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2014
12.15

ダライ・ラマ法王の説かれた『般若心経』(その1) ―色即是空とは?―

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 今年最後の寺子屋では、ダライ・ラマ法王が般若心経について説かれたDVDに学びましたが、あまりに高度で、なかなか理解できませんでした。
 一緒に学んだ方々も同様であったと思われますので、DVDから書き写した法王の説法をあらためて学びましょう。

「『般若波羅蜜多心経(ハンニャハラミタシンギョウ)』とは『完成された智慧の心髄』を意味しています。
 一般的に見れば、この世界には様々な宗教が存在しています。
 その中で仏教の持つ特性は何かと言うと、智慧の部分にあるのです。」


 仏教は、自分と世界のありようについてとことん探求する存在論が土台になっています。
 自分とは何ものか?
 見えたり聞こえたりする現象世界はどのように成り立っているのか?
 お釈迦様が瞑想修行で得られた智慧が一切智(イッサイチ)と呼ばれているのは、そうした問題について一切を余すところなく明瞭に理解され尽くしたからです。
 仏教は、お釈迦様が何らの前提なしに究極まで考え尽くした結果、成立したとも言えます。

「特に仏教においては、心を訓練していくために智慧を育む修行をしなければなりません。
 なぜなら、苦しみの源は『知らない』という心にあるからです。
 一時的な苦しみでも、究極的な苦しみでも、それは『知らない』という心から生じています。
 ですから、『知らない』という心を知性と智慧を高め、『知る』ことによって滅していかなければなりません。
 智慧によって、私たちは普通の凡庸な心を向上させていくことができます。
 ですから、智慧を磨く努力をしなければなりません。」


 お釈迦様が恵まれた生活を捨てて厳しい修行に入られたのは、人々の苦しみや悲しみを放置できないからでした。
 そして、無明(ムミョウ)という〈肝腎なことを知る智慧の明かりがない状態〉こそが、苦しみの根本原因であると悟られました。
 私たちが、自分の苦を脱し、誰かのためになりたいのならば、無明の退治は欠かせません。

「完成された智慧とは、凡庸で苦しみに支配されている状態を少しづつ向上させていき、最終的に彼岸つまり涅槃に至らしめる智慧のことを意味しています。」


 お釈迦様は「完成された智慧」にたどり着かれました。
 私たち凡人にとって智慧の「完成」は夢のまた夢ではありますが、仏教に学び、み仏に導かれ、「少しづつ」「彼岸」に近づくことは可能です。
 なにしろ、そうした修行の〈成功例〉として、さまざまなみ仏がおられるのですから。

「チベット語訳の『般若心経』の初めの方に、『その時釈尊は深遠なる現れという現象について、三昧(サンマイ…深い瞑想状態)にお入りになったのである』という部分があります。
 ここに出てくる『深遠なる現れ』という部分の『深遠なる』という言葉は、『深遠なる(クウ)』つまり『』を意味しています。
 そして『現れ』という言葉は大変重要です。」


 般若心経はさまざまな形で残されており、法王は、日本人に親しまれているものより少々長いチベット語の経文をテキストにされました。
 その経典の冒頭に、この経典は、お釈迦様が『深遠なる現れ』について探求し尽くした瞑想状態が記されたものであると書かれています。
 法王は『深遠なる現れ』に、この経典のエッセンスすなわち「色即是空(シキソクゼクウ)即是色(クウソクゼシキ)」を読み解かれました。

「すべての現象には『現れ』と『』があります。
 すなわち、世俗のレベルと究極のレベルが存在しているということです。
 現れという世俗のレベルにおける縁起(エンギ)と、という究極のレベルの縁起が説明されています。
 現れという世俗のレベルでは縁起は正しく機能し、究極のレベルでは、それ自体の自性によって成立しないので空であると説明されています。
『深遠なる現れ』とは『現れ』と『空』が分け隔て無く一つの本質であると理解できます。」


 ここでは、読解に欠かせない「世俗のレベル」と「究極のレベル」という言葉が登場します。
 世俗のレベルとは、今ここにいる自分は、明日も同じように生きているという感覚と前提に立った考え方です。
 これが人間同士で漏れなく共有されているからこそ、あらゆる〈契約〉が成立しています。
 今日の自分は同じ人間として明日も生きているし、今日の相手は明日も同じ人間として生きているはずだからこそ、未来の決着が約束されます。
 また、今日、ケンカした友だちにきちんと謝ったから、明日も一緒に遊べるといった原因と結果のつながりが信じられます。
 これが「現れという世俗のレベルにおける縁起」の姿です。

 一方、究極のレベルとは、あらゆるものが因と縁によって成り立っている現象世界には〈それ自体〉で存在しているものは何一つなく、自分も、相手も時々刻々と変化し続けており、明日どころか一瞬先のいのちさえ定かではないという本質的ありよう、つまり空を観る考え方です。

 そして、「『現れ』と『空』が分け隔て無く一つの本質である」というのは、見え、聞こえしているこの世も、この自分も確かに、ここに在るという世俗の感覚でとらえた世界がそっくりそのまま同時に、空でもあるという事態を示しています。
 世俗のレベルと究極のレベルと二つの世界があるのではなく、一つの世界に対する私たちの受け止め方が二つあるのです。
 普段の私たちは「現れ」をそのまま確かに在ると信じていますが、実は「空」です。
 また、「空」としてのみ、あらゆる「現れ」は在ります。
 自分をふり返ってみると、身体を構成している約60兆個もの細胞たちは、どれ一つとして不変のものはなく、今、こうしている間も、絶え間なく入れ替わりが続いています。
 自分はここにいますが、実態は空であり、空なるものとしてのみ、ここにいられるのです。
 「現れ」と「空」を切り離すことはできません。 
 だから経文に、「色(「シキ)…現象世界」が「即(ソク)…そのままに」「是(ゼ)…これ」「空(クウ)」であり、「空即是色(クウソクゼシキ)」であると説かれているのです。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA





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