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2016
07.31

人間、心、いのちの全体性は大丈夫か?

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〈運慶作の国宝大日如来像(円成寺)。何ものでもなく、何ものにもなる空(クウ)の空(クウ)たる姿〉

 A医師のお話を聴いた。
 医学部がどんどん細分化され、診察の現場で多様な患者さんに対応したり、医療全体が俯瞰できる視点を持っているような若い医師がなかなか、いないらしい。
 飛んでいる飛行機の中で具合を悪くした人がいた場合、スチュワーデスが「お医者さんはいませんか?」と声をかけ、手を挙げた医師が急病患者を救う、などという光景はこの先、あまり期待できないだろうと言う。
 もしも、専門分野以外の病気に手を出した場合、法的責任を問われかねないといった面も心配だ。
 その一方で総合医というものもあり、何でも診る医師だが、場合によっては、患者さんが専門の医師へとバトンタッチされる。
 総合医もまた、全体という分野に特化した知見を身につけるという意味では、細分化された世界を担っている。

 A医師へ訊ねた。
「私たちが病気になった場合、どの医師へ自分の身体を任せるかを決めるのは、特別な場合を除き、医療技術のレベルではなく、信頼できるかどうかという一点ではないでしょうか?
 そうした意味では、医療は全人格的な仕事ではないかと思えますが……」
 そうです、お互いの信頼感が第一です、という返事を耳にしながら、なぜ、人格や信頼といった現場で最も大切なところと、専門家を育てる教育の方向性がずれているのか、考えさせられた。

 やはり、技術偏重、あるいは能率や効率への過度な期待といった文明の問題なのだろう。
 小学生の頃から商売を体験し、大学では、より多くの収入に直結する資格が得られるような学部を選ぶといった方向で進めば、何かが欠けてしまうのではなかろうか。
 技術は道具であり、道具の用い方を決める精神は、技術の習得とは別なところでつくられるはずだ。
 何かを得るための思考や行動ではなく、それ自体が目的であるような思考や行動がある。
 たとえば〝自分はなぜ生きているのか?〟といった問わずにはいられない問いを問い続けること、あるいは星空に魅入られたり、神社仏閣で何かの気配を感じとったりしてボーッと過ごすこと。
 そうして過ごす時間が、人格を陶冶し、信頼される人物をつくるためには欠かせないと、体験上、思う。
 しかし、一見、何の役にも立ちそうにない時間を過ごす心の余裕は、子供や若者たちにあるだろうか?
 去年、ある小学生が話してくれた言葉は、小生の心で御守のように生きている。
「和尚さん、ぼく、独りで近くの公園に行って、丘にある台に座るのが好きなんだ。
 ボーッと眺めるんだ。
 誰も知らないよ」 

 私たちは文明を見直す重大な状況に面しているのではないか。
 人間も世界も、生気や精気や正気を保ちにくくなっている。
 人間、心、いのちが、歪(イビツ)になりかけている。
 それらを軽視する世界になりつつある。
 多様な意見に耳を貸さず、決まり文句を叫び、力で二者択一を迫る人々が世界中でもてはやされつつある。
 私たちの不安、無力感、閉塞感、苛立ちや無慈悲さは今や、尋常ならざるところに来ている。

 インドの詩人ラビンドラナート・タゴールがこう詠んでからもう、一世紀が経つ。

「生をして夏の花のように美しく、死をして秋の葉のようであらしめよ」


 夏の花のような真に活き活きした生、秋の葉のような真に受け容れられた死は、どこへ行ったのだろう。

 ちなみに、『理趣経(リシュキョウ)』はこう説いている。

「私たちが本来持っている無限の意欲は、智慧と慈悲に導かれ、無限の安楽と豊かさをもたらす」


 技術、効率、能率といった〈道具〉を磨きつつも、それらの主人公である心のありようにもっと気を配る文明であって欲しい。
 ドイツには、オリンピックのモットーを「より速く、より高く、より強く」の3つだけでなく、「より美しく、より人間らしく」を加えた5つにしようと提唱する人々がいるらしい。
 ドーピングで揺れるロシアのプーチン大統領が「もっと強く」と鼓舞していることと比較しても、さすが、であると思う。




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2016
07.30

般若心経の救い

2016-07-30-0001.jpg

 皆さんのご関心が仏法に向かうこの時期、般若心経について少々述べてみます。

1 般若心経三蔵法師(サンゾウホウシ)が救われた話

 中国の敦煌(トンコウ)から見つかったお経が説く、般若心経の救いです。

 唐の時代、玄奘(ゲンジョウ)という意欲に満ちた僧侶がいました。
 彼は、学ぶ仏教に、自分ではどうしても解釈できない問題点を見つけました。
 そこで彼はインドへ行って直接、調べようと決心します。
 若き日のお大師様が、夢のお告げで『大日経』に巡り会った後、どうしても理解でない部分を解くために、唐の都長安を目ざしたのと同じです。

 しかし当時、長安から出ることは固く禁じられていました。
 それでも玄奘はこっそり出発します。
 やがてたどり着いた空恵寺(クウエジ)でインドから来て病気になった僧侶と出会い、手厚く看護します。
(空海とその師である恵果の「空」と「恵」が山号になっています……)
 すると僧侶は、インドへ向かう彼に、救済力のある経典として般若心経を教えてくれました。
 きっとこの僧侶は、般若心経にすがりながらインドからここまでの道中を生きてきたのでしょう。

 当時、道のない砂漠の中を進むには、人や馬などの骸骨が目印でした。
 白々としたお骨を求めて歩むある夜、突然、従者が剣を振りかざし、玄奘から路銀を奪おうとします。
 玄奘般若心経を唱えたところ、月光が刃となって従者の目を貫き、救われました。

 一難去ってまた一難、悪竜などが次々に襲ってきますが、般若心経はすべて退散させました。
 しかし、水がないのには困り果て、彼はついに故国へ踵(キビス)を返そうとします。
 その時、大音声が聞こえました。
「お前は何のために歩いているのだ。
 長安へ引き返して生きるよりも、西へ向かって死のう」
 突っ伏した彼に向かって一陣の涼風が吹き、顔を上げると、そこには草も水もありました。
 いつの間にか、天山(テンザン)山脈の麓にいたのです。

 あらためて勇気を奮い起こした玄奘は、山脈越えに挑みます。
 凍てついた平原や峻険な山、石つぶてのように叩きつける氷雪をものともせず、般若心経を先達(センダツ)として進んだ彼はついに、インドのナーランダー寺にたどり着きました。
 そこで彼を出迎えたのは、空恵寺で看病した僧侶でした。
「私は観世音菩薩である」
 こう告げた彼は消えます。
 般若心経と、その主尊観音様に救われた玄奘は懸命に励み、16年の歳月をかけ、インドから数々の経典を持ち帰りました。
 彼は三蔵法師(サンゾウホウシ)と称され、私たちは彼が翻訳した般若心経に救われ続けています。

2 お大師様が説いた般若心経の意義

 玄奘と同じように、真理を求めて荒海を渡り、長安へ行ったお大師様〈空〉海は、〈恵〉果阿闍梨(ケイカアジャリ)から密教のすべてを伝授され、帰国後、般若心経を解釈する「般若心経秘鍵(ヒケン)」を記しました。
 そこにはこんな文章が含まれています。

「仏法というものは、どこか遠くにあるのではなく、私たちの心の中にあり、誰にとっても身近なものだ。
 真実世界は自分から遠いところにあるのではなく、自分自身を捨ててどこかに探そうとしてはならない。
 迷いも悟りも自分自身にある。
 だから、真実世界を求めようと心の底から決心するならば、そこにこそ、悟りはある。
 迷いも悟りも、極楽も地獄も、遠くにあるのではない。
 教えを学び、信じ、実践すれば、それはたちまち明らかになる」

 原文です。

「夫(ソ)れ、仏法遥かに非ず、心中にして、即ち近し。
 真如(シンニョ)、外(ホカ)に非ず、身を棄てて何(イズク)にか求めん。
 迷悟(メイゴ)我れに在(ア)り。
 則ち発心(ホッシン)すれば、即ち到る。
 明暗(ミョウアン)、他に非(アラ)ず。
 則ち信修(シンシュ)すれば、忽(タチマ)ちに証す。」


 また、般若心経の最後にある「ぎゃてい、ぎゃてい、~」という真言についてこう述べておられます。

真言は不思議である。
 ご本尊様を正しく観想しながら一心に唱えれば、根源的な無智の闇は取り除かれる。
 一字一字に無限の真理を含んでおり、
 真言に導かれるこの身このままに真実世界の救いが実感できる」

 原文です。

真言は不思議なり
 観誦(カンジュ)すれば無明(ムミョウ)を除く
 一字に千理を含み
 即身に法如(ホウニョ)を証す」


 そして得られる世界はこう説かれます。

「ぎゃてい、ぎゃてい、という真言と共に、絶対の安寧がもたらされ、
 ぎゃてい、ぎゃてい、という真言と共に、根源的なみ仏の世界へ還り着く。
 迷う世界は旅人が泊まる仮の宿のようなものであり、
 本来の居場所は、自分自身にある悟りの世界である」

 原文です。

「行行(ギョウギョウ)として円寂(エンジャク)に至り
 去去(ココ)として原初に入る
 三界(サンガイ)は客舎(カクシャ)の如(ゴト)し
 一心はこれ本居(ホンコ)なり」


 結びです。

「般若心経に説かれる一文字、一文章はすべて真実世界に充ち満ちており、
 終わりも始まりもなく、私たちの心中に存在している。
 心の目が曇っている人には、心が閉ざされていて見えないが、
 この経典の主尊である文殊菩薩と般若菩薩(ハンニャボサツ)は、曇りを取り除いてくださる。
 この救いの妙薬を迷う人々へ与えて苦しみや心の乾きを癒し、
 さらに、根源的な無智をうち払って魔ものたちの軍勢を破摧しよう」

 原文です。

「一字一文、法界(ホッカイ)に遍じ
 無終無始にして、我が心分(シンブン)なり
 翳眼(エンゲン)の衆生(シュジョウ)は、盲(メシイ)て見ず
 曼儒(マンジュ)・般若(ハンニャ)は能(ヨ)く紛(フン)を解く
 この甘露(カンロ)を灑(ソソ)いで迷者(メイジャ)を霑(ウルオし
 同じく無明(ムミョウ)を断じて魔軍(マグン)を破せん」


3 ある人生相談

 墓石などにかかわっておられるAさんがしみじみと言われました。
「こういう仕事をしていると、いろいろ考えさせられ、〝自分はこうしていていいのだろうか?〟と疑問に思えてきます。
 今は虫一匹を踏みつぶすこともできないし、縁になるお客様には心で合掌しています。
 生きなおしを考えています」
 Aさんに前述の物語と、お大師様の教えをお伝えしました。
 般若心経がますますありがたくなったと言うAさんの瞳に力ある光が宿りました。

 8月9日の講演「お盆・終括・生きなおし」(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-5155.html)では、こうしたお話も申し上げたいと考えています。(022ー224ー3384)
 どうぞふるってご参加ください。




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2016
07.29

半世紀前の焼身自殺 ─死に行く目がとらえた戦争の実態─

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 かつて、100万人以上のいのちが奪われたベトナム戦争というものがあったことは、すでに、忘れ去られようとしているのではないだろうか。
 作家の開高健は、現場で自由に取材し、200人からなる部隊のうち17人しか生還できなかったという戦闘も、自分の目で確かめた。
 日本では数多くの学生が戦争反対を叫んで立ち上がり、各大学周辺などでデモが相次いだ。
 そんな中、昭和42年5月16日、女学生ニャト・チ(23才)がサイゴンの尼寺で抗議の焼身自殺を遂げた。
 アメリカのジョンソン大統領宛のものをはじめ遺書は10通を越えたが、当時のサイゴン政権は情報を完全に抹殺した。

 しかし、コピーした仏教徒たちが声を上げ、5月21日付の朝日新聞はトップで報じた。
 その一部を再掲しておきたい。
 約半世紀経った今なお、世界中で戦争が続き、彼女同様のまっとうな願いを持った人々が殺され続けている事実を忘れないためである。

「わたしは、才能も力ももち合わせていないただの女にすぎません。
 しかし、私の生まれた国の状態を考えますと、こうするよりほかなかったのです。
『ベトナムの自由と幸福を守る』というあなたのいい分は、すでに古くさく、そらぞらしいものとなっています。
 あなたがた紳士は、多くの爆弾を落とし、ベトナム人の命と勇気をうちくだいたことでしょう。
 それでも、あなたは幸福と自由を口にします。
 心の中では、ほとんどのベトナム人は、アメリカがベトナム戦争に持ち込んだことに愛想をつかしていることを、あなたはご存じないのでしょうか。
 あなたが戦争をエスカレート(段階的に拡大)させればさせるほど、ベトナムの人命、財産、経済全般をメチャクチャにしているのです。

 もう一度、ベトナム人の歴史を考えて下さい。
 ベトナム人の気持になって考えて下さい。
 アメリカ兵とその家族の気持ちを理解してあげて下さい。
 アメリカ軍だって、無意味なきたならしい戦争に無理やりにかりたてられているのです。
 こんなちっぽけなベトナムを20年以上も費やして勝ちとったところでアメリカの名誉になるといえるでしょうか。

 多数のベトナム人の命を救うため、アメリカ人と偉大なアメリカの名誉を救うために、わたしは、あえてささやかな解決策を敬意をこめて提案します。

1 南北ベトナムへの爆撃を停止すること。

2 少しづつ外国の軍隊をベトナムから引き揚げ、ベトナム人の運命は彼ら自身に決定させること。

3 国連の監視のもとで南北ベトナムの統一選挙を行うこと。(真の自由が与えられれば、ベトナム人は自らの幸福と自由を選ぶ能力を持っています)

4 アメリカの爆弾で破壊去れたベトナムの再建を援助すること。(ベトナム人はアメリカ人に同胞愛を感じ、あなたの国への感謝の気持を持ち続けるでしょう)

 そうして、はじめて、ベトナムの、アメリカの、いや全世界の歴史があなたの気品ある人道的な行為を書きとめることでしょう。
 敬意をこめて。
 ベトナムで平和のために命をささげるわたくし。」


 ちなみに、開高健は『ベトナム戦記』に記している。

「アメリカ市民の血税はどんどん流れこんだが、サイゴンから村へ豚や米や肥料がとどく途中でどんどん抜かれた。
 あるダナンの坊さんの表現によれば、この国にはネズミが多すぎるのである。
 そしてアメリカ市民の血税はサイゴン経由で本国の石油会社や武器会社に払いもどされていった。
 ベン・キャット砦の兵卒や将校の持っている、迫撃砲をも含めた火器類は大半が第二次大戦用に製造された年式の刻印を持っていた。
 ロケット弾や武装ヘリコプターやジェット機などは最新式である。
 漠然と私はアメリカの武器商人が古くなった武器の倉庫の戸をサイゴンに向けて全開しているのだという印象を受けた。」


 サイゴン政府やアメリカ軍に守られての〈視察〉ではなく、、カメラマンとたった2人で〈従軍〉に等しい形で行った取材から見えたものは重い。
 二人の文章は忘れられない。

 私たちは、自分の人間たる尊厳を失いたくないなら、何よりも自由意志を侵害されたくないはずだ。
 国家も同じである。
 女学生は「ベトナム人の運命は彼ら自身に決定させる」ようにと、いのちを賭して訴えた。
 しかし、軍事力で勢力範囲を広げたい国は、理由をつけてその願いを踏みにじる。
 イラク戦争も同じだったことは、戦争を検証した国々においてはもはや、明らかである。
 武器弾薬を消耗する他の戦乱にも又、似たような構図が見えはしないか。
 開高健の証言は、そこを衝いている。
 こうした真実に目を塞がない日本人でありたい。
 軍需産業で儲けようとしない品格ある日本人でありたい。
 武器を持った兵士が他国へ一歩たりとも踏み込まない日本でありたい。
 それが明治以来の戦乱でいのちを落とした先亡の御霊へ対する誠意ではなかろうか。




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2016
07.28

Q&A(その27)生まれ変わりって困りますか? ─最も困る再死(サイシ)─

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〈昭和の最後を飾る大傑作、杉浦日向子の『百物語』より「亡妻の姿の話」〉

 どうやら、〈再死〉という言葉はあまり知られていないらしい。

1 生まれ変わり死に変わり

 人が死ねば生まれ変わるという考え方は、古代インドのみでなく、世界中にあったらしい。
 この輪廻転生(リンネテンショウ)自体は、多くの人にとって〝そうかなあ〟で済むだろうし、志を立てた人なら〝この世でやり残した部分は来世でやろう〟と希望をつなぐかも知れない。
 小生も後者に近い感覚を持っているが、こうした受けとめ方だけなら、仏教は生まれなかっただろう。

 なぜ、インドの人々は輪廻転生を怖れたのか?
 一面の〈生まれ変わり〉はまだいい。
 生まれ変わりにはこんな想像も成り立つ。
 もし自分が稲に生まれ変わったなら、孫やひ孫の口に入る一粒になりたいし、蚊に生まれ変わったなら、孫やひ孫を刺さずに、世界中の誰にも知られることなく飢え死にしたい。
 お釈迦様もお大師様も、死後、いのちある何になって生まれ変わるかは、いかなる業(ゴウ)をつくるかによって決まると説かれており、いのちの世界はDNAの範疇を超えているので、決して荒唐無稽な話ではない。

2 死ねば無になるか

 今から約100年前に活躍したフランスの哲学者アンリ=ルイ・ベルグソンは、こう言った。

「もし精神の生命が頭脳の生命からはみ出るとしたら、もし頭脳は意識の中で行われていることの一小部分だけを運動に移すにすぎないとすれば、死後の存続は確からしいということになり、それを肯定する人よりもむしろ否定する人の方が証明を必要とすることになる。
 なぜかというと、死後に意識が消滅すると信ずるための唯一の理由は肉体が破壊されるというだけのことだが、もし意識の大部分が肉体から独立しているということが確証されるとすれば、そういう理由はもはや価値がない」


 つまり、死後に意識もなくなるだろうと考える前提として、意識が100パーセント肉体という存在に包み込まれていなければならないが、意識が肉体から〈はみ出している〉とするならば、肉体の死は、そのまま意識の消滅につながらないと言うのだ。
 だから、目や耳や手足などの活動から遠く離れた世界まで届き、他者とつながりもする意識が、肉体の死と共になくなると主張するならば、それを証明せなばならない。
 意識が死後に消滅することは決して自明の理ではなく、むしろ、「死後の存続」を否定するならその根拠を示さねばならないのだ。

3 再死の恐怖

 本題に戻ろう。
 輪廻転生が怖れられたのはきっと、〈死に変わり〉が耐えられなかったのだろう。
 死は生きとし生けるものにとって最大の危機であり、恐怖でもある。
 だから、古代インドでバラモンがこう説いた効果は大きかった。

「バラモンに導かれた正しい祭祀を行わない者は、死後、再び死を繰り返さねばならない」

「男子の相続者がないと家の祭祀が断絶し、死者は地獄へ堕ちねばならない」


 お釈迦様は、こうした精神風土の中で、生まれや祭祀ではなく、個人個人の生き方がこの世での幸不幸につながり、来世での苦楽につながると説かれた。
 当時、お釈迦様が立ち向かった相手の大きさはとても計り知れるものではない。

 私たちにとっても〈再死〉は恐ろしい。
 苦しみ、息絶える断末魔が繰り返されることを想像して平気な人はいるだろうか?
 四苦八苦の中で、死ぬままならなさほど、私たちを怖れさせ、苦しめるものはない。
 それは、万人にとって否応ない宿命なのだ。

 だから、お釈迦様は、究極の救済として輪廻転生の鎖から解き放たれ、苦から脱する解脱(ゲダツ)を説かれた。
 輪廻転生の世界は広大であり、一個の生きもののDNAが問題ではない。
 肉体に宿ったいのちと心は肉体の耐用年数が過ぎれば、いのちと心の世界へ還って行く。
 そしていつか、新たな肉体が形づくられる時、その肉体にふさわしいものとしていのちと心が宿り、はたらき出す。
 そこには必ず苦という〈ままならなさ〉が影のように貼り付いている。
 死に変わりを厭うなら、苦を脱したいなら、このままではいられない。

 仏教の説く理を信じる方も、信じられない方も、無関心な方もおられよう。
 ただ、いかなる人も死を免れない中で、もしも〈再死〉があり得たとしたらどうか、これだけは想像してみてもよいのではなかろうか。
 これこそが最も困ることではなかろうか?




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2016
07.27

江戸時代の懺悔 ─暴力事件の温床は?─

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 ふと、思いついて杉浦日向子の『百物語』を繙(ヒモト)いた。
 江戸時代の不思議話をあつめたマンガである。
 第十三話はこうだった。

 ある夜、男が目覚めると、囲炉裏(イロリ)を囲み、男女を相手に尼僧が懺悔話をしていた。
 尼僧は昔、独りっ子で、村の裕福な夫婦に育てられていたが、15、6才になる頃、妻の方が病気になったという。
 夫とこの娘を枕元に呼んだ妻は、自分の亡き後、夫の後添いになってくれと娘に頼んだ。
 夫も娘も、そんな気弱なことを言わずに養生して、早くよくなって欲しいと応じた。

 ある日の夕暮れ、妻は、調子がよいので近くの観音様をお詣りしたいと言い、娘は背負って千手観音様へお詣りさせた。
 帰宅したところ、背中で眠っていたはずの妻は息絶えていた。
 死んだ妻は背中から降ろそうとしてもなかなか離れず、数日かけてようやく娘から引きはがした。
 娘の肩には、妻が後からおぶさった時につかんだ指の痕が痣(アザ)となり、くっきりと残っていた。
 娘は菩提心(ボダイシン)を起こし、尼僧となった。

 この娘は気立ても器量もよかったのだろう。
 夫婦共々、手塩にかけて育てたのだろう。
 もちろん、主人との性的関係などなかったのだろう。
 だからこそ、寝付いてしまった妻は、自分の死後、夫の面倒をみて欲しいと願った。

 それでもなお、死に行く妻は、溌剌とした娘に嫉妬しないではいられなかった。
 娘の肩に残った痣は、夫を頼むという思いと、狂ってしまいそうな嫉妬と、両方を物語っていた。
 それに気づいた娘はどうしても、そのまま主人の後添えにはなれず、母親代わりだった人の菩提(ボダイ)を弔うために出家するしかなかった。
 これは『尼君ざんげの話』と題されている。
 
 あたらめて江戸の文化が持つ深みを感じ、できごとと話の全体が、まるで作者の体験であるかのような臨場感に参ってしまった。
 一番のポイントは、懺悔という点にある。
 もちろん、娘が主人の妻に対して懺悔しているのだろうが、夫婦へ懸命に尽くし、不倫などの悪行もはたらいていないのになぜ、懺悔せねばならないのだろうか?

「自分に悪いことをする意思はないし、悪いことをしてもいないのだから、そういう自分に対して誰かがいかなる気持を持とうが〈自分の責任ではない〉、〈自分には関係ない〉」
 こうした現代的な考え方とは、天と地ほどにかけ離れている。
 相手の気持は自分との関係において生じたのだから、嫉妬が起こったという現実に対する責任の一端は自分にもあるという〈感覚〉は、何とも奥ゆかしく、溜息が出る思いである。

 若い人や元気な人は、お年寄りや病人に対して〈な〉存在と成り得る。
 富や権力や名声や才能などを持っている人は、持っていない人に対して〈な〉存在と成り得る。
 そして、このようにはたらく人間の心理に無頓着であることこそ、人間が〈な〉存在である証ではないか?
 無頓着は無慈悲に限りなく近い。
 そして、人知れず膨張しているこの〈〉が、世界中に蔓延する不可解な暴力的行為の温床となりつつあるのではないか?

 ようやく、書棚から『百物語』を探し出した意味がわかった。
 幕末から明治維新以降の〈力こぶ〉に過大な理想を見出し、夜郎自大(ヤロウジダイ)的な誇りを持つよりも、懺悔忖度(ソンタク)といった高尚で繊細な精神活動が庶民にまで及んでいた江戸の空気を思い出したいものである。




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2016
07.26

ポケモンGOが持つ共生の可能性

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 これまで二度、仏教瞑想などによって迷いや苦しみから離れる実践的視点から、ポケモンGOが持つ問題点について書いた。
 批判に対し、仏教の包括的、かつ、すべてを生かす視点や姿勢からはどうなのかというご意見をいただいた。
 確かにそのとおりであり、まして、この世を大日如来の〈密厳国土(ミツゴンコクド)…仏菩薩の徳に満ちた世界〉と観る密教の立場からすれば、何一つとして、み仏のおはからいから外れるものはないはずだ。
 何ものをも生かすのが、み仏の慈悲であり、智慧である。
 方手落ちにならぬよう考えてみたい。

1 仏教的観点
 あらゆる人は〈本来のみ仏〉に成り切ることのできる可能性、つまり仏性(ブッショウ)を具えている。
 そして、いのちあるものも、いのちを持たぬものも、すべては本来、密厳国土を構成し得る。
 また、一切の差別(シャベツ)なくあらゆる人を救うみ仏には、密厳国土へ向かわせる方法、つまり方便(ホウベン)が具わっている。

2  ポケモンGOの恩恵

 さて、このアプリは、この世の幸せとあの世の安心につながるいかなる要素を持っているか?
 恩恵の第一は、驚きを伴う素朴な達成感ではなかろうか?
 誰でもが努力への報酬を手にすることができるという面は、閉塞感のある現代にあって、一種の心理的救いかも知れない。

 これらは、日常生活における仕事上の因果応報とは異なり、上司や同僚や取引先などの思惑や動きなどに左右されず、自分の目と手と足と運とによっていつか必ず達成されるもので、ことがうまくいった時の喜びや満足感にはかなりの力があることだろう。
 また、屋外への誘いを伴っているので、あまり屋外へ出ない人々が、つられて日光の降りそそぐ世界へ出るきっかけとなる点も見逃せない。
 実際、自閉症の人が別人のような行動をとるようになった例も報告されている。

 もっとも、自閉症の人が門から外へ出たからといって急に回復したわけではなく、家族など周囲の人は、その人が家の中にいる時よりも余計に注意を向けなければ、いかなる状態になるかわからないので、決して、出たから安心なわけではない。
 ただし、身体心理学によれば、〈からだ〉と〈こころ〉は二元的なものではないので、〈からだ〉の動きは必ず〈こころ〉に影響を及ぼすとされ、落ち込めば俯(ウツム)くが、俯きがさらなる落ち込みにつながり、顔を上げることによって落ち込みを改善するといった療法も用いられていることを考えれば、「外へ出る」「外へ出た」変化は必ず何ごとかであるはずだ。
 変化を生かす智慧が生まれ、智慧が広く共有されるようになれば、人々の〈歩み〉には、ポケモンを探すという目先の目的以上の意義をも見出せることになるかも知れない。

 また、アプリにまつわる周辺産業の拡大や活性化、あるいは人が集まる場所の有効活用など、産業界への波及効果もあろう。
 そして、個々人の行動はすべて膨大な情報となり、管理者には無限の利用法が待っていることだろう。
 ただし、管理社会化は個人の尊厳を脅かす危険性に満ちており、そうならぬよう防止する方策が後手に廻ることなく整備されねばならない。

3 キーワードは共生

 文化に新たな局面を拓いたポケモンGOはこの先、光の面と闇の面と、さまざまな可能性を持って進展して行くことだろう。
 東北大学名誉教授白鳥則郎氏が「人類とIT環境との〈共生〉」を説かれるように、人類はポケモンとうまく〈共生〉して行けるかどうか、すべての試みは始まったばかりである。
 人間の手によって生み出されながら、人間の手に負えなくなりつつある核爆弾、核発電のような運命をたどらぬよう願うしかない。

※以下もご覧ください。
ポケモンGOが抱える根本的問題 ─背景とフィルター─(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-5157.html)
ポケモンGOが抱える根本的問題(その2) ─視線・場・映画館─(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-5158.html)




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「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
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2016
07.26

農機具をお譲りします

2016-07-26-0001.jpg

 このたび、農場をお詣り施設とすることになりましたので、農機具格安でお譲りします。
 いずれも整備して大切に用いてきました。
 自然農法の小さな田んぼなどで必要なものです。
 関心のある方はご連絡ください。

バインダー(二列刈り)
 クボタ…JETSRAW RA50DTS

バインダー(一列刈り)
 ヤンマー…YB200

パワーカルチ
 共立…PC3000

ハーベスター
 クボタ…RH1ー95DS




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2016
07.25

ポケモンGOが抱える根本的問題(その2) ─視線・場・映画館─

2016-07-25-0001.jpg

 ポケモンGOの問題、危険性について、もう少々、考えてみたい。

1 見る無礼、見られる不快

 見る行為は、見られる相手に対して一方的であり(特に、相手が気づいていない場合は明らかだ)、相手が人間であっても、状況や目的によっては、モノとして見てしまう。
 私たちは視線を気にする生きものなので、その一方向生と、モノ扱いが、〈失礼〉〈無礼〉という感覚を呼び起こす。
 ポケモンGOにおいては、眼前に人間がいても、それは単なる〈背景〉であり、人間であることはポケモンを意識する以上には決して意識されない。

 だから、見知らぬ相手から無遠慮に機器を向けられた人は、当然、不快感を催す。
 女性に向けた男性は、盗撮を疑われもしよう。
 実際、視界に女性が入ったために、ゲームを盗撮へ切り替えたり、あるいはゲームを装った盗撮が多発することは容易に想像できる。

 女性ならずとも、不快感が怒りに結びつき、暴力的な場面へと発展することもあろう。
 生きものとして身を守り、人間として尊厳を守る感覚が、〈失礼〉〈無礼〉と感じさせる時、「遊んでいるんだから」という理由で免罪になるはずはない。
 不安や苛立ちに満ちた世相は、ますます刺々しさを増すのではないか?

2 場を忘れる非社会性

 ゲームに夢中になるあまり、私的空間など、本来、立ち入るべきでない場所へ侵入したり、神社や仏閣などの聖地内でゲームを行ったりする例がすでに出ており、社会を保つ常識や良識が忘れ去られかねない。
 アメリカなどでは恐らく、ハロウィンの最中に仮装した子供が撃ち殺されたような事態が発生するだろうし、出雲大社が「神社境内地・周辺社有地及び國造館敷地などでのゲームアプリ『ポケモンGO』の使用は禁止とします」と掲示したのは当然である。
 そこが〈どこ〉であり、そこにいたり出入りしたりする人間にとっていかなる空間であるかを無視し、誰もが、世界中のどこででもゲームの主役になろうとするのは、場の多様性や個の尊厳を無視する危険な姿勢である。 

3 映画館に呑み込まれる日常生活

 映画館でなら、節度が守られる範囲であれば、暴力や破壊やセックスなどを表現する架空の世界へ浸り、日常生活での心理的抑圧を解消するなどのことが許される。
 電子機器の発達により、それが個人の私的空間へ深く侵入してきたが、それでもまだ、個人的な時間、空間内でのできごとだ。
 ところが今度のアプリによって、全世界で、いつでも、人々は架空の世界に浸れるようになった。

 ところで現在、暴力的気分が世界的規模で膨らみ、世界中で、個人的理由によるテロ的行動が多発している。
 私たちは、自分を被害者やその家族の立場に置き、暴力という〈手段〉の愚かさ、恐ろしさ、おぞましさ、そのものを直視せねば、歪みつつある心性に呑み込まれてしまいかねない。
 一人一人の心に発した〈気分〉は、いかに警備やパトロールを強化し、危険人物の私生活をチェックしたところで、消し去ることはできない。

 文化人類学者である上田紀行東京工業大学教授は、7月21日付の河北新報「洗脳招いた脱宗教化}において、テロリストたちの心理と行動を分析した結果、「日常における宗教教育の不在が過激な宗教思想への傾斜をもたらすという逆説がここにはある」と指摘した。
 宗教の肝腎なところが家庭でも学校でも見捨てられているために、ネットを信じネットに補足される若者たちは、たやすく、宗教本来の役割から外れた洗脳を受け、暴力的気分にお墨付きをもらった英雄として破壊的活動に走る。
 宗教を軽視し、個人主義を絶対とする現代文明が、世界のネット化によって歪んだ相貌を見せている。

 あたかも、日常生活映画館化してしまうような今般のアプリにも、同様の危険性が感じられてならない。
 本当は現実生活で活き活きと生きるために役立つべき映画館的架空世界が、現実生活を脇へ置くような生活をもたらし、現実的世界そのものを見る目を曇らせるならば、本末転倒ではなかろうか。
 架空の世界が主役化しつつある状況は恐ろしい。

4 恣意の可能性

 真の恐怖は架空化の先にある。
 こうして若者たちの心が一つの架空世界へ〈まとめられた〉後で、そこへ一匙の〈恣意〉が投げ込まれた時、若者たちはその異変に正しく気づき、その世界から我が身を遠ざけることができるだろうか?
 現実世界に足を置いてすら、世界を我がために動かそうとするさまざまな〈恣意〉に気づき、それに絡め取られないためには自立的思考力を磨いておかねばならないのに。

 言うまでもなく、〈恣意〉を発するのは資本家であり、政治家だ。
 たとえば、田中角栄はかつて、天まで担ぎ上げられ、地べたへ叩き落とされ、今又、政治家や評論家やマスコミによって天まで持ち上げられつつあるが、一体、誰が、何のためにこんなことをしているのか、私たちはよくよく考えねばならない。
 言うまでもなく、田中角栄は実在した人物だが、現在、私たちの視聴覚へ訴えかけているさまざまな情報はすべて、作られた架空のものなのだ。

 私たちは、〈架空世界に慣らされる〉ことの危険性をよくよく認識しておきたい。
 涙を流させられ、憤慨させられ、感激させられているうちに、何ものかによって取り込まれているかも知れない。
 今回のアプリ騒動は、一部資本家が儲けるためだけではなく、こうした危険性に対する認識活動を鈍磨させる格好の訓練にもなっているのではないか?


 考えすぎだろうか?
 そうであるならよいのだが。
 アプリに熱中する人々に埋め尽くされた光景は、どう見ても、あまりにも異様としか思えないのだが……。 

※以下もご覧ください。
ポケモンGOが抱える根本的問題 ─背景とフィルター─(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-5157.html)
ポケモンGOが持つ共生の可能性(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-5159.html)




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2016
07.24

ポケモンGOが抱える根本的問題 ─背景とフィルター─

2016-07-24-0001.jpg

 世界中を席巻すると目されているポケモンGOには、私たちの心や文化や人間関係を破壊しかねない、いくつもの問題があると思う。

1 背景の問題

 私たちは、周囲の世界を、〈ありのまま〉にはとらえていない。
 関心のある対象物は目に入りやすく、そうでないものは入りにくい。
 刺激を受ける目はカメラのような役割を果たしても、それを認識し、記憶するまでの間に、必ず〈選択〉が行われる。

 もしも、視力を失えば、景色は〈在る〉はずなのに、見えなくなる。
 認識という観点からすれば、景色は〈無い〉に近くなる。
 もちろん、現実的に景色は在るので、目をつぶって歩けば何かにぶつかってしまう。

 小生はときおり、意識的に目をつむって歩いてみたりする。
 見えている状態と、見えていない状態と、二つのちがいと自分の反応などを観察するためだ。
 自分が生きて動いている現実と、周囲の世界を、あらためて眺めることには意義がある。

 さて、ポケモンGOは言うまでもなく、架空の世界をつくり出し、環境と自分との間にそれを置くシステムである。
 しかも、ゲームの面白さによって、意識や関心は圧倒的に架空の世界へ向く。
 周囲の景色も、人も、単なる〈背景〉に過ぎなくなる。

 しかし、現実に在るのは〈背景〉とされてしまっている景色や人であり、生命活動はそこにしかない。
 寝起きする布団も家も、顔を洗う水道も、つけるテレビも、呑む牛乳も、会う人も、勉める仕事場もすべて、そこにある。
 もしも、これらを〈背景〉とし、架空の世界が主人公である時間が長くなるならば、私たちの精神生活はどうなるだろう?

 必ずや、〈背景〉となってしまうリアルな世界への関心は薄らぐ。
 背景となっていること事態がすでに、関心の強さにおいて二次的であることを意味している。
 リアルな世界と真剣に取り組んでいるつもりでもなお、悲喜こもごもの日々を送っている私たちが、心の活動をリアルな世界から遠ざけることは恐ろしい。

2 フィルターの問題

 ゲームはおもしろいから楽しみもし、没頭もする。
 おもしろいと感じることそのものには善も悪もない。
 いのちを活性化させるという利点もある。

 しかし、そのおもしろさに執着することは問題だ。
 おもしろさが主人公になれば、人間としての霊性は、はたらきにくくなる。
 おもしろいと楽しんでいる状態を抑制するものや止めるものがあれば、それは邪魔ものとなり、たやすく敵ともなるのは、各種の依存症に見るとおりである。

 お釈迦様以来2500年、私たちは、リアルな世界をいかに観て、霊性という満月にかかる群雲をいにして払うかという難問に取り組んで来た。
 群雲、すなわち、各種の執着心などとして現れる煩悩(ボンノウ)が、私たちへ苦をもたらすことを知ったからだ。
 私たちはすでに、煩悩という〈真実世界〉から隔てるはたらきを抱えており、それをどうするか、まだ解決の入り口に立ったばかりなのに、今般、隔てるフィルターを新たにつくったのではないか?

 現実の景色や人間を〈背景〉としてしまうこと。
 現実の景色や人間に真実を観るはずの心の目に、新たなフィルターをかけること。
 まず、この二つがポケモンGOに潜む根本的問題であると思う。

※以下もご覧ください。
ポケモンGOが抱える根本的問題(その2) ─視線・場・映画館─(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-5158.html)
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2016
07.23

現代の偉人伝第230話】愛と信頼を求めつつ兇弾に斃れた警察官モントレル・ジャクソン氏

2016-07-23-0001.jpg
〈犠牲者モントレル・ジャクソン氏〉

 7月17日、米ルイジアナ州バトンルージュで3人の警察官が殺害された。
 実行犯と目される元海兵隊員のギャビン・ロング容疑者(29才)もまた、警察によって射殺された。
 各種メディアは事件を伝えた。

 バトンルージュでは5日、黒人男性が警察官に路上で押さえられたまま射殺され、抗議デモが続いていた。
 イラク戦争に従事し、メダルや表彰を受け、軍曹になって名誉除隊しているギャビン・ロング容疑者は、自ら発信した動画においてコスモ・セテペンラという偽名を使い、黒人に対する不正義を怒っていた。
 そして、何かを実行するかのような言葉も遺していた。

「自分の身に何か起きた時は、自分はどのようなグループとも関連がない」

「正義の精神につながる者で、それ以上でも以下でもない。
 自分の考えは自分のもので、自分自身で物事を決める」

 犠牲になった3人の中に、バトンルージュ市警のモントレル・ジャクソン氏(32才)がいる。
 黒人警察官の氏は、警察官としての責務と、黒人であるがゆえに受ける差別との間で苦しんでいた。
 以下は、友人に向けてフェイスブックへ書き込んだ言葉である。 

「肉体的にも精神的にも疲れている」

「この3日間は芯まで試された」

この町を愛していると神に誓うが、町から愛されているか考えてしまう

制服を着ていると嫌な、憎悪の視線を受け、脱いでいると人によっては私を脅威だと感じている

憎しみに心を汚染されないように。
 この町は良くならなければならないし、良くなる


「道路の上で働いているから、抗議者、警察官、友人、家族、それとも誰でも、私を見かけてハグが必要だったり、祈りを捧げたりしたければ、任せて」


 ジャクソン氏に交通違反で摘発されたシャーロット・エドモンソン氏(64才)は、旧姓がジャクソンだった縁で見逃されたことがある。

「(ジャクソン氏は)いつもフレンドリーな、素晴らしい人だった」

「普通だったら、黒人の彼と白人の私が知り合うことはなかっただろう。
 この町はまだ、人種隔離が続いている

 他の被害者は、新人警官マシュー・ジェラルド氏(41才)と保安官代理ブラッド・ギャラフォラ氏(45才)。
 3人とも、家族を養っていた。
 州知事ジョン・ベル・エドワーズ氏は言った。

「地域を守り、地域に尽くすために命を懸けた男たちが殺され、言葉もない」

「警察に対する絶対的に悪質な攻撃」

 ジャクソン氏の義理の父親ロニ・ジョーダン氏の言葉。

「ジャクソン氏は心が広く、寛大で温和な男だった」

「彼は素晴らしい男、紳士的な男で、いつも人助けをしていた。
 自分の仕事をきちんとすることに価値があると信じていた」

近所の誰もが彼を愛している

 事件後ただちに発せられたオバマ大統領の言葉は悲痛である。

「動機がなんであれ、勇敢な警官3人の死は、国中で警察が毎日どれほどの危険に直面しているかを裏打ちしている。
 私たちは国として、司法当局への暴力を正当化するものは何もないと、大きな声できっぱりと強調しなくてはならない」

 事件の根は、人種差別憎悪にある。
 2つとも、倫理的には、「在る」ことが決して望まれない。
 しかし、心理的にはなかなか、消しきれない。
 プロボクサーモハメド・アリは、チャンピオンになってすら、レストランなどで屈辱的な体験を余儀なくされ、イスラム教に改宗して名前も変え、生涯、差別偏見と闘った。
 板挟みに苦しみつつ、善意と希望を失わず、職責をまっとうしたいと願っていたモントレル・ジャクソン氏の死は、人の心にある闇と社会の不条理をリアルに表している。
 私たち日本人にも、こうしたものがないかどうか、自らを省み、社会を眺めたい。
 氏の冥福を祈ってやまない。




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「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
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2016
07.23

お盆・終括・生きなおし ─法話の会を行います─

2016-07-22ワンネット塾

 8月9日、法話の会を開催します。
 主催はワンネット塾事務局・ちんたい協会宮城支部様です。
 入場の条件は設けておられないので、ご関心のある方は主催者様へお申し込みください。

 お話は……。

 お盆にちなんだことごとや、終〈括〉生きなおし、など、私たちの身近な話題や問題について、わかりやすくお話しします。
 時間は約1時間30分、質疑応答もあり、ゆったりとした対話を行いたいと願っています。
 どうぞ、お気軽におでかけください。 

・日時:8月9日午後1時30分より
・場所:仙台市戦災復興記念館4F第一会議室
・費用:無料
・申込:8月5日(金)までに電話、ファクスなどでお申し込みください。
     電話022ー224ー3384 ファクス022ー224ー1676
・主催:ワンネット塾事務局・ちんたい協会宮城支部様
     仙台市青葉区大町2ー8ー15 今野不動産株式会社 担当 齋 哲夫様




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2016
07.22

魔ものを怖れず怖れさせるには? ─8月の聖語─

2016-07-21-0006.jpg

 お大師様の言葉です。

「適(マサ)に声を発する時、魔軍(マグン)散壊(サンエ)す。
 即ち是(コ)れ恐怖(クフ)の義なり」


 意訳です。
真言を唱える時、魔ものたちの軍隊は散り散りになり、崩壊する。
 すなわち、これが、魔ものたちを恐怖せしめるという意味である」

 私たちは、せっかく何かよいことをしようとしても、邪魔ものに惑わされがちです。
 たとえば、〈このオレが、やっていられるか〉という高慢心、〈あいつ、上手にやりやがって〉という嫉妬心、〈もっともっと〉という貪り。
 これらは、知らぬ間に心を曇らせ、善行(ゼンギョウ)を抑える魔ものです。

 私たちが無心に真言を唱える時、こうした魔ものたちは出番を失います。
 彼らは真実の世界へつながる真言が怖いのです。

 私たちは「魔が入った」「疫病神に取り憑かれた」「悪霊がまとわりついている」などと言いますが、そのほとんどは、自分の心が招いた幻です。
 こうした幻を感じ、幻が見え、幻の声が聞こえるような気分になれば、真実世界が感じられず、見えず、聞こえなくなります。

 最近、話題になっているポケモンGOなども、現実世界の手前に架空世界が登場する極めて危険な構造を持ち、すでにアメリカなどで各種の事件・事故が相次いでおり、取扱いには充分な注意が必要です。
 私たちは、心に煩悩(ボンノウ)などの魔ものを抱えているだけでなく、現象世界にも魔ものとなり得るさまざまなものを生じさせています。
 それらにやられるか、それとも幻と見破って怖れさせ、退散させられるかは、私たちの心構え一つにかかっています。
 私たちが真実世界の住人として、与えられたいのちを精いっぱいに生きられるかどうかは、私たち自身にかかっています。
 守本尊様などのお力をいただく真言は、そのための力強い味方なのです。




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「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
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https://www.youtube.com/watch?v=rWEjdVZChl0





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2016
07.22

草取り作業のご案内

2016-07-21-0005.jpg

 以下の要領で境内地の草取りを行いますので、ご協力をお願いいたします。
・日時:7月24日(日)午前8時30分より午前10時30分(これ以前でも以後でも結構です)
・場所:当山境内地内




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「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
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2016
07.21

『終わった人』を読んで ─終〈括〉のすすめ─

2016-07-21-0001.jpg


 内舘牧子著『終わった人』を読んだ。
 第一行目がなかなか手厳しい。

定年って生前葬だな」

「元気でしっかりしているうちに、人生が終わった人間として華やかに送られ、別れを告げる。」


 唱和24年生まれの主人公は63才で定年退職する。
 信念を持ち、潔い。

「人間の価値は散り際で決まる」


 良寛の句にも納得している。

「散る桜残る桜も散る桜」


 しかし、見事な決心と進退の割には、なかなか〈成仏〉できない。

「人にとって、何が不幸かと言って、やることがない日々だ。」

定年という生前葬を終えた今、何もかもが後悔だったように思う。」


 これでは辛い。
 しかも、同年の人間で、いまだに夢を持っているヤツもいるのだ。

「肯定できない自分のどこに、誇りを持てるというのだ。」

「所属する場のない不安は、自分の存在を危うくするほど怖いものだった。」

「『終わった人』でも、誇りを持てる場はきっとある。」


 妻には厳しく言われる。

「年齢ばかり考えてることが、人を年とらせるのよ。」


 昔、通ったクラブのママは、「スーツって息をしているのよ」と言われる。

「仕事を離れて、スーツにふさわしい息をしてない男には、スーツは似合わなくなるのよ。」


 自覚する。

成仏していないのだ。
 だからいつまでも、迷える魂がさまよっている。」


 妻はそこを衝く。

「年齢や能力の衰えを泰然と受けいれることこそ、人間の品格よ。」


 そして、いろいろやり、案の定、失敗する。
 ただし、若い時とは違って、動じない。

「今後、どれほどひどい暮らしになるか、それはわかっていた。
 しかし、もはやそれを引き受けるしかないのだ。。
 仕事であれ、病気であれ、最大限の努力をした後で、『しかない』という状態に入ったなら、それを引き受ける方が安寧だ。
 俺はそう思っている。
 そう、散り際なのだ。」


 本人は動じないが、妻は無論、「そうですか」では終わらず、悶着となる。

「男にとって会社勤めと結婚は同じだ。
 会社では結果を出さない人間は意味がないとされ、追いやられる。
 家庭では年を取ると邪魔にされ、追いやられる。
 同じだ。
 結婚が男にとっていいものかどうか、俺にはわからない。
 いや、女にとってもだ。
 俺は次に生まれたら、結婚はしないかもしれない。」


 しかし、生き生きとやっている仲間と接し、気づく。

「ああ、俺は定年以降、思い出とばかり戦ってきたのではないか。」


 戦っても仕方がない幻のような相手と取っ組み合いをしてきたのだ。
 勝てるわけがない。
 しかし、人生に〈余りの生〉つまり余生などというものは本来、ない。
 最後の目的を見つけた主人公は、「籍を抜かずに、お互い自分の人生を生きるために、同居の形を解消する」卒婚(ソツコン)に踏み切る。

 もうすぐ70才になる作者は、20年以上も前から、「こういう男を主人公として書きたい」と思っていた。
 還暦、定年という同年代の流れの中で、クラス会などに参加しているうちに「ふと気づいた」。

「若い頃に秀才であろうとなかろうと、美人であろうとなかろうと、一流企業に勤務しようとしまいと、人間の着地点って大差ないのね……」


 読んでみて思った。
 確かに「余生」などというものはなかろう。
 そして、生身の人間として生き続けている限り、「終わった人」でもない。
 だから、〈生前葬〉的な区切はあっても、人生に意欲を失うという意味での成仏はできない。

 思えば、主人公は定年退職しても、それまでの人生を引きずり、過去に取り憑かれたままの人だった。
 大失敗をやらかし、家庭生活もそのまま続けられない状況に陥ってようやく、真の意味で過去の総括ができた。
 あとは、生まれ変わったつもりで、持てる意欲を生かしつつ生きるしかない。

 当山が提唱している終括の本当の意味と狙いもここにある。
 仏教はそもそも、「意欲をなくせ」などとは説かない。
 意欲をいかにまっとうに生かすか、そのために必要な智慧と慈悲を探す。
 しかも、それは決して自分だけのためではなく、自他共に活き活きと生きる世界を目ざす。
 これが仏教の目的だ。
 
 年をとったら、どこかでしっかり終〈括〉をしたい。
 そして、意欲をまっとうに生かしつつ生きたい。
 人によっては、仏教がヒントになり、役立つかも知れない。
 この好著は、きっと、多くの人に読まれ、映画化もされることだろう。




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2016
07.20

コンピューター・共生・少子高齢化 講演会「これからの生き方をたずねて」(第一回)

2016-07-20-0001.jpg

1 白鳥則郎氏の「合理性プラスα」

 7月9日に行われた記念講演会の冒頭、東北大学名誉教授白鳥則郎氏は、「科学技術の視点から」と題する基調講演を行った。
 以下、要約である。

「コンピューターが誕生してから70年、この間に私たちの暮らしは劇的に変わった。
 この先、半世紀を想像すると、発展の方向性を誤れば、地球環境の破壊と人類滅亡のきっかけとなるかも知れない。
 そうではなく、人類とIT環境との共生が進むかも知れない。

 地球の寿命約100億年に対して、この70年はどのくらいの比率になるか?
 もし100億年を1年に置き換えた場合、70年は、わずか0・3秒でしかない。
 しかし、それほどの短期間ではあっても、コンピューターはこれまでにないほど大きな変化をもたらした。
 コンピューターが出現した当時は、産業社会に役立った。
 その結果、情報化社会となり、豊かにはなったが、一方で、環境汚染・地球温暖化・自然災害・少子高齢化が進んだ。
 これからは、知識、知恵を生かした共生社会を目ざしたい。

 そもそも、産業、情報社会である近代は合理性(経済性・効率性・機能性)を重視してきた。
 それは大量生産・大量消費の社会であり、環境汚染・温暖化・経済危機・大災害などの発生により、脱合理主義が目ざされるようになった。

 脱合理性を目ざす脱近代社会では、合理性だけでなくプラスαが求められる。
 αとは、調和に価値を置く共生の思想である。

 この先、産業は、多品性・少量生産・リサイクルといった方向へ進む。
 20世紀は人が自然を征服したが、21世紀はITを用いた人と自然の共生が求められる。
 こうした未来に向け、鈴虫の音色を聞き分け、侘び、寂びといった繊細な感覚のある日本人は、調和・共生によって地球を救う役割を果たせるのではないか。

 社会の現状を眺めれば、少子高齢化、地球環境破壊、国や地域の紛争が続き、社会主義も市場原理主義も破綻し、これまでの社会モデルは消失している。
 人間にとって快適なだけでなく、省エネ、自立、見守り、健康管理などを支援するシステム、あるいはグリーン志向の生活環境をつくらねばならない。
 また、調和に価値を置いた情報通信のシステムをつくらねばならない。
 それが成功すれば、人と人、国と国、地域と地域の関係において、効率や利害を超えた公(みんな)と私(自分)の調和に価値を置く社会となることだろう。」


2 品格のある衰退

 ところで、作家内舘牧子氏は最新作『終わった人』の「あとがき」において、国際政治学者坂本義和がイギリスに関して遺した言葉を紹介している。

「重要なのは品格のある衰退だと私は思います。」

「衰え、弱くなることを受けとめる品格を持つことで、その後もインドと良好な関係を結んでいます。
(中略)
 品格のある衰退の先にどのような社会を描くか。」


 少子高齢化が避けられぬ日本にとって必要なのは、〈もっともっと〉と、〈よりたくさん〉得ようとする思想ではなく、富を公正に分配し、確かなコミュニティにおいて助け合う思想ではなかろうか?
 人間は、集団で狩猟や採集を行うようになった時期、農耕を覚え定住するようになった時期、そして工業が勃興した時期、それぞれに人口の増加と減少を体験してきた。
 上り坂と下り坂では膝の使い方が異なるように、パイが膨らむ時とパイが縮む時では、ふるまい方が違うのは当然だ。
 日本が直面している減少時期に必要なものこそ、「品格」ではなかろうか? 

3 少子化と拡大・成長の限界

 日本は限られた国土で膨大な人口を抱えてきたが、平成17年から人口減少に転じ、半世紀後は9000万人以下になるだろうと予想されている。
 明治維新の頃は3000万人、それがピークをつけた平成16年には約4倍の1億2800万人にまで膨れ上がった。
 千葉大学の広井良典助教授は、明治以来「相当な〝無理〟をしてきた」と指摘している。
 そして、やりようによっては「現在よりもはるかに大きな『豊かさ』や幸福が実現されていく社会の姿」になると説いた。

 「〝少子化が進むと経済がダメになるからもっと出生率を上げるべきだ〟とか〝人口が減ると国力が下がるから出生率は上昇させなければならない〟といった発想では、おそらく事態は悪化していくばかりだろう。」

「『拡大、成長、上昇』期の発想でしか物事を見ていないことに等しい。
 そうした考え方や方向自体が限界に達し、あるいはその矛盾がきわまった結果として、現在の低出生率があるのである。
 そうでなく全く逆に、そうした『拡大・成長』志向そのものを根本から見直し、もっと人々がゆとりをもって生活を送れるようにする、その結果として出生率の改善は現れてくるものだろう。

「〝豊かな成熟社会〟のビジョンやイメージを持てるかどうかが、日本社会の今後にとっての大きな分岐点になるだろう。」


 助教授は、ヨーロッパ(特にドイツ、フランス以北)に近い社会のモデルを想定している。
 そうした国々の取り組みに学ぶところ大である。

4 私たちが目ざす社会とは?

 最近、明治安田生活福祉研究所が発表したとおり、20代の独身男女のうち、結婚したい人の割合が3年前と比べて男性で約28ポイント、女性で約23ポイントと大幅に減少している。
 信じられないことに、わずか3年で、結婚したい20代男性は67・1パーセントから38・7パーセントに、女性は82・2パーセントから59・0パーセントへと激減している。
 こんな時代が今まで、あったろうか?
 この3年で若い人たちは、急激に結婚の意思を喪失した。
 それはある意味で、未来への絶望、諦めが広がっていることを意味している。
 戦争への不安、年金や保険への不信が若者たちの心に深く影を落としているのではないか。
 かつて日本がそれ行けどんどん、だった時代、与謝野晶子は『君死にたまふことなかれ』と詠んだ。

「親は刃をにぎらせて
 人を殺せとをしえしや
 人を殺して死ねよとて
 二十四までをそだてしや」


 若者たちの絶望に見るとおり、もはや、国家が示している〈未来像〉に根本的欠陥があるのではないかと疑うべきだろう。
 そこに、「調和に価値を置く共生の思想」はあるか?
 そこに、「品格のある衰退」という視点はあるか?
 そこに、「拡大、成長、上昇期の発想」でしか物事を見ていない」頑なさはないか?
 無定見なグローバリズムと、巨大資本が意のままに跋扈(バッコ)する市場原理主義が、ところかまわず世界規模で富の寡占を押し進め、大多数の人間がどんどん弱者化し、日本のみならず地球的規模で不公正が放置されていることは明らかである。
 エネルギーも、資源も、食糧も、もし寡占されなければ、大多数の人々の生活レベルは一気に向上するだろう。
 地域単位で日々の経済が成り立ち、地域の文化に立った生活が確保できれば、私たちの安心感は増し、若者たちは希望を持ち、人口も安定するだろう。

 白鳥則郎氏が提唱する「合理性プラスα」の「α」について、よく考えてみたい。




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「おん あらはしゃのう」
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2016
07.19

「傾蓋(ケイカイ)の遇(グウ)」をご存じですか?

2016-07-19-0001.jpg

 お大師様が唐から帰国し、京の都へ入ってから5年経った頃、下野国(シモツケノクニ…栃木県)にいた伊博士公(イハクシコウ)から文章を書いてくれと頼まれました。
 日光山を拓いた勝道上人(ショウドウショウニン)の業績を称えて欲しいと言うのです。
 勝道上人は当時、人跡未踏だった日光山へ入って中禅寺を開基し、大旱魃(カンバツ)の年には降雨法(コウウホウ…雨を降らす祈祷)を修して人々を救っていました。

 お大師様は会ったこともない上人のために「勝道碑文」を書きました。
 そこには印象的な言葉があります。

「人の相知ること、必ずしも対面して、久しく語るのみにしも在らず。
 意通すれば、則ち傾蓋(ケイカイ)の遇(グウ)なり」


(人と人とが互いを知るのは、必ずしも、直接会って長い会話をすることによるのではない。
 心が通じ合いさえすればよいのであって、それは、たまたま出会った同士が、頭にかぶっている笠を傾け、外し、語り合うだけでも可能なのである)

 昔の日本の道路はオープン、対面者はぶつからないように気をつけながら歩いていました。
 文字どおり「袖振り合うも多生の縁」、すれ違う人々は皆、前世からの因縁で袖を触れ合うと感じていたので、現代人の感覚とはずいぶん違っていたはずです。
 そうした精神風土から、この「傾蓋(ケイカイ)の遇(グウ)」という言葉が生まれたものと思われます。

 何かのきっかけで、ちょっとした挨拶を交わした同士がピンと来る状況は、現代人なら男女の出会いくらいしか思い浮かばないかも知れません。
 もちろん、お大師様の頃も、それは変わらずあったでしょうが、この言葉は何よりも相手の〈人物〉を知る、あるいは〈人品〉を認め合うという意味合いが強いように思われます。
 恐らく、お大師様は上人の行状を聴き、若かりし頃に山野で修行した自分の体験をよみがえらせつつ、碑文を書かれたのでしょう。

 一度も会ったことがなくてすら、思いをこらせば「意通」が生じるのです。
 思えば、亡くなられた方へお授けする戒名をご本尊様からいただく時も、「意通」が決め手です。
 僧侶の祈りがご本尊様へ届き、あの世へ通じてこそ、お戒名が降りて来ます。

 「意通」は、きっと霊性のはたらきなのでしょう。
 霊性が活き活きとはたらいていればきっと 「傾蓋(ケイカイ)の遇(グウ)」に恵まれるのでしょう。




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2016
07.19

第三回瞑想会『新法楽塾』

Category: 瞑想講座   Tags:阿字観瞑想
 阿字観(アジカン)を中心とした瞑想を行いますので、関心のある方はどうぞおでかけください。

・日時:7月20日(水)午前10時~午前11時30分
・場所:当山講堂
・参加費:1000円(中学生以下500円)
・申込:前日午後5時までに022(346)2106へ




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2016
07.18

欺瞞の時代 ─シラノ・ヒロシマの影─

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〈枯葉と見まがう広島平和記念公園のハト〉

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〈石段に残る人影〉

 言葉について考えさせられた。

1 シラノ・ド・ベルジュラック

 今から100年以上も前のパリにおいて、戯曲『シラノ・ド・ベルジュラック』は500日間で400回上映された。
 哲学者、剣客にして詩人という類い希な才能の持ち主シラノは、ロクサーヌに思いを寄せているが、彼女にはクリスチャンという相思相愛の相手がいる。
 言葉が貧しいクリスチャンはロクサーヌへうまく気持を伝えられず、シラノは恋文を代筆し、愛の言葉を代わりに囁く。
 戦争でクリスチャンが死に、修道女となったロクサーヌは、シラノが死ぬ間際になってすべてを知る。

 ままならぬ恋、惹かれる真情と危うさ、まことと裏切り、真剣な嘘、死という宿命、舞台は私たちの持っているありとあらゆる喜怒哀楽を引き出す。
 言えるのは、表現法がなければ思いは伝わらないということ、また、人間関係においては、相手の表現によって情緒が動くということではなかろうか。

 泣き顔であれ、笑い顔であれ、身ぶり手ぶりであれ、あるいは黙したまま座している様子であれ、私たちは必ず、そこに何かを〈読み取ろう〉とする。
 表現者が意図しようとしまいと、受け手は感性がはたらく限り、読み取り作用をはたらかせる。
 もしも読み取り作用が鈍っていれば、熱意を込めた相手の表現が空回りするかも知れない。
 通じ合いは双方の共同作業と言える。

2 代筆

 さて、今ほど代筆業が流行った時代はなかったと思われる。
 切実な恋文の話ではない。
 出版社が社長に成り代わって本を書き、会社を隆盛に導くという。
 コンサルティング会社が店主に成り代わってブログを書き、売り上げを増やすという。
 成功のマニュアルもいろいろと検討されているらしい。
 
 そこにシラノがいないのはもちろん、真のドラマはなく、真の歓喜も苦悩もなかろう。
 そして、取引先や客に対して〈巧みに表現できない社長や店主〉の存在が隠され、仮面を被った社長や店主が実在する者として取り引きや購入をうながすという欺瞞が、何らの後ろめたさも伴わぬままに、意識の背景へ押しやられるという社会と文化の姿は、あまりにも深い問題を孕(ハラ)んではいないか。

 確かに言葉巧みな者は目先の人間関係で得をする機会が多いかも知れない。
 しかし、ある程度、人間をやっていれば、『論語』の「巧言令色(コウゲンレイショク)鮮(スクナ)し仁(ジン)」が真実であることを知るはずだ。
 上目遣いに相手の心を観察しながらうまいことを言おうとする者は、相手へ対する真の思いやりに欠け、自分自身では真の向上心がない。
 高校で『論語』を習ってから半世紀、これほど情報が氾濫し濁流になるとは予想もできなかった。

3 壁職人

 忘れられないシーンがある。
 講堂建立の時期、白壁を塗る若い職人がやたらと早く現場に現れ、じっと佇んでいた。
 感じるところがあり、ずいぶん早いんですねと声をかけたら、想を練っているのだと言う。
 壁は数人で塗る。
 出来上がってしまえば、彼が練った想など、どこにも感じられないだろう。

 あの時、彼はすでに表現者として佇んでいた。
 佇む姿もまた、意図せぬ表現だったのだ。
 賢(サカ)しらな計算など微塵もなく、ただ、愚直に分を尽くそうとしていた。
 彼がこの先、現場で静かに過ごすであろう膨大な時間は、壁の色や形にはほとんど表れないだろうに……。
 本ものとは彼のような人物ではなかろうか。

4 言葉

 もちろん、絵画や音楽や映像など、表現の手段は多々あり、言葉もその一つであるという考え方もあるだろう。
 しかし、言葉には言霊(コトダマ)が宿っている。
 人間を人間たらしめる霊性が言葉を生む。
 言葉の欺瞞は霊性の曇りではないか。
 
 嵯峨伸之に「ヒロシマ神話」(作:昭和32年)という詩がある。

「失われた時の頂きにかけのぼって
 何を見ようというのか
 一瞬に透明な気体になって消えた数百人の人間が空中を歩いている

 (死はぼくたちに来なかった)
 (一気に死を飛び越えて魂になった)
 (われわれにもういちど人間のほんとうの死を与えよ)

 そのひとりの影が石段に焼きつけられている

 (わたしは何のために石に縛られているのか)
 (影をひき放されたわたしの肉体はどこへ消えたのか)
 (私は何を待たねばならぬのか)

 それは火で刻印された二十世紀の神話だ
 いつになったら誰が来てその影を石から解き放つのだ」


 広島の平和記念館でこの〈影〉を見た。
 そこには確かに、まだ解き放たれない誰かがいた。
 遺構と言霊が小生と〈彼〉をつないだ。
 ──現代の欺瞞と言霊の真実。
 引き裂かれつつある私たちは、私たちの文明は、大丈夫だろうか?




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2016
07.17

【現代の偉人伝第229話】バーニー・サンダース ─アメリカの不公正・日本の行き詰まり─ 

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 7月14日付の朝日新聞は、ニューヨーク・タイムズが掲載した米上院議員バーニー・サンダース氏の文章を抄訳し、「グローバル経済 大多数に役立たぬ、今こそ変革」と題して紹介した。
 70才半ばになる同氏は民主党の大統領候補選びに手を挙げ、草の根選挙でヒラリー氏へ肉薄した。
 これがアメリカ大統領を目ざす人物かと目を疑うほど明確にアメリカの病理を衝き、政治の光があまり及んでいない人々から強い支持を受けた。
 政治の役割が民衆の願いを聞き届けるところにあるとすれば、何よりもまず、社会の歪みに苦しむ人々へ手を差し伸べねばならないはずである。
 しかし、どの国にあっても、なかなかそうはなりにくい。
 権力者の住む世界、権力者を取り巻く人々や支える仕組みなどが、〈苦しむ人々〉から遊離しがちなのだろう。
 しかし、ユダヤ系移民の貧しい家庭で育った氏は、一貫して「格差が少なく普通の人々が政治的な力を持てる社会の形成」を目ざし、政治活動を続けてきた。
 今般の戦いで、若者たちに囲まれ、白髪を振り乱して社会の不公正を糺す氏は、新風を巻き起こした。

 この記事は、氏の主張をほぼ網羅していると思う。
 文化的、経済的、そして軍事的にも限りなくアメリカと一体化しつつある日本の現況を省み、行く先を考える上で、欠かせない視点がいくつも含まれている。
 三度、読み、多くの日本人がぜひ、読んでおくべき文章と確信し、いささか長文ではあるが転載した。
 ぜひ、多くの日本人に読み、考えていただきたい。

 ちなみに、日本経済新聞は6月21日、「結婚したい20代 大幅減 男性で28ポイント、収入も影響か」を掲載した。

20代の独身男女のうち、結婚したい人の割合が3年前と比べて男性で約28ポイント、女性で約23ポイントと大幅に減少したことが、21日までに明治安田生活福祉研究所の調査で分かった。
 男性が独身でいる理由は『収入が少ない』が最多。
 所得が理由で結婚に消極的になっている現状が浮かび上がった。

 調査は今年3月、恋愛と結婚をテーマに全国の20~40代の男女を対象にインターネットで実施。約3600人が答えた。

 20代では『できるだけ早く結婚したい』『いずれ結婚したい』との回答が、男性で3年前の67.1%から38.7%に減少。
 女性は82.2%から59.0%に落ち込んだ。
 30代では男性が40.3%、女性は45.7%でいずれも10ポイント以上減った。

 独身でいる理由は、男性では『家族を養うほどの収入がない』が最多だったのに対し、女性では『結婚したいと思える相手がいない』だった。

 20~30代の未婚女性の半数以上が結婚相手に年収400万円以上を望む一方、実際にこの収入がある20代男性は15.2%、30代男性は37.0%にとどまった。
 調査の担当者は『このギャップが男性が結婚に前向きになれない一因とみられる』と指摘した。〔共同〕」


 これが日本の実態である。
 さて、以下、バーニー・サンダース氏の声に耳を傾けたい。

「実に驚いた。
 英国の労働者たちが、自分たちや子どもたちを失望させているとして、欧州連合(EU)とグローバル経済に背を向けた。
 こうした労働者たちの多くは、英国内の大金持ちが裕福になるなか、自分たちの生活水準が下がるのを目の当たりにしてきた。

 苦しんでいるのは、英国人だけではない。
 世界の経済エリートがログイン前の続き築き、維持してきたグローバル化の進む経済は、世界中で人々を失望させている。
 信じられないことに、この地球上で最も裕福な62人が、世界の人口の半分の下層の人たちである約36億人の合計と同じくらいの富を所有している。
 上位1%の所有する富は、ほかの99%の人たちの合計よりも多い。

 大金持ちは想像を絶するぜいたくを味わっているが、何十億にものぼる人々は、悲惨な貧困や失業、そして不十分な医療、教育、住宅、飲み水に耐えている。

     *

 このような世界経済の現状に対する拒絶反応は、米国でも起こりうるのだろうか? もちろん起きる。

 私は民主党の大統領候補の指名争いで、米国内の46の州をまわった。
 そして、政治やメディアのエスタブリッシュメント(既成勢力)が認識さえしていないような痛ましい現実を、数多く見聞きした。

 この15年間に米国では、6万カ所近くの工場が閉鎖され、製造業で480万人以上の高給の職が消えた。
 このほとんどは、低賃金国に企業の移転を促す破滅的な貿易協定と関係している。
 そして実に4700万人近い米国人が、貧困に陥っている。
 医療保険に入っていない人は推定で2800万人にのぼり、入っていても不十分な人は数多い。
 何百万もの人々が、法外な額の学費ローンに苦しんでいる。
 たぶん近代史で初めて、いまの若者世代は親世代よりも低い水準の生活を送るだろう。
 恐ろしいことに、教育水準の低い何百万もの米国人が、絶望や麻薬やアルコールに屈して前の世代より寿命が短くなるだろう。


 一方で、米国ではいまや上位0・1%の人々が、下位90%の人々の合計にほぼ相当する富を所有している。
 所得が増えたうちの58%は、上位1%の人々の懐に入る。


 私は大統領選の間、8ドルや9ドルの時給ではやりくりできない労働者、年額9千ドルの社会保障で必要な薬を買おうと苦心する退職者や大学の学費を払えない若者たちと話した。
 プエルトリコで米国の市民権を持つ人たちも訪れた。
 ここでは子どもの約58%が貧困のなかに暮らしていた。

 はっきりさせておこう。
 グローバル経済は、米国でも世界でも、大多数の人々の役に立っていない。
 経済エリートが得をするようにと、彼らが生み出した経済モデルだ。
 私たち米国人は、真の変革を起こさなければならない。

 だが、民衆扇動や、偏狭な考えや、移民排斥感情による変革は必要ない。
 これらは、EU離脱キャンペーンでの巧みな言葉に使われ、(共和党の大統領候補指名が確実な)ドナルド・トランプ氏の訴えの中核をなすものでもある。

     *

 私たち米国人は、世界中の人々をもっと緊密に結びつけ、極端なナショナリズムを抑え、戦争が起きる可能性を減らす国際協力を、力強く支援する大統領を求めている。
 そして、民主的な権利を尊重するとともに、ウォール街や製薬会社といった強力な利益団体だけでなく、労働者の利益も保護する経済を求めて闘う大統領だ。

 そして、いまの『自由貿易』政策を根本から否定し、公正な貿易へと移行すべきだ。
 米国人が、時給何セントかにしかならない低賃金国の労働者と競争させられるのは間違いだ。
 環太平洋経済連携協定(TPP)を打ち負かさなければならない。
 持続可能な経済モデルを構築する貧しい国々に、手を貸す必要がある。


 大企業や富裕層が何兆ドルもの納税を回避する国際スキャンダルには、終止符を打つ。
 また、地球規模の気候変動と闘い、化石燃料から世界のエネルギーシステムを移行させることで、世界中に何千万人分もの雇用をつくり出す必要もある。

 世界全体の軍事費を減らし、戦争の要因になる貧困や憎しみ、絶望や無学といったものに立ち向かうため、国際的な取り組みを進めるべきだ。
 英国で離脱派に過半数を与えたのと同じ力が、米国でトランプ氏を利することにもなるという考えは、民主党に対する警鐘だ。
 英国の離脱派と同じく、当然のことながら米国の何百万もの有権者も、中間層を破壊しつつある経済的な力に怒りといら立ちを覚えている。

 この極めて重要な瞬間に、民主党と新しい民主党の大統領は、苦労にあえいでいる人や取り残されてきた人々を支持すると、明確に打ち出すべきだ。
 ほんのひと握りの億万長者だけでなく、すべての人々の役に立つような国家経済と世界経済をつくり出さなければならない。


 日本経済新聞が〈結婚できない若者〉をとり挙げた6月21日、朝日新聞は米国屈指の投資家ジム・ロジャース氏へのインタビュー記事を載せた。

「この先良いことは何一つ起きないとあきらめ、昨年夏に日本株を全部売り払いました」


 お金に厳しい氏はこう見抜いたからだ。

「アベノミクスは常軌を逸したようにお金を刷り続け、円の価値はわずか数年で一時、3割も落ちました。
 短期的に輸出企業は助かるのでしょうが、輸入コストが上がって物価の上昇を招き、国民生活は厳しくなります。」

「自国通貨の価値を下げたり、インフレを起こそうとする手法で成功した国は過去にどこもありません。」


 お札を刷ってお金の価値が下がれば、国は借金を減らしやすくなる一方で、収入の増えない庶民の家計はますます苦しくなり、自分の身を自分で何とかしようとお金を貯めているお年寄りは不安にかられ、いかに政府や経済界が鐘太鼓を鳴らそうと、財布の紐を弛めはしない。
 アメリカの実態をよく眺め、歯止めのないグローバル経済と、無節操な自由競争の先に幸せが待っているという白昼夢は、誰のために、誰によって演出されているのか、また、私たちの足元と未来はどうなっているか、よくよく考えたい。

 皆が気づき、実感もしている現代文明の根本的大問題に取り組もうとする政治家は少ない。
 バーニー・サンダース氏は先駆者であり、英雄である。 




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2016
07.16

多様性は宝石のように輝く ─虫たちの声・雑木林の妙・生き直す終括─

2016-07-16-0001.jpg

 あと3週間で立秋、山里の朝はすでに、たちが主役です。
 まだ、梅雨明けもしていないのに、天気予報士たちはあれほど「酷暑」を心配していたのに。
 昭和37年、高橋元吉が書いた詩「鳴く」を思い出しました。

「草かげの
 鳴くたちの宝石工場

 どの音もみんなあんなに冴えてゐるから
 たちはきつといつしんになって
 それぞれちがつたいろの宝石を
 磨いてゐるのだらう

 宝石のひかりがうつり
 いひやうもない色まであつて
 方々の草かげがほんのりあかるい


 それぞれなりのいのちの発露が迫ってきます。
 聴いた作者はついに、「ほんのりあかるい」と見える人にまでなっています。
 全人格、魂をかけての音を受けとめているのがわかります。

 今から20年前、中川重年氏は名著『再生の雑木林から』に、学びと共生の道を示しました。
 人の手が入らず長年、放置された林はササなどに占領され、人間が足を踏み入れられないどころか、多様な植物たちが生きる場も失われます。
 私たちが普段、住んでいる地域からそう遠くないところにある雑木林は、ちょっと工夫して目をかけ、手をかければ、見違えるほどに生き返り、林の中の多様な動植物たちが活き活きすると共に、人間と林の共生も可能になります。
 こうした見通しのよい空間が保たれれば、熊に対する一種のバリアともなり、最近、各地で発生している熊騒動の解決にも一役買うのではないでしょうか。

雑木林で家族、友達、地域の仲間とともに行動することは、多様な自然の事象にぶつかり、それに対応する判断力、行動力、協調性、共同作業、他人へのいたわりといった、グループとしての質を高める訓練が不断に行われてくる。
 さらに、こうした活動の結果、林床植生にこれまでなかった植物が再生してくることを目の当たりにすると、そのわずかな自分がかかわった自然に対するインパクトが、一部の優占種群を抑え、多くの種類の植物に平等な空間を与えていることに気がつく。
 人間社会のあり方にも、まさしくこうしたことが要求されているのではないだろうか。

 ともに始めた『きずなの森』の活動から、こうした新しい自然と共生する人間の生きる方向性を学んできたように想われる。」


 そうだよなあ、と思っている頭に浮かびました。
終括の本質は生きなおしではないか……〟
 いわゆる終活ならぬ人生の締め括りを真剣に考えるのは、それまでの生き方を振り返って一つの区切をつけることであり、その先に必ず、新たな生き方が待っているはずだ。
 新たな生き方をつかんで初めて、終括ができたことになる〟

 私たちが終括を行えばそれで人生の幕が降りるわけではありません。
 また、死後の準備をすればそれで済むわけでもなく、私たちの生は続きます。
 それなら、〈新たに生きる〉意識を持つことが重要ではないでしょうか?

 インドのバラモン教には古来、四住期(シジュウキ)という考え方があります。
1 学生期…学問の期間
2 家住期…社会人として役割を果たす期間
3 林棲期…森林で修行する期間
4 遊行期…遊行しつつ死を待つ期間

 思えば、終括は3番目に当たると言えそうです。
 いきなり家や家族から離れなくても、それまでの人生を省みつつ、人間とは何か、人生とは何か、自分はこれから一人間として何を行いつつ残りの生をまっとうすべきか、という人生の根本問題に向き合うことはできます。
 そして、やがて、モノ金や名誉にこだわらず、自然に死を待つようになれば、理想ではないでしょうか。
 ──一人一人が人生の大事と向き合う貴重な時間……。

 虫の声を聴き、雑木林を想いつつ、こんなことを考えました。
 虫たち、雑木林のいきものたち、それぞれの人生を生きる私たち、めくるめく多様性が輝く世界です。
 いつのまにか虫たちは朝の饗宴を終え、今日も一日が始まっています。




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2016
07.15

魂の行方は? ─供養のきっかけ─

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 私たちは人の死に際し、その魂の行方を気づかっているだろうか?
 死んだ途端になぜ、もう大丈夫、と言えるのだろう?

「これまでご苦労様でした。
 どうぞゆっくりお休みください」

 あの世へ行けば安寧が待っていると考える根拠は何か?
 ただ、そうあって欲しいと思うだけで、ことを済ませてはいないか?

 私たちはほとんど、この世でさんざんやらかし、結末をつけられないことごとを山ほど残してあの世へ旅立つ。
 子供の教育、夫婦の約束、仕事の責任、人間関係の信義などなどに関する問題行動や失敗は、真剣に数え始めたらきりがないはずだし、年をとれば無論、多くを忘れてしまってもいる。
 自分がそうなら、旅立つ人もあまり変わりはなかろう。
 だからこそ、お釈迦様の高弟で神通第一と称される目連尊者(モクレンソンジャ)は、亡き母親がいかなる境遇にあるか、気づかった。

 神通力で観たところ、意外にも餓鬼界(カキカイ)に堕ちており、自力では救いようのない尊者はお釈迦様に救済法を請い、雨季の修行を終える行者たちへ供養し、祈るよう指導された。
 それが現代にまで伝えられ、日本ではお盆供養会とドッキングしているが、そもそも、尊者が〈魂の行方〉を気づかったことに由来するという事実は重い。

 たとえ愛憎こもごもあったとしても、哀惜を抱きつつ送るのならば、その行く先であるあの世を深く想わずにいられない。
 お大師様は愛弟子の死に際し、言葉を手向けた。

「覚りの朝(アシタ)には夢虎(ボウコ)無く、悟りの日には幻象(ゲンゾウ)莫(ナ)しと云うと雖(イエド)も、然れども猶(ナオ)夢夜(ボウヤ)の別れ不覚の涙に忍びず」


(覚れば、何があっても、夢で見る虎を恐れぬように心乱れず、目には見えていても所詮幻でしかない象を気にせぬように、眼前のものごとに心乱れることない。
 とは言うものの、貴男との死別がこの世のかりそめのできごととは解っていても、不覚にも涙が流れてならない)
 天皇の前で即身成仏(ソクシンジョウブツ)の法を結び、帰依(キエ)を受けたほどのお大師様であってなお、涙を流された。
 そして、貴人であれ庶民であれ、死者への供養を生涯、欠かさなかった。

 死んだからといって、善行(ゼンギョウ)も悪行(アクギョウ)もすべてがチャラになりはしない。
 私たちは、自分がやってきたことの結果が〈今〉、すべて出てはいないことを知っている。
 だから、〝あと少し〟と頑張れるし、〝まだ謝りに行っていない〟と倫理感を保てる。
 しかし、その〈今〉は永遠に続かず、否応なく、自分の意思とはほぼ無関係に終止符が打たれる。
 ──残りの結果はどうなるか?

 この〈未だ出ていない結果〉こそが、死に行く人の深い意識に蓄えられているものだろう。
 それを知っている目連尊者は、気づかい、怖れ、供養を行った。
 それを知っているお大師様は、気づかい、哀しみ、供養を行った。

 私たちは、亡き人をふと、想う。
 命日はもちろん、夕陽が空を橙色や紫色に染める時、ヒグラシが鳴き始める頃、お彼岸やお盆の時期。
 そして、気づかいが兆したならば、すなおに供養を行いたい。

 静かに合掌する、真言やお経を唱える、供養を申し込む、供養会に参加する。
 いずれであれ、魂の行方に想いをいたす時、それは私たちの仏心が動き、あの世の仏心と共鳴し、共に(ゴウ)が清められる兆しなのだろう。
 ふとした〈その時〉を大切にしたい。




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2016
07.14

Q&A(その26)「最期に苦しむ人」とならないためには? ─解き放たれ、委ねる─

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 ほとんどの人は幸せに生きたいと願う。
 そして、安心して死にたいとも、思う。

 幸せに生きるには、この世のことごとについて、この世なりの条理をつかんで処置すれば何とかなる。
 不運や不条理が大きく立ちはだかる時は、自分の心のありようを見つめれば、流れが転換できる。

 安心して死ぬには、まず、寝て、食べて過ごせるように、準備しておきたい。
 逃れられない死に対する恐怖感をどうするかが、最後の難問だ。

 森津純子医師は、医療相談とカウンセリングをもっぱらとし、たくさんの人々を見送った。
 医師が「最期に苦しむ人」と指摘したタイプのうち、二つを考えてみよう。

1 特定の思考に縛られる人

 宗教は人を救い、苦しめもする。
 仏神に守られているという確信は人を根本的に救うが、ドグマに縛られれば危うい。

 仏教の「因果応報」は道理として疑いにくく、倫理の基礎として動かせないからこそ、私たちは、自分なりの精進(ショウジン)を志向する。
 それは、1+1が2と確定していなければ計算が成り立たないのと同じ重要さを持っており、もしも人助けをして撲られ、人を傷つけて誉められるならば、私たちは意思決定できず、発狂してしまうことだろう。

 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教に共通の「最後の審判」もまた、人を善行(ゼンギョウ)へと誘い、悪行(アクギョウ)を制止する思想である。
 善悪の基準がなくなれば、上記のとおりとなる。

 しかし、もしも、最期を迎えた時、自分が犯した過ちを〈上書き〉するだけの善行をしてこなかったと悔いるならば、どうなるだろうか?
 もしも、最期を迎えた時、自分の不安や苦しみを神が与えた罰と考え、押し潰されそうになったなら、逃れられようか?

 いかなる思想も宗教も、いのちと心の世界全体をつかみえない人間にとって、道しるべの一つとしての仮説であることを忘れないようにしたい。
 仮説をどう考え、どう用い、どう生きるかは、一人一人が個別に生まれ、他者と身体も心も交換し得ない絶対の個別性を持った個々人の判断にかかっており、仮説は、一人の人間が生きているという真実全体を動かす主人公ではあり得ない。

 いかなる〈道理〉も〈お告げ〉も、一人の人間の人生に対して責任を持ちようがない。
 そうしたものを生かす主体性を保つか、それとも縛られて自分を追いつめるか、結局は一人一人の問題となる。

2 狭い自分の世界に閉じこもり、他人の言葉に耳を傾けない人

 私たちのいのちは、一瞬たりとも〈おかげさま〉なしには保てない。
 無数の人々との目に見えない縁の糸で結ばれ、守られていればこそ、自分の家で起き、電灯を点し、水を飲み、歯を磨き、新聞を読み、テレビを眺め、朝食を摂り、仕事に向かえる。

 自分の手が届かないところで、お巡りさんが、電力会社の人々が、水道局の人々が、新聞配達員が、報道関係者が支えてくださっており、自分にとってそれらの人々は、言わば〈プロ〉である。
 こうしたプロへ対する畏敬の念を忘れれば、私たちは恩知らずになるばかりでなく、この面でも、あの面でも、どんどんと〈井の中の蛙(カワズ)〉になり、愚かになる。

 この愚かさを助長するのが高慢心である。
 高慢な人は、真の意味で他者をプロと認めず、いかなる面においても自分を常に最上位へ置かないと気が済まず、自分の無知に気づかない。

 しかし、私たちはそもそも、意識では自分が自分の主人公であっても、一瞬後に何が起こるかは、自分で決められない存在だ。
 歩いていれば、一瞬後に懐かしい人と再会するかも知れないし、決して顔を合わせたくない相手が不意に四つ角から現れるかも知れず、自分ではどうしようもない。

 何があっても自分を失わず、平静を保ち、適切な判断を誤らないためには、意外にも私たちは、心のどこかに〈委(ユダ)ねる〉という柔軟性を持っていなければならない。
 委ねる心理がはたらけば、好事や順境に舞い上がらず、悪事や逆境でへこたれない。

 私たちは無数の〈プロ〉たちに囲まれている。
 感謝し、信頼し、委ねた方が、自分を向上させつつ、心豊かに生きられるはずだ。

3 結論

 思想も宗教も、その究極的役割は、私たちを〈解き放つ〉ことにあるのではなかろうか?
 米大リーグのイチローは、徹底した自己管理によって、自在にボールを打てるようになった。
 私たちも、真剣に真理・真実を求め、研鑽して行けば、決して縛られるのではなく、解き放たれた地点に近づけるのではなかろうか?

 私たちは、自分があらゆる面で自分の主人公になろうとし、ありがたいプロの面々に囲まれていることを忘れているのではなかろうか?
 病気になれば病院に通いつつ、医者の言うことを信じずに、ネット上のおかしな情報に迷う。
 相手を見極めて信じ、委ねるのは、決して自分を失うことではなく、自分が柔軟になり、霊性がはたらきやすくなっていることを意味する。

 解き放たれ、委ねるならば、「最期に苦しむ人」とならずに旅立てるのではないかと思える。
 お釈迦様は、「川を渡ったならば、それまでの頼りだった筏(イカダ)は置いて、その先を自分の足で歩め」と説かれた。
 不安と苦しみの中で出会ったものを信じ、研鑽し、誠心を尽くした先にある広大で自由な世界が予感されるではないか……。




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2016
07.13

言葉にならないもの ─宮澤賢治の「修羅」に想う─

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 宮澤賢治の作品に『春と修羅(シュラ)』がある。
 その一部である。

「まことのことばはうしなはれ
 雲はちぎれてそらをとぶ
 ああかがやきの四月の底を
 はぎしり燃えてゆききする
 おれはひとりの修羅なのだ」


 春が来れば、農村は動き出す。
 心も外へ向かう。
 外にある対象と自分をつなぐものは感性であり、言葉
 感性の激しい動きが言葉を見つけられなければ、悶えるしかない。
 修羅とは悶える者ではないか?

「草地の黄金をすぎてくるもの
 ことなくひとのかたちのもの
 けらをまとひおれを見るその農夫
 ほんたうにおれが見えるのか
 まばゆい気圏の海のそこに
(かなしみは青々ふかく)
 ZYPRESSEN しづかにゆすれ
 鳥はまた青ぞらを截(キ)る
(まことのことばはここになく
 修羅のなみだはつちにふる)」


 「けら」は農夫がまとう蓑(ミノ)、ZYPRESSEN(ツィプレッセン)はドイツ語で糸杉。
 何もかもが哀しみをもよおさせる愛しい存在なのに、感性と言葉がつながる表現を見出せない。
 草地、農夫、糸杉、鳥、それらは見えている。
 しかし、目に見えないものの暴発を抱えた賢治はどうすることもできない。

 仏法は、私たちが生まれ変わり、死に変わりして経巡る世界を六道(ロクドウ)と説く。
 出口のない地獄。
 生きものなのに生きるすべを封じられた餓鬼。
 咬み合う畜生。
 この三つを三悪道(サンアクドウ)と言う。

 それに対して、三善道(サンゼンドウ)がある。
 争う修羅
 迷う人間。
 楽なのに必ず楽から堕ちねばならない天。

 古い経典にはこの修羅がなかったりする。
 修羅は畜生と人間の中間なのだ。
 賢治は、迷い、どうにもならない自分を咬む修羅だった。
 彼なりの〈表現〉をつかむまで。

 最晩年の作品に『セロ弾きのゴーシュ』がある。
 チェロをうまく弾けずに悩んでいるゴーシュのところへ一羽のカッコウがやってきて、「音楽を教わりたいのです」「ドレミファを正確にやりたいんです」と頼む。
 ゴーシュは、「音楽だと。おまえの歌は、かっこう、かっこうというだけじゃあないか」と取り合わないが、熱心さに負けて、いろいろ弾いてやるとカッコウは喜び、もっともっと、とせがむ。
 とうとう、つき合いきれずに追い出そうとすると、カッコウは恨めしそうに言う。 

「なぜやめたんですか。ぼくらならどんな意気地ないやつでものどから血が出るまでは叫ぶんですよ。」


 カッコウは飛び去った。
 演奏会に成功したゴーシュは、夜遅く家に帰り、つぶやく。

「ああかっこう。あのときはすまなかったなあ。おれは怒ったんじゃなかったんだ。」


 この「かっこう」は、表現者の宿命を体現している。
 賢治はあれだけの作品を創ってすら、最後まで「かっこう」だった。
 目に見えず、言葉そのものではない何か、確かに在るが、これですと〈示せない〉何か。
 その存在を感得した者は、頭を垂れ、謙虚になる。
 仏も神も、うっすらと姿を顕し始める地点だ。
 人生の最後に、同じ苦しみを逃れられないカッコウへ謝った賢治には、涙が出る。

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 それにしても、広島の平和資料館で出会った被曝人形は忘れられない。
 言葉にできず、言葉で〈示せない〉何かがある。
 ただ、魂でその存在を確認するのみ。
 その存在は、心から何かを流れ出させてやまない泉だ。
 希有な表現に満ちたものを、この世から消し去るわけにはゆかない、と思う。




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2016
07.12

まごころの表れであるお斎(トキ) ─Q&A(その25)法事後の食事は何のために?─

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 皆さんは、ご法事の後で、「お斎(トキ)」というあたらまった食事をすることの意義をご存じでしょうか?

 そもそも、托鉢(タクハツ)と説法の旅をしているお釈迦様などの行者をお迎えしたおりには、まず、足を洗って一休みしていただきました。
 そして、座る場所やお食事を捧げてご供養することと、説法によって救われることはセットになっていました。

 私たちは普通、仏神へ手を合わせる際には、それなりにお賽銭やお線香などのお供え物を捧げてから祈念します。
 社会人のふるまいとしても、誰かにあらたまった相談ごとやお願いごとを持ち込むならば、通常、手ぶらでは相手を利用するだけになり、非礼であると考えられます。

 さて、お斎は、亡き人の菩提(ボダイ)を弔う誠心をご縁の方々にご理解いただき、供養の功徳(クドク)を集めて追い風とし、故人に安心の世界へ旅立っていただくための重要な機会と言えます。
 僧侶が精一杯の願いを込めて読経するのと同じく、この世で縁を結んだ方々が精一杯の思いを目に見える形に表し、願いや思いを仏界へ届けるのです。

 また、故人へ心をお寄せいただいたありがたい方々をおもてなしする施主としては、〈モノ金が惜しい〉という我欲(ガヨク)を離れた布施行(フセギョウ)であり、故人の死をきっかけに人間修行ができる尊い機会でもあります。
 親子であれ何であれ、人を送るというその人間関係においては一生に一度しかない厳粛なできごとにあたり、我欲(ガヨク)や損得計算を主とした行動をとるのはいかがなものでしょうか。

 また、社会貢献という観点から観れば、昔は世界中のどこででも、盛大に人を送ることのできる家は限られていました。
 だから、地域の富を集めている家が行う〈大盤振る舞い〉は、広く社会へ富を還元するという大きな意味合いも持っていました。

 日本で法事が庶民にも可能になったのは江戸時代とされています。
 当時、世界一の識字率を持っていた江戸時代の人々が身分のいかんを問わず、広く法事を行い、その家なりに精一杯の誠意で故人を送り、ご縁の方々をおもてなししていたことを想うと、真の文化のレベルはどこにあるか、何もかもが損得計算的色彩に彩られた現代人の心はどうか、深く考えさせられてしまいます。

 お斎をきちんと行うことは決して見栄を張る虚飾ではありません。
 安心の世界へお導きくださるご本尊様をご供養し、修法する導師をご供養し、故人の安心成仏を願う人々と心を一つにし、故人がこの世でお世話になった方々をおもてなしし、もって施主一家の布施行とする尊い機会なのです。

 しっかり考える余地があるのではないでしょうか?
(小生自身はなかなか時間的余裕がなく、お斎に参加できないケースが多くて申しわけなく思っています)




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2016
07.11

「私の八月十五日」を読む(第三回) ─死んだ母親─

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 仙台市泉区長命ヶ丘に「ほっといっぷく」という高齢者のサークルがある。
 それぞれの体験談が冊子「私の八月十五日」にまとめられた。
 ネットでのご披露をお許しいただいた。
 順次、転載したい。
 願わくば「不戦日本」が揺るぎなきものでありますよう。

○私の八月十五日(I・H S12 女性)

 私は父の仕事の関係で、当時、秋田におりました。
 まだ、幼かったので、当時のことは何も覚えていないのですが、ひとつだけ鮮烈な印象として残っていることがあります。
 ちょうど土崎の港が爆撃を受けたとき、私たちも逃げました。
 母に手を引かれて走る途中、激しい赤ん坊の泣き声が聞こえてきました。
 見ると、血だらけになったお母さんが、塀かコンクリートか何かに凭れて地面にべったりと座っていました。
 赤ん坊は、そのお母さんの腕の中で泣いていたのです。
 たぶん、あのお母さんは息絶えていたのでしょう。
 みんなみんな、自分の逃げることに必死だったのだと、いま思います。
 あの赤ん坊が生きておられれば、もう六十才近くになられたはずです。

 7月6日、イギリスの独立調査委員会(チルコット委員会)は、イラク戦争に参戦して200人近い英軍戦死者を出した当時の状況について発表した。
 開戦から13年、真摯な検証により実態が明らかになった。

「(フセイン政権の)武装解除の平和的な方策を尽くす前に侵攻に参加した。
 軍事行動は当時、最後の手段ではなかった」


 すでに知られているとおり、アメリカが開戦の理由として挙げた「イラクフセイン政権下で、化学・生物兵器の開発が続いているとの情報」について、疑うべき充分な理由があったと断じている。
 イラクにおける戦乱の行方や戦後の成り行きなどについては「侵攻の結果を過小評価していた」と手厳しい。
 そして、当時のブレア首相が当時のブッシュ米大統領に対し、秘密裏に戦争への協調を約束していたことも判明した。

「何があっても行動を共にする」


 元北アイルランド省次官のジョン・チルコット氏が率いる独立調査委は、戦争の正当性を疑問視する国民の声に押されて戦争の6年後に設置された。
 委員は歴史学者ら5人、調査した文書は15万件以上、証言者はブレア氏を含め150人以上に上った。
 内容は、不確実な情報を根拠としたアメリカ軍のイラク侵攻に追随したブレア氏の政権へ厳しい結果となった。
 しかし、7月6日、ブレア氏は報告書の公表を受けて会見し、情報処理の過ちや多大な犠牲者を出したことには謝罪しつつも、開戦は「正しかった」と主張した。

 あの当時、アメリカ軍は、イラクのフセイン政権が大量破壊兵器を保有していることを理由にイラクへ侵攻した。
 当時の小泉首相もイギリス同様、兄弟ブッシュの要請によって自衛隊を派兵した。
 平和憲法によって自衛隊は外国の戦闘へ参加できず、イラクのどこが具体的な非戦闘地域であるか、国会で問われた小泉氏は平然と答えた。
「自衛隊が行くところだから非戦闘地域です」
 根拠を示さず、権力者である政権の判断だから正しいと言い切ったに等しい。

 そして、根拠なき開戦が明らかになったイラク戦争に関し、出兵した同盟国日本では何らの検証も行われず、事実は風化しつつある。
 膨大な人々がいのちを失い、テロが世界へ拡散するきっかけとなり、今なお戦闘が続いているイラク……。
 私たち日本人には何の責任もないのだろうか?

 7月1日にバングラデシュの首都ダッカで起きたテロ事件。
 日本人7名が殺されたおり「私は日本人だ」と三度、叫んだ人がいた。
 彼は、日本人である以上、こうして殺されるいわれはない、と信じていたのだろう。
 残念ながら、営々として築き上げてきた「戦争をしない日本人」というブランドは風前の灯火となった。

 それでもなお中村哲医師は、武器によってでなく、住民の信頼に護られつつ、パキスタンからアフガニスタンにかけて医療や灌漑など多様な活動を展開している。

「この火急の折、つまらない争いや議論に巻き込まれず、着実に進みたいと考えています。
 健康な者に医者は要りません。
 本当に窮している今でこそ、力添えが必要だからです。
 殺伐な話が多い中、ここには希望と人間らしい喜びがあります。
 困った人々を救済するという美談ではありません。
 私たちもまた、人の温もりに触れ、自然の恵みを知り、生きる気力を養ってきました。」


 何としても「不戦日本」を貫きたい。




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「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
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https://www.youtube.com/watch?v=qp8h46u4Ja8





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2016
07.10

神を知っている? ─ユングの神、渡辺祥子さんの体験、そして『黒い雨』─

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 晩年の分析心理学者カール・ユングは、テレビのインタビューで、問われた。
「あなたはを信じますか?」
 彼は沈黙の後、はっきりと答えた。
「私は知っています」

 彼は幼少の頃、牧師である父親から言われていた。
「お前はいつも考えたがっている。
 考えちゃならない。
 信ずるんだ」

 父と子(キリスト)と聖霊が一体であるとする三位一体説に関心を持っていた彼は、父親の説明を待っていたが、正直な父親はこう言った。
「ここは省略しよう。
 だった、本当のところ私には少しもわからないんだから」
 彼は、生涯にわたって、そのことを知ろうと努力したという。

 このあたりの事情について、心理学者河合隼雄は指摘している。
「よりよく考え、より多く知ろうとする態度によってこそ宗教性は深められると彼は主張したいのである。
 従って、事実に関係なくただ信じているのではなく、自分の経験的事実に基づいて彼の宗教は成立しているのである。」
「彼が『知る』と述べているのは、『それ自体は未知のある要因と対峙している』ことを知っており、その『未知のある要因』を一般の同意に従って『』と呼ぶことを意味している。
 そしてその『未知のある要因』と対決し、その現象を慎重に観察することこそ宗教の本質であると考えている。」

 7月9日(土)、当山の寺子屋では「これからの生き方」という講演会を行った。
 そこで講師を務めてくださったフリーアナウンサーで朗読家の渡辺祥子氏は、こんなエピソードを紹介した。

 東日本大震災から半年経った9月11日、彼女は、ある被災地の広い葬儀会場で司会進行を行った。
 正面に向かって左手に立った彼女の左手は御霊の祭壇、右手は会葬者の席である。
 そこで彼女は不思議な体験をした。
 左側の空気が明らかに暖かい。

 彼女には、その理由がはっきりとわかった。
〝ああ、亡くなった方々の暖かい思いが私たちを見守っていてくださる〟
 彼女は「知った」と言えるのではなかろうか。

 やみくもに信じようとする、あるいは信じる態度は危うい。
 なぜなら、道理を捨てるかのような姿勢に人生上の無理があるのはもちろん、道理という動かしがたい知性がそれなりにはたらいた時、信じ、頼っていたはずの仏などがいつ、消滅するかわからないではないか。
 また、小生のような宗教者の立場からすると、そうした態度は、仏に対して無礼であり、真実から離れる道であるように思える。

 もちろん、私たちは、何かを〈信じないではいられない〉心理状態になる場合がある。
 たとえば、今村昌平監督作品の映画『黒い雨』は、広島で被曝した人々が時の経過の中で一人、また一人と死んでゆく様子を描いたが、そのラストは印象的だ。
 原爆症に悩みつつも健気に生きていた美しい娘矢須子は、ついに倒れ、救急車で運ばれる。
 付き添う青年悠一は呟く。
「きっと治る、きっと治る」
 見送る叔父の重松は、心中で思う。
「もし、向うの山に虹が出たら奇蹟が起る。
 白い虹でなくて、五彩の虹が出たら矢須子の病気は治るのだ」
 結果を示さずに映画は終わる。

 私たちにとって、すがる情緒も、観る知性も共に真実だ。
 必要なのは、それらが新鮮にはたらきつつも、いずれにも一方的に流されない主体性の確立ではなかろうか。

 講演会でコーディネーターをつとめてくださった白鳥則郎東北大学名誉教授は、合理性に彩られた近代の弊害を克服するためのキーワードを示した。
共生環境」「共生社会」である。
 コンピューターに代表される合理性だけではなく、生身の人間が持つαとの共生である。
 ユングの「未知のある要因」も、渡辺祥子さんの「亡くなった方々の暖かい思い」も、悠一や重松の〈懸ける気持〉も、このαではなかろうか。




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2016
07.09

口癖のチェックをしてみませんか? ─イヤダ・キライダ・ダメダの話─

2016-07-09-0001.jpg

 もう一篇、杉山平一の詩を紹介しておきたい。
 それは「一日」である。

一日
 がまんして

 イヤダ

 キライダ

 ダメダ

 その口ぐせは出さなかった

 帰って家族の前で呟いてみるか

『お母さん
 お父さんが玄関で何か
 ブツブツ言っているよ』」


 私たちには口癖がある。
 そのほとんどは、いつ始まったかわからない。
 自分でその癖に気づかぬ場合もある。

 小生は最近、ある女性から笑われた。
「いつも、素晴らしい、っておっしゃるんですね」
 指摘されてみればそのとおりだが、これまで気にしたことはなかった。

 食べものの店から出る時は、何か誉め言葉をかけようと心がけている。
 ただし、ライオンやダンプカーや海を見た小さな子が発する「凄い!」に通じる「おいしい」という言葉だけは使わないようにしている。
 それでも、考えごとなどで頭がボーッとしていたりすると、おいしいでごまかしてしまう場合も少なくない。
 
 芸がないと言えばないのだが、おいしさにノックアウトされた時などは、「参った」という意味を込めて「おいしい」を使う場合もある。
 自死したランナー円谷幸吉の遺書は忘れられない。
「父上様母上様 三日とろろ美味しうございました。干し柿 もちも美味しうございました。」

 親元から離れ、日本を代表して世界と戦った孤高の人は、遺書をこう結んだ。
「幸吉は父母上様の側で暮しとうございました。」
 だから、余計に「美味しうございました」が際立つ。

 食生活ジャーナリスト岸朝子は、試食の際に決まり文句を用いた。
「おいしゅうございます」
 故人の一言は、テレビを眺めている人々へ生唾を呑み込ませた。

 かなり、脱線した。
 もしも周囲の人へ、小生の口癖をもう一つ挙げて欲しいと頼めば、「ありがたい」になるはずだ。
 小生が「素晴らしい」と「ありがたい」を言わなくなるのは死んだ時だろう。

 使わないことにしている言葉は他にもある。
 それは「嫌い」だ。
 客観的評価から離れた独断であり、身勝手で、狭量で、毒を含み、世界を狭めるような気がしてならない。

 きっと遙かな昔、野にあったご先祖様が、自分の身を守るために排除せなばならない毒キノコなどへ対して忌避の感情を込めて用いたのだろう。
 その事情は理解できるが、現代人における「嫌い」の感情は、かなり異質だ。
 自分が張るバリアであり、ある意味、弱点でもある。

 杉山平一は、「イヤダ」「キライダ」「ダメダ」に、自己防衛の胸苦しさを感じていたのではなかったか。
 だから、試しに、使わないでみた。
 結果は一筋縄ではゆかず、「ブツブツ言っている」時、懐かしい自分に戻れて小さな安心を感じていたのかも知れない。

 この一日はきっと、後の実りに結びついていることだろう。




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2016
07.08

宗教者と教団の選び方 ─道具の話・あるべきようの話─

2016-07-08-00012.jpg
〈自分自身で自分の「あるべきよう」を考えよと説かれた明恵上人〉

 宗教とかかわって失敗したという人生相談は絶えない。
 悪因縁を説き、善行が順調に進むよう、幾度も修法してきた。
 二つのポイントを記しておきたい。

○大切なのは、用いる道具がどうかということよりもむしろ、道具をどう用いるかである

 仏教は、教えが心身の血肉となる前は、数ある道具の一つでしかない。
 キリスト教も、イスラム教も、自由主義も、社会主義も、博愛主義も、果てはナルシシズムすらも道具である。
 包丁が料理に役立つ反面、人殺しの手段にもなり、火が清めと共に火事をもたらしたりもするように、道具には多様な可能性がある。
 そして、多くの場合、結果への道を決めるのは、用いる人間の心である。

 ある時、僧侶に裏切られたAさんが嘆いた。
「大学で学び、こんなにも深い仏縁に恵まれながら、何の縁で、このようなことをされるのか。」
 縁となった僧侶が、娑婆的現実に関して、常々の言動とはまったく別人のような面を露呈し、周囲が困り果てたのだ。

 ある時、新興宗教に引きずり込まれそうになったBさんが嘆いた。
「これだけが正しい、他は邪宗だ、これだけをやれば幸せになれる、他は捨てと教え込まれ、苦しくなりましたが、お釈迦様はそんなふうに説かれたのでしょうか?」
 有名な宗教団体なので行ってみたら、カルトや蟻地獄のような恐怖感を覚え、大変な目に遭いながらも、ようやく脱出したという。
 
 仏教に関して言えば、仏教経典を用いているから、まっとうな人であり、まっとうな教団であるとは言えない。
 教えの内容よりもむしろ、教えをどう用いているかが問題だ。
 標語は飾りであり、善良な信者たちが教祖や幹部の隠された〈狙い〉に気づかぬ例は山ほどある。

 もしも、宗教を説く人や教団との縁を深めようとする場合は、教えの〈内容〉から離れ、その人自身が一人の人間としてどう生きているか、その教団が社会内の存在としてどのように社会とかかわり、どのように運営されているか、その〈ありよう〉を客観的に眺めてみたい。
 まず、本分をもってきちんと自立できていなければいかがなものか。
 まず、教団か、それ以外の世間か、二者択一を迫るようでは危険だ。

 お釈迦様は、バラモン教と思想的に相容れないにもかかわらず、弟子たちへ、行者として清浄なバラモンたちへ学べと説いた。
 お大師様は、他の宗派と争わず、むしろ多様に学びつつ、より高いものを求めよと説いた。
 ダライ・ラマ法王は、宗教的立場を超えた地点で、互いに認め合い、互いを思いやろうと説いている。

 このあたりから相手をよく見れば、失敗しにくくなることでしょう。

○人は知っているとおりには生きられない

 自分を振り返ってみよう。
 知っているとおりに生きているか?
 それができているなら、誰かを苦しめなかったはずだ。
 誰かと疎遠にならなかったはずだ。
 何かを奪わなかったはずだ。
 何かを失わなかったはずだ。

 私たちは、〈どう生きるべきか〉をおおよそ、知っているはずなのに、なかなかそうは生きられない。
 一方、確かなのは、〈こう生きたい〉と思う方向へ進もうとしていることだ。
 つまり、あるべきよう、ではなく、やりたいよう、に生きるのが私たちの現実だ。

 今から約800年前に活躍した明恵上人(ミョウエショウニン)は生涯、月輪観(ガチリンカン)の修行を欠かさず「月の行者」とも呼ばれた。
 その遺訓は、「阿留辺幾夜宇和(アルベキヨウハ)」の7文字に貫かれている。

「人は阿留辺幾夜宇和(アルベキヨウハ)と云(イ)う七文字を持(タモ)つべきなり。
 僧は僧のあるべき様、俗は俗のあるべき様なり、乃至(ナイシ)帝王は帝王のあるべき様、臣下は臣下のあるべき様なり。
 此のあるべき様を背く故に、一切悪(ワロ)きなり。」


(人は、「あるべきようは」という7文字を心に刻んで忘れないようにすべきである。
 出家者は出家者のあるべきよう、娑婆の人は娑婆の人のあるべきよう、国王は国王のあるべきよう、臣下は臣下のあるべきよう、を考え、それに背かぬようにせねばならない。
 この、あるべきよう、に背くために、一切の悪事が起こるのである)

 上人の言葉はこうも読める。

「ものの道理や人の道を知っているつもりでいるだけでは危うい。
 自分は自分の置かれた立場なりにどうあるべきか、その道理や道を常に問い、得た答に合わせる努力をし続けなければならない。
 それを怠るところから、この世のすべての過ち、悪行が起こってくる」

 また、気をつけねばならないのは、こうも説かれている点である。

「仏も戒を破りて我を見て何の益(エキ)かあると説い給(タマ)へり。」


(お釈迦様も、戒めに背いていながら、悟った人を崇めたところで何にもならない、と説かれているではないか)

 出家者と在家者を問わず、決して、拝めばまっとうに生きられるのではない。
 まっとうに生きるためには、自分自身を省み、外に学び、内に仏心の声を聴き、それに従う自分自身の努力が欠かせない。
 仏神に祈るのは、〈凡夫はいかに努力しようと何かが足りない〉からである。
 知っているとおりにはなかなか生きられない私たちだからこそ、いかに生きるべきかを常に問い、実践し続けねばならないのは、上人が説かれたとおり、置かれた社会的立場にかかわりなく共通の真実だろうと思う。

 このあたりから自分をよく見れば、失敗しにくくなくことでしょう。




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「おん あらはしゃのう」
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2016
07.07

希望とポケット ─負けずに進もう─

2016-07-06-0003入りやど
山内明美先生の故郷南三陸町へ〉

2016-07-06-0004いりやど2

2016-07-06-0005ひころのさと
山内明美先生の故郷南三陸町へ〉

2016-07-06-0006ひころのさと2

 午前1時30分、今年最初のヒグラシを聴いた。
 一ヶ月後はもう立秋である。

 闇を見つめているうちに、杉山平一の詩『希望』を思い出した。
 そして、9日の講演会で講師を務めてくださる山内明美、渡辺祥子の両氏が、日本大震災からの復興に深くかかわってこられたことも思い出した。

「夕ぐれはしずかに
 おそってくるのに
 不幸や悲しみの
 事件は

 列車や電車の
 トンネルのように
 とつぜん不意に
 自分たちを
 闇のなかに放り込んでしまうが
 我慢していればよいのだ
 一点
 小さな銀貨のような光が
 みるみるぐんぐん
 拡がって迎えにくる筈だ

 負けるな」


 本当のガマンができれば、必ず「小さな銀貨のような光」が見つかり、人生の敗残者にはならない。
 本当のガマンを忍辱(ニンニク)という。

 我慢はそもそも仏教用語で、自分に対する執着心から他者を見下す慢心を意味する。
 空(クウ)を知らぬ無明(ムミョウ)と、生への盲目的な渇望のために自己中心となり、根拠なく不毛の慢心が生まれる。

 困り者の我(ガ)は、周囲とぶつかり、あらゆる悪の元となる。
 やがて、何があっても我に流されず、我が暴発せぬよう耐え忍ぶ忍辱をガマンと呼ぶようになった。

 この「小さな銀貨のような光」について仏教は具体的に説く。

1 たくさんの人々に愛される
2 たくさんの人々へ喜びを与え、気に入られる
3 なかなか敵をつくらない
4 なかなか過失をしない
5 迷わず、乱れず、死後は天界へ生まれる

 ガマンは辛いが、忍辱にまでなれば、ご褒美も大きい。
 ああ、ガマンとは……、祈るのみである。

 杉山平一のもう一篇『ポケット』を読んでみよう。

「町のなかにポケット
 たくさんある

 建物の黒い影
 横町の路地裏

 そこへ手を突込むと
 手にふれてくる

 なつかしいもの
 忘れていたもの」


 ポケットは決してモノが詰まってはいない。
 そうかといって空っぽでもない。

 ポケットを見つけた人は、次いで、そこからあらゆる無形の宝ものを見出す。
 ポケットはどこにでもあり、誰でも見つけられる。

 ただし、ポケットができるためには、〈時間〉が必要だ。
 流れ去った時間と、自分がハッとして立ち止まる時間。

 大震災被災地では人が亡くなり、家や生活も無くなった。
 そして、流れ去った時間が集積していた空間も。

 被災地を訪れるたびに思う。
 この地がおちつき、早く「建物の黒い影」や「横町の路地裏」ができてゆきますよう。

 そういう空間にはきっと潜んでいる。
「小さな銀貨のような光」を見つけるヒントが。




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2016
07.06

『国歌を歌えないような選手は、日本代表じゃない』のか? ─国家に唄わせられる恐怖─

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〈身体検査されるフセイン大統領。この写真を目にした時、イラク国民の屈辱感に涙し、イラクとアメリカの恐ろしい未来を想った〉

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〈国家の高唱をオリンピック選手に選ばれる条件と明言した東京五輪パラリンピック組織委会長森喜朗氏〉

 7月3日、東京五輪パラリンピック組織委会長である森喜朗氏は、リオデジャネイロ五輪代表選手団の壮行会において、挨拶を行った。
 氏は元内閣総理大臣であり、前衆議院議員である。
 以下の文は、発言の全体を聞き取り、書き起こしたとしてネットに流れているものである。

「国歌の斉唱を
 自衛隊の演奏とお姉さんがやってくれました。
 みなさんにもお願いしたい。
 どうしてみんなは揃って国歌を歌わないのでしょうか?
 サッカーでなでしこが優勝した時に
 澤さんはじめイレブンが
 涙をいっぱい流しながら
 君が代を歌っていた!!
 昨年のワールドカップラグビーでは
 五郎丸君たちがみんな
 涙を流して君が代を歌っていた!
 その姿が日本の国民のテレビの映像に写って
 みんな感動したのです。
 どうぞこの選手のみなさん
 選手のみなさんにお願いしたいのは
 口をもごもごしているだけではなくて
 声を大きくあげて
 表彰台に立ったら国歌を歌う事になる。
 皆さんが大きな声で国家を歌う事を
 日本の国民がみんなテレビを通じてみてます。
『国歌を歌えないような選手は、日本代表じゃない』
 私はそう申し上げたい。


 いくど読んでも、信じがたい発言である。
 氏の気持はわかるが、明らかに越えてはならない一線を越えている。
 思想統制の姿勢は、オリンピックを司る立場としてはもちろん、もしも現役の衆議院議員だったならば、議員辞職にもつながりかねないほど重大な問題をはらんでいるのではなかろうか。

 とにかく、〈国歌を歌えない人間〉は日本を代表する立場に立たせないなどという発言は、自由主義国家において許されることではない。
 ましてや、「口をもごもごしているだけではなくて声を大きくあげて」などは、もはやおぞましいとさえ言える。
 国家社会によってそうした形を取らされる状況など、一人間として耐えがたいではないか。
 イラクで反政府勢力が過激な行動をとり続けるようになった理由は何か?
 あの時、米軍に囚われたフセイン大統領が無理やり口を開けさせられ、こともあろうに、その写真が世界中に放映された。
 イラク人の屈辱感と反発心に火がついたことは言うまでもない。
 こうした人権無視の姿勢は筆舌に尽くせないほど恐ろしい。

 私たちは、試行錯誤の歴史を積み重ねるうちに、人間の内面へ立ち入り、内面のありようを変えさせることの非人間性を骨の髄まで知ったからこそ、国家社会によって思想・信条・信教・良心などの自由を確保することに最高の価値を見出したはずではなかったか。
 戦争中に「非国民!」と罵倒され、内面に土足で踏み込まれた時代の惨めさ、悔しさ、苦しさ、辛さが身に沁みていたからこそ戦後70年間、憲法19条の「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」という条文を大切にし、頼りとしてきたのではなかったか。
 しかるに今、政界の要職を歴任し、事実上、オリンピックをとりしきる立場にある人間が、確信的に「国歌を歌えないような選手は、日本代表じゃない」と言う。
 人間の内面へ国家社会が踏み込んではならないという憲法上の縛りがあって初めて、内心の自由、つまり人権の根本は保証されるのであり、「こう思え」「こう唄え」と強制することが許されるならば、人権は根本から破壊される。
 それは、「お前のままではならない、別人になれ」と強要されることに等しいからだ。

 氏は堂々とそれをやった。
 
 なぜか、大手マスコミは異様なほど、沈黙している。
 このこともまた、恐ろしい。

 ちなみに、こう書いている小生は左翼でなければ、共産主義者や無政府主義者でもない。
 早大では国策研究会で切磋琢磨し、葦津珍彦先生に学び、三島由紀夫や福田恆存の著作はほとんど読んでいる。
 自民党政治家の事務所にいたこともあり、国防の専門家に教えを乞う場合もある。
 おりおりに国旗掲揚も行う。
 小生は決して君が代を否定する立場ではないし、日本人の活躍に涙をもよおしたりもする。
 こうした人間であってすら、今回の件については、もしもこのまま看過されるならば日本の行く末は危ういと思う。

 問題は、平等に扱われるべき国民が、特定の思想などを基準にし、国家によって分けられるという一点にある。
 よく「アリの一穴」と言う。
 この事態はもはや、そんなものではない。
 オリンピックを利用して堂々と個々人の思想及び良心へ踏み込み、国民すべてを都合よく変えようとする国策の意思が表れている。
 国へ従わせるのは、そのまま、時の権力者へ従わせることに他ならない。
 政府はただちに、森喜朗氏を東京五輪パラリンピック組織委会長の職から退け、こうした事態に至った責任を明確にすべきだと思う。
 もしもこの大問題をうやむやにするならば、このまま思想統制を進めますよというシグナルではないか。




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