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2016
05.16

私たちは本当に求めるべきものを求めているか? 

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 お釈迦様がゆったりとした瞑想に入って悟られたのは、まず、人間がこれまで何をやってきたかという全体像だったという。
 そして、自分自身の過去世における輪廻転生(リンネテンショウ)である。
 つまり、人間と自分がいかなる存在であるかをつかまれた。

 次は、そうした人間がこの先どうなるかという未来の姿を見通された。
 
 最後に、過去と現在と未来を貫く原理に気づかれた。
 人の世はままならぬ苦に満ちていること。
 苦は、渇愛(カツアイ)によってもたらされること。
 渇愛がなくなれば苦もなくなること。
 渇愛をなくすには、放逸でなく、苦行でもなく、智慧によってきちんと自分自身をコントロールすること。

 これらは、私たちが何者であり、何をせねばならないかという根源的かつ普遍的な問いに対する答が得られたことを意味している。
 答は神などの他者によって与えられたものではなく、迷いという迷妄を破った自分自身の覚醒がもたらした。

 さて、お釈迦様は、説法を始めてから、マールキヤプッタ尊者によってやはり根源的かつ普遍的な問いを問われているが、答えておられない。
「世界は永遠なのか、永遠でないのか、有限なのか、無限なのか?」
「いのちと身体は一つなのか、別なのか?」
「修行を完成した如来は死後も存在するか、しないか、存在しながらしかも存在しないのか、存在するのでもなく存在しないのでもないのか?」

 ここはとても興味深い。
 悟られた内容が、納得して生きるという生き方をもたらす一方、マールキヤプッタ尊者の問いは、いわば科学的な関心事ではあっても、答がなければ生きられない類の問いではないのだ。
 思えば、物理学や医学など科学の発達は、人間が安全に、楽に、豊かに生きるたくさんの道具を与え、長寿をもたらしたが、それに比例して私たちが安心で、争わず、心の満ち足りた生活をしているわけではない。
 むしろ、道具で縛ることによってかろうじて維持される社会になりつつある。
 防犯カメラ、兵器、人工知能といったものがなければもう、成り立たないではないか。
 この現実は恐ろしい。
 今、私たちが頼りとしている方法はすべて、〈電気〉がなければ無用の長物でしかないものばかりだ。
 お釈迦様が説かれた〈方法〉はどこへ行ってしまったのだろう。

 渇愛はそのままで、モノの縛りによって行動を制御される私たちは、このままでよいのだろうか?
 防犯カメラに見つかるとやばいから、見つからない方法で悪事をしようとする人間……。
 レーダーに捕捉されると攻撃できないから、ステルスで相手を殺そうとする人間……。
 もしかして、霊性に反する悪の発露は、お釈迦様の時代よりも膨らみ、深まっているのではなかろうか?
 パナマ文書で明らかになりつつある悪徳の深さは何を意味するか、私たちへ突きつけられているものは重い。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y





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