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2014
04.27

袖振り合うも他生の縁 ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(26)─

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〈《法楽農園》の池でも、生きものたちの気配が濃くなってきました〉

 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマ死の謎』を説く」である。

第四章 愛と慈愛、そして性愛

2 内心の動き

幸福の最大の要因は、他人との交誼(コウギ)である

「思いやり、親愛の情が欠如すると、人はおのずから人間としての内面が貧しくなってゆくだろう。
 そして、その結果はより深い悲しみ、よりひどい猜疑心、苛烈な孤独感、耐えしのびがたい孤立、といった状態に陥るだろう。
 こうした状態は、人間本来の性質に反するものである。」


 自分の心から、他人へ対する思いやり、あるいは他人と親しみ合う情けが薄れると、自分も誰かから思いやられにくい人間になり、喜びの薄い人生を送ることになる。
 その状態が「人間本来の性質に反する」とは、親しく交わり合ってこそ人間であるという意味である。

「人間は社会的動物である。
 人間が幸福である最大の要因は、隣人との交誼(融合)であろう。
 したがって、もし、互いに信頼し合える友がいなかったら、親しみ合える隣人が皆無であったなら、人は精神的のみならず肉体的にも、健康を維持することはむずかしい。
 これはたいへん悲しむべきことだ。」


 ここで言う「隣人」とは誰を指すのだろうか?
 必ずしも、隣の家に住む人ではなく、日常的に交わり合える人々であろう。
 確かに、そういう人が周囲にいなければ、「健康を維持することはむずかし」くなるはずだ。
 自分が突然、見知らぬ外国の街角に放置されたことを想像してみれば容易にわかる。

 筒井康隆著『創作の極意と掟』に恐ろしい場面がある。

「たまたま妻がいなくて夕食に食いはぐれ、近所の小さな居酒屋へ行ったのだが、入って驚いたことには客のほとんど全員がケータイで喋り、しかも盛り上がっていたのである。
 思うにそこはあまりに汚いので異性とデートすることもできず、家族づれで来ることもできないような居酒屋だったため、客はみな独りであり、ひとりで酒を飲んでいてもつまらないから、誰からともなく知人にケータイをかけはじめ、これが全員に拡がったのであろう。」


 著者は、「群衆ケータイ小説」とでも銘打って書けば面白かろうと言うが、それはプロとしての面白さであろう。
 この文章を読んだ一読者としては、すでに心臓が深い湖にでも沈んでゆくような思いになっている。
 もしも、自分がこの場で独り酒を飲むように命じられたならば、拷問と言うしかない。
 
 隣の席に座っている人は、声をかけ合おうがかけ合うまいが、かりそめの隣人ではないか。
 その人を〈居ない人〉にしてしまい、自分だけが電波の先にいる人と話し、まったく無関係で私的な会話をその人へ聞かせ続けるという無神経さは恐ろしい。
 まるで、自分だけが透明な電話ボックスへ入り、自分にとって必要な時だけドアを開けるようなものだ。
 しかも、全員がそれぞれのボックス内にいるとは……。
 ここは、はたして、人間がいる〈場〉と言えるだろうか?

 私たちは古来「袖振り合うも他生の縁」と考えてきた。
 通りすがりに、たまたま、袖がふれ合うという形で生じた出会いであっても、その因縁には、過去世へもさかのぼれるような深みがあるので、人と人との出会いは大事なものであり、感謝したいということである。
 思えば、私たちは、生まれた時からずっと、出会いの中で一生を過ごす。
 しかも出会う相手は、〈自分の都合〉とは無関係である。
 目がはたらくようになって初めて見る母親、父親、家族、隣人、友人、先生、すべて、〈自分が選んだ〉人々ではない。
 縁によって出会い、縁によって心がつながり、人格が、人生が形づくられてゆく。
 思いやりも親愛の情も、そこで育ち磨かれる。
 崩されそうになっても崩されない人間としての核ができあがってゆく。

 自分にとって都合のよい、あるいは気分のよい人としか、親愛の情で接触できず、自分の損得や好き嫌いにとらわれ多様な縁を生かせなくなった時、私たちは、相手を選ばずにはたらく真の思いやりを保てるだろうか?
 

「憎しみ、恐れ、寂しさ、絶望、自己猜疑といった不幸をもたらす感情は、同じカテゴリーに属するものである。
 誰も不幸を求めたりしないはずだ。
 それと対極に位置する、幸福な人間の社会をもたらす、心の平和、自信、友情、調和などといった感情を自分のものとすべく努力するはずだ。」

「まず、《他者》の権利を尊重せよ。
 そして、自己の権利を、《他者たち》との関係の中で調整せよ。
 仮にその《他者たち》がわれわれの敵であったとしても、共存する至上の目的のため、彼らの権利を認めよう。
 それが現実的な態度と言うものだ。」


 他者が、自分と同じく不幸を厭い、幸福を求めていることをきちんと認識せねばならない。
 そうした他者との思いやりを媒介とした共存以外、自他共に安心して生きられる社会をつくる方法はない。
 そのためには、まず、縁の人々たちが〈自分と同じ人間〉として心の視野に入ってこなければならない。
 私たちは、「袖振り合うも他生の縁」という言葉を消滅させてはならないのである。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=rWEjdVZChl0





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