四国遍路 13

【第14番 盛寿山常楽寺
  本尊:薬師如来様
  御詠歌:常楽の 岸にはいつか いたらまし 弘誓(グゼイ)の船に 乗りおくれずば

 約1200年ほど前、この地を巡錫中のお大師様が感得した弥勒菩薩様を木に刻み、本尊として開創された。
 弥勒菩薩が本尊となっているのは88ヵ寺のうちここだけである。
 たわわに実った柿の木の多い道をしばらく行くと、山門の左手前に大きな池があり、渓谷風の小川にかかった橋を渡って参道になる。
 石段を登り切って目にする「流水の庭」は異様な光景だ。
 七福神がところどころに隠れているとされる露出した一枚の岩盤に伽藍が乗っている。
 薄暗い本堂も大師堂も五輪の塔も、そして岩の割れ目に根を張って天を目ざす巨木も、み仏の手のひらにあって聖なる空間を創っている。
 
 20歳過ぎの修行僧と出会った。
 黄色の如法衣(ニョホウエ)を纏い、頬をこけさせ、ズック靴の左足を引きずりながら手作りの錫杖を杖にして歩いている。
 襟元も足元も乱れた風体は、どう見ても自己流である。
 不自由な身体で歩こうとする尊い発心があるのなら、たとえボロであっても正統できちんとした身なりであれば、きっと得られるものも違うであろうに、と思ってしまう。
 他人ごとでも、残念である。
 身・口・意をみ仏と一つにすることが目標である密教の修行では、まず、身なりを整え姿勢を正しを結ぶなど、身体の分野を固めるところから始まる。
 それを確認した上で、経文や真言を唱える口の行へ入る。
 この二つが機械のようにできるようにならなければ、観想という意(心)を動かす行はできない。
 身・口・意(シンクイ)は基礎と土台と建物の関係になっており、修行はこの道筋でなければ正統に行われない。
 いかに観想を研究しようと、や真言が血肉になっていなければ法は動かず、法力が使えなければ、いつまでたっても研修生でしかない。

 こうした形は仏道修行の「三学」と同じである。
 修行は、まず「」すなわち自分自身をめ、毎日がモラルを守った正しい生活であるかどうかをチェックするところから始まる。
 生活態度に誤りがなければ、心を集中させ、深める「(ジョウ)」の修行を行う資格ができる。
 めに背かない生活と心のコントロールという準備ができてこそ、自他のためになる方便(具体的な手だて)を知る「(智)」の行がまともに行われ得る。
 (カイジョウエ)が一体となってこそ菩薩としての生き方が可能になる。
 そして、この順番で確立されないと学んだものが生きない。
 高額なお布施を請求したり、趣味や遊興にうつつを抜かしたりする僧侶の姿勢が檀信徒の方々を悩ませるようになるのは、このあたりが狂っているからである。

 同行の女性信徒さん二人が、お茶と手縫いの小さな座布団を「お接待」していただいたという。
 そのお宅をふり返って見ると、道路沿いの用水堀に清流が流れ各家の植え込みが美しいこの町に似合った小柄なお婆さんが、縁側に座り、笑顔で見送っておられた。

tag : 盛寿山常楽寺 三学 発心 法力 お接待 観想

目次
過去の記事
プロフィール

Author:住職 遠藤龍地
FC2ブログへようこそ!

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

リンク
ブログ内検索
RSSフィード
By FC2ブログ

今すぐブログを作ろう!

Powered By FC2ブログ