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2014
03.14

つばくろや人が笛吹く生きるため ─心の耳は開いているだろうか─

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 大正から昭和を生きた俳人秋元不死男(フジオ)は、人間の生活そのものから目を離せなかった。
 正岡子規を悼む『子規忌』に寄稿したのがこの一句である。

つばくろや人が吹く生きるため」


 自分で註釈をつけている。

「街を歩いていると、豆腐屋がラッパを吹いて通った。
 その上を忙しくツバメが低くとんで、春の夕方の街は気ぜわしげであった。
 単調なラッパの音が一日の働く時間に終わりを告げるように、もの憂く、さびしく街の中を流れ、家の中をかけ抜けていく。
 この句は、そのような夕方の市井の、ありふれた一景にヒントを得、それを拡大して、人はさまざまなを吹いて生きていることに、ふと、思いを馳せて作った。」


 NHK連続テレビ小説『ごちそうさん』は、戦後の光景を描き始めた。
 主人公と回りの人々は、生きるため、目の前にあるものを相手に頭を使い、手を用い、周囲へ呼びかける。
 こうした呼びかけの方法として昭和の時代までは、さまざまなが吹かれていた。
 豆腐屋、支那そば屋、焼き芋屋、按摩屋、あるいは、会社における労務時間や学校における修学時間の区切などなど。
 いずれにしても、生きている人が生きるため、生きている人へ呼びかけるのである。

 高校生の頃、深夜、受験勉強をしていると、チャルメラが聞こえた。
 暗い寒空の下を一歩、一歩と歩みつつ生きる一人の人間が、確かにいる。
 彼の曳く屋台には、凍える心身をほぐしてくれる細くて醤油味の効いた支那そばが用意されている。
 窓を開けて声をかけ、出て行けば、一杯の支那そばをはさむ二人は寒夜に抗して、暖かく小さな世界をつくる。
 私が出て行かずとも、彼は、チャルメラがあちこちで〈聞かれている〉ことを信じるがゆえに、かじかむ手で屋台を曳いているはずだ。
 個人と他人様、家と世間様とは、隔絶されず、音も心も緩やかに行き来をしていた。
 あれは、障子や厳密に鍵をかけない習慣がもたらした文化だったのだろう。

 時代と共に、呼びかけの形も呼びかけられる形も大きく変貌した。
 自然に共有されていた礼儀や良識は、権利や法律にとって代わられた。
 個人と他人様、家と世間様とは、閉ざされた関係にあることを前提として、交流のルールがこと細かに決められる。
 障子や鍵のかけられていない玄関が姿を消すと共に〈~屋〉のも聞かれなくなった。
 善意の呼びかけも悪意の呼びかけも集団で行われ、人々は注意しつつ行き過ぎる。

 モノとして「さまざまなを吹いて生きている」時代は去ったが、私たちは、依然として〈さまざまな心のを吹いて生きている〉。
 生きるとは信号を発することであり、それぞれの信号は脳内のシナプスのように、つながって初めて意味を持つ。
 秋元不死男の句が、ラッパのない時代に生きる私の胸をうつのは、彼が耳でだけでなく、心でも聞いていたと感じられるからである。
 彼は自分を「アーチスト(芸術家)ではなくアルチザン(職人)である」と言った。
 心の耳を失いたくないと、強く思う。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA





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