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2014
08.24

自我って何だろう? ―仏教的視点から観た自我(1)―

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 私たちは、物心がついた頃、いつの間にか「自分がいる」と意識し始めています。
 それ以来、自分はずっと〈他ならぬ自分〉としてこの世にいます。
 自分の身体は自分だけのものなので、身体をよりどころとして、自分はいつも〈ここ〉にいます。
 でも、何かの拍子に「自分とは何だろう?」と発した問いに、どっしりした答はなかなか返ってきません。

 さて、自分の核は自我意識です。
 この自我は、はたしてあると言えるのでしょうか?
 ダライ・ラマ法王著『ダライ・ラマの般若心経』をテキストにして、少し、考えてみましょう。

1 自我とは何か?

 仏教は、他の宗教と異なり、〈永遠で、単一で、独立した〉自我はないと考えています。
 いわゆる「無我」が仏教の根本的立場です。
 でも、普通の感覚では「自分はここにいるし、君だってそこにいるじゃないか」ということになります。
 デカルトが言った「我思う、ゆえに我あり」です。
 仏教も、「思っている自分は確かにここにいる」という理を否定はしません。
 認めますがそれは、日常生活的思惟をめぐらせてつかむ世俗的な真理としての範囲です。
 いわゆる「世俗(セゾクタイ)」です。
 一方、深い瞑想の中でつかむ無我の真理を「真(シンタイ)」または「勝義諦(ショウギタイ)」といいます。

 真理は二重になっており、お釈迦様が悟りを開いた当初、「これ(真)は誰にもわかるまい」と考え、悟って得た安楽の境地へ入ったままになろうとされたのは、当然です。
縁起の理は理解されず、涅槃(ネハン…絶対的安楽)の理も悟られないだろう。
 説いても徒労に終わるだろう」
 しかし、梵天(ボンテン)というインドの最高神によって説得されます。
「世間には目が穢れに覆われていない人々がおり、そうした人々も、法を説かれなければ、皆と同じように堕ちてゆくことでしょう。
 しかし、彼らは聞けば悟れる人々なので、どうぞ救ってください」
 そこでお釈迦様は説法を決心されます。
「耳あるものは聞け、古き信を去れ」

 確かに「縁起の理」は容易に理解されず、ましてや「涅槃(ネハン)の理」は誰にでも悟られるわけではありません。
 何しろ、お釈迦様ほどの方ですら、すべてをなげうち、周囲から、いのちを落とすのではないかと思われるほど徹底した瞑想の果てに、ようやくつかんだ真理なのです。
 たとえば、縁起とは「すべては、何かが縁となって起こったからこそ、そのように有る」という真理ですが、悪いことが起これば神様のお怒りだろうと考えて生け贄(ニエ)をささげたりする人々には、原因と結果が必ず結ばれていることを実感できる素地は少なかったことでしょう。
 ましてや、善い人が利用されたり誤解されたりして苦しみ、悪心を持った腹黒い人がうまくやって成功したり、褒めそやされたりする場合がある現実を眺めると、原因と結果の関係に納得できる妥当性を感じられないことでしょう。
 また、厳しい修行や幾多の輪廻転生の末に苦から解き放たれ、苦から脱した解脱(ゲダツ)すなわち涅槃(ネハン)の境地など、想像もできない世界です。

 では、どうやってお釈迦様は法を説かれたか?
 難しい理論などわからず、生きるのに精一杯で瞑想をする余裕もない人々がどうして救われたのか?
 そのキーポイントが「真理の二重性」です。
 つまり、問題を抱えた人なりに理解できる真理を入り口として、その先は、その人なりに行ける範囲まで行ってもらうというやり方だったものと思われます。

 最もわかりやすい例が、娘を亡くした母親キーサゴータミーの物語です。
 これまで何度もとりあげたとおり、娘を亡くして半狂乱になっているキーサゴータミーへ、お釈迦様は、「一人の死人も出したことのない家があったなら芥子の実をもらってきなさい。そうしたら、貴女の苦しみを取り除いてあげよう」と約束されました。
 しかし、村中を歩いても、死人を出したことのない家はありません。
 ご先祖様のいない人は誰もいないので当然です。
 キーサゴータミーはがっかりしてお釈迦様の元へ帰りますが、お釈迦様は黙したままです。
 きっと、本人が気づくことを知っておられたからでしょう。
 娘の亡骸を埋めてからお釈迦様へ弟子入りしたキーサゴータミーは、きっと、こんな順序で理解を深めたことでしょう。

・死人を出したことのない家はない
・誰しもが、人の死に悲しむ体験をしている
・自分だけが人の死に苦しむのではない
・人は必ず死ぬ
・自分もいつかは死ぬ

 きっと、このあたりまでが、世俗でしょう。
 そして更に、お釈迦様の弟子となって理解を深めたことでしょう。

・娘の死には、直接的原因と間接的原因があった
・死とは、肉体のはたらきや、感受作用や、意志作用などが壊れ、なくなることである
・娘の実態は仮そめの存在、つまり(クウ)だったのであり、自分もまた、(クウ)なる存在である
・すがりつくべき実体的な自我はない
を観ると心が安らぎ、生きとし生けるものが愛おしくなり、美しいと感じる
なる自分のなすべきことが見えてくる

 こうして真が深まったのではないでしょうか。
 まぎれもなく、〈永遠で、単一で、独立した〉自我はなく、「無我」なのです。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=WCO8x2q3oeM





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