真理・道理・原理
「なぜ人間は戦争を止められないのでしょうか?殺して嬉しい人も殺されて嬉しい人もいないはずなのに」
答の一つは、「原理と道理を区別し、それぞれをバランス良く用いられないから」です。
かつて、劣化ウラン弾の非人道性に関するこんな一文を書いたことがあります。
人間は、ここしばらくの間に与えられた脳細胞を飛躍的に使えるようになり、効率を求めて「原理」が探求された結果、科学が急速に発達しました。
そして、意志を通し意思を具現化するための道具をたくさんつくりました。
車・電化製品・薬品などなど、そして劣化ウラン弾もその成果です。
しかし、一方で、道具を用いるための「道理」はあまり探求されず、聖者の説かれた真理と道理は人々の脳へさほど浸透していないように見うけられます。
いかに原理をつきつめても、それだけでは道理は得られません。
原理に道を与えるのが道理だからです。
人間以外の生き物たちに道理はありません。
弱肉強食や種の保存などの「節理」という原理だけで生きているからです。
それとは異なって人間には精神があり、正邪善悪を峻別し、福徳を得たり罪を犯したりします。その判断基準が道理です。
釈尊は仏陀になられました。
仏陀とは覚った者すなわち、真理と道理を見きわめた人のことです。
釈尊の示された真理の一つは〈すべてのものは変化して止まない〉こと、もう一つは〈すべてのものは、それ自体として独立して存在しているのではなく、他との関係性の中にある〉ということです。
人は誰でも生れた瞬間から〈死へ向かって歩んでいる〉のであり、他の〈おかげ〉無くして生きている人はいません。
その「真理」を観て「道理」を導き出すのが「智慧」、道理として無常を生きる者同士が思いやりで支え合うところに「慈悲」があります。
等しく死へ向かいつつかけがえのない今を生きている者としてお互いを尊び、他へ感謝し、縁の相手へ思いやりをかける行為が善行であり、他を踏みつけても己の意志のみを通そうとする傲慢な行為が悪行です。
他を顧みないところからあらゆる罪が生れます。
罪を犯して良心が痛むのは、道理に反しているぞというみ仏からの危険信号なのでしょう。
さて、安くて便利だからといって劣化ウラン弾を使うのは道理に立った善行でしょうか、それとも悪行でしょうか。
人はいかに生きるべきかを、釈尊は簡明に説かれました。
「悪行は行うなかれ。善行を行うべし。自らを清めよ」
私たちは、何を行わぬべきでしょう。何をなすべきでしょう。そして、何をもって自らを清めるべきでしょうか。
道理を忘れず、合掌を忘れずに生きたいものです。
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