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2008
05.15

NHK文化講座「生活と仏法」講義録 13 ―よい生き方、よい死に方―

 昨日の講座で学んだ経文です。

「月に千反詞(マツ)り、終身輟(ヤ)まざれば、須臾(シュユ)も、一心に法を念ずるには如(シ)かず、一念の道福(ドウフク)は、彼が終身に勝る」 ―『法句経』述千品(ジュッセンボン)第十六―

(たとえ一ヶ月に千返、神へ捧げものをして幸せを祈りつつ一生を過ごしたとしても、ほんの短い時間、一心に正しい教えを念ずることには及ばない。
 正しい教えを念じ導かれて生ずる福徳は、神を頼るだけの人が一生かかって得られる福徳よりも大きい)

 釈尊のおられた時代、インドではバラモン教が主力であり、人びとは神々へ仕えるバラモン行者の言うがままに供え物をし、神頼みの毎日を送っていました。
 人びとは供え物を用意するのにあくせくし、バラモン階級は最上位あって社会を牛耳っていました。
 人びとは自分の幸せを他人と神へ委ねきっていました。

「人は生まれによって尊さが決まるのではない。いかに生きるかによって尊さが決まるのである」
「言われるがままに、神へ人生を委ねてはならない。
 人は何者であるか、いかにいきるべきかを正しく学び、正しい実践によって迷いを脱し、苦を克服してこそ安心な来世が待っている」

と説いた釈尊は異端児であり、宗教界の革命家だったのではないでしょうか。

 歴史上、既存の思想体系や固定した社会システムを動かすこうしたタイプの指導者は支配階級から攻撃され、非業の死を遂げる場合も少なくないのですが、釈尊は支配階級から庶民に至るまで、幅広い人びとから尊敬を受けました。
 それは、説かれた内容が道理をもってすれば万人が納得できる真理だったことと、思想が包括的であってバラモン教を全否定せず、まじめに修行するバラモン行者の清浄な姿勢などをきちんと評価していたことによりましょう。
 そして何よりも人格が尖らず円満であり高潔であって、人の心を動かし苦を抜く説法の力と法力とが人間離れしていたからではないでしょうか。
 こうした事情はお大師様も同じであり、道を志す行者にとってお二方は永遠の憧れです。

 さて、この教えは、人の生き方を説いていますが、それは同時に、死に方を説いていることにもなりましょう。
 なぜならば、正しい法を学び実践することが福徳を得られる最上の生き方であれば、そうして死を迎える以外、最上の死に方はないからです。
 死をもたらすものが病気であれ、事故であれ、それは肉体を滅ぼす「モノの世界」の問題であって、死を迎える人の「心の問題」とは別です。
 たとえ畳の上で死のうとも、心が怒りや怨みによって乱れ、つまらぬ高慢心やはかない執着心を抱いていたならばどうでしょうか。
 たとえ事故死であっても、心が慈悲や感謝によって平穏で、謙譲の心を持ち、惜しい欲しいとこの世につなぎ止める執着心を離れていたならどうでしょうか。

法句経』は、安心の世界を明確に説いています。

「もしも真理の教えを理解し、至心に実践しつつ生きるならば、この世の迷いを離れ死を克服し、苦は尽き、心に煩いはなくなる」


 つまり、「生き方」は「死に方」であり、「よい死に方」をしたいならば「よい生き方」すなわち「善い生き方」、「良い生き方」、「佳い生き方」をもって日々を過ごす以外、方法はないのです。
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