東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(その67)─傷ついた位牌・壊れた人形
東日本大震災の百か日供養会は、途中で火へ水をかけられるような流れがあり、なかなか重い護摩となりました。
龍慧寺さんでは四十九日忌が厳しかったと聞いていますが、当山では百日忌が大変でした。
最近祈ってきた山元町や亘理町などの景色は、いまだに〈水が迫る〉という気配を色濃く残していたので、とても納得できます。
小林一茶が詠んだように「露の世は 露の世ながら さりながら」です。
葉の上で小さな水晶のように結んだ露が朝陽を浴びて輝くと見る間に姿を消してしまうように、この世にあるものも自分のいのちも、儚い運命にあることは頭で理解していてなお、残る〈思い〉はあるものです。
唱える般若心経は色即是空(シキソクゼクウ…現象世界は無常)と説き、その真理はあの世へも通じていますが、〈思い〉の昇華は容易ではありません。
まごころのこもった供養を重ねて行う以外、〈気配〉は解消できません。
ところで、最近、地震で傷ついた位牌などに関するご相談や、壊れた人形などのお焚きあげ供養の申し込みが増えました。
ようやく落ち着いて身のまわりのことごとに目が向くようになり、そのままにしてはおけないという気持が強くなってこられたようです。
割り切って、こうしてくださいと申し込む方もおられれば、困り果て、どうしたら良いのでしょうと相談される方もおられます。
特に、位牌や墓石については、どこの部分に傷がつくとどのような凶事が起こるか、神になったかのごとく詳しく宣(ノタマ)う有名人たちがいて、世間に無用の不安がつくりだされています。
いつの世も、道理を話せば、当たり前なのでお金にならない一方、不安につながることを話せば、聞いた人が不安を解消したいと思うのでお金に結びつき、流行ってしまうのです。
では、傷ついた位牌をどのように扱うべきか?
当然のことながら、あまりに酷ければ修理するか作り直せば良いし、気にならない範囲であれば、そのままでも問題はありません。
たとえば、「お位牌を人型と考えると、ちょうど額のあたりに傷がついてしまったので、このままでは罰が当たって私も頭にケガをするのではないか」と不安ならば、こう考えましょう。
まず、この世のありとあらゆるものは無常であり、形あるものはいつかは壊れる運命にあるので、位牌が傷ついたからといって、御霊に悪影響はありません。
そもそも、亡くなった方は、いのちがなくなるという極限的無常の体験者であり、この世の無常に驚くはずがありましょうか。
また、亡くなった方は、み仏の子としてみ仏の世界へ旅立たれたのであり、この世にいる人々へ罰を当てもしません。
ただし、「そうではいけないよ」「そっちへ行ってはいけないよ」と導いてくださることはあるでしょう。
それは、自分が向こうの世界へ行った時のことを想像すればすぐにわかるはずです。
では、妖しい占い師やいかがわしい教祖などに指摘されなくても「このままにしておいては申しわけない」と謝る気持が消えない場合はどうか?
それこそが、こうした問題について考えるべき唯一のポイントです。
モノが壊れたから不安なのではなく、罰が当たりそうだから怖いのではなく、依り代であるはずの位牌を粗末にできないという自分のまごころのはたらきへ、素直に応えさえすれば良いのです。
被災者Aさんが言われました。
「自分の身の丈にあった方法で大丈夫なのですね?」
家も仕事も失い、位牌を作り直せず、若干の修理をしただけでちょっとした台へ載せ野辺の花一輪を捧げる方へ、み仏と御霊は目に見えないご加護の花々を雨のように降らせてくださることでしょう。
空(クウ)の理論をまとめた龍樹(リュウジュ)菩薩(ボサツ)様は説かれました。
そうすると、無常を忘れた無理なこだわりで悶々とすることもなく、自己本位の心から発する怒りや恨みなどでイライラすることもない清らかで涼やかに澄んだ湖のような清々しい気持になれます。
位牌が傷ついたなら、人形が壊れたなら、自分のまごころへ忠実になり、ものの道理をもって考え、行動しましょう。
自分の身の丈にあった方法で大丈夫なのですから。
〈人っ子一人の影もない海辺に残る廃墟〉

〈残った土台を拠り所として咲く花〉

原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。
「おん さんざんざんさく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
[投票のご協力をお願いします。合掌]
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龍慧寺さんでは四十九日忌が厳しかったと聞いていますが、当山では百日忌が大変でした。
最近祈ってきた山元町や亘理町などの景色は、いまだに〈水が迫る〉という気配を色濃く残していたので、とても納得できます。
小林一茶が詠んだように「露の世は 露の世ながら さりながら」です。
葉の上で小さな水晶のように結んだ露が朝陽を浴びて輝くと見る間に姿を消してしまうように、この世にあるものも自分のいのちも、儚い運命にあることは頭で理解していてなお、残る〈思い〉はあるものです。
唱える般若心経は色即是空(シキソクゼクウ…現象世界は無常)と説き、その真理はあの世へも通じていますが、〈思い〉の昇華は容易ではありません。
まごころのこもった供養を重ねて行う以外、〈気配〉は解消できません。
ところで、最近、地震で傷ついた位牌などに関するご相談や、壊れた人形などのお焚きあげ供養の申し込みが増えました。
ようやく落ち着いて身のまわりのことごとに目が向くようになり、そのままにしてはおけないという気持が強くなってこられたようです。
割り切って、こうしてくださいと申し込む方もおられれば、困り果て、どうしたら良いのでしょうと相談される方もおられます。
特に、位牌や墓石については、どこの部分に傷がつくとどのような凶事が起こるか、神になったかのごとく詳しく宣(ノタマ)う有名人たちがいて、世間に無用の不安がつくりだされています。
いつの世も、道理を話せば、当たり前なのでお金にならない一方、不安につながることを話せば、聞いた人が不安を解消したいと思うのでお金に結びつき、流行ってしまうのです。
では、傷ついた位牌をどのように扱うべきか?
当然のことながら、あまりに酷ければ修理するか作り直せば良いし、気にならない範囲であれば、そのままでも問題はありません。
たとえば、「お位牌を人型と考えると、ちょうど額のあたりに傷がついてしまったので、このままでは罰が当たって私も頭にケガをするのではないか」と不安ならば、こう考えましょう。
まず、この世のありとあらゆるものは無常であり、形あるものはいつかは壊れる運命にあるので、位牌が傷ついたからといって、御霊に悪影響はありません。
そもそも、亡くなった方は、いのちがなくなるという極限的無常の体験者であり、この世の無常に驚くはずがありましょうか。
また、亡くなった方は、み仏の子としてみ仏の世界へ旅立たれたのであり、この世にいる人々へ罰を当てもしません。
ただし、「そうではいけないよ」「そっちへ行ってはいけないよ」と導いてくださることはあるでしょう。
それは、自分が向こうの世界へ行った時のことを想像すればすぐにわかるはずです。
では、妖しい占い師やいかがわしい教祖などに指摘されなくても「このままにしておいては申しわけない」と謝る気持が消えない場合はどうか?
それこそが、こうした問題について考えるべき唯一のポイントです。
モノが壊れたから不安なのではなく、罰が当たりそうだから怖いのではなく、依り代であるはずの位牌を粗末にできないという自分のまごころのはたらきへ、素直に応えさえすれば良いのです。
被災者Aさんが言われました。
「自分の身の丈にあった方法で大丈夫なのですね?」
家も仕事も失い、位牌を作り直せず、若干の修理をしただけでちょっとした台へ載せ野辺の花一輪を捧げる方へ、み仏と御霊は目に見えないご加護の花々を雨のように降らせてくださることでしょう。
空(クウ)の理論をまとめた龍樹(リュウジュ)菩薩(ボサツ)様は説かれました。
智目とは智慧の目でものごとを見ること、行足とは正しい行いを自分の身体で実践することです。「智目行足(チモクギョウソク)、清涼池(ショウリョウチ)に至る」
そうすると、無常を忘れた無理なこだわりで悶々とすることもなく、自己本位の心から発する怒りや恨みなどでイライラすることもない清らかで涼やかに澄んだ湖のような清々しい気持になれます。
位牌が傷ついたなら、人形が壊れたなら、自分のまごころへ忠実になり、ものの道理をもって考え、行動しましょう。
自分の身の丈にあった方法で大丈夫なのですから。
〈人っ子一人の影もない海辺に残る廃墟〉

〈残った土台を拠り所として咲く花〉

原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。
「おん さんざんざんさく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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