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2015
02.07

真智の開発をめざして(その14) ─悲劇と大日如来─

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 五智如来のお智慧の内容を、私たちにわかりやすく説かれたのが「優しさ・厳しさ・正しさ・優雅さ・尊さ」という教えです。
 私たちの心にある仏心がきちんとはたらけば、私たちの心からもみ仏の光が発せられ、妄知(モウチ…おかげさまと心の底から思えない惑った心)も邪知(ジャチ…万事を我がためとするよこしまな心)も消え失せます。

 さて、「正しさ」は、五つの恩を深く想う時に実現されます。
 それは、国家社会の恩、親とご先祖様の恩、人間や生きとし生けるものの恩、師や教え導いてくださる方の恩、仏法僧(ブッポウソウ)の恩です。
 今回は、「人間や生きとし生けるものの恩」について考えてみましょう。

1 生きものの世界と根本仏大日如来

 言うまでもなく、私たちは生きものです。
 生きもののほとんどは、他の生きもののいのちをもらって自分のいのちをつないでいます。
 霊性と知力のある人間は、この事実を知れば、おのづから感謝の念が湧いてきます。
 稲も、大豆も、白菜も、ブリも、鶏も、黙っていのちを差し出し、私たちを生かしてくれます。
 もしも、こうした事実に対してありがたいと思えなければ、心のどこかが錆び付くか壊れかけているのではないかと強く疑ってみなければなりません。
 きっとこの先、まっとうに生き続けられはしないからです。

 経典は、鳥の声も虫の音も、小川のせせらぎや草木のざわめきも、すべて大日如来の説法であると説いています。
 そう聴き取れるかどうかは、私たちの心が曇らず、美しい鏡面のようになっているかどうかにかかっています。
 では、ケンカする猫の唸り声や、台風で大波が打ち寄せる音などはどうなのか?
 血が流れ、船が壊れても、等しく〈説法〉なのか?
 耐え難い悲劇としか受け取れないものまでもありがたい説法であるとはどういうことか?

2 人間の限界と悲劇

 故福田恒存は書きました。

「行動といふものは、つねに判断の停止と批判の中絶によって、はじめて可能になる。」


 たとえば、私たちがフグを食べる時、きちんとした店で出してくれるのだからきっと大丈夫だろうと思って注文しますが、実際は、フグの安全自体に関する情報をほとんど得ておらず、もちろん、現物を調べるといった確認などしてはいません。
 たとえば、おつき合いしている彼女へ「頃はよかろう」と思ってプロポーズする時、実際は、彼女が、親の勧めで心ならずもお見合いした男性に惹かれ始めていたとて、何ら不思議ではありません。
 つまり、私たちは状況のすべてを知った上で判断し、行動できるはずはないのです。
 あり合わせの情報で一旦、思考を止めないと行動へ移れません。

「不十分な資料によってのみ、行動している。」

「資料は無限にあり、刻々に増しつつあるものであり、のみならず、行動によってのみ、あるひは明かされ、あるひは新しく発生するからだ。
 私たちは認識のためにも、行動しなければならぬ。
 そして失敗するであらう。
 それが悲劇の型である。
 喜劇は、このいきちがひからの脱出を描く。
 それだけのちがひだ。」


 私たちは、あり合わせの情報と、あり合わせの判断力で行動します。
 そこには必ず〈あり合わせ〉という限界によってもたらされる失敗が付きものです。
 善意が裏切られ、傷つき、あるいは破滅させられる悲劇が生まれます。
 こうした構造で生きている私たちの目に映る世界から悲劇はなくなりません。
 では救われようがないかと言えばそうではありません。
 私たちは、悲喜劇の〈主人公〉であるだけでなく、〈観客〉でもあり得るからです。

3 悲劇を超えさせるもの

 私たちは小説や映画や舞台などを通して何を観るか?
 それは、できごとの全体です。
 そこでは、ヒーローもヒロインも悪役もすべては、あるいは意のままに行動し、あるいは行動が意のままになりませんが、すべては全体を構成するからこそ、意味を持ちます。

「個人は全体を自己に奉仕せしめることはできず、自己を全体に奉仕せしめなければならない。
 必然性といふものは、個人の側にはなく、つねに全体の側にある。」


 スパイダーマンがビルからビルへ飛び移っても、そのこと自体は彼がそういう存在であることを示すのみであり、囚われた美女が泣いていても、同じです。
 成り行き全体の中にあって初めて、飛び移ったことが美女を救うために必要なできごとであり、彼の超能力が耀き出すためにこそ、美女の涙は必要なのです。
 私たちは、日常生活にあっても、無意識のうちに、全体を観る目があると感じているからこそ、個々の悲しいできごとや辛いできごとにも意義づけをし、耐えつつ生きられます。

4 個々への合掌を通じたいのちの世界全体への合掌

 私たちは、カラスが子育てをしているのを見ると微笑ましくなりますが、カラスがネズミを咥えているのを見ると目を背けたくなります。
 しかし、いずれもが、いのちの世界全体を成り立たせている〈部分〉として平等であり、それらのすべてが時々刻々と〈全体〉を存続させています。
 生と死とは全体のために必要であり、歓喜も悲嘆もすべてが全体を成り立たせています。
 また、私たちは全体の構造の全体像を知り得ませんが、無限の多様性こそがいのちの世界が存続するための必要条件であることは感じとっています。
 ウグイスの声や梅の花に合掌し、ついばまれるミミズや人の足で踏みつけられるタンポポに合掌し、いのちの世界全体への感謝を忘れず、多様性を破壊する人間の営みに抗しつつ、まっとうに生きたいものです。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





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