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2006
02.07

物欲でなく良心の声に従いましょう

 千枚護摩祈祷に申込みをしても当日参加できなかった方々から、どんな法話をしたのかとご質問がありましたので、簡単に記しておきます。

 日本は、戦後60年、歴史が一巡りするうちに、復興のための努力の陰で、「良心に従う」という人間として最も基本的な姿勢を破壊し続け、幕末から明治にかけて世界中から賞賛された美しい生き方を忘れつつあります
 季節が変わる前に、それまでの季節の要素が溶解し新たな季節の要素が芽生えるための時期である「土用」が必要なように、日本もここ数年、見事なまでの「破壊の時期」を過ごしました。
 それを象徴しているのがライブドア事件であり、設計書偽造事件であり、東横イン事件です。

 心を澄ませ、良心に従って行なうのが善行であり、良心を無視し欲に命ぜられて行なうのが悪行です。
 欲のままに生きるケダモノと人間の違いは、ケダモノはせいぜい自然の摂理に従うだけですが、人間は良心に従って欲を抑えるところにあります。
 ケダモノの世界に善悪はありませんが、人間の世界には善悪があります。善悪を区別してこそ人間です。
 悪の恐ろしさは、ケダモノが従う自然の摂理すら破壊してしまうところにあります。
 縄張り争いをする猛獣は侵入者を倒しますが、周囲にいる同族を丸ごとすべて抹殺するなどということは決してしません。
 人間は、モノや宗教をめぐってくり広げられる戦争でそれを行い、快楽のあくなき追求のために、かけがえのない生活環境・自然環境を破壊します。

「ずるいやり方だけれど、法律で罰せられないから」「自分本位の人間だから」「最初はまずいかなと思ったけれども、だんだんそれほど気にならなくなったから」「悪いのは知っていたけれども、まあこれくらいならと思ったから」
 どれもこれも、良心の声を無視する姿勢です。
 善悪よりも損得を重視する生き方です。
 そして、良心を無視して物欲に従った無頼漢たちは悪行へ走り、因果応報の理は、老子が「天網恢々(テンモウカイカイ)疎にして漏らさず」と説いた通りの結果をもたらしました。
「天網」とは仏神の眼であり、仏神の裁きです。
「恢々」は限りなく大きいということで、「疎にして漏らさず」は、粗いように見えても、何ものをも漏らさないという意味です。

 これらの事件を見聞きする私たちは、モノ・金に眼がくらんで脇へ置きつつある良心の大切さを見なおさねばなりません。
 釈尊は、端的に「眼を覚ませ」と説かれました。
 良心に背く悪行は自他を破壊するということを肝に銘じねばなりません。
 そして、モノ・金を求めるうちにどん底へまで堕としてしまった日本人の心を立て直さねばなりません。
 そうしてこそ、善行も悪行もすべてが活きるマンダラ世界の住人たり得ます。
 やるべきは、子どもたちにまで株式取引などで損得を教えつつ物欲の奴隷になり続けることではなく、その正反対の、善悪を見分け良心に従うこと、それは自分本位・自己中心で物欲に従うより千倍も万倍も大切であると肝に銘ずることではないでしょうか。

 ここへ来て、ライブドアを英雄視していた人たちは、平らなまな板へ食材を並べるように、事件の持つさまざまな面を同列に観て○×をつけ、「これは×だけれども、これは○だった」と、保身や弁明に相努めておられます。
 これはいかがなものでしょうか。
 まやかしではないでしょうか。
 たとえば、包丁で人を殺した場合、いかにきれいに研いで準備をしたとて、磨く技術を誉めるべきでしょうか。
 また、金庫破りをしようと長いトンネルを掘った場合、その執念を誉めるべきでしょうか。
 人を殺したのは悪かったが、磨いたのは大したものだと言えるのでしょうか。
 泥棒をしたのは悪かったけれども、トンネルを掘った執念に乾杯しようなどということが正しい行為でしょうか。
 当然、ものごとには軽重があります。
 殺人や泥棒の行為に千の悪があるとすれば、研磨や掘削の努力には一の善もないほどです。
 そもそも、悪しき目的のための努力は、決して「精進」と呼びません。

 今日ここへお集まりの方々、そして、ご来山できなくとも除災招福を祈り善悪を見分ける人間としてまっとうに生きようとしておられる方々へ仏神のご加護があり、今から行なわれる私たちの祈りが、春が来たように日本再生の扉を開きますよう。

「心を法の本と為す、心尊く心に使わる、中心に善を念じて、即ち言い即ち行なわば、福楽の自ずから追うこと、影の形に従うが如し」 ―『法句経』―


(この世の根本は心である、心が主であり心が動かす。
 清らかな善心を中心として語り、行なえば、福徳・安楽がついてくる。
 それは、ちょうど形あるものへ必ず影がついてくるように、確かなことである)



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