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2015
06.08

人はなぜ、拝むのか? ―知性と勘を磨いておきましょう―

20150608033.jpg

 質問「なぜ、拝むのか?」にお応えした。
 追いつめられ、藁(ワラ)にも縋(スガ)る思いになる時、拝むという行為が現れる。
 たとえば突然、不治の病に罹っていると宣告され、いのちが惜しいというよりも、どうしてもやらねばならないことが頭に浮かんでくるならば、どうするだろうか?
 たとえば突然、乗っている飛行機にトラブルが発生し、近くの海に不時着せねばならないとアナウンスされたならば、どうするだろうか?
 自分の力では何ともならないが、何とかしないではいられない状況に直面し、〈不可〉を突きつけられた現実の前にありながら〈可能性〉を捨てきれない状況下で、神も仏もたち顕れる。
 歎きの極みで自死を選んだり、自暴自棄から自滅的行動へ走ったりもするだろう。
 しかし、そこへ行ってしまう前に、祈りが生じることも少なくない。
 こうして人は拝むようになる。

 もちろん、どんなに追いつめられようと自分以外のものに縋らないタイプの方もおられ、人さまざまである。
 また、追いつめられる体験の薄い方も当然、水へ入ったり落ちたりしたことがない人には水泳が何であるか実感的に掴めないのと同じく、縋り拝む行為を知り得ない。
 当山は常々「困った時の神頼みでもいいんですよ」と申し上げている。
 それは、縋るのが人として自然な行為であり、そこでは自己中心的でない世界が開きかけているからである。
 ただし、「困った時の神頼みだけでいいですよ」とは決して申し上げない。
 言うまでもなく、いつまでも自己中心から抜け出られず、〈困った時〉が次々と訪れる人生から脱皮できないからである。

 ただし、神頼みになれば、知性が試される。
 この二つがはたらかないと、つまらぬものや、利用しようと待ち構えている者や、陥れようとしている者につかまるかも知れない。
 この場合の知性とは知識の量ではなく、ものごとを客観的に見て、検証し、試し、納得するという手順を践む力である。
 また、とは、いわゆる霊感や山ではなく、良識や見識に裏打ちされた〈健全に生きる方向〉を見誤らない力である。
 二つの力を身につけ、神頼み的状況で沈没してしまわないためには、学問をやらねばならないのではなく、問題意識を持って自他を観察し、周囲に起こるできごとの本質や意味や意義を自分で考えつつ生きればよい。
 そうすれば、まっとうな拝む対象と縁になり、神頼みしかない状況が訪れた時、きっと、オタオタせず、落ち着いた合掌ができることだろう。
 



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=WCO8x2q3oeM





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