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2015
01.24

死者と会う僧侶、死にゆく者の眼になる写真家

2015012400012.jpg
辺見庸著『私とマリオ・ジャコメッリ』よりお借りして加工しました。光を放射している老婆の向こうには老人たちがいます〉

 導師者と会わずして引導(インドウ)を渡すことはできない。
 ご葬儀における途中の作法は、まず、者とお会いするまでの準備であり、後半は、引導を渡し終わってのご供養である。

 初めに「おーん」と唱え四方からみ仏のご加護の光を受ける声明(ショウミョウ)において、無性に懺悔(サンゲ)の思いにかられる時がある。
 行者として一座をまっとうできるようお護りいただく護身法(ゴシンポウ)を行ってからやっているのになぜ、そうなるのか?
 やはり、結界(ケッカイ)と辟除(ビャクジョ)は真実であると思う。
 鎧兜(ヨロイカブト)をまとうように結界された行者の内部から、汚れたものが辟(サ)けられ除かれるのである。
 懺悔は、良心によるその認識過程にちがいない。

 重ねて降三世明王(ゴウザンゼミョウオウ)の結界を張ったりしているうちに、者の気配が正面に凝縮されてくる。
 戒律を授ける頃はもう、一方的ではあるが対話の態勢となっている。
 散杖(サンジョウ)を使って空中に阿字(アジ)を描く時、相手の位置が不明ではどうにもならない。

 そして、「かーっ」と引導を渡す。
 その直後から者の気配は急速に遠のく。
〝ああ、また、弟弟子を送った……〟
〝ああ、また、妹弟子を送った……〟
 自分より後から仏道へ入った人々を、自分より先に送のは容易ならざる仕事である。

 作家辺見庸氏は、マリオ・ジャコメッリの連作写真『が訪れて君の目に取って代わるだろう』について「にゆく者の側から撮られた風景」という一章を書いた。
 一人の老婆を中心とした写真に、氏は決定的なものを感じた。

「最初にこの映像を見たときから、私のなかに、ある途方もない想像がわいてくるのをおさえることができずにいる。
 すなわち、この映像はこれから死にゆく老婆の眼もしくは意識の側から撮られたのではないか、切れかかる意識のなかでうすれゆくまわりの光景を見ているのではないかという、ありうべからざる想像である」


 こうも吐露した。

「『死が訪れて君の目に取って代わるだろう』の前に長く立ちつくしていると、私はジャコメッリ作品の鑑賞者から、映像のなかの、死にゆく老人たちのひとりにいつしか転移してしまうのだ」

「表現をする人間、表現芸術をする者はだれもが、そのことに気づかなければならないだろう。
 虫を描こうが動物を描こうが、むこうも見ているぜということに」


 これが〈通じる〉という状態である。

 芸術家が生と死のあわいに立つのは、宗教者と同じである。
 芸術家はたぐいまれな感性をもって行い、宗教者は定められた修行に培われた法力(ホウリキ)よって行う。
 私たちは芸術作品によって人生の真実にうたれ、宗教行為を行ったり、l引導の場に参加したりして真実体験に震える。

 だから、「ご葬儀は要らない」という主張は「芸術は要らない」に通じている。
 そこでは何か大切なものが失われはしないだろうか?
 お金に換算されない何ものかが――。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IvMea3W6ZP0





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