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2016
11.30

「みやぎシルバーネット」20周年おめでとうございます ─無私の編集長につながる方々─

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 「みやぎシルバーネット」さんの創刊20周年祝賀会へ参加させていただきました。
 モノクロの第一号、長年の投稿者、支えた方々、愛読者間の楽しい交流など、文字どおり20年にわたる歴史を振り返る構成で、千葉雅俊編集長渾身のイベントでした。
 誰もが、ありのままの気持を詠み、それが作品を通じて誰かに伝わり、温かな思いの行き交いが生じる川柳の投稿欄は、柱とも言うべきものに育ちました。
 河出書房新社が発行する「シルバー川柳」シリーズへ投稿したいという人は今や、全国へ広がり、毎日、数通づつ東京の編集部へ届くという勢いです。

 会の冒頭近く、編集長が紹介した方のケースは特に、川柳が持つ力を示して余りあるものでした。
 毎月、さりげなく日常を描いて投稿するAさんは、お人柄と生活ぶりをいろいろと想像させました。
 それが、病気や死後の準備などへと内容が移り、心配していたところ投稿が途絶え、ご家族からご逝去の知らせが届きました。
 後日、あるところで、Aさんを見送った医師の文章を目にしました。
 そこには、病床でも紙とペンを離さず、とうとうそれを置かねばならなくなったAさんの目から涙がこぼれ、数日後に息を引き取ったという様子が描かれていたそうです。

 太平洋戦争から帰還した方の長文を連載したり、特殊詐欺に対抗する県警の防犯欄を設けたりして、独自の姿勢を貫いても来ました。
 そうした20年を貫いているのは、よりお年寄りに近づきたいという千葉編集長の純粋な思いではないかと感じました。
 「寄り添う」「思いやる」などと言葉にするのは簡単ですが、それが内実を伴った真実の心や行動になることは、決して容易ではありません。
 個人主義の空気で生きている私たちはどうしても、他者との間に何らかの隙間を求めがちです。
 そうして〈自分〉を確保しておかないと落ちつかないのかも知れません。
 しかし、千葉編集長にはそうした無用の〈用心〉めいたものが感じられず、そこが、年配者をはじめ、たくさんの人々に信頼感や安心感や温もり感を与え、20年にわたる膨大な魂の交流が積み上がって来たのではないでしょうか?
 小生も同じ感じを抱いて謦咳(ケイガイ)に接している一人であり、本当の「無私」とはこういうものではなかろうか、と感心してきました。

 会の後半、小生も先輩方に続いて壇上へ呼ばれ、「終括」と「戒名」についてマイクを向けられました。
 いつものように、〝どうか、おわかりいただきたい〟と必死になって聴衆の方々へ語りかけて時間を費やし、ついに「おめでとうございます」の言葉を発することなく降壇してしまいました。
 緞帳(ドンチョウ)の裏手に回りながら、情けなく、申しわけなくてたまりません。
 お詫びや感謝の気持をお伝えする機会もないまま、懇親会の会場へ向かいました。

 歌や踊りに賑わう会場で、数名の方々から「お寺よろず相談」の欄を読んで勉強になっています、などと声をかけられ、皆さんのためにも、千葉編集長のためにも、仏教のためにも役割を果たしているという実感に嬉しくなりました。
 自分の最期を託したい、と具体的におっしゃる方々もおられ、感激の時間でした。
 初対面の小生へ深い信頼をお寄せくださったBさんが唄われた「新相馬節」は、もうすぐ100才になる小生の父(福島県出身)がかつて、祝いの席で必ず唄った懐かしい民謡です。
 ゆったりと声を出すお姿がほとんど寝たきりになった父の若い日の姿と重なり、涙をもよおしました。

 千葉編集長は、祝賀会でパソコンとスクリーンを駆使しながら壇上に出ずっぱり、懇親会でもほとんど飲まず食わずのまま、写真を撮り、会話を交わし、まさに奮闘しておられます。
 自分の祝賀会というよりも、支えてくださったご縁の方々のための会にしようという姿に、あらためて頭の下がる思いでした。
 皆さんの「ありがとう」「これからもずっと」という心からの感謝と希望に圧倒されつつ、帰山しました。
 もちろん、小生も同じ思いです。
 諸行無常が真理であると共に、よき願望に生きるのも真実です。
 千葉編集長から求められる間は執筆し続けたいと念じながら床に就きました。

 「みやぎシルバーネット」さんのご隆盛と、読者・投稿者の皆さんのご多幸を祈っております。
 



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=rWEjdVZChl0





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2016
11.29

平成28年12月の行事予定 ─護摩・書道・寺子屋・お焚きあげ─

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〈初めていただいた福島の「さかみずき」。その存在感豊かな温かさにまいってしまいました。がんばれ!ふくしま!〉

 平成28年12月の行事予定です。

[第一例祭・本山] 2016/12/4(日)

 今月の守本尊である千手観音様のわかりやすい経典や真言などを読誦してご加護をいただきましょう。
 護摩の火に守られ、太鼓の音と共に般若心経をお唱えすると心身がリフレッシュされます。
 参加は自由です。
 願い事を書く護摩木は一本300円です。
・送迎申込 開始30分前に地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡ください。

[第一例祭・一迫別院] 2016/12/4(日)

 今月の守本尊である千手観音様のわかりやすい経典や真言などを読誦してご加護をいただきましょう。
 願いごとなどがある方は、事前に本山へお申し込みください。
 参加は自由です。
 本山で行われる護摩法へ願いをかける護摩木は一本300円です。

[書道・写経教室] 2016/12/4(日)午後1:30~午後3:00

 髙橋香温先生の熱意と誠意を感じられる貴重な時間です。
 書道の基本を学び、100文字の写経も行います。
 イス席もありますので、お気軽にご参加ください。
・場  所  大師山法楽寺
・指  導  書道師範高橋香温(温子)先生
・ご志納金 1000円(未成年者500円)
(毎月第一日曜日午後1時30分から開催します)
・送迎申込 開始30分前に地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。

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[第八十一回寺子屋『法楽館』─佳い音楽を聴きながら、今年を振り返る─] 2016/12/10(土)午後2:00~午後3:30

 今から40年ほど前、イギリスで作られたセレッション社のスピーカー「ディットン66」は、クラシック音楽のファンなどにとっては憧れの的でした。
 昨年、古いものを見つけ、福島県のプロにハイレゾ化していただきました。
 ほどよい響きで、ジャズや歌謡曲なども心地好く聴かせてくれます。
 約10年後、日本で作られたアキュフェーズのパワーアンプ「P300V」も圧倒的な信頼感が持てる透明な音質の製品で、CD専用に特化したプリアンプ「C202」との組み合わせは今でも絶品です。
 1曲3分ほどを目安に、皆さんが持ち寄られるCDを聴きながら、この一年を振り返ってみましょう。
 どうぞお気軽にお出かけください。
・場   所  大師山法楽寺
・ご志納金 1000円(中学生以下500円 お菓子・飲物付)

[第二例祭 2016/12/17(土)午後2:00~3:00

 今月の守本尊である千手観音様のわかりやすい経典や真言などを読誦してご加護をいただきましょう。
 護摩の火に守られ、太鼓の音と共に般若心経をお唱えすると心身がリフレッシュされます。
 参加は自由です。
 願い事を書く護摩木は一本300円です。
・場  所 大師山法楽寺
・送迎申込 開始30分前に地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡ください。

お焚きあげ 2016/12/24(土)午前10:00~10:30

 講堂内のお不動様の前で「供養会」を行い、境内地のお不動様の後にある専用炉にて「お焚きあげ」を行います。
 人形や手紙や写真や時計、あるいは御守や御札や仏壇や神棚など、燃えるものも、燃えないものも大丈夫です。
 一緒にお不動様のお経を読み、真言を唱えましょう。
お焚きあげをご希望の方は、必ず電話などで日時を連絡の上、お品をご持参、あるいはお送りください。
 当日とは限らず、いつでも結構です。
※今月は、最終土曜日が大晦日に当たり、一週間、繰り上がります。

[機関誌『法楽』の作製] 2016/12/26(月)午前9:00~

 講堂にて、機関誌『法楽』を作り、機関紙『ゆかりびと』と共に発送しますので、ご協力をお願いします。
『実語教・童子教』も共に学びましょう。
 おかげさまにて、『法楽』は第322号、『ゆかりびと』は第185号となります。
・場  所 大師山法楽寺

[隠形流(オンギョウリュウ)居合道場]

 仏法に生きる身と心をつくるために行います。 
 九字を切り、守本尊様のご加護をいただく密教独自の剣法です。
 高齢者の方々や女性が多く、厳しいながらも和気藹々(ワキアイアイ)と稽古しています。
 入門ご希望の方は、事前に連絡の上、まず、見学してください。
・日  時 毎週金曜日 午後6:00~8:00(30日は休館日となります)
・場  所 日立システムズホール仙台




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「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2016
11.29

年内のお納骨や墓地の確保ができます

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 年内の共同墓へのお納骨も、墓地の確保もできます。
 ご縁の墓石業者大黒堂様が、「送迎付きの見学会」を開催してくださることになりました。
 地域のお母さんが作った漬け物や、住職の著書のプレゼントもあります。
 どうぞお気軽にお出かけください。

2016-11-29大黒堂





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「おん あらはしゃのう」
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2016
11.28

弱りつつある日本の子供、これからの日本 ─子供たちに広がる運動器症候群の危機─

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 11月7日付の産経新聞は、一面トップでロコモ運動器症候群)が子供たちに広がっているという事実を報じた。
 子供たちの心身が脆くなってきていることにうすうす気づいてはいたが、統計には驚かされた。

ロコモは体を動かすのに必要な関節や骨、筋肉など『運動器』が機能不全を起こした状態で、骨折や捻挫を誘発する。
 関節が衰えてこわばり十分に曲げられなくなるため、力を入れると耐えきれず折れてしまう。
 加齢や運動不足が原因とされ、高齢者に多い。

 だが、近年は子供たちの間で増えている。
 幼い体が『老化』しているのだ。

 文部科学省の委託を受けた埼玉県医師会が平成22~25年、県内の幼稚園から中学生までの子供1343人に運動器の検診を行った結果、約40%に機能不全の兆候がみられた。
 3人に1人以上に、ロコモの疑いがあるということだ。」


 加齢と共に弱って生ずるロコモティブシンドロームが、幼い体を蝕んでいるとは……。
 わずかな段差で転んだり、しゃがんで用を足しにくかったりするのは年配者の宿命だったはずだが、子供のうちからそうした身体ならば、彼らはいったいどういう大人になるのだろう。

「ニッセイ基礎研究所の村松容子主任研究員が学校での骨折発生率を算出したところ、昭和45年には0・64%だったが、平成23年には1・60%に増えた。」

「『体力は国力の基盤』。
 1960年代、ケネディ米大統領はこんな趣旨の言葉を残した。
 テレビや自動車の普及で子供の体力が急低下。
 学校での運動強化を『国家戦略』に位置づけた。
 今の日本の姿が重なる。
 スポーツ庁幹部は語る。
『地域や学校で運動の機会を増やすことが重要だ』」


 千葉県船橋市は、子供たちの体力向上をめざして公園でのボール遊びを試験的に解禁し、そうした動きは広がりつつあるという。

 子供たちの異変はさらに報告されている。

「『トイレットペーパーがうまく切れない』(東京都の区立小教諭)
『液状のりの容器を押す力加減が分からず、噴出させる』(横浜市立小教諭)
『握力が弱く鉄棒がにぎれない』(幼児教室教員)」

「全国国公立幼稚園・こども園長会が昨年、665人の教員を対象に実施した調査では、76%の教員が『教え子がひもを結べない』と回答。
『箸を正しく持って使えない』も66%だった。」


 ここまでくるともはや信じがたいといったレベルである。
 しかも、力が弱っているためにHBの鉛筆では、はっきり書けないので、2Bなどが喜ばれ、消しゴムもまた、あまり力を入れずに消せるタイプが売れており、「過保護マーケット」と揶揄されている。

「NPO法人、子どもの生活科学研究会の実技調査(30~44歳の男女338人対象)によると、30~34歳で鉛筆を正しく持ち使える人は26%に留まる。
 35~39歳、40~44歳でもほぼ同じ割合で、子供のモデルとなれる親は4人に1人だ。

 同研究会代表の谷田貝(やたがい)公昭・目白大名誉教授(保育学)は語る。
周囲の大人の教える力も衰えている。子供が自立して生きられるようにするため、今、その責任が問われている』」


 教授の言う「大人」とは誰か?
 消え去りつつある団塊の世代も含まれるのではないか?
 事実、70才になる小生は、自分たちの世代が、父親や叔父たちの世代が持つ心身の頑健さを失いつつあると実感してきた。
 昭和の末期、評論家村松剛は「豊かな社会の相続人たち-自前の精神を先人の足跡に学ぶ-」を書いた。
 あらためて読んでみたいと思う。
 段階の世代は何をやってきたのか、最後にやるべきことは何か、遺すべきものは何か?

 いずれにしても、ケネディの時代とは違う。
 明治の日本が富国強兵を進めたように、子供たちを強く逞しく育て、人口も増やして世界に冠たる日本にしようなどというイメージはもう、持つべきでなかろう。
 格差の拡大と地球の温暖化という人類最大の問題を引き起こしたグローバリゼーションの行きづまりは明白だ。
 このまま進めば、AIを駆使し自由貿易を正義とする一握りの資本家が富の寡占を進め、ついには、生身の人間によるAIシステムの破壊といった致命的な暴動すら起こり得るだろう。
 グローバリゼーションという〈原理〉を調整する叡智、人類の視点に立った新たな思想が求められている。

 たとえば、デンマークの納税者負担は58~72パーセントに上っているが、暴動は起きず、デンマークは世界有数の〈住みやすい国〉とされている。
 デンマークの人々は、自尊心をかけてたくさんお税金を払っているのだ。
 タックスヘイブン(租税回避地)を探して血眼になる者たちだけが人類の代表者ではない。
 世界最小のミクロヒメカメレオンは、小さな島という環境に自分の背丈を合わせて小型化し、生き延びてきたという。
 人類もそろそろ、〈分〉を知ってよい段階ではなかろうか。




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





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2016
11.27

年忌供養の麗しい光景 ─死者はいつから「ご先祖様」になるか?─

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〈四国霊場の天井画には意外なものが……〉

 七回忌供養でAさんご一族が来山された。
 ひいお祖父さんとひいお祖母さんと、お祖父さんがもう、ご先祖様の仲間入りをしておられる。
 喪主だったお父さんを中心に、奥さん、お祖母さん、そしてお子さんと、三代にわたるご家族、ご親族が集まられた。
 にぎやかで皆さんの笑顔が好ましい。

 法要の心構えをお話しした。

七回忌阿閦如来(アシュクニョライ)様が一つの関所を越えさせてくださる時期です。
 三回忌で阿弥陀様の極楽浄土に到着し、それから4年間、このみ仏にお導きいただいてきました。
 阿閦様は、無瞋恚(ムシンニ)如来、あるいは無動(ムドウ)如来とも呼ばれ、どんなことがあってもイライラせず、怨まず、人の道を邪魔するあらゆる魔ものを降伏させます。
 動じることがありません。
 み仏の世界を歩まれている故人もきっと、不動の悟りを開き、東の浄土におられるこのみ仏のお力で、よき世界へ転生(テンショウ)する流れに乗っておられることでしょう。
 古来、七回忌法要を終える頃になると喪主を務めた人も縁者の方々も、故人の死と人生を丸ごと受け容れ、乗り越え、引き継ぎの段階をすっかり終えて、故人に見守られつつ不動の信念で新しい世界へ進むことができるとされています。
 また一つの区切として、思い出につらなるものをまとめたりするのに適した時期でもあります。

 さて、私たちは、亡くなった家族や親族をいつから〈ご先祖様〉とお呼びするのでしょうか?
 それは、四十九日忌からです。

 中陰(チュウイン)という行く先の定まらない時期を過ぎ、あの世での道が定まればもう、ご先祖様なのです。
 そして、喪主はその後、施主(セシュ)となります。
 〈喪に服する人〉から〈供養を施す人〉へと役割を進めるのです。


 しかし、三回忌あたりまでは、まだ、故人はこの世で果たした役割のイメージが強く、それぞれの人々なりに、お祖父ちゃんやお父さんといった感覚の存在です。
 〝ご先祖様になった〟とはなかなか思えないのが人情というものでしょう。
 それも七回忌あたりになると、故人に関するすべては〈よき思い出〉という1つの清浄で温かく揺るぎない結晶体となり、仏神に通じる尊さをはっきりと帯びています。
 私たちは、このあたりでようやく、ご先祖様として手を合わせられる気持になるものです。

 施主様はお1人ですが、それは、本当の意味では施す人々の代表であり、先祖様へ供養を施す人は等しく尊い役割を果たしていると言うべきです。
 だから、今日は、皆さんが施主様になったつもりで、お手元の経典をお読みください。
 経典はまず、日頃の過ちを懺悔(サンゲ)させ、私たちがみ仏の子であることを思い出させます。
 清らかな心身でこれからのご供養を行うのです。
 次に七回忌の守本尊である阿閦如来様をお讃えします。
 そして、お焼香して故人の冥福を祈り、自分もまっとうに生きて行くことを誓いましょう。
 最後に、ご供養した功徳をご先祖様と自分たちだけにいただくのではなく、広く生きとし生けるものへ廻し向け、皆共に安心の世界に生きられるよう祈りましょう。

 これが本日行う供養会の意味と意義です。
 どうぞご一緒にお手元の経文をお読みください。」

 最初は小さかったお父さんの声がだんだんはっきりしてきた。
 小学校へ入ったばかりのお嬢さんらしい一生懸命な声も聞こえた。
 こうした年忌供養の場に代わり得るものはないと思う。
 だからこそ、ご先祖様は、その時代、その時代なりに工夫し、方法を伝え、守ってきた。
 当山もしっかりと役割を果たして行きたい。




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2016
11.26

祈りと瞑想のこと ─AI(人工知能)の時代にあって─

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〈四国霊場のお大師様〉

 人類が発祥以来続けてきたはずの祈り瞑想と、人工知能AI)について考えてみましょう。

1 目をつむる祈り

 私たちは祈る際に目をつむります。
 いかに圧倒的なご本尊様を前にしても、必死の思いで願いを込めるならば自然に合掌し、視界を塞ぐはずです。
 なぜでしょうか?

 そもそも、私たちは、〈見る〉ことによって膨大な情報が網膜から脳へもたらされるというイメージを持っていますが、一旦失った視力を回復する過程の研究などによると、そうしたイメージは覆ります。

 私たちはこの世に生まれ落ちた直後から、五感六根によって得る情報を分析し蓄積します。
 そして、自分なりの情報処理法をつくって行きます。
 なにしろ、1000億個から2000億個もの脳細胞がそれぞれ、1000個の脳細胞と複雑なネットワークを構築するというのだから驚きです。
 人工知能AI)研究者ヘンリー・マークラム氏は指摘しました。

「部屋の認識は99パーセントの脳内における情報処理と、1パーセントの外的刺激による」


 もしも、窓に白いレースのカーテンがかけられており、その右側には書棚があると認識するならば、カーテンと書棚が網膜に映った際の刺激そのものの99倍に上る情報処理が行われてようやく、そこへたどりつくと言うのです。
 情報処理がうまくゆかなければ、入った刺激は、カーテンや書棚といった意味内容を伴った認識をもたらしません。

 そうすると、私たちがご本尊様の前で目を閉じるのは、無意識のうちに情報処理そのものを深めようとしているのかも知れません。
 それは、私たちの心が、その中にあるご本尊様の世界へより近づく過程であるとも言えましょう。
 お大師様は説かれました。

「それ仏法、遥かにあらず、心中にしてすなわち近し」


 真剣に祈る時、私たちは不断に流れ込む刺激をシャットアウトし、邪魔されずに心中の思いを深めようとするのです。

2 祈り瞑想

 祈り瞑想は似ています。
 たとえば。阿字観(アジカン)のご本尊様を前にして瞑想する時は、眺めてから瞑目した世界へご本尊様をお招きし、一体になり、即身成仏(ソクシンジョウブツ)の境地を目ざします。
 心を真実世界へ解き放つのです。
 
 こうした祈り瞑想は、人間が人間であるための砦を守るようなものであるとも言えそうです。
 それは以下の理由からです。

3 人工知能AI)ができないこと

 11月25日、ロボット「東ロボくん」で知られる国立情報学研究所教授新井紀子氏は、朝日新聞へ「AIの弱点は『意味理解』」 仕事奪われぬため 人間こその力磨け」と題した一文を寄稿しました。
 AIが進歩すればその便利さによって人類は幸せになれるのでしょうか?

AIから得られる富が、地球上のすべての人に平等に分け与えられればそうかもしれない。
 しかし、そのような仕組みは、今までかつてこの地球上に築き上げられたことはない。
 むしろ、ITが社会に導入されて以降、経済格差は広がり続けている。」

「AIはどのように仕事を奪い、仕事を生み出し、社会を変えるのか。
 私がはじき出したのが、30年に現在のホワイトカラーの仕事の半分がAIに置き換えられるという予想だった(後に、それはオックスフォード大の研究グループが行った予測とぴたりと合うことになる)。」

「AIを大胆に導入し、コスト削減に成功した企業の利益率が上がる一方、雇用を守ろうとした企業は市場から退場を迫られるだろう。」


 このまま進めば、ほとんどの人間は、AIを駆使する一部の人たちによってますます搾り取られるだけの存在になってしまいます。
 どうすればよいのでしょうか?

AIには弱点がある。
 それは『まるで意味がわかっていない』ということだ。

 数学の問題を解いても、雑談につきあってくれても、珍しい白血病を言い当てても、意味はわかっていない。
 逆に言えば、意味理解しなくてもできる仕事は遠からずAIに奪われる。」

「みなさんは、どうか『意味』を理解する人になってください
 それが『ロボットは東大に入れるか』を通じてわかった、AIによって不幸にならない唯一の道だから」


 ロボットは、どこまで行っても、決まった手はずどおりにやってくれる存在であり、何のためにという目的を決めるのは人間です。
 目的は必ず意味を伴い、意味のない目的はありません。

 この意味がまっとうであるためには、世界と自分の認識が歪まず狂わず、誤った自分勝手な価値観を離れねばなりません。
 それには何が必要でしょう?
 まっとうな祈り、霊性・仏性をはたらかせる瞑想ではないでしょうか。
 意味のわからないロボットに祈りはありません。
 脳内ネットワークを深化させる瞑想もできません。

 私たちがロボットをまっとうにはたらかせられる人間であり、共にお互いの幸せを喜び合える社会をつくるために何が必要か?
 祈りと瞑想の意義は大なるものがあると言えそうです。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IvMea3W6ZP0





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2016
11.25

人生と共に走る車 ─カギ供養の風景─

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〈餅つきをするウサギ野仙哉君。DIYの店頭には、お正月用の餅が並び始めました〉

 小春日和と言うしかない穏やかに晴れたある日、仙北の町から若いご夫婦が車の「カギ供養」に訪れた。
 ほとんどの方は「家を解体しました」「車を廃車にしました」といったふうに、過去形で申し込まれるが、ご夫婦は「もうすぐ、新車に乗り換えるので、ありがとうという思いで来ました」と言う。
 2人ともまだ30才前後なのに、お布施の袋はちゃんと表書きがされている。
 礼儀正しく微笑ましい。
 誘導されて玄関前に駐められたのは白っぽいやや小ぶりな乗用車。
 大切に乗られてきた様子がうかがえる。
 
 本堂で修法を始めると、イメージの中にある車は、とてもスムーズに辟除(ビャクジョ…悪しきものを祓うこと)も結界(ケッカイ…塀を廻らすように、ご本尊様のご守護を受けること)も進む。
 辟除を繰り返さねばならなかったり、結界が張りにくかったりする場合もあるが、長く乗られたと思われる割には何ごともない。
 お二人の心がけがよかったのだろうか。
 供養法が終わり、最後に車の周囲へ守本尊様10尊の法を結んだ。

「どうぞ、ご安心ください。
 最後まで大切にしてくださいね」
 言わずもがなの言葉で2人を見送った。
〝ああ、車は人生と共に走る……〟
 白い車はゆっくりと視界を行き、門柱から去った。

 お2人とも一期一会、あの車とも一期一会、そして、彼らと車がつくる人生とも一期一会だった。
 数日前に一匹、雪虫が飛んだあたりの向こうに、やや南側へ体重をかけた笹倉山が佇んでいる。
 午後の陽光はまだ、温もりを残していた。

 白い車よ、ご苦労様。
 感謝に満ちたよき心のお2人に幸いあれ。




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2016
11.24

被災者へのイジメ ─東日本大震災被災の記(第188回)─

2016-11-11-0271.jpg
〈共に咲く四国霊場の花たちのように〉

 福島原発事故により膨大な数の人々が生活を失い、住居を失い、職を失い、友を失い、いのちをも失いつつある。
 転校を余儀なくされた子供たちの行く先には、救いの手ではなく、イジメが待っている。
 かねて指摘されてきたことだが、転居や転校に伴う自死という最悪の事実までが報道されるようになった。
 データ上では子供たちの世界でイジメが増えているわけではなく、報道される機会が増えただけだとも言われる。
 しかし、幾度、報道されてなお、事態があまり改善されていないこともまた事実だろう。

 今回、横浜市でいじめを受けた男子中学生の手記が大きく報道された。

「いつもけられたり、なぐられたり」
「いままでいろんなはなしをしてきたけど(学校は)しんようしてくれなかった」
「ばいきんあつかいされて、ほうしゃのうだとおもっていつもつらかった。」


 もはや登校はできなくなったが、「ぼくはいきるときめた」という。

 学校の対応も、教育委員会の対応も遅れに遅れた。
 その背景には、子供を指導する大人の側に巣くう偏見や誤解や無理解があると、各方面から指摘されている。
 それはそうだろうが、背景にはもっと大きな問題があると思う。
 一つは、〈自分だけ〉で生きる感覚の蔓延である。
 もう一つは、〈攻撃〉的心性が野放しになっている子供たちの生活環境である。

 まず、〈自分だけ〉の問題である。
 小さいうちから一人だけで過ごす空間が与えられ、自己中心の感覚が発達し、指導し抑制をかけてくる親や先生を煩わしく感じる。
 周囲と折り合いをつけて円滑にものごとを行う能力が開発されず、軋轢(アツレキ)や対立が起こると、相手を攻撃して自我を通すか、もしくは簡単に周囲との関係を断って逃げようとする。
 そうして大人になった人々の世界も似てきた。
 年をとっても同じである。
 それは心を邪慳にし、共生でしか安心して生きられない人間社会の真実とずれた邪見を育てている。

 もう一つ、〈攻撃〉の問題である。
 子供たちのゲームもマンガも暴力とセックスという二つの刺激に満ちている。
 その典型がセクシーな衣装で剣を手にする女性闘士の姿である。
 これほどまでにほとんどワンパターンの遊びが流行っている理由は一つしかない。
 子供たちをより刺激し、お金を使わせる商売で大人たちが儲けようとしているからだ。
 一方、親は子供になるべく時間をとられず、好きなことをしたり、はたらいたりするために、子供が何かに夢中になっている状況を放置する。
 そうしているうちに、繰り返し繰り返し〈攻撃〉に慣れた子供たちが、たやすく弱い者を攻撃し、勝者の気分を味わって平然としているようになったまでのことではないか。
 なお、韓国では禁止され、世界中で日本だけが異様に流行っているパチンコ店の光景も実に似ていることを無視はできない。
 経済と文化と生活のありように重大な歪みが認められるのではなかろうか。

 無惨な状況に立ち至った真の原因は、人々が自己中心で無慈悲になったところにある。
 私たちが安心して幸せに暮らせる社会を創るためには、共に生きるという生きものの真実に立った考え方や生き方を取り戻すしかない。
 攻撃し勝利するだけの浅薄な快感、弱者を痛めつける陰惨な悦楽よりも、誰かのためになって得られる深く揺るがない喜びにこそ惹かれる価値観や感性を育てねばならない。

 当山は「相互礼拝」「相互供養」の法話を行い、人生相談のおりおりに、親御さんにもお子さんにも「お互いさま」「おかげさま」「ありがとう」の実践を勧めている。
 生きとし生けるものを尊び、共に生かし合う共生と思いやりの心を育てることこそ肝要ではなかろうか。




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2016
11.23

現代の偉人伝(第237話)元幕下佐田ノ浜 ─やるせなさを糧に変えた人─

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〈四国霊場の花〉

 元小結舞の海秀平氏は、11月17日付の産経新聞に「舞の海相撲〝俵〟論」を書いた。
 今回とり上げたのは元幕下佐田ノ浜である。
 以下、「華やかな土俵の陰で」より抜粋して転記する。

「人はこれほどまでに変われるものなのか。
 稽古取材で九州場所前に境川部屋の宿舎を訪れたときのこと。
 『一緒に写真を撮ってくれませんか』と声をかけられた。
 目の前に立っていたのは元幕下佐田ノ浜。はきはきとした口調だ。
 入門した頃の彼を知る身としては信じられなかった。」


 いつもながら、簡潔で明快な切り口である。

「人と接するのが苦手で高校の頃は登校拒否の引きこもり
 何もせずぷらぷらしていたとき、体が大きかったことから知人に誘われ、入門。
 相撲のことは何も知らず、勧められるがままだった。
 当時は人と目を合わせずに、下を向いてぼそぼそと話す印象しかない。

 無為の日々を過ごしてきた者にとって、激しい稽古は辛かったろう。
 そもそも裸になるのが恥ずかしくて、風呂に入っては手で前を隠し、まわりの力士に笑われた。
 相撲を取れば誰にも勝てない。
 何度も辞めようと考えた。
 それでも少しずつ番付を上げていくうちに『相撲をやめて実家に帰ると元の生活に戻ってしまう』と思えるようになった。

 相撲部屋では、何をするにも心を開いてまわりの力士と協力しなければいけない。
 米とぎ、皿洗い、掃除、洗濯など、若い衆で一丸となって雑用をこなしているうちに、いつしか自分が引きこもりだったことは忘れてしまった。」


 ここまで読んだだけでも、引きこもっていた青年が、文字どおり裸のつき合いをする世界へ入る決心をしたこと、辛くとも、成果を上げられずとも途中で逃げ出さなかったこと、その事実にはただただ、頭が下がる。

「入門から6年半。
 やっと幕下へと上がった平成25年夏場所に、力士人生が暗転する。
 取組で左膝の靱帯(じんたい)2本と神経を断裂。
 11カ月の入院で4度手術し『もう相撲は取れない』と医師に言われ、泣き崩れた。
 まだ25歳だった。

 師匠の境川親方(元小結両国)もまた、弟子たちの前で『俺の力不足であいつを不自由な体にしてしまった』と泣いたという。
 その話を退院後に聞いた佐田ノ浜の心は震えた。
 そして、親方は5場所連続休場中、自動車の運転免許を取らせ、就職先を探した。
 『こいつは口下手だから』と面接にも同行してくれた。」


 いつもケガの危険と隣り合わせで、現役生活が比較的短い力士にとって6年は長い。
 白鵬関はその間に頂点の横綱まで駆け上っている。
 幕下という地位は十両の下で、頭上には横綱までの70人がいる。
 何でも身内でやる世界では、「一枚違えば家来同然」「一段違えば虫けら同然」と言われ、序列によってあらゆる場面での役割も、待遇もまったく違う。
 ようやく「関取」と呼ばれる十両を目指せる位置まで来て力士生命を断たれた時の師弟はいかなる気持だったか、想像もつかない。

「相撲界を去る直前の正月。
 部屋で浴びるように飲んだ佐田ノ浜は突然泣き叫んだ。
 『まだまだみんなと一緒にいたいんです。辞めたくないんです』と。
 隣に座っていた師匠も目を真っ赤にしてかける言葉が見つからなかった。

 いま、彼は地元・長崎の自動車部品メーカーで働いている。
 力士生活を振り返り『この世界に入っていいことばかりでした』と言い切った。
 やるせなさをこれからの人生の糧に変えられる前向きな性格になったのだろう。」


 いいことばかりと言う述懐に目を瞠(ミハ)り、しばらく動けなかった。
 冒頭の文章「人はこれほどまでに変われるものなのか」に含まれていた内容の重さ、深さに圧倒された。

相撲部屋では親方やおかみさん、力士らが一緒に生活することで人と人との濃密な交わりが生まれ、1人の若者を立ち直らせることもある
 境川部屋の九州場所宿舎でかたわらには女性が寄り添っていた。
 『ちゃんと写真は撮れているの』と初めてできた彼女から言い寄られ、はにかみながら顔を赤くしていた。」


 イジメハラスメントなどで人を潰し、殺すのも人間なら、立ち直らせるのも人間である。
 私たちは人生のどこかで必ず「やるせなさ」を感じる。
 それを「糧」に変えられれば、必ず人生行路は乗り切れるだろう。

 精神医学も薬も医療も発達した現代では、失恋の傷手すら薬で処置し、何ごともなかったかのように生きられるらしい。
 しかし、それで心は大丈夫だろうか?
 練られ、霊性を輝かせられるだろうか?

 やるせなさに独りでぐっと耐え、時には誰かと共に耐え、涙が涸れる頃ようやく見える青空は何ものにも替え難い。
 もちろん、病気の領域にまで入ってしまったなら、薬が有力な助っ人となる。
 しかし、その前段階ではやはり、具わった人間力でやり抜いてみたい。
 誰しもがやるせない同士であり、助け合いたいものである。
 鮮烈で温かい体験を披露してくださった佐田ノ浜氏と舞の海氏に心から感謝したい。




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2016
11.22

「ともかくもあなたまかせの年の暮」「ドクターの笑顔やさしい往診日」

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 江戸時代の小林一茶は詠んだ。
 

「ともかくもあなたまかせの年の暮」


 年の瀬となってあれもこれもと気は急くが、ジタバタしたところで、時々刻々と一年は過ぎ去ろうとしており、もうどうしようもない。
 ことここに至れば、あなた任せを決め込むしかなかろうと、腹をくくっている。

「これがまあ終の棲家か雪五尺」


 雪が1・5メートルも積もってしまえば、出て歩くこともできないが、家が押し潰されるまではこうしていられる。
 自分の一生がこんなふうに終わってしまうのなら、それもそれだと泰然たるものである。

 みやぎシルバーネットさんが発行する「シルバー川柳」は、あっという間に第6弾となった。
 10月8日放映の「仙台人図鑑 第27回」に登場した編集人千葉雅俊氏(55才)は、読者が投稿した川柳を何句か紹介した。

「ドクターの笑顔やさしい往診日」 (女性・75才)


 末期癌の女性は、最後までペンと紙を離さなかった。

「決めかねるもっと美人の我が遺影」 (女性・85才)


 自分の遺影をあれこれと選ぶ達観した心中がよく表れている。

 氏は、投稿者の半数が、呆け防止のためにやっているというアンケート結果を披瀝した。
 老人クラブなどの会員が減る一方で、カラオケや川柳など、単一の目的に特化した会が増えた。
 豊かな老後を求める人びとの中で、趣味や好みを共有する人と人とのつながりという〈力〉が輝きを増している。
 
 昭和10年、寺山修司は『俳句作法講座』で、こう述べている。

「(俳句には)花鳥風月と合体した作者自身をもう一段高い地位に立った第二の自分が客観し認識しているようなところがある。
『山路来て何やらゆかしすみれ草』でも、すみれと人とが互いにゆかしがっているのを傍からもう一人の自分が静かにながめているような趣が自分には感ぜられる。」


 そして、ある歌人の話として、歌人には自殺者が多く、俳人には少ないというエピソードを紹介し、こう言う。

「いかなる悲痛な境遇でも、それを客観した瞬間にはもはや自分の悲しみではない。」


 年をとると、そこまで行ってみなければわからない〈ままならなさ〉にぶつかり、辛さや淋しさや悲しみに耐えねばならなくなる。
 そんな時、心を励まし、いのちを活性化させ、苦難を乗り越えさせもする俳句や川柳や短歌は、ありがたい友となるのではなかろうか。




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2016
11.21

愛情をいくらでも受け止めてくれる子供のこと ─罪滅ぼしと生き直し─

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〈これから開く四国霊場の花〉

 高崎順子氏は著書『フランスはどう少子化を克服したか』について言う。

子供は嫌がどれだけ愛情を注いでも、受け止めてくれるかけがえのない存在」

 これには参った。
 親の立場から、子供は親が自然に愛情を注ぐ対象、としか、考えなかった。
 実は、子供のおかげで、親になった人が自分の心から愛情をどんどん引き出してもらえるのだ。
 親はそうして愛情豊かな人間に育って行く。
 子供は親を人間らしく育ててくれる。

 可愛い仕草を見ると、可愛がる心が出てくる。
 言うことをきかないと、憎たらしさに耐えて、子供のために、よいことができるよう仕向ける努力をする。
 愛情は豊かになり、揺るがなくなる。

 こう考えつつ自分の子育てを振り返ると、愕然としてしまう。
 情けなくて涙も催す。
 いったい、何をやってきたのか……。

 女の子ゆえ、どう扱えばよいかわからなかった。
 照れくさくて、スキンシップは苦手だった。
 子供が喜べば嬉しいから、欲しいもの、必要なものは極力、与えるようにし、ときおり、妻から「甘やかさないで!」と注意された。
 育てるというより、漠然とではあるが問題なく育っているとしか見えず、信念として特に何かを教え込むということもなかった。
 事業に失敗し、家を失い登校できなくなった子供をこっそり、送って行き、心で〝済まない〟と合掌した。
 進学については、「俺の子なんだから」と勝手に高慢でちんぷんかんな高望みをして困らせた。
 そして子供たちはそれぞれ、はたらき、自分で伴侶を見つけ、自分たちで生きている。

 自分はいったい、何をやってきたのだろう?
 確かに〈食わせ〉はした。
 しかし、充分に愛情を注いだとは口が裂けても言えない。
 なぜなら、子供の悩みや苦しみや淋しさを共有し、その胸苦しさを共に感じ、自分も悩み苦しんだという記憶がないからだ。
 仕事が忙しかったなどという言いわけが通用しない嘘であることは自分がよく知っている。
 はたらき、遊んだのは〈自分の人生〉でしかない。
 生きてきた時間のうち、〈子供や妻との人生〉はいったいどれほどあったろうか?

 どれをとっても、子供との関係が薄い印象しかなく、それは自分が愛情豊かな人間に育っていないことを意味しているのではなからろうか……。

 上記の本に書いてあるわけではないが、フランスでは、かつて、既婚の女性たちも着飾って社交界で華を競い、子育てを使用人へ任せっぱなしにしたことが暴力的な革命分子が育つ温床になり、王妃までも公開ギロチンにかけるという残忍な行為へ走らせたという。
 だから、革命を二度と繰り返さぬよう宗教と情操の教育には充分に留意しているらしい。
 
 この世を去りつつある団塊の世代の方々よ。
 もしも、小生と似た感慨を覚えるならば、今からでも冒頭の言葉を噛みしめてみようではないか。
 遅ればせながら、密かに愛情を注いでみたい。
 子供や孫がいなかったり、子供にとって今さら親の干渉が不要だったりするならば、何かに愛情を注ごうではないか。
 愛情が必要で、いくらでも受け止めてくれる対象は無限にある。
 枯れつつある日々の中から、まだ、愛情という温かなものが流れ出てくるならば、それは心を豊かにし、生きがいが感じられ、罪滅ぼしを伴った〈生き直し〉になるのではなかろうか。




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2016
11.20

思いやりからお墓の未来まで ─ご質問にお答えします─

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〈四国の霊場では、鳥居のある寺院が珍しくありません。写真はネットからお借りして加工しました〉

 このたび、皆さんからたくさんのご質問をいただいたので、大まかにお答えしておきます。
 ただし、これは一行者としての信念と、一寺院での実践を基にしたものであることを申し添えます。

Q:位牌の院の文字はついている方が良いのでしょうか?

A:位牌に書いているのは戒名です。
 戒名は3つの熟語から成っています。
 一番上にあるのは院号(インゴウ)で、魂の色合いが表れます。
 真ん中にあるのは道号(ドウゴウ)で、故人がこの世で歩んだ道が表れます。
 最後にあるのは法名(ホウミョウ)で、み仏の子として成仏への道を歩む名前です。
 だから法名は、生きながらにして、み仏の子として生き直しを行う僧侶の僧名(ソウミョウ)と同じです。

 こういうわけなので、当山では、お布施の金額にかかわりなく、3つの熟語をもってお戒名としています。
 男性なら「~居士」。女性なら「~大姉」となります。
 当山ではご本尊様へ祈り、降りるものなので、差別のしようがありません。

Q:「人の身になって思うこと」家族間では薄れて行く世の中になっています。
 友への思いやりはどこへ、何でも見て見ぬふりは悲しいです。
 なぜ、こうなってしまったのでしょうか?


A:そうですね、思いやりとは、誰かへ思いをやることで、それは、他人の苦しみや悲しみを〈他人(ヒト)ごと〉として放って人間らしい心の現れです。
 本当は、それが濃密にはたらくはずの家族や友人に対してすら薄れてしまい、暴力事件や殺人事件は後を絶ちません。
 とても残念なことです。
 原因は2つあります。

 1つは「自己中心的姿勢」です。
 戦後の日本においては誰もが賢明にはたらき、奇跡の復興を成し遂げたのはよいのですが、自由競争の影の面として、個人を絶対視する感覚が強まり過ぎたのではないでしょうか?
 それは、各国が発展を競う過程で資源をむやみと消費し、自然破壊・環境破壊を進め、このままでは地球がもたなくなるところまで来たことに似ています。
 大問題に気づいた私たちは立ち止まり、身近な人間関係においても、国際的にも、あるいは学問や研究や開発など多様な分野においても、「共生」という唯一のあるべき姿を目ざすべきだと思います。

 もう1つは「物質中心主義」です。
 これもまた、何もかもが不足していた時代を乗り越え、豊かさを求める過程で、モノ金を求め過ぎた弊害ではないでしょうか?
 しかも、自己中心とあいまってそれがあまりにも進んだために、わずかな〈持てる者〉はモノ金や地位や権力をひけらかして恥じず、勝者として謙虚さや奉仕の心を失い、多くの〈持たざる者〉は敗者として抑圧されるという、品性なく無慈悲な社会になりつつあります。
 私たちが公正な社会で、共に幸せを感じつつ生きるためには、限られたモノ金が、智慧と思いやりによって適切に分配されねばなりません。
 このまま自由競争の原理だけで突き進むめば、ケダモノの世界と同じになってしまいます。

 私たちは、自己中心の心を恥じ、モノ金にとらわれず、「共生」の尊さやありがたさを忘れぬよう、修養に心がけたいものです。

Q:お等の相場は?

A:おは石屋さんの仕事なので、当山は直接タッチしていませんが、当山では、地の永代使用料込みで約60万円~80万円、100万円~120万円、150万円~200万円といった予算で建てる方が多いように思われます。
 共同墓ならば、年間管理料込みで10万円からいろいろあります。
 地に建っている現物をあれこれとご覧になりながら、信頼できる石屋さんへ相談されてはいかがでしょうか。

Q:檀家をやめる、やめさせないで困っていますが?

A:そもそも檀家とはダーナという布施を意味するインドの言葉であり、布施をする人や家のことです。
 だから本来は、自発的に寺院を支え、その寺院に自分も家族もご先祖様も守ってもらうという、生きた関係をつくり、守る言葉でした。
 しかし、時代の変遷と共に内容が変化し、ご葬儀とご供養しかしない寺院は、檀家さんへ自分の都合でお布施を依頼し、檀家さんは必ずしも意にそぐわない出費を迫られて困惑するといった面が顕わになりました。
 托鉢の途中でそうしたご意見をたくさんお聴きした小生は、平成22年、「脱檀家宣言」を行い、河北新報にも掲載されました。
 真意は、檀家をなくそうというのではなく、一旦、〈縛り〉でしかなくなっていた関係を、寺院も檀家さんも見直し、本来の〈自発性〉に立つ、奉仕と感謝の生きた関係を再構築しようと提案したのです。
 そして、当山では、自由参加自由脱退のサポーター制度にし、そうした〈ゆかりびと〉の方々は自発的に「ゆかりびとの会」を作り、当山をお支えくださっています。

 こうした本来の「檀家」の意義からすれば、そして、日本国憲法第19条「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」からしても、「檀家をやめる」のは自由です。
 むろん、寺院が「やめさせない」などの強制はできず、離檀料の請求に応じる必要もありません。
 布施という自発的な奉仕の思想に立つなら、生産活動を行わずこの世とあの世のご縁の方々を日々、お守りする寺院は、今までお支えくださった方が離れて行く時、これまでのご恩に感謝して送り出すべきではないでしょうか?
 一方、これまでお守りいただいた感謝の心をお布施に表してご本尊様へ差し出すのも、檀家さんの貴い姿勢です。
 いかがでしょうか?

Q:後継ぎ無しのおの祀り方は?

A:後継ぎはいないけれども自分が、あるいは夫婦で生きた証として、せめて一定期間だけでもお墓で眠りたいというご相談は多々、あります。
 当山では2つのやり方でお応えしています。
 1つは、「一代墓(イチダイボ)」です。
 普通にお墓を造り、ご希望の期間が過ぎたなら、お墓を撤去して共同墓で永代にご供養するという方法です。
 ペットも一緒のお墓を建て、とても安心される方々のお顔を見ると、小生も嬉しくなります。
 もう1つは、賃貸墓(チンタイボ)です。
 これは、転勤族の方々からもお問い合わせがあります。

 また、墓じまいをする際には、共同墓に永代供養されれば問題はありません。
 おりおりの年忌供養については、その都度、信頼できる寺院へ依頼して納得できる形のご供養をされればよいのではないでしょうか。

 いずれにせよ、み仏のご加護は相手を選びません。
 み仏の前で、ご一緒に考えれば必ず道は開けます。
 どうぞ、ご相談をお申し込みください。

Q:これからお墓はどうなっていくのか?

A:埋骨の形は時代と共に変わって来たし、これからも変わって行くことでしょう。
 ただし、スペインの思想家が「人間は、死者守(モリ)動物である」と言ったとおり、私たちは亡くなった人を決して放置できません。
 まっとうな人ならば、必ず人間としての尊厳にふさわしい方法で祈り、納め、悼み、供養して行くはずです。
 それは、非日常的な宗教的感覚であり、心を込めて行うことごとは、聖なる宗教的行為です。
 問題はお墓の形よりも、宗教的感覚がどうなるかというところにあるのではないでしょうか?
 
 人間の歴史が始まって以来、死は厳粛なものとしてとらえられ、死者は畏れられ、死の世界が表現されてきました。
 およそ人間の住むところにおいては、塚を造り、絵を画き、塔を建て、祈ってきました。
 そうして死と向き合うところに、日常生活を超えた感覚がはたらき、〈欲に追われ他者とぶつかる自分〉を超えた霊性が回復される体験を繰り返してきました。
 死を契機としてはたらく霊性の光は個人の心を深め、文化を練り上げてきました。
 その地点から戦争を否定する思想も行動も起こり、人類は全体として破滅せず歴史を刻んできたのだと思います。

 私たちがお墓と死者のありようを真剣に考えるのは、霊性をはたらかせることに他なりません。
 固定したお墓を守りにくいからといって、かけがえのない宗教的感覚までも忘れてしまうならば、それは人間が人間でなくなる過程になりかねません。
 日本人の宗教的感覚は、聖地で、仏神や聖職者と共に、清浄で温かな空気を吸い、日常生活の汚れや穢れや疲れを落とし、いのちと心のはたらきをリフレッシュするという感じであると考えています。
 ここを大切にし、宗教宗派でいがみ合わず、他の宗教を邪教として排除せず、独善的な主張でぶつかり合わないのが、明治までは神社と仏閣が並んでいた日本本来のありようではないでしょうか?
 その方、その方なりの死生観を磨き、子々孫々のためを思い、最善の行動を目ざしたいものです。
 



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2016
11.19

生きている間だけが問題か? ─今の自分と死後の自分─

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〈当山近くにある『ペット霊園やすらぎ』様で、恒例の供養会を行いました〉

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〈ストーブの前は極楽〉

 よく、「人事(カン)を蓋(オオ)うて定まる」と言います。
 人の評価は、死後にはっきりするという意味です。
 生きているあいだは、義理や人情や損得勘定などがからみ、人物そのものの正確な評価は行われにくいものです。
 権力者や裕福な人は「大したものだ」と持ち上げられていても、その〈人となり〉については、身近にいる人々から厳しい目で見られていたりします。
 死後、身にまとっていた諸々がなくなると、その人そのものの真姿が明らかになります。

 死後は関係ない、自分が生きている間だけが問題だ、と考える方もおられるでしょう。
 そうでしょうか。

 少なくとも、自分の子供や孫、あるいは後の世代のことを考慮する人ならば、そうは言えないはずです。
 なぜなら、若い人たちの未来を考えながら生きるかどうかは、自分の今をどう生きるかという問題そのものだからです。
 後の世代に思いをいたしつつ生きる人は、生きている間はもちろん、死後にはますます評価を高めることでしょう。 

 ある時、ある田舎町のご葬儀導師を務めました。
 ご家族だけの質素なお別れでしたが、学生服を着たお孫さんがよてもよい姿勢でお別れの言葉を述べました。
 ご本人の了解を得てその一部を掲載しておきます。
 

「おじいちゃんから学んだ一番のことはあいさつ。
 人と接する上で大切な事はあいさつをきちんと出来る事だと、何度も教えてくれたよね。
 そのおかげで、どこに行っても、礼儀正しく立派だと僕はいつも誉められます。
 これはおじいちゃんのおかげだね!!
 ありがとう。

 おじいちゃんはいつも自分の事より、皆の事を優先して考える人だったから、入院した時だって、本当はおじいちゃんが病気で辛いはずなのに、僕達の心配ばかりしていたね。
 そんな思いやりのあるお祖父ちゃんが僕は大好きです。

 おじいちゃんにしてもらった事はたくさんあるけれど、僕は何も返してあげられなかったから、おじいちゃんの代わりにおばあちゃんの事は僕が守って行くから、安心して僕に任せてよ。
 だからおじいちゃん!!
 天国から僕達の事を見守っててね。
 僕もおじいちゃんみたいな立派な大人になれるように頑張ります。」


 おじいちゃんは、現場で汗をかくことをいとわないまじめな普通のサラリーマンだったそうです。
 戦後の混乱と競争の中で生き抜き、子供たちを育て上げました。
 特に名を立てたわけではなく、莫大な財産も遺しませんでしたが、家族や友人に囲まれつつ静かに逝きました。
 そして、と共に、この上なく高い評価が一つ、下されました。
 礼儀正しく、おばあちゃんを思いやる中学生が一人できあがることに大きくかかわっていたのです。
 一人の若者のお手本になっていたのです。
 しかも、その真実を、当の中学生が厳粛な場で堂々と証言しました。
 これ以上確かに「定まる」ことは望み得ましょうか?

 私たちは、望もうと、望むまいと、お(ヒツギ)に横たわってから、送った人生が顕わになります。
 しかも、自分以外の人によって観られ、思い出され、語られる真実は、〈死後の自分〉という永遠なる未来を定めます。
 生きた自分だけでなく死後の自分も、それを記憶する人々と、その人々とになる人々の生きざまにかかわって行きます。
 決して「自分が生きている間だけが問題」ではありません。

 滔々たるいのちと心の連鎖、という時間的・空間的に無限大なる網の繋ぎ目である一瞬を今、生きていることを忘れずに日々、過ごしたいものです。




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2016
11.18

葬儀・葬式とは何か? ─語られていない真実─

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 以下は、一宗教者として日々、救いと安寧を求める方々に接し、祈り、生きている真実に立って書いた。また、人は死んでもまったくの無にはならないという人類の発祥以来培ってきた感覚を前提としている。
 また、スペインの思想家ウナムーノの指摘に対する深い共感もベースとなっている。

「人間を他の動物と最も明確に区別するものは、人間は何らかの形で死者を保管し、万物を生み出す母なる大地の恣意にまかせるようなないがしろな態度は決してとらないということであるといえよう。
 つまり、人間は、死者守(モリ)動物なのである。」

「生きている者のために、不順な天候が破壊してしまうような土の家や藁小屋しか作らなかった時代に、死者たちのためにはすでに墳墓が建造されていた。
 石は、住居よりも以前に、墓のために用いられたのである。」


 こうした「死者守動物」としての人間にとって、ご葬儀とは何か?

○死者にとっては、この世での役割を終え、あの世へ旅立つための宗教行為

 死に逝く人は、誰もが安心の裡に旅立ちたい。
 元気なうちは切実な実感がなくとも、いざ、その時が近づくと、不安や焦燥感や執着心が起こり、それを抱えたままでよいと思う人はいないだろう。
 しかも、財産であれ、名誉や権力であれ、親しい人であれ、世間的に価値あるはずのものは、追いつめられた状況を解決してくれない。
 お釈迦様は説かれた。

「死に迫らるれば、親(シン…親しい人)とても頼むべきなし」


 未体験の非日常的できごとである死を迎え容れるには非日常敵次元における真実である宗教的感覚を眠りから覚ます必要がある。事実、当山にご縁の方々は、その方なりに祈る心を持ち、従容として旅立たれている。
 求める救いはいったい、どこにあるか、自分の心をよくふり返る必要があるのではなかろうか?

○遺族にとっては、感謝と報恩の思いを込め、死に逝く人の安寧を祈る宗教行為 

 死に逝く人の人生に対して畏敬の念を持っていれば、決して〈手続き〉では済まされない。
 たとえば、死を迎える親の恩を思い、自分の親不孝を振り返る時、どうにもならないもどかしさを感じるのではなかろうか?
 たとえば、自分のいのちに代えてでも守りたいと念じつつ育てた我が子を送らねばならない時、断腸の思いと共に、行く先での安寧を願わない親はいるだろうか?
 そうした思いを何とかする日常的手段はない。
 日常生活に亀裂や断絶が生じる時、救いになるのは、非日常的世界から伸ばされる目に見えぬ思いやりの手である。

 また、忘れてならないのは、故人が生き抜いた人生のおりおりに、ご縁となり、お世話になった方々へ故人に成り代わり、逝去の事実と、遺族としての謝意を伝える重要な機会であるという点である。
 誰一人、自分だけで生きられる人はいない。
 死という区切の際にお礼を述べないで済まされようか?

 去る当人としても、ひっそりと、なるべく手を煩わさせないで逝きたい気持は同意できるが、一方で、規模の大小を問わず、きちんと公に「おかげさま」と社会へ向かって思いを発することは、社会内で生きた者としての責務と言えるのではなかろうか?
 喪主の挨拶を単なる形式にすべきでなはい。
「故人にお寄せいただいたご厚情にあらためて心から感謝申し上げますと共に、遺された私たちへも変わらぬご指導・ご鞭撻をお願い申し上げます」
 この麗しき文化を弊履の如く捨て去ってよいとは到底思えないのだが……。

○宗教者にとっては、死者にこの世とあの世の区切をつけ、遺族に死を受け容れ、身近な人の死を縁として人生の真理を見つけていただく宗教行為

 冒頭に挙げたウナムーノの言葉は、11月16日付の河北新報で報じられた小生の『死者への畏敬こそ重要』へ書いたものである。
 人類は発祥以来、生きるために生きてきた。ケモノや鳥や魚を追い、穀物や野菜を育て、都市を造る過程で、たやすく肉食動物の餌となる弱い肉体の持ち主であることはほとんど忘れられ、祈りや医術によって、死はどんどん先へ延ばされてきた。
 それでも、いつかは必ず死ぬ。
 ネズミやリスと同じ齧歯類(ゲッシルイ)から進化してきた人間は、彼らと同じくいまだにビクビクし、危険や不快を感じるとたまらなくなり、病気にもなる。
 それでも支え合って生きるが、最後は必ず死ぬ。
 そうした〈仲間〉である人が死んだ時、私たちは決して仲間を放置できなかった。
 これまでウナムーノの言う「死者守動物」にならないではいられなかったし、今でも同じである。
 そこに、〈尊厳〉を感じとれる生きものとしての人間の真骨頂がある。

 日常生活的な方法だけでは、死と共に顕れる尊厳に応えられない。
 だから、非日常的な修行を続け、尊厳の世界に生き、尊厳の世界と日常生活を結ぶ力を養いつつ生きている聖職者が、死に逝く人にとっても、送る人にとっても必要だった。
 いざという時のために、皆で力を合わせて宗教の場を守ってきた。
 あくまでも自発的に。
 事情は今でも同じである。
 少なくとも当山においては。

◇現状について

『死者への畏敬こそ重要』にはこうも書いた。
「現実を眺めてみると、今の生をどこまでも謳歌するのみで、死をほとんど〈ないもの〉として脇へ置くかのごとき様相である。
 死者を簡便に片付けようとしている。
 それを促す方向で、死者までも、効率と競争の経済第一主義の原理に取り込もうとする社会がある。
 私たちの文明はこれで大丈夫だろうか。」

 ご葬儀は決して日常生活の延長としての単なるお別れ会ではない。
 あの世へ送る場は人類の発祥以来ずっと、崇高で厳粛な宗教的空間だった。
 お別れ会で済ませているのは現代日本人に特有の状態である。

 当山へご相談に訪れる方々はどなたも真摯である。
 突然、ご葬儀や、お戒名や、お納骨の依頼をされる方々は異口同音に「ようやく見つけました……」と言われる。
 皆さんは、自らの死や身近な人の死と正面から向き合い、亡くなった人と正面から向き合っておられる。
 ご葬儀は〈通過点〉でしかなく、自分の心は続き、あの世も続き、寺院と僧侶が不断にその世界を守っていることを感じておられる。
 文藝春秋の12月号「親と子で終活に備える」では、誰もこうしたご葬儀と宗教世界の真実を述べておられないが、当山とご縁の方々の間には揺るがぬものがある。
 それを信じ、そのパワーをいただき、感謝しつつ今日も法務に邁進したい。




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2016
11.17

煩悩を敵視しない ─心をまっとうに弾ませる智慧─

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〈救いを求めて〉

「あれこれと煩悩(ボンノウ)が多くて、悩みが絶えません。
 私みたいな者は地獄行きでしょうね」

 笑い話混じりでも、あるいは真剣な目でも、こうした質問は不断に続いている。
 小生はこんなふうに応えたりする。

「自分が一つの生命体として生きたいと思う以上、煩悩はなくなりません。
 でも、もし本当に、生きたいと思わなくなったなら、心は弾むでしょうか?
 心が弾む毎日であってこそ、生きている甲斐があるのではないでしょうか?
 問題は、どういう心がけで、どう弾むかにかかっています。
 この〈どう〉をつかむためには、智慧が必要です。
 知識ではありません。
 それは、仏教を学び実践することによっても得られますが、決してそれだけが得る道ではないし、仏教徒なら誰でも智慧を身につけているわけでもありません。
 多様な人生の多様なステージで、まっとうに、真剣にやっていれば、必ずなにがしかの形でつかめることでしょう。
 なぜなら、それは自分の心の中に求めるしか得ようのないものだからです。
 だから、悟りを得る方法として、『大日経』は『実(ジツ)の如(ゴト)く自心を知る』と説いています。

 もちろん、〝こんな気まま勝手な自分の心に大切な智慧などあるはずがない〟と思うかも知れません。
 自分は悟ったなどと公言する尊大な人の高慢さに比べたら、あなたの謙虚さは宝もののように貴いのですが、諦めてはもったいないと思います。
 私たちは一人残らず、み仏の子です。
 み仏からいのちと心を授かってこの世へ修行に来ている以上、心の核としての仏心は必ずあり、仏心を灯火として安寧と感謝で生きられるか、それとも憂き世の暴風雨に翻弄(ホンロウ)され、混乱と憤懣で生きるかは、仏心に気づくか気づかないかによって異なります。
 そして、人生がさまざまであるように、きづくチャンスもさまざまです。
 まっとうに、真剣にやっていれば、いかなる境遇でも、いかなる仕事をしていても、必ずチャンスは巡ってきます。

 もちろん、気づくとは言え、これが仏心だと指し示せるものではありません。
 ただ、深い感謝の念が特定の対象を超えて無限に広がり、あらゆるものと〈共に在る〉と実感され、自分を含めすべてが〈在る〉ことそのものに対して堪えきれないほどの愛おしさを覚えるようになれば、気づいた証拠と言えそうです。
 そうなった時、もはや煩悩があるかないかは問題になりません。

 自分の煩悩とその恐ろしさに気づいたならば、モグラ叩きのようにやっつけたいとイメージするのではなく、他者のよき生き方や、生きものたちが無心に見せるいのちの躍動に感応する心を錆び付かないようにしたいものです。
 そして、お手本として学ぶ謙虚さを失わないようにもしたいものです。
 そもそも私たちは、この世に生まれ落ちてから、いったい、どれほどたくさんのお手本のおかげで生きてきたのでしょう。
 心のありよう次第で、アリも、コスモスも、新聞配達のおじさんも、ホームの駅員さんも、すべてお手本に見えてきます。
 そうした意味で、み仏は究極のお手本です。
 だから密教では、即身成仏(ソクシンジョウブツ)つまり、お手本に成り切ってしまおうとします。

 自分の煩悩に気づき、これではいけない、情けないと意識する人は、大切なスタート地点に立っています。
 その謙虚な気持を失わなければ、きっと周囲に〈仏心の輝き〉を発見することでしょう。
 輝きを認めるすなおな気持を失わなければ、きっと自分もそうありたいと思うはずです。
 そこから先は、それぞれのタイプや生きて来られた過程や、今の環境などにより、千差万別の形で〈方法〉を探そうとされることでしょう。
 寺院へお詣りしたり、経典を読んだり書いたりするのも一つのやり方です。
 どうぞ、自在にお考えください。」

 人であれ、社会であれ、自然であれ、周囲にかけがえのない価値を感じ、自分がそのために役立とうとするならば、弾んでいる心のどこに煩悩があろうか?
 煩悩即菩提(ボンノウソクボダイ…迷いはそのまま悟りでもある)とはこのことである。




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「おん あらはしゃのう」
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2016
11.16

「東ロボくん」の限界と中学生の現状

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〈四国の霊場で出会ったお地蔵様〉

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 11月半ば、新聞やテレビなどのマスコミは、人工知能(AI)「東ロボくん」が東大合格を断念したと報じた。
 理由は、問題文などの意味を理解する能力に限界があるからだという。
 複数の文章を組み合わせると、一つ一つの短い文章は分析できても、それぞれの文章の意図や関係、あるいは全体の文脈を理解できない。
 プロジェクトリーダーの新井紀子・国立情報学研究所教授は明かした。

東ロボくんは、そもそも意味を理解して問題を解いているわけではない。
 そこに限界がある。」


 ここに重要な問題がある。
 ロボットは、問題文から答を導き出しても、それは問題文を〈理解〉した上で、問題文の意味する内容に〈ふさわしい〉答を見つけているのではない。
 単語あるいは組み合わせられた単語とつながる確立の高い単語を自動的に選び、自動的に組み合わせるだけなのだろう。
 
 たとえば、「秋が来た」「セーターが欲しい」という二つの文章がある場合、秋らしいセーターを持っていないからなのか、それとも寒いからなのか、といった心中の動きについては、前後の文章を分析しても解を見つけられないのだろう。
 生きた人間同士の会話なら、こうなろうか。
 男が言う。
「秋になったね」
 女が言う。
「セーターが欲しいわ」
 男にはさまざまな考えが起こりうる。
〝彼女は私とのデートで着る秋用のセーターもないほど貧しいのか〟
〝もしかして、この女は、モノカネが目当てで俺とつきあっているのではなかろうか〟
〝この娘はやっと、僕に甘える気持になってくれたらしい〟
〝セーターが欲しいほど寒いと言う先には、肉体関係を許してもよいという気持があるのかも知れない〟
 こうした判断を誤らなければ、二人の関係は妥当な結末へと進むだろう。
 もしも、女の言葉が男の反応を考えない不用意なものだったり、男の判断がトンチンカンだったりすれば、残念な結果が待っているだろう。

 情緒を含んだ理解と判断ができないロボットは、人間と心を通い合わせ、人間に代わってつき合うことはできない。
 もしも人間がロボットに愛着を感じるならば、それは人間の側からの一方的な気持でしかない。
 ロボットは、具体的な要求への対応としていつも変わらぬ反応を示し、決して裏切らないだろうが、それは変わらぬ思いやりを示しているわけではない。

 ロボット読解力を研究する過程で、恐ろしい事実も判明した。
 新井教授らが中学生読解力を調べたところ、約5割が教科書の内容を読み取れないだけでなく、約2割に至っては基礎的・表層的な読解すらできていないという。
 この指摘は恐ろしい。

中学生の多くは単にキーワードを拾って読んでいる。」


 これではロボットと同じではないか。
 もしも〈それだけの人間〉になったなら、ロボットに敵わない。
 それは、情緒や、他者の思いに対する感応力が鈍り、心が深まらず、ひいては人間性が貧しくなる道に違いない。

 人間が人間であるためには、読書が必要であると思う。
 それも、キーワードをつなぐノウハウものではない読書である。
 他者の多様な思考や感情に触れ、自分の思考や感情を豊かに養えば、人間はケダモノでなく、ロボットでなく、人間として生きられる。
 多様な自然と生きものの世界、多様な人間社会にあって、多様性に感応できる柔軟な姿勢を育て、人間らしい人間として向上しつつ生きられる。
 中学生諸君には、まっとうな本を読んで欲しいと願ってやまない。
 小学生から英語を教え、そろばん勘定の体験をさせる前に、やらねばならぬ重大なことがあると思う。
 読書の習慣づけである。




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2016
11.15

お地蔵様とお不動様の救い

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 鎌倉時代中期、無住(ムジュウ)は密教と禅を学び、臨済宗東福寺派の長母寺で法務を行いつつ、10巻もの説話集『沙石集』を書いた。
 彼は、臨済宗の開祖栄西から伝わる秘書『地蔵の決』についても記している。

「その中の肝心に、地蔵大日の柔軟(ニュウナン)の方便(ホウベン)の至極(シゴク)、不動は強剛方便(ゴウゴウホウベン)の至極(シゴク)となり。」

(その中の最も大切な部分として、地蔵菩薩は大日如来の優しい方法による救済不動明王は大日如来の厳しい方法による救済を、究極的につかさどるというものがある)


 以下、その一部を意訳した。

「ある時、恵心僧都(エシンソウズ)の妹である安養の尼が気絶した。
 僧正勝算(ソウジョウショウサン)は不動明王のマントラでえある火界呪(カカイジュ)を唱え、恵心僧都が地蔵菩薩の御宝号を唱えつつ修法した。
 やがて息を吹き返した尼が言った。
不動明王が火炎の前に立ち、お地蔵様が手を引いてくださいました。』」

「ある時、恵心僧都に給仕していた弟子が突然、亡くなった。
 彼にはモノにとらわれる気持があった。
 一人の僧侶に不動明王のマントラである慈救呪(ジクジュ)を唱えさせ、僧都は地蔵菩薩の御宝号を唱えつつ修法した。
 蘇生した弟子は言った。
『4、5人の男たちに持ちものを奪われ、抵抗したけれどだめでした。
 是非も問わず奪うのはおかしいとさらに抗議すると、髪を結い、白い杖を持った2人の童子が現れて男たちを追い払い、取り戻してくれました。
 さあ、これを持って帰ろうと思った途端、息が出ました。』」

地蔵は柔らかにふるまい、不動は荒々しく助ける。
 事実は口伝(クデン)が真実であることを証明している。

 地蔵と不動の適切な救いがなければ、生き死にに伴う苦しみから離れられないのは明らかである。
 地蔵は、いかなる迷いの世界にあろうとも、いかなる世界に生まれようとも、お救いくださる。
 不動は、まっとうに生きようとする時に邪魔をする業(ゴウ)による障りも、貪り・怒り・愚かさも、あらゆる魔ものたちの障害も取り除いてくださる。
 地蔵の救いによって迷いの世界から抜けだし、不動の救いによって魔ものたちから逃れることなくしては、安寧の世界に入れない。
 納得できるまでよくよく考えるべきである。」


 日本中で武士が殺し合った時代から700年以上経った今でも、秘法は守り伝えられ、お地蔵様とお不動様のご加護は確かである。
 四国の霊場にはそれぞれご本尊様がおられる一方、この二尊は、ほとんどの寺院で祀られ、祈られている。
 お地蔵様のお慈悲とお不動様のお智慧なくしては、この世をまっとうに生きられないだけでなく、臨終後の行く先も危うい。
 本当に〈相手を選ばない思いやり〉というものを考えてみよう。
 行き詰まったら静かに唱えてみよう。
「おん かかか びさんまえいそわか」
 本当に〈自己中心的でない道理〉というものを考えてみよう。
 行き詰まったら静かに唱えてみよう。
「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」
 お地蔵様とお不動様の世界が感じられるに違いない。




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2016
11.14

「霜月の空也は骨に生きにける」

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〈四国霊場の花〉

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 四国霊場の49番札所浄土寺に、正岡子規の句碑がある。
 空也上人(クウヤショウニン)を詠んだものだ。

霜月空也は骨に生きにける」


 霜月と呼ばれる11月は1年で最も印象の薄い月かも知れない。
 秋の収穫や祭や観光が終わり、人々の心は年末と新年へ向かい、足元の時間は薄く不安を忍ばせた様相で、ただ忙しく過ぎて行く。
 もの皆、枯れ果て、変わらぬ存在感を持っているのはカラスぐらいのものだ。
 だから、子規はこうも詠んだ。

霜月や石の鳥居に鳴く鴉」


 人々が寒さに縮こまり、どこへ行っても暖を求める季節。
 寒風に立つ石の鳥居は、眺めるだけで冷たさがリアルに想像され、誰一人触れたいとは思わないだろう。
 しかし、真っ黒いカラスだけは平然と止まってあたりを睥睨(ヘイゲイ)し、いつに変わらぬ声で鳴いている。
 その存在の濃さに、子規は恐怖を覚えたのではなかろうか。

 さて、冒頭の句である。
 平安時代、阿弥陀聖(アミダヒジリ)と称された空也上人は鉦(ショウ…小さなカネ)などを叩き、ただただ、南無阿弥陀仏を唱えながら踊り、全国を行脚した。
 途中で寺院を建立したり、橋をかけたりするなど、社会事業も行った。
 京都の六波羅蜜寺(ロクハラミツジ)にある有名な像では、口から出る6つの文字がそのまま小さい6体の仏像に結晶している。
 身体は極限まで枯れようと、念仏は息のある限り続く。
 その思いは骨になっても消えない。
 霜が降り、いきものたちの活動が細って行く11月こそ、遺された上人の思いが際立つ。

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 醍醐天皇の第二皇子という出生にもかかわらず、仏道修行と人々の救済に一生を捧げた上人の痩せた姿は、お釈迦様の修業時代を想像した有名なお像に結びつく。
 3~4世紀にガンダーラで作られたとされるお像は、鋳造や石造となり世界中で拝まれ、当山の境内地にも鎮座しておられる。
 印象の薄い霜月といえども、時はいつもと同じく流れている。
 こうした時期にこそ、子規のように立ち止まり、寒風にも消えず、歴史の波にも消えなかった心の灯火に想いを馳せてみたい。




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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
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2016
11.13

先進国の贅沢と世界的格差の罪 ─鬼子母神に学びたい─

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〈冬の四国霊場で桜に出会うとは〉

 11月12日付の河北新報は、「世界が日本と同じ暮らしをしたら」と題し、世界自然保護基金WWF)の調査結果を掲載した。
 以下、抜粋である。

「世界中の人が日本人と同じような暮らしをした場合、地球全体で必要になる食料や水、木材など自然資源の量は、地球が安定的に供給できる量の2・9倍になってしまうとの報告書を、世界自然保護基金WWF)が11日までに発表した。」

「各国の消費データを専門家チームが分析。
 現状でも安定供給できる量の1・6倍の資源が世界全体で消費されており、中国やインドといった新興国が経済成長して先進国並みの暮らしをする人が増えると、状況がさらに深刻化する恐れがある。」

「発展途上国の人々が貧困に苦しむ一方、日本などの先進国で資源の大量消費が続いていることを改めて示す結果だ。
 WWFは『危機的な自然環境を回復させるため、過剰な消費を減らして、環境に配慮した製品を選ぶべきだ』と訴えている。」


 ちょうどこの日、当山の寺子屋「法楽館」では、ダラムサラにおけるダライ・ラマ法王の日常生活に密着した映画『サンライズ・サンセット』を観た。
 ロシア人のドキュメンタリー映像作家マンスキー氏の作品は瞑想と講演を日常とする聖者の生活を活写していた。
 氏が帰国する車中で法王の話を回想する場面は忘れられない。
 以下は法王の言葉である。

「問題は貧富の格差にある。
 一般的にみて、北半球の人々はあり余る製品を作り、余剰分を輸出して利益を得ている。
 一方、南半球にあるアフリカや中南米やアジアの多くの国々は、貧しく、飢えに苦しむ地域さえある。
 同じ地球に生きていながらひどい話だ。
 片方では物があふれてぜいたくを楽しみ、他方では同じ人間が、同じ社会で人権を持ちながら飢えている。
 実に不公平だ。
 米国では億万長者が増えているが、貧しい者は以前にも増して貧しい。」

「貧しい者は富む者を横目で見ながら、不満と溜めこんでいる。
 その不満が募れば怒りになり、怒りが募れば暴力に、やがて共同体全体が不安に包まれる。
 このように、国家間や地域の紛争も、もとを糺せば貧富の格差に行きつく。
 それだけ、格差問題は重大なのだ。
 このまま貧富の差を放っておけば、深刻な事態を招くだろう。


 この映画は8年前に制作されたものが、すでに世界は「深刻な事態」に陥っている。
 南半球にある国々では、戦乱の絶えない状態が続き、覇権と資源を狙う北半球の国々が絶え間なく軍隊を送り込んでいる。
 そして、ついには、南半球から逃げ出そうとする人々を北半球へ受け入れず、封じ込めようという動きが強まってきた。
 ヨーロッパでは、イギリスがEUからの離脱を選び、アメリカでは人種差別的発言を続けるトランプ氏が大統領に選ばれた。
 ガラス細工をつくるように、叡智と忍耐と連帯の力で築き上げてきた普遍的価値が、いとも簡単に脇へ置かれ、目先の不満を解消したいという追いつめられた多数者の意思がマグマとなって噴き出した。
 日本も例外ではなく、他国で戦争をしないという国是が無視され、マイケル・マクエイ・ルエス情報相が「7月に政府軍とPKO部隊との間で交戦があった」と明言しているスーダンで、自衛隊をさらに前線へ出そうとしている。
 
 私たちは、世界のありように目をつぶってはいないか?
 私たちは、世界的悲劇を解決することなど、考えていないのではないか?
 虐げれた人々が暮らす地球の裏側にある戦争は決して他人ごとでなく、私たちの子や孫を巻き込もうとしているのに……。
 生活、進学、就職、収入、医療、あらゆる面で進みつつある格差の拡大を直視し、この不公正が世界的規模で広がり、紛争や戦争の根本原因となっていることを理解し、考え、行動せねばならないのではないか? 
 WWFの指摘を続けよう。

「チームが2012年の国民1人当たりの環境負荷を指標化したところ、米国とカナダが安定供給量の4・8倍を消費。
 ドイツとフランスは3倍ほどで、2・9倍の日本は先進7カ国で5番目に多かった。」

「日本は特に食生活に伴う負荷が全体の26%を占め、食品の大量消費が浮き彫りになった。
 自動車や飛行機など二酸化炭素(CO2)を排出する交通分野も32%と多くの資源を使っていた。」

「また哺乳類や鳥類、魚類など3700種以上の個体数の変化を調査すると、1970年以降の42年間で58%減ったことが判明。
 生息地が失われたのが最大の要因で、地球温暖化や外来生物の影響もあるが、人間活動の拡大が背景にあるという。」


 先進国では、富む者は栄養を摂りすぎてダイエットに励む一方、雇用される者は、はらたきすぎるために成人病で苦しむ。
 地球を破滅へと向かわせながら、これほどまでに〈求める〉必要があるのだろうか?
 もしも、多くの人々がそうせざるを得ないと言うならば、それは富の絶対量が足りないのではなく、社会的配分が不公正だからだ。
 人間以外の血を持った生きものたちが、たった半世紀足らずで約6割も減ったとは、あまりにも恐ろしい現実だ。
 もはや、私たちは、タコが自分の足を食うなどというイメージよりも、鬼子母神の逸話を考えるべきだろう。

 ハーリティーは、美しい女神で500人の子供たちを大切に育てていた。
 しかし、彼女が食べるのは他人の子供だ。
 我が子を食われて嘆き悲しむ人々はお釈迦様へ相談した。
 お釈迦様はただちに彼女の末っ子を1人、隠した。
 気も狂わんばかりになった彼女はついにお釈迦様のもとへ駆け込んだ。
 お釈迦様は、「500人のうちたった1人を失っただけでそれほど悲しいのなら、お前に子供を食われた人々の悲しみはいくばかりか」と説かれ、心を入れ替えた彼女は、あらゆる子供たちを母親のように守る鬼子母神となった。

 私たちは、自分の子や孫が病気になれば、自分のいのちと取り替えてでも救いたいと願う。
 それと同じように、世界中で、飢餓や病気や戦争によって〈我が子や孫〉たちが時々刻々と失われている。
 それは、世界にモノが不足しているからではなく、世界中のモノが偏在しているからだ。
 格差という名の偏在を解消する智慧がなければ、私たち人類は、いきものたちと人間への殺生(セッショウ)という罪の報いを、滅亡によって受けねばならないだろう。
 滅亡など、あっという間に起こって何の不思議もない。
 紛争が戦争に進み核兵器が動けば、もはや、敵も味方もなく放射性物質の餌食となり果てる。
 格差の拡大、核兵器と核発電の存在、そして調整されない人口の爆発は、その現実性を日々、高めている。
 このままでよいという根拠はあろうか?
 



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2016
11.12

流されず、地力をつけよう ─11月の運勢─

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〈四国の霊場で出会ったツワブキ〉

 11月7日から12月6日までの運気の流れと私たちの心づもりについて少々、書いておきます。

○自分の視点を失わないよう

 今月は、仰ぎ見るべきものをまちがわないようにしましょう。
 ポイントは、多数者が仰ぐものだからといって惑わされず、自分なりの価値観で見分けることです。
 無定見のまま、烏合(ウゴウ)の衆に混じっては危険です。

 私たち一人一人の意思は、集まれば多数者の意思となりますが、情報化社会では、氾濫する情報の中にいかなる意思が含まれているか、もっと言えば、いかなる意思が多数者を動かそうとして情報を操作しているか、なかなかわかりません。
 たとえば、アメリカ大統領選挙の最終盤で、FBIのコミー長官がヒラリー・クリントン氏のメール問題を再びとりあげ、わずか数日で訴追なしと発表しました。
 なぜ、ああしたことが行われたのか、誰がどう絡まったのか、選挙の結果とはどういう因果関係が認められるか、ベールに包まれたことだらけです。
 謎のつむじ風に煽られながらアメリカ国民は投票し、結果が出ました。
 何がどうだったかは、歴史が教えてくれることでしょう。

情報客観性を疑ってみたい
 
 情報公開、ネットの時代となり、さまざまな統計が発表されます。
 しかし、その客観性は、必ずしも保証されていません。
 誰しもが〈良い成績〉を見てもらいたい以上、そこに作意がはたらくのは当然だからです。

 たとえば、手術の成功率を取りあげてみましょう。
 A医院は80パーセント、B医院は70パーセントと出れば、多くの人々はほぼ無条件に、A医院を信頼するでしょう。
 しかし、もしも、A医院では患者に早くから手術を勧め、B医院ではなるべく患者の心身と財布に負担をかけぬよう、慎重に手術の時期を見極めているとしたならば、私たちはどう考え、どう選ぶべきでしょうか?
 統計というもののあやふやさや、私たち自身のものの考え方を振り返ってみる必要があるのではないでしょうか?

 また、情報の流通量を競うネットの業者は、クリックされる機会が多く見込まれる情報を優先して流します。
 そこにも必ず作意があります。
 だから、私たちは、〈鵜呑みにしない〉〈納得するまで調べる〉といったことを心がけねば、作意の掌で転がされかねません。

○肝腎なものを守ろう

 神社仏閣のお詣りはブームの域に達しているそうですが、皆さんは、どういう意識で出かけられるでしょうか。
 観光なら、美しいものや、凄いものを観て満足することでしょう。
 やむにやまれぬ思いで祈らずにいられなくなって出かけるなら、きっと何か、非日常的な得難い体験をすることでしょう。
 どちらの目的であっても、訪れる人々の心が聖地を支えていることは確かです。

 四国の霊場を巡拝し、それぞれの寺院が持つ雰囲気の違いを強く感じさせられました。
 訪れる人の心の波に同調する形で願いを引き受けてしまうような寺院がある一方で、波をすっぽりと吸収してしまうような寺院もありました。
 いずれにしても、僧侶がきちんと祈っている寺院では、お詣りする方々の祈りも又、深まることでしょう。

○嫉妬やへつらいはやめよう 
 
 今月は、他者への嫉妬や、権力者へのへつらいなどにも要注意です。
 勝れている人や精進している人を素直に認められなければ、幻の高慢心を持ち、結果的に自分を貶め、運勢を傾け、和合を損なうだけで、百害あって一利もありません。
 他者の力に過度に頼れば、いつまでも繰られるままでしかありません。 

 有徳の人を尊敬することは、他者と和する優雅でゆとりある心をつくるための第一条です。
 ゲーテはこんなことを言っています。
「生命ある自然の中では、全体というものと結びついていないようなことは、何一つ起こらない。」
 私たちのありようも、他者との関係性の中で揺れ動きます。
 よきものを認め、よきものに共鳴し、よき心を伸ばし、地力をつけたいものです。




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2016
11.11

四国の巡拝を終えて ─ご加護と祈り─

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〈キリシタン灯籠〉

 おかげさまにて、四国の霊場を25カ寺、予定通り巡拝し終えました。
 雨も風もありましたが、前回のような嵐には遭わず、60代から70代の男女7名はそれぞれの目的を達しました。
 お大師様をはじめ仏神のご加護と有縁無縁の方々の善心とが、強い悪縁を避け、弱りつつある足腰をお支えくださいました。
 感謝にたえません。

 48番札所西林寺では、考えごとをしているうちに車の中へ頭陀袋(ズダブクロ…托鉢などで首に懸ける袋))を置き忘れ、せっかく納経所に並んでいる運転手の滑田(ナメタ)さんを列から外させるわけにもゆかず、心でお線香やおローソクを捧げました。
 情けなく、申しわけない気持でいたところ、帰り際、滑田さんから教えられました。
「納経所の横におられる福授地蔵様は、願い事をお聞き届けくださることで有名です。
 ただし、願いは1つだけしか懸けられませんから、くれぐれも欲張られませんよう」
 もちろん全員が、池の中に立つお地蔵様へとつながる橋の前に並びました。
 引け目を感じている小生は、「さあ、誰の何を願うんでしょうか?」などと軽口を叩きながら最後尾につきました。
 結局、忘れた不始末をお詫びして、何とか最後まで役割を果たさせてくださいと祈るしかありませんでした。

 46番札所浄瑠璃寺では、ご本尊薬師如来様の前に立ったところ、早朝でまだ参拝者もほとんどいないのに、大きな屋根の下に集う無数の人々の気配を感じて鳥肌が立ちました。
〝これはどうしたことだろう?〟
 畏怖の念を抱きながら大師堂へ向かったら、「抱っこ大師」がおられました。
 幼少時のお大師様に擬した小さな木彫りのお像で、皆さんがいなくなってからこっそり抱っこしたところ、妙にしっくり来るではありませんか。
 男女それぞれ、肉体的にだけでなく精神的にも特性があり、男性原理、女性原理という言葉もありますが、男女共に、精神的には両性の要素を持っているようです。
 その比率には当然、個人差があって、その人らしさが形づくられています。
 抱っこ大師は、女性に母性を意識させるだけでなく、男性からも隠された善き女性的何ものかを引き出してくれるのでしょうか。
 帰山してから調べたところ、江戸時代、地元の庄屋が托鉢僧堯音となって全国から寄進を募り、山火事で消失した伽藍を再興したと知り、二度、鳥肌が立ちました。

 そういえば、飛行機に備え付けられた雑誌に、競馬馬を指導する調教師の話が載っていました。
 牡馬は自己主張が強くてよく抵抗するが、嫌なことをすぐに忘れてくれる一方、牝馬は嫌なことをよく覚えているから慎重につき合わねばならないと書いてありました。
 隣に座ったAさんにこのことを伝えたら、「私は牡馬ね」と大笑いになり、妙に納得したものでした。

 最後の53番札所円明寺では、ご本尊の阿弥陀様とすっかり感応してしまい、声明(ショウミョウ)からすぐに阿弥陀様の真言に入り、たった3度ですが存分に唱え終わって振り向いたところ、皆さんから般若心経がまだですよとお叱りを受けました。
 それでも気を取り直して大師堂へ向かい、最後に九字を切って無事、行程を終えました。
「善男善女、心願成就」
 帰り際に、滑田さんからキリシタン灯籠へ導かれました。
 キリスト教が禁制だった時代、円明寺では事実上、キリシタンの祈りを認めていたとされています。
 さすがはマンダラを説くお大師様の姿勢を受け継ぐ寺院であると感じ入りました。

 途中でアメリカ大統領選挙の結果を知りました。
 私たちはさまざまな観念を持ち、願いを持って生きていますが、人間の歴史と共に練られ、深められてきた普遍的な価値を伴った観念は、目先の現象を眺めているだけではつかめず、実感もできません。
 移民国アメリカで培われてきた〈平等〉の思想は、公正な社会を実現するために不可欠であるにもかかわらず、目先の結果を競う方向へと強く傾斜した〈自由〉の意識に覆われつつあるように思えてなりません。
 それは、資本主義体制をとる先進国各国に共通する問題です。
 自由に結果を競うだけの単純な原理で世界が動けば、弱肉強食という現実の前に勝者と敗者は固定化し、勝者はより富み、増殖する敗者たちはより簒奪されて悲惨な境遇に陥ることでしょう。
 これではケダモノの世界と変わりないではありませんか。
 トランプ氏は叫び続けました。
「アメリカを偉大な国にする!」
 それは、アメリカ人以外を除く世界中の人々にとっては、迷惑で独り善がりな意識でしかありません。
 自国や自国の仲間だけが勝者であろうとするような意識を喚起する指導者には、世界中が注意せねばならないと思います。
 一方、彼の最大の功績は、民主党のサンダース氏と共に、没落しつつある層の苦しみや怒りをしっかり受け止めたという点にあるのではないでしょうか。

 硬直した原理だけでは公正な社会を気づきにくいという現実の前で苦闘しているフランスのオランド大統領だけは、さすがのコメントを発表しました。
「今般のアメリカ大統領選挙は不確実な時代を開きます。」
 単純で俗耳に入りやすいフレーズを叫ぶ人ではなく、対立する思想や立場や利害を公正に調整できる慎重で叡智に富んだ指導者が求められていると思います。
 そして、私たち一人一人もまた、そうした人を選べるよう意識を高めねば、社会の亀裂や対立を深めて行くおそれがあります。

 お釈迦様は2500年前、弱肉強食から自他共に救われる道へ向かうよう説かれました。
 お大師様は1200年前、個人的・歴史的人間性の深まり、高まりがどのように進んで行くか明確に説かれました。
 実際に主著「十住心論(ジュウジュウシンロン)」「秘蔵宝鑰(ヒゾウホウヤク)」を読み解いた岡倉天心、菊地寛、湯川秀樹、井筒俊彦といった人々は、その真実性と価値を指摘しました。
 不確実な時代に、私たちと日本が進路を誤らぬよう、45番札所岩屋寺の穴禅定では魂魄の力を込め、九字を切りました。
「天下泰平、万民富楽、不戦日本、世界平和」




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2016
11.10

静寂の共有 ━修行の深まり━

 今回の四国巡拝は今日で終わる。
 前回、お遍路さんとして目立ったヨーロッパ系の方々、特に、自転車で回る若い方はほとんどいない。
 多いのが僧侶に連れられた団参者だ。
 女性のリーダーもいて頼もしい。
 季節によって、これほど違うものかと驚く。

 最大の難所とされる45番札所岩屋寺で、40代の僧侶に声をかけられた。
「どちらからですか?」
「宮城です」
 即座に、震災の被害は?と返ってきた。
 あちこちで幾度か一緒になった彼は三重県からやってきたらしい。
 頭(ズ)が低く、自分より年上の20人ほどを巧みに率いている。
 まことに好ましく思えた。
 こういう人々が仏法を生かしてゆくのだろう。

 さて、「修行の道場」である高知県が終わり、「菩提(ボダイ)の道場」愛媛県に入ったところで、菩提心(ボダイシン)について少々、お話をした。
 お大師様が重要視されたこの言葉にはいくつもの意味がある。
 要は悟りを開くことに収斂するが、それではますますわかりにくいので、小生はよく「まっとうに生きたいと願い、精進する心」と表現する。
 湯川秀樹博士は、お大師様がこう願って生きた人であると指摘した。
「一日生きるとは、一歩進むことでありたい」
 ならば、私たちは今回、どう一歩進もうか?

 前回の巡拝では、「限られた時間内でしっかり思いを確立して歩くために、真言や御宝号を一区切りづつ丁寧に、ご本尊様とお大師様へ届けよう」と提案した。
 その結果、当山のグループは他のグループとかなり、リズムの異なった唱え方をしながら歩いている。
「南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛、~」とバンバン、重ねてやらない。
「南無大師遍照金剛━━━、南無大師遍照金剛━━━、南無大師遍照金剛━━━」
 もしかすると、声をかけてきた彼は、そんなところが気になっていたのかも知れない。
 プロは他のプロが自分と違うことをやっている状態にすぐ、気づく。

 さて、今回はそのちょっと先へ進みたい。
 たとえば、最後の「南無大師遍照金剛━━━」が終わり、声が切れた先にやってくる静寂の数秒。
 この<余韻>大切にしたいのだ。
 そこは無限のスピードで思いがお大師様へと通じて行く時間であり、同時に、お大師様からも無限のスピードでご加護が返ってくる時間であると思う。
 また、日常生活ではほとんど望めないほど意識が深まる貴重な時間だ。

 運転手の滑田(ナメタ)さんにもご協力をいただいたおかげで、本堂の前でも、大師堂の前でも、唱え終わってから次の動作へ移る直前の静寂を共有できるようになった。
 静寂と言っても、周囲で物音一つしないわけではない。
 大きな声でお唱えする声が周囲に満ちていようとも、息を吐ききり、無呼吸の状態となった自分の心に必ず静寂がやってくるし、それは、心を合わせて修行しているメンバーには<気配>としてわかるのだ。

 今回も貴重で、生きた修行ができた。
 もしかすると、息が止まったままになり、この静寂に入りきってしまえば、安寧な成仏となるのかも知れない。
2016
11.09

四国で猫に会い、亀に会う

 四国霊場巡拝している。

○捨てられた猫

 37番札所岩本寺を過ぎ、金剛福寺へ向かう途中のドライブインで、ほっそりした猫に出会った。
 軒下で毛づくろいをしていたのは、白と薄茶色の若い雌猫だった。
 毛足の長い背中はさっきまでの雨に濡れ、やや狐顔のまなざしは、いかにも空腹そうに見えた。
 ゆっくり近づき、しゃがんで頭を撫でるとゴロゴロ言いながら身体を擦り付けてくる。
 やはり、捨てられた猫なのだ。

 餌になりそうな食べ物も持っていないので、「しっかり生きろよ」と声をかけてジャンボタクシーに戻ろうとしたら追いかけてくる。
 かわいそうだが振り切って乗り込むのを見た彼女は、隣に停まっている白い乗用車の下へもぐり込み、長めのしっぽがするりと消えた。
 それが永久の別れとなった。
 車中から一部始終を眺めていたらしいAさんは言う。
「捨てるくらいなら。飼わなければいいのにねえ」
 小生は応えた。
「そうですが、やむにやまれないケースもきっとあるんでしょうねえ」

 昼食時に潮騒を聞きながらうどんを食べている時、彼女を思い出した。
“誰かに餌をもらっているだろうか”
 宇和島駅前のホテルで夕食を食べ終える頃、一階のレストランから見える街路を急ぐ女子高生の白い傘が視界を流れ、またもや彼女を思い出した。
 不憫さに胸が詰まり、言葉も詰まった。
「━━あの猫はどうしているんでしょうか……」
 誰もが口をつぐんだままだった。

○現れた

 ジョン万次郎の巨大な銅像と道路をはさんだ向かい側に、目立たぬ宝篋印塔と、それを取り囲むさほど大きくない池がある。
 渡海僧の碑だ。
 その昔、手漕ぎの小舟で、遥か西方にある補陀洛浄土(フダラクジョウド)を目ざす渡海が試みられた。
 助手は神の遣いである

 一人の観光客もいない池を見つめていたら大きな野鯉が二匹、やってきて、背中を水面より高く出し、すばやくUターンした。
 続いて、30センチほどもありそうながゆっくりと頭を出したかと思う間もなく、水中へ没した。
 あとは、どんよりと雲の垂れる空の下、暗い水面が静まり返るだけだった。

 渡海僧は確かにと会い、に連れられて行くべきところへ逝ったのだろう。
2016
11.08

ツワブキとの初対面

 ツワブキがどういう花なのかをようやく知った。
 開ききった小さな菊花で、土手の目立たないあたり、あるいは、やや日陰になって他の華やかな花たちが見当たらないような場所で、ひっそりと咲いている。
 華奢な花弁の割には広葉樹のようにしっかりした濃緑色の葉をもっており、目を奪われた。

 昭和62年、小椋佳の作詞作曲による『流氷の街』が渡哲也の唄で巷に流れた。
 確か、テレビドラマの主題歌か挿入歌だったと思う。
 そのドラマを観たことはなかったが、いつしか、もろもろの問題で苦吟する者の耳の底に居ついた。

流氷の街の 片隅で
 心にしみ込む 優しさは
 涙おく 露草か
 ひそやかな ひとよ

 すまじきは恋の 戯れか
 心のなごみの 華やぎも
 ひとむれの つわぶきか
 隠れ咲く 花よ」

 小椋佳が言わんとするところは想像がついても、花そのものがいなかる姿をしているか、調べないままに約30年の月日が流れた。
 今回の四国遍路を迎える準備中、不思議とこの歌がよみがえった。
 そして、“この哀しみは何だろう?”と訝る思いを持ったまま飛行機に乗った。

最初に訪れた鶴林寺の参道で小さく黄色な花を見つけ、同行のご婦人方に訊ねた。
「何という花でしょうか?」
 そして、あっけない初対面となった。

 その慎ましさに涙を感じた。
 “小椋佳はいかなる思いでこの花を眺めたのだろう?”
 大ぶりでしっかりした葉にも唸らされた。
 食用にもなると聞き、今度は深く頷かせられた。
 あの歌の主人公が流氷の街で出会った女性のイメージは、霧の去った朝に存在感を増す風景と同じく、鮮明になった。

 知ってしまったせいで、よく目に入るのだろう。
 行く先々の札所で、ツワブキたちが出迎えてくれた。
 ポンと孤独に咲いているものもあり、群れているものもある。
 心で挨拶をしながら本堂へ向かう。
 祈りは確実に深まった。

2016
11.07

マルチの落とし穴 ─「俳人は俳句しかないのである」─

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〈地にあるもの〉

 今は、〈マルチ〉な人間が喜ばれる時代である。
 何かで名を上げれば、その人の行為は他の分野に関するものでも関心を呼び、マスコミに重宝される。
 しかし、そうした人々の中には、専門分野以外のところで、いかがなものか、と思われる行為に走ってプロプロたる土台を疑われたり、自分で破壊してしまったりするケースも散見される。

 かつて、「人間探求派」と呼ばれた俳人に石田波郷(ハキョウ)がいる。
 これから四国八十八霊場へでかけることを縁として、愛媛県出身の彼について少々、書いておきたい。

 昭和40年2月21日、俳人石田波郷は、毎日新聞に「俳句の魅力」を発表した。
 以下、抜粋を読んでみよう。
 歴史的仮名遣(カナヅカイ)で書かれたもので、読みにくいかも知れないが、当時のままで引用したい。

「今日では小中学生に俳句を教へる先生は、子供たちに、自分のほんたうに歌ひたいものを、自分の言葉で歌ひなさいといふにちがひない。
 俳句も詩である以上、私もこの考へは当然だと思ふが、私は形からはひつた私の入門を間違つてゐたとは思はない。
 私は形からはひつたが、それゆゑに俳句形式のもつ魅力を存分に学ぶことができたし、後年、自由な詩の欲求が起こつた時にも、自分のやつてゐるものが俳句であることを決して忘れず、形をくづすことを拒んできた。
 そして自らの表白の欲求によつて自らの俳句を生み出してゆく、生々たる営みを、これが生きるといふことかと思つたほどである。」


 波郷は、五・七・五という韻文の形を重んじた。
 切れ字がきちんとしていてこそ俳句であるとし、「歌ひたいもの」をそこに納めるべく苦闘した。

「俳句の魅力は、一口にいふと、複雑な対象を極度に単純化して、叙述を節してひと息に表現することにあると思ふ。
 複雑なものは複雑ななまゝに、多元のものは多元のまゝに詠まうといふ新しい方法も今日広く行われてゐるし、その方が、現代の句法と言へるのかもしれないが、俳句独自の魅力は弱まるのではないか。」


 詠みたい内容に合わせた自由な表現を否定はしないが、定まった形での表現にこそ、俳句の醍醐味があると言う。
 

俳人は俳句しかないのである。
 詠みたいことはすべて俳句でやるほかはない。

 おびたゞしい字余りや破調、日本語本来の語法を犯す叙法も、詠みたいものがあふれてやまないからだといふ考え方にも、同じ俳人として同情はできるのである。
 しかし同調はできない。


 文字どおり、血を吐くような叙述である。
 誰しも、言いたいこと、言わずにいられないこと、表現したいことを抱えている。
 それをどのように吐き出すかは自由だし、その気持は理解できるが、自分はプロとしての境界を破るわけには行かないと宣言している。
 まったく同感である。
 小生も、宗教者として最大の難問をそこに感じ、役割をまっとうできるかどうかの難関はそこにあると覚悟している。
 いわゆる「分際(ブンザイ)」の問題だ。
 小生のような凡人は、身の程を弁(ワキマ)えることによってしか、自分をかけた結晶体はつくれない。
 

「俳句表現にはたしかに限界がある。
 俳句といふ詩形を破ることなく、この限界をひろげることはむづかしいかもしれないが可能である。
 過度的に破調を来たすことはあつても必ず見事な完成をもたらして、俳句を前進させてきたのである。

 金剛の露ひとつぶや石の上 茅舎
 葛城の山懐に寝釈迦かな  青畝

 かういふ珠玉のやうな俳句、俳句表現の魅力を典型的にもつた句が私はたまらく好きだ。
 この二句の短冊を私は宝物のやうに大切にしてゐる。」


 お大師様は説かれた。

「夫(ソ)れ、仏法遥かに非(アラ)ず、心中にして、即ち近し。」


(そもそも、仏法はどこか遠くにあるのではなく、自分自身の心中にあり、身近なものである)

 この一文は、般若心経の真髄を説いた「般若心経秘鍵(ヒケン)」にある。
 仏教の行者は、世間に起こり自分に起こるいかなる現象についての〈解〉も、〈表現〉も、ここに求めるしかない。
 さまざまな理由から非宗教な分野にそれらを求める人びとに「同情」はできる。
 しかし、いかなる理由があろうとも、小生は「同調」できない。
 そうして、宗教の役割の「限界」をひろげ、「前進」させて行きたい。
 四国霊場で、その力を授かりたい。




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「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2016
11.06

この世の人だけではない納骨時の立ち会い者

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〈複雑に切断加工した木材を嵌め込み叩きつつ、巧みに組み合わせて行く宮大工さんたちの仕事ぶり〉

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樹木葬『法楽陵』のベニカナメ〉

 夏から続いていた陽の力が去ってしまう寸前となったある日、古い墓所でお納骨を行った。
 東日本大震災にも耐えた伝統的なフォルムの墓石は、それほど大ぶりではないが、石質といい、無彩色にほんの少々、淡いパープルが溶け込んだ色合いといい、建て主のセンスが偲ばれる。
 皆さんにお線香を捧げていただき、いよいよ最後の一人になった。
 とは言え、いちいち後姿を視認するわけではなく、ほとんど瞑目して経文を唱えており、人の動きは気配として感じているのみだ。

 その時、妙なことが起こった。
 墓石の前へ足を運んだのは一人だけなのに、もう一人、誰かが脇で佇んでいる。
 足音が聞こえなかった割には、そこに居る存在感があまりに濃密だ。
 この世の人ではないだろう。
 ただし、結界の中へ入って来たのだから、魔ものの類ではない。
 お線香を上げた人の足音が正面から動いたのを合図に、次の所作へ移った。
 目を開けると午後の陽光が小生の右後から射し、墓石のパープルは画家ジョルジュ・スーラがカンバスへ置いた点たちのように、存在感を増していた。

 すべてが終わっても、喪主様が小さな声で感謝を口にしたのみで、あとは誰も口を開かない。
 無事、納まるべきところへ納まってご安心でしたね、とのみお話しし、静かに辞した。
 もちろん、〈あの人〉はもう、いない。
 振り返り「誰か参加する予定だった方がおられませんでしたか?」と訊ねたい衝動にかられたが、落ち葉たちの形を見ながら、そのまま歩を進めた。

 駐車場に着き、少し落ちついて霊園を眺めた。
 さっきの方々がゆらゆらと揺れるように墓石群の間に現れ始めた。
 それぞれの脳内に〈もう一人〉が浮かび、皆を寡黙にさせているのではないか、と勝手に思いつつ、早々に車をスタートさせた。
 エディ・コスタの「ハウス・オブ・ブルー・ライツ」が流れ始めた。
 天才と呼ばれた彼は、勝負の一枚によって名声を不動のものにしたが、まもなく、31才で去ってしまった。
 もう、この先へは行けないと思えるほど深いタッチで響く低音は、あの世へ通じる扉の鍵までも弛めさせそうだった。

 この世あの世と通じ合う時間と空間は確かにある。




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2016
11.05

Q&A(その32)自分の人生を大切にするためには ─無常と瞑想の話─

2016-11-05-00012.jpg
〈精悍な構え〉

 人生相談をお受けしていると、「自分の人生を大切にしたいので……」と吐露(トロ)される方が少なくありません。
 そのほとんどの場合、意味するところは〈自分の意思を通したい〉ということです。
 お気持ちはわかりますが、本当に、「人生を大切にする」には「意思を通す」必要があるのでしょうか?

 ダライ・ラマ法王著『思いやること』の中に「人生を大切に生きる」という一節があります。
 

「生きている、というそれだけの理由で、あなたは重要な局面に立ち、重大な責任を負っています。」

「束の間の人生を、あなた自身と他者の利益のために使うべきです。」

「肉体的な幸せは、身体の中の要素がたまたまバランスを保っている状態であり、深く調和しているわけではありません。
 この儚さをあるがままに受け止めましょう。
 また先で時間がとれる、などと思い込んでいてはいけません。」


 法王は、人生を大切に生きたいならば、生きている状態そのものをきちんと見つめよう、そうすれば、まず、自分の存在は儚いものであると気づくだろうと述べておられます。
 そして、普段は忘れている無常を観察する瞑想の文を示されました。

1 私はいつか必ず死にます。
  死は避けられません。
  人生は終わりに向かっていて、延長することはできません。


 私たちは普段、自分が死ぬに決まっている存在であることなど忘れています。
 むしろ、当分、あるいはしばらく、もしかするといつまでも生きていると勘違いしています。
 だから不安に取り憑かれないでいられると言えばそれまでですが、事実や真実を忘れきっていると、ものごとの受け止め方や考え方の土台が狂い、ままならないところへ追いつめられたりします。
 自他の苦しみは、往々にして、真実を忘れていることが根本原因なのです。

2 死期を知ることはできません。
  人間の寿命は人それぞれ。
  死因はたくさんありますが、生の原因となるものはそれほど多くありませんし、肉体はもろいものです。


 私たちは必ず死を迎えますが、最大の問題は、その時期や形を事前につかめないところにあります。
 当山はこれまで、たくさんの方々からのお申し出を受けています。
「自分が死んだことをよくわかっていないでしょうから、迷わず成仏するよう、ちゃんと引導を渡してください」
 事故や事件で亡くなられた方のご遺族にとっては、ここが最も心配なところです。
 実に肉体は脆く、アッという間に壊れ、二度と元には戻りません。

3 私たちはみなこのように、危うい状態にあります。
  ですから、口論をしたり争ったり、お金や物をため込むのに心身のエネルギーを使い果たしている場合ではありません。


 私たち自身が無常な存在であり、生きものたちやモノなど、あらゆるものも無常であることをよくよく腹に納めたいものです。

4 刻一刻と壊れゆくものを不変と思い込むことで、私たちは自分にも他者にも苦痛を与えています。
  去り行く幻への執着を和らげるべきです。


 儚い者同士が儚いモノを奪い合うならば、何と哀れな状態でしょうか。
 そこには砂時計を自分の思い通りに止めようとする愚かさがあり、智慧の明かりがない無明(ムミョウ)はあらゆる苦痛を生み出します。

5 束の間のものを永遠のものと誤解するところから生まれた、苦しみのサイクルから抜け出すために、心の底から努力すべきです。


 モノ金や肉体に執着させようとする情報に満ちている日常生活は、無自覚に流されていれば、誤解が強まるだけです。
 目先の儚い〈楽〉が、抜きがたい〈苦〉をもたらしている事実は覆われています。
 国語教師橋本武氏は言いました。
「すぐに役立つものは、すぐに役立たなくなる。」
 私たちはいかに、〈すぐに役立つ〉ノウハウを求めて血眼になり、道具と化した私たちは、いかに簡単に使い捨てられることでしょうか。 

6 長い目で見れば、何より助けになるのは、自分自身の姿勢を変革することです。


 ようやく結論にたどり着きました。
 人生を大切に生きたいならば、何よりも先に、無明(ムミョウ)を離れねばなりません。
 それには、「自分自身の姿勢を変革」せねばなりません。

無常を意識するには鍛錬、つまり心を飼いならすことが求められます。
 ただしこれは罰を与えたり、外からコントロールするという意味ではありません。
 鍛錬とは、何かを禁止することではないのです。
 むしろ、短期的な利益と長期的な利益が相反する場合に、長期的な利益のために目先の利益を犠牲にすることをいいます。
 これは自制心と呼ばれるものですが、自分の行動の因果関係を理解することに根ざしています。


 私たちは、目先の快楽を引き出そうとする刺激の洪水に呑み込まれそうになっています。
 一方で、まじめに汗を流す苦労がなかなか報われず、目先をうまくやった人が大儲けしたり、有名になったりするのを見て、〝どうせ、自分なんて……〟あるいは〝どうせ、こんな世の中だから……〟と因果応報など考えてもみなくなったりしがちです。
 そこから脱して自分を取り戻し、活き活きと生きるためには当然、努力が必要です。

自制心があれば、平和で、ゆったりとした、幸せな気持ちになりますが、心がこのように鍛錬されていなければ、外の状況がどれほど素晴らしくても、恐れと不安に悩まされるでしょう。
 幸福は、飼いならされた穏やかな心に根ざしている、と理解しましょう。
 これは、周りの人たちにも多大な恩恵をもたらします。」


 自分が刺激や周囲の状況に流されず、真理、真実を観る人になれば、自分が幸せになれるだけでなく、周囲の人々にもまた、よき影響をもらたすことができます。

個人主義とは、外に何かを期待したり、命令を待つのではなく、自分自身が率先して行動すること、そこで釈尊はたびたび『個人の解放』を呼びかけたのです。


 10月29日、当山は「ジャズと法話と無料相談の会」を催しましたが、この3つには共通点と目的がありました。
 それは〈解放〉です。
 ジャズで感性を弾けさせ、法話で罣礙(ケイゲ…般若心経にある言葉で、心のひっっかり)を溶かし、プロへの相談で疑問を解消していただきたかったのです。
 お釈迦様は、道理をはたらかせるために解放を呼びかけられたのではないでしょうか?
 神のお告げや、権力者の意図に操られない人間になってこそ、人生は大切に生きられるのでしょう。
 

自由と個人主義には自制心が必要です。
 自由と個人主義が煩悩(ボンノウ)に利用されると、ネガテイブな結果が待っているので、自由と自制心は対になって働かなくてはならないのです。


 煩悩は必ず〈目先〉を利用しようとします。
 快楽や恐怖につながる道具を並べます。
 それに引っかからず、道理と思いやりで生きようとするならば、「短期的な利益と長期的な利益」をよく見すえましょう。
 自分にとって、社会にとって、世界にとって、地球にとって、何が真の利益なのか──。

 法王が説かれた瞑想の文を繰り返して読み、無常の真実に立って生きたいものです。
 その先にこそ、その人なりに「人生を大切にする」生き方がきっと見つかるに違いありません。




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「おん あらはしゃのう」
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2016
11.04

漢文『法句経』を読んでみる(その10) ─戒めに生きる真の安心とは?─

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〈仙北の町で赤信号の数十秒〉

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〈護摩堂・修行道場〉

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〈完璧なプロの仕事ぶり〉

 今回は『法句経(ホックキョウ)』の「戒慎品(カイシンボン)第五」を意訳してみましょう。
 実際に唱えることができるよう、すべてルビをふりました。
 幾度も唱えているうちに、お釈迦様の思いが身近なものになることでしょう。

○戒慎品(カイシンボン)とは、善道(ゼンドウ)を授与(ジュヨ)し、邪非(ジャヒ)を禁制(キンセイ)し、後(ノチ)に悔(ク)ゆる所(トコロ)無(ナ)きなり。


戒め慎みの一章では、善き道を与え、邪で非道な道へ行かせず、後から悔いるところのない生き方へと導く)

〔八八〕人(ヒト)にして常(ツネ)に清(キヨ)く、律(リツ)を奉(ホウ)じて終(オ)わりに至(イタ)り、善行(ゼンギョウ)を浄修(ジョウシュウ)せば、是(カク)の如(ゴト)くして戒(カイ)成(ジョウ)ず。


(常に身口意を清め、教団の決めごとを徹底的に守り、善き行いを清らかに修めるならば、人としての戒めが自然に成就する生き方になる)

〔八九〕慧(エ)ある人(ヒト)は戒(カイ)を護(マモ)り、福(フク)を三(ミッ)つの宝(タカラ)に致(イタ)す。名聞(メイブン)と、利(リ)を得(エ)ること、後(ノチ)に天(テン)に上(ノボ)りて楽(タノ)しむことなり。


智慧ある人は戒めを守り、幸福を三つの宝ものとして得る。名声と、財物と、死後に天界へ上っての楽しみである)

〔九〇〕常(ツネ)に法処(ホッショ)を見(ミ)、戒(カイ)を護(マモ)るを明(アキ)らかと為(ナ)す。真(シン)の見(ケン)を成(ジョウ)ずることを得(エ)ば、輩中(ハイチュウ)の吉祥(キッショウ)たらん。
(常に、因果応報の成り行きで幸福が得られる道筋を見分け、戒めを守るのが智慧ある賢者である。賢者がこの理を理解すれば、この世の人々の中にあって吉祥の生活となる)

〔九一〕持戒者(ジカイシャ)は安(ヤス)く、身(シン)をして悩(ナヤ)み無(ナ)からしむ。夜(ヨル)臥(フ)せては恬淡(テンタン)にして、寤(サ)めては則(スナワ)ち常(ツネ)に歓(ヨロコ)ぶ。


戒めを保つ者の心は安寧で、身体のはたらきに悩まされもしない。寝所では、心に引っかかりがなく眠りへ入り、朝に目覚めては嬉しい気持になる)

〔九二〕戒(カイ)と布施(フセ)を修(シュウ)し、福(フク)を作(ナ)せば福(フク)と為(ナ)る。是(コ)こより彼(カシ)こに適(ユ)きて、常(ツネ)に安処(アンショ)に到(イタ)る。


戒めを守り、布施に勤み、功徳が積まれれば、福徳に恵まれる。この世でも、あの世でも、安寧がもたらされる。

〔九三〕何(ナン)ぞ終(オ)わりに善(ヨ)しと為(ナ)し、何(ナン)ぞ善(ヨ)く安(ヤス)らかに止(トド)まり、何(ナン)ぞ人(ヒト)の宝(タカラ)と為(ナ)し、何(ナン)ぞ盗(ヌス)びとも取(ト)らざる。


(どうすれば、人生の終わりに善き日々であったと満足でき、そこへ至る人生安寧に過ごせようか。何が人々の宝ものであり、いかなる盗人にも奪われずに済むものなのか)

〔九四〕戒(カイ)は老(オ)いに終(オ)わるも安(ヤス)く、戒(カイ)は善(ヨ)く安(ヤス)らかに止(トド)まらん。慧(エ)を人(ヒト)の宝(タカラ)と為(ナ)し、福(フク)は盗(ヌス)びとにも取(ト)られず。


(戒めを保てば老いても安寧であり、戒めを説くものが信じられれば常に安寧である。智慧は人々の宝ものであり、福徳はいかなる盗人にも奪われない)

 ここには、戒めを守ろうと自分を縛るのではなく、戒めに添った生き方が自然にできるようになった状態が説かれています。
 そもそも、苦を滅する方法の根本として示された十善戒は、反すれば罰が当たるという性質の決まりではなく、そこを目ざし、そのように生きられてようやく、苦から脱することができるという道筋に他なりません。
 しかも仏教は、盲目的に信じれば救われるノウハウを示す宗教ではなく、あくまでも、一人一人が〈道理である〉と納得して実践することを求めます。
 だから、マインドコントロールとは無縁である点を押さえておきましょう。

 智慧ある人は、本ものの宝ものを知り、偽ものを求めないので、心が乱され苦しむという迷いから離れられます。
 こうした智慧は、至心に学び、納得して実践する過程を経てこそ得られます。
 それは、み仏の子である私たち全員に与えられた可能性であると言えましょう。

 私たちの仏心が花開いて実現する福徳は、誰にも奪われません。
 苦しみ、悩み、怒り、怨み、嘆いたままで過ごし、モノ金や人やいのちなど執着していたすべてから引き離され、大いなる安らぎを得ないままであの世へ旅立つのか、それとも、学び、生き方を変えるか、一人一人の姿勢が問われています。




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2016
11.03

ボルダルールと麻雀後の飲み会 ─皆にとって最もよい方法は?─

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〈朝日新聞様よりお借りして加工しました〉

 10月30日付の朝日新聞は、「届かぬ少数者の声」の中で、選挙民の意思と当選者の議席数を近づける方法の一つとして、スロベニアの一部で用いられているボルダルールを紹介した。
 慶應義塾大学経済学部の坂井豊貴教授などが推している。

「候補者が4人いたら、有権者は1位に4点、2位に3点、3位に2点、4位に1点をつけて投票。
 総得点が最多の候補者が当選する。
 当選するには幅広い有権者からまんべんなく支持を集める必要があり、『多数派のためではなく、万人のため』のルールだと言える。」


 教授は言う。

複数の選択肢から1つだけを選ぶ単純な多数決は、『どうでもよいこと』を決めるのに使うのがよい。


 たとえば、仲間で一緒に食事をする店を決める時などだ。
 こうした問題であれば、次回は、今回の少数派が選んだ店へ行くことにするなど、融和をはかる方法はいくらでもあるが、国の舵取りといった重要な場面では、人々の意思を公平に反映できる方法を慎重に選ばねばならない。
 実際、平成26年の衆院選において自民党は小選挙区で48パーセントの得票率だったが、議席では74パーセントを獲得している。
 ちなみに、中選挙区制だった昭和35年の総選挙では、自民党が58パーセントの得票率で、議席は63パーセントを得た。
 公平公正をどう考え、どう決めるか、やり方1つなのだ。

 2人に1人は自民党を選んでいない状況下で何が起こっているか。
 共同通信社が行った10月29日、30日の全国電話世論調査は事実を端的に物語っている。

○環太平洋経済連携協定(TPP)の承認案と関連法案について
 「今国会にこだわらず慎重に審議すべきだ」…66・5パーセント
 「成立させる必要はない」…10・3パーセント

 実に4人に1人が今すぐ成立させることに反対している。
 しかし、国会は、こうした民意の実態とは正反対の方向へ動こうとしている。

 教授は言う。

「絶対の民意というものはない。
 私たちができるのは、よりまともな決め方を使うことだけです。」


 かつて、小生が娑婆にいた時代は、麻雀の全盛期だった。
 たいていはなにがしかの賭け金が動き、場は盛り上がる。
 しかし、その後が問題だった。
 飲みに行けば必ず〈公平に〉割り勘だが、そうすると負けた者は、勝った者に比べて飲み代の負担がきつくなる。
 勝った者は、実質的に懐を痛めないで済んでも、負けた者は、帰りの足代すら覚束(オボツカ)なくなったりする。
 そこで小生は、「4・3・2・1の方法」を提案した。
 勝った者から順に飲み代全体の4割、3割、2割、1割を負担するのだ。
 そうすれば、勝った者は大きく楽しんだのだから余分に払い、負けた者はせめて思い切りやけ酒を飲んでお開きにできる。
 以来、小生のグループでは常にこの方法が採用され、麻雀も飲み会も、和気藹々と続けられた。

 振り返ってみれば、あれは、教授の言う「よりまともな決め方」だったと思える。
 小生が思いついた理由は1つしかない。
 負けた仲間を見捨てられなかったし(もちろん、小生も稀には負け組だったが)、「じゃあ又な」と気持良く別れたかったからである。

 ボルダルールが真に「多数派のためではなく、万人のため」なら、検討してみる必要があるのではなかろうか?
 政党の好き嫌いや政策がどうこうという以前のところを、よくよく考えてみる必要があると思えてならない。
 政治が公正であるために。
 政治が粗雑にならぬために。
 政治が見捨てられぬために。
 潤いある社会であるために。




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2016
11.02

年忌供養の経文 ─身体と言葉と心を一つにしよう─

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 年忌供養などを行う際、ご参列の皆さんにお唱えしていただく経典が最近、ようやくまとまり、用い始めた。
 御霊のためにお唱えしたい経文を集めると、どんどん長くなってしまい、一緒にやる方々が大変なので、ずいぶん試行錯誤してきた。
 かつてまとめた経典を毎日、ずっと読んでいてくださる方々もあり、頭が下がる。
 まず懺悔(サンゲ)して自分を清め、お導きくださるご本尊様をお讃えし、供養のまことを捧げ、その功徳を普く及ぼすという基本が皆さんにご理解いただければありがたい。

 お堂に皆さんの声が響くと荘厳さが増すだけでなく、場が柔らかく、温かくもなる。
 終わった後の皆さんの顔には清々しさが漂う。
 時には、小中学生がしっかり読んで、周囲が驚き、喜んだりもする。
 せっかく読んだ経文を手放せなくなる方もあって、たちまち増刷が必要になる。

 増刷といっても、当山ではほとんど自前でやる。
 パソコンと印刷機で経文を刷り上げ、あとは手作業で製本テープを貼ったりする。
 そこには住職の信念が顕れ、職員さんたちの誠意も表れる。
 こうして出来た経典を一緒にお唱えすると、同じ井戸の水を汲む仲間であると実感される。

 終わってから鋭い質問をいただき、貴重なやりとりが生まれる場合もある。
「読むのに必死で、ご供養の気持がどこかへ飛んでいましたが、よかったのでしょうか?」
 お答えする。
「まず、ご供養したいと心から願う気持でイスに座り、あとは経文に没頭すればよいのです」

 人としてやるべきことをきちんとやりたいと思って行動を起こし、思いやりの心で寺院へ詣で、必要な努力をし尽くせばそれ以上のことはない。
大日経』は説く。

「菩提心(ボダイシン…悟りを求める心)を因とし、大悲(ダイヒ…無限の思いやり)を根本とし、方便(ホウベン…正しく有効な手だて)を究竟(クキョウ…究極)とす」


 目的意識を持った時はその思いをしっかりさせ、読経に入ったならば経文へ没入し、その時々に、身体と言葉と心のはたらきを一体化することが肝要だ。

 たとえば、「病気が治りますように」と思って般若心経を唱える際、頭が病気に占領され、経文は口だけで暗誦されているのなら、身体と言葉と心がバラバラになっており、理想的な状態ではない。
 般若心経を唱えながら頭では〝お腹がすいた〟と思っているのと同じパターンであるということに気づけば、問題の大きさが実感される。
 私たちはどうしても〈バラバラ状態〉に陥りやすく、そこが迷いであり、悪業(アクゴウ)の土壌になりやすい。
 瞑想などで、身体も言葉も心もみ仏の世界に一致すれば即身成仏(ソクシンジョウブツ)だ。

 上記のやりとりが最近、制服をまとった中学生との間で行われた。
 唱えやすいので、お仏壇の前でやりたいと言う方もおられる。
 肝腎なものが皆さんの心へ届くためには工夫が欠かせない。
 ご縁の方々はそのことを教えてくださる。

 お大師様は説かれた。

「仏法は人によって興り、人によって廃れる」


 そして、時代は人によってつくられる。
 時代を嘆くだけでなく、ご縁の方々と一緒になすべきことをなしてゆきたい。




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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IvMea3W6ZP0





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