宮床開運守本尊 大師山 法楽寺 〜法灯により法友とともに法楽に住せん〜

2008-08

清める

 よく、「こんな自分を清めたい」「清めながら生きて行きたい」「お経を読誦するだけで清められるんでしょうか?」といったご相談を受けます。
清める」とはどういうことでしょうか?

「自分の悪が恐ろしい結果を招かないようにしたい」、あるいは「悪いことをしない人間にになって出直したい」といった感じがあることは解ります。
 そうした希望は、どういう行動によって叶えられるのでしょうか。

 私たちのいのちは〈今〉にしかありません。
 昨日の自分は、もう、どこにも存在せず、明日の自分も、まだ不確定です。
 しかし、昨日生きていた自分を因として〈今〉の自分がおり、〈今〉いる自分を因として明日の自分が決まります。
 だから、清めは、過去現在未来の自分に関わらねば達成できません。

 過去に対しては、懺悔をすることです。
 仏法上の過去は、生まれてからの時間だけを指すのではありません。
 過去は、いのちの発生時まで連なっています。
 生まれた時はすでに無限の過去の善も悪もすべて因縁となって自分に結晶しているので過去を「ここまで」と区切ることはできません。
 だから、「無始よりこのかた、貪瞋癡(トンジンチ)の煩悩にまつわれて、身と口と心とに造るところの、もろもろのつみとがを、みな悉く懺悔したてまつる」とみ仏の御前で唱えるのです。

 現在に対しては、仏法僧の三宝帰依することです。
 一時の癒しであれば別ですが、深く自分を省みた場合、の積み重なった自分は自分を次元的に超えた存在によってしか根源的には救われないことが解ります。
 自分の罪の恐ろしさにおののく時、人間としての不完全さに愕然とする時、何ものかへひれ伏さないではいられない思いが起こります。
 そして、み仏へおすがりし、教えと救済力によって愚かさや苦しさから抜け出たいと願い、み仏へ仕えて教えを学び実践している人びとを師とします。
 それが帰依です。
 礼拝は帰依の表現であり、帰依のない礼拝は自分とみ仏への欺瞞でしかありません。
 だから、「この身、今生(コンジョウ)より未来際をつくすまで、深く三宝帰依したてまつらん」と唱えるのです。

 未来へ対しては、二度と過ちを犯さないように決心することです。
 自分の罪過の恐ろしさに戦慄すれば、絶対にくり返したくないと思うはずです。
 誰しもが自分を恐ろしいことろへ投げ入れたいとは思わないはずです。
 だから、「この身、今生(コンジョウ)より未来際をつくすまで、ひたすら三宝帰依したてまつり、とこしなえに変わることなからん」と誓い、重ねて「この身、今生(コンジョウ)より未来際をつくすまで、十善のみおしえを守りたてまつらん」と唱え、「不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不綺語、不悪口、不両舌、不慳貪、不瞋恚、不邪見」の十善戒をくり返します。
 どう生きるかというイメージを明確にします。
 ここまで行かなければ、本当に自分のと向かい合ったとは言えません。

 こうして清め発心(ホッシン)したならば、あとは正しく学び、正しく実践するのみです。
 み仏と御霊への供養も、寺院への布施も、経典の読誦や瞑想などによる修行も、そして、日常生活における六波羅密の実践も、すべてが清めの力となります。
 道理として理解できたなら、実践するしかありません。
 清めという美しい道を歩み始めるかどうか、それを決めるのは自分です。

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