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2014
03.10

心中してもあの世で一緒にはなれない ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(10)─

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〈春は名のみの……〉

 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」である。

第二章 輪廻転生(リンネテンショウ)の法則

2 転生の条件

輪廻(リンネ)を決定する行為には、優先順位がある

「この世で共に生きられない男女が心中することがある。
 では、心中した二人は来世で共に生きられるだろうか。
 答は否である。」


 人はさまざまな願いを持つ。
 それが仏神に許されると思えるものであろうと、そうでなかろうと。
 あるいは、叶えら得るものであろうと、最初から叶えられ得ないものであろうと。
 死の不安は、一面としては、自分の身体や生物としての生活をはじめとするこの世のもろもろを失うことにあり、もう一面は、死後のありようのわからなさがその正体である。
 この世で添い遂げられない運命にあると信じた男女が、「せめてあの世で」と願い、心中するのは世界共通、いつの世も、どこの国でも起こり得るできごとである。
 あの世での不安を振り払うほど強い願いが、この世を捨てる決心につながる。
 しかし、ダライ・ラマ法王は、それは〈叶えられない願い〉であると断定する。

「仏教的な観点から言えば、輪廻転生のための条件はそれほど単純なものではない。
 ひじょうに多くの因子の集積が人の輪廻を決定する。
 人は生きることによって無数の異なった次元の行為を集積する。
 その行為の集積の中から、どの行為がより重大か、より意味を持つか、といった優先順位が問題となる。
 また、どの行為がより後でなされたかも大きな問題となる。
 こうした検証なしでは、人の輪廻ははかれない。」


 心中をする男女の多くは、「輪廻転生のための条件はそれほど単純なものではない」と気づいていることだろう。
 しかし、歓喜と悲嘆の絶壁を登り降りすることに力尽きそうな時、思考停止と極論に支配される状況が生じる。
 あの世での可能性にかけるという決断である。
 人間は、時として、道理に合わぬ悲しい意志を持つ。
 真実を述べるダライ・ラマ法王は、冷徹なほど動かし得ない〈優先順位〉を説く。

「具体的に述べよう。
 仮に二つの行為が同じ重要度を持つとしよう。
 そうした場合には、より後で行われた行為が優先されるべきものである。
 また仮に、二つの行為が同時に行われ、それらがまったく同じ重要度を有していたらどうなるか。
 そんな場合は、その人物にとって、どちらの行為がより慣れ親しんだ行為であるのか、より習慣的に行ってきた行為であるのかによって、輪廻を決定する優先順位がはかられる。
 したがって、共に来世で生きたいという願いだけでは、心中した男女が期待したとおりの輪廻転生を遂げることはない。」


 以下、優先順位についての説明がなされる。

○死により近い時間のカルマが、最重要

「より深く説明しよう。
 生命は無限である。
 それには始まりもなければ終わりもない。
 よって、行為、カルマ(業)もまた始まりもなく、終わりもない。
 カルマは無限である。
 いわゆる無限大のカルマがあることになる。
 その無限大の無数のカルマのひとつひとつが、それぞれ新しい生命を生み出す力を秘めている。
 では、いったい、特定のある人物の、現世かあるいは前世かの、無限のカルマの中のどのカルマが、その人物の死の時点において、輪廻を決定する最も重要な、支配的なカルマだとわかるのか。」

「たとえば、ある人物が殺人という行為の結果としてのカルマを有している。
 それは、そこに厳然としてある。
 ところが、その人物には人の生命を救ったという行為からくるカルマも同時にあったとする。
 この場合、互いに相矛盾する、相容れない二つのカルマが両立する。
 しかも、ふたつは共にひじょうに強力にして重要なカルマである。」

「さあ、どちらがより重要であると、どのようにして決定できるか。
 どうすれば、どちらのカルマがより支配的なカルマであると認定しえるのか。
 一方はたいへんネガティブであり、他方はひじょうにポジティブである。
 しかも、二つは等しく重いカルマだと言わねばならない。
 人の命にかかわる行為によって生じたカルマなのだから。」

「その人物が死に際した時、どちらのカルマによって彼は輪廻を決定されるのか。
 この場合、どちらがより死に近い時になされた行為であるからが尺度となる。」

「もし、彼が二年前に人を殺していたとしよう。
 殺人を犯してから二年後に人の生命を救ったとしよう。
 あるいはその逆であっても同じことである。
 時間的な流れがあれば、どちらでも、その人物が死ぬ瞬間により近いほう、より時間的に遅く行われた行為から生じたカルマがより大きな意味を持つ。」


 実に明解な道理である。
 定年間際まで人から後ろ指さされることなく勤め続け、家庭を維持し、子孫を育ててきた人が、ふとした拍子に〈魔が差した〉としか思えないような行為へ走り、ほとんど一瞬にして、まっとうな社会人として認められない存在へと墜落してしまうケースは珍しくない。
 そのほとんどは、貪り、怒り、愚かさの三毒どれか、もしくは全部に害されたものである。
 このような暗転を元に戻すことはできず、その人は以前の善行でなく、最後の悪行によって人となりの社会的評価のほとんどが定まり、そのまま死を迎えるならば、どこへ行くか、想像に難くない。

 東日本大震災のおり、バイクを盗んで家出していた少年が、避難所でリーダーばりの活躍を行い、ことが発覚した時、弁護士をはじめ少年に助けられた人々がこぞって罪一等を減じてもらう嘆願書を作り、少年も又、人のために役立つ生き方をしたいと表明したできごとがあった。
 もしも、少年がそのままの心で生き、やがて死を迎えたならば、少年だった人物に対する社会的評価がどうなるか、いかなる世界へと転生し得ると考えられるか。
 やはり、想像に難くない。

 ダライ・ラマ法王が説かれた「その人物が死ぬ瞬間により近いほう、より時間的に遅く行われた行為から生じたカルマがより大きな意味を持つ」は、深く納得できる。
 ならば、たやすく傷つく柔らかな皮膚に包まれ、血が細い血管を流れ続けているためにようやく肉体を保っている私たちは、いつ、いのちを失っても不思議ではない存在であるがゆえに、たった今、善行(ゼンギョウ)を為さねばならない。
 たった今、悪行(アクギョウ)をなすことがいかに恐ろしいか、よく考えたい。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=rWEjdVZChl0





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