね。
 法楽寺の書道教室に出かけられなくて残念ですが、出版する本を楽しみにしています。」

 ちなみに、「海渧(カイテイ」の出典はここにある。

「我性(ガショウ)の自覚は空(クウ)に満ち、海渧(カイテイ)の化身(ケシン)は世(ヨ)を救う」

 我性(ガショウ)の自覚とは、自分の本体がみ仏であると自覚すること。
 海渧(カイテイ)とは、海に満ちる潮から生じる無限の滴(シズク)たち。
 化身(ケシン)は、ありとあらゆるものに姿を変えつつ生きとし生けるものを救うみ仏。
 だから、全体の意味はこうなる。
「自分の本体がみ仏であると自覚する時、その力は宇宙に充ち満ちる。
 大海の水がつくる無数の滴たちのような仏菩薩(ブツボサツ)は、私たちをいつもお救いくださっている」

 先生は、この二文字を、異なった濃淡でたくさん書かれた。
 それは、時にはっきりと、時に淡い、み仏の顕現のようだった。
 合掌。




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2016
06.11

生きとし生けるものは父であり母 ─今もいる奴隷2千7百万人─

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リサ・クリスティン氏の写真をお借りして加工しました〉

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〈彼女たちは毎日、石を背負い、山の石切場から麓まで運び降ろす。それが生涯のすべてとは……。〉

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〈幾世代にもわたって水銀などに汚染され続ける劣悪な作業場。これは現在の光景である。〉

 お釈迦様もお大師様も、私たちと同じ人間です。
 違うのは悟られたということ。
 それは、個別の一人間でありながら、人そのもの、あるいは生きものそのもの、あるいはこの世そのものとしての存在を生ききったということでもあります。
 別世界の一端がお大師様の言葉にあります。

六道(ロクドウ)・四生(シショウ)は、みなこれ父母(ブモ)なり。
 蠉飛(ケンピ)・蠕動(ゼンドウ)も仏性(ブッショウ)あらざること無し。」


 六道とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天というこの世のすべての世界です。
 四生とは、卵生(ランショウ)・胎生(タイショウ)・湿生(シッショウ)・化生(ケショウ)です。
 生きものは、卵から生まれるもの、胎内から生まれるもの、ジメジメしたところから生まれるもの、何もないところから生まれるもののいずれかであると考えられていました。
 蠉飛の「蠉」はボウフラであり、フラフラと飛び回るものです。
 蠕動はうごめき、這いずるものです。 
 つまり、どんな生まれをして、どんな世界に生きるものもすべて、「父母」であり、「仏性」を持っているとされたのです。

 ここでいう「父母」は、私たちそれぞれにとっての具体的な父親や母親を指すのではなく、いのちの源のような、あるいは存在の基盤のような、尊さを持ったかけがえのない存在であるという意味でしょう。
 なにしろ、父母が揃わない限り、私たちは決してこの世へ生まれ出られないのです。
 そして、「仏性」とは仏に成る可能性なので、文章全体として言わんとしていることはこうなりましょうか。

 いかなる生まれをして、いかなる世界にあろうと、皆、等しく欠かせず、かけがえのない存在であり、たとえ虫けらのようなものにすら、仏性が宿っている。

 ここがつかめれば、輪廻転生(リンネテンショウ)の真実性がわかります。
 私たちは、過去の因縁に促され、〈たまたま〉人間として、今ここにいる自分として生まれてきただけのことです。
 目の前にいるネコとして、あるいは庭で鳴いているウグイスとして生まれてきたと仮定することも可能です。
 そして、死後、いかなるところに、いかなるものとして生まれようと何の不思議もありません。
 何ものとして承けようと、生は等しく生なのです。

 こうしたことを想う時、自分の行いがこの世にもたらしている影響の重さに気づきます。
 暴力、戦争、環境汚染、自然破壊、人権蹂躙、無慈悲な殺生、これらの恐ろしさが胸に迫ってきます。
 たとえば、写真家リサ・クリスティン氏が平成27年に発表した「現代奴隷の目撃写真」には息を呑んでしまいます。
 氏は「NGOフリー・ザ・スレーブ」の活動にかかわり、世界中で奴隷の実態をカメラに収め、告発しました。
 驚くべきことに現在、世界中で、少なく見積もっても2千7百万人以上の人々が奴隷となっています。
 

「この数字は大西洋横断奴隷貿易時代にアフリカから移送された人の倍です。
 150年前 農場に送り込まれた奴隷の値段はアメリカ人労働者の年収の3年分でした。
 現在の貨幣価値ならば約5万ドルです。
 ところが今日では わずか18ドル程度の借金のせいで、一家族が何世代にも渡って奴隷になってしまうのです。
 驚くべきことに、奴隷制度は世界全体で年間130億ドル以上の利益を生み出しています。

「今日の奴隷を駆り立てるのは商業です。
 奴隷扱いされる人々が作る商品には価値がありますが、商品を作る人々は使い捨てです。
 奴隷制度は世界中どこでも違法ですが、奴隷は世界中至る所に存在します。」


 こうした現実を知ると、人間が変わらない限り世界は変わらないことを痛感します。
 世界が変わらなければ、人間は救われません。
 今、日本でどうにか平穏な日々を暮らしている自分が死後、ガーナのジャングルで、一日の大半を鉱山労働に費やし、非人間的な扱いをされつつ若死にして行くことを想像した時、平然としていられましょうか?
 私たちは、今の自分が救われたければ、まず、今の自分がどう生きているかを考えたいものです。
 もちろん、酷い社会的共業(グウゴウ)に押し潰されまいと必死に抵抗しているかも知れません。
 しかし、それでもなお、自分自身を問題にしなければ、世界は根本から変わり得ません。
 舛添問題の狂騒を見るにつけても、真に自分を省みることの重大さと困難さがわかります。

 生きとし生けるものに「父母」を観て、まず、自分から「仏性」に生きようではありませんか。




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2016
06.10

夫を迎えに来たお婆さん ─ご来迎の真実─

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 東日本大震災の直後、ある山村でお婆さんが亡くなり、ご自宅からお送りした。
 寒い日、ガソリンが手に入りにくくて業者さんの車を初めて利用させていただいた。
 そのご主人が今年、夏を迎えた頃に、この世での役割を終えられた。
 ご先祖様の遺影が鴨居に並ぶ仏間兼居間で倒れていたという。

 また、ご自宅でのご葬儀となり、座して修法に入った。
 お柩は部屋の西側に置かれ、頭は北、足は南である。
 導師の右横に棚があり、高さ70センチメートルほどの仏壇がはめ込まれている。
 もちろん、そこにはお婆さんのお位牌がある。

 引導を渡した直後、右目の端で異変が起こった。
 仏壇を乗せた棚の下は空洞でカーテンが掛けられているのだが、それが、パタパタ、パタパタと揺れる。
 経典を手に持って読誦していながら脇見で確認することはできない。
 しかし確かに、右90度、視界の限界ギリギリのところで、再び、パタパタ、パタパタと揺れた。

 良くも悪しくも因習の深い地域とて、ご夫婦の間にもご家族の間にもさまざまなできごとがあった様子は、かねてお子さん方からお聞きしていた。
 それらすべてを呑み込んで、お婆さんは、これから斎場へ向かうお爺さんを呼んでいる。
「お疲れ様。もういいのよ。さあ、おいでなさい」
 戻った静寂の中でお送りする準備は調った。

 数名が立ち会う斎場で喪主様は涙目だった。
 さっきのできごとには触れず、控え室へ向かう喪主様と短い挨拶を交わした。
「ご苦労様でした」
「ありがとうございました」

 人気のなくなった火葬炉の前で、また合掌し、猛火を発する不動明王に祈りつつ、気配を感じた。
〝ああ、お婆さんが来ている……。
 お爺さんがこの世へ持っていた愛憎も執着心も、もう、見事に捨て去ったことだろう〟
 一足先に仏様となったお婆さんは、文字どおり〈来迎(ライゴウ…迎えに来ること)〉されたのだった。




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2016
06.09

Q&A(その23) ─過ちを清めるには?─

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 人生相談でいただくことの多いご質問である。
過ちを犯してしまいましたが、心の問題なのです。
 どうすれば償えるでしょうか?」

 私たちは、嘘をついてはいけないことを知っている。
 盗んではいけないことを知っている。
 しかし、どうしても〈やらかしてしまう〉存在だ。

 では、ハッとした時に何をすれば、悪行(アクギョウ)の償いができるか?
 それは、懺悔(サンゲ)と善行(ゼンギョウ)である。
 心底から悔い改めねばならないし、本当に〝悪いことをしてしまった〟と思えば、必ず何かよいことをしないではいられない。

 では、どう悔い改めればよいか?
 まず、我欲に引きずられがちな日常生活から、ちょっと離れる必要がある。
 さもないと自分可愛さから、自分に対する言い訳や、社会に対する言い逃れ、あるいはごまかしを生じ、肝心の罪悪感をうやむやにしたくなる。

 離れる先が宗教の世界である。
 だから、仏教においてもキリスト教においても、懺悔の作法は洗練されてきた。
 当山の例祭は必ず懺悔から始まる。

 古来の作法には叡智が宿っている。
 常に過去のデータや判断が書き換えられる科学の世界とは異なり、宗教の世界ではむしろ、年月を経て研究され、実践されてきた作法にこそ信頼がおける。
 それは、無数の人間が導かれつつ真実性を検証してきたからである。

 もう一つの善行(ゼンギョウ)はどうか?
 そもそも善行(ゼンギョウ)とは何か?
 経典は「仏性(ブッショウ)にすなおな行為」であると説く。

 仏性(ブッショウ)とは、私たちに本来そなわっている、み仏の子たる霊性のことである。
 誰でも持っているのなら何の問題もなさそうだが、月に群雲(ムラクモ)がかかるように、自己中心の我欲(ガヨク)によって覆われている時間がどうしても長くなる。
 まず、自分が生きねばならないからだ。

 では、どうすれば群雲を(ムラクモ)払えるか?
 身体と言葉と心のはたらきを仏性(ブッショウ)に合わせればよい。
 その方法もまた、歴史に磨かれた経典に説かれており、大乗仏教(ダイジョウブッキョウ…皆共に救われようとする仏教)の基本は六波羅蜜(ロッパラミツ…6つの修行道)の実践である。

 さて、6月8日、総勢100名様ほどの中で、こんなお話を申し上げた。
「私たちはどうしても自己中心的に生きてしまいますが、お地蔵様や観音様はそうでなく、自己中心というものがないから菩薩(ボサツ)様なのであり、私たちも、誰かの役に立とうとしたり、始めたことはやり遂げようと精進したり、生きとし生けるものへ感謝をしたりしているうちに、だんだん菩薩)ボサツ)様に近づけます。
 そうした小さな実践を続けていれば魂が清らかになり、この世への執着心や、死への不安や恐怖心が消え、如来様の世界と感応し、安心で生きがいのある日々が送れます」

 六波羅蜜(ロッパラミツ)を学んで善行(ゼンギョウ)を実践したいならば、実践者であろうとする行者に学べばよい。
 苦を抜き楽を与える慈悲の体現者である菩薩(ボサツ)様や如来(ニョライ)様をお祀りしている寺院には、この世の幸せとあの世の安心を得るきっかけがある。
 自分の行いにハッとした時は、懺悔(サンゲ)と善行(ゼンギョウ)を心がけたい。




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2016
06.08

ボーナスの驚きとはたらく人々の嘆き

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 6月7日、日経連は大手企業が支給する夏のボーナスについて第一回目の発表を行った。
 対象企業の条件は東証1部上場、従業員500人以上である。
 支給額は連続4年の上昇となり、昨年と比べ平均3・74%増の92万7415円。
 これは過去3番目の高水準であり、平成20年の2008年(93万329円)に近い。
 もう、リーマンショック前にまで戻っている。

 一方、厚生労働省の発表によると、パートタイマーを除いた一般労働者の実質賃金は、昨年の段階で4年連続の低下となっている。
 しかもその間、消費者物価指数は上がっているので、大企業も、そこではたらく一握りの人々も我が世の春を謳歌しているのに、一般労働者の生活は明らかに苦しくなっている。
 たとえば、国内100職種のうち58位にあるタクシードライバーの平均月収は19万6767円(平成27年)である。
 約40パーセントが月収15万円から20万円で暮らしているのだ。

 日本国憲法25条にはこう書かれている。
「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」
 生存権が掲げられたこの条文は、読むたびに違和感を覚える。
 最低限度の生活を保証すれば国家の役割はまっとうされたことになるのだろうか?
 そんなはずはない。
 この条文は、憲法制定当時、日本が戦争に敗れた直後だったので、〈せめて〉こうあって欲しいという切なる願いが込められたものである。
 だから、もうとっくに、このレベルからジャンプしていなければならないにもかかわらず、このあたりでの論議がなされている。

 ある時、首都圏ではたらく若者が人生相談に来山した。
 中小企業でまじめにはたらき、社長も人格者なのに、食べるのがやっとの給与だという。
 各種の資格をとれば、待遇のよいところへ転職できるかと希望を持っていろいろやってみたが、資格者はゴロゴロいて自分の価値を高める決め手になどならない。
 人の道を学び、置かれた立場なりに誠意をもってはたらき、よき心をもって明るく生きることは可能だが、社会的共業(グウゴウ)が若者の未来をなかなか開いてはくれない。

2016^-6-08-0005

 日本では子供の6人に1人が貧困で、特に1人親の場合はその割合が5割を超え、世界で最悪のレベルに達している。
 親の所得の格差がそのまま子供の学力の格差につながり、ひいては世代を超えた格差と階層の固定化につながり始めているという恐るべき実態も指摘されて久しい。
 こと、ここに至れば、富の配分に思い切って手をつける以外、方法はないのではなかろうか?
 自由競争と経済成長はもう、大多数の国民にとって錦の御旗でもなければ、打ち出の小槌でもない。
 この二つは否定されるべきではないが、それを原理主義的に用いる手法によって国民が幸せになれないことは、ほとんど明らかではなかろうか。

2016-06-08-0003.jpg

 政治は今、困っている人々に手を差し伸べ、1人1人に力をつけさせ希望を持たせるという、最も切実に求められている役割をこそ果たすべきではなかろうか。




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2016
06.07

事前指示書と村上春樹のオーディオ観

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 最近、事前指示書に関するご相談があります。
 事前指示書とは、自分で意志表示できない状態になった時にそなえて、事前に医療行為などに関する要望をまとめておくものです。
 自分が倒れたならこうしてもらいたいとか、これは止めて欲しいというイメージを持っていても、形あるものにしておかないと、周囲の人々がわからなかったり、誤解したり、あるいは無視したりといったことになる可能性があるので、指示書は大切です。
 こうした事前指示書にはその人の人生観がはっきりと表れ、いかにまとめるかは、一人の人生を総括する作業でもあります。

 ところで、、古いオーディオ装置を愛用し続けている作家村上春樹氏はこんなことを言っています。

「うちのJBLのユニットは柄こそでかいけど、最新のスピーカーに比べたら上も下もそんなに伸びません。
 スペック的に見たら時代遅れなスピーカーだと思います。
 もっと広域が伸びたり、低域がもっとガシッと出たりしたらいいだろうな、と思う時ももちろんあります。
 でもそういう音になって、僕にとっての音楽の情報量がいまより増えるかと言ったら、それはないんじゃないかな。
 このいまのスピーカーを通して与えられる情報が、僕にとって長いあいだひとつのメルクマールになってきたし、それをもとにして音楽的にものを考える訓練を僕は積んできたわけです。

「僕にとって音楽というものの最大の素晴らしさとは何か?
 それは、いいものと悪いものの差がはっきりわかる、というところじゃないかな。」

価値判断の絶え間ない堆積が僕らの人生をつくっていく。


 私たちは、音楽だけでなく、いろいろなものの価値判断をし、取捨選択しつつ「人生をつくっていく」わけですが、人生の最終場面における取捨選択が事前指示書の作成ではないでしょうか?
 誰かに選んでもらうのではなく、〈ここはどうしても譲りたくない〉と自分で選んだ自分の人生の最後の姿がそこにはあります。
 選び方に誰かとの比較はなく、いつしかできていた自分なりの尺度をもってするしかありません。
 ここに、村上春樹氏の言う「メルクマール」つまり指標の問題があります。

 氏は音楽に対して、〝これはいいなあ〟〝これはよくないなあ〟と判断し、そうした感覚で「ものを考える」生き方をしてきました。
 判断の材料となる音楽を提供するのが「JBLのユニット」です。
 それを通してこそ、氏は安定した判断が行い続けられました。
 私たちにもまた、自分なりの判断をさせる心の装置があるのではないでしょうか。

 私たちは普段、それを誰かに示すことはなく、氏にとっての音楽のようなものを必ずしも持ってはいませんが、事前指示書を考える段になると、自分でも気づかなかった判断の道筋や希望の強さに驚いたりします。
 Aさんは、ペースメーカーの電池がなくなる時を臨終の時と思い定めて指示書に書き、それまで、み仏から預かったいのちを大切に生きようと考えておられます。
 Bさんは、自分が手をかけられなくなった時に飼い猫をどうしてもらいたいか、相手の了承を得て指示書に書き、「一番の気がかりがなくなりました」と笑顔を見せました。
 Cさんは、献体の場合も引導を渡してもらえることを知り、「二つの望みがかなえば、もう、何も要りません」と涙を流されました。
 こうした決心の〈相談〉や〈書き込み〉、あるいは〈委託〉をお寺で行いたいとのお申込みがあると、いつも以上に身が引き締まります。

 そもそも寺院は、そうした場でした。
 この世のままならなさに負けず、人としてまっとうに生き抜き、最期を託すために役立つ場だったはずです。
 大いに利用していただきたいと願っています。




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2016
06.06

6月の運勢について ─不動明王の慈悲で断つ─

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 6月の運勢です。
 今月は、意を決して、魔もの悪縁を断つのによい時期です。
 ただし、断つことそのものの快感に酔ったり、ざまあみろといった高慢心が起こったりすれば、切った刃で自分も傷つく虞があります。
 あるいは、浴びた返り血が思わぬ災いを呼ぶかも知れないので、断つ時の心構えや、断つ手順や、断った後の心の持ちようなどにも充分、注意したいものです。

 そもそも仏教は、あらゆるものを等しく救い、救い漏れはありません。
 悪しきものにも救われる道があります。
 たとえば、結界を張る秘法においても、必ず、そこに居るべきでないものの脱出や救済が考慮されています。

 仏教行者の基本的な姿を示す不動明王の経典にはこう説かれています。

「魔軍を破(ハ)すといえども、後(ノチ)には法楽を与え、忿怒(フンヌ)を現ずといえども、内心は慈悲なり。」
「大力の諸(モロモロ)の夜叉(ヤシャ)も、明王(ミョウオウ)降服(ゴウブク)し盡(ツク)して、解脱(ゲダツ)の道に入(イ)らしむ。」


 未熟な子供は皆、聞き分けのよい者ばかりではありません。
 可哀想でも、叱り飛ばして怖がらせねばならない場合があります。
 親が、自分の感情からではなく、強い慈悲心から子供へ恐怖感を与え、目覚めさせるように、不動明王もまた、忿怒の形相と鋭い智慧の剣をもって凡夫の悪心を断ち、その後には必ず大きな安心をお与えくださるのです。

 ところで、『三国志』の「泣いて馬謖(バショク)を斬る」は広く知られています。
 いかに情が通っていても、関係を断たねばならない場合には、英断をもって行うという意味で、広く用いられています。
 以下、ウィキペディアから引用します。

「蜀(蜀漢)の武将・馬謖(バショク)が、街亭の戦いで諸葛亮(ショカツリョウ)の指示に背いて敗戦を招いた。
 この責任をとり馬謖(バショク)は処刑されることになるが、愛弟子(マナデシ)の馬謖(バショク)の処刑に踏み切るにあたり諸葛亮(ショカツリョウ)は涙を流した。
 後に蒋琬(ショウエン)から『馬謖(バショク)ほどの有能な将を』と彼を惜しむ意見もあったが、諸葛亮(ショカツリョウ)は『軍律の遵守が最優先』と再び涙を流しながら答えたという。」

 しかし、三国志の「正史」と「演義」とでは、泣いた理由が違います。

「『演義』では、何故泣くのかを蒋琬(ショウエン)に訊かれた諸葛亮(ショカツリョウ)は『馬謖(バショク)のために泣いたのではない』と答えている。
 諸葛亮(ショカツリョウ)は劉備(リュウビ)に『馬謖(バショク)を重く用いてはならない』という言葉を遺されていたにも拘らず、その言葉を守らなかった自分の不明を嘆き、泣いたとされている。」

 つまり、「三国志演義」によれば、軍師だった諸葛亮(ショカツリョウ)は、〈ふさわしくない人間〉と指摘されていた人物を用いて重大なマイナスをもたらしてしまった自分の不明を悔いたのです。
 この後段はあまり知られていないかも知れませんが、実に重大な問題を孕んでいます。
 人材の登用は難しく、人事権者はいつの時代も悩みを持つものです。
 仏教における得度、すなわち入門についても事情は変わりません。
 特に、師資相承(シシソウショウ)と言い、直接的な伝授によってしか肝心の法が伝わらないとされる密教では、弟子入りの希望者が伝授を受けるに足る〈器〉であるかどうかが相承(ソウショウ)決め手となります。
 師僧(シソウ)の器に入っているものは、たとえ未熟ではあっても、一定の受容可能性を持った人物の器にしか渡すことができません。

 今月は〈断つ〉のによい時期であっても、無慈悲が許されるわけではなく、よく考えて決断、実行しましょう。
 また、何かをつないだり残したりする際にも一考を要しそうです。
 力や立場や権威に傲(オゴ)らず、自他のため、冷静にしっかりと対応しましょう。




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2016
06.05

漢文『法句経』を読んでみる(その5) ─学び方─

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 寺院や寺子屋 ではもちろん、戦前まで広く親しまれていた漢文の『法句経 (ホックキョウ)』を読んでみましょう。
 戦場へ赴く若者が懐へ忍ばせていたという話も聴いています。
 当山では、寺子屋やNHKの講座で読み通しており、学びの柱として欠かせません。
 小生の土台はこの教えによってつくられました。
 どれか一句でも、皆さんの心へピンと届くものがあればありがたいことです。
 新たになった読み下し文を意訳してみましょう。 (「新国訳大蔵経」によります)

 前回に続き【教学品(キョウガクホン)第二】です。

〔四一〕学ぶには当(マサ)に先(マ)ず解(カイ)を求め、観察(カンザツ)して是非を別(ワカ)つべし。諦(タイ)を受ければ応(マサ)に彼(カ)れに誨(オシ)うべく、慧(エ)あるも然(シカ)くして復(マ)た惑わず。


(学ぶには、まず、自分が持っている疑問を解き、自分で是非を判断できるようにならねばならない。真理を会得したならば他者へ教えることができる。智者は自ら立ち、惑わぬ者となっている)

〔四二〕被髪(ヒハツ)して邪道(ジャドウ)を学び、草衣(ソウエ)しても内に貪濁(ドンジョク)あり。曚曚(モウモウ)として真を識(シ)らざること、聾(ロウ)の五音(ゴオン)を聴くが如(ゴト)し。


(髪を振り乱して邪道を学び、隠者らしい粗末な服装をしていても内心には貪りの汚れがある。心が確かでなく真理を知らないのは、聾者が声音を聞き分けられないようなものである)

〔四三〕学びて能(ヨ)く三悪(サンアク)を捨(シャ)し、薬を以(モッ)て衆(モロモロ)の毒を消す。健夫(ゴンプ)の生死(ショウジ)を度すること、蛇の故(フル)き皮を脱するが如(ゴト)し。


(学んで貪・瞋・癡を離れるのは、薬によって、毒が全身へ回るのを防ぐようなものである。強い意志で修行し、生き死にの苦を克服するのは、ヘビが脱皮して古くなった皮を脱ぎ捨てるようなものである)

〔四四〕学びて多聞(タモン)にして、戒を持(ジ)して失わざれば、両(フタ)つながら世に誉められ、所願は得(エ)らる。


(よく学び、戒めを守って保てば、現世でも来世でも称賛を受け、願いとする誓戒は具わる)

〔四五〕学びて寡聞(カモン)にして、戒を持すること完(マッタ)からざれば、両(フタ)つながら世に痛みを受け、其(ソ)の本願を喪(ウシナ)う。


(あまり学ばす、戒めを守りきれなければ、現世でも来世でも非難を受け、願いとしているものは成就できない)

〔四六〕夫(ソ)れ学ぶに二有り、常に多聞(タモン)に親しむと、安んじて諦(ツマビ)らかに義を解(ゲ)すとなり。困しむと雖(イエド)も邪(ヨコシマ)ならざれ。


(学ぶには二面がある。たくさんの教えを聞くことと、心を安定させて教えを理解することである。二つの修行が苦しかろうと、邪道へ行ってはならない)

〔四七〕稊稗(タイヒ)の禾(イネ)を害するが如)、多欲は学びを妨(サマタ)ぐ。衆(モロモロ)の悪を耘除(ウンジョ)せば、成収(セイシュウ)必ず多(オオ)からん。


(いぬびえと草びえが稲の生育を害するように、仏法以外のものへあれこれ関心をめぐらせれば肝心の学びが妨げられる。雑草を抜くように悪しき欲を取り除けば、実り多い収穫となる)

〔四八〕慮(オモンバカ)って後(ノチ)に言い、辞(コトバ)は強梁(ゴウリョウ)ならず。法説(ホウセツ)と義説(ギセツ)、言いて違(タガ)うこと莫(ナ)し。


(深く思慮してから話し、言辞は強く荒々しくないようにせよ。そうすれば、真理についても教義についても、説法に誤りはなくなる)

〔四九〕善(ヨ)く学びて犯すこと無く、法を畏れて暁(サト)く忌(イミ)す。微(ビ)を見る知者は、誡(イサ)めて後(ノチ)の患(ウレ)い無し。


(よく学んで戒めを犯さず、真理に畏れを抱いて賢く自分の愚かさをはばかる。見つけにくい真理がわかった智者は、自分を誡めて後顧の憂いをなくす)

〔五〇〕罪と福を遠く捨て、務(ツト)めて梵行(ボンギョウ)を成(ジョウ)じ、終身自(ミズカ)ら摂(オサ)む、是(コ)れを善学(ゼンガク)と名づく。


(娑婆での罪を離れ福を求めず、仏道修行に励み、一生、自分自身を統御する、これを善く学んだ者すなわち長老と名づける)

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