宮床開運守本尊 大師山 法楽寺 〜法灯により法友とともに法楽に住せん〜

2008-07

消えた友情

昨夜遅く、古い友人へこんなメールを書きました。

「かつて師が『私は友人を持たない』と言われた意味が、最近になってよく理解できるようになりました。
 友情という甘く和やかな感覚で楽しいひとときを過ごすことは、もうできません。
 和やかなゆとりある時間とは無縁になりました」

「妻や子などと一緒にいる時間以外は、常に真剣の刃の上にいるような感覚です」

「私は修羅らしく刃の上で生きるしかありません。
 それなりの覚悟はできていますが、刃の上で死ねるか、それとも畳の上になるのかは、み仏にお任せするだけです」

 そもそも慈悲の「慈」は友情を意味しますが、それは普通に気の合う友人と共有するものではありません。
 わけへだてなくなく、すべての人々へ対して感じるこの上ない友情です。
 言い換えれば、「どなたの身の上に起こることも『他人ごとではない』と心から思えること」となりましょうか。
 そうすると、30年来の知己も、たった今、人生相談にかけつけられた方も、衣をまとった者ににとって違いはありません。
 冒頭のようなメールを書いてしまったのは、法務の日々が、世間的な友情をいつしか消してしまったからでしょう。

 人間も肉体を持っている以上、動物の一種であり、寝そべったり、ぐったりしたりします。
 それは「私ごと」であって、他人様へお見せするものではありません。
 私を離れたことごとは、すべて「公」です。
 衣をまとった者にとっては、壇に登って修法していようが、道を歩いていようが「公」です。
 もしも、不意のできごとが起こればそれにどう対処するかは、袈裟衣をつけておらず、たとえ作務衣姿であっても、行者としてのふるまい以外のものでありはしません。
 やはり、刃の上としか言いようがありません。

 どなたと一緒にいてもありがたく、嬉しいことは一緒に嬉しく、悲しいことは一緒に悲しく、泣けることは一緒に泣けてしまいます。
 友人たちには申しわけありませんが、もう、「特別な人」はいなくなりました。
 しかし、つき合いが悪くなったからといって友情がなくなり冷たくなったわけではなく、ステージの異なった友情へ昇華しつつあるとご理解いただきたいと願っています。

 こうしたことを書いていると、昨夜お会いした友人Iさんは、面倒な理屈を待つまでもなく、周囲の人々へも「昇華した友情」を自然に持てる方であることが解り、あらためて尊敬の念がわいてきます。
 人は皆仏性を持っていますから、本来は、誰しもが「慈」の心を発揮することができるのす。

 これからも、ご縁の方々にお導きいただきながら精進したいものです。

法楽寺のサイトも是非ご覧ください


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