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2015
04.25

自分探し ―探せば見つかるのか?―

201504240002.jpg
〈泥に咲く夢のような蓮華は小野寺善秋氏(仙台市在住)の作品〉

1 自分で見つけられない〈自分〉、わからない〈自分の価値

 私たちは自分の価値を実感できなくなることがある。
 取り返しのつかないような失敗をしたり、他人から酷く痛めつけられたり、人生をかけていた信念や積み上げてきたものが崩壊したり、心が咀嚼(ソシャク)できないほどの理不尽さに圧し潰されたりすると、自分の歩むべき道も、自分そのものも文字通り、見えなくなる。
 そして、自分探しをしたくなる。
 しかし、そういった心理状態の時は、自分をどこから矯(タ)めつ眇(スガ)めつしようと、なかなか、〈生きている自分〉に納得できないものだ。

 そもそも、自分の価値を判断する基準は自分にあるのだろうか?
 たとえば、パン屋の価値は、店主が判断できようか?
 それはお客様へ委ねるしかない?
 いかに凄い酵母を使おうが、どれほど丹念に手をかけようが、お客様が自主的に「うまい!」と喜び顧客になってくれない限り、店の評価は上がらず、存続もできない。
 それは、屋号を掲げた以上、パン屋は社会的存在であり、店主は一好事家(コウヅカ)や一研究者ではなくなるからだ。
 人間も似ているのではなかろうか。

 母親の胎内から生まれ落ち、名前をもって届け出が行われた時から社会的存在となる。
 まず、両親にとっての子供である。
 家族と親族にとっての新しい構成員。
 地域社会にとっても同じ。
 保育所や幼稚園の児童であり、小学校や中学校や高校の生徒であり、大学の学生であり、会社の社員。
 必ずそれらの〈誰か〉として社会は存在を認め、さまざまな面から評価する。
 
 サッカーに熱心なA君、心優しいBちゃん、成績の良いCさん。
 こうした人々となるが、それぞれの意識の中心にあるものは外的評価と大きくずれていたり、まったく別だったりする場合も多い。
 A君は、体力がない劣等感から必死に走り回っていたり、Bちゃんは、親からの虐待を隠して健気にふるまっていたり、Cさんは、奨学生にならなければ学校へ行けないので必死だったりする。
 そして、身体の弱い家族と自分に対する気持から、密かに医者を志望しているかも知れない。
 内心と外面の葛藤から、とんでもない破壊願望が育っているかも知れない。
 さしたる能力がありそうでもないのに、家系や資産によって地位や豊かな生活を手に入れている人々への嫉妬や軽蔑や対抗意識を持っているかも知れない。

 こうした場合、どのレベルの自分が本当の自分なのだろう?

2 必要とされている〈自分〉

 難問を解く一つのヒントがある。
 NHK総合テレビの「おはよう宮城」は4月24日、「リポート(盛岡)『被災地で見つけた希望』」を放映した。
 関東在住のDさんは、仕事場での人間関係に悩み、自分がどこでどう生きたらよいかわからなくなり、悶々としていた。
 そこに東日本大震災が起こり、ボランティアとして現地入りした。
 たくさんの人々から感謝され、自分が人々と清々しい気持で〈同じ空間に居る〉ことの価値が実感できた。
 そして被災地のために生きる決心をした時、もう自分を探し、道を探す必要はなくなっていた。
 生き直しが実現し、自分探しが終わっていたのである。

 自分のありように悩み、周囲との関係にも悩み、内心のありようも外的ありようもあやふやに崩れてしまった時、他者から自分が〈必要な存在〉とされてようやく〈確かな自分が見つかる。
 Dさんは、被災地の方々から菩薩(ボサツ)と観られているかも知れない。

3 いつでも観ていていただける〈自分〉

 では、そうした他者がうまく出現しない場合はどうだろう。
 たとえば尾羽打ち枯らした落伍者Eさんが、人知れず道路のゴミ拾いをしていたとしよう。
 誰一人、感謝の言葉をかけてくれないかも知れない。
 Eさんはもう、価値がないのか?
 小生は、かつて、自衛隊がイラク戦争に派遣されたおり、安全を祈りつつ靖国神社を目ざして歩いたが、その途中、関東地方のある公園で早朝、公衆トイレの落書きを黙々と消しているジャンバー姿の年配男性に出会ったことがある。
 彼はたとえ誰に祝福されなくても、仏神に祝福されていた。
 Eさんも同じである。

 小生はこれまで幾度も窮地に陥った。
 ある時は、前日にご葬儀を行ったおばあさんが戒名どおり無限の光を放ちながら瞑目する小生の瞼の裏側に現れ、無事、脱した。
 また、ある時は、共に祈ることを願った遠隔地の行者が、自分の顔の前で合掌する姿で小生の瞼の裏側に現れ、別の手を小生の身体へ伸ばしてくださり、無事、脱した。
 いずれも千手観音様のご来臨と確信した。
 たとえ愚かで至らなく、欠点だらけであろうと、まっとうに生きようとし、まっとうな願いを持っていれば、仏神も御霊も観ていてお守りくださることが実感できる。

 いかに〈自分〉が見つからない場合でも、そもそも空(クウ)なる〈自分〉にはあまりこだわらず、周囲へ目を向け、人としての〈自分の役割〉を探すことが大切なのではなかろうか。
 忍耐の象徴である花々が、見られていようがいまいが雨風に耐えて自分なりの花を咲かせるように、精進の象徴であるお線香が自分を燃やし尽くして芳香を残すように、何かを淡々とやり通すしかないのではなかろうか。

4 人の役割

 ただし、いわゆる有用な人以外は無用であるというわけではない。
 いかに老い、病気になり、他人様の手を借りなければ生きて行けなくなっても、必ず役割はある。
 小生はある時、入院し、貴重な体験をした。
 隣室の老患者(男性)が、夜中じゅうずっと、「足が痛い」「痰が詰まる」「早く来てくれ」などとあたりかまわず大声で騒ぎ続けている。
 明らかに淋しい人であり、他人の迷惑を考えられない哀れな人なのだ。
 当直の担当者も、他の入院患者も気の毒でならなかった。
 もちろん、眠れない小生は参ったが、〝ああ、これが某医師の言っていた「死が近づくと否応なく本当の姿が顕わになる」ということなのだろうな〟などと考えながらウツラウツラしていた。
 怒りもせず、ていねいに対応する若い看護師には、ほとほと感心し、〝日本は大丈夫だ〟とも思った。
 たくさんいるはずの入院患者の誰も、彼を責めたり、眠れなかったと病院へ損害賠償請求することはなかろう、穏やかで許し合える日本に生まれてよかったとも考えていた。
 翌朝、声もおとなしくなった隣人へ、看護師たちが「Fさん、調子はどうですか?」と代わる代わる優しく明るい言葉をかける様子に、ハッと気づいた。
 困り者の彼は、看護師たちを鍛え、成長させている。
 もしかすると、看護師たちは感謝しているのではないか。
 非常識で我がままな人にも、彼でなければ果たせない役割があるのだ……。

 自分は謙虚に自分の役割を見つけ、黙々と果たそう。
 しかし、そうしていると見えない人を軽々に批判したり、軽蔑したり、罵倒したりはせぬよう気をつけよう。
 アリの社会に一定比率で怠け者のアリがいるのは、過労死した仲間に代わってはたらくためであることを忘れないようにしよう。

 あまり〈自分探し〉の観念にとらわれず、ゆったりと周囲を眺め、ピンと来たところへそっと手を伸ばしてみたい。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA





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