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2015
01.20

わたくしのうしろを殺す氷柱かな(柿本多映)

 昭和3年に生まれた柿本多映(カキモトタエ)氏の俳句です。

「わたくしのうしろを殺す氷柱かな」 


 去年の3月にもとり挙げた俳句ですが、この時期になると、どうしても思い出されます。

 私たちは、自分で見えない「」へ一種の怖れを感じています。
 そもそも、「」という文字は、足が小さいために遅れるというところから出発しており、不安を宿しています。
 それが、神様のお力でに迫る邪悪な者を祓っていただく祈りの意味も持つようになりました。
 ちなみに、「先」や「」には、足を清め、爪を剪って方を守っていただくという意味が含まれています。
 最初はこのように〈自分にとっての〉という空間を指しましたが、やがて「継者」などと、時間的な意味合いも持つようになりました。

 さて、氷柱へ落ちるので何ら問題はなさそうなのに、なぜ、ハッとさせるのでしょうか?
 それは、述の「後」が持つ意味から少々ずれた私たちの心理に関係しています。
 
 たとえば、「後ろめたい」と言う場合の空間と時間の感覚です。
 後にいる相手は自分から見えていないのに、相手からは知らぬ間に自分が見られている。
 自分の過去や、他者との関係で生じた心や行為などを隠しておきたいのに、それを知っている自分からは逃げられない。
 こうした「後」は何ともやっかいなものです。

 冒頭の一句は、このやっかいなものを、一瞬にして殺してしまいます。
 だからよかった、というわけには行きません。
 やっかいなものの、本当のやっかいさは、その存在が決して自分にとって「快」をもたらすものではないので、無になればありがたいようなものなのに、そうではないところにあります。
 後がカラリと真っ白になれば、その瞬間に、もきっと真っ白になってしまうことでしょう。
 過去が消えればきっと、未来も又、消えてしまうに違いありません。
 冒頭の「祈り」が「後」と「」とでセットになっているように、私たちは「後」を考える時には無意識のうちに「」があることを前提にしており、「過去」は「未来」を前提にしてのみ、成り立つ観念なのでしょう。

 こんなわけできっと、小生は「うしろを殺す」と言われて立ちすくんだのだろうと思われます。

 氷柱もまた、よく観ると不気味なものです。
 決して先が刃物のように鋭く尖ってはいませんが、遠目からは明らかに凶器です。
 雪国では実際に事故が起こっているそうです。
 寺院である当山の講堂には樋も雪止め金具もないので結構大きな氷柱ができる方角があり、以前は出入りに注意が必要でした。
 
 かつて、ブログ「不安に苛まれる方へ」にはこう書きました。
「氏は氷柱の鋭く容赦ない殺気に、自分はまだ殺されていないけれども、後はもうやられてしまっていると感じました。
 次は自分の番であり、逃れようもありません。」
 表現が「殺す」となっているので、実際はまだ、やられていないうちに詠んだのかも知れませんが、やられた瞬間を感じたのかも知れません。
 ならば、「次は自分の番」と感じても不安、あるいは、〈後〉がやられたならば〈前〉もまた揺らいだ、と感じても不安です。

 こうした繊細な感覚には参ってしまいますが、以下の句も挙げておきましょう。

「草が生え濡れはじめたる春の寺」 
「てふてふやほとけが山を降りてくる」


 ホッとして今回の稿を終わります。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA





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