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2015
11.05

無常の中で見つからない本当の自分 ―『チベットの生と死の書』を読む(5)―

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 ソギャル・リンポチェ師の著書『チベットの生と死の書』は、生と死を考える人びとへ重要な示唆を与える一冊である。
 伝統仏教の最先端を示し、かつ、最奧をもかいま見せる高貴な魂の結晶である。
 師は「仏法をより近づきやすいものに、現代的、実践的なものにするために著した」とされているが、700ページ近い力作で、なかなか読み通せないかも知れない。
 以下、全体の概要というよりは、いくつかのポイントを挙げておきたい。

第二章 無常

 師は、この章の最初にモンテーニュの言葉を示す。

「死を練習することは自由を練習することである。
 いかに死ぬかを学んだ者は、奴隷をやめることを学んだ者である。」


 死を練習すると言っても、自死のまねごとをするというわけではない。
 自分の死をリアルに想像してみるのだ。
 常々、死は〝やってきては困るもの〟として、ほとんど無意識のうちに日常生活から排除されているが、実は、心のどこかで、対決は避けられないと知っている。
 私たちは、〝無いもの扱い〟している死に抱きつかれている。
 振りほどけない。
 だから「自由」でなく、「奴隷」じみたことにもなりかねない。
 受け身になっているだけでなく、正面から死と対峙してみようというのがこの章の眼目である。
 自由になり、奴隷であることをやめるために。

「死は広大な神秘だ。
 だが、ふたつだけ確かにいえることがある。
 わたしたちが死ぬのは絶対に確実だということ。
 しかし、いつどのように死ぬかは不確実だということである。」


 私たちは、死の時期が「不確実」だから放置する。
 しかし、やってくることは「確実」だ。
 私たちは、正反対な二つの面を持った未知の死にどう向き合えばよいかわからない。 

「おそらく、わたしたちが死を恐れる最大の理由は、私たちが『自分は誰か』を知らないことにあるのだろう。」


 自分はこの世で唯一無比な存在であると思っているが、では、その「自分」を特定しているものは何か?と探してみると、「際限もなく集められたさまざまなもの」によって支えられていることに気づく。

「名前、生涯の記録、伴侶、家族、家、仕事、友人、クレジットカード……。
 わたしたちの身の保証はこのもろくはかないものによって支えられているのだ。
 では、それら一切が取り去られたとき、『自分は誰』だということになるのだろう。

 これら慣れ親しんだ支えを失ったとき、わたしたちはわたしたち自身に向き合う。
 見ず知らずの、ずっと一緒に暮らしてきたのにけっして会いたいとは思わなかった、気詰まりなよそ者に。
 わたしたちがあらゆる時間を騒音と雑用━それがどんなに退屈でくだらなくても━で埋めつくそうとするのは、沈黙のなかでこのよそ者と二人きりになるのを避けるためなのだろう。
 このことは、わたしたちの生き方にひそむ本質的な悲劇を指し示しているのではないだろうか。」


 ここで自分が「気詰まりなよそ者」と説かれているのは恐ろしい。
 よく考えてみれば、自分とは、〈よくわからないけれど、居ることだけは確かそうな誰か〉なのだ。
 そんな正体不明の誰かと「二人きりになる」ことを好む人はほとんどいないだろう。
 つまり、私たちは、名前や家族や仕事など自分の存在を支えているものは、はっきりと意識しても、それらを剥ぎ取った裸の自分とはなかなか向き合えない。
 しかし、必ずいつか、あらゆる支えが頼りにならない死を迎える。
 その時点ではもう、自分は「よそ者」扱いできない。
 このことを師は「悲劇」と言う。
 

「死んで、わたしたちはすべてをあとに残してゆく。
 特にこの肉体を。
 あんなにも大事にし、ひたすら頼みとし、懸命に生き延びさせようとしてきたこの肉体を残してゆく。
 しかも、わたしたちの精神は肉体よりもあてにならないときている。
 自分の精神をしばし見つめてみるがいい。
 蚤のようにつねに前に後ろに跳びはねているのが見えるだろう。
 思考が、何の理由もなく、何の脈絡もなく湧いてくるのが見えるだろう。
 その時々の混沌に押し流され、わたしたちは精神の気まぐれの犠牲になっているのだ。
 もしこれがわたしたちの知っている唯一の意識の状態であるのなら、死の瞬間に精神をあてにするのは馬鹿げた話だ。」


 名前も家族も友人も成果も、あれほど手入れし大事にしてきた肉体も、すべてこの世へ残してあの世へ旅立つ。
 もはや、頼りになるのは自分だけだが、その〈自分〉は何者であるかわからないまま、死の地点に至っている。
 意識は確かに在るが、恐怖や不安や希望などが次々と現れては消え、それらをコントロールする者はいない。
 自分自身が、瞬間瞬間に明滅する灯火のような意識の変化に翻弄されている。
 だから師は「死の瞬間に精神をあてにするのは馬鹿げた話だ」と言う。

 つまり、確実にやってくる死から目をそむけ、自分を自分たらしめていると思われる肉体や名前や家族や仕事などを当てにしているだけでは、いつやって来るかわからない死が到来した時に、何一つ頼るものなく、どうすればよいかわからない混乱の最中に、この世を去らねばならない。
 そこにはこの世を去る恐怖と、行く先の知れない不安しかない可能性が高い。
 では、どうすればよいか?

 持っている霊性に気づき、その光から覆いを取り払いさえすれば大丈夫です。
 次回へ続きます。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=EOk4OlhTq_M





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