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2006
04.27

幸せを何倍にもする方法10 ―『害』を払いましょう―

 釈尊は説かれました。
「衆生は相(アイ)剋(コク)して、以てその命を失う、行ずるに随って堕する所、自ら殃(オウ)福を受く」
(人はお互いに傷つけ合いながら命をすり減らしている。悪行によって殃(ワザワイ)に遭い、善行によって福を得るという理を知らずに)

「人間よ、お前たちは何と哀しい存在なのだ」と、釈尊が心で涙しておられることが偲ばれる教えです。
 
 私たちは、何かを得ようとして、また、何かを失うことに耐えられず、貪り怒りや怨みと共に他を害します。
 昔風のマンガには、夫婦げんかの象徴として奥さんが茶碗を壊すシーンがありますが、それなどは可愛いものです。茶碗に当たって済むなら大事にはなりません。
 しかし、今は〈欲しいけれどお金がないから盗む〉〈気晴らしに人を殺す〉時代になりました。
 人間を人間たらしめる崇高な「自由」は「気まま」という姿で大道を闊歩し、人間らしいいのちのはたらきである「意欲」は、「煩悩」として醜いふるまいをもたらす場面が多くなりました。
 飢餓と病気といういのちを脅かす敵にうち勝つ一方で、誰しもが、耐えることのできない人間になりつつあります。

 そもそも、文化は、上手に耐える、あるいは抑えるところでしか発展し洗練されないのではないでしょうか。
 衣食住と言いますが、衣装は身体を上手に隠しながら巧みに自己表現をする道具になります。
 食物はバランスよく摂られればいのちを充分に活かします。
 住まいもまた、それによって自分や家族が安心を得る一方で他人の私生活を尊重してこそ、暖かい町並をもたらします。

 そして、社会は他人への信頼があればこそ成り立つということを忘れるわけには行きません。
 食料品店で買った牛乳はおいしく安全であると無意識の裡に信じているから、買った牛乳の成分分析をせずにそのまま喉へ流し込むのであって、いちいち安全確認をせねばならないなら私たちの神経が安定を保てないことでしょう。
 乗り物に乗る場合も、道を歩く場合も同じです。
 家にカギをかけて眠る場合ですらそうです。ガラスを叩き割って侵入してくる暴漢を恐れねばならないなら、鋼鉄に囲まれた箱に住むしかなくなることでしょう。
 しかし、現代はどうでしょうか。
 食品の安全が脅かされているのはもちろん、世界中の街角で爆弾が人々を殺し、住居は簡単に侵入され、充分な警備態勢をとっているはずの店舗や現金自動支払機は重機で破壊されるようになりました。
 生活態度を注意されたからといって簡単に子供が親を殺し、生徒が先生の昼食へ薬物を混ぜる時代になることを、誰が想像し得たでしょうか。

 すべては、根源的欲望への抑制が薄れたことに起因しています。
 文明は進歩している風でありながら、個人個人は内心で我欲を膨張させ野蛮になりつつあります。

 うわべだけ美しい街並に、欲望を抑えきれなくなりつつある人々が、一人一人孤立して生きています。

 釈尊は、二千五百年前、欲望むき出しの物質文明に破壊されつつある美しい共同社会を憂い、人生の真実を求めずに欲望に流されて傷つけ合う人間のありさまを恐れ悲しみ、生涯をかけて
「欲望を正しく活かせ」
と説かれました。
「私たちがいかに穢れた存在として醜い世の中を夢遊病者のように彷徨っているかを直視し、その夢から覚めよ」「尊い霊性を持った者同士として、向上の道を歩め」
と説かれました。

 霊性に導かれた意欲を輝かすところにしか、真の文明の深化はあり得ません。
 お互いが他人を害することのないよう欲望を抑制するところにしか、信頼の保たれた社会は成り立ちません。

 塩が隠し味になって食べものの甘みが絶妙な味となるように、正しい道にそって抑制された意欲は一人一人の人生を味わい深いものにし、そうした人間によって創られる社会には、故郷としての趣が加わることでしょう。
 個人は「不害」を誓い、国家は「不戦」を誓いたいものです。



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