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2016
10.31

ハロウィンと魂祭(タママツリ)

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〈ジャック・オー・ランタンの嬉しい素朴さは古代ケルト人の生活ぶりを偲ばせる〉

 古代ケルト人に発するハロウィンは、そもそも収穫祭であり、それは一年の終わりと始まりの時であって、あの世の人々も降りて来て一緒に祝う行事だったという。
 怖い扮装に身を包むのは、異界から訪れるのが懐かしいご先祖様だけではなく、悪霊などもやってくるので、それらを退散させるためである。
 醸し出される驚愕や恐怖は、アッと思って近くにいる人の腕につかまったり、抱き合ったりすることにより、お互いの距離が縮まり、つながりが深まるという嬉しい効果ももたらす。
 子供たちが参加してお菓子などをもらうのは、1年間のお手伝いに対するご褒美であり、訪れる他人の子供たちに施すのは、社会が共通財産として子供たちを守り育てるという意識の表現だったのではなかろうか?
 揃って「いたずらか、お菓子か」と唱えて歩き、お菓子をもらえるか、もしくは、くれない家ではイタズラをするか、どちらにしても、子供たちにとっては最高の祭なのだろう。

 1年の始まりと終わりを感謝で過ごし、そこにご先祖様も交わるというのは、日本古来の大晦日から元旦に至る家庭ごとの行事と同じである。
 そもそも、門松を立てるのは、新しい年を賑々しく祝うための飾りではなく、帰ってくる祖霊や新精霊をお迎えするための目印であり、家族で揃って食卓を囲む時は、必ずあの世から訪れている懐かしい面々も同席していたのだ。
 私たちは、お正月の根底に魂祭(タママツリ)があることを忘れていないだろうか?

 ハロウィンは世界中のお祭になったらしいが、ニュースを眺めると、世界中で商業主義に乗せられた若者たちが仮装し、日頃のうっぷんを晴らす。
 子供たちは無邪気にはしゃぐ。
 それだけでよいのだろうか?
 1年間の収穫に感謝し、祖霊と共に祝う祭ならば、街中にゴミが撒き散らされることなどあろうはずはない。
 ましてや、仮装して人物が特定されにくいことを利用し、強盗やレイプや各種の軽犯罪に走るなど、情けなくも哀れな話である。

 ハロウィンを象徴するジャック・オー・ランタンは、カブやカボチャをくり抜いて作られ、宗教的寓話が伴っている。
 小生が子供だった頃は、スイカの皮に竹籤(タケヒゴ)を通し、網を張ってキリギリスを飼ったりした。
 古来、人々は、自然の恵みに深く感謝し、自然からいただいたものは何でも利用し尽くしたのではなかろうか?
 そうした意味でも、素朴なジャック・オー・ランタンから〈怖い〉という一面だけを取り出し、アメリカやイギリスでは「殺人ピエロ」の跋扈(バッコ)などという実害を伴う現象にまで堕落したことは看過できない。
 モノ金が主人公になった華々しい現代文明に伴う頽廃や荒廃が露呈している。

 あと二ヶ月で、日本も年の区切を迎える。
 与謝蕪村は詠んだ。

「年(トシ)守(モル)夜(ヨ) 老(オイ)はたふとく 見られけり」


(家族が集まり、ご先祖様も共に、皆揃って行く年を送り、新しい年を迎える大晦日から元旦までの夜には、心構えや作法を指導する長老の叡智が一段と尊く輝く)
 この一句は覚えておきたい。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y





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2016
10.30

年齢を問わない生き直し ─〈来し方〉と〈行く先〉─

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〈業者様方の汗で準備された会場〉

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〈(株)エイムのスタッフ佐藤知子さんが心のこもった司会進行をしてくださいました〉

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〈ご相談コーナーの先生方も大活躍でした〉

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〈いつもながらビバップスさんの熱演にはすっかり乗せられました〉

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〈おいしい食事、お茶の詰め放題、花のアレンジメントなどで賑わいました〉

 おかげさまにて、10月29日の「ジャズと法話と無料相談の会」は、たくさんの善男善女にご参加をたまわり、無事、終了しました。
 ご助力をいただいた方々、ご参加をいただいた方々、心をお寄せいただいた方々へ深くお礼を申しあげます。
 まことにありがとうございました。
 宗教法人になって20年という節目のご恩返しを行うつもりでしたが、またまた大きなご恩を受ける仕儀となり、申しわけなくも、ありがたくてなりません。
 いっそう精進し、寺院としての責務をまっとうし尽くす所存です。
 今後とも、忌憚なきご意見、ご要望、ご助力をどうぞよろしくお願い申し上げます。

○〈来し方〉を振り返り、〈行く先〉を考える

 さて、ジャズバンド「ビバップス」様の熱演に続いてのお話で、まず、申し上げたかったのは、心から人生を振り返るということです。
 年配の方が、〈行く先〉を思案して死後の準備を整えるのが終〝活〟、そして、〈来し方〉を振り返り、まだ決着のついていないことごとに誠意をもって対応し、その心で〈行く先〉を考えるのが終〝括〟と言えるのではないでしょうか。
 深い安心は、〈締め括り〉があってこそ、得られるのではないでしょうか。
 中年で事業に失敗し、仏道に入った後、娑婆でご迷惑をおかけした方々を訪ね、あるいは、こっそり家を眺めて合掌し、墓前で祈り、詫びないではいられなかった者としての確信です。

 直接であれ、間接的にであれ、まだ、謝っていない人はいないでしょうか?
 伝えるべき感謝をそのままにしている人はいないでしょうか?
 よく考えて、やりにくい行動を続けていると、それは、知らぬ間に罪業(ザイゴウ)の清めとなっているものです。
 私たち〈未完成の人間〉がやったことは、謝ったからといって取り返しがつかないかも知れません。
 受けた恩は、言葉などでお礼しきれるものではないかも知れません。
 それでもなお、私たちの誠意、まごころは、人と人との間に起こった軋轢(アツレキ)や不幸を和らげ、連帯や感激を強め、悪しき因縁を消し、よき因縁を強固にする力を持っていることは確かであると言えます。
 神ならぬ私たちは、自分の心中にある仏心からの呼びかけにすなおであってようやく、人としてまっとうに生きられるのではないでしょうか。

 その先に、忙しい日常生活では気づかなかったさまざまな気づきが生じることでしょう。
 たとえば、お墓で合掌し、詫びたり、感謝したりする時、ただ単にそうした気持を向けるだけでなく、〝何か拝み方があるのではないか?〟〝こういう時、何て唱えればいいんだろう?〟といった疑問が湧いてくるかも知れません。
 そして、僧侶から教えてもらい、実践してみると、心のおさまりが違ってくるのがわかります。
 体験が重なれば、心は、〈自分の思い〉よりも広く、深く、高いところへと通じて行く感じがしてきます。

 こうして、〈来し方〉を振り返ることが、自然に〈行く先〉を教え、あるいは変えて行くのです。
 誰しもが、誠意、まごころで行えば、必ず、その人なりの〈生き直し〉につながって行くことでしょう。

 真の生き直しとは、必ずしも、仕事や趣味など何であれ〈別なことをやる自分〉になるといった外面的な問題ではありません。
 それまでとは違う価値判断や行動の基準などによって生活が裏付けられ、自然に安心の深まりを感じられるような〈シフト〉が生じればよいのです。
 そこではっきりしているのは、いつしか、自己中心的な心が薄れているという驚くべき事実です。
 あるいは、「わかっちゃいるけどやめられない」といった、良心や良識や常識からの呼びかけに背いた悪しき行動パターンが克服されて行くことでしょう。

○ダイレクトに生き直しを行うトレーニング

 上記の流れは、〈来し方〉への対応によって〈行く先〉を変えて行くという方法です。
 もう一つ、心のトレーニングによって直接的に心をよき方へと変えて行く方法があります。
 それが仏道修行です。
 修行と言っても、特別な条件下で何か特殊な行動を続けるといったプロのやり方だけではありません。
 私たちは等しくみ仏の子であり、いのちと共に、蓮華の蕾のような仏心を授かっている以上、どこでどんな暮らしをしていても、その蕾を開くチャンスはあるはずです。
 たとえば、この欄でいつも言及している「五種供養」や「六波羅蜜(ロッパラミツ)」があります。

 道端に咲く花を目にした時に故人を思い出し、心で呼びかけましょう。
「風に吹かれながらでも健気(ケナゲ)に咲いているコスモスのように、私も人生の雨風に負けないでしっかり自分の花を咲かせますから、どうぞ安心してください。
 どうぞ、見守っていてください」
 それは御霊を喜ばせる真の供養であり、忍辱(ニンニク…忍耐)という立派な仏道修行、人間修行にもなっています。
 自分を振り返り〝このままではいけないな〟と感じたならば、ぜひ、小さな実践を始めてください。
 そこに小さくても確かな生き直しが始まっているはずです。

○生き直しは誰でもいつでも

 講演は終括がテーマだったので、会場はご年配の方々で埋まりましたが、年齢にかかわらず、〝このままではいけないな〟と感じるどなたにでも生き直しは可能です。
 小生の場合は、自分の愚かさからどん底へ堕ち、その先も生きて行くつもりならやり直しをせなばならないという有無を言わせぬ境遇がそれをさせました。
 本当は、破滅する前にもっと早く気づかねばならなかったはずですが、それをさせなかったのが愚かさというものです。
 だから、大失敗をやらかす前に、自分の死を意識するほど死魔や病魔に追いつめられより先に、何をきっかけにしようと自分の人生をすなおに振り返ることをお勧めしたいと思います。
 振り返れば必ず、〈思い当たるフシ〉があるはずです。
 それを何とかしよう、何とかしないではいられない、そこが尊い出発点です。
 もしも、成功体験や他者からの称賛などしか思い浮かばなかったとしたら危険信号です。
 外面がどうであろうと、人生は真に祝福されたものでなく、煩悩(ボンノウ…真実が見えず欲を強める迷い)に支配されている可能性が高いはずなので要注意です。

 会場では、六波羅蜜(ロッパラミツ)の誓詞をご一緒にお唱えしていただきました。
 もう一つ、自分の心に仏心があることを実感する体験もしていただきました。
 まず、合掌し、蓮華の蕾のように中を少し膨らませ胸の前に置きます。
 そして目をつむり、自分の心中に蓮華の蕾のような仏心があると観想します。
 これで、姿と心は、み仏に近づきました。
 次に、お腹を引っ込ませながら、「あー」という声をゆるゆると発します。
 声は途切れても、思いは遠く遠く、み仏の世界へ通じて行きます。
 ゆっくり息を吸うと共に、み仏の世界からその徳を授かると観想し、腹式呼吸で呼吸と観想を繰り返します。

 「あ」は阿字(アジ)と言い、すべての言葉の根源であると同時に、根本仏である大日如来を示す文字でもあります。
 私たちは、み仏から心といのちを授かり、オギャーと生まれます。
 吸う息にみ仏の徳を授かり、吐く息をみ仏の世界へ還しながら一生、呼吸を続けます。
 呼吸と同時に「あ」という根源的な言葉を発してその真実を表すのがこの瞑想法です。

 時には立ち止まり、振り返って見ましょう。
 そして、〝このままではいけないな〟と思ったら、小さな実践をしてみましょう。
 思ってもみなかった新しい世界が開け、生き直しを感じられるかも知れません。
 お釈迦様は説かれました。

「小さな滴も、溜まり溜まれば、やがては大きな器をも満たす」


 平成28年6月、東日本大震災の津波で家族も家も失った書家高橋香温先生は、この日と同じ日立システムズホール仙台で「永遠のしずく」と銘打った作品展を開き、『海渧 (カイテイ…海に満ちる潮から生じる無限の滴』の文字を展示されました。
 出展はお大師様の教えです。

「我性(ガショウ)の自覚は空(クウ)に満ち、海渧 (カイテイ)の化身(ケシン)は世(ヨ)を救う」


(自分の本体がみ仏であると自覚する時、その力は宇宙に満ち渡る。
 大海の水がつくる無数の滴たちのような仏菩薩は、私たちをいつもお救いくださっている)
 高橋香温先生は、詩を添えられました。

「太陽に輝く
 青い海
 月夜に輝く
 白い海
 永遠のしずくとなる
 海よ
すべては血潮が
 知るところ
 生と死が
 わかちあう場所を」


 皆様にとって、よき生き直しのきっかけとなりますよう。




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2016
10.29

両墓制をご存じですか?

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 かつては両墓制があった。
 死者が出ると、数日後にまず、海辺などにある「埋め墓」へ遺体を埋葬する。
 次に、故人を背負う姿と心で山の洞窟などにある「拝み墓」へ行って遺髪を埋め、墓を守る寺院へは故人の着物などを納める。
 それから「埋め墓」で精霊棚を壊し、故人の家に戻ってご遺族と共に「食い別れ」の膳を囲む。
 以後の供養などは寺院や「拝み墓」で行う。

 ご遺体そのものは自然に還し、山へ向かった御霊を永遠に供養する。
 寺院は、御霊の集う聖地を守り、この世とあの世をつなぎ続ける。

 寺院は、守るべきものを守ればこその寺院であり、拝まねばいられない方々と共に拝むのが僧侶である。
 たったこれだけのことが、両墓制を想うことによって、あらためて突きつけられた。
 徳一菩薩のお導きだろうか。




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2016
10.28

祈りの先に ─福島県の慧日寺へ─

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 慧日寺を訪ねて迷い、高台を目ざしたら墓地の脇道へ出た。
 車を草むらに停めた。
 うっそうとした木立の奧にお堂が見えたので、「蜂に注意」と書かれた注意札のある山道を進むと視界が開けた。
 そこは、菩薩とまで崇められた東北を代表する傑僧徳一の御廟だった。
 格子戸越しに中を見ると、屋根まで届くような石塔がある。
 素朴だが完成された形は、徳一の清々しくも揺るがない精神にふさわしいと思われた。
 本尊薬師如来徳一菩薩のご加護を願う住民たちはかつて、石塔を削って薬にしたという。

 しばし、祈ってから低い方へ目をやると新しく豪壮なお堂がある。
 そこは復元された新しい金堂だった。
 さらに下ると旧本坊もあったが、祈られている気配はない。
 近隣にある「道の駅」が平日とは思えないほどの賑わいを見せているだけに、あまりの落差が胸を冷たくした。
 資料館では、地方創生加速化交付金事業と銘打たれた「磐梯とくいつ藝術祭」が開催中である。
 それでいてこの閑古鳥。

 お堂も仏像仏塔もモノである。
 目には入り、形も色も名前もわかるが、それだけでは、それが何であるかがつかめない。
 求める心がなければ、モノに込められているものは感得できない。
 祈りの場であるはずの神社仏閣が単なる観光地と化してしまうことの弊害は、中国共産党の観光資源でしかなくなったかつての聖地ポタラ宮を見るまでもなく、あまりにも明らかではないか。
 
 私たちはいったい、何を求めているのだろう?
 そして、社会は、〈本当に求められているもの〉が、求める人びとへ広く与えられるシステムになっているだろうか?

 法務のために福島県へ入り、徳一菩薩を慕う心でひたすら慧日寺を目ざしたら、まっすぐ御廟にたどりついた。
 思いがけず目にした五層の石塔と、御廟に続く道の脇に連なる五輪の塔が教えるイメージは、現在、進めている計画への大きな後押しとなった。

 本当に求めるものとは、結局、自他の苦を抜き取り、自他へ楽をもたらすという二つの願いに収斂するのではないか。 
 自他の苦を曖昧にせず、叫ぶように祈りたい。
 祈らずにはいられないところから祈れば、心中の仏心が開き始め、異次元の仏界からも手が差し伸べられる。
 徳一菩薩に感謝しつつ帰山した。




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2016
10.27

Q&A(その31)一〈こんな自分〉に苦しむ時は? ─謙虚さ・誠意の先を考える─

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 を持って介護職に就き、誠心誠意はたらいていると、自分自身の心や身体が〈あるべき状態〉に追いついていないと感じる場合がある。
 そして、自己嫌悪に陥ったり、立ち塞がる壁の圧迫感に潰されそうになったり、あるいは、そもそも自分が仕事に不向きだったと諦めたりもする。
 やらねばならない、やるべき仕事であることは重々承知し、準備万端整えたはずなのに、〝私にはできない〟と自分の何かがブレーキをかけてしまう。
 自分が、〈はたらかねばならない自分〉と、〈はたらけない自分〉の二つに、引き裂かれそうになる。
 やるべきことはわかっており、何ら問題なくはたらけるはずの自分であることを知っているだけに、この状況は辛い。

 小生もそれに通じる苦しみを嫌というほど味わった。
 托鉢を始めた頃である。
 伝授された作法を身につけ、歩く以外の生きようはなく、歩く準備もできたのに、目的地へ着いて車から降りられない朝がある。
 網代笠(アジロガサ)をかぶり、白足袋を履いても歩き始められない。
 理由の一つが上記の方々と似ていた。

〝──こんな自分のままで仕事をしては嘘になる……〟

 たとえば、出がけに妻と口論になり、時間がないので最後は怒鳴ったり、無視したりして強引に車を発車させた。
 こんな心のままで、どうして善男善女からお布施をいただけようか。
 玄関のチャイムが鳴り、托鉢僧を見て「どうぞ」と受け入れてくださる方々の多くは、合掌される。
 もちろん、決して自分が相手から拝まれるわけではなく、目に見えぬみ仏の世界へ向かっての合掌ではあるが、自分がそうした場面に立っては申しわけない人間であることを誰よりもよく知っている。
 しかも、お布施をいただいてよいのだろうか?
 こうした疑問と葛藤は、さまざまな法務の場面に付きものだった。
 人生相談もしかり、ご祈祷やご供養もしかり、〝こんな自分なのに〟という意識に苦しんだ。

 とうとう耐えきれなくなり、どうすればよいか、師へ訊ねた。
 答は簡単だった。
「あなたは、ご縁になるべき人としかご縁にならないのだから、結果はご本尊様へお任せして誠意を尽くせばよい」
 この一言で雲は晴れ、托鉢行を続けているうちに一山の開基を迎え、文字どおりの無から現在の法楽寺が生まれた。

 人生相談に訪れる善男善女のお話を聴き、この教えをお伝えすると、まじめであるがゆえに苦しむ人々にとって〈脱する〉ヒントとなり、心で手を取り合う思いになったりする。
 私たちは、仕事に責任感を持つ時、自分にかかわってくることごとのすべてに対して、完璧な対応をしないではいられない。
 しかし、私たちは、どこかに未熟な部分を抱えた〈未完成な存在〉である。
 研究者、技術者、芸術家、宗教者、教育者など、いかなる方面であれ、仕事を突き詰めている人のほとんどがその真実を自覚しているはずだ。
 米寿を超え、勲章を受け、功成り名遂げたはずの長老ですら「自分はまだまだ修行中」と言う。
 それは謙遜と言うよりも、むしろ実感だと思う。
 テレビドラマ『ドクターX』の大門未知子に人気が集まるのは、不可能を可能にする夢が実現されているからだろう。
 ひとときの虚構が、私たちの行き詰まりを忘れさせてくれる。

 言い方を変えれば、外からやってくる縁は無限であり、その中に、神ならぬ自分の力をもって、この上ない結果へ導き得ないものが含まれているのは当然なのだ。
 そして、自分の意思ですべての縁を選ぶこともできない。
 ならば、その事実を真実としてありのままに観るところから始めるしかないではないか。
 ところが、問題を孕んだ責任感がその邪魔をする。
 すべてをカバーしなければ満足できない、不安になる。
 そこに、私たち自身の気づきにくい慢心が潜んでいるのではなかろうか?

 師が「ご縁になるべき人」と言われたのは、「あなたが百点満点の対応ができる人」という意味ではない。
 もしも今、誠心誠意の中でとった対応が客観的に見て70点であっても、それがいかなる結果をもたらすかは、誰にもわからない。
 そもそも、〈未完成な存在〉が常に満点の行動をとれるわけがないのだ。

 そんないいかげんなことでよいのか?
 もしも手術が70点などということで許されるのか?
 100点満点はたくさんあるだろうに。
 こうした疑問や反論が考えられる。
 それについてはこう答えたい。
 たとえば、マスコミが流す医師や病院に関する〈成績〉などのデータは、見せられる私たちがそのまま丸呑みにできない事情を抱えている。
 個人や私的な組織だけでなく、政府や役所ですら、よいデータを流したい。
 マスコミは視聴者の耳目を惹き付けたい。
 抜きがたい意思は必ず作意する。
 もちろん、〈業界〉の外からは気づかれないように。
 だから、〈うまい〉データは眉にツバをつけて眺める必要がある。

 では、「ご縁になるべき人」とはどういう意味か?
 おそらく、「誠心誠意の中で、互いに縁を生かし合える人」だろうと思う。
 私たちは、〈うまくやる〉のではなく、〈誠心誠意やる〉以外、よき生き方はできない。
 自分の至らない点は客観的に、冷静によく見つめ、向上心をもって進むしかない。

 70点の自分が100点でないからといって〝こんな自分のままで……〟と苦しむのには微妙な錯覚がある。
 そこには、〝自分は本来100点であるべきだ、その自分になっていないなんて〟という勝手な思い込みがあるのではないか。
 よく考えれば、それは、誠意や責任感という皮をかぶった慢心というものではなかろうか?
 プロ野球を眺めてみよう。
 中には大谷選手のように時速160キロを超える直球が投げられる投手もいるが、ほとんどはそれよりも10キロ、20キロも遅い球で勝負し、堂々と仕事をしている。
 人間としての能力の限界と、個人的な能力の限界は違うし、現実に生きる人間にとって現場の勝負では常に、自分自身の限界しか問題にならず、言いわけもきかない。
 もしも誰かが〝自分が大谷のようなスピードで投げられない自分なんて〟と嘆いていたら、笑われるだけだろう。

 誠心誠意以上の価値はない。
 生きて年をとってみれば、誰にでもわかるはずだ。
 うまくやったことなど、たかが知れている。
 誠心誠意やったことは、消えない充実感や浄い誇りとなって生を支える。
 〝こんな自分〟と思うのは誠意ある謙虚な人であり、まっとうに生きられる人だろう。
 ただし、もう少し先も考えてみよう。
 そうすれば、ありのままの自分で尽くす誠意こそが真実であり、〈もっとすばらしいはずの自分〉という幻想からきっと脱することができるだろう。
 そうなれば誠意に磨きがかかり、人間としての自力も増すに違いない。




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「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。

https://www.youtube.com/watch?v=qp8h46u4Ja8





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2016
10.26

11月の聖語 ─法力と蓮華─

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〈豪華でどこか哀しい……〉

 お大師様は説かれました。

法力(ホウリキ)の成就に至るまで、且(カ)つは教え、且(カ)つは修せむ。
 また、望むらくは、その中間(チュウゲン)において、住処を出ず、余の妨げを被(コウム)らざらんことを」


法力の成就を期し、弟子たちへ指導し、修法を行います。
 成就の時まで、ここに籠もることをお許しくださいますよう)

 薬子(クスコ)の変に際し、堂内に籠もって国家の安泰と世間の平安を祈るべく、嵯峨天皇に対して決意を披瀝した文章です。
 そこには「七つの難事をうち破り、四季の巡りが順調で、国を護り、家を護り、自他共に安寧な暮らしができますよう」と述べられてもいます。
 重要なのは「法力の成就」です。
 この身このままで、み仏そのものになることを目ざす密教においては、み仏から受けるお力を法力として発揮できるようになって初めて、一人前の行者です。
 外科医が実際に執刀ができるのと同じことで、小生の修業時代にはテストもあり、なかなか厳しいものでした。
 それは虚仮威(コケオド)しの見てくれを競うものではなく、誠心がご本尊様と感応すれば自然にはたらきだすのです。
 ただし、別段、超能力者である必要はなく、むしろ、修法に感応する素直な心が求められます。
 お大師様はそれを信修(シンシュ)と説かれました。
 信じて修行するという誠心と実践が必ず結果をもたらします。

 さて、仏法によれば私たちは等しく、み仏の子です。
 イメージとしては、心の奧に蓮華の蕾を持っているようなものです。
 『大日経疏(ショ)』は説きます。

「およそ、人の汚栗駄心(カリダシン)の状(カタチ)、なおし、蓮花の合してしかも、いまだ敷かざるがごときの像(スガタ)なり」


(人間に具わっているカリダ心の形は、蓮花の花びらが合わさっていて、まだ開かないような姿をしている)

 鎌倉時代の真言僧頼宝もまた、明確にしています。

「心には二つある。
 一つはチッタ心、これは慮知する心である。
 二つはカリダ心、これは中実の義である」


 心には二種類あり、一つは思慮し分別し、何かを知るといった日常的にはたらく、いわば表面の意識のようなものです。
 もう一つは、人間存在の中心をなすものとして深く蔵された心で、いわば無意識の世界のようなものです。
 後者として、普段は蓮華の蕾の姿で眠っているのが仏心(ブッシン)であり、仏心が開き、表面の意識が蓮華の姿ではたらくならば成仏です。

 私たちは誰でも尊い蕾を持っています。
 それを開くためには、開いた先達としてのみ仏を仰ぎ、自分の身体と言葉と心を、み仏に合わせる必要があります。
 仏道修行はこうして行われますが、在家の方々もまた、蕾を持っておられるので、いつでも〈生き仏〉になれる可能性があります。
 思いやる心が動き、誰かの何かが見捨てられずに手を差し伸べる時、私たちの身口意(シンクイ)は自己中心を離れてはたらきます。
 その時は、まぎれもなく生き仏になっています。

 最近、思い知らされました。
 駅のホームに立っていたところ、到着した電車の乗降口から降りたおばあさんがよろけ、転びそうになりました。
 ほんの2、3メートル先のできごとです。
 小生は、アッと思ったものの、とっさに両手の荷物を置いて前進することができず、立ったままでした。
 おばあさんに続いて降りた中年の女性が2人がかりで支え、ことなきを得ましたが、修行不足をつくづく実感しました。
 怠けていれば、怠けたようにしか身体は動きません。

 心も同じでしょう。
 蕾に気づき、学び、イメージトレーニングをしていればこそ、蓮華を開かせる可能性が高まります。
 私たちの心をつかむような誰かの行動はすべて、蓮華を開かせた、あるいは開かせかけた成功例と言えましょう。
 謙虚に、至心に学びたいものです。




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「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2016
10.25

生き直しの小さなヒント

2016-10-25-0001.jpg

 私たちは、お墓をどうするかなど、死後の準備をしていると自分の〈単独生〉に気づきます。
 お釈迦様は説きました。

「死に迫らるれば、親とても頼むべきなし」


 死に神がやってくると、家族などいかに親しい人であっても、追い返すことはできません。
 そして、手にしているものの頼りなさもわかります。
 確かに、お金などの財産があれば最後まで安全に生きられるでしょうが、それは、安心(アンジン)の土台にはなっても、安心を生むわけではありません。
 地位や名誉も同じです。
 誰かにとってそうしたものが力として役立つうちは、近づいて来る人もいるでしょうが、力を求められなくなれば、やって来る人もいなくなります。
 麗々しい肩書は、一人間としてのおつき合い上、邪魔にこそなれ、何ら役立ちはしません。
 死を意識し、死の準備をする私たちは、だんだん、〈自分そのもの〉になります。
 それは、裸で生まれ落ちた赤児に戻るようなものであり、夢中で生きてきた過去は何だったのだろう、と人生が一夜の夢のように感じられもすることでしょう。
       ○
 そうなってみると、二つのものが胸に迫ってきます。
 一つは、やり残したことや果たしていない責務、もう一つは償っていない過ちです。
 最後の力を振りしぼってそれらに挑戦していると、〈まだやれること〉と〈もうやれないこと〉が明らかになり、諦念が固まってきます。
       ○
 次々と周囲に別れが起こり、悲嘆の体験も重ねます。
 そうしているうちに、これまではテレビや新聞で目にしても心の目に映らなかった世界が、現実のものとして見えてくるかも知れません。
 他者の苦境が〈他人ごと〉ではなくなります。
 人々はすぐ近くで苦しみ、あるいは遠い異国で苦しみつつ、日々を生きています。
 母親の胎内から生まれ落ちた時は、同じ裸ん坊だったのに、その境遇は、天と地以上に遠く離れ、生活水準はもちろん、学力も、仕事場も、寿命すらも格差は広がる一方です。
 歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏は鋭く指摘しました。

「人類は、より大きな力を得ることにはたけているが、その力を幸せに転換する能力は高くない」


 確かに、言葉を用いてコミュニケーションを拡大させ、農業によって食糧を安定的に確保し、科学力を用いて豊富なモノをつくってきましたが、そうしためざましい発展の割には、人類全体の幸せ度は上がっていないかも知れません。
 戦火に追われ、異国で死んで行く子供たちの姿は、相も変わらぬ人間の業(ゴウ)を私たちへ突きつけてきます。
       ○
 人間とは何か、自分とは何か、社会とは何か、問題は〈追われている日常〉からだんだん遠ざかってきました。
 ここで思い出すのは、インド古来の「四住期」です。
 子供として学び、大人として仕事に励み家庭を守り、社会的な務めを果たし終えたなら世間的価値観を離れ、林に暮らして人生の根本問題と向き合い、最後は彷徨しつつ死を待つというものです。
 最後は裸の人間として死を迎えのが、赤ん坊の姿に還ることなら、自分とは何かといった素朴で深い疑問に沈潜するのは、青春期に還ることに例えられるかも知れません。
 多感な頃、私たちは解けない疑問にとらわれて煩悶し、心の許せる友と語り合ったではありませんか。
 生きんがため、役割を果たさんがために脇へ置きっぱなしにしてきた問題に、ようやく自分なりの解答が出せる時期が訪れたとすれば、何とありがたいことでしょうか。
       ○
 このあたりで何かが見えてきたなら、それは生き直しの入り口かも知れません。
 一人間として、いかなる価値観を持ち、何をやって過ごすか?
 それはまったく、自分次第です。
 もちろん、老老介護や闘病など状況はさまざまでしょうが、現役時代とは違います。
 それは、〝死へ向かっている〟という確かな意識があるからです。
 自覚した人間にはもう、見える世界が違っています。
 悲嘆の目から見える世界より半歩、先へ行っていると言えるかも知れません。
 死を覚悟した芥川龍之介は書き遺しました。

「自然の美しいのは、 僕の末期(マツゴ)の眼に映るからである。」


 彼の視線はきっと、哀しみという透明なフィルターを通して自然へ届いていたことでしょう。
 その哀しみは、み仏のお慈悲に通じています。
 なぜなら、み仏のお慈悲は〈哀しみ〉の共有に発しているからです。
 澄んだ心を持っている人がそばにいること、それ自体が慰めであり、救いともなります。
       ○
 このあたりで「生き直し」のポイントが一つ、見えてきます。
 それは思いやりの実践です。
 カール・ベッカー博士は、死別ケアなどにたずさわる人々の心構えについて指摘しました。

「深く哀しんでいる人と『隣に並んで歩むこと』『寄り添うこと』」。


 これは、お釈迦様が説かれたお慈悲そのものです。
「慈」は、広い友情をもって寄り添い、相手の幸せを望むことであり、「悲」は、他者の苦しみを見捨てず、取り除くことだからです。
 では、思いやりをもって生きるにはどうしたらよいでしょうか?
 優しい気持がすぐに怒りや怨みにひっくり返る私たちは、どうすれば、他者の哀しみがわかり、本心からの思いやりが持てるでしょうか?
       ○
 どうせ生き直しをやるのなら、根本からやりましょう。
自己中心」を離れて、み仏に成ってしまうのです。
 私たちの身体と心と言葉のはたらきを、み仏に一致させてしまいましょう。
 身体では合掌しましょう。
 右手をみ仏、左手を自分とみなして両方を一致させます。
 形はさまざまですが、掌をやや膨らませて、蓮華の蕾を連想するのがお勧めです。
 泥に咲いても清浄な色を失わない蓮華のような心が、私たちには必ず、具わっているのです。
 言葉では「あー」と唱えてみましょう。
「あ」はいのちと心を根源であり、故郷です。
 私たちは「あ」と生まれ「うん」と息を引き取ります。
 だから、寺院の山門には「あ」と「うん」の金剛力士像がおられます。
 合掌して目をつむり、お腹の底から息をゆっくりと吐きながら「あー」と唱えてみましょう。
 心では、口から出た「あ」という音が遠くへ遠くへと伸び、息が途切れた先へまでずうっと届いて行くと観想しましょう。
 ゆっくりと息を吸う時、宇宙のエネルギーが戻って来て自分を満たし、清めます。
 そしてまた、ゆるゆると宇宙へ伸び、広がって行く息と声は、自分をすっかり解放します。
 幾度か繰り返すうちに、自己中心的な気持など、どこかへ行ってしまうことでしょう。
       ○
 清められた心は、数々の出会いを思い出させるかも知れません。
 私たちはさまざまな人々と縁を結びながら人生を紡ぎます。
 そして、ある程度の年齢を重ねてから振り返って見ると、善い人だけでなく、酷い人との出会いも恩讐を超えた感覚で甦ることでしょう。
 色合いも大きさも異なる星々が揃って夜空という一枚のベールを織り成すように、出会った人々のすべてが人生に関わっています。
 その真実もまた、自己中心という小さな殻を忘れさせることでしょう。
       ○
 その方なりに、生き直しをじっくり考えてみてはいかがでしょうか。
 こうした生き直しは若い人にもお勧めです。




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2016
10.24

楽観主義の危険性 ─悲しみが見せる真実世界─

2016-10-24-0001.jpg

 悲観楽観についての興味深い研究がある。 
 私たちは、もしも、自分の車が盗まれる可能性を10パーセントと考えている場合、実際の確率がデータで示され、それが予想と異なっていたならば、どう反応するだろうか?
 
○5パーセントなどと確率が低い場合

 私たちは、「ああ、そうか」とデータを理解し、自分で思う可能性をそれに合わせる。
 この時、情緒などを司る前頭葉のはたらきは高まっている。

○20パーセントなど確率が高い場合

 私たちは、データにあまり関心を持たず、自分で思う可能性を変更しない。
 この時、情緒などを司る前頭葉のはたらきは弱まっている。

 前者は、先行きを困難と考える悲観的傾向を持つ人たちである。
 後者は、先行きを甘く見る楽観的傾向を持つ人たちである。
 生命倫理などを研究している京都大学のカール・ベッカー博士は指摘する。

楽観主義とは選択的にデータに注意を払わないことによって保たれているのである。」(以下、『愛する者は死なない』より)

楽観主義者とは将来のできごとを見越せない人であった。」

「軽度のうつ病の人たちは、たいてい将来を正確に予測するのである。」

「悲しみに浸っているときの思考や感情といったものは真理値を持つように思われる。
 つまり、悲嘆はこの世界を正しく捉えているのである。」


 流行している〈前向き思考〉が孕む問題を考えさせられる。
 もしも、目の前に現実の厳しさや将来の危険を示すデータがあっても、「なあに、大丈夫さ」と見過ごしてしまえば先行きは危うい。
 悲しいできごとが起こっても、「さあ、早く忘れよう」と陽気に騒ぐだけでは、前頭葉を発達させない。
 それは、他者の悲しみや苦しみや辛さに思いが至らず、大人になれないということを意味する。

 私たちは、あまりにも、前向きになれないということについて、悲観的に考えすぎてはいないだろうか?
 なかなか前向きにさせない悲嘆の状態を、悪くばかり考えてしまう必要はない。
 悲嘆にあればこそ、それ行けどんどんの時期には気づかなかった他者の悲しみに胸をうたれ、ひっそりと咲く一輪の花にたとえようのない愛しさを感じるかも知れない。
 高々と掲げられた〈明るい未来〉の宣伝と裏腹に、たった今、歪んだ社会の谷間で呻いている人々の声を聴けるならば、私たちは、まっとうに生きる道を踏みはずさないだろう。

 カール・ベッカー博士は、さらに踏み込む。

病める魂は、われわれが望むようにではなく、あるがままに世界を見ているのである。
 神経心理学の言葉を借りれば、健全な心よりも病める魂の方がより幅広い経験や情報を処理している。」


 今年の1月18日、新聞各紙は国際NGO「オックスファム」の発表を報じた。

2015年に世界で最も裕福な62人の資産の合計が、世界の人口のうち、経済的に恵まれない下から半分(約36億人)の資産の合計とほぼ同じだった。」 

「報告書によると、上位62人の資産の合計は1兆7600億ドル(約206兆円)で、この5年間で44%増えた。
 一方、経済的に恵まれない下から半分の資産は41%減った
と指摘。
 この結果、下位半分の資産額は10年には上位388人分に相当したが、14年は上位80人分、15年は62人分と、格差は拡大しているという。
 背景には、賃金など労働への対価支払いより、株式配当など資本の投資への還元が手厚くされていることなどがある。」


 このデータ、事実を前にして、私たちはどうして楽観主義でいられようか。
 こうした世界的システムの中で、それを牛耳る人々が〈望むように〉無限の成長神話が語られ、消費を煽る映像が流され、私たちの耳目を惹き付けている。
 しかし、一人一人の人間にとっての真実は足元にしかなく、病める魂はそれを〈あるがままに〉見ているがために病んでいるのだ。

 もちろん、耐えきれない悲嘆には思いやりの手が差し伸べられねばならない。
 しかし、いつでも「前向き」が前提無しに要請され、皆がそうあれば世の中はバラ色になるかの如く語られることは異様である。
 自他の悲しみを通して見える世界にこそ真実があることを忘れないようにしたい。




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「おん あらはしゃのう」
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2016
10.23

蓮華と法具になったお大師様

2016-10-23-0001.jpg

 お大師様が旅立った後、高野山が没落した時期のできごとである。
 天台宗の円仁が、弟子と荒廃ぶりを語り合ったところ、その世のにお大師様が現れた。
 次いで、真言宗の康修も現れて、「和尚に会おうと、お大師様が来ておられます」と告げた。
 円仁は驚いて起き上がり、衣装を整えて玄関に出る。
 ところが、お大師様はおられない。
 周囲を見回すと、庭に一本の蓮華が立っており、五鈷金剛杵(ゴココンゴウショ)が乗っていた。
 康修は再び、円仁の想念に現れてそれを指し示す。
「あの金剛杵は我が師である」

 お大師様は、右手に五鈷金剛杵、左手に数珠を持って入定(ニュウジョウ…瞑想のままこの世を去ること)された。
 金剛杵は不退転の智慧を、数珠は一人も見捨てない慈悲を表す。
 それは不動明王が右手に剣、左手に索(サク…縄)を持つのと同じである。

 お大師様は御遺告(ユイゴウ)で説かれた。

「吾れ閉眼の後には必ず方(マサ)に兜卒他天(トソツテン…弥勒菩薩の浄土)に往生して弥勒慈尊(ミロクジソン)の御前に侍(ハベ)るべし。
 五十六億余の後には必ず慈尊と共に下生(ゲショウ)し祇候(シコウ)して吾が先跡を問うべし。
 亦(マタ)、未だ下らざる間は微雲管(ミウンカン)より見て信否を察すべし。」


(私が亡き後には、必ず兜卒天に往生して弥勒菩薩のもとにつかえるであろう。
 仏滅後五十六億七千万年経ち、弥勒菩薩が天上からこの世へ降るおりには、必ず弥勒菩薩とともに人間界へ降り、かつて私が歩んだ跡を訪ねるであろう。
 また、この世へ降りるまでの間は、兜卒天の微かな雲間から望み見て、人々の信心・不信心を観察するであろう)

「努力努力(ユメユメ)後に疎(オロソ)かにすることなかれ」


(私が去った後も、決して、精進せず仏法を疎かにするようなことがあってはならない)

 お大師様は、弥勒菩薩のおそばから、不動明王のような智慧慈悲により私たちを見守っておられる。
 一時の流行や廃れに一喜一憂してはならない。
 信じ、精進する者は必ずお大師様と感応できる。
 お大師様とお会いできるかできないかは私たち自身の心がけ次第だ。
 ちなみに、蓮華に乗った金剛杵は、当山のお焚きあげの場にも高く掲げられている。
 この形は、あらゆる迷妄を断ち、生きとし生けるものを救う智慧慈悲を目ざす仏法の根幹であるに違いない。
「南無大師遍照金剛(ナムダイシヘンジョウコンゴウ)」




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2016
10.22

小さな達成感を得る ─どこにでもある生きがい─

2016-10-17-0002.jpg

 私たちが生きる上での問題はまず、安定した衣食住の確保、次に、生きがいの獲得ではないでしょうか?

1 無財の七施

 一番目については、自分の努力と社会のありようとが決めます。
 怠け者ではどうにもなりませんが、いくら労働意欲があっても社会が混乱したり、戦火の雲に覆われていたりすれば、どうにもなりません。
 自分の(ゴウ)と社会の共業(グウゴウ)をよく考えてみましょう。
 社会のおかげなくしては一瞬も生きられず、良きにつけ、悪しきにつけ、社会と無関係は人は一人もいません。
 だから誰一人、社会の傍観者ではいられず、傍観者であってはならないと言えましょう。 

 二番目については、ほぼ、自分次第、自分の生き方次第です。
 医療関係者や福祉関係者などの人生相談を受けていると、生きがいはどこにでもあると実感します。
 たとえば、ある女性の介護士さんが難しいことばかり言うお爺さんに手を焼いていましたが、ある日、昔話を聴いていたところ、どうしたことか「自分は子供の頃からへそ曲がりだった」と涙ながらに詫びられました。
 彼女は手を取って一緒に泣き、誠意を尽くしてきて本当によかったと喜び、初めて仕事を誇りに思えました。
 おじいさんは、その日から別人のようになりました。
 まごころの交流が、お爺さんの捻れをなおし、看護師さんにやりがい、生きがいをもたらしました。

 生きがいは、手応え、達成感の蓄積によって得られます。
 連続する確かな達成感が、喜びと力になってその人を輝かせます。
 この達成感は、どこにでも見つけられます。
 その典型が「無財の七施」、財物によらない施しです。
 
○眼施(ガンセ)
 思いやりのある優しいまなざしで相手を見ることです。
 眼は口ほどにものを言うのです。
○和顔悦色施(ワゲンエツジキセ)
 和やかさと笑みを含んだ相貌で相手と接することです。
 医師の穏やかな顔と接するだけで気持が落ち着いたり、孫の笑顔を見るだけで励まされたりします。
○言辞施(ゴンジセ)
 思いやりを含んだ言葉を相手へ届けることです。
「ありがとう」や「おかげさま」や「おたがいさま」が心を和ませ、勇気づけ、励まし、いのちの力を引き出すことは驚異的なほどです。
○身施(シンセ)
 身体を使って相手へ何かをさせてもらうことです。
 東日本大震災などで、みかえりを求めない珠玉の汗がどれだけ流されたことでしょうか。
○心施(シンセ)
 相手を思いやり、心配りをすることです。
 相手の立場や気持を思いやって心を配り、気を配るところから布施行は始まります。
○床座施(ショウザセ)
 相手へ座る所を提供することです。
 乗り物の席を譲る光景は例外なく美しいものです。
○房舎施(ボウシャセ)
 まず、来訪者を温かく迎えることが大切です。
 モノを渡さなくても、貸すことによって相手へ雨風をしのぐ場が提供できます。

 もしも、ベッドに横たわっていてすら、誰かへ穏やかな顔で和やかな言葉をかけられれば、それはまぎれもなく尊い布施行であり、一つの達成です。
 日々、「無財の七施」を心がけてみませんか。

2  「比丘の四法」

 付録として、せっかくの善行を台無しにしかねない〈人間関係の破壊〉から免れる方法を書いておきます。
 それは「比丘(ビク…男性の出家修行者)の四法」です。

○相手を非難しても、二度とは非難しない
○相手を怒っても、二度とは怒らない
○相手へ暴力的にふるまっても、二度とは暴力的にふるまわない
○相手の過失を暴いても、二度とは暴かない


 いずれも、そうしなければならない時、あるいは、そうしないではいられない時の心構えです。
 自他のために、誰かの過失を暴き、厳しく非難せねばならないならば、勇気をもってやらねばなりません。
 怒り、暴力的にふるまう必要性に迫られる場面からも逃げられません。
 自分と相手を救うだけでなく、悪行の害毒が広がるのを防ぐためです。

 もしも、自分に起こった感情を引きずり、繰り返すことによって相手へダメージを与えるところまで行けば、ことのスタート時には理があっても、最後は悪行(アクギョウ)に転じてしまいます。
 それは、人間関係を壊す行為になり、出家修行者の間で厳しく戒められていたことが理解できます。
 この戒めは、普通の社会人にとっても、必要な心がけであると思われます。

3 二の矢

 最後に、貪り・怒り・愚かさの三毒に陥らないための心構えである「二の矢の教え」について少々書いておきます。

 ある時、お釈迦様が弟子たちへ問いました。

「人間に生まれた以上、誰にでも喜怒哀楽がある。
 では、凡夫仏弟子とはどこが違うのか?」


 確かにそうです。
 お釈迦様は、いかに徳が高く、慈悲と智慧に満ち、法力に勝れていてもきっと、超然としてはいなかったことでしょう。
 周囲の人々が心の温かさを実感できたに違いなく、表情も豊かだったことでしょう。
 何しろ、観音様とお不動様が同居しておられたのです。
 ならば、喜怒哀楽が私たちとどう違うのか?
 弟子たちは誰も答が見つけられず、お釈迦様は、おもむろに説かれました。

「二つ目の矢を受けるか否かが違うのである」


 私たちは、外的刺激に対して、どうしても貪り、怒り、愚癡にたどりつきやすいのです。
 喜べば「もっと、もっと」とさらに欲しくなり、気に入らなければ「このやろう」と怒って排除したくなり、自分に利をもたらさなければ「知ったこっちゃない」と無視します。
 しかし、仏弟子は、快感に溺れず、不快感に左右されず、自己中心でなく周囲を観るので、因縁の糸を見失いません。
 こうありたいものです。




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2016
10.21

アボリジニの表現 ─奪う者、奪われざるもの─

2016-10-21-0002.jpg

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「人々はかつてここに住んでいた。
 白人たちの姿を見つけると、
 人々は丘や岩場に駆けのぼって逃げたものだった。
 彼らは白人たちを恐れていた。
 私の母親と兄弟たちも逃げ出した。
 なぜなら、白人たちはマルトゥの人々を撃ち殺していたからである。
 白人たちはこっそりやってきて、そして銃を発射した。
 マルトゥの人たちはみんな逃げだし、
 プンタワリイにたどりつくまで走り続けた。」(アボリジニ:ダーダー・サムサン)


 オーストラリアには、何万年も前から住んでいるアボリジニという先住民がいる。
 そこへ侵入した白人は、土地もいのちも奪い、勝者の歴史を編んだ。
 上記の文章は、アボリジニの証言である。

 侵略を象徴するのが南北に約2000キロ続く「キャニング牛追いルート」である。
 20世紀初頭、北部の牧場から砂漠を越えて南部へ運ぶための道路が造られ、たくさんの井戸が掘られた。
 そこが先住民にとって、心といのちの支える聖地であることはまったく無視され、彼らは邪魔ものとして排除された。

 やがて非人道的な行動が問題となり、王立委員会において調査された。
 チームに参加していた料理人エドワード・ブレークは、アボリジニをつかまえて首に鎖をつけたり、新しい井戸を掘るために地域の水源を破壊するなど、数々の蛮行について証言したが、それを証明できなかった。
 建設は公認され、殺し合いの歴史を刻みつつ因縁のルートは半世紀にわたって使われた。

 21世紀に入り、過去のルートをたどりつつ、白人とアボリジニが協同して芸術活動を行い、支配者と被支配者の双方から歴史を観る大規模なプロジェクトが計画された。
 その成果は「ワンロード 現代アボリジニ・アートの世界」と銘打った展示会で公表され、展示会は日本各地でも開催された。
 イントロダクションにはこう書かれている。

「この展覧会では、アボリジニの文化には何千年にもわたる継続性があるということが、強いメッセージとなっている。
 それは、オーストラリアという若い国家の建設の歴史のなかで語られることのなかった、先住民という少数者によって記憶されてきた物語に光を当てる試みであった。
 それは、主流社会にとってこのような異なる歴史を理解することが、いかに重要であるかを訴えかけている。
 これはオーストラリアに限られたことではなく、日本人にも、そして誰にとっても無縁のことではないだろう。
 見えないことになっており、主流社会が持つ記憶とは異なった記憶、普段は見えなくされてしまっているストーリーは世界各地にあるはずだからである。


 自分が、かつて何を行った人々の末裔であるかを知ることは、自分を客観視させ、他の人が異なった歴史を背負っていることを知れば、独善は消えよう。
 それは視野を広げ、人生を変えるだろう。
 また、今の文明が何に立ち、どこを目ざしているかも見えてくるだろう。
 先祖を貶め、誇りを捨て、自虐的になろうというのではない。
 私たちの心に巣くう弱者や少数者への居丈高な姿勢、あるいは辛い立場や状況にある人々を無視する姿勢の根源的卑しさを恥じてやまない。 
 たった今、他者への不当な侮蔑や抑圧や攻撃や、不毛の対立などをもたらす高慢心を根こそぎ処理したいと思う。

 たとえば、こうした景色が視野に入ってくる。
 高浜原発の審査に対応していた関西電力のA氏は、自殺前日までの19日間で150時間の残業をこなしていた。
 想像を絶する状況だが、管理職なので労働時間については労働基準法の適用を受けず、違法ではなかったという。
 しかも、原発に関する特別な通達もあり、ほとんど無制限な労働が〈適法に〉課される。
 適用除外となっている人々の人数や残業時間などを秘したまま、公表しない企業もある。
 末端では非正規雇用の比率が上がり続け、幹部もここまで非人間的な扱いを受ける。
 社会における〈適法〉な世界ですらこれほど非人間的になっているのだから、いわゆる〈ブラック〉の世界がどうなっているかは推して知るべしという他ない。
 いったい、誰のために、健康を保ちながら安定的にはたらくという人間らしい生活を根元から破壊するような仕組みが作られたのだろう?
 多くの人々を不安に陥れながら、誰が利を得ているのだろう?

 かつて、アボリジニはこう感じていた。

「人々はカリティヤ(白人)、あの白い肌を見て『ククル(悪魔)かもしれない。幽霊が墓から出てきたのだ』と心の中で思っていました。」(アボリジニ:クルパリン・ベシィ・ドゥーディ)


 人々を踏みにじりながら自分の利をだけをもくろむククルは、いつの世も、どこにでもいる。
 アボリジニは殺されるまでその存在に気づかなかった。
 私たちも、すでに殺されている。
 ここ20年ほどで急拡大した不公正はこれ以上、放置してはならないと思う。
 
 作家の池澤夏樹氏は、アボリジニの芸術についてこう書いた。

「彼らと彼らの絵は人が生きる姿勢の指針のように思われる。」


 作品に目を凝らし、心を向け、静かに自分とこの世を眺めてみたい。




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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
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2016
10.20

不寛容の問題 ─救いを奪う者─

2016-10-20-0001.jpg

 小雨の日、東京駅のタクシー乗り場は、カサをさす人もいて長蛇の列だった。
 ようやく乗り込み、「今日はすいぶん混んでいましたね」と中年男性の運転手に声をかけたら、苛立った声で思いも寄らぬ答が返ってきた。
「朝鮮人のやつらですよ。
 日本の税金で喰っていながら、好き勝手にやり放題、言い放題、嫌になると電車へ飛び込む。
 おかげで、日本人が酷い迷惑を受ける。
 左翼に占領されているマスコミは報道しないけど、連中の自殺はしょっちゅうですよ!」
 どこかで飛び込み自殺があり、そのせいで電車の運行が狂ったらしい。
 そうですか、と静かに相づちを打った途端、話は自衛隊へ飛躍した。
「日本の自衛官は、いざという時に備えて、カエルなども喰うような厳しい訓練をしているんです。
 この間、ドイツの将校が来て、こんな過酷なのは見たことがない、ってびっくりしていたらしいですよ。
 日本の潜水艦もレーダーでつかまえられないほど凄くて、アメリカと合同訓練をしていた時、アメリカの軍艦に察知されないで近づき、すぐそばで急浮上してびっくりさせたらしいですよ」
 それにしても、客の気持や考え方を一顧だにしない勝手な言いよう、落ちつきのない運転、酒か麻薬の影響すら感じられるほどの荒(スサ)み方だ。
 聞くに耐えず、「ちょっと失礼」と小さく声をかけて携帯電話にとりつき、避難した。
 それでも、ぶつぶつと何か呟き続け、電話が切れるのを待つように言葉の速射砲は再び唸りを上げ、降車するまで車内に乱射され続けた。

 ようやく深呼吸をし、いつもより弱々しく歩き出しながら、つくづく思った。
 アメリカのトランプ候補も、フィリピンのドゥテルテ大統領も、あまりに問題のある品性人権無視の意識を持っていながら、一定の指示を集めているのはこうした人々がいるせいだろう。
 もしもさっきの運転手がアメリカへ行けば何を叫び、フィリピンへ行けば何を行うか、容易に想像がつく。
 その性向は、ISに勧誘されればテロリストになる可能性にも通じている。

 要は〈不寛容〉なのだ。
 自分も含めて、この世が多様な人々の多様な思いや行動によって成り立っている事実を認識し、自分を尊重するのと同じようにお互い、尊重し合いながら生きるという感覚が薄いのだろう。

 なぜ、不寛容が問題なのか?
 それは、自分からも、他者からも救いを奪うからだ。
 神ならぬ人間が「救われる」とは畢竟(ヒッキョウ)、「赦される」ことに他ならない。
 それは「解放される」と言い換えることもできよう。

 時代劇で、侍に斬られそうになった町民が「堪忍してください」「勘弁してください」と土下座するシーンがある。
 自分が正しいと言い張ったり、あなたを非難したりはしませんから、どうぞお怒りをお鎮めください、いくらかは私のいのちも考えてください、と頼む。
 白黒をつけるのではなく、いのちを奪おうとする者に赦しを請い、危機から脱しようとしている。
 これが人間同士における救いの究極的姿ではないか?
 この時、相手に何が求められているのか?
 それは心の寛(ヒロ)さ、容(イ)れる度量、つまり寛容さなのだ。

 私たちの心から寛容さが薄れるとどうなるか?
 自分に都合のよいところで思考停止になり、聞く耳を持たなくなる。
 高圧的で真の対話が成り立たなくなる。
 私たち一人一人がこうなれば、社会を動かす立場の人々も必ず、同じ傾向になり、権力者の独善的な動きを認めたりもする。
 それは社会から思慮深さや、穏やかさや、円滑さなどを奪い、さまざまな問題で私たちを袋小路へ追い込み、対立と不安とをもたらす。
 嵩(コウ)じれば暴力や戦争にもつながりかねない。

 「人の振り見て我が振り直せ」である。
 ときおり、自分が不寛容になってはいないか、指導者が不寛容ではないか、不寛容な人物を権力者に選んではいないか、振り返って見たい。
 自他が救われつつ生きるため、省み、誡(イマシ)めたいものである。




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2016
10.19

この世の行状の落とし前 ─閻魔様とお地蔵様─

2016-10-19-0001.jpg
〈ダンダ幢を持った閻魔様〉

 私たちはこの世でそれぞれなりに生き、死んで行きます。
 因果応報が真理である以上、そして、この世でのすべての行為にすべての結果が伴ないきれない以上、その分は未来のいつの日か、どこかで、結果としての報いを受けねばなりません。
 ──善行への嬉しい報いも、悪行への苦しい報いも。

 そうした成り行きがいかなるものかを想像させるのがお地蔵様のお経です。
 そこには、閻魔(エンマ)様に調べられる様子と、お地蔵様の救いが説かれています。

 さて、調べはどのように進むかと言えば、以下のとおりです。
 
○その1 双童子(ソウドウジ)

 双童子は誕生の瞬間から人に寄り添そい善行悪行を記録する同生神(ドウショウジン)であり、善行を記録する者は吉祥天のように優しく、悪行を記録する者は羅刹のように恐ろしい。

「善を証明する童子は
 影のごとく相手から一瞬も離れず
 耳を低くして
 小さな善行も必ず記録する

 悪を証明する童子は
 響きが音を出す本体に応ずるように
 目を留めて
 小さな悪行も必ず記録する」

○その2 人頭杖(ニントウジョウ)

 閻魔王国へ入る鉄門の左右には、人頭杖(ニントウジョウ)がある。
 別名ダンダ幢(ドウ)という頭のような飾りを持つ幢幡(ドウバン…み仏の世界を表す旗)が立っており、この世での善行悪行も飾りに現れる。 
 ダンダは棒、杖だが、それが刑罰の道具にも用いられることから、刑罰という意味もある。
 黒闇天女(コクアンテンニョ)と、太山府君(タイザンブクン)がそれを持って閻魔王へ報告する。

○その3 浄頗梨(ジョウハリ)の鏡

 閻魔王の国には光明王院(コウミョウオウイン)があり、その中殿に懸けられている光明王鏡を浄頗梨(ジョウハリ)の鏡という。
 王の指示でそれに対面させられた死者は、自分の顔を鏡へ映すように、自分の歴史を見る。
 ここまでで、死者は、自分の過去がすべて明らかにされ、善悪の報いを受けねばならないことを知る。

 さあ、大変です。
 思い当たるフシがいろいろある人々は、震え上がることでしょう。
 悪行と無縁な人はいないので、全員が地獄へ行くかと言えばそうではなく、この国にはもう一つ、善名称院(ゼンミョウショウイン)もあります。
 そこは常に春であって花が咲き、同時に秋でもあって果実がたわわになっています。
 この浄土は、地蔵菩薩が入定(ニュウジョウ…瞑想に入ったまま悟りの世界へ行く)する宝処(ホウショ…尊い場所)であり、中央に座す地蔵菩薩は毎朝、瞑想から起つと無数の身を現じて、生きとし生けるもののそばへでかけます。
 信心して念ずる者には笑顔で智慧ある姿となり、不浄の行いをしている者がいれば自分の胸を指で刺して悲しみ、智慧の潤いをもって悪の報いによる苦を除こうとされます。
 地獄界や修羅界などの六道(ロクドウ)を輪廻(リンネ)する運命にある私たちのために、以下の様な願いを持っておられます。
 何とありがたいことでしょうか。

「私が真理を悟ったならば
 地獄の世界において、身代わりとなって苦を引き受けよう
 それができなければ、決して成仏はしない

 私が真理を悟ったならば
 餓鬼の世界において、食べものを施そう
 それができなければ、決して成仏はしない

 私が真理を悟ったならば
 畜生の世界において、飲み食いをさせよう
 それができなければ、決して成仏はしない

 私が真理を悟ったならば
 修羅の世界において、争いを和ませよう
 それができなければ、決して成仏はしない

 私が真理を悟ったならば
 人間の世界において、心の平安を与えよう
 それができなければ、決して成仏はしない
 
 私が真理を悟ったならば
 短命を恐れて我を念ずる者に長命を与えよう
 それができなければ、決して成仏はしない」

 こうした教えをどう受けとめるかは、私たち次第です。
 報われぬ善行を嘆いたり、知らん顔でいたい悪行に内心怖れていたりするだけでは、どうにもなりません。
 善行はきっと童子が記録しており、ダンダ棒の人頭と浄頗梨(ジョウハリ)の鏡に映るので、愚癡を言う必要はありません。
 悪行の報いからは決して逃れられないので、すみやかに懺悔(サンゲ)して対応すると共に、善行によって悪行の影響を総体的に小さくしましょう。
 そして、思いがさらに進むならば、お地蔵様など身近に感じられる仏神へ祈るだけでなく、自分もいくらかはお地蔵様のような願いを持って生きましょう。
 ポイントは〈自分だけ〉にあります。
 決して自分だけ良い思いができるわけではなく、自分だけが辛い目に遭っているのでもありません。
 お地蔵様のように、〈共に〉生き仏となるイメージを持ちながら、この世を生き抜きたいものです。




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2016
10.18

Q&A(その30)出家と在家の違いは何でしょうか?

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〈ある基礎工事の現場です。地盤を掘り起こして地盤改良材を混ぜ、埋め戻して固め、溝をつける手際に惚れ惚れしました〉

 大乗仏教(ダイジョウブッキョウ)は出家在家を区別せず、仏性を発揮すれば等しく成仏できると説きます。
 だから、日本では、出家者が娑婆的生業(ナリワイ)で稼ぎ、在家者がプロの僧侶と同じように仏法を説いて人気を博したりといった現象が生じています。
 出家者が娑婆的事象に関わり過ぎたり、在家者がプロの領域へ踏み込み過ぎたりして、問題を起こしてもいます。
 では、両者の区別はなくなったのか?
 それでよいのか?
 仏法の衰退とそれは無関係なのか?

 小生はこう思います。
 出家者は〈仏法を生きる者〉、在家者は〈仏法を生きる柱とする者〉ではないでしょうか?
 これには二つの意味があります。
 
 一つには、生きる糧(カテ)の問題です。
 出家者は、ひたすらみ仏へお仕えし、その姿とはたらきに接する娑婆の方々が、み仏へお供えしてくださるお布施によってのみ、生きます。
 在家者は、世間的生業(ナリワイ)や役割を持ち、それだけでは自分の生き方に納得や安定が得られない時に、世間的価値観と次元が異なる導きの灯火として仏法を選び実践します。

 もう一つは、行き詰まった時の対処法です。
 出家者が解決を求める先は仏法僧の三宝のみであり、最後はご本尊様へ委ねます。
 芥川龍之介の小説『羅生門』において、お釈迦様が地獄へ垂れた一本の〈蜘蛛の糸〉を見つけられるか見つけられないかにかけるようなものであり、真剣の〈刃渡り〉を続けるしかありません。
 在家者は、たとえ一時的に仏法に背こうと娑婆的価値を守りぬきます。
 経営者が会社を守り、従業員を食べさせようとする時に袈裟衣をまとったままではいられません。

 中年まで娑婆にいた小生は、後者を体験してから前者へ移ったので、その移行には覚悟と、周囲の人々も巻き込み得る苦しみが伴うことを些(イササ)か知っています。
 また、娑婆と寺院とが互いに支え合い、この世をつくっていることの意義も実感しています。
 お大師様は説かれました。

「慈は能(ヨ)く楽を与え、悲は能く苦を抜く。
抜苦与楽(バックヨラク)の基、人に正路(セイロ)を示す、是(コ)れなり。
謂(イ)ふところの正路(セイロ)に二種あり。
 一には定慧(ジョウエ)門、二には福徳の門、定慧(ジョウエ)は正法(ショウボウ)を開き、禅定(ゼンジョウ)を修するを以て旨と為(ナ)し、福徳は仏塔を建て、仏像を造するを以て要と為(ナ)す」


(慈しみは人々へ楽を与え、憐れみは人々の苦を抜く。
 その基礎となるのは、正しい路を示すことに他ならない。
 いわゆる正しい路には二種類ある。
 一つは瞑想と智慧に生きるものであり、もう一つは人々へ福徳を施すものである。

 瞑想と智慧の路は正しい仏法を開いて深い瞑想へ入ることを旨とし、福徳を施す路は仏塔を建て、仏像を造ることを要点とする)
 ここにおける前者が出家、後者が在家です。
 もちろん、出家者はただ座っていればよいわけではなく、他のためになる布施行を欠かせず、在家者もまた、ただ寺院へ何かを納めるだけでなく、教えを学びたいものです。
 誰にとっても智慧と福徳、二つの要素は共に必要です。

 さて、出家しようとしまいと、心がけと生きざまによって、生き仏になれます。
 10月17日、NHKテレビは「プロフェッショナル 仕事の流儀」において、デザイナー皆川明氏を紹介しました。
 氏は「マイナスからプラスを見いだす」と言います。

自分ができないことに出会った時に、できない状態でいるよりは自分にできることを相対的に見つけてみる。
 社会的にはマイナスに見えることが、自分にとってはプラスになることがあると考えてみる。

 そういうことを、ずっとしてきた」


 これは時間的な感覚ですが、それを空間に表現すればマンダラになります。
 悟りの極地にある姿から、無惨で暴悪な姿まで、さまざまな仏や悪鬼が描かれたマンダラは、全体があって初めて世界が成り立つ真実を示しています。
 そして、〈こうした世界〉にしか、生きて救済される場はないのです。
 マイナスと見えるものはプラスへの可能性を孕(ハラ)み、プラスと見えるものは常にマイナスへ関わり合っており、その全体性を表すのが胎藏生マンダラであり、ダイナミックな活動を表すのが金剛界マンダラです。

 こう考えてみると、大切なのは〈姿勢〉であると言えるのではないでしょうか。
 娑婆にあれば娑婆にあるように、出家したならば出家したように、仏法と共に生き抜くこと。
 そうすれば、誰でもが生き仏になれるはずです。

 そこに仏法の解釈と実践の基礎を置くのが大乗仏教だろうと思います。




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2016
10.17

【現代の偉人伝第236話】 ─小児科医熊谷晋一郎氏─

2016-10-17-0001.jpg
〈朝日新聞様よりお借りして加工しました〉

 10月16日付の朝日新聞『ひもとく』欄は、「相模原事件が問うもの」と題し、自らも脳性麻痺という障害を持つ小児科医熊谷晋一郎氏の一文を掲載した。
 
 私たちは、障害者依存症者など、一人では社会的活動が困難な人々を排除したい意識にかられる場合がある。
 氏は、少数派を排除しようという意識こそが暴力を生むという。
 ご自身の人生をふまえた論旨は、人生相談の場で、ご来山の方々と一緒に立ち往生しがちな小生にとって、目の覚めるような切れ味で真実を明らかにしている。
 以下、7月26日に起こった相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」における大量殺人事件をふまえた文章について考えてみよう。

「私が生まれた1970年代は、脳性まひの子どもが生まれると早期のリハビリで、なるログイン前の続きべく健常児に近づけようとするのが一般的だった。
 もし健常児に近づけなければ、親亡き後、人里離れた大規模施設に入るしかない。」


 托鉢で一軒、一軒と訪ねるうちに、家庭内の障害者と出会うことがしばしば、あった。
 それは裕福そうな豪邸でも、貧しそうな小さいお宅でも同じだった。
 はからずも玄関へ姿を現してしまった家族を追って、必ず誰かが出てこられた。
 そのほとんどは無言、もしくは多くを語らず、重く伏し目がちな視線で、早く返って欲しいと訴えかけてきたことを思い出す。
 わずか10年ほどの間に、そうした光景はすっかり消えた。

「当時の、一部の介助者や支援者の愛や正義を笠に着た、うまくリハビリの課題に応えられない寝たきりの私たちを足で踏みつけるなどの暴力。
 それに対して何もできない怒りと無力感が、緊張とも弛緩(しかん)ともつかない、内臓が落ちそうな感覚にさせた。
 事件は、あの日々に私を連れ戻すのに十分なものだった。
 事件報道に触れ、あの頃の身体感覚がよみがえり、街ゆく人々が急に自分を襲ったりしないかと、身構えるような感覚を覚えた。」


 「内臓が落ちそうな感覚」には嘔吐を覚えた。
 身体は反応したが、思考は想像を許さない。
 恐ろしい断絶、不可知。
 障害を持った方が、それだけの理由で「急に自分を襲ったりしないか」と不安を覚えるならば、彼らは健常者とまったく〈別なこの世〉を生きていることになる。
 しかし、考えてみれば、私たちの偏見は、その対象となる人々を、そうした〈別なこの世〉へ追いやっているのだ。
 世界のどこかで絶えず起こっている宗教や民族の違いによる殺し合いは、差別と隔離の意識が行き着く果ての姿だ。

「70年前後の重度障害者が置かれていた状況を知る上で一読を薦めたいのが『障害者殺しの思想』である。
 筆者の横田弘は、思想的な深さとラディカルさで注目された脳性まひの当事者団体「青い芝の会」神奈川県連合会のリーダー的存在だった。
 彼は会の行動綱領に、「われらは愛と正義を否定する」と掲げた。
 今回の容疑者のロジックにも見て取れるように、障害者は悪意というより、愛と正義に基づいて殺されうる存在だという事実を鋭く指摘している。」


 いわゆる「愛」も「正義」も、差別する側における意味と、差別される側における意味が異なり、一つの言葉と概念が同じ世界を目ざす力になることはないという指摘だろう。
 そうした当てにならないものに頼っては生きて行けないことを直視した現実から立ち上がろうという呼びかけに違いない。
 一家族内ですら、家族全員が共有する「愛と正義」で身内の障害者や依存症者を守れないケースが数多くある。
 まして、社会というほぼ無限定の空間においては、共通認識を醸成することは困難だ。
 そこを突破しつつ、偏見・差別というどす黒い意識と戦って行くには、問題意識の共有が不可欠だ。
 

「事件後、薬物依存症の自助活動をするダルク女性ハウスの上岡陽江さんから、『友達やめないでね』というメッセージが届いた。
 これは二度目の衝撃だった。
 当事者研究を通して立場を超えて深めてきた連帯に、ヒビが入りかねないと感じたからだ。
 この言葉は、脳性まひ当事者の私を被害者側と同一視し、薬物依存経験者を容疑者側に同一視する世間の眼差(まなざ)しをふまえてのことだったと思う。
 大麻の使用が犯行の要因だったのではないかとか、措置入院制度見直しを巡る議論の中で、私と上岡さんたちを分断しようとする視線が作用しているのだ。」


 相模原事件では依存症者が障害者への加害者になったことによって、社会から排除されがちな者同士という立場から連帯してきた両者が、対立する意識を持ち始めたのではないかと危惧している。
 なかなか気づかれにくく、深刻な状況である。

「しかし、『その後の不自由』を読めば、依存症者の多くは、自ら暴力の被害者であることが多く、結果信頼して他者に依存できなくなるからこそ、消去法的に物質に依存するしかない状況に置かれていると分かる。
 少ない依存先という点では、健常者向けにできている社会で、家族や施設にしか頼ることのできない重度障害者と変わらない。」


 これも、依存症者の実態をふまえた指摘である。
 好きで依存症という病気になる人は誰もいない。
 そこへ追い込まれる過程と結果を見れば、差別と暴力に脅かされる者として障害者と同じだ。

「介助者もまた依存先が少ない。
『介助者たちは、どう生きていくのか』で、自らも介助者である渡邉は、孤立と過酷な労働環境の中で追い詰められていく介助労働者の姿を描いている。
 元施設職員の容疑者がどのような状況におかれていたか分からないが、安全管理目的で施設が閉鎖的になり、介助者と障害者が密室的な関係に陥ると、暴力を呼び寄せやすくなるだろう。」


 この文章には寒気がした。
 人生相談に来られる介助者の方々のお話から、現場の過酷さを多少、想像できていたからである。
 

障害の有無を越えて、『不要とされるのではないか』という不安に取りつかれた現代人は、今、岐路に立たされている。
 弱い立場にある人を、資源を奪い合う存在として排除するのか、それとも、同質の不安を抱えた仲間として支え合うのか。」


 まったく同感である。
 グローバリズムを錦の御旗とし、すべての正義をそこに収斂させようとする一握りの勢力に都合良く構築されたこの文明は、ほとんどの人々を道具とし、資本と権力をつかんでいる人間以外は、いつでも「不要とされる」存在だ。
 いいかげん、私たちは目を覚まさねばならないと思う。
 私たちは、いかなる文明にあっても、常に「公正さ」だけは等しく求めてきたのではなかったか?
 もしも人間が創る歴史に進歩というものがあるならば、その尺度は、「公正さの実現」以外のものであり得るだろうか?
 今の社会、この文明は、果たしてそのことをどれだけふまえているだろう。
 格差の拡大は、不公正さの拡大にほぼ、等しい。
 言葉を変えれば、人間を道具とみなし、その要不要を決める一部の人々と、要不要すなわち生死を他者に決められる多くの人々との距離が拡大しているのだ。
 後者こそが、「同質の不安を抱えた仲間」ではないか?

「障害者も、依存症者も、介助者も、社会の周縁に置かれた依存先の少ない密室では、暴力の加害者にも被害者にもなりうる。
 社会が一部の少数派を排除して、自らがクリーンに戻ったという幻想を抱くのではなく、まさにその排除こそが暴力を生むという事実に目を向けるべき時期だろう。
 すべての人の依存先を多く保つ社会が求められる。


 ここで言う「依存先を多く保つ社会」は、誰もが、安定した居場所を見つけられる社会である。
 私たちはそろそろ、鼻先にぶら下げられたニンジンを取り払おうではないか。
 もっと儲けよう、より大国になろう、地球上の悪者をやっつけよう、こうしたイメージよりも、格差が少なく誰もが安心して生きられる公正な社会を目ざしたい。
 そうした国家同士で真の平和を目ざしたい。
 障害者、依存症者、介助者といった方々へ心の目を向ければ、共に生きられる社会、共生社会の価値を感じられることだろう。
 今や、科学技術の最先端を行くネットワークと、生身の人間の共生が模索されている時代だ。
 人間同士の共生は、その一歩、手前の話ではないか。

 それが実現できないままに、一部の者が自分たちに都合良くネットワークを駆使する社会になってしまえば、最後は〈人間〉の反乱が歴史をガラガラポンの渦に落としてしまうかも知れない。
 10月12日午後、老朽化した東電の施設から出火し、ただちに東京都内延べ58万世帯が停電した。
 交通機関も大幅に乱れた。
 電気とネットワークに頼る私たちの文明は根本的な脆弱さを抱えている。
 そこを支えながら何とかこの社会を維持して行くためには、公正な社会における人間同士の共生と連帯が欠かせない。

 熊谷晋一郎氏の一文は深い問題意識を孕んでいる。
 偉人であると思う。




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2016
10.16

【現代の偉人伝第235話】 ─プロ野球DeNAの須田幸太投手─

2016-10-16-0001.jpg
〈朝日新聞様よりお借りして加工しました〉

2016-10-16-0002.jpg
〈Yahoo!ニュース様よりお借りして加工しました〉

 平成28年のプロ野球はいよいよ、日本一を決める決戦へコマを進められるかどうか、両リーグ共に最終場面を迎えている。
 10月14日、ここで負ければチャレンジャーの資格を失う横浜DeNAベイスターズの須田幸太投手(30才)は、ケガから復帰した最初の登板で、見事な仕事を成し遂げた。

 須田選手は、セリーグの王者広島東洋カープを相手に3点リードした8回裏、2死満塁という場面を任され、救援のマウンドに立った。
 相手は4番バッター新井貴浩選手。
 2000本安打、300本塁打を達成し、セパ両リーグの花形選手が集まるオールスター戦での打率は5割を超えている強打者だ。
 今年の打率は3割、長打率は5割に近く、ホームランが出れば逆転を許してしまう。

 肉離れからのリハビリ後、緊張した場面で最初の1球を投げた時、思った。
「力を抜いて投げることはできない。
 初球はボールになったが、あそこに投げられたのは、今後の野球人生で大きな意味を持つ」
 全力での勝負ができると感じたのである。
 そして、7球すべて直球で押し通し、カウント2ー1となった最後は外角を打たせた。
 フラフラと右翼に上がった飛球が落ちれば広島に得点を許す。
 指の骨折にもかかわらず出場していた梶谷隆幸外野手が、フェンスも恐れず猛然とダイビングし、ケガをしている左手のグラブに収めた。
 両選手の気迫は試合の帰趨を決した。

 9月24日、巨人戦で左腿に肉離れを起こし、両肩を担がれて無念の降板となって以来、再起を期し、日本一に目標を定めてきた。
「24時間、1秒も無駄にせずリハビリをやってきた」
「1秒たりとも気を抜かないでよかった。
 明日からも全力でいく」

 ラミレス監督はそれを知っていた。
「けが明けでプレッシャーのかかる場面だったが、素晴らしい仕事をした。
 あそこで打ち取るというのは本当に大きな仕事」

 監督ばかりでなく周囲の誰もが、チーム最多となる62試合に登板した貴重な中継ぎ投手である須田選手の回復ぶりを気にかけている。
 そうした中で「1秒も」無駄にせず最善を尽くしてきたと言い切る覚悟と自信は見事だ。
 だからこそ、「1秒も」気を抜けない対決を制することができたのだろう。
 プロだからと言ってしまえばそれまでだが、「言うは易(ヤス)く行うは難(カタ)し」である。
 道を究める姿勢での仕事ぶりには武者震いさせられた。
 偉人である。

 後日談となるが、翌15日、広島が8ー7の接戦を制し、チャレンジャーを争う戦いは終わった。
 梶谷隆幸選手は4点差を追う3回、意地のホームランを放ち「絶対、諦めない」と言った。
 須田幸太投手は2点差を追う6回、連日の登板にもかかわらず、3者凡退、1奪三振と、勢いに乗る広島打線を完璧に抑えた。
 日本一への夢は断たれたが、両選手の活躍はファンの脳裏に残ることだろう。




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2016
10.15

定めた道を歩むには ─死ぬまで未熟─

2016-10-13-0006.jpg

 日々、自分の〈足りなさ〉〈至らなさ〉を痛感している。
 へ、「生前にそこを埋めておきたい」と話した。
 埋める方法を相談したつもりだったが、意外な答が返ってきた。
「もう、外からとり入れる必要はない。
 今、あなたが持っているもので救われている人々がいるのだから、後は、身につけた方法をさらに錬磨し、次代へ確かに受け渡すだけでよいのではないか」

 より勝れたものをもって、より多くの人々の苦を抜き、より多くの人々へ楽を与えたいという勝義心(ショウギシン)のイメージに偏りがあった。
 自分に力が足りないのは事実だが、そこを埋める方法についての思量が足りなかった。
 中年になってから出家したこともあり、たとえば堤防工事なら、より高度な工法を会得するためにには、若くしてプロとなった人々の何倍もの努力が必要だであると覚悟し、やってきた。
 は、残された時間の少ない中で、自分にできる工法そのものの限りない高度化をはかるよりも、自分で使える工法の精度を高め、それをバトンタッチすることに優先順位をつけてはどうかと諭されたのだ。

 目が覚める思いだった。
 そう言えば、遠方に住み、遠隔加持(エンカクカジ)を受けている信徒さんから、自分で出来る祈り方を求められ、伝えた時の達成感は大きかった。
 それは、いわば自分の血肉を分け与えるに等しいが、法の血肉は分け与えても決して減らない。
 分け与える行為そのものが、法をより確かなものへと昇華させる。

 行者は何をすべきか?
 一歩、踏み出した者にとって離れようのない大問題への答は、行者自身の年齢によって変わるのだ。
 懺悔(サンゲ…自らを省みて悔い、他者と社会へ恥じる)して慈悲心を清め、精進して智慧を深めるという一本道でも、菩提心(ボダイシン…まっとうに生きる心)と勝義心(ショウギシン…無限の向上心)のはたらかせ方は違う。

 中年になってから出家し、ご加持(カジ)の法を体得してすぐに一山を開基したA氏を思い出す。
 氏は、宗派が定めた修行の段階をすべて終えたわけではない。
 しかし、実際に救われた人々の求めに応じて場を造り、身につけた修法を駆使して訪れる人々を救っている。
 一個の身体を持って生まれる人間には、手を伸ばす範囲にも、この世にいられる時間にも限りがある。
 お大様はほとんど無限とも思える修法を確立されたが、一凡人に縁となり、駆使できるものはごくごく限られている。
 それをやるしかない。

 医など科学の世界に住む方々と接していると、方法の日進月歩が実感される。
 日々、より進んだ〈救い方〉があみ出され続けている。
 しかし、宗教の世界では、応用法に工夫の余地はあっても、お大様ほどの行者が確立した手法そのものにはまったく手のつけようがないし、すべての手法を、実際に駆使できるレベルまで会得することは不可能だ。
 行者は身につけた範囲のものを磨き、必要とする方のために役立てればそれでよい。
 それが本ものであるかどうかは、自分ではわからない。
 しかし、結果は、ご本尊様と、ゆかりを求める人々が教えてくれる。

 お大様は説かれた。
「自分で功徳の力をつけ、如来様のご加持力をいただき、社会や自然や宇宙の限りないお力を受け、普く供養する心で生きるのが行者のつとめである」
 これは何も行者に限った真実ではない。
 よき願いを持つ人は誰でも、自力や他力といった固定観念を離れ、こうした気持で精進の日々を過ごせば、必ず、その目的とその人に見合った最上の結果が得られることだろう。
 結果にモノサシを当て、50点、100点と点数をつけることは無意味だ。
 その人にとってそうして過ごす以上の方法はなく、得られた結果がその人にとってそれ以上にあり得なければ、何とどう比べられようか。

 若いころはたくさん詰め込もう。
 年をとったら錬磨を深めよう。
 実に、人は死ぬまで未熟、死ぬまで勉強だ。




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2016
10.14

長寿社会を生きるには? ─襲い来る苦と、『とと姉ちゃん』の信念─

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〈『マンダラの読み方』よりお借りして加工しました〉

 日本は長寿社会になった。
 多くの人々が元気で長生きしたいと願ってきた結果なので、めでたし、めでたし、と言わねばならないのだが、実情は複雑だ。

1 長寿の現実

 いくら死にたくないと思っても必ず死なねばならない以上、叶えられない願いを保つこと自体、相も変わらず苦しみだ。
 ならば長寿は、片方で生きたいという願いをしばし叶えつつ、片方では宿命に抗う煩悶という苦を長引かせることになりはしないか?
 昔は還暦を迎えると赤いチャンチャンコを着せられ、周囲が祝い、本人はいつ、お迎えが来てもよいと満足し、達観もした。
 しかし、平均年齢が80才ともなれば、話はまったく違ってくる。
 一応の目安である〝ここまで来たのだからもう、いい〟という地点が消え、100才まで生きたいと希(ネガ)う人すら少なくはなかろう。
 また、これまで比較的少なかった苦も新たに広がりつつある。
 多くの家族にあっては、ほぼ世代順にあの世へ旅立つイメージがあろう。
 しかし、老老介護などが普通になった今は、すぐに順番が狂う。

 我が子や孫を含む、自分より若い人々との死別が起こる。
 これまでは、祖父母や両親を送れば、残るのは伴侶、兄弟、そして友人知人の死だった。
 病気や事故で子供や孫を失う場合もあるが、それは比較的少ないできごととだった。
 しかし、老老介護などすら普通になった今は、このケースが珍しくない。
 小生も、百才近くなる父から幾度か「先に死ぬなよ」と言われているが、これだけは親不孝をする可能性が捨てきれない。
 70才にもなれば、この先はもはや、ほとんど自分の努力でどうにかできる問題ではないのだ。
 忽然と去る仲間たちを見ていると、死が宿命であると痛感させられる。
 これでは長寿全体が老苦となってしまうではないか。

 しかも、戦争の影が実感される今は、万が一の際に、自分が若い人々より先に死ねるよう準備せねばならなくなった。
 無論、誰も「私は戦争をします」はと言わない。
 しかし、周辺諸国の雰囲気も、日本の雰囲気も、ほとんど臨戦態勢だ。
 現在の選挙制度が明確に「違憲状態」であるにもかかわらず、解散、解散と噂が流され、抗いようのない雰囲気の中で、あってはならないはずの違憲状態における選挙を再び行わせる可能性が高まっているのと変わらない。
 今は、本来、どうか、という視点があまりにもあいまいになってしまっている。
 
2 生きているこの世とは?

 さて私たちは、目や耳や鼻や舌や皮膚を用いて、鏡へ映すように外界そのものを把握していると思っているが、事実は違う。
 成長や生活の過程で一人一人が千差万別の〈受けとめ方〉を作り、そのはたらきによって生ずるのが外界である。
 脳科学者のヘンリー・マークラム教授によれば、私たちの外界認識を成り立たせている要素のうち、外的刺激はわずか1パーセント、99パーセントは脳内の情報処理だという。
 数千億個の脳細胞が絡み合うネットワークは、宇宙で最も複雑な構造物とされている。
 お釈迦様が「苦を脱したければ心を統御せよ」「争いをなくすには心から争いをなくせ」と説かれた意味と意義を、2500年後の私たちは科学の力を借りつつようやく理解できそうだ。

 私たちが他者と争い、戦争を行う時、決断へ至る前提条件となる〈外界の認識〉は、そのほとんどが私たち自身のありようにかかっているのなら、争いや戦争をなくすために世界中の人がまず、やらねばならないことが何であるかは明らかだ。
 拳を振り上げ「あいつのせいだ!」といきり立つ時、「あいつのせい」の99パーセントは、「あいつ」そのものでなく、そのように反応するその人の脳内反応がもたらしている。
 こうした面から眺めても、ダライ・ラマ法王やホセ・ムヒカ前大統領(ウルグアイ)のような賢者らしい落ちついた人物の少ない現状は恐ろしい。

3 情報の操作

 脳内の情報処理といえば、精神病の治療や職業訓練などで「脱感作(ダツカンサ)」という刺激に慣れる心理過程を用いる場合がある。
 たとえば潔癖症の治療として、忌避する対象へ徐々に触れさせる。
 また、医師や看護師などを目ざす学生たちは、流れる血や、死人や内臓などとの接触や、針を刺し肉を切る手順に慣れておかねば仕事にならない。
 戦場で戦わねばならない兵士たちは、責務をまっとうするため、相手を斃す訓練や、路傍で倒れている人を見捨てて進む訓練などをさせられる。
 イラク派兵が外国へ軍隊を送る糸口となり、今や、一気に数十人規模で殺されるような他国へ「国と国とが交戦しているわけではないので戦場でなく、平穏だ」という論理で自衛隊員が派遣される。
 何かと言えば街頭に物々しい迎撃ミサイルが配備され、若い女性隊員が若者を自衛隊の入隊に誘うといった光景もまた、私たちが戦争に慣れさせられる過程に相違ない。
 この手法はコマーシャルや世論操作に使われるので、自立した判断力を保つためには要注意だ。

4 とと姉ちゃんのこと

 長生きがそのまま幸せにつながらないのなら、私たちはどう生きればよいのだろうか?
 NHKの連続テレビ小説『とと姉ちゃん』のヒロイン常子は、父親の遺言を実現するために苦難を乗り越えて生き抜いた。
 心理学者佐藤隆一教授は、常子が抱いた目標を「法(ダルマ)」と説かれた。
 常子は宗教者ではなく、宗教活動に身を捧げたわけでもない。
 しかし、どんな困難にぶつかっても捨てなかった〈目標〉は、時には「視点を転回」させ、それまでとは「違う世界」へと舞台を昇華させ、若くして父親を亡くすという悲哀の体験を克服させ、「生きる意味」さえつかませた。
 この目標は、「日常的に守る規則」であり、「自分のものとして持ち続けられるもの」であり、時として、いのちさえかけられる。
 ならば、もはや動かしようのない人生上の真実すなわちダルマと言うしかない。

 私たちは自分なりのダルマを持てれば、寿命の長短や貧富などを超えた幸せや生きがいを感じつつ生きられるのでなかろうか?
 誰を送っても悲哀に負けず、自分の死を前にしてもたじろがずに済むのではなかろうか?
 また、社会的「脱感作」に流されず、ものの道理や良識や叡智に少なくとも片脚を置き、認識要素の99パーセントを占める〈自分の心のありよう〉に思いをいたしつつ、自立した心で生きられるのではなかろうか?
 漫然と長寿を生きるだけでは、いつ、経験したことのない苦悩に襲われるかわからない。
 ぜひ、ダルマを抱きつつ生き、死んで行きたいものである。
 蛇足ながら、お釈迦様の説かれた「無財の七施」は、ダルマを考える上で重要な指標であると思う。




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2016
10.13

弥勒菩薩と未来

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 み仏はどなたも独特だが、お大師様が最期にその浄土を目ざされた弥勒菩薩(ミロクボサツ)の独自性も際立っている。
 お釈迦様が入滅されてから56億7千万年後に、この世へ下生(ゲショウ)して、まだ迷っている生きとし生けるものを、6万年かけて救い尽くされるという。
 50億年と言えば、太陽の寿命に近い。
 だから、未来仏(ミライブツ)や当来仏(トウライブツ)とも称される。

 その徳を讃歎する経典にはこう説かれている。

「そもそも弥勒(ミロク)の真言は○他を縁として菩提(サトリ)への〇修行を成就(カンセイ)する願と○利他を縁とす大いなる○乘(クルマ)にこの世の人々を○乘せて生死(ショウジ)の海度す○菩薩(ボサツ)の本誓(チカイ)を表象(シメ)すなり。」


弥勒菩薩の真言は、他者を自分と差別せず、苦を抜き、楽を与えたいと思う誠心によって、まっとうな人間になろうとする自分の願いを成就させ、同時に、他者を救うための大いなる教えという乗り物に皆を乗せ、この世の苦と迷いとを脱する手助けとなる菩薩本来の誓いを示している)

 私たちは、お釈迦様が2500年前にはっきりと指摘した勘違いや迷いから抜け出られていない。
 相も変わらず自己中心的に欲を膨張させ、正しい制御法と転換法の実践に取り組んではいない。 
 資源を食い潰しつつ寿命を伸ばしはしたが、環境が破壊される中で、生きる人々は増えたので、世界的な苦の総体が減っているとは到底、思えない。
 ついには、核というモンスターを生み出し、それを世界規模で統御する手段がないという危機的状況に陥った。
 古代ギリシャでは、廷臣ダモクレスにその幸福を讃えられたディオニュシオス1世が彼を王座に座らせ、頭上に抜き身の剣を頭髪で吊し、他者からは気づかれにくい権力者の危険性を説いたが、そうした故事に学んでいると思える権力者は少ない。
 そして、私たち自身もまた、核が〈ダモクレスの剣〉であることをどれだけ認識しているか極めて憂慮すべき状態であると思う。

 日本に住む人びとが広島・長崎で惨禍を体験しただけでなく、世界を幾度も破滅させるだけの核兵器が世界中に配備され、幾度もの原発事故にもかかわらず、日本を初めとした国々が核発電に走ってなお、ダモクレスの剣を感じとれないのだろうか。
 福島第一原発はもちろん、ロシア・アメリカ・チェコなど世界中で深刻な事故が相次いでいるのに、脱原発に舵を切った国はドイツ他わずかな国々しかない。
 平成16年、美浜原子力発電所が事故を起こし、福島原発と同じ水蒸気爆発で死者5名を出したことなど、もう忘れ去られている。
 あの時は不幸中の幸いで放射能漏れには至らなかったが、もしも北方から風が吹く時期に放射能が漏れたならば、京都も名古屋も、もちろん琵琶湖もアウトとなろう。
 机上の話は別として、膨大な住民はいったい、どうやってどこへ逃げられると言うのか?
 小生は、福島原発の事故に際して、〝自分たち夫婦と父親は逃げない〟と覚悟した時の気持を忘れられない。
 恐らく、東北に住む人びとの多くは、まだ、あの時の思いを捨てないでいるはずだ。
 だからこそ、東北の人々には、広島・長崎の方々と並んで、声を挙げ続ける歴史的使命と責任があると信じている。

 お釈迦様は、弥勒菩薩の救いを説き、それを信じたお大師様はその浄土を目ざし、私たち信徒もまたその教えを信じて人類の未来を想う。
 生きものの世界がある限り、生存環境を意識的に、かつ劇的に変え得る能力を持つ人間には、生存に適した環境を保つ責任がある。
 今、生きている人間には、まっとうな環境をバトンタッチしつつ死んで行く責務がある。
 責任、責務に生きてこそ、人間は人間たり得る。
 
 弥勒菩薩もその浄土も畢竟(ヒッキョウ)、私たちの心にある。
 心を澄ませて想像し、観想し、「おん まいたれいや そわか」と真言を唱えるところに感得の機会が訪れる。

「その真言の効験(コウケン)を○ただ誠心(ヒタスラ)に信念し○弥勒菩薩(ミロクボサツの御心(ミココロ)に○帰依(キエ)し委(ユダ)ねて憑(タノ)むなら〇この尊われらにこの世での○無上の救いと利益(シアワセ)を○必ず与え給(タモ)うなり。」


 弥勒菩薩を感得し、この世に浄土を保ったままで次代へ渡せるかどうかは、私たちの一心にかかっている。




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2016
10.12

なぜ戒めを守り、生き方を戒めに一致させようとするのか? ─持戒のご利益─

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〈『マンダラの読み方』よりお借りして加工しました。供養は修行です〉

 お釈迦様は、戒律を守ることのご利益を説かれました。

1  僧侶が和合する
 一緒に修行していながら、片方では真剣に勤行を行い、片方ではダラダラ怠けているならば、同志としての信頼や親和は望めません。
 お釈迦様は、行者一人一人の自覚と共に、修行の場が和合していることを強く求められました。
 それは本来、家庭や職場でも根本中の根本ではないでしょうか。

2  僧侶を受け入れる 
 皆が真剣に勤行していてこそ、行者として加わりたい人を受け入れられます。
 加わる先の人々がお手本にならないなら、そのグループは、やる気のある人に大切なものを与えられません。
 本性を隠してはびこるブラック企業、ブラックバイトのような不誠実は許されません。 

3  悪人を調伏(チョウブク)できる
 自分を律し、自分を放恣(ホウシ)にしていなければこそ、他者の悪しきところを取り除けます。
 仏法における調伏は、悪人をやっつけたり、あるいは相手を説き伏せ、仲間に引き入れることではありません。
 太陽の暖かさが、旅人の羽織っているマントを脱がせるような、感化作用によって仏心を開花させることが真の調伏です。

4  慚愧(ザンキ)する者を安楽にさせる
 自分の罪科を悔い改めようとしている人へ本当の安楽を与えられるのは、先に過ちの川を渡った対岸にいる人です。
 自分の悪行に打ちのめされている人に、同じく悔いている人が手を差し伸べ、苦悩を和らげることはできます。
 しかし、流される人を安楽なところまで導くのは、崩れぬ対岸にいて丈夫なロープを投げ入れられる人の役割です。

5  現世の煩悶(ハンモン)をなくす
 人としての戒めが自然に生きられていれば、ままならぬことがあっても、煩わされ、悶えて悩まず、淡々と対処できます。
 この世にいる限り、病気であれ、老いであれ、裏切りであれ、争いであれ、ままならないという苦は逃れられません。
 しかし、戒めを生きていればもう、それ以外の生きようはないので、たとえままならないできごとにぶつかっても、その事態が生き方を迷わせるほどの苦しみにはなりません。

6  未来の煩悶をなくす 
 この世で戒めが生きざまとなれば、悪業(アクゴウ)を積むことなく、来世に悪果(アクカ)をもたらしはしません。
 因果応報は厳粛な真理であり、私たちが因と果の糸を見つけられようと見つけられまいと、その二つは切り離せません。
 戒めを守ることにより、この世で煩悶もたらす悪行(アクギョウ)を行わず、その結果として起こる煩悶を克服すれば、煩悶を起こす因は消え、来世に煩悶が生ずるはずはありません。

7  信じない者を信じさせる
 仏法を生きる方法は戒めを守り、戒めが生き方そのものになることであり、そうして生きている人のみが誰かを仏法へ導き入れられます。
 千万の言葉で仏法を説くよりも、仏法に生きている姿を見せる方が大きな説得力となります。
 私たちは、ごく普通の日常生活にあっても、善きにつけ、悪しきにつけ、人と接し感化されるではありませんか。

8  自分が信じるところを前進させる 
 何ごとも精進(ショウジン)なくしては実現できず、戒めが血肉となれば、精進して生きる他の生きようはないので、必ず、仏道をより先へ歩めます。
 私たちは常に、何かをやりながら生きる生きものであり、何をどうやるかが人生を紡ぐということです。
 戒めを守るならば、その人の人生はそのように紡がれており、それは同時に、選んだ道を前進していることに他なりません。

9  仏法にずっと止まらせる
 戒めを守らずして仏法を生きることは不可能です。
 お釈迦様が持戒のご利益をはっきりと説かれた原因は、ある行者が淫欲に負け、娑婆へ戻ったというできごとにあります。
 戒律の「戒」は個人的な一心内の戒め、「律」はグループ内の決まり、この二つに背けば、そのグループでは生きられません。

10 清浄心にずっと止まらせる
 世間的な価値を求めず、仏界を目ざす清浄な心は、戒めにそった生き方でなければ保てません。
 仏法によって人々の悩みや苦しみを解消する手助けとなりたい場合、世間的に価値があるとされているモノやお金や立場や名誉が役立つ場合はあります。
 たとえそうしたものを利用する場合でも、それらを正しく〈手段〉とし、それらに流されないかどうかは持戒にかかっており、こうしたポイントは、政務活動費問題などにおいても、重要であると思われます。




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「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2016
10.11

ヒラリー氏とトランプ氏に思う ─溜飲を下げるか、寛容になるか─

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〈かつて、米英仏ソを始め、主要国のほとんどが「戦争抛棄ニ関スル条約」を結びました〉

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〈ウィキペディア様よりお借りして加工しました。グレー以外は批准国です〉

 アメリカ大統領選挙の候補者が2回目の討論会に臨んだ。
 スネの傷を抱えた2人は、自分の傷を庇いつつ、相手の傷を攻撃するという姿勢をとった。
 両陣営共に、自分の支持率を上げるよりもむしろ、相手の支持率を落とす作戦に出ている印象だ。

 貶し合う2人に対して、聴衆から質問が出された。
「お互いの尊敬できるところを挙げてください」
 ヒラリー氏はトランプ氏の子供たちがすばらしいのは父親の人となりを示していると言い、トランプ氏はそのことに感謝しつつ、ヒラリー氏は判断力に問題はあっても、諦めないファイターだと讃えたが、これは答になっているのだろうか?

 それにしても、いかに個人の人気が勝負の帰趨(キスウ)を決めるとはいえ、候補者は政党の代表である。
 政党は単なる権力団体ではない。
 だから、候補者は、政党が知的政策集団としていかに国家を動かして行こうとしているか、その道筋を示す責任者である。

 また、よく知られたように、アメリカの大統領は、いつでもどこでも核攻撃に許可を出せる「核のフットボール」を持ち歩く。
 人類が持つ最高度の兵器で敵国を叩くだけでなく、用い方によっては地球全体を破滅させることすら簡単にできるであろうたった1人の権力者である。
 だから、その人格・識見も最高度であることが求められる。

 2人はアメリカ国民からどう判断されるだろう?

 さて、暴言を吐き続けるフィリピンのドゥテルテ大統領や、北朝鮮の国営テレビはさておき、世界中の指導者たちがこうも刺々しく、不寛容さをむき出しにしている現状は何を意味しているのだろう?
 思えば、第一次世界大戦で史上類を見ない惨禍を味わった国々は昭和3年(1928年)「パリ不戦条約」を締結した。
 日本も翌年、批准している。
 日本国憲法第9条のモデルとなったとされる第一条と第二条は以下のとおりである。

「第1条 締約国は、国際紛争解決のために戦争に訴えることを非難し、かつ、その相互の関係において国家政策の手段として戦争を放棄することを、その各々の人民の名において厳粛に宣言する。
 第2条 締約国は、相互間に発生する紛争又は衝突の処理又は解決を、その性質または原因の如何を問わず、平和的手段以外で求めないことを約束する。」


 それから半世紀も経たぬうちに世界中で拳が振り上げられ、さらに大規模な世界戦争が勃発した。
 
 戦争は、究極の不寛容が引き起こすのではなかろうか?
 戦争の最後の歯止めは、胆力の伴う寛容ではなかろうか?
 無論、許せば、耐えれば、必ず相手が刃を引くわけではないとしても、不戦の可能性を最後まで絞りきることはできる。

 しかし、往々にして、私たちは混乱にぶつかると自分にわかりやすいモノサシを持ち出し、早く決着をつけたくなる。
 溜飲を下げて気持良くなりたい。
 しかし、ここに落とし穴がある。
 それは、目先の結果しか見なくなる怖れがあるからだ。

 嫌な奴は殴り倒せば決着がついたと思うかも知れないが、返り血を浴びたり反撃されたりするだけでなく、深い禍根を残す可能性が高い。
 一方、嫌な相手に対してガマンし、時を経て平穏な人間関係に至れば、外見上は何もしなかったかのようであるが、殴る行為に走ることと比較して何倍もの智慧と忍耐と寛容とが総動員されているのだ。
 真の指導者とはそれができる人物でなければならないし、政治の世界にそれを求めるならば、私たち自身がそのような価値判断をする人間にならねばならないと思う。
 もしも、私たちが〈殴りたい人〉になるならば、そうした感性によって選ばれた人物が国家社会を動かし、最後には国家的殴り合いをしないとも限らない。
 その時、私たちは目先の溜飲を下げる一時的快感の何万倍もにあたる苦しみを味わうことになるだろう。

 アメリカ大統領選挙に学ぶところ大なるものがある。




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





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2016
10.10

埋骨の場をどう考えるか? ─人間は「死者守動物」─

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ウナムーノ

 ある時、はたらきざかりのご主人を失ったAさんが、おを建てた。
 家族のため懸命にはたらき、寸暇を惜しんでは家族を自然の中へ連れて行き、生活の中にも自然の気配や香りを取り込もうとしていたご主人のために、姿を整えられた石造ではあるが、石が持つ自然性も残したおである。
 できあがりを見て、そのことを指摘したらAさんは目を輝かせ、短く答えた。
「私には譲れなかったんです」
 誰に対して何を譲れず、何を現出させたのか?
 詳しくは語らなかったが、言わんとすることは十二分に伝わってきた。

 秋晴れかと思うと、すぐに雨模様となり、寒さも伴うこの時期は、お納骨や、お開眼供養を行うその時まで天候が気になる。
 雨風の中で修法すること自体は慣れているのでほとんど苦にならないが、参列される方々の中におられるご年配の方が健康を崩されはしまいかと気づかってしまう。
 だから、修法できる条件で始められると、「天気がもってくれてよかったですね」あるいは「いいお天気で何よりでしたね」が最初に交わす言葉となる。
 その日もそうだった。
 ただし、修法後のひとことを、皆さんはいつも以上に強いまなざしで受けとめてくださった。
「お骨を納め、手を合わせる場は、ご一家、ご一族にとって、仏神に守られた聖地です。
 ずっと、大切にお守りください」
 スペイン出身の哲学者ミゲル・デ・ウナムーノの言葉を思い出した。

「私は死なねばならないという考えと、その後には何があるのかという謎、それは、私の意識の鼓動そのものなのだ」(以下、『生の悲劇的感情』より)

「人間を他の動物と最も明確に区別するものは、人間は何らかの形で死者を保管し、万物を生み出す母なる大地の恣意にまかせるようなないがしろな態度は決してとらないということであるといえよう。
 つまり、人間は、死者守(モリ)動物なのである。

「生きている者のために、不順な天候が破壊してしまうような土の家や藁小屋しか作らなかった時代に、死者たちのためにはすでに墳が建造されていた。
 石は、住居よりも以前に、のために用いられたのである。

「これは病気であろうか。
 そうかも知れない。
 しかし、病気を気にしない者は、健康をも軽んずる。
 そして人間は、本質的、実体的に病める動物なのである。」

「しかし、その病気はまた、力強いすべての健康の源泉でもあるのだ。


 こうした真実を告げる言葉に解釈は不要だろう。
 参列された皆さんが、涙を浮かべつつ見開いていた瞳には、確かに、まぎれもなく〈健康〉な、澄んで〈力強い〉光が感じられた。

 何も、個別のおを建てることだけを称賛しているのではない。
 送り、納める方法を考えに考え、決心し、埋骨の場に最大の畏敬の念を保ち続けること。
 それこそ、人間が、ウナムーノの言う「死者守動物」である真姿に生きる道ではなかろうか。
 今日もまた、人生相談の方々と、〈病める動物〉同士の対話を行う。
 そこに真実が顕れることを願いながら。




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2016
10.09

寺子屋での法話と対話 ─心のゆとり・死刑廃止・入我我入・ご加持など─

2016-10-08-0010.jpg
入我我入のイメージ(『マンダラの読み方』よりお借りして加工しました)〉

2016-10-08-0011.jpg
〈ご加持のイメージ(『マンダラの読み方』よりお借りして加工しました)〉

1 心のゆとり

 今回の寺子屋では、主たるテーマとして、「優雅さ」「心のゆとり」について皆さんと共に考えました。
 それらは、家族など、親しい間柄を円滑に保つための秘訣です。
 できごとと守本尊様の関係などについてもお話ししました。

2 世の中のできごと

 最近、全国で問題が続出している政務活動費についての話題も出ました。
 もちろん、基本的には政治家本人の規範意識の問題でしょうが、議員同士であれ、役所の職員がからんだ場合であれ、ある程度、馴れ合った人間関係の中で、「正しさ」という面の弛みが引き起こした状況だからです。
 活発なやりとりがあり、皆さんの関心の高さが窺えました。

 10月7日に日弁連が初めて死刑廃止の宣言を行ったことも話題になりました。
 出席者の多数決によって「2020年までに死刑制度の廃止を目指し、代わりに終身刑などの導入を検討する」としましたが、宣言に反対する人々もいて、全会一致には至りませんでした。

 寺子屋に参加したAさんのご意見です。
「もしも、死刑囚のような凶悪犯が社会復帰したならば、急に、まっとうな人として生きて行けるでしょうか?
 第二・第三の事件を引き起こす可能性があまりにも高くはないでしょうか?
 また、犯した罪の意識は時が経つと共に薄れ、社会復帰したならば、少なくとも心に抱くものは軽くなって行くことでしょう。
 それに比べ、被害者のご遺族は、悲しみや苦しみや憎しみが固まることはあっても、それほど薄れて行くとは思えません。
 もしも、死刑の廃止によって加害者の心が楽になり、被害者の心がが重くなる傾向を助長するならば、不平等であると思います。」

 同じくBさんのご意見です。
「人間としてやってはならない一線を越えた時に死刑が待っていることは、少なからぬ抑止力になっているはずです。
 それが外されたならば、中高生ですらあまりにも簡単に人を殺してしまうような状況は必ず、悪化すると思います。
 また、死刑にならないことを悪用して、いずれ社会復帰できるのだからやってしまえ、と策謀をめぐらす者もあるでしょう。
 そして、麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚がいまだに生きていることに象徴されるとおり、国家の判断で死刑になるべき者が一日一日と生きているために、国民の税金がつぎ込まれている実態は納得できないものがあります。
 これはあまり言うべきことではないでしょうが、死刑囚の近親者の中には、決まった以上、死刑になって早く一件落着となって欲しい人も少なからずいるのではないでしょうか。
 被害者の周囲の人々が第二の被害者であるのと同じように、加害者の周囲の人々もまた、第二の被害者なのです。
 死刑が廃止されれば、事件に巻き込まれてしまった人々の〈事実上、被害者であるという立場や意識〉を引き伸ばしてしまわないかと恐れます。」

 お二人のご意見には、国内世論に通じるものがあります。 
 日本では、アンケートをとると、いつも8割前後の方々が死刑制度の存続を望んでいます。
 一方、世界中で死刑廃止が加速しており、昨年、死刑を執行した国は、日本を含めてわずか25ヶ国しかありません。
 中でも、経済協力開発機構(OECD)に加盟している35ヶ国のうち、通常犯罪について死刑制度があるのは日本、アメリカ、韓国だけです。
 韓国ではここ20年、死刑は執行されていません。
 先進各国の人々と私たち日本人との間で、死刑制度に関する意識が大きく異なっているのはなぜか、よく考えてみたいものです。

3 救われる道筋

 私たちは清浄で温かな仏心(ブッシン)を持っているのに、我執(ガシュウ)という覆いがかかり、それをうまくはたらかせられないで苦しみます。
 しかし、覆いのないみ仏をイメージしたり、感得したりすることはできます。
 聖なるイメージと自分との距離を縮めるのが仏道の修行であり、それは、日常生活の中でも、お線香を立てたり、お水を供えたりする供養によって行われます。
 お線香の煙を見ながら〝私も自分を燃やし切るお線香のように精進します〟と誓い、実践すれば、一歩、〈生き仏〉に近づきます。
 特定の修行によってそれを体得するのが「入我我入(ニュウガガニュウ)」です。
 定められたお次第を進めて行くと、次第にみ仏が行者へ入り込み、行者もまた、み仏へ入り込み、最終的には一体化して即身成仏(ソクシンジョウブツ)が完成します。
 ここまで行くのは、誰でもが簡単にできることではありません。
 だから、ご加持(カジ)という間接的な方法があります。

 心身のエネルギーを回復したいなどの願いを持っても、直接、み仏に成ろうとするやり方は難しいので、行者が間に入って受者とみ仏のパイプをつなぐのです。
 行者がアンテナとなり、み仏のお力が救いを求める方へ流れ込むよう、法を結びます。
 それは、月影が水に映り、それを眺めて心が涼やかで穏やかになるようなものです。
 晴れた日ならば、誰でもが空を見上げ、名月を楽しめますが、曇りや雨や雪の日は、そうはゆきません。
 そして、私たちは心が荒れた日ほど、満月の救いが必要です。

 ご本尊様の前ですなおな心になり、問題を解決するためにお力をいただきたいと願えば、誰でもがご加持を受けられます。
 困った時の神頼みでよいのです。
 み仏は私たちの霊性における父母であり、究極の場面で「お母さん!」と叫ぶように、赤児としておすがりできないはずはありません。
 ──入我我入(ニュウガガニュウ)とご加持(カジ)。
 行者は前者によって救われ、受者は後者によって救われます。
 お大師様が私たちへ伝えてくださった法により、共に救われようではありませんか。




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2016
10.08

罪と不動明王

2016-10-08-0002.jpg
 
 お不動様の経典には、こう説かれています。

「我が身を見る者は、菩提心(ボダイシン)を起こさん。
 我が名を聞く者は、惑を断じて善を修せん。
 我が説を聴く者は、大智慧を得ん。
 我が心を知る者は、即身成仏(ソクシンジョウブツ)せん。」


 お不動様のお姿を見れば、まっとうに生きようという気持が起こります。
 ご尊名を聞けば、迷いを断ち、善く生きねばならないと思います。
 経文を学べば、大いなる智慧が得られます。
 お心を知れば、この身このままで、本来み仏である真姿に生まれ変われます。

 最後の一行だけは、体験上の確信を持つに至っていませんが、上の三行は、深く納得できます。
 自分の人生を振り返り、生き方を根本から考え、死なねばならないことを深く自覚しながらも死に行く道筋が見えず、途方に暮れた一人の赤児となってお不動様の前に座る時、まっとうに生きるという一筋の道が心中に開けてきます。
 そうした心になれば、善悪を言挙げせずとも、良心仏心に従って善く生きないではいられなくなります。
 至心に経文や真言を読誦し、自分の頭で考えれば、一語一句の意味を知るというよりは、お不動様が〈言わんとしているところ〉がわかり、世間的にうまくやるという世界ではなく、人間として迷わずに済む方策が生まれます。
 これだけは、一行者として言えます。
 お不動様が根本仏大日如来の使者とされていることは真実です。
 

「無始(ムシ)よりこのかたの無量の罪、今世(コンセイ)犯すところの極重(ゴクジュウ)の罪、日々夜々(ニチニチヤヤ)に作るところの罪、念々歩々(ネンネンブブ)に起こすところの罪、真言の威力をもって皆消滅す」


(無限の過去より積み重ねてきた計り知れないほどの罪、意識するとしないとにかかわらず生まれてこのかた犯してした重く重い罪、日夜、生きることに伴う罪、思っても歩いても常に犯してしまう罪たち、それらをすべて、真言の威力で消滅させよう)

 自分の罪を自覚する者としては、「南無転迷開悟不動明王」「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」と唱えないではいられません。




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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y





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2016
10.07

ご供養とご加持 ─朝のひととき─

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 早朝、壇上で結界を張ろうとすると、真っ暗なのに「キーッ」と鳥の声がし、〝そうか〟と思った。
 法によって天井となる金剛網の高さをぐっと伸ばす。
 彼も法内に入れた。
 結界のできあがりを待っていたかのように、一陣の風が堂外を吹き抜ける。
 秋なのにもう、冬の硬さを含んでいる。

 7日を月忌命日(ガッキメイニチ)とする方は11名、祥月命日(ショウツキメイニチ)の方は1名である。
 ご冥福を念じ、光明真言法を結ぶ。

 さまざまな願いがかけられており、5種の遠隔加持法を修する。
 能力開発、商売繁盛などを願い、精進している方々のためには「増」の法で後押しする。
 人間関係の深化や良化などを願い、精進している方々のためには「合」の法で邪魔ものを祓い、良縁を固める。
 過ちを悔いて悪因縁の解消を願い、精進している方々のためには「滅」の法で清め、前方に光を招く。
 病気にならぬよう、病気から回復できるよう願い、精進している方々のためには「封」の法で病魔を抑え、本来の力が出せるよう活性化する。
 悪意あるものなどに悩みつつ、精進している方々のためには「止」の法で足止めし、善行を妨げる軛(クビキ)や足枷(アシカセ)から解放する。

 結界を解き、内陣から出ても〈霊体〉そのものになったような感覚は残っているので、すぐにはトントンと歩けない。
 蓮華の花によって作られた座に一歩、一歩を乗せつつ歩むイメージの作法から抜け出なければならない。
 もう還暦はとっくに過ぎたはずのクロが「ニャー」と小さく挨拶しながらゆっくり迎えに来る。

 今日も、人生相談や開眼供養やお納骨が待っている。
 ご本尊様のご加護と、善男善女のご誠心のおかげをいただき、しっかり務め終えたい。




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2016
10.06

漢文『法句経』を読んでみる(その9) ─正しい信じ方は?─

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 前回にひき続き、今回も『法句経(ホックキョウ)』の「篤信品(トクシンボン)第四」を最後まで意訳してみましょう。

〔八二〕賢夫(ケンプ)に習(シュウ)し、智あるに習(シュウ)せよ。清流を楽仰(ギョウゴウ)して、善(ヨ)く水を取るが如(ゴト)し。思い冷たくして擾(ミダ)れず。


仏弟子に慣れ親しみ、智慧ある人とつきあうべし。清流を尊び、求め、よい水が得られるように、煩悩が燃え上がらず、心は澄み、乱れなくなる)

〔八三〕信(しん)あるは他(た)を染(そ)めず、唯(た)だ賢(けん)と仁(じん)のみ。可好(かこう)は則(すなわ)ち学(まな)び、非好(ひこう)は則(すなわ)ち遠(とお)ざく。


仏道を信じている人は他者の心を悪しく染めない。智慧と慈悲ある人のみが善く染める。仏道修行にとって好ましい人には学び、好ましくない人は遠ざけねばならない)

〔八四〕信(しん)を我(わ)が輿(こし)と為(な)せば、我(わ)が載(さい)を知(し)ること莫(な)し。大象(ダイぞう)の調(ちょう)するが如(ごと)く、自(みずか)ら調(ちょう)するは最勝(さいしょう)なり。


仏道を人生の乗り物とすれば、自分の我欲が行き先をあれこれと迷うことはなくなる。優れた象がすぐに調教に馴染み、手をかけさせないのと同じく、自分を仏道によって調御するのは最もよい方法である)

〔八五〕信(しん)も財(ざい)、戒(かい)も財(ざい)、慚(ざん)と愧(き)も亦(ま)た財(ざい)、聞(もん)も財(ざい)、施(せ)も財(ざい)、慧(え)とを七(しち)の財(ざい)と為(な)す。


信仰も、持戒も、自分で罪を恥じることも、告白して罪を恥じることも、仏法を聞くことも、布施も、智慧も、篤く信じることによって得られる財物である)

〔八六〕信(しん)に従(したが)い戒(かい)を守(まも)り、常(つね)に浄(きよ)く法(ほう)を観(かん)じ、慧(え)もて利行(りぎょう)して、奉敬(ほうけい)して忘(わす)れず。


(信じるところに従って戒律を守り、いつも清浄な心で真理を見すえ、智慧によって自他のために仏道を生かし、仏法を敬い尊んで心から離さない)

〔八七〕生(う)まれて此(こ)の財(ざい)有(あ)り、男女(なんにょ)を問(と)わず、終(つい)に以(もっ)て貧(ひん)ならず、賢者(けんじゃ)は真(しん)を識(し)る。


(人は生まれながらにして、篤く信じることによって生ずるこのような財物を持っており、男女を問わず、心は貧しくない。賢者はその真実を知る者である)

 仏道を信じることの意義や価値がくわしく説かれています。
 教えは学ばないと知り得ませんが、知っただけでは人生を動かしません。
 そこにある真理や真実に心を打たれ、納得したならば、それまでの自分を引っぱり、後押ししてきた「我(ガ)」を導き手とし続けるのではなく、真理や真実にこそ、生き方を合わせて進みたいものです。
 人格の陶冶(トウヤ)も、人生の向上もそこで行われ、決して減らず壊れない真の宝ものが生まれます。

 最後の教えは、私たちが生まれながらにして仏法を実現する力に恵まれていると説いています。
 そのことを知り、真理・真実に自分を合わせることによって力を発揮し、仏法に生きるのが賢者です。
 精進しない賢者はあり得ません。
 自力も他力も論(アゲツラ)う必要はなく、生まれ持った尊い種があることに気づき、智慧による水や養分や日光や温度を与え、花を咲かせるのみです。
 仏性を持たない人はなく、精進なくして得られる成果もまた、ないのです。
 お釈迦様は、生きながらにして、本来のみ仏と成ることの大切さを説かれました。
 智慧によってそれを知ったならば、精進によって結果を出すのみです。

 どう精進すればよいか?
 それを探求し続けたのが仏教の歴史であると言えます。
 縁となった教えについて、自分の頭で咀嚼(ソシャク)し、道理であると確信できたならば、黙々とやってみましょう。
 ただし、常に自分を省みて、未熟さや不明を恥じる姿勢は決して失わないようにしたいものです。
 さもないと、思考停止に陥ったり、頑なになったり、たやすく他者を誹謗したりといった悪弊に陥ります。
 だから、お釈迦様は、「川を渡る時にはいかに大切だった筏(イカダ)であろうと、対岸に着いたならば岸辺へ置き、その後は自分の足という別な道具によって先を目ざさねばならない」と説かれました。
 ある筏のみが頼りであると執着した途端、〈その先〉は望めないことでしょう。

 精進し、我執(ガシュウ)を離れ、他者の苦しみに目を背けず、他者のためになる。
 仏教はそうした柔軟で、包容力のある道を示しています。 




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2016
10.05

終括と樹木葬のことなど

2016-10-05-00101.jpg
〈今を盛りのコスモス(無料壁紙をお借りして加工しました)〉

 10月6日(木)午前10時30分より、ベルコ泉ビル様(仙台市泉区泉中央1丁目12−6 電話:022-374-4440)にて、終括樹木葬などについて法話を行います。
 どうぞお気軽におでかけください。




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2016
10.05

ゆとりある心のつくり方 ─第七十九回寺子屋『法楽館』について─

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〈おかげさまにて、栗原市一迫別院は無事、スタートしました〉

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〈地域の方々がおおぜい、徒歩や自転車や車で例祭にご参加くださり、感激しました〉

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〈地域の無事と発展を皆さんと共に祈りました〉

 第七十九回寺子屋法楽館』では、「ゆとりあるのつくり方」と題して、法話と対話を行います。

1 親しい間柄での構え

 私たちは、に優しさ、厳しさ、正しさ、優雅さ、尊さを持って生きれば、円満な人格となり、自分が無事安に暮らせるだけでなく、他者を傷つけずに生きられます。
 優しさと言っても、自分に優しいのではなく、他者へこそ優しくせねばなりません。
 自分に対しては厳しくする姿勢を持ってこそ、人格は陶冶(トウヤ)されます。
 9月にはこうした優しさについてお話をしたので、今月は優雅さに関するお話をしましょう。

 優雅さは、家族や友人など、親しい人間関係においてこそ保ちたい徳です。
 もしも家庭内で正しさを重視し過ぎれば、身に弛緩する余裕がなく、疲れ、苛立ち、反発が芽生え、人間関係を損なう頑(カタク)なさや、あるいは投げやりな態度が生じるかも知れません。

 優雅さゆとり和やかさといったをつくるには、5つのポイントがあります。

○他者の徳をすなおに認め、尊敬すること。

 常に自分を高いところへ置き、他者にその人なりの価値を見出せず、欠点ばかりを論(アゲツラ)ってはなりません。
 それでは他者を遠ざけ、心を閉じさせます。

○他者の善行をすなおに讃えること。

 自分の善行は見せびらかし、賞めてもらいたいのに、他者の善行を見ると、嫉妬して貶(ケナ)したり、無視したりする気持になりませんか。
 これではせっかくの善行が、形だけの欺瞞になり、認めてもらえないばかりか、心の浅さが見透かされます。

○他者の善行に何らかの形で参加すること。

 他者の尊い生きざまに心が揺すぶられても、傍観者でいるだけでは、自分の生き方が向上しません。
 たとえば、自分が同様の行動をとることは無理であっても、その素晴らしさを心から誰かに語るだけでも、自分なりの参加になり、自分も知らぬ間に一歩、前へ進んでいます。

向上心を保つこと。

 いのちは常に意欲と共にあり、意欲が我欲(ガヨク)の色合いを強めれば、煩悩(ボンノウ)という自他を苦しめる魔ものになります。
 しかし、探求心などの形で活き活きする意欲は、大隅良典栄・東京工業大誉教授(71才)のノーベル生理学・医学賞にも結びつきます。

○まっとうに生きるという意識を捨てないこと。

 今の時代は、誰でもが〈自分らしく〉生きようと頑張っていますが、その固定観念にとらわれれば、一歩まちがっただけで、〈気ままが一番〉というお釈迦様が最も誡(イマシ)めた方向へ行きかねません。
 ケダモノでなく人間として生きる以上、まっとうであればこそ、それぞれの人となりがそれぞれに生かし合えるこの世になるのではないでしょうか。

2 生じたへの対処法

 私たちの人生は、原因と結果の連続で成り立っています。
 まず、仮のがやってきます。
 たとえば、素敵な異姓との出会いです。
 結婚したいと望むならば、実際に結婚できた時こそ、が実体化したことになります。
 また、どうしてもウマの合わない同僚ができたとします。
 それは何かに通じる仮のかも知れません。
 もしも殴り合いになり、職場にいられなくなったならば、が実体化したことになります。

 このように良きも、悪しき縁も、仮のものとして生じ、やがては実のものとなります。
 望む縁ならば順調に育て、望まぬ縁ならば、早めに対処しておきたいものです。
 そうしたケースバイケースの対処法にもまた、正しさ、優雅さ、優しさ、厳しさなどのポイントがあります。
 こうしたものをつかんでおけば、いかなる状況でも〈ゆとりある心〉を失わずに生きられることでしょう。

3 イメージと向上

 私たちはまぎれもなく、1人残らず〈み仏の子〉ですが、自分自身を省み、よりよく生きるイメージを持ってこそ、その本姿で生きられます。
 よきイメージがなければ、お釈迦様が指摘したとおり、そうは意図しなくても誰かを傷つけ、自分も傷つけられながら過ごすしかなくなります。
 原因のない結果はありません。
 だから、家族や友人といった親しい人間関係が和やかに保たれるためには、上記のような意識が求められます。
 いじめ、虐待、殺人、自殺といったできごとが、親しいはずだった人間関係の中で日々、生じていることは、親しい間柄であっても〈気ままが一番〉ではないことを証明しています。
 個人主義の時代になった以上、放っておいても、家庭や地域や学校や会社がいつの間にか肝腎なことを教え、身につけさせてくれるわけではありません。

 鎌倉時代の明恵上人(ミョウエショウニン)は「あるべきよう」を生涯、求め続けました。
 江戸時代の慈雲尊者(ジウンソンジャ)も「人となる道」を生涯、説き続けました。
 私たちは、〈あるべき〉イメージをつくり、自他への問題意識を持ち続けることによってこそ、〈人となり〉つつ生涯をまっとうできるのではないでしょうか?
 親しい間柄なればこそ、私たちは試行錯誤しつつ存分にその訓練ができます。
 
 共に、優雅さゆとり和やかさ、そして縁というものを考えようではありませんか。
 寺子屋は10月8日、午後2時から当山で行います。
 イズミテイ21前から送迎車も出ますので、前日午後5時までにご遠慮なくお申し込みください。(022-346-2106)




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2016
10.04

マンダラの鬼たち ─み仏以外のものたちに学ぶ─

2016-10-02-00082.jpg

 10月2日に書いた「背き合いとマンダラ」についてご質問がありました。

「とても見るに耐えない画ですが、なぜ、これが修行に用いられるのですか?」

 疑問は当然です。
 では、図にある13人について詳しく見てみましょう。
 誰であるかは以下のとおりです。

・左上の一人…奪一切人命(ダツイッサイニンミョウ)
  閻魔天(エンマテン)に属し、すべての人々のいのちを奪う死に神。

 右手に持っているのは皮袋、左手には菩薩(ボサツ)のように花を持っています。
 生まれた私たちは死にたくありませんが、授かったいのちは必ずお返しせねばなりません。
 新たないのちが生まれ、育つために。
 東北を考え続けている山内明美氏は著書『こども東北学』の最後で、詩人谷川俊太郎氏からの質問「死んだらどこへ行きますか?」に、こう答えておられます。

「んだなぁ。
 どごさ行ぐのがなぁ。
 ふわふわどごさが飛んでいぐんだいが?
 土の中でねぇが?
 花の養分さでもなるんでねぇが?」

 生は時間の流れに生じ、流れは死も招きますが、いのちそのものは無になるのではなく、生から死へと姿を変えるのみであり、死はやがて生をもたらします。
 花は散っても、花びらは養分となり、生の準備をするのです。
 当山が造りつつある「お遍路道場」も土造りから始め、新たないのちと心の世界を招こうとしています。

 いのちを奪う奪一切人命がなぜ、惨たらしい姿でないか?
 その理由がわかります。

・その他の8人…毘舎遮(ビシャシャ)
  餓鬼
  人肉を喰い、血をすすって飢えを凌ぐ。
  自分が喰い、飲むことにしか関心を持てず、同類なのに会話はできない。

 彼らは人を喰う鬼たちです。
 何とも哀れな姿で人肉を喰い、血をすすっていますが、一緒にいても決して目を合わせてはいません。
 自分の食欲が生存の全てであり、他者は目に入らないのです。
 彼らの表情を眺めていると、私たちが本当に飢えた時の様子が想像され、ブルッとなります。
 また、我がことしか考えない利己主義者たちの顔も想像され、貧富を問わず、〈奪う手〉を伸ばす者の浅ましさに目を背けたくなります。
 獲物がなくて焦る者にはもちろん、両手に食べものと飲みものを持った者にも、深い感謝や溢れる喜びは一欠片もありません。
 心に真の満足がないからでしょう。

 私たちもまた、我欲に追われている時は、自分で気づこうと気づくまいと、表面の顔の下にはこうした表情が現れているはずです。
 我が身を振り返ると同時に、戦争や飢饉によって食べられず、飲めず、奪うか死ぬかの瀬戸際に立たされている人々の境遇にも思いを致したいものです。
 
・その下の3人…荼吉尼(ダキニ)
  大黒天に属し、人の死を半年前に知り、心臓を奪って喰う。
  仏法に接して悔悛しながらも、喰わねばならぬ境遇を哀れんだみ仏のお慈悲により、死人の人肉を喰うことは許された。
  屍体を暴悪な羅刹(ラセツ)から守るための真言も授かった。

 この世でも、あの手この手で、死へ向かっている人々に近づき、その命綱を奪おうとする人々がいます。
 毘舎遮と違い、明らかに肥えているにもかかわらず、毘舎遮の持たない武器を持ち、まるで宴会をやっているような風情です。
 自分が生きるための範囲なら死人を喰うことを許されてはいますが、食べものはいつ、凶暴な羅刹などに奪われるかわかりません。
 まるで、オレオレ詐欺や悪徳商法を行う人々が暴力団などに狙われつつ、悪しき方法で奪った戦利品を誇り、ひとときの宴会をやっているようではありませんか? 

・一番下に横たわる人…死鬼
  亡者

 自分の死を理解し、観念しています。
 あとは屍体を何ものかに喰われようが、喰われまいが、そのことについては放念しているように見えます。
 諦念に導かれてあの世での旅を行けばきっと、み仏の世界へ溶け込めることでしょう。

 しかし、何かのきっかけでこの世へ怨みなどを残せば、文字どおりの鬼として悪しき影響力を持たないとも限りません。
 たとえば、自分の死後に備えて準備した葬儀代やお布施が誰かに流用され、望んだ旅立ちができなかったならば、どうでしょうか?
 亡くなった人が成仏できるかどうか、それは旅立つ人の心一つではありますが、送る人が当人の心をどう考え、何を行うかもまことに重大です。
 しかも、そうした人生上の重大場面でいかなる行動をとったかは、送る人のその後の人生に大きな影響を及ぼすことでしょう。
 私たちは、死鬼の表情を眺め、送られる心、送る心を考えたいものです。




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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2016
10.03

根というもの ─『こども東北学』を読んで─

2016-10-3-0001.jpg

 久方ぶりに「根無し草」という言葉に出会った。
 大正大学の山内明美准教授が平成23年11月に発行した『こども東北学』である。

「故郷から離別する者たちはみな、『根無し草』になる。
 跡取り娘は例外だけど、あるいは村の内部に嫁ぐのでなければ、必然的に村育ちの女の子のたどる道。」

 氏は「自由な生き方を許してはくれない故郷へのやりきれない気持ちと、そこで育ててもらった感謝の気持ち」を抱きつつ、東京暮らしを始めたものの、「村で育った自分が描くことのできる将来には、つねに眼界がつきまとった。」ので、「何になりたいか、と考えても、自分の世界にはぴったりくるものはなかなかみつけられなかった。」と言う。
 そんな氏は「都会と田舎、先進地と後進地という、ふたつの際立った対立軸」を見すえつつ、自分の立ち位置を固めつつある。

 この本を読みながら、不惑を越えるまで小生につきまとっていた「根無し草」感覚を再考した。
 あるシーンが忘れられない。
 受験のために上京した友人と二人で、夜の江戸城外堀を流れる真っ黒な水と、駅の光を背景にしてシルエットだけをくっきりと見せながら長方形の出口からひっきりなしに吐き出されてくる人々を眺め、僅かな言葉を交わした。
「呑み込まれないようにしよう」
「うん」
 それが墨のような水なのか、あまりにも眩しい光なのか、膨大な人の波なのか、あるいは澱んだ空気なのか、それは言わず語らずだったように思う。
 昭和40年代の日本を覆っていた東京志向に駆り立てられて故郷を後にするつもりではいたものの、行った先が安住の地はではないことを、もう、感づいていた。
 そして、落ちついたはずの大学では、国策の研究会に入ったが、一升瓶を傾けつつ熱心に議論するメンバーのほとんどが田舎者なのに、なぜか、心底からはなじめなかった。
 先輩たちが問題意識を忘れたかのように嬉々として大企業へ就職して行く姿にも、とまどった。
 最も尊敬していた先輩は、ずっと法学部のトップクラスだったのに、「田舎で百姓をやる」と佐渡へ消えてしまった。
 それから20年、事業の失敗で生活の根を実際に失い出家した頃から、不思議なことに名無し草という感覚は遠ざかった。
 托鉢にかけるという〈その日暮らし〉になったのに……。

 では今、小生の〈根〉はどこにあるのか?
 生家(角田市)はすでになく、育った仙台市の家も手放し、帰郷する先はない。
 大和町宮床で寺院を開基し、墓苑も造ったので、死ねばここに埋葬してもらえるだろう。
 では、ここが新たな故郷か?
 無論、出家した身に娑婆の家は無関係、み仏の世界が還るべき故郷である、と言うのは簡単だし、そのとおりだ。
 しかし、現に生きて死ぬこの世に在る身として、それだけで済ませるわけにはゆかない部分が残っている。

 准教授は最終章「故郷は未来にある」において書いた。

「3月11日。
 放射能汚染が国土を侵す現実の中で、私たちの眼差しが1945年の広島と長崎へ、もはや届いていなかったことがあきらかになってしまった。」

「世界で唯一、原子爆弾での『加害』を受けた国が、まるで腹を空かせた蛇が自分のしっぽを食べるようにして、原子力発電所の事故は起きてしまった。
 この国に生きるひとの多くが、もはや、原発と田んぼが共存している風景を不思議だと感じないほどの鈍感さの中で、自分自身への『加害』が起こってしまったのだ、とわたしは思う。」


 小生は今、広島に残る被曝の生々しい資料を当山へ残そうと考えている。
 戦場へ送る人も、送られる人も、ギリギリの決断をする際、戦争というもの、その最悪な手段が戦場に何をもたらすのか、〈最後の一孝〉をしてもらいたいと願っているからだ。

 准教授の言う「いくつもの僻地が積み重ねられた、最果ての土地というイメージとわかちがたく結びつけられた名称」である〈東北〉の地で、日本は再び核の餌食となった。
 そして、そのことは〈中央〉でなく〈東北〉で起こったがゆえに、早々と脇へ置かれ、原発という名の核発電は再稼働し始めている。
 東北はかつて、季候が稲作に不利だったため、白川以北一山百文と蔑まれつつ、富国強兵を目ざす国策のため、米の供給に励んできた。
 その東北が中央へ電気の供給を続けた挙げ句、土地を奪われ、追われた。
 准教授が本書でも指摘するとおり、『続日本紀』によれば、陸奥に住む蝦夷たちは大和政権によって関西から九州地方へと送られ、はたらかされ、殺されもした。
 陸奥は道の奧であり、東北であり、そこに生きる人々は差別され虐げられてきた。
 小生が東京で生きようとしたおりの極めて複雑な違和感の中に、そうした歴史が生んだコンプレックスもあったのだろう。

 広島と長崎の原爆に続き、原発によって核の犠牲となった東北には、そのことに関する問題提起を怠らない使命があると思う。
 小生は今、自らの〈根〉が「東北」にあると感じている。
 



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