十力 2 ─是処非処智力(ゼショヒショチリキ)について─
み仏のお智慧「十力」の第一は、是処非処智力(ゼショヒショチリキ)です。
ここでいう「処」は、場所ではありません。
すべては因縁によって消滅するという真理であり、その是非を知るとは次のようなことです。
たとえば「いかに親しい間柄でも、いつかは別れの時が来る」という考えは「是」となり、「このネコと決して離れたくない」という考えは「非」となります。
前者は諸行無常の理に立っており、後者は愛着にとらわれて諸行無常の理に反する空しい希望となっているからです。
いつまでも自分の思うがままに可愛がっていたいと執着するのではなく、愛する者との別離による苦は必ずやってくると深く納得した上で、だからこそ、今、しっかり可愛がっておこうと考えるべきなのです。
こうした真理を基にした判断力は、広く「道理に合っているかどうか」「善なのか悪なのか」「虚構なのか実体があるのか」などという判断においても誤らない大切な力です。
最近は、スピリチュアルブームに乗って眼に見えない世界を実体視するさまざまな商売が起こり、危険なオカルトや詐欺商法に騙されないための正常な判別力が、若い層を中心にして著しく低下しています。
これは、自由が放逸に陥り、民主主義が衆愚政治に陥っている観のある世相と軌を一にしています。
与えられた自由が、〈空想上の真空〉へ解き放ったものは我(ガ)であり、しかも、その我もまた〈観念上の自分〉でしかないという「二重の空虚」が、人々を寄辺(ヨルベ)ない不安に陥れているのが現状ではないでしょうか。
そもそも、私たちは、社会(家庭も含みます)に生まれ、社会で生きるという他人(家族も含みます)との関係性つまり〈縁〉の中にある存在です。
そして、固有の肉体を持った私たちもまた、固い骨格、流れる血液、適度な体温、とぎれない呼吸、それらのバランス、そして連なる意識という地水火風空識の〈「六大」が仮に和合し危うく成り立っている存在〉です。
しかも、過労や恨みや悲しみなどのストレスが高じると仮の和合が崩れて心身に異常をきたす可能性があり、常に心身を整え、鍛えなければ健全に生きられません。
しかし、今の日本では、〈縁〉の中で生きていることが忘れられ、〈空想上の真空〉で生きているという錯覚に陥っています。
また、自分は〈「六大」が仮に和合し危うく成り立っている存在〉であることが忘れられ、〈観念上の自分〉が気ままに生きているという錯覚に陥っています。
「二重の空虚」とはそういうことです。
こうした寄辺(ヨルベ)ない時代にあっては、自分の存在意義を確信したり、不退転の志を保ち続けることはなかなか困難です。
不安の中にある不安定な私たちはどうしても放逸にならざるを得ず、たやすく付和雷同しては政治を人気競争に堕としてしまいがちです。
危険なオカルトや詐欺商法は不安を土壌とし、養分として育ちます。
それらに騙されないためには、自分を生かしている縁をきちんと観て感謝し、自分の危うさを認識して学び鍛える生き方をせねばなりません。
最近、九十歳を超えたAさんとの出会いがありました。
産婆さんだったAさんは、子供たちを預かる施設を造り、現在は家族総ぐるみで活動しておられるそうです。
Aさんは、はっきりした声で告げられました。
「明るい家庭をつくるにはどうしたら良いか。お寺へ教えていただきにまいります」。
是処非処智力を磨き、Aさんのように、〈いつ、いかなる場にあっても、自分の責任において、自分の分を尽くす〉腰のすわった人になりたいものです。

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ここでいう「処」は、場所ではありません。
すべては因縁によって消滅するという真理であり、その是非を知るとは次のようなことです。
たとえば「いかに親しい間柄でも、いつかは別れの時が来る」という考えは「是」となり、「このネコと決して離れたくない」という考えは「非」となります。
前者は諸行無常の理に立っており、後者は愛着にとらわれて諸行無常の理に反する空しい希望となっているからです。
いつまでも自分の思うがままに可愛がっていたいと執着するのではなく、愛する者との別離による苦は必ずやってくると深く納得した上で、だからこそ、今、しっかり可愛がっておこうと考えるべきなのです。
こうした真理を基にした判断力は、広く「道理に合っているかどうか」「善なのか悪なのか」「虚構なのか実体があるのか」などという判断においても誤らない大切な力です。
最近は、スピリチュアルブームに乗って眼に見えない世界を実体視するさまざまな商売が起こり、危険なオカルトや詐欺商法に騙されないための正常な判別力が、若い層を中心にして著しく低下しています。
これは、自由が放逸に陥り、民主主義が衆愚政治に陥っている観のある世相と軌を一にしています。
与えられた自由が、〈空想上の真空〉へ解き放ったものは我(ガ)であり、しかも、その我もまた〈観念上の自分〉でしかないという「二重の空虚」が、人々を寄辺(ヨルベ)ない不安に陥れているのが現状ではないでしょうか。
そもそも、私たちは、社会(家庭も含みます)に生まれ、社会で生きるという他人(家族も含みます)との関係性つまり〈縁〉の中にある存在です。
そして、固有の肉体を持った私たちもまた、固い骨格、流れる血液、適度な体温、とぎれない呼吸、それらのバランス、そして連なる意識という地水火風空識の〈「六大」が仮に和合し危うく成り立っている存在〉です。
しかも、過労や恨みや悲しみなどのストレスが高じると仮の和合が崩れて心身に異常をきたす可能性があり、常に心身を整え、鍛えなければ健全に生きられません。
しかし、今の日本では、〈縁〉の中で生きていることが忘れられ、〈空想上の真空〉で生きているという錯覚に陥っています。
また、自分は〈「六大」が仮に和合し危うく成り立っている存在〉であることが忘れられ、〈観念上の自分〉が気ままに生きているという錯覚に陥っています。
「二重の空虚」とはそういうことです。
こうした寄辺(ヨルベ)ない時代にあっては、自分の存在意義を確信したり、不退転の志を保ち続けることはなかなか困難です。
不安の中にある不安定な私たちはどうしても放逸にならざるを得ず、たやすく付和雷同しては政治を人気競争に堕としてしまいがちです。
危険なオカルトや詐欺商法は不安を土壌とし、養分として育ちます。
それらに騙されないためには、自分を生かしている縁をきちんと観て感謝し、自分の危うさを認識して学び鍛える生き方をせねばなりません。
最近、九十歳を超えたAさんとの出会いがありました。
産婆さんだったAさんは、子供たちを預かる施設を造り、現在は家族総ぐるみで活動しておられるそうです。
Aさんは、はっきりした声で告げられました。
「明るい家庭をつくるにはどうしたら良いか。お寺へ教えていただきにまいります」。
是処非処智力を磨き、Aさんのように、〈いつ、いかなる場にあっても、自分の責任において、自分の分を尽くす〉腰のすわった人になりたいものです。
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