宮床開運守本尊 大師山 法楽寺 〜法灯により法友とともに法楽に住せん〜

2008-08

経典に書いてあることは本当ですか

 大病に罹った方へ「観音経」をお勧めしたところ、素朴な質問をいただきました。
「海で暴風雨に遭っても船が沈まないとか、高い崖から落とされても大丈夫とか、本当にそうしたことがあるんでしょうか?」

 確かに「観音経」には、一見したことろ叶えられそうにない不思議なお約束が羅列されています。
 しかし、疑えば唱えられません。
 読誦が口先だけになるからです。

「本当かどうか」は、「それが真実を示すかどうか」ということであり、「自分」にどこまでもとらわれているか、それとも、心の底から自分の愚かさを知り、悪業を恐れ、「こんな私をお救いください」「お導きください」と、み仏へお任せできるかどうかがポイントです。

 真実を求めず、煩悩を主人公としている自分の姿から眼を背け、その場しのぎで渡る人生の儚さに気づくために、「空」の教えがあります。
 み仏からいただいたいのちの値打ちに見合った生き方をしたいならば、モノ(自分の身体を含めて)を頼りにしてはならず、我(ガ)を頼りにしてはならず、周囲の人を頼りにしてはならず、まちがった説を頼りにしてはなりません。
 すべて、蜃気楼のようなものだからです。
 因と縁によって成るものはすべて空です。
 たとえば、在ると思っている手の指も空です。
 たまたま事故に遭わず、病気にもやられていないから身体にくっついているだけです。
 最近も、ある工場で起こった事故によって失われそうになった方の指が落ちないようご加持を行ったばかりです。
 だからといって、身体を粗末にし、自分を粗末にし、周囲の人びとを粗末にし、いろいろな説を粗末にしてはなりません。
 それは、人生修行のために、み仏からいただいた環境世界という道具だからです。
 
 道具を活かすもの。
 それが大我(タイガ)であり、慈悲と智慧とによって成り立ち、清浄大欲を発します。
 慈悲と智慧から成るならば、それはみ仏そのものです。

大我=み仏」なら自分の内側へそれを求めれば良さそうですが、煩悩が凝固した我の壁は厚く、気まぐれな瞑想や自分探しの旅などで簡単に突き破れるものではありません。
 だから投げ出すのです。お任せするのです。おすがりするのです。
 そうすると、〈祈りの対象となっているみ仏〉と〈内心におわすみ仏〉との間で感応が起こり、内と外がなくなります。
 いつしか「大我=み仏」の世界へ入っています。
 修行とは、こうした過程です。
 皆さんがお経や真言を読誦するのも、写経をするのも、隠形流居合の稽古をするのも、知らぬ間にこの道程を進んでいることに他なりません。

 冒頭のご質問への答です。

「日常生活のひび割れを縁として愚かな自分を知ったなら、いつまでもそのままでいてはなりません。
 虚構欺瞞を離れたくなったなら、み仏の世界を信じて祈りましょう。
 救いは日常的な計らいを超えています。
 日常的な計らいの範囲ならそれは凡夫の世界であって、み仏の世界ではありません。
 だから、般若心経で『苦・集・滅・道も無い』と説いているでしょう。
 行うべきは〈苦・集・滅・道〉と現れている凡夫の世界からの超越です。

 船が沈みそうになったからといって、高い崖から落とされそうになったからといって、み仏の世界はびくともしません。
 観音経は、み仏の世界を説いているので、当然のことです。
 般若心経観音経も、『こだわらないで生きよう』『いつでも観音様の元へ行けるから安心だ』と理解し、信仰するならそれも結構でしょう。
 しかし、せっかく「超越」が示されているのだから、そこを目ざそうではありませんか。
 
 超越とは、日常を支配する我をうち破り、〈祈るみ仏〉と〈霊性の核となっているみ仏=大我)とが一体になることです。
 
 さて、経典の不思議はどこにありましょうか」

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