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2016
02.16

これまでの自分から脱皮する道 ―『チベットの生と死の書』を読む(10)―

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 ソギャル・リンポチェ師の著書『チベット生と死の書』は、生と死を考える人びとへ重要な示唆を与える一冊である。
 伝統仏教の最先端を示し、かつ、最奧をもかいま見せる高貴な魂の結晶である。
 師は「仏法をより近づきやすいものに、現代的、実践的なものにするために著した」とされているが、700ページ近い力作で、なかなか読み通せないかも知れない。
 以下、全体の概要というよりは、いくつかのポイントを挙げておきたい。

 私たちは向上したいと思う。
 こんな自分のままではだめだ、変わりたいと願う。
 しかし、習慣という鎖はなかなか切れない。
 詩がある。

「万物の本質は束の間の幻
 二元論的認知をする者は苦を楽ととらえる
 カミソリの刃から蜂蜜をなめる者のように
 有形の現実に執着する者のいかに哀れなことか
 内に思いを向けるのだ、わが心の友よ」(ニョシェル・リンポチェ)


 私たちは、あらゆるものが変化してやまず、いかなる執着心も時の流れに抗えないことを知っている。
 それでもなお、何かを〈確たるもの〉と思いたい。
 自分の財産、自分の名誉、自分の身体、自分の好きな人、自分の楽しみ、自分の怠惰……。

 師は言う。

「わたしたちは自由を理想としてかかげる。
 にもかかわらず、こと習慣となると、わたしたちはまったくの奴隷なのだ。
 それでもなお、内省はゆるやかに智慧をもたらす。
 固定し習慣化した行動様式に自分が何度も落ち込むのを自覚できるようになるのである。
 何度も何度も、わたしたちはその行動様式に舞いもどる。
 だが、少しづつそこから出てきて、変わってゆくことができるのである。」


 詩である。

「1 わたしは通りを歩いている
 歩道に深い穴がある
 わたしは落ちる
 途方にくれる……絶望する
 これはわたしのせいじゃない
 穴から出るのに長い長い時間がかかる

2 わたしは同じ通りを歩いている
 歩道に深い穴がある
 わたしは見て見ぬふりをする
 また落ちる
 同じところに落ち込むなんて信じられない
 でも、これはわたしのせいじゃない
 やっぱり、穴から出るのに長い時間がかかる

3 わたしは同じ通りを歩いている
 歩道に深い穴がある
 わたしはそれを見る
 やっぱり落ちる……習慣なんだ
 わたしは目を見開いている
 自分がどこにいるのかわかっている
 これはわたしが悪いのだ
 わたしはすぐに穴から出る

4 わたしは同じ通りを歩いている
 歩道に深い穴がある
 わたしはそれを避けて通る

5 わたしは別の通りを歩いている」(ポーシャ・ネルソン)


 ポイントは、「3」の「わたしは目を見開いている」である。
 ようやく心の目が開く。
 覚醒である。
 お釈迦様は弟子たちへ、端的に「起きよ!」と説かれた。
 私たちはいかに「目を見開いて」いないことか。

 歌人穂村弘氏は書く。

「普通に考えても、未来は恐ろしいに決まっている。
 そのどこかに必ず〈私〉の死が埋まっているのだから。
 しかし、夢や可能性もまたそこにある。
 詩の根源にあるものはこの両義性だろう。」(『ぼくの短歌ノート』より)』


 本当に自分が変わりたい、つまり、真の意味で未来にかかわりたいのなら、自分の死は排除できない。
 師は説く。

「死を内省するのは、心の奥深くに真の変容をもたらすためである。
 さらには『歩道の穴を避ける』すべを、『別の通りを歩く』すべを学ぶためである。
 それには、しばし日常から身を引いて、深い瞑想に沈む時間が必要になる。
 なぜなら、そうすることによってしか、人は自分が人生でしていることに真に目を開くことができないからである。」


 私たちはいつでも、自分を〈死に行く者〉と思うことができる。
 それは、何かに成功した時でも、何かを得た時でも、あるいは失敗した時でも、失った時でもかまわない。
 瞑目し、あるいは空を眺め、〈我が死〉を想う。
 それが死への速度を早めるのではないかと怖れる必要はまったくない。
 むしろ、観ることによって、怖れは薄れる。
 知ってしまえば、〈それだけのこと〉だからだ。
 師は説く。

「死を観想することによって、あなたのなかに解脱への意思が、〈出離〉と呼ばれるものの感覚が、深まってゆく。」

 
 出離とは生まれ変わりであり、これまでの自分からの脱皮である。

「この〈出離〉はそのなかに悲しみと喜びをふたつながらに含んでやって来る。
 悲しみは、それまでの自分の生き方がいかに虚しいものであったかに気づくからであり、喜びは、それまでの生き方を手放せるようになったとき、大いなる展望が開けてくるからである。」


 そして、自分は習慣の奴隷でないという重要なインスピレーションをもたらす。
 自分は確かに向上できる、変われるのである。

 生前戒名を受けることもまた、出家に似た重要なきっっかけとなる。
 み仏から新たな名前を授かることにより、僧侶が白衣をまとうような心の生まれ変わりが実践できる。
 それは、この世の幸せとあの世の安心を得るきっかけの一つである。

 死に臨んだことのある人びとは自問自答する。
「これまで、自分は何をやってきたんだろう?
 これでよかったのか?」
 そして、自分の仮そめのありようと、本質的なありように気づく。
 否応なく〈その時〉がやってきてからでなく、早めに気づきたいものである。
 それが、習慣に流される自分から脱皮し、自他の苦を抜く重要な方法であることは間違いない。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=rWEjdVZChl0





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