原爆慰霊碑を考える その1
昭和27年8月6日、広島に造られた原爆慰霊碑には短い文が刻まれています。
「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから」
仙台市で行われた井上ひさし氏の講演でこの文に関する話を聴いた方々が、とても感心しましたと顔を輝かせています。
彼は、「謝っている人が誰であるかよく判らないところがいかにも日本語らしい」「実は、私たち日本人を含む人類全体、あらゆる人々が主語である」と指摘したそうです。
この文を称賛する立場です。
皆さんは、
「日本人の宝というべき源氏物語だって、主語のはっきりしない朦朧(モウロウ)体が世界的な評価を受けていますよねえ。あなたも私も同じなんだ、区別しない、こういうところはまさに仏教的なんでしょうねえ」
「相手を攻撃するよりも、まず自分を省みるといった点も日本人の美徳かも知れませんね」
などと口々に言われます。
しかし、かねて碑文にすっきりと腑に落ちないものを感じ、ウソの匂いが消えず、くり返して読むとどうしようもない不快感が胸に広がるのを禁じ得なかったので、この際、正面から相手にしてみようと思い立ちました。(これも朦朧体?)
立脚点は二つです。
井上ひさし氏が文章のプロならば、私は祈りのプロです。
追悼のための言葉を、祈りとしてとらえてみることにしました。
もう一つは、碑がつくられた時代背景と制作経過をたどり、「現在の視点から、自分の都合で観る」という色メガネをはずし、事実を確認することです。
まず、第一点のために、祈りの文を何百回となく唱えてみました。
経験上、清らかな経典は唱えれば唱えるほど自然に深く心へ染み入り、いつしか糧となることを知っているからです。
たとえば、日常的な分別で字面を追えばなんだこりゃあと思うような「水を逆さに流す」といった部分も、無心に読み込むとそこにみ仏のお慈悲が顕われていることがはっきりとつかめるものです。
教典でなくとも、これは追悼の言葉です。
10歳に満たない子供の別れの言葉ですら大人を泣かせもします。
誠心に発する言葉ならば、必ず心の琴線に触れるはずです。
あにはからんや、この文は、何度口にしても異様なものが後に残ります。
やがて、異様さの正体が解りました。
形は追悼でも、死者を悼み供養する心があまりに薄いのです。
「安らかに眠って下さい」と「過ちは繰り返しませぬから」とはそもそも別ものであり、無理にくっつけられたのでしょう。
前文をAとし、後文をBとすれば、AとBの言い回しは実にバランスが悪く、口にすればするほど神経が疲労するのはそのためです。
とにかく、まず追悼があって謝罪がそれに続くといった流れがどうしようもなく不自然でなりません。
そこで、実際に相手を殺した加害者が被害者へ心から詫び、御霊を供養する場合の心になってみました。
ご本尊様と他人様や御霊と己との三者が一如になるのが法を結ぶということですから、これはプロにとってあたりまえの分野です。
その結果、やはり順序が逆でした。
位牌であれお墓であれ、それを前にして涙と共に口から漏れるのは、まずお詫びの言葉です。
「もうしわけありませんでした!」と泣き崩れるはずです。
己の犯した罪の恐ろしさに打ちのめされ、心は乱れに乱れるはずです。
そうした波浪がおさまって初めて、「どうか成仏してください」と供養する気持になります。
そして、この気持は必ず心を平静の方向へと誘います。
順番は、断じてこの通りであって、逆ではあり得ません。
つまり、この文は、深い懺悔の思いによって自然に口から漏れ出た呻きのようなものではなく、頭で組み立てられたものなのです。
最初は、追悼のための文だからとまずAをつくり、その後でBを付け足したのではないかと考えました。
しかし、作者の実際の心のはたらきとしては、まず、Bがあったのでしょう。
だからBの言い回しは手がこんでおり、Aにはどうしようもない粗雑さが伴っているのです。
作者は、何としてもBを主張したいのであり、Aはそれを碑へ刻むためにつけ加えられたに過ぎません。
そうでなければ、せめて「安らかにお眠り下さい」程度の表現にはなっていたはずです。
慰霊・供養の純粋さに疑問がある、欺瞞が隠れていると言わざるを得ません。
人々がまごころから手を合わせる場所へこのようなものを置くのは、いかがなものでしょうか。
私たちの迷いは身・口・意がバラバラにはたらくところに発するので、こうした異様なものを目にしながら追悼する人々の心もまたどうなるか、心配です。
この碑を置き続けて良いかどうか、いかなる言葉が供養と平和への祈りの表現としてふさわしいのか、根本からとらえなおす必要があるのではないでしょうか。
「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから」
仙台市で行われた井上ひさし氏の講演でこの文に関する話を聴いた方々が、とても感心しましたと顔を輝かせています。
彼は、「謝っている人が誰であるかよく判らないところがいかにも日本語らしい」「実は、私たち日本人を含む人類全体、あらゆる人々が主語である」と指摘したそうです。
この文を称賛する立場です。
皆さんは、
「日本人の宝というべき源氏物語だって、主語のはっきりしない朦朧(モウロウ)体が世界的な評価を受けていますよねえ。あなたも私も同じなんだ、区別しない、こういうところはまさに仏教的なんでしょうねえ」
「相手を攻撃するよりも、まず自分を省みるといった点も日本人の美徳かも知れませんね」
などと口々に言われます。
しかし、かねて碑文にすっきりと腑に落ちないものを感じ、ウソの匂いが消えず、くり返して読むとどうしようもない不快感が胸に広がるのを禁じ得なかったので、この際、正面から相手にしてみようと思い立ちました。(これも朦朧体?)
立脚点は二つです。
井上ひさし氏が文章のプロならば、私は祈りのプロです。
追悼のための言葉を、祈りとしてとらえてみることにしました。
もう一つは、碑がつくられた時代背景と制作経過をたどり、「現在の視点から、自分の都合で観る」という色メガネをはずし、事実を確認することです。
まず、第一点のために、祈りの文を何百回となく唱えてみました。
経験上、清らかな経典は唱えれば唱えるほど自然に深く心へ染み入り、いつしか糧となることを知っているからです。
たとえば、日常的な分別で字面を追えばなんだこりゃあと思うような「水を逆さに流す」といった部分も、無心に読み込むとそこにみ仏のお慈悲が顕われていることがはっきりとつかめるものです。
教典でなくとも、これは追悼の言葉です。
10歳に満たない子供の別れの言葉ですら大人を泣かせもします。
誠心に発する言葉ならば、必ず心の琴線に触れるはずです。
あにはからんや、この文は、何度口にしても異様なものが後に残ります。
やがて、異様さの正体が解りました。
形は追悼でも、死者を悼み供養する心があまりに薄いのです。
「安らかに眠って下さい」と「過ちは繰り返しませぬから」とはそもそも別ものであり、無理にくっつけられたのでしょう。
前文をAとし、後文をBとすれば、AとBの言い回しは実にバランスが悪く、口にすればするほど神経が疲労するのはそのためです。
とにかく、まず追悼があって謝罪がそれに続くといった流れがどうしようもなく不自然でなりません。
そこで、実際に相手を殺した加害者が被害者へ心から詫び、御霊を供養する場合の心になってみました。
ご本尊様と他人様や御霊と己との三者が一如になるのが法を結ぶということですから、これはプロにとってあたりまえの分野です。
その結果、やはり順序が逆でした。
位牌であれお墓であれ、それを前にして涙と共に口から漏れるのは、まずお詫びの言葉です。
「もうしわけありませんでした!」と泣き崩れるはずです。
己の犯した罪の恐ろしさに打ちのめされ、心は乱れに乱れるはずです。
そうした波浪がおさまって初めて、「どうか成仏してください」と供養する気持になります。
そして、この気持は必ず心を平静の方向へと誘います。
順番は、断じてこの通りであって、逆ではあり得ません。
つまり、この文は、深い懺悔の思いによって自然に口から漏れ出た呻きのようなものではなく、頭で組み立てられたものなのです。
最初は、追悼のための文だからとまずAをつくり、その後でBを付け足したのではないかと考えました。
しかし、作者の実際の心のはたらきとしては、まず、Bがあったのでしょう。
だからBの言い回しは手がこんでおり、Aにはどうしようもない粗雑さが伴っているのです。
作者は、何としてもBを主張したいのであり、Aはそれを碑へ刻むためにつけ加えられたに過ぎません。
そうでなければ、せめて「安らかにお眠り下さい」程度の表現にはなっていたはずです。
慰霊・供養の純粋さに疑問がある、欺瞞が隠れていると言わざるを得ません。
人々がまごころから手を合わせる場所へこのようなものを置くのは、いかがなものでしょうか。
私たちの迷いは身・口・意がバラバラにはたらくところに発するので、こうした異様なものを目にしながら追悼する人々の心もまたどうなるか、心配です。
この碑を置き続けて良いかどうか、いかなる言葉が供養と平和への祈りの表現としてふさわしいのか、根本からとらえなおす必要があるのではないでしょうか。


