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2015
05.15

なぜ、僧侶が居合をやるのですか? ―剣と僧侶―

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〈鈴木芳男氏(仙台市泉区)が撮られた当山の水子地蔵様〉

 ときおり、ご質問をいただきます。
「どうして僧侶居合をやるのですか?」

 仏教の修行は、身体と言葉と心のはたらきを、み仏に合わせて生きる練習である。
 それは、畢竟、〈誰かのためになれる存在〉つまり、菩薩(ボサツ)を目ざすことに他ならない。
 菩薩は、時に応じ、ことに応じ、相手に応じたふるまい、言葉づかい、適切な思考と感情の動きをする。

 隠形流(オンギョウリュウ)居合は、気力や体力や斬る技術の錬磨を行うのではない。
 菩薩の姿になり、真言や九字や経文を口にし、み仏の世界をイメージする。
 だから、マンダラの中に膨大なみ仏がおられるように、斬る形も膨大にある。
 をもって大きく斬る形が心中で結ぶ印や切る九字となって魂へ刻みつけられれば、行者はやがてを持たずとも、文殊菩薩にも千手観音にもなれる。
 自然の一部である身体を最大限に生かして、菩薩へ近づく。

 は怖い。
 他を斬るための道具だからだ。
 もちろん、稽古中に自分自身を傷つけたりもしてしまう。
 それだけに、決して他人を傷つけぬよう最大限の注意をはらうのはもちろん、護身法(ゴシンポウ)を結ばずしてを手にすることはない。
 そうしてを知れば、は生きる。
 この世はマンダラであり、慈悲と智慧の目で観れば人は皆、み仏の子であり、モノは皆、法具となる。
 古(イニシエ)の時代には、人を斬る道具だった剣が、菩薩を目ざす者にとっては九字を切る法具となる。
 虚空蔵菩薩も不動明王も剣を持っておられるのには理由がある。

 こうして、あらゆるものを生かすのが仏法である。
 ただし、人間が欲と好奇心から生み出した道具の中には、なかなか菩薩たり得ない人間に使いこなしきれない道具もある。
 それが明白なのはである。
 道具が世界の主人公となって磁石のようにありとあらゆる欲を集め、人類を破壊させかねない危険が広く承知されつつも、既得権者は容易に手放そうとしない。
 もう一つは貨幣ではないか。
 貨幣が偏在することによって心に慢心、頽廃、怨恨、絶望が生じ、社会は軽薄で無慈悲になり、欺瞞的な希望の鐘が打ち鳴らされつつ、人はばらばらになって行く。

 稽古の冒頭に誓う言葉の一つである。
「我、権利より尊さを主張するは、人は万物の長であることを忘れず、自他の発展を願うがゆえなり」
 自己中心の我欲に流されず、他のためになろう。
 人が霊性を持っていることを忘れず、皆と共に向上心を持って生きよう。
 一同、こう誓ってから、剣をふるう。

 当山において居合を行うのは、おおよそこうした理由によります。

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〈仙台国包(クニカネ)の直刃(スグハ)を目ざし、七つ森の主峰笹倉山の麓で錬磨の一生を送った幻の刀工葉山丸(ヨウザンマル)の作品が納められました〉

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〈研ぎ上がりが楽しみです〉




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=WCO8x2q3oeM





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