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2016
02.26

無常と生の象徴『リバーズ・エッジ』のハルナ ―『チベットの生と死の書』を読む(11)―

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〈一見、高貴そうだが、おやつをくれそうな人にいち早く気づいて近づき、おやつがなくなるまで先着特権を決して譲らないなかなかの根性を持っている〉

 ソギャル・リンポチェ師の著書『チベット生と死の書』は、生と死を考える人びとへ重要な示唆を与える一冊である。
 伝統仏教の最先端を示し、かつ、最奧をもかいま見せる高貴な魂の結晶である。
 師は「仏法をより近づきやすいものに、現代的、実践的なものにするために著した」とされているが、700ページ近い力作で、なかなか読み通せないかも知れない。
 以下、全体の概要というよりは、いくつかのポイントを挙げておきたい。

 私たちへ苦しみをもたらすものの一つに執着心がある。
 それは他者へも苦しみを与える。
 ストーカーなどはその典型だ。
 自分が勝手に苦しむだけでなく、相手をも苦しめ、傷つける。

 誰かを好きになることに問題はない。
 危険人物を警戒して避けることにも問題はない。
 好意も嫌悪も、きちんと生きて行くためには欠かせない反応である。

 では、なぜ、〈問題〉となる形をとったり、〈問題〉となるところまで行ってしまうのか?
 それは、相手の実態を勝手に誇張してしまうからである。
 好きな人を失えば自分に未来はないと悲観したり、邪魔者によって自分の未来が破壊されると怖れたりする。
 そして判断を誤り、行動を誤る。
 岡崎京子氏の名作『リバーズ・エッジ』における女子高生田島カンナはその典型的な例と言える。
 カンナは、好きな山田が自分の方を向いてくれないのは、友人のハルナが妨害しているせいであると考え、ハルナのマンションの部屋に放火した後、焼身自殺を遂げる。
 二重、三重の誤りが過ちへと結びつく。

 ソギャル・リンポチェ師は説く。

「生は誕生と死があやなすダンス、変化のダンスに他ならないのだ。」


 私たちは無数の生まれ変わりを繰り返している。
 同時に、あらゆるものが、生まれ変わり死に変わりしている。

「これらの変化、これらの死が、私たちと死をつなぐ生きた絆なのだ。
 それはあらゆる執着からの解放をうながす死の脈動、死の鼓動なのだ。」

「生は痛みと苦しみと困難に満ちているかもしれない。
 だがそれらはすべて、死を感情のレベルで受け入れるための一助としてわたしたちに与えられたチャンスなのだ。
 ものごとは不変だと信じこむとき、わたしたちは変化から学ぶ可能性を閉め出しているのである。
 この可能性を閉め出したとき、わたしたちは閉ざされる。
 そして貪欲になる。
 この貪欲さがすべての問題の根源なのだ。


 いじめられて苦しむ『リバーズ・エッジ』における山田は、川原で発見した死体を自分の宝ものと考え、隠している。
 ハルナは、処女を捧げたのにすっかりずれてしまった観音崎が、引っ越しの手伝いを終えて走り去る後姿に、自分がここからいなくなれば観音崎はホッとするだろうと冷静に考え、さり気なく送り出す。
 二人は、「死」と「変化」の〈観察者〉だ。
 だから、周囲でいかなるドラマが起ころうと、心の背骨は決して曲がらず、翻弄されない日々を送っている。

「わたしたちにとって〈無常〉は苦悩を意味する。
 そのため、すべてのものは変化するにもかかわらず、わたしたちは必死になって何かにつかまろうとする。
 手放すことを恐れる。
 だがそれは、生きることそのものを忘れることになるのだ。
 なぜなら、生きることを学ぶということは手放すことを学ぶということなのだから。
 ものごとを持続させようとするわたしたちの悪あがき、その悲劇と皮肉はここにある。
 持続させようとすることがそもそも不可能だからというだけではない。
 それが、わたしたちがまさに避けようとしている苦痛そのものを呼び寄せるからである。」

「何かにつかまろうとする意思それ自体は悪いものではない。
 幸せになりたいという思いに何も問題はない。
 だが、そのつかまろうとしているものは本来つかまることのできないものなのだ。」


 私たちは〈無常〉を深く心に刻みたい。
 人も自然も何もかもがそれを教えている。
 宇宙は大日如来の説法に満ちている。
 そのことに気づけば、必ず自分が変わり、世界が変わる。
 学び、瞑想したい。

「つかまれないものにつかまろうとしてきたために味わった数々の悲嘆、それらがすべて深い意味ではそもそも不要なものであったという理解が、少しずつ開けてくるのである。」

新たな変化が起こると、また少し今まで以上に理解が深まる。
 こうして、わたしたちの生を見る目はより広く深くなってゆくのである。


 小生はご葬儀の後にこんなお話をする。
「故人は自分の死をもって、最後に大仕事をしておられます。
 皆さんがこうして立ち止まり、忙しく追われる日常生活ではなかなか考えられなかった大切なことに気づく機会を与えてくださっているのです。」
 ゆめゆめ、誰かの死を、軽々しく〈手続き〉ですませるべきではない。
 死と無常と向き合い、考え、祈る時間を大切にしたい。
 辛くとも、苦しくとも。
 その結果、私たちの「生を見る目」が「より広く深く」なって行けば、死者に対する最高の報恩であると言えるのではなかろうか。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





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