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〈河北新報様の記事よりお借りして加工した神経回路のような東京の姿〉
当山は今日、東日本大震災の殉難者を供養する般若心経108巻の供養会を行う。
5年前の11日、生の底が抜けた。
死と崩壊と喪失、そして放射能の脅威によって、私たちは、営んできた生活、紡いで来た歴史の意味を問われた。
否応なく立ち止まった。
あれからもうすぐ5年。
思い出すのは、今年の元旦、河北新報に掲載された生物学者福岡伸一(青山学院大学教授)氏の新春エッセー「生命の論理から地方を考える」である。
生命体の真実に鑑みれば、ここ「みちのく」は決して中央に従属し、中央へ奉仕するべき存在ではない。
以下、記事の一部を抜粋し、考えてみたい。
1 中枢と末梢
氏は、中枢と末梢について指摘する。
「中枢と末梢という言葉がある。
国や社会の組織でも、首都と地方都市の関係でも使われる。
中枢と末梢とは、もともと生物学の用語である。
脳が『中枢』であり、それ以外の身体部分が『末梢』だとされる。
でも実は人間が勝手に生命をそう見立てているにすぎない。
本当のことをいえば、脳は生命にとって中枢ではない。
そんな偉そうなものでは全然ない。
というのも、脳は、それ自体では自発的に情報を作り出すことも、命令を下すこともできないからである。」
脳がなく、神経回路に頼っているだけのミミズだって立派に生きているではないか。
2 生命体をつくる細胞とは何か?
「細胞にとって一番大事な仕事は何か。
それは絶えず増大するエントロピー(乱雑さ)と戦うことである。
世界が乱雑さが増大する方向にのみ進む。
壮麗なピラミッドは年月とともに風化し、ダ・ヴィンチの傑作でさえ退色し、ひび割れする。
エントロピー増大に最も果敢に対峙しているのは何か。
高度な秩序を維持している私たちの生命体だ。」
バラバラになろうとする部品を調和のとれた形でつなぎ止めて生命を維持しているのは生命体が持つ全体性であると言う。
「いかにして?
『動的平衡』によってである。
動的平衡とは、細胞の内部にたまるエントロピーを絶えず外部にして続けることである。
エントロピーは、酸化、変性、老廃物の蓄積といった形で絶え間なく生命に降り注ぐ。
これと戦うため、生命は自らを頑丈に作るのではなく、むしろ常に壊しつつ、やりなおすと言う方法を選んだ。
分解と更新の流れこそが生きていることの本質である。これが動的平行である。
生命は、動的な流れの中にある。」
寒く、乾燥した地球で生き延びるため、ネアンデルタール人は鎧のような身体にしたが、冷温を繰り返すようになった季候変動に対応できず、亡んだ。
道具を作り、衣装を替えるホモサピエンスは対応して私たちへいのちを繋いだ。
動いてやまない世界に対応して生きる生命体もまた、柔軟な動きを持たねばならない。
3 社会のバランスとは?
中央と地方は「単なる見立て」の言葉であり、それは決して主従関係を意味しない。
首都から見た「陸奥」も「東北」も、首都の都合で位置を示した言葉でしかない。
「この動的平衡の視点を、人間組織、社会のあり方、あるいは中央と地方の問題に当てはめることができるだろうか。
会社組織の硬直かや衰退、あるいは人口減少や過疎化による地方都市の不活性化やインフラの劣化は、すべてエントロピー増大の危機といえる。
細胞は作ることよりも壊すことの方を一生懸命やっている。
その上で動的平衡をフル回転して、柔軟性と可変性を取り戻す。
そうして生命は環境の変化に適応し、進化を遂げてきた。
動的とは、物質・エネルギー・情報の動きのことだ。
社会ならこれに人の動きが加わるだろう。」
放置すれば、社会を構成するものは硬直化し、バラバラになる。
「進化の過程では、むしろ末梢の細胞が先にあり、生命の本体であり主権者だった。
後になって末梢の利便性のために中枢が作られた。
脳は末梢のための奉仕者としてある。
首都や中央も地方の奉仕者であるはずだ。」
生命体や社会の構成要素が柔軟さを失わずにそれぞれが生き延びるため、脳ができ、中央ができた。
4 地方と中央、地方と地方
「末梢は常に中枢を巧みに利用している。
末梢で発生した事象は良いことであれ、悪いことであれ、すべて中枢に伝達される。
中枢はそれを統合・整理して、各末梢に伝える。
つまり末梢とって中枢とは、有用・有益なメディア装置なのである。
この情報のやりとりによって末梢は、過剰なものを分けあい、足りないものを融通しあって、分散的な自律性を模索する。
これを相補的な関係という。
末梢同士の関係はローカルな相補性の中にある。
「ジグソーパズルのピースのように、地方と地方の相互性が少しずつ共鳴し、重なり合うことによって、大きく強靭なネットワークが生み出される。
私たち人間の組織も、生命の動的平衡に学ぶべきである。」
私たちは、中央と地方、そして地方と地方について、考えなおす必要がある。
5 中央、中枢の実態
3月5日、マスコミ各社は、東京五輪のメーンスタジアムとなる新国立競技場に聖火台の設置場所が決まっていないという驚くべき事実を報じた。
損得の計算をし、姿形を競おうとする現代日本の文明がいかに底の浅いものか。
華々しく鐘太鼓を叩き、花火を打ち上げて目立つ成果を競う政治がいかに薄っぺらいものか。
まるで本尊の祀り方を考えないで豪壮な伽藍を設計するような、魂のはたらきが薄れている実態は、世界に対して恥ずかしい。
あの、おぞましい「エコノミック・アニマル」という蔑称を世界に思い出させた罪はあまりにも重い。
これほのど失態、醜態について、いったい誰がどのように責任を取るか(「説明責任」などというごまかしは効かない)、あるいは責任逃れをするか、よく確認しておきたい。
地方は中央に従属すべき存在ではない。
不屈の土性骨(ドショウボネ)をもって、みちのくから〈魂の復活〉をはかりたい。
それをあの世の御霊に見ていただきたい。
今こそ、誓おうではないか。
原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。
「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y
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