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2014
04.18

ねじれた愛とまっすぐな愛 ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(22)─

201404180032.jpg

 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマ死の謎』を説く」である。

第四章 慈愛、そして性

1 真実の

○ねじれたと、まっすぐながある

「現代、人々は愛についてかまびすしく語る。
 愛にはさまざまなものがある。
 人を愛する、あるいは、金銭を愛する。
 あるいは、神の愛と言ったりもする。
 では、愛とは何か。
 それぞれの愛は異なるものなのか。
 異なるとすれば、どのように異なるのか。」


 今、若者たちへ「何に最も関心がありますか?」と訊ねたならば、「愛です」という答が多いのではないだろうか。
 それは、流行歌に愛という言葉が氾濫していることによっても容易に想像できる。
 端的に言えば「君が欲しい」であり、具体的には「君の身体が欲しい」、「君の心が欲しい」となろう。
 また、「最も大切なものは何ですか?」との問いにも、「愛です」と答える若者が多いのではないか。
 東日本大震災において、善意の人々は心に愛を抱きながら、自分にできることで援助活動をしてきたはずだ。
 愛こそが人類にとっての宝ものであると考えている向きもたくさんおられることだろう。
 こうした〈愛〉とはいかなるものか?

「一般的な考え方によれば、愛とは愛する対象への親近の情を意味している。
 それを敷衍(フエン)してわれわれは日常、名声を愛するとか、財産を愛するとか、性欲をその感情の底にひそませて人を愛すると言ったりする。
 だが、こうした愛はねじれていると言わねばならない。
 無知の上に現れる愛の形態だと言わねばならない。」


 法王は、私たちが一般的に考えている「愛する対象への親近の情」は「ねじれている」と説く。
 それは「無知の上に現れる」姿だと言う。

「本物の愛、真実の愛、種々の宗教的伝統に根ざした、特に大乗仏教に根ざした愛(慈愛)とは、こうした個々の人間の感覚や情感の発露としての愛とは、まるで異なったものである。」


 法王は、仏教に根ざした愛は「慈愛」であり、「個々の人間の感覚や情感の発露としての愛」とはまったく別ものであると指摘する。
 み仏が持つ二つの力の一つは智慧であり、もう一つは慈悲、ここで言う慈愛である。
 それは私たちの心の中心にあり、ともすれば自己中心的あるいは自分勝手な思考によって隠されがちな霊性の核でもある。
 法王はまず、そうしたものではなく、私たちの感覚や情感に現れる愛の正体を観る。

所有欲に根ざす愛は、憎しみへと変容する

「よく言われる愛とは、往々にして自分自身を愛するための愛でしかない。
 それは自己の愛する対象を所有したいという感情に、ほぼ完全に依拠した感覚である。」

「この人、この物は私のもの、あるいは私のものであるはず、と言うような。
 こうした愛は、自分の欲望をより大きくしようとする、あるいは、自分の欲望を充足させようとする感情から起こっている。
 ひじょうにしばしば、これらの感情は、その愛の対象になったものへの顧慮、思いやりを欠いている。」


 冒頭に書いた「君の身体が欲しい」、「君の心が欲しい」にある心は何か?
 それは所有欲である。
 欲しいという言葉に明確ではないか。
 手に入れれば嬉しいし、入れられなければ悔しい。
 そこにあるのは、対象が自分の思う通りになるかならないか、である。
 法王はその点を「愛の対象になったものへの顧慮、思いやりを欠いている」と指摘する。
 自分と相手との人間関係において、主役はあくまでも自分でしかない。
 愛しているつもりなので、相手を思いやっているように錯覚するが、真の思いやりとは相手を主役にする姿勢であり、欲しがっている自分が主役である限り、思いやりは表面的なものでしかない。

「したがって、このような愛は、愛というより欲望そのものだが、自分の期待する結果が得られた場合にのみ、自分の努力に対する成果が得られた場合にのみ、成就することになる。」

「だが、もし、自分をも愛してくれていると考えていた愛する対象が、その態度を変えたり、振る舞いに愛の終わりを匂わせたりしたなら、あるいは、求愛を撥ね付けたり、

自分の期待に背くような行為に出たりしたなら、このときにはいったいどうなるか。
 自己の欲望を満足させようとする期待が裏切られたならどうなるか。
 こうした愛は、いともすみやかに憎しみへと変容する。」


 愛が憎しみへと変容する可能性があるのは当然である。
 自分の意志を動かしている「欲望」は、満たされていれば愛として現れ、満たされなければ憎しみとなるだけのことだ。
 私が高校生の頃、愛について話し合う授業があった。
 私は「思いやり」が核であると主張して愛が実践された例をいくつも挙げたが、A君は「性欲さ」と言って笑った。
 自分の浅はかさが情けなかった。
 自分にも思慕する相手がおり、A君の指摘は図星だったからである。
 慈悲の例を外に眺めつつ、関心はあっても自分にはまだそうした心が薄く、自分を突き動かしている内なる主人公は性欲だった。
 以来、A君は生涯、私にとっての北極星となった。
 私は北極星の光に照らされつつ、悩み、乱れ、のたうち回りながら半世紀を生きてきた。

「なぜこうした愛は憎しみへと変化するのか。
 それはこの種類の愛が〈我(ガ)〉の上に打ちたてられているからだ。
『私』が愛するからだ。
 それが理由のすべてである。
『私』はどうすれば彼女、あるいは彼の肉体を、心を所有できるか。
『私』の欲望はどうすれば満たされるか。
〈我〉があってそこには〈他〉がない。
 他者は『私』の、いわゆる愛のために存在するにすぎない。」


 法王は、〈他人〉を〈自分〉のための存在でしかなくしてしまう我欲に気づけと説かれる。
 愛という言葉をオブラートにしつつはたらく醜い我欲を直視せよと説かれる。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA





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