与謝野晶子の歌である。
「君こひし寝てもさめてもくろ髪を梳(ス)きても筆の柄(エ)をながめても」
与謝野晶子は、不調に陥った夫鉄幹をかねて夢見ていたパリへと送り出した。
そのころの鉄幹はなにしろ、ダリアの根のあたりから次々と現れ、列を作ろうとするアリに目をとめ、一匹づつ潰していたというから、いわゆるうつ状態に近かったのかも知れない。
幸いにして、再起を期すべく夫は旅立ったが、別れ別れに暮らすようになってから、今度は晶子が夫の不在に耐えきれなくなり、こうした歌を詠んだ。
時は明治44年、鉄幹38歳、晶子33歳である。
ついに翌年、明治最後の年に晶子は夫を追って洋行する。
ウィキベディアによれば、森鴎外が資金を援助し、平塚らいてうなど500余名が見送ったというから、当時の晶子の活躍ぶりは充分に想像できる。
それにしても、何と初(ウブ)な心だろうか。
11月8日、75歳で亡くなった島倉千代子の『からたちの花』 (作詞:西沢爽 作曲:遠藤実)を思い出す。
「こころで好きと 叫んでも
口では言えず ただあの人と
小さな傘を かたむけた
あゝ あの日は雨
雨の小径に 白い仄かな
からたち からたち からたちの花」
この歌が発表された昭和33年、12歳だった私は勝手に、島倉千代子を〈姉〉と感じた。
鳥が初めて目にした生きものを〈親〉として慕うのと同じである。
特段、レコードを買ったりしたわけではなく、たまたま、テレビで目にしたりすると、ああ、ご活躍だな、と思う程度の思慕だったが、訃報に接し、去りゆく自分の人生と、遠ざかりゆく昭和という時代を深く実感させられた。
与謝野晶子が太陽なら、島倉千代子は月であろう。
そう言えば、誰かが、美空ひばりを太陽に、島倉千代子を月に喩えていた。
平安時代の『古今和歌集』にも、晶子のような表現があった。
「こひしねと するわざならし むばたまの よるはすがらに ゆめにみえつつ」
(あなたは焦がれ死にしなさいとおっしゃるのですか、これほど絶え間なく、一晩中、夢の中へおでましになられるとは)
赫奕(カクヤク)たる太陽の趣であれ、玲瓏(レイロウ)たる月の趣であれ、人を恋うような新鮮な感覚があれば、世界のそこかしこに輝くものを見いだす。
花も笑い、雨も泣く。
歌や唄の佳さを感じる心は失いたくないものである。
原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y
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