--
--.--

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

2016
03.30

「私の八月十五日」を読む(第二回) ─勝ち戦で知らされた敗戦─

2016-03-30-0001.jpg
〈光か影か〉

 仙台市泉区長命ヶ丘に「ほっといっぷく」という高齢者のサークルがある。
 年に8回、集い、そのうちの一回は子供たちとの交流会に当てられる。
 ある時、乃木大将の詩吟をきっかけにして、「私たちは8月15日をどう迎えたのだろう」という話題になり、それぞれの体験談が冊子「私の八月十五日」にまとめられた。
 語られた方がなくなり、法事の席で読み上げられるなど、子や孫の世代へ伝えておきたい真実が、徐々に人々の心へ伝わりつつある。
 編集されたKさんが当山に深いゆかりの方であるというご縁によって、このたび、増刷した一冊をいただき、ネットでのご披露をお許しいただいた。
 どの稿も、涙なしには読めない。

 以下、順次、転載したい。
 願わくば「不戦日本」が揺るぎなきものでありますよう。

○私の八月十五日 (A・M T9生 男性)

 私は昭和十六年三月二十二日、二十一才の現役兵で入隊しました。
 中支派遣軍、独立野戦銃砲兵、第十五聯隊として大阪に集合、入営致しました。

 その後、佐世保港より輸送船で中国に向かい、揚子江を遡って一ヶ月がかりで無昌に参りました。
 武漢大学が我等の弊社でしたが、白亜の殿堂は龍宮城を感じさせるものでした。
 我々はここで兵隊の教育訓練、一期検閲を受けました。

 昭和十六年の九月頃、初めて宣昌作戦に参加しました。
 揚子江の上流にある所で、宣昌峡という険しい岩山での戦いでした。
 敵は軍艦から射ってきますから、こちらの兵舎の回りに着弾します。
 部隊で使っていた苦力(クーリー)が河岸に水を汲みに行ったところ、十五粒の砲弾射撃を受けて、跳びあがっているのを見ました。
 戦をしていながら稲刈りをしたり、米作りをしながらの毎日でした。

 昭和十八年六月、白洋陣地に待機中のことですが、路上を駄馬部隊が通過しようとした時、敵機が来襲し機銃掃射をしてきました。
 隊長は先頭の馬上で。馬もろとも胴原腹を射抜かれて戦死兵隊たちも蟻の子を散らすようにバラバラになる有様でした。

 その後、私は将校に編上靴を貸してくれと頼まれたことがありました。
 そこで靴を取りに貨車に上って行ったその時、再び敵機来襲、爆音だというので空を見上げるや、頭上に来ておりました。
 瞬間的に飛び降りたところにバラバラと機銃掃射をして来まして、貨車のシートが燃え上がりました。
 貨車には連隊本部の重要書類や兵器、観測器、ドラム缶等が積んであります。
 敵は八機の反復襲撃、秒を競う合間に兵隊たちを呼び集めて、火のついたシートを払い除け、「それ来たぞ」と言っては土手にぺたりと逃げ隠れを繰り返していました。
 弾丸は一メートル間隔に砂塵を挙げて炸裂します。
 物は蹴落とす、爆風で書類は飛び散る、敵機はまた来て襲撃を繰り返す。
 土手に逃げ隠れしていても、生きた心地などあるものではありませんが、貨車は守り通しました。
 後から見ると、編上靴は弾丸に射抜かれておりました。
 間一髪で命拾いを致しました。

 その後、当陽地区に移動、私は守備隊長を命ぜられたのでした。
 当陽飛行場も襲撃を受け、全面的に荒らされておりました。
 そこで掃射戦を行いました。
 平坦地の所で、友軍と敵軍との迫撃戦となり、高台から見ておりました部隊長が、即座に砲列に命を下して、敵軍の後方に発射、敵を追い乱したのです。
 また他方では我等も敵を追いつめ、敵前二百五十メートルの地点まで出た時、初年兵の若山戦友が私に近寄って来たところで、機関銃で喉を射抜かれて戦死しました。
 可哀想なことをしました。
 この戦いでは我が軍でも数十人の戦死者を出しました。

 その後、湘桂戦にも参加しまして、長沙、桂林を攻撃して占領、後は周家村に滞在しておりましたが、その後、上海付近に転進命令を受けたのでした。
 昭和二十四年四月、上海郊外、羅点鎮地区陣地構築の任務についておりましたが、八月十二日には全部が完了したところでした。

 八月十五日部隊全員が営庭に終結、無線にて終戦の命を受けました。
 中支戦線に於いては、苦戦こそありましたが勝ち戦ばかりでしたから、敗けたことには本当に驚き、口惜しい思いでなりませんでした。
 終戦と同時に、我々は上海西兵舎に移動しまして、兵器の接収がなされました。
 軍司令官の「大命の終戦であるから、火砲、兵器をこれまで通りに手入れをして、支那(中国)軍に引き渡すように」との命令で渡しました。

 その後、我が聯隊は副官の指揮で、上海の貨物敞から糧米を運んで確保しました。
 兵器を接収された後は支那(中国)の土民(現地人)までが、敗けた日本の兵隊に対して、身につけている時計とか手拭いとか、何であれ、無理やりにかっぱらって行くようになりましたので、隊長は棒を持って歩くように、そして腰から下は撲り返して良いということになりました。

 支那(中国)軍は日本兵に、罪として米運びをさせておりました。
 また他方では、日本軍から接収した火砲の使用法説明のため、教育隊を派遣させ、一年間近くも支那(中国)軍と寝起きを共にして指導訓練させました。
 他の部隊では、奥地から上海に帰ってきた兵隊達が、上海の街の泥さらいをさせられておりました。
 
 昭和二十一年五月、復員ができるようになりまして、各自がリュックサックを作り、帰国の準備でした。
 私は経理室の縫製工場に行き、縫工兵と共に洋服を縫って、隊長、将校、下士官に渡しておりました。
 上海より佐世保港に帰り、検疫を受けて暫く滞在した後、地方ごとに各自、故郷に向かいました。
 私どもは敗戦であるが故に、胸を張って故郷に帰るのが重く、家族に電報も打たずに帰ることにしました。
 二本松の駅に着いた時、中年の女の人が近寄って来て、
「どちらから帰ってきましたか。」
と聞くので、
「中支から帰ってきました。」
と答えましたが、あの人も誰か、復員して来る兵隊さんを待っているようでした。
 我が家に帰ったら、家族はみんな喜んで迎えてくれました。
 



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン

スポンサーサイト

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。