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2012
10.19

教師は生徒によって教師となり、親は子によって親となる ─誰でも知っている空(クウ)の話─

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〈ある喫茶店6〉

 勤め上げた校長先生Aさんは言われました。
「何度、泣きたくなったかわかりません。
 でも、泣いていてもしょうがないんです。
 明日になれば、生徒たちは、おはようございますと学校へやってきます。
 明日になることと生徒たちを相手にする時間が始まることは同じであって、逃げることなどできません。
 生徒一人一人の顔を思い出しながら夜中まで採点し、理解の遅い子へ話しかけるようにガリ版へ向かいました。
 あの生徒たちのおかげで、教師生活をまっとうできました。
 私は生徒によって育てられました。
 教師が一方的に生徒を育てているのではありません」

 娘を結婚させた母親Bさんは言われました。
「娘は反抗期が酷く、何度、叩きたくなったかわかりません。
 でも、私も子供の頃、叩かれた悲しい記憶があるのでガマンしました。
 夫もよく理解して、私を支えてくれました。
 ふり返ってみれば、短気な私がよくガマンできたと不思議な気もしますが、おかげで少しは短気さが改善されました。
 娘の心は私に見えないところで立派に育ち、とても安心できる伴侶を見つけてくれました。
 これ以上の親孝行はありません。
 考えてみれば、娘のおかげで、親の暴力に苦しんだ自分の過去も洗い流されていたのです。
 娘の旅立ちを迎えて、私もやっと一人前の親になれたような気がします。
 子供のおかげで、一人前の大人に成長させられました。
 親が一方的に子供を育てているのではありません」
 
 こうした方々に共通しているのは、自分の未熟さを認め、悪戦苦闘させられる生徒や子供と正面から向き合い、逃げないことです。
 また、教師や親を生徒や子供より〈上〉に置かず、それぞれの立場として平等に観ていることです。
 もちろん、教師にも親にも、生徒や子供のせいにできない重い責任があり、観念的に平等といっても無意味ですが、関係性という視点からはまったく平等なのです。
 生徒がいてこそ教師であり、子供がいればこその親です。
 学ぶ生徒がいなければ教師として生きることはできず、子供のいない親はあり得ません。
 こうした〈関係性〉で観るのが仏法で説く(クウ)の考え方です。

 私の仏道修行は托鉢から始まりました。
 訪れる先々で、私より遙かに永く人生を生きた方々から、あるいは戦いのまっ最中の方々から、あるいはこれからキャンバスに自分なりを画を描こうとしている方から、人生の多様性や限りない深さや、とてつもない可能性や恐ろしい闇について教えていただきました。
 僧侶や寺院や仏教についての忌憚のない考えを聞かせてもいただきました。
 当山の姿勢や法務の方向性は、そうしたすべての方々とのごが積もり重なって醸成されました。
 法楽寺は、仏法との出会い、師との出会い、そしてあらゆる出会いをとして生まれ、今も変化発展し続けています。
 そうした法楽寺は、建物にあるわけでなく、私という人間にあるわけでなく、檀信徒にあるわけでなく、変化し続ける〈の糸〉の総体としてあります。
 やがて後継者ができ、四国八十八か所巡り道場が完成すれば、それもまた、新たなを生じるきっかけになることでしょう。

 あらゆるものがであればこそ、発展性も希望もあります。
 その実感は、冒頭の教師や親御さんのように「おかげさま」から始まります。
 それが「おたがいさま」へと進めば、人生に潤いと充実感が深まります。
 私たち日本人は、誰もが知っているこの二つの言葉で、互いに救い救われる心をつくってきました。
 大切にしたいものです。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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