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2015
04.09

本当に「戦争をしない」と決心しているか ―『敗戦国ニッポンの記録』と天皇陛下のパラオ訪問―

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〈「DDTの散布を受ける復員兵〉
 これは銃を向けられているのではない。ノミやシラミなどを駆除するため、DDTによる消毒をありがたく受けている。学校でDDTをかけられた子供たちは皆、頭を真っ白にして笑い合った。その後、危険な薬物として禁止された。

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〈「戦没者の葬儀」〉
 生還できなかった戦士のため、一族郎党うち揃っての膨大な葬儀が行われた。
 お骨として帰郷できない御霊も多かった。

 平成19年9月20日、米国国立今文書館(NARA)に所蔵されている写真をもとに編集した『敗戦国ニッポンの記録』が発売された。
 編著者となった昭和史研究家半藤一利氏は「はじめに」で述べた。

「昭和20年(1945)8月、昭和天皇の『聖断』によって、連合国の降伏勧告であるポツダム宣言を受諾、大日本帝国は、3年9カ月に及んだ太平洋戦争を終結させた。

 このポツダム宣言第7項に、軍国主義的な権力が除去され、軍事力の完全破壊が確認されるまで、『日本国領域の諸地点は……占領せらるべし』とあった。

 つまり、連合国による日本全土の軍事占領が明記されていた。

 さらに第10項には『俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対して厳重なる処罰を加えられるべし』とあり、戦犯に対する軍事裁判がはっきりと予告されていた。
 
 このすべて絶望的な情勢のなかにあって、かすかならが希望があるとすれば、ドイツやイタリアと違い、日本は天皇と政府が軍部を抑えこみ、統一政府を維持したまま降服したことにあった。
 結果として、連合国による分割支配を回避することができたのである。


 とはいっても、歴史上初めて体験する〝降服〟であり、あたりは満目蕭条たる焼け野原である。
 この国の運命がどうなるか、われら一人ひとりの明日がどうなるか、日本人には、ただただ暗澹たる想いのみがあった。
 その上に飢餓が襲ってきた。
 敗戦の8月15日から11月18日までの3カ月間に東京では733人の餓死者がでる。
 毎日毎日をいかに生き延びるかが大問題であった。
 さらに海外からの引揚者と復員者が670万人も……。

 そうした惨憺たる敗戦ニッポンを想起すると、どうやってその廃墟から立ち上がり、世界史にも稀な経済大国として復興、平和国家建設ができたのか。
 ほとんど奇跡と思いたくなる。
 が、決して奇跡でも夢物語でもなく、それは現実であった。
 日本人はほんとうによく働き、頑張ったのである。
 この米国国立今文書館所蔵写真集『敗戦国ニッポンの記録』にはそうしたわれら日本人の国家再建復興のための奮闘の原点がある。
 過去は懐かしむためのものではなく、未来のために用意された教訓なのである。


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〈「捕虜の結婚式」〉
 半藤一利氏のコメントである。
「まだ戦時中である。捕虜となった一等兵と従軍看護婦が結婚式をあげた。米軍の司祭花嫁の付き添いをするハワイ生まれの女性通訳に、米兵のアコーディオン伴奏がついている。 昭和20年4月 沖縄」

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〈「子ども好きの海軍兵士たち」〉

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〈「マレーの虎」〉
 後に戦勝国による横暴であると評されるかなり不当な東京裁判だったが、将たちは武士のたたずまいを見せ、たじろがなかった。 
『史記』 を出典とする言葉がよく用いられた。
敗軍の将は兵を語らず」
 失敗した責任者は、行った仕事について弁解しないという趣旨であり、その点では見事だった。
 現在も、東北楽天ゴールデンイーグルスの大久保監督などは敗戦の責めを一身に負う姿勢を貫いている。
 ただし、ここでとどまったことが、戦後日本の成り行きに大きな影響を及ぼしたのではなかろうか。
『史記』 にはこう書かれている。
敗軍の将は以(モッ)て勇を言うべからず。
 亡国の大夫(ダイフ)は以(モッ)て存(ソン)を図(ハカ)るべからず。」

(敗れた戦さを率いた責任者は、途中経過などについて言いわけをしたり、武勇を誇ったりしてはならない。
 責任者を補佐し力を発揮した者は、その後の立て直しなどに携わってはならない
 日本人はずっと、「以て存を図るべからず」について甘かったのではないか?
 たとえば、これほど〈未曾有〉の大災害を引き起こした原発事故について、安全神話をつくり政財界で推進の旗振りをした責任者のうちいったい、誰が、どう責任をとり、どのような教訓のもとで、いかに体制を刷新し、これまでとどう異なる方向転換を行ったのか?
 新しい言葉「ベースロード電源」が錦の御旗となっただけで、原発依存度について方針や数字は公にされず、停止中の原発は実質的な再稼働へ向けて走り出している。
 これから先も、私たち日本人はこうした〈なし崩し〉を続けて行くのだろうか?

 半藤一利氏は万感の思いを最後の一文「過去は懐かしむためのものではなく、未来のために用意された教訓なのである。」へ託したのではなかろうか?
 平成18年、氏は『昭和史〈戦後〉』の「あとがき」で述べている。

「語り終わっていま考えることは、幅広く語ったつもりでも、歴史とは政治的な主題に終始するもんだな、ということである。
 人間いかに生くべきかを思うことは、文学的な命題である。
 政治的とは、人間がいかに動かされるか、動かされたか、を考えることであろう。
 戦前の昭和史はまさしく政治、いや軍事が人間をいかに強引に動かしたかの物語であった。
 戦後の昭和はそれから脱却し、いかに私たちが自主的に動こうとしてきたかの物語である。
 しかし、これからの日本にまた、むりに人間を動かさねば……という時代がくるやもしれない。
 そんな予感がする。


 日本人は昼夜を問わず懸命にはたらき、奇跡の復興を成し遂げた。
 しかし、私たちは今、「未来のために用意された教訓」をどれだけ意識しつつ生きているだろうか?
 慌ただしく、花火のように打ち上げられる〈改革〉や〈方針〉は、教訓を踏まえたものだろうか?
 そもそも、あの敗戦による教訓とは何だったのだろう?
 私たちは簡単に「平和の大切さ」と口にするが、それは、戦争によって打ちのめされた人々の心中の苦渋を我が胸の苦みとして漏れ出た言葉だろうか?
 そして、その言葉には、子々孫々にわたって戦争の苦渋を体験させないという〈不戦の覚悟〉を伴っているだろうか?

 教訓が何なのかは、誰かに教えてもらうものではない。
 私たち一人一人が自分で感じ、調べ、考え、「そうか!」と気づかねば所詮、役には立たない。
 いざという時、「むりに人間を動かさねば」と迫り来る力に抗し得ない。
 天皇陛下はパラオの御霊へ向かって述べられた。

「祖国を守るべく戦地に赴き、帰らぬ身となった人々のことが深く偲ばれます。」


 私たちも、できるかぎりの方法で深く偲びたい。

「このような悲しい歴史があったことを、私どもは決して忘れてはならないと思います。」


 私たちも忘れぬようにし、自分なりの教訓を客観的に検証しつつ堅持したい。
 二度と戦争はすまい。
 我が子にも孫にも、日本人の誰にも戦争をさせまい。
 何としても「不戦日本」を貫きたい。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=WCO8x2q3oeM





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