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2016
03.02

「分かる」ことと「納得する」こと ─科学を用いて物語る─

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 私たちは「分かる」ことと「納得する」ことを分けています。
 分かっても納得できなければ、心はなかなかおさまらなかったりします。
 
 地球物理学者松井孝典博士は説きます。

1 外界を知りつつ人生を紡ぐこと

「脳の働きとは、外界から投影された情報を処理すること、すなわち大脳皮質のニューロンが接続し回路を形成することです。」


 また、私たちが何かを〈認識する〉ことの本質についてこう定義します。

「外界の情報を大脳皮質の内部に投影し、内部モデルをつくること。」


 私たちの外側にあるさまざまなものが目や耳などを通り、大脳が動いて、美しい風景や、楽しい音楽として自分なりに理解されます。
 どう理解されるかは、人によって千差万別です。
 このようにして、生まれた後、脳がはたらきつつ形成される認識の主体を〈我=自己〉とするのが科学的見地です。

「外界、すなわち家族、社会、自然と関わり、その過程を通じて形成されるのが我であり、そのあらゆる外界との関わりの中で、脳の中に蓄積された内部モデルが人生ということです。」


 泣き虫だった幼い頃、生意気で大人ぶり背伸びしていた中学生から高校生の頃、親に悪いと時々心で謝りながらも、気ままに過ごしてしまった夢のような大学性時代。
 そして、苦労し、ガマンしながら子供を育て、家族を守ってきた30年。
 などという、その人なりの「人生」が紡がれます。
 どこに?
 脳内に「内部モデル」として。

 だから博士は、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」にちなんでこう述べます。

「我関わる、ゆえに我あり」


 外界との関係性の中にこそ「我」がいる、というのは科学的には画期的な見解でしょうが、これは仏教の根本的な立場ともかなり、オーバーラップしています。
 それは、自分も含めこの世のすべてが縁によって起こり、縁によって変化し、縁によって消滅するというお釈迦様の説かれた〈縁起〉とほとんど相似です。

2 「分かる」とは?

 分かる、すなわち認識するとは、こういうことです。

「外界を脳の内部に投影する際、その投影を二元論と要素還元主義という科学のルールに基づいて行い、そのようにして形成される内部モデルに基づいて外界を論じるのが『分かる』という認識の定義です。」


 博士は「科学のルールに基づいて投影する」ことを以下のように定義します。

「この場合の二元論を簡単にいえば、考えようとする自分と考える対象とをはっきり分けて考える、ということです。」

「要素還元主義とは、何かを考える時に、その対象をより細かく分けて領域をせばめて考えようということです。」

「極めて単純な言い方をすれば、このルールを受け入れる生き方が、現代文明なのです。」


 私たちは、考える対象を〈そちら側〉においてようやく、客観的に、ありのままに判断できます。
 もちろん現実的には、自分が臆病であれば、闇夜にボウッとした明かりを見たり、ガサッという音を聞いたりして〝お化けだ!〟と思うかも知れないので、完全に〈そちら側〉へ置ききれるものではありませんが、少なくとも科学的に観測する対象は誰にでも〈そのもの〉と判断されるような見られ方、聞かれ方をする必要があります。
 また、たとえば人間を考えようとする時には、モノとして見るか、心として見るかという分け方をはじめ、生物学的、歴史学的、物理学的、心理学的、教育学的、社会学的などなど、さまざまな視点、分野、領域からのアプローチが可能であり、それぞれの領域はそれぞれ異なった井戸のように際限なく深められています。
 こうして、二元論と要素還元主義によってあらゆるものを考え、分かろうとするプロが科学者と呼ばれる方々であり、現代文明の立役者は何といっても科学者です。

3 「納得する」とは?

 博士は、科学的に分かることがすべてであるとは言いません。

「そのようなルール以外で外界を認識することも世の中では普通に行われています。
 私はそれを『納得する』と呼んで区別することを提案しています。
 例えば、宗教の場合、神がそのようなルールに相当します。
 神を信じない人の場合、これまでの人生の蓄積によって形成されたモデルから、逆にそのルールを自らつくっている人もいます。
 そのような投影ルールに基づいてつくられる内部モデルに基づく解釈、判断などを『納得する』と呼ぶことにします。」


 ここで博士が言う「神」は必ずしも〈絶対的創造者〉という意味ではなく、私たちとは異次元のいわば〈超越者〉であろうと思います。
 そういったものを信じるか信じないかも含めて、自分の人生が形成した「内部モデル」によって導き出されたその人なりの〈人生観〉が、納得をもたらします。
 だから、細分化された科学的判断からして正しいかどうかだけでなはなく、もっと総合的な感覚が、何かに対して納得できるかどうかを決めます。

4 「分かる」と「納得する」の関係

 博士は、今の学校教育で教えているのは「分かる」世界のことであり考え方だが、「それがなかなかしっかり伝わっていないのが現状」であると観ています。
 そして「世界に目を向けるならば」、「分かる」世界の住人と「納得する」世界の住人との距離は離れつつあると指摘します。
 

「理由のひとつは、科学と科学技術が圧倒的に発達してしまったことです。
 発達したことで、その『分かる』世界は、より細分化・専門家され、その結果、その細分化された分野のプロフェッショナル以外の人からはますます遠い存在になってしまったのです。」


 確かにそうです。
 たとえば、小生を含め圧倒的多数の人びとは、原発を成り立たせている公式や計算式の一つも知らないし、説明を受けても理解できないでしょう。
 それでも、抗しがたい力で私たちの命運を左右する原発をどうするかは、私たちが判断するしかありません。
 その問題は人間が棲む人間圏全体にかかわっているからです。
 いかに核物理学という〈認識するための井戸〉を深く掘り下げたからといって、そうした人びとへのみ、託せるはずはありません。

 なお、「人間圏」とは博士が提唱している概念です。
 博士は、農耕牧畜によって「地球システムの物質・エネルギーの流れに直接関わって生きる生き方」をはじめた人類は、「生物圏の枠を超えて、自分たちにとって都合のよい新たな物質圏をつくり出した」と考えました。

「『生物圏から分化』した物質圏こそが、私のいうところの『人間圏』なのです。」


 人口の問題も、環境の問題も、原発の問題も、原爆の問題も、すべて私たちにとってこうした〈人間圏〉の問題ですが、それらはどれも、科学的な井戸を一本掘り下げたからといって根本的な解決の道を示せるわけではありません。
 科学的知見は、判断するための材料の一つです。
 必要なのは、多くの人びとが心から納得できる方向を見つけ出すことであり、そのためには、多くの人びとが自分自身の生き方や人生観を通して〈人間圏〉について考えねばなりません。
 この難しい状況について博士は説きます。

人間圏という概念を共有するには、むしろ『納得する・しない』の世界で、その打開策を見つける方が有効かもしれません。
 それは、人間圏を科学として説明するのではなく、共通の世界・歴史として物語るということです。
 『分かる』世界で手に入れたものを、『納得する』世界にフィードバックさせるということです。
 我々科学者は、そのための努力を惜しむべきではありません。」


 何と真摯で、暖かく、美しい、そして謙虚な言葉でしょうか。

 東日本大震災の一ヶ月後、東京財団は日経新聞に「復興か創造か-これからの文明-」を発表しました。
 その締めくくりです。

「そもそも、政治とは政治家だけのものではない。
 国を創るのは国民自身である。
 我々自身が『これからの文明』を選択していくのだ。」


 私たちは、「分かる」ために科学的知見を参考にし、私たちに「共通の世界・歴史として」人間圏について互いに物語り、何としても「納得できる」道を求めたいものです。
 私たちが「政治家だけ」に任せたならば、私たちは「これからの文明を選択」する権利を放棄したことになります。
 大いに考え、議論しようではありませんか。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA





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