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2005
07.05

組織と正見

 40年にもわたって続いてきた同期会の総会を欠席しました。
 この歳になると、もはや幽明境を異にした会員が何人もおられ、一期一会の雰囲気が強まってきます。
 会長としてそうした場へ出席できぬことに責任を感じて会員のお一人へ辞表を託したことを思い出しながら床に就いた深夜、ご縁の方から切迫した電話が入りました。
 長期間無事を祈ってきたお子さんが事故を起こしたのです。
 処置法をお話しし、ただちに不動尊延命法へ入りました。
 幸いにして、ことは大事に至らず小事で済みましたが、ご縁の方にとっては文字通り命の縮む思いだったことでしょう。察して余りあります。

 あらためて僧侶の責務と日々の過ごし方についてみ仏からお教えいただいたできごとでしたが、この一夜は、立場というものについての確信を深めもしました。
 長の仕事は畢竟二つ、会へ参加し会員全員と心を一つにすること、結果に責任をとることです。
 参加できず心を一つにできなければ資格はありません。
 ことがうまく行ったならば、それは担当してくださった方々の努力のたまものです。
 しかし、問題が発生した場合は自らが具体的に責任を負うことができなければ資格はありません。
 資格がないと判断したならば速やかに辞任すべきです。もちろん、それが会のためだからです。

 人の組織というものは、何であれ、本来そうしたものでなければならないという気もします。
 立場なりの役割があり、それぞれがお互いの立場を尊びながらまっとうに役割を果たしてこそ組織は生きたものになるはずです。
 また、例のライブドア事件が思い出されます。
 あの時、学者も政治家も評論家も「会社は株主のもの」と主張していましたが、何度考えても首肯できません。
 労働者・経営者・株主の三者が協力して役割を果たし、利用者がその努力を認めてこそ会社は存続できるのであり、いずれかの一者のみが「所有者」として強者の立場を主張するのが正しいなどということがあり得ましょうか。
「法律がそうなっている」という事実の指摘なら解ります。
 法が人間社会の理想とずれていれば法を変えれば良いだけです。
 しかし、多くの論者は「会社は株主のもの」であるのが資本主義社会にあっては当然だと主張していたのです。
 こうした思想が本当に人々を幸せにできるでしょうか。
 
 かつて極端な平等を主張する共産主義が蔓延していた頃、労働者は資本家を打ち倒せという叫びが日本中を覆っていました。若者たちはデモに走りました。
 イデオロギーにより、不毛の対立がつくられていました。
 しかし、日本人は智慧をもってそれを克服し、人々は豊かになり、国は安定しました。
 今は極端な自由を主張する資本主義が一部の富裕層を潤し、所得格差をどんどん広げています。
 人生相談を受け、社会の様子を観ていると、人々の多くは老いも若きも、明らかに「使い捨て」にされつつあります。
 そうでなくとも技術文明の進展で人が労働力として不要になりつつある時、人をモノであるかのように金で自由にあやつる思想が日本を理想社会へ導けるとはとても考えられません。
 自由競争に名を借りた極端な能力主義がはたらく人々の人格を破壊し、組織の土台を崩すということも明らかになりつつあります。

 釈尊は苦を脱する八つの道を示されました。その第一番目は「正見(ショウケン)」です。
 正しい見解にはいくつかの面がありますが、一つは「極端へ走らない」ことです。
 しかし、人は極端へ走りたがります。
 理由は、ある意味で「楽だから」です。
 一番端にいれば、もう論議は不要になります。
 端へ来ない人々を中間的だと否定するだけで自分の正義を主張していられます。
 平等という何人も否定できないと思われる旗へ身をゆだねれば楽なものです。
 自由という何人も否定できないと思われる旗へ身をゆだねれば楽なものです。
 ジェンダーフリーも同様です。
 極端はさらに極端へと向かい、戦闘的な態度はますます鋭くなります。
 指導を無視した先生が、生徒たちを男女同室で着替えさせるなどの暴走を見ても、常識・良識・見識の破壊されているすさまじさが判ります。
 こうして人は極端へ走りたがるものだからこそ、釈尊は正見の大切さを説かれたのでしょう。
 
 一方、釈尊は因果応報の真理も説かれました。
 かつて、共産主義を煽っていた某大学教授は、革命思想に忠実であろうとした教え子たちが行なった暴力行為のために自分の研究室を無惨なまでに破壊され、ぼうぜんと立ちつくすしかありませんでした。
 今の資本主義やジェンダーフリーの暴走もまた、必ずや結果をもたらします。
 それは、熱に浮かされている人々の夢見ているようなパラダイスではあり得ないことでしょう。なぜなら「正見」ではないからです。
 幸いにして私たち日本人には、社会を家族ととらえる感覚や、礼を重んずる感覚や、仏神で争わない感覚など、「正見」を取り戻す智慧の泉があります。
 智慧を発揮するには忍耐が必要であり楽ではありませんが、先人は汗を流して日本をここまで導いて来られました。
 私たちも、目先の楽へと逃げ込まず真摯にやりたいものです。



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