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2014
12.10

真智の開発をめざして(その10) ─区別をつける先に空(クウ)を観る─

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〈松本零士のパンフレットとチケットをお分けしています〉

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五智」とは、優しさ・厳しさ・正しさ・優雅さ・尊さであり、その五光により、妄知(モウチ…おかげさまと心の底から思えない惑った心)も邪知(ジャチ…万事を我がためとするよこしまな心)も消え失せます。

 さて、厳しさは、〈愚癡〉〈好悪〉〈自他〉〈明暗〉〈公私〉という五つの問題がきちんと整理される時、〈人間がみ仏の子である証明〉として完成します。

[2の5]厳しさ─自他のものの区別をする

 これは、自分に属するものと、他人に属するものとをきちんと分けて揺るがないことです。
 ここが曖昧(アイマイ)になると、対象がモノであれば「不偸盗戒(フチュウトウカイ)」に反し、人であれば「不邪淫戒(フジャインカイ)」に反したりもして、徐々に他人から疎(ウト)んぜられてしまいます。

不偸盗戒について

 僧月照(ゲッショウ)は、不偸盗戒について詠みました。

「やまもりの ゆるさぬほどは たにかげに おちたるくりも ひろはざるなむ」


(山守の 許さぬほどは 谷陰に 落ちたる栗も 拾わざるなん)
 
 山道を歩く時、落ちている栗を見つけても、山を守っている人の許しがない限り、拾って自分のものにはしないという心構えです。
 現代人には理解しにくいかも知れませんが、それほどの心構えでいなければ、私たちは容易くここを越えてしまいます。

 慈雲尊者(ジウンソンジャ)は説きました。

不偸盗戒は、智者も持たねばその智を失う。
 愚者も持たねば刑罰を免れぬ。
 王侯大人も持たねば国治まらぬ。
 庶人も持たねば家整わぬ。
 誠に、万国古今に通じて道とすべき道なり。」


 誰であっても、他人様のモノへ手をかけてしまえば、自分が立場をまっとうする根拠を失い、墜落してしまう他ありません。
 独裁者の末路も、万引き少年の末路も、行く先は同じなのです。

不偸盗戒の中に我が福徳増長す。」


 自分の悟りを求める小乗(ショウジョウ)仏教においては、他人に属するものへの戒めが心に確立すれば、自分の福徳が膨らみます。

不偸盗戒の中に報土(ホウド)を荘厳す。」


 自他共に苦を脱しようとする大乗(ダイジョウ)仏教においては、他人に属するものへの戒めが心に確立すれば、この世は豊かな極楽になるのです。

不邪淫戒について

 僧月照は、不邪淫戒について詠みました。

「おみなへし にほふあたりは こころせよ いろかにみちを わすれもぞする」


(女郎花 匂うあたりは 心せよ 色香に道を 忘れもぞする)

 私たちは、五感を心地良く刺激するものに惹かれ、絵画も音楽もお香もストレスを解消させ、心を豊かにしてくれます。
 また、異性の引力は得に強大です。
 しかし、心地良い時間にもっと、もっととしがみつけば、いつしか人の道を忘れてしまう場合もあります。
 対象が他人に属している異性であれば、人倫を破壊し、人間関係を破壊し、果ては人生を狂わせかねません。
 
 慈雲尊者は説きました。

「国の乱れもこれを元として起こる。
 家の礼もこれを元として起こる。
 身の礼もこれを元として起こる。
 謹慎に守る者は、天神地祇(テンジンチギ…天地の神々)の冥助(ミョウジョ…仏神の助け)を得。
 男子、女人共に、我に属せぬ者には心寄するべからず。
 妄(ミダ)りに慣れ睦(ムツ)まじくすることなかれ。」


 男女間の乱れは、国から一組の男女まで、あらゆる異性のいるところに乱れを生じさせます。
 自分に「属せぬ」異性に対しては慎ましくありたいものです。

不邪淫戒の中に我が行、清浄なり。」


 自分の悟りを求める小乗仏教においては、他人に属する異性への戒めが心に確立すれば、修行は清浄に進められ、日常の行いにも汚れは生じません。

「不淫戒の中に、清浄の身心の到るところ禅定(ゼンジョウ)相応(ソウオウ)す。」


 自他共に苦を脱しようとする大乗仏教においては、他人に属する異性への戒めが心に確立すれば、いかなる修行中も心身が集中と観察を行うにふさわしい適切な状態に保たれ、日常生活でも安寧に過ごせます。

○結び

 このように、モノであれ人であれ、対象が誰に、あるいはどこに〈属して〉いるかを考えて行動することは社会人として欠かせません。
 なぜなら、私たちは、〈自分〉をそうした関係性の中において危うく見いだし、心の統一を保ちつつ生きていられるからです。
 そもそも、生まれた時は父親と母親の子供であり、家庭でも学校でも職場でも町内でも、あるいは何かのサークルや施設でも、社会内のどこかに属していればこそ〈自分〉の確認が可能です。
 あらゆるものが関係性の中で変化し続け、(クウ)であるように、自分自身も本当はなのです。
 だから、「自分探し」という言葉に乗せられて彷徨(サマヨ)っても、棒のように固く、何ものにも色づけされていない〈自分〉など、どこにも見つけ出せません。
 確かにあるのは、幻の自分に対する執着心だけです。

 こんなお経があります。

 宝間(ホウゲン)という比丘(ビク…男性の出家修行者)がいました。
 戒律を授けられ、正式に修行者になった時、お釈迦様へ訊ねました。
「どのように修行して悟りを得ればよいのでしょうか?」
 お釈迦様は説かれました。
「お前に与えられていないものを取らぬことである」
 宝間は、いったいどういうことなのかと考えぬきました。
 その結果、気づきました。
〝こうして天地の間に自分が存在している以上、存在するためのものは全て、与えれているではないか。
 天地が自分を生かし、一切が自分のためにある以上、すでに何不足、足りないものはない。
 新たに、手にすべきものなど、何もない〟
 こうして、宝間は、不偸盗戒をきっかけとして幻の我(ガ)から離れ、周囲のものへの執着心から離れ、アラカンになりました。
 
 み仏のお智慧は、を観る智慧です。
 み仏のお慈悲は、生きとし生けるものの何一つ、誰一人も見捨てられない平等な思いやりです。
 自他のものの区別つける不偸盗戒も、不邪淫戒も、〈属している〉ことを観る戒めですが、何ものも、お互いも、そして自分も〈属している〉からこそ安定した存在であることをよく観れば、やがてはの眼に近づけることでしょう。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=WCO8x2q3oeM





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