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2016
08.31

悼むとは、死者の身近に在って、死者がいつまでも人間らしい存在であれとねがうことだった。

2016-08-31-0001.jpg

 長田弘の詩に『アッティカの少女の墓』がある。
 葉桜の季節、氏は、2500年前に亡くなった少女の死について書かれた薄い本(『或るアッティカの少女の墓』)を思い出し、この詩を書いた。
 そこに決定的な一文を見つけた。

悼むとは、
 死者の身近に在って、死者がいつまでも
 人間らしい存在であれとねがうことだった。」


 氏は、古代ギリシャのアテネあたりで生き、死んだ少女の名前も顔も知らないが、悼む気持になった。

「死のなかでなお生きつづける親身な精霊。
 死者は、時を忘れて生きる存在にほかならない。


 見知らぬ少女が悼む気持に応じて「親身」な存在になっている。
 いや、親身に感じたからこそ悼むことができたのだろうか。
 いずれにしても、「生きる存在」としてそこにいる。
 明らかに、がある。

 カール・ベッカー博士は『愛する者の死とどう向き合うか』において説く。

続いていくは慰めや安らぎをもたらすということは事実です。
 慰めは、絶望や落胆に直面するなかでの快楽や楽しみや喜びを意味します。
 慰めは痛みの中に入り込みますが、痛みを取り除くわけではありません。」

多くの宗教は、悲嘆する人を慰めるものです。
 それは、自己を超えた実在とつながっているという感覚のうちに見いだされます。」


 長田氏はによって何を得ているのか?
 いかなる痛みが慰められたのか?
 氏は『探すこと』をこう締め括っている。

「人間は探す生き物。
 探し探して無に終わる、空しくも愛すべき生き物。」


 氏にとって徒労の人生を生きることそのものが悲哀なのだろう。
 氏の悲哀が見知らぬ少女の「親身な精霊」によっていっとき、慰められている。
 その精霊が「生きる存在」ならば、まさに、「自己を超えた実在とつながっているという感覚のうち」にあることになる。
 詩『アッティカの少女の墓』は、まぎれもなく宗教の世界を描き出した。

 特定の神や仏がいるから宗教なのではない。
 人生につきものの悲哀に沈み、不条理に翻弄されて呻き、その反面、表面の意識が薄れ、混濁する中で感覚が研ぎ澄まされる時、立ち現れる異次元なるものと交流する世界。
 そこが宗教の世界であろう。
 幾多の行者、聖者が体験をもとにして示したイメージこそが仏神であり、御霊である。
 私たちは文化の息を吸いながら、言葉とイメージの追体験をする。
 そこには聖なるものがあり、異次元の聖性は、私たちの悩みも苦しみも悲嘆も薄れさせてくれる。
 聖性を持った世界をもっと知り、もっと救われたいならば、学び、実践するしかない。
 そうして学び、実践するのが、いわゆる宗教である。

 深く悼むまごころは、芸術や宗教への扉を開くかも知れない。




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2016
08.30

漢文『法句経』を読んでみる(その7) ─真理を信じる力─

2016-08-30-0002.jpg

 前回にひき続き、『法句経(ホックキョウ)』の「篤信品(トクシンボン)第四」を意訳します。
 この章では、信じるという宗教の基本的姿勢と価値について説かれています。

篤信品(トクシンボン)とは立道(リツドウ)の根果(コンカ)なり。因に於(オ)いて正見(ショウケン)ならば行(ギョウ)、回顧(カイコ)せず。
(篤く信じる心は、仏道を確立するための基盤であり、仏道がもたらすものでもある。正しい見解から始まる修行は、振り返って可否を問うまでもない)

〔七〇〕信・慚(ザン)・戒・意財(イザイ)、是(コ)の法を雅士(ガシ)は誉(ホ)む。斯(コ)の道(ドウ)は明智(メイチ)の説なり。是(カク)の如(ゴト)くして天世(テンゼ)に昇る。
(信じること、反省すること、戒めを守ること、布施すること、この生き方を、正しく品位ある人は賞める。この道は賢者の説くところであり、やがては神々の世界へも昇られるだろう)

〔七一〕愚かなるは天行(テンギョウ)を修せず、亦(マ)た布施(フセ)を誉めず。信施(シンセ)して善を助くる者は、是(コレ)に従(ヨ)りて彼(カシ)この安に到る。
(愚かな者は、神々の世界へ行けるほどの善行を行わず、布施も称賛しない。仏法僧へ布施をして善行の助けとなるものは、神々の世界の平安を得る)

〔七二〕信ずる者は真人(シンジン)の長、法を念ずれば住む所安(ヤス)し。近づく者は意(ココロ)に上(ジョウ)を得、智の寿(イノチ)は寿(イノチ)の中の賢なり。
(信ずる者は仏道修行の完成者であり、真理から離れなければ、どこにいようと心は平安である。完成者に近づく者は心が向上し、智慧に生きる者は、いのちある者の中で最も勝れている)

〔七三〕信は能(ヨ)く道(ドウ)を得、法は滅度(メツド)を致す、聞(モン)に従いて智を得、到る所に明らかなる有り。
(信じれば仏道が成就し、真理は絶対の安心の世界へ導く。教えを学べば智慧が得られ、どこにいても道が開ける)

〔七四〕信もて能(ヨ)く淵を度(ド)し、摂(セツ)もて船師(センシ)と為(ナ)り、精進(ショウジン)もて苦を除き、慧もて彼岸に到る。
(信じれば迷いの淵を渡り、煩悩を克服すれば人びとを迷いの淵から安心の世界へ渡す船頭となり、精進の徳と力は苦を消滅させ、智慧によって悟りの世界へ入られる)




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2016
08.30

年利400パーセントのペイデイローンとグラミン銀行

2016-08-30-0001.jpg

 生まれて初めて、虫の声に眠りを妨げられた。
 血を吐くほどに鳴いている。
 台風の接近を予知し、彼らなりにこの世の終わりを迎えようとしているのだろうか?
 普段は、多少、雨が降っても、止むのを待っていたように虫たちは鳴き出す。
 もしかすると、この台風が一過した後は、沈黙の一夜になるのだろうか?
 そういえば、羽をたたんでとまるムカシトンボは氷河期の生き残りだったらしい。
 いったい、どうやって生き延びたのか、凍てついた地球を想像すると、途方もないできごととしか言いようがない。
 本を読んでいるうちに4時となり、夜の底が白々としてくる頃になると、ミンミンゼミが鳴き始め、主役が交代した。

 さて、年利400パーセントの金融(ペイデイローン)がまかり通っているという驚くべき情報を記しておきたい。
 アメリカ在住の弁護士旦英夫氏より日本へ送られた便りである。
 以下は氏が「週刊NY生活」紙に連載中のコラム。

「Payday Loanとは、次のPayday (給料日)までの小口の金融です。
 アメリカ版サラ金とも言えるでしょう。
 緊急に資金を必要とする人が、給料日での返済を約束して、230ドルの先日付小切手(Post-dated Check) をPayday Lender (サラ金業者)に渡して、とりあえず200ドルを手にするのが典型的な例です。
 この例では、30ドルが金利(手数料)。
 2週間借りれば、利率は年率約400パーセントということになります。
 次の給料で、230ドルを払えれば、問題ないかも知れません。
 しかし、実際にはマイノリティを中心とする多くの低所得者は給料日に返済できず、借り換え(Rollover) を繰り返すという悪循環となる事例が爆発的に増えているのです。

 オバマ政権はこの問題に対処するためのPayday Loan規制案を公表しました。
 業界に借り手の返済能力をチェックすることを義務づけ、Rolloverの回数や頻度を制限することにより、利用者が借金の罠(Debt Trap)に陥らないことを目的としています。
 しかし、この規制が導入されると、全米に2万以上あると言われるPayday Lenderの多くが撤退し、その結果、金に困る低所得者は犯罪的な高利貸し(Loan Shark)の餌食になるだけだと業界は警告しています。
 実際、それを憂慮する識者は多いのです。 
 Payday Loan問題は、繁栄の陰に潜むアメリカの貧困問題そのものです。
 雇用の安定と賃金の底上げが進むことしか根本的解決はないでしょう。


 サプライムローン事件と日本におけるサラ金規制の歴史を思い出した。
 いわゆるヤミ金は、パチンコ依存症などと絡みながら、いまだに借金地獄を生み出している。

 一方、地球上には、ノーベル平和賞を受賞したグラミン銀行(バングラデシュ)もある。
 農村の貧困者を救うため、ムハマド・ユヌス氏が創設した金融システムの金利は年率20パーセント近いが、単利であり、利子の総額は元本を上回らない。
 借り手はほとんどが貧しい女性であり、現在では借り手が総資産の90パーセントを所有、政府が10パーセントを所有している。
 法的拘束力のある契約書は交わさず、信頼だけが担保
だという。
 どうしても返済できない人がいれば、仲間が自主的に肩代わりする場合もある。
 物乞いへの無利子貸し付けも始めた。
 銀行の各支店では、「16の決意」を暗誦するよう勧めている。
 以下は、ウィキベデイアからの転載である。 

1.私たちはグラミン銀行の4つの原則に従い、私たちの人生のあらゆる歩みの中でこれを推進する:規律、団結、勇気、そして勤勉。
2.繁栄は家族のために。
3.私たちはあばら家には住まない。まず第一に家を修繕し、新しい家を作るために働く。
4.私たちは一年を通して野菜をつくる。私たちはそれらを豊富に食べ、余った分を売る。
5.私たちは耕作期にはなるべく多くの種をまく。
6.私たちは家族を増やしすぎないように計画する。支出をおさえ、健康に気を遣う。
7.私たちは子供たちを教育し、子供たちの教育費を払えるよう保証する。
8.私たちはつねに子供と周囲の環境を清潔に保つ。
9.私たちは穴を掘ったトイレ (pit-latrine) をつくり、使う。
10.私たちは筒井戸から水を飲む。もし井戸がない場合は、水を沸かすかミョウバンを使う。
11.私たちは息子の結婚式で持参金をもらわず、娘の結婚式にも持参金を持っていかない。私たちのグループは持参金の呪いから距離をおく。私たちは幼年での婚姻をさせない。
12.私たちは不正なことをせず、また他人に不正なこともさせない。
13.私たちはより多くの収入を得るため、共同で大きな投資をする。
14.私たちはつねにお互いに助け合えるよう用意する。もし誰かに困難があれば、私たちは全員で彼または彼女を助ける。
15.もしどこかのグループが破綻しそうだとわかったときは、私たちはそこへいって回復を手助けする。
16.私たちはすべての社会活動に共同で加わる。


 困窮のどん底にある人びとが、手を携えて貧困から脱出しようとする過程において、社会人としてのルールを守るだけでなく、一人の人間として倫理観を確立する修行も行っている。
 活動の根底にはトランプ氏の侮蔑するイスラム教がある。

 かつては大帝国を誇ったローマもモンゴルもオスマンも滅んだ。
 これから30年先、50年先のアメリカがどうなるか、バングラデシュがどうなるか。
 ──日本がどうなるか。
 
 ツクツクボウシが鳴き出した。
 笹倉山は垂れ込めた雲におおわれている。
 嵐は本当に来るのだろうか。




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2016
08.29

「本当によかった」ことは何でしょうか? ─つかむ、手放す─

2016-08-29-0001.jpg

 私たちは、自分の人生をふり返り、何が「本当によかった」と思えるでしょう。
 有名校への進学?
 事業の成功?
 得た名声?

 この問いかけについて、末期患者臨死体験者などと触れ合ってきた京都大学総合人間学部教授カール・ベッカー博士は言います。

お金と言う人は皆無です。
 肩書と言う人もめったにいません。」(以下『日本人の死生観』より)

「例えばもう忘れていたけれど、十歳ぐらいのとき、小鳥が縁側のガラスにぶつかって羽を折ってしまった。
 それで自分が小鳥を救ってご飯と水を食べさせて、何週間かたってから羽が治ってやっと飛び立てた。
 十歳から七十歳まで忘れていたんだけど、それが誇りに思える行動だと思うとおばあちゃんは語ります。」


 そうしないではいられず、損得などまったく頭に浮かぶこともなく、誰かのために無心で行った行為こそが、一生の締め括りに際し、魂の財産として輝き出すのです。
 死を間近に意識すれば、モノや現象の世界には頼れるものなどありはしません。
 真言や御宝号が頭に浮かんだ人は、安心の中で逝くことができます。
 宗教を持たない人にとっては、小鳥を助けたおばあちゃんのように、良心に従った行為が真の誇りとして心を支えます
 見返りを求めず良心に従った何らかの行為を、仏教では布施(フセ)と言います。

 人が一生を終える時、「よかった」と思え、満足感や安心感や幸福感をもたらすのは、結局、自分の手につかんだものではありません。
 その反対に、誰かのために何かを手放した記憶が、確かな喜びを与えてくれるのです。
 
 私たちは、「孫たちにも囲まれて幸せに旅立った」と言ったりします。
 それはそう見えるかも知れませんが、お釈迦様はこう説かれました。

「死に迫らるれば、親(シン…家族などの身近な人びと)とても頼むべきなし」


 孫の顔を見るのは嬉しいけれど、嬉しいだけに別れの辛さも大きくなりかねません。
 家族も友人も家も何もかもから切り離され、たった一人であの世へ逝く時、自分に伴う確かなものは、善行(ゼンギョウ)による安心と、悪行(アクギョウ)への後悔や懺悔ではないでしょうか。

 小生は、ふとしたことから、ある友人と気持がすれ違ってしまいました。
 もう、昔の話です。
 ある時、彼を思い出し、無性に和解をしたい、誤解を解きたい、疑問を問いただしたいという気持が強まり、共通の友人へ仲介依頼の電話をせねばと思いつつ数日を過ごしました。
 一週間も経たぬうちに、別の友人から電話が入りました。
 彼が亡くなったというのです。
 会う約束をする時間がとれぬままに抱いていた焦燥感は、死を前にして小生へ何かを告げておきたい彼の焦燥感でもあったに違いなく、気力が一気に失せてしまうような状態になりました。
〝すまなかった……〟
 もはやいいわけは効きません。

 私たちは、いやおうなく、安心の種を蒔き、後悔や懺悔の種も蒔きます。
 最期にはその総体を一心に引き受け、旅立たねばなりません。
 お釈迦様は説かれました。

「今がその時である」


 自己中心でなく、良心の声に従うよきことは、今やるしかありません。
 確かな明日など誰にもないのです。
 しかし、いつか、死がやってくることは確かです。

 私たちは生きものであり、生きるために得なければなりません。
 同時に私たちは霊性を魂の核とし、良心がはたらいて無心に手放せる存在でもあります。
 相手が人であろうと、動物であろうと、植物であろうと、自然であろうと、世間であろうと、社会であろうと、あるいは仏神や御霊であろうと誰に対しても、手放す布施はできます。
 いざその時になって「本当によかった」と思える行動に邁進しておきたいものです。
 同時に、気がかりも消しておきたいものです。




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2016
08.28

アメリカの遺族カウンセリングと寺院の役割

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 京都大学総合人間学部教授カール・ベッカー博士によると、アメリカには、遺族カウンセリングを行う病院があるという。
 

末期患者が亡くなるであろう二、三ヶ月前から、家族、そして医療従事者、患者の世話をするチーム、看護婦や医者、そしてだいたいにおいてはハワイでしたらお坊さん、本土でしたら神父、牧師などを呼んで一、二時間くらいティーパーティーをひらきます。
 お菓子を出して、場合によってはビールとか酒も出します。」(以下『日本人の死生観』より)


 驚いた。
 医者が何かを告げるといった目的ではなく、患者の話を聴くのはもちろん、集まった人たちが「お互いに話せるような場」を目ざす。
 もちろん、祈りたい雰囲気になったなら、一緒に祈ることもある。
 数回、開催するうちに本人は他界するが、その後も毎月、数回は「雑談」を続けることが理想とされている。
 そうすると「不思議なこと」がわかる。

遺族カウンセリングをやった場合、遺族がほかの一般の人と同じような比率で健康でいられるのに対して、一般の、遺族カウンセリングをもたない遺族は、死なれて一、二年もたたないうちに突然死、急病、精神異常、自殺未遂等々、悪運をずっと引きずります。」


 これはかなりきつい表現だと思うが、家族の死をどう受けとめ、咀嚼(ソシャク)するかはその人その人によるとは言え、「遺族カウンセリングのある方が健康にいい」と事実を突きつけられてしまえば、唸るしかない。
 しかも、この事実は広く知られ、アメリカでは郡や町の単位でティーパーティー代を負担する制度すらつくられている。
 せいぜい十数万円ではあるが、医師や牧師などに時間をとらせ、クッキーなどを用意すればそれなりの実費は要する。
 その経費と、遺族の運命の重さとを比べ、「みんなのほうから出しましょうということになる」そうだ。

 さらに博士は指摘する。

「私がこの話を日本人に語るというのはいささか滑稽に思えませんか。
 だって、日本ではお坊さんがずっとそういう作業をしてきたのですから。
 昔のお坊さんは、死なれてからだけではなくて、患者が危ない、最期ではないかと思う時点から家庭に出入りし始めて、そして死なれてから何度も、四十九日、一周忌、等々、宗派によって微妙に違いますが、そこでお経を唱えるだけでなくて、みんなが話し合える、悩みを聞き合えるという場を設けて、いわば祟りを無事に抜けてきたのです。 これが日本人の知恵だったのです。」


 一昔前までは、生前にお墓を建てることや、万が一の際の準備をすることは「縁起でもない」と避けられていたが、今はむしろ、先に逝く本人が、ご葬儀の準備すら〈自分の責任〉と考えるのが一般的になりつつある。
 事実、当山には、たくさんのご家族がお揃いで相談に来られる。
 もういくばくもないと宣告されている方を目の前にして、息子さんが「おやじ、これから二人とも高校進学で大変なんだから、お墓はそんなに立派なの造れないよ」と言い、父親が「じゃあ、お墓代は俺と母さんが何とかしよう。お前は永代供養料と年間管理料を払って、孫の教育のためにも墓を守って行けよ」などとざっくばらんに話し、衆議一決する場合もある。
 もちろん、送る立場の奥さんが一人で来られ、こっそり、ご夫婦の分、共同墓の契約をして「これで安心です」と穏やかな顔で帰られたりもする。
 また、四十九日の日取りをご相談に来られ、お墓のことで親族間のズレが生じていると悩みを打ち明けるご遺族もおられる。
 四十九日、百か日、一周忌、三回忌と続く一連の供養は決して形式的な慣習ではない。
 薬師如来、観音菩薩、勢至菩薩、阿弥陀如来という異なる役割を持つご本尊様方に導かれ、あの世の御霊が安心の世界へと向かうのみでなく、供養するこの世の人びとも又、悼み、慰め、祈るまことを尽くしつつ、それぞれの心なりに身内の死を受けとめ、知らぬ間に心を深める貴重な機会である。

 何か、〈聴いて欲しい〉ことがあったなら、遠慮なく人生相談を申し込んでください。
 アメリカにはアメリカなりのスタイル、日本には日本なりのスタイルがあります。
 博士が「ずっとそういう作業をしてきた」と言うとおり、当山は人生相談を寺院の中心的役割と位置づけ、歴史的使命を果たさせていただきたいと願っています。




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2016
08.27

19人はなぜ殺されたか? ─「津久井やまゆり園」殺人事件に想う─

2016-08-27-0002.jpg

 7月26日、植松聖容疑者(26才)が相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」に押し入り、19人を殺害した事件から一ヶ月が経った。
 容疑者が事件を起こした社会的背景は、二つ挙げられる。

1 畏敬の欠落

 一つは、私たちの心に畏敬というものが育ちにくくなり、霊性や良心へつながる通路が狭くなっていることだ。
 作家の村上龍著『日本の伝統行事』に「わたしたち日本人の信仰」という項目がある。

「日本人がイメージする神とは、敬いと畏怖と祈りの対象、その『象徴と総体』とでもいうべきものだ。
 祖先の霊、仏像、神社、そして畏れと感謝の念を抱く自然そのもの、それらがわたしたちの神のイメージを形作っているのではないだろうか。
 家族の健康と幸福を神社に祈願し、祖先の墓や仏壇を拝み、リスペクトを持って仏像に接し、自然に対しては、収穫への感謝と災害への畏れを祭祀などの形で表現する。」


 私たちは子供の頃、神社のお祭で不思議なもの、恐ろしいもの、浮き浮きするものを感じとった。
 誰かの葬儀では、死がとても丁重に扱われ、死者が崇められることを知った。
 サイクリングで大雨に遭えば自然の力に立ちすくみ、稲刈りでは垂れ下がる稲穂がご飯になることに驚き、元気に飛び跳ねるイナゴもまた時には貴重な食料として私たちを助けることに感心した。
 合掌して口にする「いただきます」には、背筋を伸ばさせる何かを感じた。
 こうした行事や慣習や作法はすべて、何らかの〈畏敬〉に発しており、振り返って見れば、親からこの〈畏敬〉を教えられたこと以上の恩はないように思える。
 まさに、「象徴と総体」が〈神的なもの〉として、幼い子供の心に畏敬という感覚を育てたのだ。
 数々の失敗をし、親や他人様へ迷惑をかけながらまがりなりにも70年、生きてこられたのは、何ものかに対する畏敬の念が、道を踏みはずす一歩手前で止めてくれたおかげであったような気がする。
 不動明王が手にしておられる索(ナワ)でお救いくださるとは、このことに相違ない。

神から親しみと優しさを感じることで、わたしたち自身も周囲に優しく接しようとする。
 それは明らかに日本人の美徳の一つである。」


 最近、おもてなし、もったいない、が流行語になっているが、私たちに共通の宗教的感覚から発する「おかげさま」は、流行を超え、いつも身近にあるかけがえのない言葉だ。
 この〈かげ〉こそが畏敬の対象であり、村上氏の言う「象徴と総体」に等しい。
 その〈かげ〉は、私たちがよきことを行う時は後押しをし、悪しきことを行う時は止めてくださる。
 畏敬する相手は、「親しみと優しさ」を持っておられ、感謝の思いが湧いてくる。
 それを感じとる時、私たちの霊性や良心へつながる扉が開き、私たち自身もまた、誰かにとっての〈かげ〉となっている。
 自然に「周囲に優しく接しようとする」心がはたらくようになるのだ。

 容疑者の言動を見ると、ここのところがあまりにも見事に欠落していると思える。

2 価値観の喪失

 もう一つは、太平洋戦争の敗戦を機に、私たちが経済的復興と共に議論し練り上げてきた共通の価値観が、打ち捨てられつつあることだ。
 容疑者は「ヒトラーの思想が降りてきた」と語っている。
 ヒトラーが障害者を「価値なき生命」として安楽死させたことがホロコーストにつながり、狂気の戦争と殺戮が行われた。
 その悲惨さ、無惨さが骨の髄まで沁みた人びとは、こうした非人間的な行為と歴史が二度と繰り返されないよう、人権を考え、尊厳を考え、一歩一歩と社会制度の構築も行ってきた。

 たとえば、浅野史郎氏は厚生省の課長時代にグループホーム制度をスタートさせ、宮城県知事時代に加速させた。
 百カ所ほどだった住宅は現在約7千カ所にまで増えている。
 明らかに「施設から地域へ」という流れは進んでいるが、その一方で、積み上げられてきた歴史を知らない人びとが増え、共有しているはずの価値観が急速に失われつつあると思える。
 事実と歴史に立脚し、今さら議論する余地もほとんどない価値観が、もはや空気のようになってしまい、そのありがたさが忘れられつつあるのだろうか。
 このままでは、差別と傲慢とが蔓延し、再び戦争へと向かう歴史を繰り返すことにつながるのではなかろうか。
 私たちはこの70年間、何を積み上げてきたのか、その価値観を再確認する必要がある。
 
 この事件は、私たちが立脚しているはずの土台が崩れかけていることを教えてくれた。
 おかげさまの心が薄れ、戦後培ってきた価値観が消えつつある。
 殺伐とした心は、たやすく無慈悲な行為へと走る。
 言うまでもなく、その先には戦争が待っている。

 この事件が後世「戦争への道を暗示する事件だった」と言われぬよう、心から願わずにはいられない。




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2016
08.26

少女へ伝授した瞑想法 ─渡し続けるタンポポの種─

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 ある時、小学校低学年の少女月輪観(ガチリンカン)という瞑想法を伝授した。
 大丈夫かなと一瞬、思ったが、親御さん以上に真剣な顔をしているので、始めた。
 長めの白いワンピース姿で、当たり前のように結跏趺坐(ケッカフザ…右足を左足の腿へ乗せる座法)を組む。
 五体投地ももスルスルとこなす。
 観想文については理解しやすく説明した。
 一言も聞き漏らすまいとしていることがよくわかる。
 真言も耳から聴いたように唱える。
 腹式呼吸のところではさすがにとまどっていたようだが、タイミングなどは会得したらしい。
 眼前の図像から満月を胸中へ取り込むところは何度も繰り返した。
 途中で、大丈夫かい、休もうかと声をかけたが、頭(カブリ)を振る。
 とにかく胸中に月輪ができたようなので最後まで通して伝授した。

 お月様は胸のところにありましたか?
 終了後に訊ねてみると、橙色だったと言う。
 都会の子なので、青白い月ではなく、やや赤みがかった月を眺める方が多いのだろうか。
 事前に、昔の行者は実際に満月を眺めながら修行したと説明しておいたので、正直に自分なりの月をイメージしたのだろう。
 作法について厳密に言えば問題はあるが、とにかく一時間半の伝授と体験を休みなくこなし、お月様が広がったというところまで行ったのだから大したものだ。

 帰りしな、御朱印帳を差し出す。
 付き添った親御さんのものではなく、本人がカバーもかけて大切にしているのだという。
 途中で幾度か、緊張を解きほぐそうとしたが、笑顔にはならないけれど、心は柔らかく保たれていたようなので、ある程度は覚えたことだろう。
 最後におみくじを引いた。
 子供用のものではなく、恋愛用のものを引いたらしい。
 さすがに皆で大笑いとなった。

 思えば、托鉢日記にこう書いたものだった。
托鉢をしていると、自分がタンポポの種を運ぶ風に思えてくる。」
 未熟な行者だが、いつしか心に仏法の小さな種が形成される。
 托鉢先で祈り、見知らぬ方々と裸の言葉を交わすうちに、心もとなかった種がはっきりと結晶し、相手と共有される。
 御札と共にそれを置き、次のお宅へ向かう。
 種はそれぞれのお宅へ渡すが、行者の胸から消失はしない。
 こうして現在の自分がつくられたように思う。

 東日本大震災の津波によって無数の〈種〉が行方不明になった。
 しかし、小生の心に蓄えられた種は今、別な形で次の世代へと渡されつつある。
 どんどん渡したいと思う。
 同時に、ご縁の方々と共に新たな種を結晶させる努力も続けたいと思う。
 だから、輪廻転生(リンネテンショウ)は楽しみである。




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「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2016
08.25

『日本の伝統行事』『日本の童謡と唱歌集』そして「歌う会」について

2016-08-25-0001.jpg

1 「日本の伝統行事」のこと

 村上龍氏著『日本の伝統行事』は、英訳付き、かつ、新たに描かれた画像が豊富で、これまでに類を見ない力作です。
 氏は序文で思いを語りました。

「日本の伝統的な行事は、酒や食事や部屋の飾り付けを通して、また歌や踊りや祈りなど儀式的な行為を共有することで、共同体の一員であるという自覚と、他の人々との一体感を、結果的に得るようにデザインされている。
 しかも祝祭的な催しを通じて、日本固有の価値の方向性ともいうべきものが、自然に刷り込まれる。
 つまり、家族や友人の大切さ、幸福への素朴な願い、女として生きていく作法と喜び、子どもは健やかに育つべきという教え、親や先祖は敬うべきものだという基本、弱者に憐れみを他人に思いやりを持つことの重要性などが、伝統的な行事を通して自動的に刷り込まれる。」


 私たちは、自分たちの手に〈共有〉しているものを忘れつつあるように思われます。
 それは、歴史に磨かれ、伝えられてきた〈価値の方向性〉が見えなくなりつつあるということでもあります。
 私たちの精神は、言葉遣いはもちろん、箸の持ち方や挨拶の作法など、呼吸するように身につけたことごとによって支えられています。
 いつの世も、そうした伝統に新たな体験や工夫が加えられ、その時代なりの文化が形成されてきました。
 

「この絵本は、わたしたちが美しい伝統的な行事を持っていることを確認するために作られた。
 この本で紹介した伝統的な行事は、わたしたちすべての日本人が、すでに広く平等に持っている無形の財産だ。
 経済成長による『世間』の消失、グローバリズムによる国家の枠の弱体化と地域社会の疲弊、共同体意識の消滅、そういった精神文化の危機に際して、すでに持っている財は滞留させず、運用したり活用したりしたほうが合理的ではないだろうか。」


 8月9日、日本代表が4位となった女子体操団体戦の決勝で、フランスのトマ・ブエル氏はこう伝え、問題となりました。
「まるで漫画のキャラクターみたいです。
 みんな大喜びしています。
 アニメみたいな満面の笑みで、小さなピカチュウがいっぱいです。」
 小柄な日本人に対する差別ではないかという私的が広がりました。
 しかし、小生は胸が冷たくなる思いをしました。
 アイドルグループやアニメのヒーローなどと一体化することによって自分の価値を確認するかのような、日本の若者たちの生き方に深い疑問を抱いてきたからです。
 私たちは、「広く平等に持っている無形の財産」を忘れ、次々と目新しいものを提供して消費者へお金を使わせる商業主義に取り込まれてしまっているのではないでしょうか。
 何かのバランスが大きく崩れかけているのではないでしょうか。
 フランス人が何を言いたかったのか、私たちはその深意を考え、自らをよく省みる必要があると思えてなりません。
 

「わたしたちは、その国の文化を、芸術や文学や音楽や映画から学ぶ。
 だが、伝統的な行事について知ることも、異文化を理解する助けとなる。
 今後、わたしたちの社会では、宗教も文化も国籍も違う人びととコミュニケーションしながら、ともに生きていくことが、何よりも重要になっていくだろう。
 日本の伝統的な行事とその価値を自ら確認し、内外にそれらを伝えることは、さまざまなコミュニケーションの手助けとなる。
 わたしはそう考えている。」


 東日本大震災で津波に遭った地域の復興は、泥の中から見つけた小さなお地蔵様を路傍に立てて合掌し、お祭を復活させるところから始まりました。
 長老に導かれ、老若男女がそれぞれの役割を果たす避難先での炊き出しは、まるで、お祭の準備をするように整然と、和やかに行われていました。
 地域がそっくり消滅するほどの危機に際し、伝統行事によって伝えられた感覚が私たちの心にまだ、確かに息づいていることを強く認識させられました。。
 私たち自身がそこに立つ時、「宗教も文化も国籍も違う人びと」との「コミュニケーション」がますます必要になってゆくであろう未来は、より友好的で創造性に満ちたものになるのではないでしょうか。

2 「日本の童謡唱歌集」と「歌う会」

 坂本龍一氏が総合プロデュースした『日本の童謡唱歌集』において、編曲者トベタ・バジュンは述べています。
 

「今回の仕事では、子どものころから馴染みのある『童謡唱歌』と、久しぶりに、また本格的に向かい合うことになり、まず最初に『なんて美しい歌曲なんだ!』と、思い知らされることになりました。
 考えてみれば当然ですが、当時の日本のトップクラスの作詞家と作曲家によって生み出された傑作ばかりで、それを再認識させられたということです。
 どの楽曲も、日本の美しい四季を、精密、かつ簡潔に描いた歌詞と、時代を超えた普遍性を持つメロディーが見事に融合していました。
 その独特の『和の音楽世界』へと、ぐいぐいと引き込まれていったわけです。」


 坂本龍一氏も指摘しているとおり、北原白秋、山田耕筰といった第一級の詩人や音楽家が子供たちのためにたくさんの楽曲を作ったことは、世界に類を見ません。
 高いレベルで洗練された音楽だからこそ、時代を超え、時には国境を超えてまで、尊ばれ、親しまれ、唄われ続けてきました。
 今般、以下の要領にて、友に唄う会を催します。
 どうぞ清浄で温かなひとときをお過ごしください。

2016-08-22-00022.jpg

 私たちは今、社会に無慈悲さや卑劣さが広がっていると感じ、心にいささかの苛立ちを抱えつつ生きているのではないでしょうか?
 いじめ、パワハラやセクハラ、格差の拡大、無差別テロ、あげくの果ては戦争。私たちの心から、優しさという大切な宝ものが失われつつある、あるいはその輝きが何ものかによって覆われつつあると思われてなりません。
 宝ものとは慈悲であり、愛であり、優しさであり、許す心です。
 真の優しさには5つの要素があります。
〈信じる〉〈認める〉〈教える〉〈与える〉〈守る〉、これらが円満に実践されてこそ、「優しい人」と言えるのです。
 共に考えてみませんか?

 さて、今回の寺子屋では、「優しさ」を見つめなおし、唱歌を歌うことによって、私たちが持っている美しい情緒に息を吹き返させましょう。
 一人一人の心にある泉から清水を流れ出させ、お互いの心を癒し、社会の乾きに潤いをもたらそうではありませんか。
 合唱を指導してくださるのは、鎌倉女子大准教授で合唱指揮者、ウィーン国立音大にも留学した声楽家小山裕之先生です。
 仙台市出身の先生は、仙台市や鎌倉市や東京都などで、さまざまな合唱団を指揮するかたわら、広く一般の老若男女に歌う楽しさを味わっていただこうと、気さくな指導も行っておられます。
 当日は、広い会場で、「もみじ」「小さな木の実」「ふるさと」など楽しい歌や懐かしい歌を聴くだけでなく、共に先生の指導を受け、自慢の喉に磨きをかけられてはいかがでしょうか。
 お子さん連れも大歓迎です。
 どうぞ、お誘い合わせてご参加ください。

・日時:9月10日(土)14時~16時
・場所:仙台市泉文化創造センター(旧イズミテイ21) 小ホール(403席・車椅子可)
    仙台市泉区泉中央2−18−1 ℡022-375-3101
・会費:1000円(中学生以下無料) ※東日本大震災で被災された方は無料です。お申し出ください。
・参加:自由(事前申込みは不要です)
・主催:大師山法楽寺 黒川郡大和町宮床字兎野1-11-1 
※お問い合わせはこちらへ:℡:022(346)2106  mail:ryuuchi@hourakuji.net




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「おん あらはしゃのう」
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2016
08.24

【現代の偉人伝第231話】オリンピック男子50キロ競歩のエバン・ダンフィー選手

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〈互いに相手の国旗を手にしています〉

 8月19日に行われたオリンピックの50キロ競歩において、日本の荒井広宙選手(28才・自衛隊)とカナダのエバン・ダンフィー選手(25才)が48キロを過ぎた終盤、デッドヒートとなった。
 接触でバランスを崩したダンフィーがバランスを崩して失速し、荒井選手が3番目でゴール、ダンフィー選手は4番目だった。
 日本では荒井選手が銅メダルを獲得したと報じられたが、カナダの抗議によって荒井選手は失格、ダンフィー選手が3位とされ、それに対して日本が抗議した結果、レース終了から3時間半後に、荒井選手の銅メダルが確定した。
 そのおりに、ダンフィー選手はコメントを発表した。

「今回のことはレース後に、カナダの陸上競技連盟の判断で行われた。
 お互いぶつかることは競歩ではよくあること。
 競技の一部だと思ってます。
 これ以上、スポーツ仲裁裁判所に上訴するつもりはありません」


 そして、自らのツイッターにはこう書いた。

「Thank you to everyone for you're support today. I'm super proud of my race! Bring on #Tokyo2020」


(今日のレースで応援してくれた皆さん、ありがとう。
 私はこのレースぶりをとても誇りに思っています。
 2020年の東京オリンピックに向けて頑張ります)

 一方の荒井選手はレース直後、こう語っていた。

「最後の1周で抜かれるかもしれないと思ったら、『絶対負けられないな』という気持ちになって、自分でも不思議になるくらい力が出た。
 ここまでつらいこともたくさんあったが、メダルを取ることができて本当によかった。」


 両陣営による抗議の結果を淡々と待ち、裁定後にこう言った。

「レース中の接触はよくあることで、失格は納得できなかったが、3番でゴールしたことには変わりなく、どちらに転んでも次につながるレースになったと思っていた。
 予想外の展開だったが、とりあえずメダルが確定してよかった。」


 事実、両選手はレース後、抱き合って互いの健闘をたたえ合っていた。

「選手間ではフィニッシュ後にハグして『ごめんね』と向こうから言われた」
「悪いことをしたとは思っていないし、彼が怒っているようには見えなかった。
 お騒がせしました」


 なお、ダンフィー選手は、この6日前に20キロ競歩で10位、そして、この〈マラソンより過酷〉と言われるこのレースに臨んだ。
 彼のコメントは適切、完璧だったと言えるのではなかろうか。
 それは、心に余分な曇りがないことを示している。
 このできごとは幾度となく報道された。もう見飽きた方もおられることだろう。
 それでもなお、書かねばならなかった。
 私たちは日々に忘れるけれど、どうしても忘れたくないからだ。

 俳優高畑裕太容疑者(22才)の婦女暴行事件、受験勉強をしないからと父親(48才)が小学生の息子を刺殺した事件、千葉県の路上で若い女性2人が通り魔的に相次いで刺された事件、コンサートのチケットが不当に高額転売されている状況。
 こんな新聞の紙面を眺め、アスリートのまごころを書きとめておかねばならないと強く思った。




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2016
08.23

お釈迦様の教団を乗っ取る? ─タブーにとらわれる危険性─

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〈緑深い自然墓『法楽の郷』〉

 お釈迦様の晩年、弟子の提婆(ダイバ)が阿闍世(アジャセ)という王の帰依(キエ)によって勢力を持ち、教団の乗っ取りにかかった。
 お釈迦様は弟子たちへ注意された。
 以下、武者小路実篤著『釈迦』から抜粋する。(現代風に漢字と仮名を変えた)

「愚かなものには、あまりに布施(フセ)が多いのは、悪をます原因になる。
 愚癡(グチ)なものは、清浄な行をしないで、弟子をつくることを考え、人の上に立つことを考える。
 人がもし一方で多くの供養を求め、他方で涅槃(ネハン)を求めようとしても、それは無理である。
 涅槃を求める心はいつのまにか、貪欲(ドンヨク)な心となる。
 あまりに寄進を貪るものは自らを傷(ソコ)ね、他人を傷つける。
 だからお前達は提婆が多くの供養を受けるのを羨んではいけない。」

「芭蕉(バショウ)や竹や葦(アシ)は実がなるとそのために死ぬ。
 驢馬(ロバ)も懐妊(カイニン)するとその身を喪う。
 提婆供養を多くもらいすぎると同じ結果になる。」


 お釈迦様は弟子たちから提婆の追放を求められても放置した。

提婆を去らせる必要はない。
 勝手にさしておくがいい。
 しかし阿難(アナン)よ。
 愚かなものには逢ってはいけない。
 一緒に仕事をしてはいけない。
 無用な論議もしてはならない。
 提婆は今、邪念が益ゝ(マスマス)高まっている。
 悪狗(アクク…獰猛な犬)を打てば、ますます凶暴になるようなものだ。
 さわらないがいゝ。」


 提婆は取りまきたちと策謀をめぐらす。

「仏陀の弱点は何処にあるかと云うことを第一に知ることが必要だ。
 そして私の教えの法が仏陀の教えよりも正しいことを人に知らすことが必要だ。」


 彼らは、お釈迦様が供養で出された魚を食べること、供養で受けた上等な着物を身にまとうことを攻撃しようと決めた。

「一 衲衣(ノウエ…糞掃衣〈フンゾウエ─汚物を掃除したようなボロボロの着物〉のこと)を着ける事。
 二 一食(イチジキ)の事。
 三 魚の肉は食わない事、それを食えば善法は生じない事。
 四 食(ジキ)は乞う事、他の招待は受けない事。
 五 春夏の八ヶ月は露座し、冬の四ヶ月は草案に住する事。人の屋舎(オクシャ)を受ければ善法は生じない。」


 大勢の弟子たちが集まった講堂で、ついに提婆はお釈迦様へ面と向かって難詰した。

「世尊(セソン)、私は、この頃つらつら考えてみましたが、沙門(シャモン…出家修行者)は矢張り、一生糞掃衣を着けて過ごすべきだと思います。
 又食事も一日一食にし、乞食法(コツジキホウ)で得たものだけを食べ、他人の家へ食事に呼ばれても御馳走になるのは堕落の始めだと思います。
 それから夏は露地に住み、冬は草庵に住むべきで、立派な家に泊まるのはよくないと思います。
 殊(コト)に魚を食うなぞは殺生戒を重く見る我々には見逃すことのできない悪事ですから、魚の肉は食わないようにすべきだと思います。
 この五つの法を守れば、少欲知足(ショウヨクチソク)の善法を守ることが出来、精進、持戒、清浄の諸徳を自ずから具え、涅槃(ネハン)に早く入れるようになると思います。
 この五法は皆に守らせるようにしなければならないと思いますが、世尊はどうお考えになりますか。」


 お釈迦様は貧しい者から王様まで広く帰依(キエ)を受け、法を説いておられたので、高貴な人からは手厚くもてなされた。
 相手に応じて受ける供養を、提婆は堕落であると指摘した。
 お釈迦様は答えられた。

お前はなぜ五法がいいと思うなら、自分一人で行わないのか。
 私はそれを決して禁じてはいない。
 むしろ私はそれをほめている。
 だが、それは誰にでも強制すべきではない。
 身体の弱いものもあるし、人の親切を無にしてはならない時もある。
 自分が行うならいいが、それを誰にでも行えと云うのは、事を好むものである。
 思うに、お前は、諸々の比丘(ビク)の和合しているのを、方便(ホウベン)をもって破ろうとして、わざとことを大げさにいい、非常行法(ヒジョウギョウホウ…特殊な決まりごと)を、常行法(ジョウホウギョウ…常に行うべき決まりごと)として説くのであろう。」

「過去の諸仏は糞掃衣をおほめになり、それを着るのをお許しになっている。
 私もそれをほめ、それを着ることを許している。
 私は同時に、居士(コジ…在家で徳の高い人)の供養する衣も着ることを許している。
 過去の諸仏は乞食をおほめになり、お許しになっている。
 私もそれをほめ、それを許している。
 過去の諸仏は一食をほめ、それを許している。
 私もそれをほめ、それを許すが、二食するものを許す。
 過去の諸仏は露地に住むことを賞め、それを許している。
 私もそれをほめ、それを許しているが、又家に住むことも許している。
 私は殺すところを観たり、聞いたり、又私のために殺した疑いのある肉を食うことは許さないが、私の知らない所で、既に殺されてしまった、三つの浄肉は許しているのだ。
 それ等はお前達が思っている程、涅槃(ネハン)に入るさまたげにはならないのだ。
 こうしなければならないとあまりにはっきりときめる方が反(カエ)ってさまたげになる。

 そのことを私は知っているのだ。」


 こう説き、個室での瞑想に入られたという。
 この世で生きることは、あくまでも、他者との〈関係性〉の中にある。
 だから、お釈迦様は、里にいる牛の声が聞こえる範囲に住んで修行するよう説かれた。
 仏道修行は、仙人になるのが目的ではない。

 ちなみに密教の行者は、十善戒などの戒律はふまえた上で、「四重禁戒」も守らねばならない。

正法(ショウボウ)を捨てる心を起こさない。
 悟りを求める心を捨てない。
 正法を他者へ与えることを惜しまない。
 衆生に不利益となることは一切、行わない。」

 自分が救われることと、他者を救うことは同じだからである。
 自分だけが何かをすれば救われる、何かをしなければ救われないというあまりにこまごましたことごとにとらわれると、自分の生活に対して依怙地(イコジ)になり、他者へ対して邪慳になり、つまらぬ軋轢(アツレキ)や深刻な対立や無用の軽蔑、あるいは幻の優越感などを生みやすい。
 また、自分や自分たちに対して、より厳格であることを見せびらかし、何かの手段にしようとする人々は宗教の世界だけでなく、どこにでもいる。

 何かにとらわれることの恐ろしさ、愚かさに気づき、見せかけの厳格さに隠された自己中心的な意図を見破りたいものだと思い、長々と引用しました。
 仏教はあくまでも智慧を大切にする道理の宗教なのです。




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2016
08.22

むのたけじ氏の死に想う ─傷つける私たちを超えて─

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〈お盆供養会にて〉

 ヒグラシ、ツクツクボウシ、ミンミンゼミ、彼らが薄暗い早朝から順次に鳴く8月21日、ジャーナリストむのたけじ氏(本名・武野武治)が亡くなった。
 101才だった。
 昭和20年8月15日、敗戦を機に、氏は朝日新聞を退社した。
 理由は明白にしている。

「負け戦を勝ち戦のように報じて国民を裏切ったけじめをつける」


 そして、故郷の秋田県横手市で、週刊新聞『たいまつ』を33年間発行し、休刊後は、講演や著作活動によって平和を訴え続けた。
 今年の5月3日、東京臨海広域防災公園でこう語ったのが最後の公的発言となった。

「日本国憲法があったおかげで戦後71年間、日本人は1人も戦死せず、相手も戦死させなかった」


 私たちは〈害されたくない〉生きものである。
 もの言わぬネコや金魚やカラスとて同じだろう。
 しかし、人間は、ずっと、誰も望まぬはずの行為を集団でやってきた。
 戦争である。

 敗戦の2年後、詩人鮎川信夫は『死んだ男』を発表した。
 一緒にスマトラへ出征し、病気になって帰国した後に死んだ詩友森川義信へ送ったものだ。
 その詩は、こう締め括られる。

「Mよ、地下に眠るMよ、
 きみの胸の傷口は今でもまだ痛むか。


 内なる痛みを生きる詩人が、外からも痛みの原因を押しつけられ、ついには無理やり、生きているところから引きはがされる。
 それが戦争であり戦死だ。
 痛みから救われる可能性が奪われる。
 宙ぶらりんの痛みは、友を悼む鮎川信夫を傷めてやまない。

 作家浅田次郎氏は『無言歌』において、故障した特殊潜航艇の中で死んで行く二人の軍人を描いた。
 その最後にこう会話させる。

「俺は、ひとつだけ誇りに思う」
「しゃらくさいことは言いなさんなよ」
「いや、この死にざまだよ。
 戦死だろうが殉職だろうがかまうものか。
 俺は人を傷つけず、人に傷つけられずに人生をおえることを、心から誇りに思う
「同感だ、沢渡。
 こんな人生は、そうそうあるものじゃない」


 私たちは、自分が生きることを最優先にしないではいられない。
 それが自己中心的心性をもたらす。
 無意識の裡に永遠の人生を願い、それを阻害すると思える邪魔ものは許せない。
 この〈永遠の人生〉なるものが、空(クウ)と無常の真理に気づかぬところに生ずる幻であることを知らぬ無明(ムミョウ)から、傷つけ合う世間が現れる。
 だから、お釈迦様は、二面から救われる道を説かれた。
 一つは、真理に気づくための智慧を獲得する修行である。
 そしてもう一つは、無明で生き、自他を傷つけてしまう人間そのものを哀れみ許す慈悲の涵養(カンヨウ)である。

 自分がずっとこのままで存在し、やりたいことをやり続けたい、これは智慧なき状態である。
 自分を傷つけると思えるものは許せず、気に入らないものを害したい、これは慈悲なき状態である。

 私たちは、自分だけが好きなことをやり続けたいと思ってはいないだろうか?
 私たちは、嫌なものを排斥し尽くしたいと願ってはいないだろうか?
 この傾向が強まれば、個人的にはバラバラになる。
 社会的には刺々しくなる。
 国際的には緊張感が高まり、そして戦争になる。
 お釈迦様が説かれた救われる道と正反対に進めば、戦争がやってくる──。




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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
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https://www.youtube.com/watch?v=IvMea3W6ZP0





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2016
08.21

謙信公祭で武将役を務める飯野師範代

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 今日、謙信公祭において、隠形流(オンギョウリュウ)居合の飯野師範代が武将役で登場します。
 師範代は長年、往事を偲ばせる催事にかかわり、技術指導なども行ってきました。
 武者行列は全国にあっても、謙信公祭のように合戦を再現するものはほとんどなく、かつてはGACKTが参加して大人気を博したりもしていました。
 ぜひ、本格的な合戦の雰囲気を味わっていただきたいと思います。
 不動明王摩利支天(マリシテン)の法を中心として用い、肝腎なものを守るという隠形流居合の精神に合った役柄であると思います。
 本格的な稽古で培った奮戦ぶりをぜひ、ご覧ください。




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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y





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2016
08.20

タカマツの金メダルと「覚えていない」考 ─会得を目ざす日本の文化─

2016-08-20-0001.jpg

 隠形流(オンギョウリュウ)居合の道場で、聖ウルスラ学院英智高(仙台市)出身者がバドミントンで金メダルを獲得したことに話題が集まった。
 師範代は、高橋礼華選手(26才)が「19オールとなってから覚えていない」と言った話をとりあげた。
「身体が自然に動いていたんでしょうね」
 彼女はきっと、無心の状態で闘ったのだろう。
 こうやればこうなると、頭が余計な計算はしない。
 何かを得たり失ったりすることが気になりもしない。
 そして身体が動けばそれがきっと、その人にとって〈最善〉というものだろう。
 居合の行者が剣を手にしても同じである。
 刃筋が通り、ピタッと決まった時は、「そうなっている」と言うしかない。

 密教の行者が壇上で印を結び真言を唱え、ご本尊様の世界を観想して〈そこへ入ってしまう〉時と同じである。
 小生はこの状態を「法が通る」と言っている。
 行者の魂が神仏の世界やあの世へと通じてしまう。
 お大師様は、そのこと、すなわち「加持(カジ)」が書かれた『大日経』を発見しても、自分で読んだだけでは実際に通じさせる方法がわからなかった。
 だから海を渡り、伝授を求めてまっしぐらに行動された。
 そして、お大師様が受けた伝授は1200年を経た今でも、世界のどこかで続けられている。
 タカマツの試合ぶりは、私たちが〈そこへ入ってしまう〉時、最高の力が出せることを教えているのではないか。

 行者Aさんから質問された。
「サイコロを振って望みの目を出すという訓練を始めたのですが、丁半なら、どちらを念じても50パーセントの確立を上まわらなければならないのに、私はむしろ、下回ってしまいます。
 どうすればよいのでしょうか?」
 これも初心者によくある現象である。
 表面の意識では「丁」と念じたつもりでも、その底にある疑念や不安などが強いと、意識されない心の部分が〝そうはならない〟と反対に動いているのではないか。
 幾度やっても、心のはたらきが同じパターンであれば、結果は同じだ。
 もしも習い性になれば、結果は表面の意識が願う姿からどんどん遠ざかるかも知れない。
 ここを突破する方法は一つしかない。
 伝授された護身法(ゴシンポウ)をしっかり結び、単純に念ずるという訓練を繰り返すしかない。
 そうしているうちに疑念や不安が薄れ、心全体が単純に「丁」へと向かえば、必ず、「丁」の出る確立は50パーセントを超えてくる。

 タカマツは「覚えていない」状態で勝利した。
 居合の行者は「そうなっている」ところを目ざす。
 密教の行者は「法が通る」ところまでやらねば修法を行ったことにはならない。

 リオデジャネイロのオリンピックで顕著な日本選手の逆転劇には、何かを〈会得〉したという共通の精神的背景があるのかも知れない。
 この〈会得〉こそ、精進(ショウジン)を尊ぶ私たちの文化が持つ精華なのではなかろうか。
 8月7日、フランスのトマ・ブエル氏は、女子体操で活躍する日本人について、「小さなピカチュウがいっぱいだ」「小さい人たちが喜んでいるよ」と中継した。
 差別ではないかという声も上がったらしいが、身体の大きさについてはともかく、日本の文化と日本人のふるまい方がヨーロッパ文化圏の人々からどう見られているのかという興味深い示唆だったと思う。
 科学的関心を高く持ち、狭い国土で大きな人口を養うために何ごとも効率を高め、よいものや、おもしろいものには無心で飛びつく。
 しかし、私たちにはそれだけでなく、とことん自分を鍛え、〈会得〉を目ざすという不退転の文化もある。
 高橋礼華選手の「覚えていない」は歴史に残る言葉となるのではなかろうか。




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2016
08.19

猛暑が教えたこと ─文明の選択へ─

2016-08-19-0001.jpg
〈福島原発における放射性物質の拡散による避難区域を、チェルノブイリ事故の基準で考えた場合の地図〉

 多くの方々が「今年の夏は暑かった」と感じておられるのではないだろうか?
 文字どおりの酷暑であり、当山の本堂にある温度計は36Cを初めて越えた。
 むろん、立秋を過ぎた現在の残暑もまた、辛いものがある。
 小生のような年配者になると、自分が年々、弱ってきているので、特に応えるという面もあるのだろうと考えるが、それでも酷くなったと思えてならない。

 進化生物学者長谷川眞理子氏は「ヒトの適応力、追いつかない」と語っている。
 そこには、瀧のように汗をかいて体温を下げるという珍しい適応力に恵まれた人間でも、この先どうなるかわからない、という恐ろしい予見が含まれている。
 私たちの漠然とした「絶滅」への不安が徐々に裏付けられつつあるのだろうか?
 以下、朝日新聞の抜粋である。

「ヒトは、大量に汗をかくことでその蒸発熱で体温を下ログイン前の続きげることができる、珍しい動物です。
 ウマも汗をかきますが、ヒトは毛がないので、水のような汗をかく。
 炎天下のサバンナでもトコトコと歩いて獲物を追い、植物を探す。
 暑さに対してそういう特殊な適応をした、哺乳類の中でも変わった生き物といえます。
 だからこそ、マラソンもできるんです。」


 私たちは寒さには耐えやすい。
 暖かい建物の中で、暖かい衣装を身にまとっていればよい。
 他のほ乳類もまた、地中に潜ったり、何かをかぶったりしてがんばれる。
 ところが、暑さに耐えるのは難しい。
 この夏をエアコンなしで過ごした方も少なくないだろうが、大変な消耗をされたのではないか。
 他のほ乳類も、せいぜいが汗をかいたり、忙しく呼吸を行ったりするしかなく、あとは木陰でうずくまり、季節が変わるのを待つのみだ。
 

「ヒトには、涼しくするための技術もあります。
 気温が50度近いところなど、風土に合わせて生きていける文化もある。
 暑さへの適応は本来は得意なはずです。
 なのに、体温が上がりすぎて熱中症になる人が増えている。
 その意味を考える必要があると思います。


 環境変化のスピードが速すぎて、対応できなくなってきたのかもしれません。
 都市は冷房の排熱などでヒートアイランド化し、自分で自分を暑くしている面もあります。
 子犬が自分で自分のしっぽを追いかけているみたい。


 氏は「子犬のしっぽ」で都市文明の危うさを衝いている。
 まったく同感だ。
 核発電が核のゴミを生産し続けていることと同じく、目先の楽を求め、環境と未来への負担を増産している。

「人工的な環境のなかで暮らし、自然の変化を感じ取れなくなった。
 対応が遅れることもあるでしょう。」


 朝、目覚める時には、自動管理のエアコンが室内温度を適度に保ち、仕事場もまた同様であれば、自然の変化は、せいぜいが通勤途中かテレビの中におけるできごとでしかない。
 買い物や通院などでしかマンションから出ない年配者にとって、外は気をつけて早く通り過ぎるべき〈危険地帯〉でしかないのかも知れない。
 ましてや、体温よりも高い気温ともなれば、その中に身を置きたい人はわずかだろう。

「地球規模でみても、温暖化は生き物に大きな影響を与えつつあります。
 国連が2001~05年に行った『ミレニアム生態系評価』によると、北半球の99種の鳥やチョウ、高山植物の生息地は10年で平均して6・1キロ北に移動しました。
 122種の植物やチョウ、鳥、両生類が春に出てくる時期は、2・3日早まった。
 暑くなっても身体は急に変われず、逃げるしかない。


 私たちはすでに逃げている。
 私たちの予感はすでに、〈このままどこまでも逃げ切れはしないだろう〉という地点にまで達しつつある。

地球のあちこちで、こうした生息域の変化が起き、生物が絶滅の危機にある。
 水や物質の循環、そして生態系全体が変わったとき、いったいどうなるのか。
 実は生態学者にもわかっていません。
 しかも何万年もかけてできたシステムが100年、200年という時間で変わるかもしれない。
 いずれ安定するにしても、その過程で破壊的な変化が起きないか。
 それもわからない。


 子々孫々やこの国の未来を案ずるならば、誰かを頼るわけにはゆかない。
 日々の生活の中で、車をどうするか、エアコンをどうするか、などなど自分がやれることをやるしかない。
 自分がかかわっていない自分の〈環境〉など、どこにもないのだ。

 しかし、原発事故を起こしたあの時、大多数の国民が脱原発を望んだにもかかわらず、いつしか原発は「ベースロード電源」とされ、消費者が発電方式によって電力を買う企業が選べないまま放置されている状況は信じがたい。

 平成25年9月7日、安倍首相は、東京へオリンピックを招致したいあまり、大見得を切った。
「フクシマについて、お案じの向きには、私から保証をいたします。
 状況は、統御されています。
 東京には、いかなる悪影響にしろ、これまで及ぼしたことはなく、今後とも、及ぼすことはありません。」
 東日本大震災に遭い、福島県のみならず、一時的に故郷の消滅を覚悟した東北の人々は、一様に目と耳を疑ったはずだ。
 そして、東京が時期オリンピックの開催地となり、日本選手がリオデジャネイロで目の覚めるような活躍をしている今、汚染水が海へ流れ出ることすら止められない現実が明らかになっている。
 8月18日、東電は、凍結という方法によって地下水の流れを遮るこれまでの計画が破綻していることを認めたのだ。

 以前も言及したが、ドイツには、オリンピックのモットーを「より速く、より高く、より強く」の3つだけでなく、「より美しく、より人間らしく」を加えた5つにしようと提唱する人々がいる。
 そのドイツでは、日本の原発事故を契機とし、官民を挙げて脱原発に邁進している。
 電力を買う国民は、いかなる方式によって発電されたのかという情報を得て、電力会社を選択できる。
 それは、〈文明の選択〉に等しい。

 国民が願う方向へと政治が動き、経済も動く。
 ここにこそ、文明の「美しさ」も「人間らしさ」もあるのではなかろうか?
 
 危機を我がことと感じとり、子孫と未来への責任を果たす意識こそ、私たちがこの猛暑から受け取るべき贈りものではなかろうか?
 この世は苦海であると同時に、大日如来に荘厳された密厳国土(ミツゴンコクド)でもある。
 贈りものを見過ごさず、合掌する両手で受けとめたい。 




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2016
08.18

秘書の3条件 ─お釈迦様と阿難─

2016-08-18-0001.jpg

 年老いたお釈迦様は、周囲へ希望された。
 以下、武者小路実篤著『釈迦』より抜粋する。
 「」内は漢字や仮名を現代風に変えている。

「私も年をとった。
 そばにいる人が一人ほしく思う。
 世話もやいてほしいし、この世で話しておくことを覚えておいてほしく思うから、それでお前達が適当と思うひとがあったなら、選んでほしい。」


 一番弟子となった憍陳如(キョウジンニョ)が手を挙げ、お釈迦様は制した。

「お前自身、年をとっているではないか。
 どっちがさきに死ぬかわからない。
 お前自身世話をしてもらわなければならない身体だ。」


 神通力でお釈迦様のお心を忖度(ソンタク)した目犍連(モッケンレン)は、阿難(アナン)が適任者であろうと目星をつけた。
 阿難は、お釈迦様が気を許せる相手であり、記憶力抜群でもあった。
 目犍連は幹部にはかり、同意を得た上でお釈迦様に具申したところ、案の定、意中の人だった。
 しかし、皆に頼まれても阿難はなかなか、首を縦に振らない。
 とうとう最後に、受諾するにあたっての条件を三つ、示した。

「一つは仏陀(ブッダ)のお着になった着物を新しいものも、古いものもいただかないこと。
 二は仏陀が招かれてご馳走になられる時、一緒にお伴をしないこと。
 三はお目にかかる時でない時は、お目にかからないこと。」


 目犍連はたいそう喜び、お釈迦様へ報告しようとしたが、他の弟子たちは、条件の意味がよくわからなかったらしい。
 お釈迦様は喜ばれた。

阿難は賢い男だ。
 とやかく云われることを、前から予防しているのだ。
 多くの比丘(ビク…男性の出家修行者)の内には阿難は衣のために仏陀に奉事しているのだ。又食物のために奉事しているのだなぞと云うものがあるのを知っているので、それを予防したのだ。
 又阿難はよく時を知っている。
 今如来(ニョライ)の所に逢いに行っていいか、わるいかを知っているのだ。
 又信者の人達がいつ如来に逢っていいかわるいか、異教のものをいつ如来の所につれて行っていいか、わるいか。
 又如来が食事をすませて、安穏にしているか、いないかを知り、又如来が食事を終わってよく説法が出来る時か、出来ない時かを知っている。
 阿難は賢い男だ。」


 阿難は「仏陀の気持や、神経をよく知って、謹みを忘れない男だった」という。
 彼はお釈迦様が入滅される時までずっとお仕えし通した。

 権威にあやかろうとしない。
 おこぼれにあずかろうとしない。
 ただ、ひたすら、師が役割を果たせるよう気づかう。
 人柄がよく頭もよいのは秘書として最低の必要条件だが、充分条件としてこの三つは欠かせない。
 お釈迦様が80才まで現役を続けられたのは、如来となったからこそ、ではあるが、阿難や目犍連など、仏性に目覚めた弟子たちのはたらきも決して小さくはなかったはずだ。
 だからこそ、死の床でこう言われた。

「これ以上生きても、私は何にも益するところはない。
 私はすでに済度(サイド…安心の世界へ導くこと)すべきものは済度した。
 そしてまた済度しないものにも、済度される因縁を与えた。
 もう私はするだけのことをしたのだ。
 そしてわが弟子がわが教えに従って生きる限り、如来の法身(ホッシン)は常にあって滅しないのだ。」


 師弟関係における理想の姿は圧倒的だ。
 そして、最高の権威者が、自分を含めた組織の運営は合議に任せた点にも、大いに考えさせられる。
 お釈迦様は、古くから四阿(アズマヤ)などで長老を中心として行われていた公開討論の美風を守られた。
 仏法が今日まで伝えられるに至った智慧と因縁には頭を垂れるしかない。




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2016
08.17

小説『帰郷』に優しさを考える

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 短編小説を題材に、優しさを考えてみましょう。

1 小説『帰郷

 浅田次郎氏の小説『帰郷』は、太平洋戦争から復員した兵士と娼婦との出会いを描いている。
 南方の島テニアンで全員玉砕したと伝えられた者に、帰る先はなくなってしまった。
 しかし、古越庄一二等兵は、戦死公報に基づいて葬式が済み、墓石まで建てられたことを知らず、故郷松本の駅に降り立った。

「ただひたすら、女房子供に会いたかった。
 その気持ちが何よりもまさって、まっしぐらに帰ってきただけだった。」


 駅で出会った親族から、亡くなった父親の意思で妻が弟と再婚し、新しい子供までできているので、このまま消えてくれと頼まれる。

「今日のことは夢だと思って下さい」


 こう言って東京へ出たものの、心は耐えきれぬ思いに閉ざされていた。

「知った人間に話せば相手の耳が腐る。
 知らぬ人間に話せばこっちの口が腐る。
 だが、話さずにいれば胸が腐っちまう。
 そうして少しずつ胸を腐らせながら、何日も闇市をうろついていた。」


 庄一は、しゃがみ込んでタバコを吸っている女が心配で、声をかけた。

「どこか具合でも悪いか」


 女は綾子という娼婦だった。
 矜恃(キョウジ)がある彼女もまた、身を売って生きる女になった以上、故郷信州へは戻れなかった。

「いちど死んだ人間が甦るくらい無理な話なのだ。」


 綾子から誘われた庄一は、話を聴いてもらいたいと頼み、二人で宿へ入る。
 綾子は、最近起こった復員兵と街娼の心中事件が頭から離れないでいる。

 綾子は、帰る場所を失った物語を聴き、一緒に死んでもいいと一瞬、思う。
 男は訊ねる。

「このさき生きてゆくのには、何か不都合があるか」


 綾子は、死んで泣く人はいないか、と確認されたような気持になる。
 しかし、男は予想もしない言葉と共に綾子を抱きしめる。

「俺と一緒に、生きてくれないか」


 綾子は、「たがいの心の奥深くに、帰るべきふるさとがある」と確信する。
 その「ふるさと」は、安心して死ねる先であり、同時に、明日からの生を支える土台でもあるのだろう。

2 優しさの円満成就

 優しさは、信じ、認め、教え、与え、守るところに完成する。
 ここで言う「信じる」とは、闇雲に相手の言葉を鵜呑みにすることではない。
 たとえ相手が嘘つきでも、〈嘘をつかないではいられない人間〉としてその存在をつかみきることである。
 その存在をないがしろにしないことである。
 それは、〈丸ごと〉という意味で、ただちに、認めることにつながる。
 古来、「出来の悪い子供ほどかわいい」と言われてきた。
 親心は常に、子供を丸ごと信じ、認めるのだ。
 ないがしろにできない相手が必要としているなら、教えないではいられないし、与えないでもいられない。
 そして、守らずにはいられなくなって初めて、優しさは行き着くところに至る。

 庄一には、綾子の存在が、その「通り名」のようにマリア様と思えた。
 庄一はマリアさん、と呼び、神様とも言った。
 信じ、認めている。
 それは綾子に通じている。

「米兵はみんなやさしいけれど、やっぱり日本の兵隊は心からやさしい」


 身の上話をした庄一は、帰るべき故郷がないのは綾子だけではないと教えた。
 そして、心中へ「帰るべきふるさ」を生じさせた。
 最後に、守る決心がやってきた。

 綾子にとってはどうか?
 話を聴き、やさしさに打たれ、誘われれば心中する寸前まで行った。
 庄一を信じ、認めている。
 宿へ入る前にもう、とにかく話を聴いてやることにしたいた。
 

「お金は、いらない」


 綾子は、ここにも行き場のない女がいることを教えた。
 まっさらになり、抱きしめられた「マリア」は、庄一の守護神となった。

 8月15日、敗戦の日に、戦後の一場面を想像しました。
 小生が学生の頃、仙台駅前付近にはたくさんの傷痍軍人さんたちがいました。
 松葉杖、アコーディオン、ハーモニカ、そして地べたの飯盒(ハンゴウ)。
 浅田次郎氏の小説『金鵄(キンシ)のもとに』では、こうなっています。

傷痍軍人は物乞いではないのだから、感謝の言葉を口に出してはならない」


 胸に沁みてくる一節です。

 学生の頃、街娼が出没する地域が残っていて、仲間と飲んだ帰りに声をかけてきた女性があまりにも哀れで、身の上話を聴こうとしたことがあります。
 闇に溶け込むような目立たぬ色のワンピース、ギシギシときしむ階段、鍵もかからない一部屋に敷かれていた煎餅布団、そして着物の上からそれとわかる子供のように薄い胸。
 女性はほぼ無口で横たわり、語りたくないことごとを語らせようとした自分の心が恥ずかしく、お礼を押しつけて早々に白みかけた駅裏へ出ました。
 とぼとぼと歩き、どうやって帰宅したかは覚えていません。
 あの当時、流行った菊池章子が唄う『星の流れに』は、今でも覚えています。

 〈戦後〉は確かにあったのです。
 そこでも優しさを失わずに生きた人々の末裔として、今の私たちがいます。 




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2016
08.16

お盆供養会を終えて ─あやふやで確かなもの─

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 午前4時を過ぎてもまだ薄暗く、だいぶ、日が短くなりました。
 真っ暗な中でのコオロギからツクツクボウシへとだんだんに主役は代わりますが、窓から流れ込む冷気はすっかり秋のものです。
 夏の気配と共に去り行く彼らのいのち……。
 むしろ、彼らの一匹、一匹がこの世を去りつつ、灼熱の余韻をも消して行くのでしょうか。

 おかげさまにて、今年もお盆供養会を無事、終えることができました。
 法話は、釈迦族滅亡の因縁にかかわるお話でした。
 本堂から廊下まであふれんばかりの善男善女が集い、ご先祖様や亡き人を偲び、施餓鬼の(セガキ)の趣旨を体して慰霊のまことを捧げました。
 これまでにないほどたくさんのお塔婆が申し込まれ、私たちの心に根付いている宗教心の確かさは、老体に残るエネルギーを活性化させました。

 午後から訪れた仙台市営いずみ墓園にも、たくさんの人々がおられました。
 杖をつきながら、ゆっくり一歩また一歩と歩む母親の手を引いた白髪の息子さん、摘んだらしいお花を両手いっぱいに持ち、ピンクのワンピースで駆ける女児、たった一人で芝墓地に佇み、じっと瞑目している黒衣のお婆さん、野球帽の男の子と二人で手をつなぎ、通路を黙って歩む若いお父さん。
 私たちの日常から肝腎なものはまだ消え去ってはいないと実感させられました。

 無数の死者がいたからこそ私たち一人一人がここにいるのであり、この世で生きた私たち一人一人の生きざまと死にざまは必ず、はてしなく続く〈この世〉のありようにかかわって消えません。
 私たちが箸を使ってご飯をいただくのも、手拭いで顔を拭くのも、皆、そうして生き、死んだ方々から伝えられたふるまい方です。
 
 ちなみに、この世あの世との間に川が流れているという感覚は昔から、世界中にあったようです。
 ギリシャでは、カロンという老人が渡し守で、死者は銀貨を求められました。
 エジプトでは呪文を知っていれば無事、渡れました。
 ペルシャでは、善人だけが橋の向こうにある楽園へ行ける一方、悪人は渡れずに地獄へ堕ちるとされていたので、死を向かえた人々は大変だったと思われます。
 私たちの霊性は、こうした素朴な〈感じ〉を伴っています。
 それは、自分のいのちがどこからどこまで広がっているのか、その縁(ヘリ)を確かめられず、眼前のネコのいのちと自分のいのちとの境界線もわからないのと同じくらい、あやふやでありながら、いのちがここにある真実は疑えないほど確かなことであるのと同じです。

 遥か関西からもお塔婆供養を申し込まれました。
 当山はこれからも、今に生きる仏法を目ざして正統な修法を続けます。
 皆々様に仏神と諸精霊のご加護がありますよう。
 



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「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
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2016
08.15

蔑視と怨念で滅んだ釈迦族 ─争い、戦争を起こさぬために─

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 お釈迦様は晩年、釈迦族の滅亡を体験された。
 お釈迦様は三度、隣国の軍隊を待ち受け、引き返させたが、四度目はかなわなかった。

 ことの起こりは、釈迦族が隣国の瑠璃太子(ルリタイシ)を侮辱した事件にあった。
 太子は8才の時から深い怨みを抱き、王になったら釈迦族を滅ぼすとの誓いを立てた。
 両親がお釈迦様の教えを聞きにいった留守中、クーデターを起こした太子は瑠璃王となり、釈迦族を討つために出発した。
 それを知ったお釈迦様は、道端の枯樹の下で瞑想し、待ち受けた。
 さしもの瑠璃王も三度はがまんした。
 以下、武者小路実篤著『釈迦』よりの抜粋である。
 (漢字や仮名遣いは現代風に変えています)

「昔から兵を用いて出征する時、沙門(シャモン)に遇わば軍をかえして還れと云われている。
 まして仏陀(ブッダ)に遇ったのだ、進むわけにはゆかない。」


 精舎(ショウジャ)に戻ったお釈迦様は沈んでおられ、弟子のアーナンダは心配する。

「私は世尊のおそばにいて数十年になりますが、こんなに御元気のないのを始(※ママ)めて見ます。」

「あと七日で釈迦族のものは皆、傷つき倒れるだろう。
 如来の顔の変をあらわすのは、家中の為に喪に服するのだ。」

「釈迦族には宿世の罪の報いを受けなければならない因縁があるのだ。
 代わってこれをうけることは誰もできない」


 アーナンダは、救済法を訊ねる。
 お釈迦様は簡潔に答えられた。

「もし釈種の人が心を一つにし、外敵にくみするものがなければ国は亡びない。」


 やがて来襲した瑠璃王の軍に取り囲まれたカピラ城内ではなかなか方針がまとまらず、ついに開城となったが、おおぜいが殺され、三万人もが捕虜となった。
 瑠璃王が捕虜たちの足を土に埋めて象に踏み殺させようとした時、王の祖父に当たる釈迦族のマカナンは言う。

「私が今、この庭の池の水底に潜っている間、皆を逃がして下さい。
 私が水を出るのを合図に皆をお殺しになって下さい。」


 王は承知し、マカナンは池へ入ったが、いつまでたっても出て来ない。
 とうとう全員が逃げてしまったので、水中を調べたところ、マカナンは髪の毛を樹木の根に縛りつけ、息絶えていた。
 王は暗澹(アンタン)とする。

「私の祖父が死んだのは、他の人々の生命を助けるためだった。
 惜しいことをした。
 殺すのではなかった。」


 こうして釈迦族は滅んだ。
 発端は、他国への蔑視であり、侮蔑を許せない怨みだった。
 因縁は長い時を待って熟し、結果が出た。
 その流れを変える新しく強力な縁がはたらけば、結果は変えられたかも知れない。
 お釈迦様は、不可能は承知の上で、一致団結と自立とを説かれた。
 この二つに必要なものは智慧と方便(ホウベン…適切な手段)である。

 最後は、因縁の発端に関与したマカナンが身を捨てて多くの人々を救った。
 私たち凡夫にできることは、第一に、高慢心を離れ、他者を敬うことである。
 そして、軽蔑されたならば相手の心性を哀れみ、怒らないこと、そして怨まないことである。
 たとえいかなる富や地位を誇ろうとも、慢心し、他者を軽蔑する人の心は貧しく、哀れである。
 慢心している人の顔には品性がなく、隠しようもなく卑しい。
 怨んでいる人の顔には陰の気がまといつき、臭気を放つ。
 個人も国家も同じである。
 争いを避けるために、戦争を避けるために、まず蔑視をやめ、怨念を捨てたい。
 何としても「不戦日本」であり続けたい。 

 今日の10時から恒例のお盆供養会を行います。
 自由参加です。
 護摩の火に身を近づけ、しっかり祈ろうではありませんか。




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「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=rWEjdVZChl0





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2016
08.15

学べば心の目が開く ─漢文『法句経』を読んでみる(その6)─

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 前回にひき続き、『法句経(ホックキョウ)』の【多聞品(タモンボン)第三】を意訳します。
 多聞とは文字どおり、たくさん聞いて学ぶことですが、お釈迦様の当時は書物がなかったので、聖者から直接、教えを聞くことが最高で唯一の学ぶ機会でした。
 現代の私たちとしては、まず、説く人物や団体の判断をまちがわぬようにせねばなりません。
 核融合が核爆弾や核発電に用いられているのを見てもわかるとおり、真理は目的によってどのような手段としても用いられ得ることを忘れるわけにはゆきません。
 正しいはずの教えが人を偏狭にしたり、争わせたり、あるいはマインドコントロールに用いられたり、さらには意図せぬ危険をもたらしたりもします。
 また、さまざまな宗教や経典からの〈良いとこ取り〉で継ぎ接(ハ)ぎだらけのモザイクが、新しい教えとして喧伝(ケンデン)されたりします。
 説き手を見極めた上で、情報をきちんと取捨選択し、慎重に学びましょう。 

〔六一〕仙人は常に聞(モン)を敬う、況(イワン)や貴(キ)・巨(コ)・富人(フニン)をや。是(コ)れ慧(エ)を以(モッ)て貴しと為(ナ)す。礼(ライ)すべきこと是(コレ)に過ぐるは無し。


(仙人は教えを聞いて悟った人を敬う。位の高い人や偉人や富豪も同じく、智慧ある人をこそ真に尊い人として敬う。礼をもって教えを乞うべきは、聞いて悟った人である)

〔六二〕日に事(ツカ)うるは明るさの為の故(ユエ)なり、父に事(ツカ)うるは恩の為の故(ユエ)なり、君に事(ツカ)うるは力を以ての故(ユエ)なり、聞の故(ユエ)に道人(ドウニン)に事(ツカ)うるなり。


(明るさを感謝して太陽を拝み、恩に感謝して父親に孝行し、力の庇護を求めて君主に仕える。教えを受けるためにこそ、行者供養するのである)

〔六三〕人は命の為(タメ)に医に事(ツカ)え、勝たんと欲して豪強に依(ヨ)る。法は智慧の処に在り、福行(フクギョウ)あらば世世に明るし。


(人は、いのちを守って欲しいがゆえに医者にすがり、勝ちたいがために屈強なものにすがる。真理智慧にこそあり、幸福をもたらす智慧に導かれた善行があれば、いつの世も明るい毎日となる)

〔六四〕友を察するは謀(ハカリゴト)を為(ナ)すに在り、伴と別るるは急時に在り、妻を観るは房楽(ボウラク)に在り、智を知らんと欲せば説に在り。


(共に計画を立てて実行しようとする時に友の真意がわかり、長年の人間関係が切れるのは急な事変に遭った時であり、妻を眺めるのは夫婦で過ごす時であるように、智慧を求めるならば聖者の説を聞かねばならない)

〔六五〕聞(モン)は今世(コンゼ)の利を為(ナ)し、妻子・昆弟(コンテイ)・友、亦た後世(ゴセ)の福を致す。聞(モン)を積みて聖智(セイチ)を成(ジョウ)ず。


(教えを聞けばこの世で役に立ち、妻子も兄弟も友人も含め、来世でも福徳をもたらす。よくよく学べば、やがて聖なる智慧が得られることだろう)

〔六六〕是(コ)れ能(ヨ)く憂恚(ウイ)を散じ、亦(マ)た不祥の衰えを除く。安穏(アンノン)の吉を得んと欲(ホッ)さば、当(マサ)に多聞者(タモンシャ)に事(ツカ)うべし。


(教えを聞いて学べば、憂いや怒りを消滅させ、巡り合わせの悪さなど運気の弱化を除く。安寧で幸せに暮らしたいならば、教えをよく聞いて学んでいる人に供養することである)

〔六七〕斫創(シャクソウ)は憂いに過ぎたるは無く、射箭(シャゼン)は愚かに過ぎたるは無し。是(コ)れ壮も抜くこと能(アタ)うこと莫(ナ)く、唯だ多聞(タモン)に従いて除く。


(いかなる刀傷も心の憂いより苦しいものはなく、いかなる矢で射られようとも、自分の愚かさに引きずられるほど人生を苦しいものにすることはない。憂いと愚かさは、いかなる腕力をもっても除けず、たくさんの教えを聞いて悟り、除くしかない)

〔六八〕盲(モウ)は是(コ)れに従(ヨ)りて眼を得、闇者(アンジャ)は従(ヨ)りて燭(ショク)を得(ウ)。亦(マ)た世間の人を導くは、目あるものが目無きものを将(ヒキ)いるが如(ゴト)し。


(教えをよく聞くことは、目の見えぬ者が心眼を開くようなものであり、暗闇にいる者が明かりを得るようなものである。悟った聖者が世の人びとを導くのは、目のある者が目のない者を率いるようなものである)、

〔六九〕是(コ)の故に痴(チ)を捨つ可(ベ)し。慢と豪富(ゴウフ)の楽(らく)を離れ、学を務め聞者(モンジャ)に事(ツカ)うる、是(コ)れを徳を積聚(セキジュウ)すと名づく。


(以上のとおり、愚かさを捨て去らねばならない。慢心と、権力や富の力で楽しむことを離れ、教えを学び、教えをよく聞いている聖者供養する。これが徳を積み集めることである)




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2016
08.14

天皇陛下のお言葉に想う ─〈プロ〉の視点から─

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 天皇陛下お言葉によって、私たちはあらためて〈天皇〉というものを考えさせられた。
 以下のお言葉が問題の中心ではないか。
 

「既に八十を越え、幸いに健康であるとは申せ、次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています。」


 要は、一人間として、置かれた立場なりの任務をまっとうすることが難しくなってきたので、役割を果たせる人間にバトンタッチできる態勢をとって欲しいという当たり前のご希望である。
 市井の者なら、辞職するなり、店をたたむなり、後継者へ継がせるなり、自分の意思で出処進退を決められるが、天皇はそういうわけにはゆかない。
 そして、恐れ多いことだが、陛下がお考えになられる天皇として果たすべき役割に比して、年齢と体調に合わせた仕事が決められつつあることに慚愧(ザンキ)の念を持っておられるのではないかと思う。
 立場に立つことが第一ではなく、役割を果たすことが第一と考える誠意あるプロとしては、耐えきれないところまできておられるのではないか?

 2度の大手術を経、リハビリによって現場復帰を果たした陛下は、「幸いに健康であるとは申せ」と言われた。
 決していわゆる無病息災の健康体ではないにもかかわらず、難病を抱えた方々や、大災害に見舞われた被災地の方々、あるいは戦争で身内を亡くされた方々、そして戦死したままジャングルや大海原で眠っておられる御霊方と接してこられた陛下としては、ご自身を「健康」とおっしゃるしかなかったのだろう。

 畏れながら、托鉢から仏道へ入り、托鉢先で皆さんの生(ナマ)の声に接した体験を宝ものとしている小生にとって、陛下のお言葉は涙なしには読めない。

「皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行って来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。


 陛下はいつも人々と同じ目線で、皇后様共々、床や地面に膝を接して、お言葉を交わされた。
 陛下にとって「国民」のイメージは、「共同体を地道に支える市井の人々」にあるのではなかろうか?
 傘寿(サンジュ)を越え、その体験をふまえた日々の務めにつき、過去形で語られるお心を忖度すると、涙が流れる。
 ぜひ、関係者各位には、陛下が長年にわたって私たちのために尽くされた誠意に対し、心から「ご苦労様でした」「ありがとうございました」と具体的にお応えできるよう、最善を尽くしていただきたいと願ってやまない。
 プロとして、真にプロたり得ないまま、その立場に止まるようになるならば、畏れながら、死ぬよりお辛いのではなかろうか……。
 今こそ、国民のレベルが問われていると思う。




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2016
08.13

4ヶ月ぶりに我が子を発見したご両親 ─東日本大震災被災の記(第186回)─

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〈野辺の花にもある生と死〉

 8月12日、オリンピック男子体操で内村航平選手が逆転優勝し、新聞各紙のトップを飾った。
「もう何も出ないというところまで出し切れた」という言葉に国民が打たれた同日、さして大きくない記事も、〈やり切った〉人を紹介していた。
 4月14日に発生した熊本地震で唯一、行方不明のままだった大学生大和晃さん(22才)がついに発見されたのだ。
 父親の卓也さん(58才)と母親の忍さん(49才)は5月1日、県から捜索打ち切りを通告されてなお、職場の協力も得て、独自に探し続けてきた。

 被災したと思しき阿蘇大橋附近は峻険な場所で、激しく崩落しており、もしも埋まったなら発見は不可能だろうと思われていた。
 しかし、両親はあきらめなかった。

「布を見つければ息子の服ではないか、金属板を見つければ車の一部ではないか……。
 どんな小さな手掛かりも見逃すまいと河川敷を歩き、近づけない場所はカメラの望遠レンズを使って確認した。
 晃さんが乗っていた同型車や当日の服装の写真を載せたチラシも作り、川沿いの住民や工事関係者に配った。」


 そしてついに、手がかりを発見した。

「6月23日、阿蘇大橋の崩落現場から下流約5キロ地点で金属板を発見。
 晃さんの車と同車種の車体の一部だとわかった。
 いつしか、友人や知人が次々と捜索に加わっていた。
 我が子を捜し歩く姿をテレビで見て突き動かされ、現場を訪れ協力した人もいた。
 自宅には、『晃さんのお父様』の宛名で、全国から励ましの手紙が届いたという。

 そして7月24日。
 車体の一部を見つけた。
 忍さんは、取り乱した様子で車体を掘りだそうとしたという。
 忍さんは『私のこの手で晃を抱きしめるまでは諦められないんです』。

 7月30日、車体を見つけた現場に行った忍さんは、近くに折り鶴を置いた。
 毎日の捜索に向かう車中で折ってきたもので、1千羽を超えた。
 近くに、メッセージも添えた。
『もうすぐ連れて帰るばい』

 11日、遺体の収容を終えて、卓也さんは『手紙や励ましの言葉もたくさんもらった。ありがとうございました』と報道陣のカメラに向かって頭を下げた。
 忍さんは、晃さんにかける言葉を問われるとこう答えた。
『お帰り、きつかったね、苦しかったね』」(朝日新聞より)


 収容されたのが息子であると信じている卓也さんは語った。

子どもを手元に取り戻すことができた


 ここで言う「子ども」とは何だろう?
 ご遺体や遺品といったモノである。
 ご両親は、手がかりとしてのモノを100日以上、探して来られた。
 そして息子にかかわる確かな何かを手にしようとしておられる。
 それを確認し手にすることによって、息子との再会、息子の帰還が果たされる。
 それへ手を合わせることによって、あの世へ逝った息子と親との新たな絆が確信的に成立する
 
 ところで〈それ〉はあくまでモノである。
 この場合、モノは単なる物質としてのモノではない。
 あの世の御霊とこの世の私たちが、異なる世界にいながら通じ合うために、かけがえのない役割を果たす。
 だからこそ、人類は、世界中のどこでも、歴史が発祥した当初から、お骨や遺品の扱いには繊細な感覚をはたらかせてきた。
 そこが宗教心の根を形成する肝腎なところである。
 我欲に満ちた人間に汚れを抑制させる最後のよりどころでもある。


 しかし、東日本大震災の直前はどうだったか?
 人を送る宗教行為は限りなく貶められつつあった。
 評論家は過激さを競うかのように、お葬式とそれに関する諸々の行為を否定していた。
 それが、震災を期に鳴りを潜めた。
 一気に生じた膨大な死と弔いが、私たちの本源的な心性に気づかせたのである。
 ご遺体や遺品が単なるモノではないという当たり前の心を取り戻した。

 あれから5年、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ではないが、またしても、ご葬儀はもちろん、家族も親も〈要らない〉という本がベストセラーになりつつある。
 言うまでもなく、著者のすべては親から生まれ、親子という家族関係の中で育てられ、ものを書いて売れる人間になったはずなのに……。
 評論家や宗教者から、お骨は単なるモノだとも、堂々と言われる。

 東日本大震災で津波に遭った被災地のあちこちでは、月命日となる11日に、各地で行方不明者の捜索が行われている。
 現場の方々は皆さん、真剣である。
 5年前によみがえった尊い感覚を大切にしておられる。
 それは、大和家の思いと通じている。
 大和家の報道に接してハッとしたなら、その心を大切にして行きたい。
 霊性が何かを教えてくれたはずなのだから……。




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「おん あらはしゃのう」
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2016
08.12

仏法を学ぶ価値は? ─漢文『法句経』を読んでみる(その5)─

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 寺院や寺子屋 ではもちろん、戦前まで広く親しまれていた漢文の『法句経 (ホックキョウ)』を読んでみましょう。
 戦場へ赴く若者が懐へ忍ばせていたという話も聴いています。
 当山では、寺子屋やNHKの講座で読み通しており、学びの柱として欠かせません。

 小生の土台はこの教えによってつくられました。
 中年にしてこの道へ入った小生は、『法句経』を読み、自分は肝腎なことをいかに知らなかったか、また、知らずに知ったつもりでいたか、痛感させられました。
 ここにある教えはいずれも難しい哲理などではありません。
 中学生ほどの読解力があれば、誰でも〝そうか〟となる範囲のものです。
 それでもなお、〝そうだった……〟あるいは〝──そうなのか〟と心の目を見開かされる思いになることでしょう。

 どれか一句でも、皆さんの心へピンと届くものがあればありがたいことです。
 新たになった読み下し文を意訳してみましょう。 (「新国訳大蔵経」によります)
 前回に続き【教学品(キョウガクホン)第二】です。

 これより【多聞品(タモンボン)第三】へ入ります。

多聞品(タモンボン)とは、亦(マ)た聞きて学ぶを勧めて聞(モン)を積みて聖を成(ジョウ)じ、自ら正覚(ショウガク)を致す。


多聞品は説く。教えを聞いて学ぶよう勧め、聞いた教えを心に積んで己を清め、自ら正しい悟りを完成せしめる)

〔五一〕多聞(タモン)を能(ヨ)く持すること固く、法を奉ずるを垣墻(エンショウ)と為(ナ)し、精進して踰(コ)え毀(ヤブ)ること難くす。是れに従(ヨ)りて戒と慧(エ)成(ジョウ)ず。


(たくさんの教えを聞いて固く保ち、仏法を報じて心の垣根とし、精進して煩悩が侵入しにくくする。これによって戒めは守られ、智慧が生ずる)

〔五二〕多聞(タモン)は志を明らかならしめ、已に明らかなれば智慧増し、智則ち博(ヒロ)ければ義を解(ゲ)し、義を見れば法を行ずること安し。


(たくさんの教えを聞けば志すところが明らかになり、明らかになれば智慧が増し、智慧が博くなれば教義が理解でき、教義を理解すれば仏法の修行が順調に進む)

〔五三〕多聞(タモン)は能(ヨ)く憂いを除き、能(ヨ)く定(ジョウ)を以(モッ)て歓びと為す。善く甘露の法を説き、自ずから泥?(ナイオン)を得るを致す。


(たくさんの教えを聞けば憂いが除かれ、念入りに行う瞑想が喜びとなる。他者へ熱心にみ仏の教えを説き、いつしか自分も涅槃へ赴く)

〔五四〕聞きて法律を知ると為し、疑いを解き亦(マ)た正しきを見、聞(モン)に従いて非法を捨て、行きて不死の処(トコロ)に到る。


(教えを聞いて仏法戒律とを知り、疑問を解き正しい道を見出し、教えを聞くに従ってためにならぬことを捨て去り、絶対安寧の境地に達する)

〔五五〕為に能(ヨ)く師は道を現わし、疑いを解きては明らかなるを学ばしむ。亦(マ)た清浄の本を興し、能(ヨ)く法蔵を奉持(ブジ)せしむ。


(絶対安寧の境地へ導くために、師は道筋を示し、疑問を解いて明らかにそれを知ることができるよう学ばせる。また、清浄な教えの本を興し、たくさんの教えを尊び護持させる)

〔五六〕能(ヨ)く摂(セッ)すれば義を解(ゲ)するを為し、解(ゲ)すれば則ち戒は穿(ウガ)たれず。法を受け法に猗(ヨ)らば、是(コ)れに従(ヨ)りて疾(ト)く安きを得ん。


(心や感覚器官の働きを制御すれば教えの道筋を理解し、理解すれば戒律は破られない。教えを受け、教えに依って修行を進めれば、これによって速やかに絶対安寧の境地へ入られる9

〔五七〕若(モ)し多少聞くこと有りて、自ら大とし以(モッ)て人に?(オゴ)らば、是(コ)れ盲(モウ)の燭(トモシビ)を執(ト)りて、彼を照らすも、自らは明らかならざるが如(ゴト)し。


(もしも、教えを多少聞き、自分は大したものになったと過信して他人へ威張れば、目の見えない人が灯火を手にするようなものである。灯火は彼を照らしても、彼はその明かりで周囲がよく見えるわけではない)

〔五八〕夫(ソ)れ爵・位・財を求め、尊貴なること天福(テンプク)に升(ノボ)るも、弁と慧(エ)あるの世間に悍(タケ)きは、斯(コ)れ聞(モン)を第一と為(ナ)す。


(名誉や地位や財産を求め、神のごとき王になろうとも、正しい言葉と智慧をもって人を救う力がある者としては、教えを聞いて悟った者が一番であり、かなわない))

〔五九〕帝王の聘礼(ビョウライ)は聞(モン)なり、天上天(テンジョウテン)も亦(マ)た然(シカ)り。聞(モン)を第一蔵と為(ナ)さば、最も富み旅力(リョリキ)強し。


(帝王が遠く臣下を派遣して礼を尽くし学ぶのも教えを聞くためであり、天界の最上位にあろうとも同じである。悟った聖者の教えを会得すれば最高の富を得、あらゆる力を発揮できる)

〔六〇〕智者は聞(モン)の為(タメ)に屈し、道(ドウ)を好む者も亦(マ)た楽しむ。王者は心を尽くして事(ツカ)う、釈・梵(ボン)と雖(イエド)も亦(マ)た然(シカ)り。


智慧ある者は教えを聞くために礼を尽くし、道を求める者もまた聞いて満足する。王は聖者にまごころで仕え、帝釈天〔タイシャクテン)〕や梵天〔ボンテン〕といった神々も同じである)




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2016
08.11

頭痛もち巖のあいだに蝶生まれ ─肉体の句―

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 航海士である米澤弓雄氏の句集『無明』をひもといた。

頭痛もち巖のあいだに生まれ」


 頭痛を生んだ。
 は幻としてあちこちに生まれやすいが、巖(イワオ)の間から姿を現したところがいかにも海の男らしい。
 が舞い上がるところを実際に見たのか、とも思わせる。
 頭の痛みが意識を鈍らせるだけでなく、意識をピンポイントでフォーカスさせる異様な力も持ち得ることを示している。

 病んで故国日本へ帰ることを諦めた安西冬衛は詠んだ。

「てふてふが一匹韃靼(ダッタン)海峡を渡って行った」


 々が一匹、間宮海峡を越えて樺太へ渡って行くのが見えたという。
 日本から見れば間宮海峡だが、中国大陸から見れば韃靼だ。
 望郷の念が幻の白いを生んだのだろう。

 冒頭の句は安西冬衛をふまえたものだろうが、断然、私たちに身近な感覚となっている。
 てふてふ、と、ダッタン、の組み合わせは音楽でもあり、絵画でもあるが、頭痛とくれば、もう自分のことである。
 氏にはこういう句もある。

「木犀(モクセイ)や痛みのつづく胃はおのれ」


 木犀は暗闇の中でも樹の位置がわかるほど香りが強い。
 木犀が香ってくるあたりはタダの空間なのに、それが〈存在〉として、そこに〈在る〉、もしくはそこに〈居る〉という感覚にさせてしまう。
 その香りに氏は襲われた。
 自分を支配している胃の痛みに加え、今度は木犀の香りが強く立ちはだかって困らせる。
 普段は佳い香りのはずなのに、胃痛に耐えている人にとっては追い打ちとなる。

 泉鏡花はこう詠んだ。

「木犀の香に染む雨の鴉かな」


 雨の夜ならば、カラスの姿はまったく見分けがつかない。
 しかし、木犀の香りはあらゆるものを包み込み、染めてやまない。
 見えないものまで染めてしまう。
 しかし、この句にはもう少し奥行きがありそうだ。
 雨を避けながら活動しているカラスには淫靡(インビ)な気配がある。
 泉鏡花の作品であることからしても、強い甘さを伴った木犀の香りが性的な刺激に結びつかないはずはない。

 こんなことを思いながら読むと、安西冬衛は飛んでいるし、鏡花はゆったりとしているが、米澤弓雄は切実だ。
 頭痛の句といい、胃痛の句といい、いつも波の上でいのちを守るという現実から離れられない人の宿命を感じる。
 最後にもう一句、宿命の人の句を挙げておきたい。

「夏痩せの鉄色なせり鉄筋工」





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2016
08.10

お化けはいるのか? ─お子さんから質問されたら─ 

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〈松井冬子氏の作品をお借りして加工しました〉

 毎年、この時期になると、お子さんたちから訊ねられます。
お化けっているの?」
 今の時代は、小学生低学年の子供でも、夜中の内にお土産を用意しておいてくれるサンタクロースがお父さんやお母さんであることを知っています。
 それでも、薄暗いあたりに何かの気配を感じる感覚は残っているようです。

 日本人が生んだ世界的天才の一人である南方熊楠(ミナカタクマクス)は、何でも自分で確かめる人でした。
 たった一人で那智山に入り、日中は動植物を観察して図や文章に書きとめ、夜は心理学を研究しつつ気づきました。

幽霊が現わるるときは、見るものの身体の位置の如何(イカン)に関せず、地平に垂直にあらわれ申し候(ソウロウ)。
 しかるに、うつつは見るものの顔面に平行してあらわれ候。」


 幽霊は、どこでどういう姿勢でいても、必ず地面に垂直に立ち現れます。
 その一方で、幻は、自分の顔に平行な形で現れるというのです。
 彼は、誰かから「幽霊を見た」と聞いてはそこへ出向き、何度も幽霊を確認しました。
 同時に、そうした異次元の入り交じる場所で、珍しい生きものをも発見したようです。

 それにしても、正確に観ようとする人の目は鋭いものです。
 言われてみれば幽霊は地中や水中から現れるので必ず垂直に出てくるはずですが、私たちはこんな当たり前なことになかなか気づきません。
 〝あっ、出た!〟と思えばもう、恐ろしく、早く逃げるか、もしくは金縛りで動けなくなるか、いずれにしても心臓は早鐘を打ち、冷静な観察眼や判断力がはたらかないからです。
 だから、夜道に落ちている縄を見つけて〝ヘビだ!〟とびっくりしますが、南方熊楠なら、何でできた何㎝の縄であるかまで即座にわかることでしょう。

 ちなみに、彼はこんなことも書いています。

「小生が旅行して帰宅する夜は、別に電信など出さないのに妻はその用意をする。
 これは rapport(ラッポール)と申し、特別に連絡の厚い者にこちらの思いが通ずるので、帰宅する前、妻の枕頭に小生が現われ呼び起こすのだ。」


 いわゆる夢枕を意識的に現出させるのです。
 普通に言う夢枕は不吉な知らせがほとんどで、戦地に行っている息子が夢枕に立ったその日に戦死していたなどは典型的なものです。
 当山にご葬儀やご供養を依頼される方々の中にも、夢枕の体験を語る方は幾人もおられます。

 さて、幽霊のほとんどは未成仏霊であると思われます。
 悲しいことですが、東日本大震災の後、たくさんの方々がこの問題でご来山し、ご供養や、ご加持や、ご祈祷を行い、また、一般家屋、事務所、ビル、浜辺、橋、樹木など〈現場〉へ出かけての修法も行いました。
 南方熊楠のように垂直に立っている幽霊には会わずじまいでしたが、ありありと気配を感じたことは数限りありません。
 凍っているような闇も、何かが動くような柔らかな空気もありました。

 ただし、急いでつけ加えておかねばならないことがあります。
 未成仏霊は必ずしも、おどろおどろしい雰囲気を伴っているとは限りません。
 平成28年の春、東北学院大学で社会学を学ぶゼミの学生たちが、石巻市のタクシー運転手から聞き取り調査した卒論には、乗せたはずのお客様がいなくなっていた話なども書かれていますが、皆さん揃って、出会った〈幽霊〉に対して畏敬の念を持ち、大切な体験として記憶に留めておられます。
 津波で身内を亡くした方などはこう言いました。
「こんなことがあっても不思議ではない。
 また乗せるよ」
  
 お子さんから「お化けっているの?」と訊かれたらこんなふうに答えるのも一法でしょう。
「そうだね。
 亡くなってまだ、あの世にすっかり行けないままの人もいるかも知れないね。
 目に見えないのに誰かがいるような気がしたら、合掌して〝早く、安心の世界へ行ってください〟と祈ってあげましょう。
 でも、本当に誰かが隠れていたら大変だから、注意しましょうね」




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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
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https://www.youtube.com/watch?v=IvMea3W6ZP0





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2016
08.09

百文字の写経 ─人間の理想像について─

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〈世界のどこでも日本人〉

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 密教の根本経典『理趣経(リシュキョウ)』の核心が詰まっている『百字偈(ヒャクジゲ)』という百文字の写経を行う方が増え、とてもありがたく、頼もしくも思っています。
 ご質問も増えました。
 智慧と慈悲によって、いのちと心を人の道に合わせて生かすという仏教の根本が理解されつつあります。
 これまでも幾度かとりあげましたが、村岡空氏の意訳によって、意とするところをつかまえてみましょう。

「知恵があるものは仏だ
 かれはいつも教えてくれる
 われわれが生きているあいだ
 そして教えは亡びない」


 原文の読み下しは以下のとおりです。

菩薩(ボサツ)の勝慧(ショウケイ)ある者は 乃至(ナイシ)生死(ショウジ)を尽くすまで
 恒(ツネ)に衆生(シュジョウ)の利を作(ナ)して 而(シカ)も涅槃(ネハン)に趣かず」
(優れた智慧を持った菩薩の方々は、迷い苦しむ人々すべてを救済し尽くすまで、
 常に手を貸し続け、安寧の世界へ行ってしまうことはない)

「原則と適用は
 知恵でできあがり
 存在と実体は
 みんな清らかだ」


「般若(ハンニャ)及び方便(ホウベン)の 智度(チト)をもちて悉く加持(カジ)し
 諸法及び諸有(ショユウ)をして 一切皆清浄ならしむ」
(智慧と手だてとの有効な救済手段を用いて
 あらゆる存在といのちあるものたちとを本来の清浄な姿にさせる)

「欲望が世界を整え
 清らかにしているから
 ピンからキリまで
 われわれは救われる」


「欲等(ヨクトウ)をもちて世間を調し 浄除(ジョウジョ)することを得せしむるが故に
 有頂(ウチョウ)より悪趣に及ぶまで 調伏(チョウフク)して諸有(ショウ)を尽くす」
(欲望などによって人々を正しく整え、煩悩を浄め除かせることによって
 天界から地獄界に至るいかなる世界のものたちが持つ苦の原因をも断滅して余すところがない)

「みよ、どぶ泥の蓮華を
 あのけがれない姿を
 われわれだってそうだ
 このままで立派に生きられる」


「蓮體(レンタイ)の本染(ンホンゼン)にして 垢の為に染められ不(ザ)るが如く
 諸欲の性も亦(マタ)然(シカ)り 不染(フゼン)にして群生(グンジョウ)を利す」
(蓮華が本来持っている清浄な色は、いかなる泥や汚れにも染められずその色を保つように
 菩薩も私たちも本来的に具えている意欲は、悪しきものに染められず人々の救済に役立つ)

「大きな欲望を持てば
 大きな楽しみができ
 いつも自由にふるまえ
 成功疑いなし」


大欲(タイヨク)清浄を得て 大安楽にして富饒(フジョウ)なり
 三界(サンカイ)に自在を得て 能(ヨ)く堅固の利を作(ナ)す」
(自他のためになる限りない意欲は清浄であり、限りなく安楽で豊かである
 いかなる世界にあっても自在にはたらき、金剛のような堅固さで自他のためになれる)

 私たちは生きている限り、食べねばならないし、子孫を残そうともします。
 人間はイメージの生きものなので、繁殖力の有無にかかわらずそこは残り、食欲と色欲は続きます。
 それは、食べものをおいしいと感じることであり、異姓を佳いなあと思うことです。

 お釈迦様が、10の戒めの2番目に「盗めない人間になろう」と説かれたのは、ひもじさによる奪い合いが人の輪を壊すからではなかったでしょうか?
 お釈迦様が3番目に「妄りなセックスをしない人間になろう」と説かれたのは、人間が倫理を失ってケダモノに化す身勝手さに警告を発したのではなかったでしょうか?
 そして一番目に「殺せない人間になろう」と説かれたのは、生きものが最も厭うことをしない人間であることは、人間であるための最低条件だからではなかったでしょうか?

 要は意欲の用い方に尽きます。
 み仏の子であるわたしたちはすべて菩薩として生きる可能性を持っており、本来の姿で生きるためにはまず、本来の姿を知るための智慧を磨かねばなりません。
 リオデジャネイロ五輪の競泳で金メダルを獲得した萩野公介選手は、子供の頃から水泳を学び、鍛えに鍛えて結果を出しました。
 学び、鍛錬することなしに、潜在能力が最高の結果へと結びつきはしません。
 この『百字偈(ヒャクジゲ)』は、光り輝く萩野公介選手を表現しているようなものです。
 いわば最高のイメージ、人間はそこまで行ける、という可能性の極地を示しているのです。
 その原動力は意欲です。

 ただし、スポーツは競技ですが、人生は競技ではありません。
 その人なりに、その時点で行けるところまで行っていれば、その時点での金メダルを手にしているようなものです。
 人の道を学びつつまっとうに生きれば、必ず、その人なりのメダルを一個、二個と手にしつつ生きられることでしょう。
 手応えというメダルを金色に近づけるためには、金メダルの世界をイメージしたいものです。
 人間性が最高に発揮されれば生き仏であり、その典型としての菩薩は、さまざまなお姿で私たちを惹き付けます。
 菩薩の世界がストレートに説かれた『百字偈(ヒャクジゲ)』を読誦し、写経し、考えることをお勧めしているのにはこういうわけがあります。

 もうすぐお盆なので少々、くどく書きました。
 お経は約30分で書けます。
 チャレンジを……。 




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y





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2016
08.08

写経の功徳とは? ─生き仏になる体験─

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 室内の温度計は36・5度という酷暑の中、髙橋香温先生のご指導のもとで、参加者の皆さんは熱心に書道を学び、いつものように『理趣経(リシュキョウ) 百字偈(ゲ)』の写経も行いました。
 メンバーのお一人が引っ越しで今回が最後の参加となり、新しいメンバーも入ったので、5分程、写経功徳についてお話をしました。
 写経で有名なのは、弘仁9年(818)、旱魃(カンバツ)、飢饉、疫病という大災害に見舞われたおり、嵯峨天皇が御所を離れて3日間、持仏堂へ籠もり、般若心経を書写されたできごとです。
 天皇は、こう述べられました。

「朕(チン)の不徳にして多衆に何の罪かあらん」


(大災害が起こるのは、国を統べる自分の不徳のいたすところであり、民衆には何の罪もない)

 写経を行うと共に、お大師様から般若心経についての講話を受けられました。
 そこで用いられたのが『般若心経秘鍵(ヒケン)』です。
 世の中の苦しみは徳の不足によって起こるのだから、責任ある立場にある者ほど、我が身を振り返り、徳行に勉めねばならないと、天皇自らが身を謹まれたのです。
 ものごとが目論見(モクロミ)どおりの結果とならなかった場合、あるいは思いも寄らぬほどよからぬ結果となった場合、今でも「不徳のいたすところです」と口にはします。
 しかし、その〈不足〉を補うべき徳行がどうなされたかは、なかなかわかりません。
 天変地異と天皇の責任がどうかという物理的な因果関係の詮索はさておき、責任を感じた嵯峨天皇がひたすら写経し、講話も受けたお姿には学ぶところ大なるものがあります。

 この一件でわかるとおり、写経は、万人を救うみ仏のお力をいただくための徳行であり、その功徳は、書く本人はもとより、万人へ行き渡ります。
 だから、当山では、納経されたお経の一巻一巻に書かれたそれぞれのご心願が成就するよう祈ると共に、功徳があまねく世界を救うよう重ねて祈っています。
 そうした意味では、写経の功徳は、仏像を造る功徳に通じていると言えるかも知れません。
 たとえば、誰かの病気が治るよう願いを込めながら懸命に彫った仏像に、他の誰かが手を合わせる時、「あなたのために彫ったのではありません」と拒否することはありえないのです。

 また、一心不乱に書くという作業は、身体のはたらきをみ仏の世界に合わせている状態です。
 そして、書き上がった経文を読むのは、言葉のはたらきをみ仏の世界に合わせている状態です。
 さらに、経文の内容に心を向ければ、心のはたらきをみ仏の世界に合わせている状態です。
 こうして、身口意(シンクイ)が自己中心的な業(ゴウ)をつくる日常的な状態から離れれば、それは生き仏になっていると言えるのではないでしょうか。

 写経を終えて帰られる皆さんはどなたも生き仏です。
 合掌して送り出す小生はありがたくてなりません。

 お盆でお寺へ出かけられる時、納経をされてはいかがでしょうか?




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2016
08.07

追いつめられた時は生きなおそう ─四苦八苦に負けないために─

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〈垂直な石の面で動かぬ彼〉

 私たちは人生のどこかで必ず、追いつめられます。
〝もう、だめか……〟
 もちろん、最後には、そこでそのままになりますが、最後でない限り、〈その先〉を生きます。

 これはすなわち、生きなおしです。
 それまで自分に属していたもののすべてが自分の手から離れたような状態になったり、あるいは自分のいのちや心そのものがなくなるような状態になれば、自分のありようは大きく変わります。
 そこで多くの方々は、神や仏やご先祖様、あるいは生や死や人生などについて何かを感じたり、深く考えたりもします。

 仏教では、自分を中心とする生き方から、み仏の教えを中心とする生き方に変えることを発心(ホッシン)と言います。
 出家という形での発心だけでなく、娑婆(シャバ)にいながら発心することもできます。
 生きなおしの典型が発心であるとも言えましょう。

 さて、私たちが逃れられない宿命を、お釈迦様は八苦と説かれました。
 いつ、どこで、誰の子供としていかに生まれるかは、種々の因縁の結果であり、自分の意思で選択することはできません。
 生まれることからして、すでに私たちは〈ままならない〉という苦と共にある存在です。

 愛するものとの別れも、憎んだり恨んだりせずにはいられないものとの縁も、そして、老いることも、死ぬことも、決して逃れられません。
 四苦八苦は、私たちをどうにもならないところへ追いつめます。
〝私はもう、だめか……〟

 しかし、生きてさえいれば必ず〈その先〉があり、落ちついて考えれば、それらは、私たちへ生きなおしのチャンスを与えるものとなり得ます。
 もちろん、波浪に翻弄されている真っ直中ではなかなかチャンスなどとは思えませんが、溺れる者は藁をもつかむといった心境になる場合はあります。
 そこで、必ずしも〈確かなもの〉と感じられなくても、何かが心の手に触れる場合があり、凪(ナ)ぎに出た時、それが羅針盤となって、いつしか導かれていたりします。

 こうして生きなおしのチャンスが訪れます。
 チャンスをつかむかどうかは、畢竟(ヒッキョウ)、それまでの生き方にかかっているように思えます。
 それは必ずしも、そこで信ずることになった何かをずっと調べていたり、それまでいつもそばにあったりする必要はなく、むしろ、ずっと否定してきたつもりの何かが、小説『蜘蛛の糸』でカンダタの眼前に垂れ下がってきた糸のように立ち現れる場合もあります。

 とは言え、多くの場合、私たちは〈慣れた〉方向へと舵を切りつつ生きる生きものです。
 だから、人生の最後に訪れる老苦と死苦が身近に迫っていると感じた時などは特に、自分をよきものに慣れさせる智慧と意思が役立ちます。
 そうすれば、苦に襲われる危機は、生きなおしの契機になることでしょう。

 8月9日の講演会「これからの心のしめくくりを考える ~お盆供養を縁として~」では、体験談を交え、こんなこともお話しし、対話する予定です。
 どうぞお気軽におでかけください。
 お申し込みは022ー224ー3384(ワンネット塾事務局)までお願いします。




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「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
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2016
08.06

スポーツの意義と危険性 ─オリンピックに興じるだけで大丈夫か?─

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 東京都知事選挙とオリンピックについて考えさせられた。
 京都大学名誉教授で思想家の佐伯啓思氏は、8月4日付の朝日新聞でスポーツの語源について語っている。
スポーツと民主主義 『停泊地』失った現代世界」である。
 以下、抜粋を参照しつつ考えてみたい。

スポーツとは『ディス・ポルト』から出た言葉である。
『ポルト』とは『停泊する港』あるいは、『船を横づけにする左舷』という意味だ。
『ディス』はその否定であるから、『ディス・ポルト』とは、停泊できない状態、つまり、秩序を保てない状態であり、はめをはずした状態、ということになる
『ポルト』にはまた『態度』という意味もあるから、『まともな態度を保てない状態』といってもよい。」


 これは意外な事実だ。
 私たちは普通、スポーツマンシップと言うとおり、ルールに則ったフェアなプレーが求められる肉体的な競技というイメージを持っている。

「英語の『スポート』にも『気晴らし』や『悪ふざけ』といった意味があり、これなどまさしく語源をとどめている。」

「スペインの哲学者であるオルテガが『国家のスポーツ的起源』という評論のなかで、国家の起源を獲物や褒美を獲得する若者集団の争いに求めている。
 その様式化されたものが争いあう競技としてのスポーツであるとすれば、確かに、ここにもスポーツの起源と語源の重なりを想像することは容易であろう。」


 スポーツは本来、肉体的なはたらきが暴力的に爆発する状態であり、その制御と利用から国家が始まったと言われてみれば、なるほどと思える。

「古代のギリシャ人を特徴づける特質のひとつはこの『競技的精神』なのである。
 スポーツと政治は切り離すべきだ、などとわれわれはいうが、もともとの精神においては両者は重なりあっていたのであろう。」

「ということは、その起源(語源)に立ち返れば、両者とも一歩間違えば『はめをはずした不作法な行動』へと崩れかねない。
 競技で得られる報酬が大きければ大きいほど、ルールなど無視してはめをはずす誘惑は強まるだろう。」

「それを制御するものは、自己抑制であり、克己心しかなかろう。
 そのために、ギリシャでは、体育は、徳育、知育と並んで教育に組み込まれ、若者を鍛える重要な教科とみなされた。
 その三者を組み合わすことで、体育はただ肉体の鍛錬のみならず、精神の鍛錬でもあり、また、自律心や克己心の獲得の手段ともみなされたのであろう。


 だから、アリストテレスは「『人間というものの善』こそが政治の究極目的でなくてはならぬ」と言った。
 また、「善」については「最高善は究極の目的であり、その内実は幸福である」と明確にしている。
 だからこそ、肉体の鍛錬のためにも、政治がまっとうに遂行されるためにも「徳育」が求められねばならない。

 しかし、ロシアのドーピング問題を見ても、演説会場から泣く赤ん坊を排除する大統領候補トランプ氏を見ても、〈徳〉は見つけられない。
 

「民主政治は、どこにおいても『言論競技』の様相を呈している。
 アメリカのトランプ大統領候補をドーピングぎりぎりなどといえば冗談が過ぎようが、この現象が『ディス・ポルト』へと急接近していることは疑いえまい。
 民主主義のたががはずれかけているのだ。」

高度なスポーツは『素人』から遊離して一部の者の高度な技能職的なものへと変化し、一方、政治は『素人』へと急接近して即席の競技と化している。
 どちらも行き過ぎであろう。

 スポーツと民主主義を現代にまで送り届けたギリシャの遺産が、ロシアのドーピングやアメリカの大統領選挙に行きついたとすれば、現代世界は規律や精神の鍛錬の場である確かな『停泊地』を失ってしまったといわねばならない。」


 スポーツはプロへと急傾斜し、政治はアマへと堕落しつつあることは確かだろう。
 スポーツ界は、大金と名声を得るためのピラミッドを形成し、オリンピックが頂点に立つ。
 政治は権力と名声を握るための道具と化し、「一将功成りて万骨枯る」という極めて〈徳〉から離れた様相を呈している。
 要はチャンピオンの〈総取り〉である。
 
 今回の東京都知事選挙は、それをまざまざと見せつけた。
 党本部の都合によって担ぎ出された公認候補増田寛也氏と、現場の責任者たちと、友党の一団が死にものぐるいの戦いをしている中で、トップの安倍首相は公認候補の応援演説をいっさい行わず、あまつさえ、投票日の前夜は、憲法改正のうち合わせのため、橋下徹氏などと懇談していた。
 案の定、分裂選挙の中で公認候補は惨敗したが、責任論の矛先は都連までで止まり、都連の石原会長が辞任して幕引きとなった。
 さすがに会長は、責任逃れと非難されることを覚悟の上で、「知事選は党本部マター。お金も都連でなく党本部が集めたのであり、責任者は幹事長だ」と事実を指摘し、部下たちをかばった。
 しかし、選挙戦の最高責任者である自民党総裁安倍晋三首相は一切、自らの責任に言及せず、小池新知事と笑顔で握手した。
「東京五輪・パラリンピックを成功させていくためにも政府が東京と協力していかなければならない」
 客観的な事実を口にするだけで、部下たちがいかに傷つき、斃れようと、トップだけはラグビーのノーサイドよろしく、何食わぬ顔で次のシーンでも主役を張ろうとする。
 ここでは安倍首相を攻撃するのではなく、権力のあり方を問いたい。
 そもそも、傍を掲げた戦いに敗れたならば、将自らが責任を負ってようやく戦いが終わったことになり、真の〈戦後〉が始まるのではなかったか?
 戦国時代には腹を切り、現代では辞職するのが、社会に倫理を残し、怨みを残さないための暗黙のふるいまい方であり、最後の手段ではなかったか?

 勝てば官軍、力がすべて、これはまさにディス・ポルトそのものではないか。
 私たちは、スポーツを政治的に眺めることに馴らされ、「精神の鍛錬でもあり、また、自律心や克己心の獲得の手段ともみなされた」歴史的経緯を忘れてはいないか?
 私たちは、政治をスポーツ的に楽しむことに馴らされ、「一将功成りて万骨枯る」の無惨さに身震いし、権力の独走に危険性を感じる感性と知性を失ってはいないか?
 オリンピックがすべてを忘れさせつつあるような状況の中、観るべきものを観ておきたいと思う。

 希望はある。
 ロシア陸上界の組織的ドーピングを内部告発した陸上女子800メートルの元ロシア代表ユリア・ステパノワ選手は、IOCが彼女のオリンピック出場を認めず、しかも「自分がロシア代表として出場するのを拒んだ」と嘘の情報を流しているにもかかわらず、練習を欠かさない。
 このたび、NHKの取材に応じて心境を述べた。

メダルは結局、単なる金属片にすぎない。
 それより大事なのは自分自身と競技相手に対して正直でいることだ


 文字どおり、希望の灯火である。
 それもこれも、世界の潮流として報道の自由が確保され、モノや名声に左右されず、権力に押し潰されない心と表現の自由が確保されているからこその話だ。
 心が生き生きとはたらき、人間たる徳を失わないところにこそ、『ディス・ポルト』の止揚(シヨウ)はあるのだろう。




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2016
08.05

サイレントの非人間性 ─社会の構造がおかしくはないだろうか─

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 8月4日、朝のNHKテレビで「サイレント」に関する報道を観た。

 サイレントとは、採用試験を受けた学生にわざと結果を知らせず、質問へも答えないで保留のままにしておくことである。
 こうした問題はかねて一部企業にあったが、今年は一気に増え、就職情報会社の調査によれば約4分の1の企業に見られるらしい。
 受験者も家族も、結果がわからないので気が気でなく、就職活動を継続すべきかどうか、判断もつかず、窮地に陥ってしまう。
 結果を訊ねて嫌がられ落とされるのではないかと不安になって調べられずにいたり、思い切って電話を入れても通じないなど、まったく不当な扱いを受けている。
 
 これはかつて、銀行などの金融機関が融資の申込みを受けてからいつまでも可否の通知をしないなど、借り手に著しく不利、不都合で、平気で困難や危険を与えるやり方が

蔓延していた時代と酷似している。
 小生は娑婆にいたころ、融資を申し込んて放置された経営者が、銀行の支店長へ宛てた遺書を残して自殺した惨たらしいできごとを知っている。
 無論、小生もそれに近い体験をしている。
 また、役所が各種の申込みをいつまでも放置し、時間がかかればかかるほどありがたがられると考える悪しき慣習にどっぷりと浸っていた時代も思い出させる。
 すがる側を苦しめる悪習が今、一人の学生が数十社も受験するという極めて過酷な時代によみがえりつつあるとは、何ということだろう。

 NHKは、不安のあまり精神科に通う学生を取材した。
 このクリニックを訪れるサイレントに苦しむ学生はここ半年で60人に達し、昨年を大幅に上まわった。
 取材に応じた企業の実態は以下のとおりである。
 ある企業では、学生を4ランクに分け、上から二番目の内定者には連絡をせずにおく。
 それは、最上位にある内定者が他の企業を選んだ際の補充要員にしておくためである。

 確かに企業側にとっては、極めて便利なやり方だろう。
 しかし、受験者にとってはあまりにも惨(ムゴ)い仕打ちと言うしかない。
 サイレントをやる企業の担当者はぜひ、相手を自分の子供に置き換えてみる想像力を持って欲しい。
 こうした非人間的な企業行動は、人権上、決して許されるものではない。
 ここまで人間が人間扱いされないとは、驚くべき時代になった。

 その原点は昭和60年、中曽根内閣の「派遣法」に始まったと考えられる。
 当初はあくまでも派遣は例外であり、特定16種類に限定されていた。
 その後、橋本内閣で適用範囲が広がり、小渕内閣に至り、ついに原則自由化、非派遣業種が例外とされるに至った。
 この状況を、法学者で龍谷大学教授の脇田滋氏は、的確に分析している。
 以下、論考「労働者派遣法案改悪のポイント」(平成11年)より。

「施行一二年間を経過した労働者派遣法の実際上の意義は次の三点にあると言える。
 つまり、(1)当時、蔓延していた職業安定法違反の業務処理請負業をサービス業に限って追認すること(違法追認型規制緩和)、
(2)情報処理サービスの増加が予想されるなか関連労働者を雇用調整可能な形で安上がりに利用すること(中間労働市場論)、
(3)男女雇用機会均等法制定にともない女性労働者を正社員ではなく派遣労働者として利用する道を開くこと(性差別の雇用形態差別へのすり替え)である。」


 要は、それまで違法だった請負業を違法でなくした、企業が労働者を安上がりに使えるようにした、女性を正社員でなく安上がりに使えるようにして女性の就職率を上げ、見かけ上の男女差別を小さくしたのだ。
 その後、森内閣では紹介予定派遣が解禁され、小泉内閣で事前面接が解禁、第一次安倍内閣で製造業の派遣期間が3年になり、事実上、経営者にとってはほとんど何でもありになった。

 はたらく者が、はたらく先から得られる正当な報酬を途中で〈人間を管理する業者〉にピンハネされる構造は、根本的におかしくないだろうか?
 はたらく者が、はたらく先と、管理する業者とからダブルで管理され、生殺与奪の権を握られるシステムは、あまりにも非人間的ではなかろうか?
 タコ部屋で缶詰にされた若者を助け出した体験のある小生などは、どうしても、人身売買に通じる非倫理性を感じてしまう。

 私たちは立ち止まるべきではなかろうか?
 変えるべきシステムは勇気を持って変えるべきではなかろうか?
 まず、サイレントを行う企業名は公表されねばならない。
 そして、受験する人々は、そうした企業をボイコットすべきである。
 それは選挙の一票よりも確かにこの世を変え、多数の人々を救う行動であると思えてならない。

 非人間的なものへ立ち向かわなければ、私たちはこの先、ますます人間性を奪われてしまうだろう。
 あらゆるものが争奪戦に投げ込まれ、人々は排斥し合い、対立し、この世は極楽から遠ざかる。
 それは、地獄への道行きと言えるほど恐ろしい未来である。

 私たちは、非人間的なもの鈍感であってはならないと、強く思う。




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2016
08.05

樹木葬『法楽陵』の周囲へベニカナメ百本を植えました

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〈プロの仕事は気をつけるポイントが違います〉

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〈お天気が少々よすぎました〉

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〈生け垣のスタートです〉

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〈周囲の鉄パイプがほとんど目立たなくなりました。笹倉山は一段とありがたみを増したような気がします〉

 8月4日、30度を軽く超える炎天下、中学生から70才超まで延べ10名の男女がベニカナメを植樹しました。
 熊本の農園さんが配達費なしで送ってくださったものです。
 ゆかりびとの会で副会長を務める太田さんにご指導を願い、午後までかかって樹木葬法楽陵』のフェンスは生け垣に衣替えしました。

 かねて願っていた問題でしたが費用を捻出できずにいたところ、被災地の熊本から被災地の宮城へと思わぬ救いの手が差し伸べられました。
 熊本では、「がんばります」を「がまだします」と言うそうです。
 被災した山から、がまだして掘り出された100本です。
 一本たりとも枯らすわけにはゆきません。
 朝の修行が一つ、増えました。

 熊本のお心、参加してくださった方々のお心が樹木葬法楽陵』を美しく飾りました。
 成長が楽しみです。
 御神木である招霊木(オガタマノキ)も順調に生育し、ご縁も増えています。

 ご心配されながらも参加できなかった方々を含め、皆さん、本当にありがとうございました。合掌




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